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【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/21(月) 02:02:05ID:DVvJduHN
大国に囲まれながら中小勢力がしぶとく割拠し続けた
常陸・下野の戦国時代を語りましょう
0754人間七七四年2011/07/01(金) 12:30:03.34ID:dBdHHbuU
>>751
名張毒入りぶどう酒
0755人間七七四年2011/07/02(土) 05:28:38.65ID:MLQu8W0t
そういや大田原資清が追放されてから復帰するまでの間、大田原領は誰が管理してたんだ?
0756人間七七四年2011/07/03(日) 14:13:45.21ID:ZigRrlq1
>>749
一応、那須隆氏は釈放後結婚してる
子息がいるかは不明(喪主は奥様だし)
ただし妹夫婦や甥が支援者の中心としていたから、養子に迎えている可能性はある
0757人間七七四年2011/07/04(月) 09:57:55.42ID:wG5wM1xm
元々那須氏の血は引いてないんじゃないの?
0758人間七七四年2011/07/07(木) 17:27:00.65ID:5l2hoWuh
江戸時代の再興時に既に血縁無い養子もらってるからその通り
日本の場合、血筋より家重視だから特に問題は無い
そもそも婿養子貰っても家付正室に子が生まれず側室腹が継ぐ方が遥かに多いし
上杉鷹山の様に側室も一族出身の者はかなり珍しい
0759人間七七四年2011/07/07(木) 17:56:48.46ID:JFfZ64h6
養子と言っても血縁がある場合が殆どだよ
全く血縁がない場合は少ない
0760人間七七四年2011/07/07(木) 20:24:01.87ID:W1VrTa17
常陸と下野って半分東北だよね
0761人間七七四年2011/07/07(木) 20:32:36.29ID:Jq7R90zB
そうだね
0762人間七七四年2011/07/07(木) 22:27:01.35ID:5l2hoWuh
>>759
交代寄合初代の資弥は青木氏出身だが恐らく血縁無い
その後津軽・佐竹からも入ってるが一代止まりで本庄松平出身の資穀入りその血が明治迎えたと記憶しているがその後養子入ってたっけ
0763人間七七四年2011/07/07(木) 23:30:27.53ID:J0h1SfJB
>>762
青木氏の系図がよく分からないけど
青木氏と血縁がなければ那須氏の血は一滴も受け継いでないっぽいね
さすがにここまで中身が入れ替わってるのは珍しいかも
0764人間七七四年2011/07/09(土) 16:52:07.79ID:kB6ZFcXo
宇都宮家臣の多功氏って本当に戦での功績多いな。

居なかったら小田原まで宇都宮持たなかったんじゃないのかってぐらい。
0765人間七七四年2011/07/09(土) 20:23:55.22ID:hKYMP0Y4
まあ壬生と小山に対する最前線だからなぁ
必然的に先陣を務める場合が多かったろうし
0766人間七七四年2011/07/12(火) 17:41:04.80ID:nAmXOrzM
茂木城見てきたけど面白い縄張りだな
こんなタイプは見た事ない
0767人間七七四年2011/07/14(木) 21:04:33.10ID:wc0IVLE7
>>747
鎌倉北条ってことか
0768人間七七四年2011/07/14(木) 21:55:14.40ID:kVhc8I7b
>>763
蜂須賀氏かな
中身はもはや徳川の親藩同然で別物なのに
相変わらず盗賊の子孫扱いうけちゃったという
0769人間七七四年2011/07/15(金) 00:29:20.56ID:skTo8iVN
冤罪で捕まったのは吉宗の子孫か
0770人間七七四年2011/07/15(金) 15:21:10.21ID:wX3i0jRf
真壁キター
http://beebee2see.appspot.com/i/azuY28qfBAw.jpg
http://beebee2see.appspot.com/i/azuYmdqfBAw.jpg
0771人間七七四年2011/07/15(金) 16:41:36.73ID:KruNZo96
斎藤伝鬼坊は出ないのか、残念
0772人間七七四年2011/07/16(土) 09:43:36.51ID:wOzhXTvX
>>768
言われたほうではなくて、言ったほうに蜂須賀の血が流れていたというオチつきだし
0773人間七七四年2011/07/21(木) 01:18:21.48ID:6ETt6MrP
>>770
見れんw
0774人間七七四年2011/07/23(土) 07:42:52.45ID:IJkm3F8S
那須って2000人以上兵を動員出来た事ないよな。

どんな一大事でもとにかく兵が集まらない。
0775人間七七四年2011/07/25(月) 20:59:36.30ID:CzbPzyID
これはちょっと感動した

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110725-00000026-san-l09
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110723-00000056-mailo-l09

1550年代の蓮の種は、紅色の蓮。
1590年代以降の蓮の種は、緑色の蓮らしい。
つまり・・・浅野が宇都宮氏時代の蓮を取っ払って
別の蓮を植えたんだろうな。
どんだけゲスなんだよ。
0776人間七七四年2011/07/26(火) 14:54:17.42ID:0/qYNJ8B
>>775
どこにも突然鼻の色が変化したなんて書かれておらんぞ?
単純に気候や環境の変化によって植生が変わったんだろ。
よくそこまで短絡的に陰謀論に結び付けられるもんだ。
0777人間七七四年2011/07/26(火) 20:26:05.89ID:PUpNa8CS
>>776
この記事には無いけど
蓮の種が発見された時(1年ぐらい前か)、放射線量の化学分析をした上で
1590年代以降には別の蓮に変わってたという記事があったんだよ
お前こそ事情も知らないくせに知ったような口きくなって。
0778人間七七四年2011/07/27(水) 15:50:15.29ID:SuvSGyGT
775は蓮の種類が変わったことと
浅野の陰謀を安直にむすびつけるな

と、いいたいのでは。その辺を理解する読解力がない人の
「つまり…」というのあてにならないよね
0779人間七七四年2011/07/27(水) 19:37:25.65ID:f4f5je9Z
お前、何も知らないのな。
宇都宮氏改易後、宇都宮城と城下町は大改修されてる。
まあ浅野氏ではなく蒲生氏の可能性もあるけどな。
日野町とかは蒲生氏の出身地から名付けられた。
土塁や水堀まで織豊系の縄張りに改めてる時期に、ちょうど蓮も変わってるんだから、
どちらかと言えば人為的な変化と考えるのが自然。
城の植物は、一種のシンボル的なものでもあるからな。
その辺の道端のタンポポが在来種から外来種に変わったとかいうレベルの話じゃねえんだよw
0780人間七七四年2011/07/27(水) 19:55:33.14ID:Gb/IrSc2
1590年以降に新領に入部して
在来の城の大改修しなかった大名なんて存在しないだろ。
その中で、浅野だけが特別にゲスだと言える理由って何か挙げられるの?
0781人間七七四年2011/07/27(水) 20:02:21.82ID:SuvSGyGT
775だけど、第三者的に見て、780のいっている方が受け入れやすいなぁ
779さんむきにならないでね

それなりにへ〜と思える情報もアップしてるんだから
0782人間七七四年2011/07/27(水) 21:23:45.92ID:f4f5je9Z
>>780
大改修した事自体は別に何も。
権力を恣意的に使って改易し(たとされている)、相手の居城の種を立ち斬ろう
としたのが浅野氏だったら尚更に陰険ですね。って話。
蓮だけに限らず、改易の後に宇都宮氏関係の神社仏閣も幾つか廃社廃寺になってるしな
>>781
778みたいな挑発的なレスを棚に上げて、何取り繕おうとしてんだよ。お前が言うなw
ニートって本当に虫が良いんだな
0783人間七七四年2011/07/27(水) 22:01:49.67ID:/QACLe5q
>>781
いや、当事者のお前が「第三者的に見て」とか言える立場じゃないから。
こいつ半端じゃねえ馬鹿だ
0784人間七七四年2011/07/27(水) 22:08:41.16ID:f4f5je9Z
>>781
つーか775は俺なんだが。
成り済ましかよ。
ま、たぶん776と書きたかったんだろうけどな。

この流れの教訓をID:SuvSGyGT風に言えば
ろくに知らない事を安直に断定するな(キリッ
0785人間七七四年2011/07/29(金) 00:28:14.38ID:i+aSVXi4
宇都宮もいつの間にか佐竹与力扱いになってるなwiki
0786人間七七四年2011/07/30(土) 17:11:00.23ID:0BGyQmWi
佐竹と同盟していないときの戦は負けばかりの
イメージが強いからね

大軍で那須を攻め奇襲で惨敗、壬生にプレッシャーかけられ
水谷が火事泥棒のように南部を侵攻…

0787人間七七四年2011/07/30(土) 18:01:10.44ID:gd4zhJdu
陰謀論はともかくとしても、
実際に蓮の品種が変わったのは人為的なものだろうな。
もっとも、嫌がらせとかそんな目的ではないだろうが。
0788人間七七四年2011/07/30(土) 20:08:18.00ID:HkL5D/QP
例えば蓮の収穫量はどちらの方がぐれているか、とか、そういうものを見てみるべきだろうな
0789人間七七四年2011/08/03(水) 08:29:25.99ID:NgUPKGjs
宇都宮の取り次ぎは浅野
佐竹では石田
中央との取り次ぎ役が違うのに、
寄騎の関係になることに違和感を感じる
0790人間七七四年2011/08/03(水) 11:25:25.28ID:gDPbxW+r
いや、与力じゃないし

小田原征伐の時に常陸南部や下野南部は佐竹、宇都宮、結城、由良など に分配されたが
この配分には石田と浅野の政争があったんだろうな
0791人間七七四年2011/08/18(木) 09:50:25.77ID:NbwgiJ+h
宇都宮城を見学に行ったら史料に
宇都宮城主に1年間だけ浅野がなってたけどマジ?
0792人間七七四年2011/09/07(水) 16:38:10.26ID:4sNAOIY2
佐竹と宇都宮が縁戚で強固な同盟関係にあるのを知っていながら、取次が別々。
分断させようとしてたのか?豊臣政権は。
徳川を仮想的国とするなら、
得策ではないと思うが。
0793人間七七四年2011/09/07(水) 21:13:03.08ID:XpqAlhbb
いや、と言うより
石田と浅野が影響力を強める為に取り合いしていたと言った方が正しい

>>791
マジ
0794人間七七四年2011/09/07(水) 21:56:32.00ID:sVxnDabj
上杉からの繋がりで石田にすべきだったんだよな
弟達や那須との関係みるにどちらにせよ西軍で没落な気もするが
0795人間七七四年2011/09/07(水) 23:27:38.81ID:oEkgQhWC
浅野と徳川は豊臣政権内部で派閥作ってたと言う人も多いしね
0796人間七七四年2011/09/13(火) 21:27:27.53ID:AISutj1e
宇都宮家は被害者か
0797人間七七四年2011/09/14(水) 19:08:40.80ID:8oArfRfE
佐竹ってなんで東北に何度も遠征してたの?
関東での戦いに興味が無かったのかな。
0798人間七七四年2011/09/14(水) 19:44:19.38ID:uaI/EiUr
>>797

後北条が強すぎ。
0799 忍法帖【Lv=16,xxxPT】 2011/09/14(水) 19:44:21.06ID:2Us0gcaX
東北の小勢力併呑するほうが楽チンだろ
宇都宮とは婚姻結んでるし北条とガチンコするには実力足りないし
0800人間七七四年2011/09/14(水) 20:42:10.80ID:8oArfRfE
みもふたも無いw
そんな理由で目を付けられた白河結城氏や岩城氏が悲しい。
0801人間七七四年2011/09/14(水) 20:54:54.78ID:7NTrY9XG
小田天庵様がいたから
0802人間七七四年2011/09/15(木) 10:54:56.29ID:4zbgTQGD
あぁ、負けまくりのザコ豪族ね。
例年の横浜ベイスターズのような奴ら。
0803人間七七四年2011/09/15(木) 22:30:58.42ID:Qm2DhDXO
天庵様を馬鹿にするな
夜中に目が覚めたら鋤鍬持った領民が布団を囲んでた、
なんてことになりかねんw
0804人間七七四年2011/09/16(金) 00:19:28.75ID:UKVGD+oz
>>797
関東は物理的に無理
東は海で西は那須氏・宇都宮氏などの同盟国がある
南は真壁氏・大掾氏・江戸氏・太田氏などの洞中領主が小田方などの勢力と戦って領地を広げているから邪魔する訳にはいかない
だから彼らの後詰めが佐竹氏の役目だった
さらにその外には結城氏・小山氏・佐野氏・簗田氏などがいて、彼らとも協調関係にあったりした
だから佐竹氏が南下するとなると遥か武蔵の方まで攻めて飛び地を獲るしかないけど当然そんなのは現実的ではない
逆に南陸奥の白川氏などとは領地を接している
室町時代には依上(大子町)まで白川氏が進出して来ており佐竹氏とは100年来の仇敵だった
とりわけ白川氏の領する高野郡は常陸口の要所で南陸奥の街道が交わり
依上や東館(矢祭町)から常陸太田へ直行する事が出来る
実際、戦国時代初期頃に南陸奥連合に攻められて常陸国内(里美村)まで進入されて窮地に陥った事がある
だから佐竹領の防衛上、高野郡は絶対に手に入れたい土地だった
佐竹義舜が依上を奪還したのを皮切りに(依上は佐竹領だったが内乱の最中に取り上げられて白川氏に与えられていた)
義篤・義昭・義重と4代に渡って戦火を交えて来た
つまり南陸奥こそが佐竹氏本来の主戦場であり
南部は佐竹氏の意図と言うより同盟国や洞中の援軍要請に答える為に出陣している内に
北条氏の台頭で戦火が拡大していってしまったに過ぎない
0805人間七七四年2011/09/16(金) 06:58:50.89ID:oNJBA6/3
>>791
城主というか、城代、管理人的立場だったんだろうな
0806 忍法帖【Lv=17,xxxPT】 2011/09/16(金) 11:31:51.40ID:Ji2ZrEFS
なんで宇都宮国綱は関ヶ原で東軍に参加しなかったの?
旧領復帰とまではいかなくても2〜3万石の小大名として復帰できたんじゃないの?
朝鮮出兵で頑張ったのに復興できなくて疲れちゃったのかな、弟の朝勝は反東軍だけど、別に宇都宮家の為に動いていた訳じゃないみたいだし
嫁の実家の佐竹と歩調合わせてたわけでもないみたいだし、国綱が東軍で活動しても何の問題もなさそうだが
0807人間七七四年2011/09/16(金) 13:14:29.90ID:LXhs/t9e
関ヶ原当時は国綱って佐竹の客分になってたんじゃないの?
0808人間七七四年2011/09/16(金) 13:35:11.93ID:1eG0wAbk
まあ佐竹の下でうろちょろしてたから、動くに動けない感じだったんだろ。
あえて佐竹と別れて博打を打つほどの決断力も無かっただろうし。
0809人間七七四年2011/09/16(金) 13:50:21.79ID:SEHuASJy
弟二人は行動派なんだけどな
国綱は特別パッとした逸話もないし大勢に流されるイメージしかない
0810人間七七四年2011/09/16(金) 14:46:16.52ID:lhVscAqX
宇都宮は浅野の罠に掛かって改易されてから佐竹の寄騎扱いだったしね。
寄親の佐竹が明らかにしないのに、宇都宮だけで勝手に動くわけにいかなかったんだろう。
大名に復帰できないまま浅草で憤死してしまった・・・と。
弟の朝勝が秋田でちゃっかり文化人ライフを楽しんだのとは対照的だ。
0811人間七七四年2011/09/16(金) 21:48:07.76ID:XWLuFenW
>>810
朝勝は西軍側として活動してたんだけど
何もしなかった国綱は浪人で西軍側についた朝勝は久保田藩の十二大将 という家中14位ぐらいの扱いになった皮肉
でも恐らく国綱は相馬氏のように江戸で大名復帰運動してたのではないかと思う
0812人間七七四年2011/09/17(土) 07:33:09.51ID:LDt4c5ja
>>801

阪神時代の江夏、国鉄時代の金田みたいな存在か?
0813人間七七四年2011/09/17(土) 07:36:47.08ID:LDt4c5ja
>>804

> 南部は佐竹氏の意図と言うより同盟国や洞中の援軍要請に答える為に出陣している内に
> 北条氏の台頭で戦火が拡大していってしまったに過ぎない


佐竹と後北条の会戦が数回あるが、どれも佐竹が判定負けという感じでいいの?
0814人間七七四年2011/09/17(土) 08:51:29.56ID:hg6su80K
元亀三年の多功ヶ原合戦で佐竹・宇都宮らが北条を破ってるのは
北条大好き黒田基樹ですら認めてるよ
0815人間七七四年2011/09/17(土) 13:24:56.65ID:eKYvuqI3
>>811
同母弟の朝勝・高武がよりによって上杉傘下で戦ってるからな
信頼的に無理だろ
0816人間七七四年2011/09/17(土) 13:49:35.94ID:WGQoRiQv
那須の話なんだが大田原資清はいつ娘を那須政資の正室にさせたんだろう。

追放中の身分で那須の正室に娘を押し込めるとは思えないから追放前(1518年以前)か復帰後(1542年以後)のどちらかか?
0817人間七七四年2011/09/18(日) 03:00:54.77ID:YL9NFHfX
追放前だろうね
追放後だと年齢的に少し無理がある
0818人間七七四年2011/09/18(日) 05:00:48.31ID:mhETDW9l
あの辺の大名、基本的に姻戚や同盟でつるんでるわけだしさ、
ガッと連合して、関が原の戦いとかで背後から家康襲えば一発逆転あったね

天下取った後は、連立内閣みたいで幕府やれそうな気がする
0819人間七七四年2011/09/18(日) 12:17:40.98ID:1iywi3o4
資晴の事も考えると確かに復帰後はちょっとキツイな。

政資の長男であるはずの高資が実力行使で家督を奪いに行ったのも既に資胤が居たからと考えたほうが自然。
0820人間七七四年2011/09/18(日) 14:04:34.57ID:AkRnbrvk
>>818
連合体は弱いから無理
それぞれ独立勢力だしお互いの利害が絡むから簡単に結束が崩れる
対北条戦でも対伊達戦でも結局それで決定力に欠けた
0821人間七七四年2011/09/18(日) 14:46:37.61ID:yLI8rgU/
>>818
そもそも佐竹領内は例の「南方三十三館の仕置き」の余波が未だ続いており、
南方三十三館の残党があの時期ですら策動し、何かあれば東軍と結んで反佐竹行動を取る気
満々だった。

そんなだから佐竹は国境の外に出ることすら不可能だっただろう。
0822人間七七四年2011/09/18(日) 20:50:15.68ID:x0epvpuv
そもそも西軍につくと言う発想がない
真田と同じで佐竹にも何の相談もなかったから三成挙兵は義宣にとっても寝耳に水
単なる上杉討伐だと思っていた
だから先鋒の須田盛秀らは既に上杉領へ進入していたし
須田氏や葦名盛重らを先鋒にしている事からして、葦名家や二階堂家の復興を目指していたのだろうと思われる
そんな時に三成挙兵の急報が届き、佐竹家中は動揺した
取り敢えず先鋒を赤館で留めて軍議を開いたが、石田と徳川のどちらが「豊臣軍」なのか判断に迷った
義久らは断固徳川支持を主張したが、西軍に人質を取られている事や義宣が乗り気じゃなかった事などで
結局は消極的徳川支持という形になった
初めから徳川と戦う事なんて想定していなかったから、その準備もなかったし
西軍参加は無理なんだよ
0823人間七七四年2011/09/18(日) 21:19:57.35ID:2WIM7p8i
>>821
何か裏付けの史料あるの?
ないでしょ
0824人間七七四年2011/09/18(日) 23:48:38.87ID:XujCznxo
>>823
秋田転封が決まったとき、車丹波が徳川への蜂起を主張したが
「常陸には三十三館の件でまだ佐竹に恨みを持っている者たちがいる。
彼らが混乱に乗じて立ち上がったらどうしようもない」
と義宣がその案を退けた……らしい。
どこで読んだ話だったか忘れたがw、近デジだったかも。
0825人間七七四年2011/09/19(月) 00:30:46.50ID:alz1j+Rg
有名な挿話だが、それは史料じゃないよね。
しかも、関が原の話ですらないし
0826人間七七四年2011/09/19(月) 00:43:45.10ID:L/LQPez+
佐竹は転封以前の記録が少ないからなあ
史料と言われても伝承と紙一重だ
記録する習慣がなかったんじゃないかとさえ思える
0827人間七七四年2011/09/19(月) 02:14:59.32ID:ds6CTBIr
>>821
>>824
そのへんの話は確か藩翰譜あたりにも出てたな
0828人間七七四年2011/09/19(月) 02:23:02.53ID:0NgWZbtK
>>825
移封の時点でそうなら関ヶ原の段階でも当然同じ状況だったと見るのが自然だと思うが?
0829人間七七四年2011/09/19(月) 04:01:46.51ID:COgxyVYe
転封の話しが決まった時は義宣、義重、葦名盛重、岩城貞隆、相馬義胤ら一門は上方や江戸にいたし
義宣は即日、国元に使いを送って一刻も早く常陸を立ち退くように指示している
梅津政景などは行き先が決まってないうちから取り敢えず水戸を立ち退いて下野に滞在するよう家族に連絡している
そして転封先が決まると留守居役の和田昭為や小場義宗らは直ちに秋田へ先行して後続を迎え入れる準備を始めた
義宣、義重、盛重、貞隆、義胤らが上方や江戸を発ったのは3ヶ月近く経って移動が片付いてから
したがって蜂起など思いもよらない事で考えもしなかったと見て良いだろう
まして車はこの頃、家臣ですらないし口出しなどできるわけもなく
恐らく義宣とは一度も顔を合わせる事もなかったと思われる
と言うか義宣が伏見を発ったのは車が死んで1ヶ月以上経ってからだし
どう考えてもその逸話は事実ではない
0830人間七七四年2011/09/19(月) 05:36:09.19ID:jjAkPAkc
>常陸には三十三館の件でまだ佐竹に恨みを持っている者たちがいる

逸話は与太でもこの認識はあった、
あるいは周りからそう思われてしまうような状況だったのかね
0831人間七七四年2011/09/19(月) 07:52:15.45ID:OxbXpGVL
>>811
>でも恐らく国綱は相馬氏のように江戸で大名復帰運動してたのではないかと思う

だろうな。
死去時に浅草に居たのも、そういう理由だろうし。
相馬氏は外様で大大名の伊達氏への牽制役として使えたので、旧領復帰が叶った。
関東から外様がほぼ消えた状況下で、わざわざ宇都宮氏を
大名に復帰させる必要性は無かったと。
0832人間七七四年2011/09/19(月) 08:21:22.15ID:alz1j+Rg
>>826
佐竹は史料豊富だよ。
茨城県史料中世編や秋田藩家蔵文書の膨大な量を見るべし。
もちろん北条や武田の文書量には全く敵わないが。

0833人間七七四年2011/09/19(月) 10:33:32.97ID:TdreEtDC
北条と比べたら、そらなあ
0834人間七七四年2011/09/19(月) 11:59:57.90ID:Md7BLRd9
佐竹は資料はたくさんあるが研究が進んでないだけ
佐竹関係書籍は豊富にある一次資料を無視して永慶軍記を丸写ししたような手抜き本ばかりだし
民間にもまだまだ資料が山ほど眠ってる
0835人間七七四年2011/09/19(月) 15:11:42.95ID:TdreEtDC
今現在、佐竹研究の第一人者と言ったら誰なんだろうな
0836人間七七四年2011/09/19(月) 17:20:13.90ID:PGzm/wOP
誰だろうな
里見ですら、佐藤博信・滝川恒昭クラスの人がいるというのに。
0837人間七七四年2011/09/19(月) 19:39:28.49ID:quEOO99C
黒田基樹氏
0838人間七七四年2011/09/19(月) 20:22:21.93ID:ds6CTBIr
徳川譜代の大久保氏が宇都宮系だな
0839人間七七四年2011/09/19(月) 20:34:02.22ID:alz1j+Rg
>>835
藤木久志 市村高男 佐々木倫朗 今泉徹 
好きなの選べ

>>837
冗談きついww
でも、怖いもの見たさってやつで、黒田氏の書く佐竹の戦国史をいつか読んでみたいなw
「佐竹義重は永禄○年に北条氏康に従属し、○年に離反した」
とか目を疑うような記述が満載だろうねw
0840人間七七四年2011/09/19(月) 23:21:27.59ID:JmShEyj9
市村氏が良いね
変に贔屓したり自分の想像で書いたりせずに資料の解析のみに徹しているから信頼できる
0841人間七七四年2011/09/20(火) 01:16:00.36ID:jqjfj97D
>>840
そうでもないと思うわ
0842人間七七四年2011/09/20(火) 09:30:43.30ID:cZxMxFF/
黒田も優れた研究者だが、見方が偏ってる
0843人間七七四年2011/09/20(火) 10:20:18.43ID:eNwFf4nx
関原軍記大成に出て来る渋「井」内膳は
渋「江」内膳の間違いと思っておk?
茨城訛りか?
0844人間七七四年2011/09/20(火) 17:11:36.92ID:jqjfj97D
>>842
市村も結構かたよっているよ
市村と同じバイヤスで見れば見にならないのだろうが
0845人間七七四年2011/09/20(火) 22:18:08.42ID:fx/fbqOr
ID:jqjfj97D

市村が具体的にどう偏ってるの?
0846人間七七四年2011/09/20(火) 23:12:15.47ID:jqjfj97D
>>845
黒田といっしょ
ときどきに肩入れしているサイドがある
そこに至るまでに史料をあげるけど
論拠なしに結論にいっていることがチラホラあるよ
そこの結論に至った論拠をなぜ示せないのかと
0847人間七七四年2011/09/20(火) 23:28:17.28ID:fx/fbqOr
>>846
「具体的に」って書いてるでしょ。
君の印象ではなくて、具体的にどんな偏った記述があるの?
0848人間七七四年2011/09/21(水) 01:57:45.50ID:cWJpBq/9
>>847
必死だにならなくても自分が偏ってないと思っていればいいんじゃないか?
それも人によっての印象だろう。
0849人間七七四年2011/09/21(水) 02:00:13.35ID:tzUukJC8
市村氏は特定大名の研究じゃなくて権力構造の研究が主だから肩入れも何もないと思うがね
0850人間七七四年2011/09/21(水) 02:20:04.81ID:McEfLPeG
黒田信者は相変わらず頭悪いなw
0851人間七七四年2011/09/21(水) 12:41:12.09ID:XdfUXbYe
結局具体的な話にはならないんだなw
0852人間七七四年2011/09/21(水) 20:30:36.76ID:IMi/EJTg
それ以前に市村ってもう高知から帰ってこないんじゃないか?
0853人間七七四年2011/09/23(金) 20:35:25.21ID:mtDxpCDR
戦国の城とかいうイラスト付きの本で多気山城が載ってた。
多気山城って惣構えだったんだな。知らなかった。
0854人間七七四年2011/09/23(金) 21:13:05.83ID:9jw5HCXA
>>853
城域の外側に堀と土塁の遺構の一部が見つかっただけで、(しかも現在は消滅)
惣構があったかどうかは分からんよ。

西ヶ谷のその本の解説文、酷過ぎるよね。
「天正13年の戦いは、宇都宮勢が岩城に出陣中に小山秀綱が襲来したもので、佐竹義重が後詰となった。
 翌年五月の合戦は後北条、小山、佐竹が多気山を直接攻め、大手の大谷口で合戦となった。
 この時、佐竹軍は小山に駐屯し、北条氏照の指揮下にあった」

「佐竹が後詰に来た」という書状を、宇都宮支援のためではなく、
何と北条氏照の命令で宇都宮を攻めに来たと誤読してる。
一体どうやったらこんな間違い犯すのかね?

黒田基樹ですらこんなこと書かないよ。
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