【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 02:02:05ID:DVvJduHN常陸・下野の戦国時代を語りましょう
0782人間七七四年
2011/07/27(水) 21:23:45.92ID:f4f5je9Z大改修した事自体は別に何も。
権力を恣意的に使って改易し(たとされている)、相手の居城の種を立ち斬ろう
としたのが浅野氏だったら尚更に陰険ですね。って話。
蓮だけに限らず、改易の後に宇都宮氏関係の神社仏閣も幾つか廃社廃寺になってるしな
>>781
778みたいな挑発的なレスを棚に上げて、何取り繕おうとしてんだよ。お前が言うなw
ニートって本当に虫が良いんだな
0784人間七七四年
2011/07/27(水) 22:08:41.16ID:f4f5je9Zつーか775は俺なんだが。
成り済ましかよ。
ま、たぶん776と書きたかったんだろうけどな。
この流れの教訓をID:SuvSGyGT風に言えば
ろくに知らない事を安直に断定するな(キリッ
0785人間七七四年
2011/07/29(金) 00:28:14.38ID:i+aSVXi40786人間七七四年
2011/07/30(土) 17:11:00.23ID:0BGyQmWiイメージが強いからね
大軍で那須を攻め奇襲で惨敗、壬生にプレッシャーかけられ
水谷が火事泥棒のように南部を侵攻…
0787人間七七四年
2011/07/30(土) 18:01:10.44ID:gd4zhJdu実際に蓮の品種が変わったのは人為的なものだろうな。
もっとも、嫌がらせとかそんな目的ではないだろうが。
0788人間七七四年
2011/07/30(土) 20:08:18.00ID:HkL5D/QP0789人間七七四年
2011/08/03(水) 08:29:25.99ID:NgUPKGjs佐竹では石田
中央との取り次ぎ役が違うのに、
寄騎の関係になることに違和感を感じる
0790人間七七四年
2011/08/03(水) 11:25:25.28ID:gDPbxW+r小田原征伐の時に常陸南部や下野南部は佐竹、宇都宮、結城、由良など に分配されたが
この配分には石田と浅野の政争があったんだろうな
0791人間七七四年
2011/08/18(木) 09:50:25.77ID:NbwgiJ+h宇都宮城主に1年間だけ浅野がなってたけどマジ?
0792人間七七四年
2011/09/07(水) 16:38:10.26ID:4sNAOIY2分断させようとしてたのか?豊臣政権は。
徳川を仮想的国とするなら、
得策ではないと思うが。
0794人間七七四年
2011/09/07(水) 21:56:32.00ID:sVxnDabj弟達や那須との関係みるにどちらにせよ西軍で没落な気もするが
0795人間七七四年
2011/09/07(水) 23:27:38.81ID:oEkgQhWC0796人間七七四年
2011/09/13(火) 21:27:27.53ID:AISutj1e0797人間七七四年
2011/09/14(水) 19:08:40.80ID:8oArfRfE関東での戦いに興味が無かったのかな。
0798人間七七四年
2011/09/14(水) 19:44:19.38ID:uaI/EiUr後北条が強すぎ。
宇都宮とは婚姻結んでるし北条とガチンコするには実力足りないし
0800人間七七四年
2011/09/14(水) 20:42:10.80ID:8oArfRfEそんな理由で目を付けられた白河結城氏や岩城氏が悲しい。
0801人間七七四年
2011/09/14(水) 20:54:54.78ID:7NTrY9XG0802人間七七四年
2011/09/15(木) 10:54:56.29ID:4zbgTQGD例年の横浜ベイスターズのような奴ら。
0803人間七七四年
2011/09/15(木) 22:30:58.42ID:Qm2DhDXO夜中に目が覚めたら鋤鍬持った領民が布団を囲んでた、
なんてことになりかねんw
0804人間七七四年
2011/09/16(金) 00:19:28.75ID:UKVGD+oz関東は物理的に無理
東は海で西は那須氏・宇都宮氏などの同盟国がある
南は真壁氏・大掾氏・江戸氏・太田氏などの洞中領主が小田方などの勢力と戦って領地を広げているから邪魔する訳にはいかない
だから彼らの後詰めが佐竹氏の役目だった
さらにその外には結城氏・小山氏・佐野氏・簗田氏などがいて、彼らとも協調関係にあったりした
だから佐竹氏が南下するとなると遥か武蔵の方まで攻めて飛び地を獲るしかないけど当然そんなのは現実的ではない
逆に南陸奥の白川氏などとは領地を接している
室町時代には依上(大子町)まで白川氏が進出して来ており佐竹氏とは100年来の仇敵だった
とりわけ白川氏の領する高野郡は常陸口の要所で南陸奥の街道が交わり
依上や東館(矢祭町)から常陸太田へ直行する事が出来る
実際、戦国時代初期頃に南陸奥連合に攻められて常陸国内(里美村)まで進入されて窮地に陥った事がある
だから佐竹領の防衛上、高野郡は絶対に手に入れたい土地だった
佐竹義舜が依上を奪還したのを皮切りに(依上は佐竹領だったが内乱の最中に取り上げられて白川氏に与えられていた)
義篤・義昭・義重と4代に渡って戦火を交えて来た
つまり南陸奥こそが佐竹氏本来の主戦場であり
南部は佐竹氏の意図と言うより同盟国や洞中の援軍要請に答える為に出陣している内に
北条氏の台頭で戦火が拡大していってしまったに過ぎない
旧領復帰とまではいかなくても2〜3万石の小大名として復帰できたんじゃないの?
朝鮮出兵で頑張ったのに復興できなくて疲れちゃったのかな、弟の朝勝は反東軍だけど、別に宇都宮家の為に動いていた訳じゃないみたいだし
嫁の実家の佐竹と歩調合わせてたわけでもないみたいだし、国綱が東軍で活動しても何の問題もなさそうだが
0807人間七七四年
2011/09/16(金) 13:14:29.90ID:LXhs/t9e0808人間七七四年
2011/09/16(金) 13:35:11.93ID:1eG0wAbkあえて佐竹と別れて博打を打つほどの決断力も無かっただろうし。
0809人間七七四年
2011/09/16(金) 13:50:21.79ID:SEHuASJy国綱は特別パッとした逸話もないし大勢に流されるイメージしかない
0810人間七七四年
2011/09/16(金) 14:46:16.52ID:lhVscAqX寄親の佐竹が明らかにしないのに、宇都宮だけで勝手に動くわけにいかなかったんだろう。
大名に復帰できないまま浅草で憤死してしまった・・・と。
弟の朝勝が秋田でちゃっかり文化人ライフを楽しんだのとは対照的だ。
0811人間七七四年
2011/09/16(金) 21:48:07.76ID:XWLuFenW朝勝は西軍側として活動してたんだけど
何もしなかった国綱は浪人で西軍側についた朝勝は久保田藩の十二大将 という家中14位ぐらいの扱いになった皮肉
でも恐らく国綱は相馬氏のように江戸で大名復帰運動してたのではないかと思う
0812人間七七四年
2011/09/17(土) 07:33:09.51ID:LDt4c5ja阪神時代の江夏、国鉄時代の金田みたいな存在か?
0813人間七七四年
2011/09/17(土) 07:36:47.08ID:LDt4c5ja> 南部は佐竹氏の意図と言うより同盟国や洞中の援軍要請に答える為に出陣している内に
> 北条氏の台頭で戦火が拡大していってしまったに過ぎない
佐竹と後北条の会戦が数回あるが、どれも佐竹が判定負けという感じでいいの?
0814人間七七四年
2011/09/17(土) 08:51:29.56ID:hg6su80K北条大好き黒田基樹ですら認めてるよ
0815人間七七四年
2011/09/17(土) 13:24:56.65ID:eKYvuqI3同母弟の朝勝・高武がよりによって上杉傘下で戦ってるからな
信頼的に無理だろ
0816人間七七四年
2011/09/17(土) 13:49:35.94ID:WGQoRiQv追放中の身分で那須の正室に娘を押し込めるとは思えないから追放前(1518年以前)か復帰後(1542年以後)のどちらかか?
0817人間七七四年
2011/09/18(日) 03:00:54.77ID:YL9NFHfX追放後だと年齢的に少し無理がある
0818人間七七四年
2011/09/18(日) 05:00:48.31ID:mhETDW9lガッと連合して、関が原の戦いとかで背後から家康襲えば一発逆転あったね
天下取った後は、連立内閣みたいで幕府やれそうな気がする
0819人間七七四年
2011/09/18(日) 12:17:40.98ID:1iywi3o4政資の長男であるはずの高資が実力行使で家督を奪いに行ったのも既に資胤が居たからと考えたほうが自然。
0820人間七七四年
2011/09/18(日) 14:04:34.57ID:AkRnbrvk連合体は弱いから無理
それぞれ独立勢力だしお互いの利害が絡むから簡単に結束が崩れる
対北条戦でも対伊達戦でも結局それで決定力に欠けた
0821人間七七四年
2011/09/18(日) 14:46:37.61ID:yLI8rgU/そもそも佐竹領内は例の「南方三十三館の仕置き」の余波が未だ続いており、
南方三十三館の残党があの時期ですら策動し、何かあれば東軍と結んで反佐竹行動を取る気
満々だった。
そんなだから佐竹は国境の外に出ることすら不可能だっただろう。
0822人間七七四年
2011/09/18(日) 20:50:15.68ID:x0epvpuv真田と同じで佐竹にも何の相談もなかったから三成挙兵は義宣にとっても寝耳に水
単なる上杉討伐だと思っていた
だから先鋒の須田盛秀らは既に上杉領へ進入していたし
須田氏や葦名盛重らを先鋒にしている事からして、葦名家や二階堂家の復興を目指していたのだろうと思われる
そんな時に三成挙兵の急報が届き、佐竹家中は動揺した
取り敢えず先鋒を赤館で留めて軍議を開いたが、石田と徳川のどちらが「豊臣軍」なのか判断に迷った
義久らは断固徳川支持を主張したが、西軍に人質を取られている事や義宣が乗り気じゃなかった事などで
結局は消極的徳川支持という形になった
初めから徳川と戦う事なんて想定していなかったから、その準備もなかったし
西軍参加は無理なんだよ
0824人間七七四年
2011/09/18(日) 23:48:38.87ID:XujCznxo秋田転封が決まったとき、車丹波が徳川への蜂起を主張したが
「常陸には三十三館の件でまだ佐竹に恨みを持っている者たちがいる。
彼らが混乱に乗じて立ち上がったらどうしようもない」
と義宣がその案を退けた……らしい。
どこで読んだ話だったか忘れたがw、近デジだったかも。
0825人間七七四年
2011/09/19(月) 00:30:46.50ID:alz1j+Rgしかも、関が原の話ですらないし
0826人間七七四年
2011/09/19(月) 00:43:45.10ID:L/LQPez+史料と言われても伝承と紙一重だ
記録する習慣がなかったんじゃないかとさえ思える
0829人間七七四年
2011/09/19(月) 04:01:46.51ID:COgxyVYe義宣は即日、国元に使いを送って一刻も早く常陸を立ち退くように指示している
梅津政景などは行き先が決まってないうちから取り敢えず水戸を立ち退いて下野に滞在するよう家族に連絡している
そして転封先が決まると留守居役の和田昭為や小場義宗らは直ちに秋田へ先行して後続を迎え入れる準備を始めた
義宣、義重、盛重、貞隆、義胤らが上方や江戸を発ったのは3ヶ月近く経って移動が片付いてから
したがって蜂起など思いもよらない事で考えもしなかったと見て良いだろう
まして車はこの頃、家臣ですらないし口出しなどできるわけもなく
恐らく義宣とは一度も顔を合わせる事もなかったと思われる
と言うか義宣が伏見を発ったのは車が死んで1ヶ月以上経ってからだし
どう考えてもその逸話は事実ではない
0830人間七七四年
2011/09/19(月) 05:36:09.19ID:jjAkPAkc逸話は与太でもこの認識はあった、
あるいは周りからそう思われてしまうような状況だったのかね
0831人間七七四年
2011/09/19(月) 07:52:15.45ID:OxbXpGVL>でも恐らく国綱は相馬氏のように江戸で大名復帰運動してたのではないかと思う
だろうな。
死去時に浅草に居たのも、そういう理由だろうし。
相馬氏は外様で大大名の伊達氏への牽制役として使えたので、旧領復帰が叶った。
関東から外様がほぼ消えた状況下で、わざわざ宇都宮氏を
大名に復帰させる必要性は無かったと。
0832人間七七四年
2011/09/19(月) 08:21:22.15ID:alz1j+Rg佐竹は史料豊富だよ。
茨城県史料中世編や秋田藩家蔵文書の膨大な量を見るべし。
もちろん北条や武田の文書量には全く敵わないが。
0833人間七七四年
2011/09/19(月) 10:33:32.97ID:TdreEtDC0834人間七七四年
2011/09/19(月) 11:59:57.90ID:Md7BLRd9佐竹関係書籍は豊富にある一次資料を無視して永慶軍記を丸写ししたような手抜き本ばかりだし
民間にもまだまだ資料が山ほど眠ってる
0835人間七七四年
2011/09/19(月) 15:11:42.95ID:TdreEtDC0836人間七七四年
2011/09/19(月) 17:20:13.90ID:PGzm/wOP里見ですら、佐藤博信・滝川恒昭クラスの人がいるというのに。
0837人間七七四年
2011/09/19(月) 19:39:28.49ID:quEOO99C0838人間七七四年
2011/09/19(月) 20:22:21.93ID:ds6CTBIr0839人間七七四年
2011/09/19(月) 20:34:02.22ID:alz1j+Rg藤木久志 市村高男 佐々木倫朗 今泉徹
好きなの選べ
>>837
冗談きついww
でも、怖いもの見たさってやつで、黒田氏の書く佐竹の戦国史をいつか読んでみたいなw
「佐竹義重は永禄○年に北条氏康に従属し、○年に離反した」
とか目を疑うような記述が満載だろうねw
0840人間七七四年
2011/09/19(月) 23:21:27.59ID:JmShEyj9変に贔屓したり自分の想像で書いたりせずに資料の解析のみに徹しているから信頼できる
0842人間七七四年
2011/09/20(火) 09:30:43.30ID:cZxMxFF/0843人間七七四年
2011/09/20(火) 10:20:18.43ID:eNwFf4nx渋「江」内膳の間違いと思っておk?
茨城訛りか?
0845人間七七四年
2011/09/20(火) 22:18:08.42ID:fx/fbqOr市村が具体的にどう偏ってるの?
0846人間七七四年
2011/09/20(火) 23:12:15.47ID:jqjfj97D黒田といっしょ
ときどきに肩入れしているサイドがある
そこに至るまでに史料をあげるけど
論拠なしに結論にいっていることがチラホラあるよ
そこの結論に至った論拠をなぜ示せないのかと
0848人間七七四年
2011/09/21(水) 01:57:45.50ID:cWJpBq/9必死だにならなくても自分が偏ってないと思っていればいいんじゃないか?
それも人によっての印象だろう。
0849人間七七四年
2011/09/21(水) 02:00:13.35ID:tzUukJC80850人間七七四年
2011/09/21(水) 02:20:04.81ID:McEfLPeG0851人間七七四年
2011/09/21(水) 12:41:12.09ID:XdfUXbYe0852人間七七四年
2011/09/21(水) 20:30:36.76ID:IMi/EJTg0853人間七七四年
2011/09/23(金) 20:35:25.21ID:mtDxpCDR多気山城って惣構えだったんだな。知らなかった。
0854人間七七四年
2011/09/23(金) 21:13:05.83ID:9jw5HCXA城域の外側に堀と土塁の遺構の一部が見つかっただけで、(しかも現在は消滅)
惣構があったかどうかは分からんよ。
西ヶ谷のその本の解説文、酷過ぎるよね。
「天正13年の戦いは、宇都宮勢が岩城に出陣中に小山秀綱が襲来したもので、佐竹義重が後詰となった。
翌年五月の合戦は後北条、小山、佐竹が多気山を直接攻め、大手の大谷口で合戦となった。
この時、佐竹軍は小山に駐屯し、北条氏照の指揮下にあった」
「佐竹が後詰に来た」という書状を、宇都宮支援のためではなく、
何と北条氏照の命令で宇都宮を攻めに来たと誤読してる。
一体どうやったらこんな間違い犯すのかね?
黒田基樹ですらこんなこと書かないよ。
0855人間七七四年
2011/09/23(金) 23:24:47.35ID:xKlNgFie0856人間七七四年
2011/09/24(土) 01:27:32.68ID:Dnp0gP6B0857人間七七四年
2011/09/24(土) 20:39:56.35ID:7EUtQe2W凄すぎるw
宇都宮氏が宿敵の那須氏や、宇都宮を攻めるような関係の佐竹氏の領地をどう掻い潜って岩城を攻めるのだろうか?
とか、書いてて疑問に思わなかったのだろうか
しかも何故宇都宮を攻めるのに小山に駐屯したのか謎過ぎる
0858人間七七四年
2011/09/24(土) 22:37:02.40ID:CTrOPpry俺が読んだ本には
岩城だの小山は出て来なかったから、多分それは別の本。
多気山城に限らず、惣構の全容を遺構・遺跡として
証明するのはハッキリ言って無理だと思う。
町人が住んでた区域なんて宅地化・農地化などの土地改良、
道路整備で消滅してて当然。
惣構があった可能性は高いと思うけどな。
宇都宮城下を焼かれて移ってきた訳だし、移転先でも簡単に
放火されるような構造の城下にはしないだろ。
多気山城って本拠だったのは約5年で、高度な惣構があったとは思わないが。
0859人間七七四年
2011/09/25(日) 02:18:43.66ID:KxZqS004宇都宮城は依然として健在だったし、多気山城は詰め城的なものだったと思う
基本的に宇都宮城と多気山城の二城に篭っていたし、宇都宮城は放棄していない
恐らく商業地は宇都宮のままで一部の武家屋敷だけ移したものと思われる
戦国末期には城がどんどん肥大化して近隣を飲み込んでいるから総構えはあっても不思議ではないね
ただ、江戸時代に見られるような計画的な町割りをしていたのかは謎
城を広げていく過程で、結果的に集落を呑み込んでいったという側面もあるのではないかと考える
常陸の小幡城も外郭は極めて広範囲に及んでおり、集落も取り込んでいたと見て間違いない
これも総構えと言えなくもない
0860人間七七四年
2011/09/25(日) 22:51:42.02ID:JX4oIi3e県史や市史その他の各種資料にも載ってる。
宇都宮城周辺の地名が多気山周辺にも残っていて、
それも塙田や下河原のような明らかに町人百姓が住むような地名だから
武士だけでなく民衆も移転したんだろう。
誰も宇都宮城の方を放棄したとか廃城にしたとは書いてないぞ。
ちょっと取り違えが多すぎじゃないか。
0861人間七七四年
2011/09/26(月) 17:46:43.60ID:UTy1W1EG宇都宮市史にも栃木県史にもそんな事書いてない
北条勢などに攻められた時は宇都宮城を有力家臣に預けて国綱は多気山城に篭った
多気山城は一大「軍事拠点」となった、と書いてあるだけ
宇都宮家系図でも多気城と宇都宮「本城」と記されているし
那須記などでも多気山「出城」と記されている
0862人間七七四年
2011/09/26(月) 19:14:32.76ID:VCjotlXb0863人間七七四年
2011/09/26(月) 21:24:23.57ID:QZO1bXTz>那須記などでも多気山「出城」と記されている
元は出城だから、そう表記される場合もあるだろう。
小田原征伐後、秀吉が宇都宮城に着陣して11日間滞在して宇都宮仕置を行う。
奥羽の各大名(と、その軍勢)も宇都宮に滞陣して秀吉との引見も行う。
秀吉が来る半月前には宇都宮城は増田等の豊臣勢に接収されていた。
帰り道でも秀吉は宇都宮城に10日間滞在。
秀吉が黒川城へ行く間も豊臣勢の一部は宇都宮城で待機してただろう。
という事からすれば、宇都宮氏の政調機能、家臣団、町人街も
多くは秀吉が来る前から多気城に存在してたという事。
それは本拠の移転と捉えるのが普通。
何より知名に町人地の地名が残ってんだから。
移転して5年という短期間で後北条の脅威が無くなったから、文書に残らなかっただけで。
宇都宮城も単なる支城ではないから、有力家臣が配されるのは当然。
姓と同じ名の城だから、本城と強調してるだけだろ。
0864人間七七四年
2011/09/26(月) 21:46:48.94ID:ggiaxP0y本拠移転の問題も同じ。
所詮推定に過ぎないんだから、あまり強弁しすぎるのは良くない。
「おれは遷した可能性が高いと考える。なぜなら・・・」くらいの書き方にしとけばいいんじゃない。
0865人間七七四年
2011/09/26(月) 22:21:48.81ID:QZO1bXTz>恐らく商業地は宇都宮のままで一部の武家屋敷だけ移したものと思われる
少なくともこの部分は推測としてもほぼ当たらないだろ。
戦国時代に「一大軍事拠点」を作るというのは
単に詰城レベルの話ではないだろう。特に追い詰められてる側なら尚更に。
勝頼が新府へ移転したのを詰城に入るとは誰も言わないようにな。
0866人間七七四年
2011/09/26(月) 22:33:51.75ID:QZO1bXTz豊臣勢に差し出していた事も俺個人の「推測」ではなく、公式記録に残っている「事実」だから。
本拠機能がある城をものの数日で、自分から明け渡したり出来ないだろ。
0867人間七七四年
2011/09/26(月) 23:50:13.07ID:YFAbinI/敵が攻めて来た時に宇都宮を出て多気山に篭ったと書いてあるわけだが
つまり平時には宇都宮にいたと考えるのが普通
本拠地を移したとは何処にも書いてない
姓と同じだから本城と強調してるとか滅茶苦茶過ぎる理屈
そもそも多気山に商業地まで含めて本拠地を移したとか一体何が論拠になってるの?
書状類から軍記まで一通り見てみたけど多気山本拠移転の話は見つけられなかった
豊臣方の調書でも宇都宮氏の本拠は宇都宮城となっていて多気山は書いてないし
それに宇都宮城を豊臣に差し出したとか接収したなんて何に書いてあるの?
小田原征伐以後も宇都宮城は宇都宮氏のものだし、秀吉は単に滞在しただけでしょう
0868人間七七四年
2011/09/27(火) 00:56:41.54ID:DsgQ91tU1512年10月 鹿島景幹が下総米野井で討死
1522年月 島崎利幹が長山氏を攻め滅ぼす
1524年月 鹿島氏の内訌に江戸・大掾・島崎・小高・玉造・武田氏らが加担して鹿島義幹が城を追われる
1524年月 高天ケ原の戦いで鹿島義幹が鹿島・島崎氏に討たれる
1530年月 烟田泰幹が鉾田から大和田に逃れる
1531年2月 小田政治と江戸通泰が鹿ノ子原で合戦
1532年月 江戸忠通が小幡義清を誘殺して小幡城を奪う
1533年月 武田氏が木崎砦を築く
1536年月 玉造宗幹が島崎利幹と南郷で戦い富田城を奪う
1536年月 烟田泰幹が鉾田に復帰
1538年月 烟田泰幹が烟田に本拠を移す
1546年月 江戸氏の助けを得た園部兼彦が小田氏から園部城を奪還
1546年月 大掾慶幹が長者原で小田政治・小高直幹を破り小高城を奪う
1559年月 江戸・大掾・玉造・武田氏らと小田・小高氏が柄ケ崎で戦い江戸氏らが勝利
年月 烟田氏を牽制するために鹿島治時が鉾田に城を構えて3男・義清を配す
1563年2月 小田氏治が三村合戦で大掾貞国を破る
1564年1月 上杉輝虎らが小田城を攻め落とす
1566年月 武田通信が烟田忠幹の所領3ケ村を侵略
1568年3月 鹿島氏重臣・津賀大膳が暗殺される
1569年3月 千葉氏派・鹿島氏幹と江戸氏派・鹿島義清兄弟が軍事衝突
1569年6月 鹿島治時が義清派の烟田忠幹を夜討ち
1569年7月 鹿島治時が烟田忠幹を降伏させる
1569年10月 鹿島氏幹が家中の島崎某に暗殺される
1570年4月 江戸重通の妹婿・鹿島義清が家督
1571年月 武田信房が野友城を築く
1571年月 鹿島氏と武田氏が和睦
塚原卜伝のドラマスレにレスしたいから鹿行周辺について訂正と加筆おねがい
0869ついでに作った
2011/09/27(火) 00:58:55.10ID:DsgQ91tU‖――――宇都宮成綱 平野重資
┌佐竹掃部――女子 ‖
佐竹義人―┬佐竹義俊―┴佐竹義治――佐竹義舜――女子 ┌女子
│ ‖ │小山高朝――女子
│江戸通勝―┬江戸通雅―┬江戸通泰―┬江戸忠通―┤ ‖
│ │ │ │ ‖ ├江戸通政―┬江戸重通
│ │ │芳賀高経――女子 │ ├女子
│ │ │ │ │ │ ‖
│ │ ├女子 └女子 │烟田忠幹――烟田通幹
│ │ │ ‖ ‖ │ └女子
│ │ │宍戸政家――宍戸政里 │ ‖
│ │ ├女子 │鹿島治時――鹿島義清
│ │ │ ‖――――女子 └女子
│ │ │鹿島景幹 ‖ ‖――――額田照通
│ │ └女子 ┌鹿島通幹 額田篤通
│ │ ‖ │
│ └女子 岩城由隆 │
│ ‖――――大掾高幹―┴大掾常幹
│ 大掾清幹┐ 土岐原治頼―女子
│ └―女子 ‖――――芹沢国幹
│小高兵部――女子 ‖――――芹沢定幹
└女子 ‖―――┬芹沢秀幹
‖――――芹沢範幹 └女子
芹沢俊幹 ‖――――島崎氏幹
島崎利幹
0870人間七七四年
2011/09/27(火) 01:04:56.94ID:v4Xgzol4そもそも高天原の戦いは大永四年で確定なのか?
どうも調べてもはっきりしないようなんだが。史料の裏付けも期待できないし。
0872人間七七四年
2011/09/27(火) 21:29:18.32ID:2VnhGhWx0873人間七七四年
2011/09/28(水) 00:28:16.19ID:Zf18f4wt0874人間七七四年
2011/09/28(水) 00:42:54.03ID:7I/uI2M1島崎利幹⇒島崎忠幹、島崎氏幹⇒島崎利幹かも
>>870
1526年な気もするけど、そこいら辺も直してほしい
皆川俊宗
‖――――皆川広照
┌女子
┌水谷正吉―┴水谷正村――女子
水谷勝吉―┴女子 ‖ ‖
‖ ‖ ‖
結城政朝―┬結城政勝――女子 ‖
‖ ├小山高朝――――――――結城晴朝
┌宇都宮成綱―女子 └女子
└宇都宮興綱 ‖――――宇都宮広綱┌宇都宮国綱
‖――――――――――宇都宮俊綱 ‖―――┴結城朝勝
┌小田成治女 ‖
└小田成治女 ‖
‖――――――――――佐竹義昭――女子
佐竹義篤
0875人間七七四年
2011/09/28(水) 02:55:41.86ID:DjXleAB2http://blog-imgs-46-origin.fc2.com/z/i/p/zipperzipper/0185.jpg
0877人間七七四年
2011/10/02(日) 01:19:49.30ID:hekGFqUV南(鹿島か中居)から圧迫されたってこと?
鉾田から烟田への移動は武田氏?
0878人間七七四年
2011/10/04(火) 12:32:54.12ID:3TrVGJX5おつ
0879人間七七四年
2011/10/07(金) 18:07:30.15ID:r0motI9+0880人間七七四年
2011/10/07(金) 23:44:38.58ID:oiuYE2hb0881人間七七四年
2011/10/09(日) 08:59:00.78ID:D9AhLmf/今さらなんだがちょっと待った。
那須高資の実母である岩城常隆の娘が輿入れしたのは1521年だからそれはおかしい。
那須政資の継室に大田原の娘が入って資胤が生まれるのは少なくともこれ以後のはず。
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