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【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/21(月) 02:02:05ID:DVvJduHN
大国に囲まれながら中小勢力がしぶとく割拠し続けた
常陸・下野の戦国時代を語りましょう
0723人間七七四年2011/06/16(木) 21:20:21.88ID:vtDZZiQi
ふむふむ
0724人間七七四年2011/06/16(木) 23:05:50.46ID:PzT6wAUX
>>722
国綱は凡庸な人物だったが弟の朝勝と高武は過激な人物であったようだ
特に高武は、浅野の懐柔作に国綱が従おうとした事に激怒し
親浅野派だった重臣の北條松庵と今泉高光を次々殺害した事で浅野を怒らせて改易に追い込まれた
と言うのが通説
0725人間七七四年2011/06/18(土) 18:55:05.55ID:ciq9Lx/v
朝勝が結城の入嗣に失敗したのは、
その過激さを危ぶまれた一面も、
あるのかな
0726人間七七四年2011/06/19(日) 01:41:37.72ID:jTPnuKZM
ただ、市村高男のように結城晴朝が一旦朝勝に家督を譲った後に豊臣政権の受けをよくするために朝勝を廃して秀吉の養子だった秀康を新たに養子に迎えて家督を譲ったという説を唱えている学者もいる。
この説だと、朝勝が豊臣政権に対して内心不満を持っていて豊臣シンパとみなされた北條松庵や今泉高光が殺害されたと言う説明も可能だと思う。
0727人間七七四年2011/06/21(火) 08:42:06.64ID:S2aroYR+
隣の佐竹が豊臣政権で国を広げたのに、
宇都宮には何も出来なかったことを、
逆恨みしてるのか?
那須の領土でも狙ってたとか
0728人間七七四年2011/06/21(火) 08:59:22.82ID:m/IXOjoB
0729人間七七四年2011/06/21(火) 20:36:08.99ID:9BjH1a01
>>727
???
0730人間七七四年2011/06/22(水) 08:13:24.33ID:H4M3jQOv
宇都宮って小田原役後は領土拡張したの?
0731人間七七四年2011/06/24(金) 00:32:38.25ID:yaMBmISc
独立状態だった益子・笠間は取り戻した。
塩谷郡は宇都宮氏、塩谷氏、喜連川足利氏、蔵入地に分割。
壬生領は徳川氏、結城氏、宇都宮氏、蔵入地で分割。大半は結城へ。
壬生を元宇都宮一族とすれば、喪失した事になるな。
0732人間七七四年2011/06/24(金) 08:04:33.85ID:tukVw2jJ
塩谷?こんな小大名がいたんだ
旧壬生領、
確かにこの辺りに芳賀らの不満の種はありそうだ
0733人間七七四年2011/06/24(金) 11:45:56.98ID:8cE1YhkW
塩谷氏は微妙な立ち位置
基本的には武茂氏や笠間氏と同じ宇都宮一門で洞中に属していたが
小田原征伐辺りからは笠間氏同様に良く分からない

他には那須七騎の一部が与力として宇都宮氏に付けられてはいたようだね
佐竹氏や結城氏は大幅に領地を加増されたのに宇都宮氏は微妙
外交いまいち上手くいってなかったのかもしれない
国綱や今泉・北條らが浅野長吉の養子の件をのんだのは単に押し付けられただけではなく
少しでも外交的優位を得たい思惑があって宇都宮氏の方も望んでいたのではなかろうか
0734人間七七四年2011/06/24(金) 19:02:14.72ID:IhD/z0qx
塩谷、武茂、松野あたりの宇都宮庶流家は
いつごろから完全な佐竹配下になったのですか?
その理由としてなにか明確なものがあるのでしょうか。
0735人間七七四年2011/06/24(金) 22:43:49.33ID:RTNHZ4No
完全に配下に組み込まれたって言ったら秋田移封以後じゃないかな?
0736人間七七四年2011/06/25(土) 05:33:08.55ID:HQrG7jBu
>>734
宇都宮がグダクダになったあたりだよ。
佐竹は義昭のころかな?

宇都宮の跡取りがどうので揉めて、
ムモマツノで佐竹の軍勢を借りて宇都宮宗家奪還してなかったか。
0737人間七七四年2011/06/25(土) 13:26:17.97ID:wOqjBp1P
>>733
>那須七騎の一部

伊王野と蘆野だな。宇都宮が潰れた後もこっちは残った。
0738人間七七四年2011/06/25(土) 14:48:10.66ID:p4dJeh+I
那須七騎は上手い事生きのびたよな
旗頭の那須氏と旗下筆頭の伊王野氏は没落したけど
0739人間七七四年2011/06/25(土) 23:33:52.66ID:NDmz+FD7
大関と大田原は関東の外様大名で最後まで転封されなかった稀有な例だよな。大名未満だった福原とかも転封なし。

後々全員まとめて戊辰戦争であっさり新政府軍に付いたから大失敗だった訳だが。
0740人間七七四年2011/06/25(土) 23:59:57.07ID:p4dJeh+I
御三家でさえ新政府についている状況じゃ外様の小大名にはどうしようもないかと
大田原城は旧幕軍に攻められて結構激戦になったんだよな

そういや、大田原や黒羽は一応陣屋なんだよね
どう見ても城だけど
0741人間七七四年2011/06/26(日) 20:49:21.12ID:s7m1tUw+
黒羽藩は関東の藩では珍しく洋式兵装を取り入れた先進的な装備だったらしいな。

おかげで活躍して2万石の小藩なのに戦功賞典で1万5000石貰ってる。
0742人間七七四年2011/06/27(月) 11:27:09.43ID:jDki5R4q
相変わらず大関は立ち回り上手いな
0743人間七七四年2011/06/27(月) 12:35:54.41ID:04yBWsyp
男系の血統は別の家になって途絶えてるけどな。
実質他家に乗っ取られるなら、旗本や大名の家老になった方がマシという考えもある。
0744人間七七四年2011/06/27(月) 13:05:55.71ID:PRR64ZgX
うむ、関心感心
0745人間七七四年2011/06/27(月) 13:32:46.14ID:B4dCQWjO
家と血統は別なんだろうけど、
男性血統が残ってると、なぜか萌えるよね
0746人間七七四年2011/06/27(月) 18:46:52.74ID:SP6WZ+GQ
北條松庵
って何者?
越後毛利?後北条?鎌倉北条?
0747人間七七四年2011/06/27(月) 18:56:57.04ID:XmhaQ0uY
>>746
本物の北條氏(執権北條氏)一族の生き残り
0748人間七七四年2011/06/27(月) 22:20:37.33ID:+VirXYL2
>>732
宇都宮の被官だね。
被官といっても芳賀氏同様に宇都宮家の家老のようなことをしてたくらい
宇都宮家に近い。
0749人間七七四年2011/06/28(火) 16:24:19.61ID:ZfWVe9gn
弘前大学教授夫人殺人事件の冤罪被害者の故・那須隆氏って交代寄合那須家の当主だったらしいけど子供はいらっしゃるの?
1949年、25歳の頃に捕まって14年間服役、1963年に39歳で釈放、1971年に冤罪発覚じゃ結婚も養子縁組も難しかっただろうし
冤罪が原因で名門那須氏断絶とか悲惨すぎる
0750人間七七四年2011/06/28(火) 17:37:07.25ID:Dn/UUCb4
血統ではもうとっくの昔に断絶してるんだろうけどね
家督自体ははどうなんだろうね
0751人間七七四年2011/06/28(火) 21:45:00.83ID:ttpl5MMA
冤罪なんて、昔の方がもっと酷いだろ
0752人間七七四年2011/06/29(水) 11:14:43.25ID:dtfMXvSP
そういう意味合いの話じゃねえよ
0753人間七七四年2011/06/29(水) 11:32:48.66ID:zJZZAfy6
>>747
ほほー。勉強になります。
0754人間七七四年2011/07/01(金) 12:30:03.34ID:dBdHHbuU
>>751
名張毒入りぶどう酒
0755人間七七四年2011/07/02(土) 05:28:38.65ID:MLQu8W0t
そういや大田原資清が追放されてから復帰するまでの間、大田原領は誰が管理してたんだ?
0756人間七七四年2011/07/03(日) 14:13:45.21ID:ZigRrlq1
>>749
一応、那須隆氏は釈放後結婚してる
子息がいるかは不明(喪主は奥様だし)
ただし妹夫婦や甥が支援者の中心としていたから、養子に迎えている可能性はある
0757人間七七四年2011/07/04(月) 09:57:55.42ID:wG5wM1xm
元々那須氏の血は引いてないんじゃないの?
0758人間七七四年2011/07/07(木) 17:27:00.65ID:5l2hoWuh
江戸時代の再興時に既に血縁無い養子もらってるからその通り
日本の場合、血筋より家重視だから特に問題は無い
そもそも婿養子貰っても家付正室に子が生まれず側室腹が継ぐ方が遥かに多いし
上杉鷹山の様に側室も一族出身の者はかなり珍しい
0759人間七七四年2011/07/07(木) 17:56:48.46ID:JFfZ64h6
養子と言っても血縁がある場合が殆どだよ
全く血縁がない場合は少ない
0760人間七七四年2011/07/07(木) 20:24:01.87ID:W1VrTa17
常陸と下野って半分東北だよね
0761人間七七四年2011/07/07(木) 20:32:36.29ID:Jq7R90zB
そうだね
0762人間七七四年2011/07/07(木) 22:27:01.35ID:5l2hoWuh
>>759
交代寄合初代の資弥は青木氏出身だが恐らく血縁無い
その後津軽・佐竹からも入ってるが一代止まりで本庄松平出身の資穀入りその血が明治迎えたと記憶しているがその後養子入ってたっけ
0763人間七七四年2011/07/07(木) 23:30:27.53ID:J0h1SfJB
>>762
青木氏の系図がよく分からないけど
青木氏と血縁がなければ那須氏の血は一滴も受け継いでないっぽいね
さすがにここまで中身が入れ替わってるのは珍しいかも
0764人間七七四年2011/07/09(土) 16:52:07.79ID:kB6ZFcXo
宇都宮家臣の多功氏って本当に戦での功績多いな。

居なかったら小田原まで宇都宮持たなかったんじゃないのかってぐらい。
0765人間七七四年2011/07/09(土) 20:23:55.22ID:hKYMP0Y4
まあ壬生と小山に対する最前線だからなぁ
必然的に先陣を務める場合が多かったろうし
0766人間七七四年2011/07/12(火) 17:41:04.80ID:nAmXOrzM
茂木城見てきたけど面白い縄張りだな
こんなタイプは見た事ない
0767人間七七四年2011/07/14(木) 21:04:33.10ID:wc0IVLE7
>>747
鎌倉北条ってことか
0768人間七七四年2011/07/14(木) 21:55:14.40ID:kVhc8I7b
>>763
蜂須賀氏かな
中身はもはや徳川の親藩同然で別物なのに
相変わらず盗賊の子孫扱いうけちゃったという
0769人間七七四年2011/07/15(金) 00:29:20.56ID:skTo8iVN
冤罪で捕まったのは吉宗の子孫か
0770人間七七四年2011/07/15(金) 15:21:10.21ID:wX3i0jRf
真壁キター
http://beebee2see.appspot.com/i/azuY28qfBAw.jpg
http://beebee2see.appspot.com/i/azuYmdqfBAw.jpg
0771人間七七四年2011/07/15(金) 16:41:36.73ID:KruNZo96
斎藤伝鬼坊は出ないのか、残念
0772人間七七四年2011/07/16(土) 09:43:36.51ID:wOzhXTvX
>>768
言われたほうではなくて、言ったほうに蜂須賀の血が流れていたというオチつきだし
0773人間七七四年2011/07/21(木) 01:18:21.48ID:6ETt6MrP
>>770
見れんw
0774人間七七四年2011/07/23(土) 07:42:52.45ID:IJkm3F8S
那須って2000人以上兵を動員出来た事ないよな。

どんな一大事でもとにかく兵が集まらない。
0775人間七七四年2011/07/25(月) 20:59:36.30ID:CzbPzyID
これはちょっと感動した

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110725-00000026-san-l09
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110723-00000056-mailo-l09

1550年代の蓮の種は、紅色の蓮。
1590年代以降の蓮の種は、緑色の蓮らしい。
つまり・・・浅野が宇都宮氏時代の蓮を取っ払って
別の蓮を植えたんだろうな。
どんだけゲスなんだよ。
0776人間七七四年2011/07/26(火) 14:54:17.42ID:0/qYNJ8B
>>775
どこにも突然鼻の色が変化したなんて書かれておらんぞ?
単純に気候や環境の変化によって植生が変わったんだろ。
よくそこまで短絡的に陰謀論に結び付けられるもんだ。
0777人間七七四年2011/07/26(火) 20:26:05.89ID:PUpNa8CS
>>776
この記事には無いけど
蓮の種が発見された時(1年ぐらい前か)、放射線量の化学分析をした上で
1590年代以降には別の蓮に変わってたという記事があったんだよ
お前こそ事情も知らないくせに知ったような口きくなって。
0778人間七七四年2011/07/27(水) 15:50:15.29ID:SuvSGyGT
775は蓮の種類が変わったことと
浅野の陰謀を安直にむすびつけるな

と、いいたいのでは。その辺を理解する読解力がない人の
「つまり…」というのあてにならないよね
0779人間七七四年2011/07/27(水) 19:37:25.65ID:f4f5je9Z
お前、何も知らないのな。
宇都宮氏改易後、宇都宮城と城下町は大改修されてる。
まあ浅野氏ではなく蒲生氏の可能性もあるけどな。
日野町とかは蒲生氏の出身地から名付けられた。
土塁や水堀まで織豊系の縄張りに改めてる時期に、ちょうど蓮も変わってるんだから、
どちらかと言えば人為的な変化と考えるのが自然。
城の植物は、一種のシンボル的なものでもあるからな。
その辺の道端のタンポポが在来種から外来種に変わったとかいうレベルの話じゃねえんだよw
0780人間七七四年2011/07/27(水) 19:55:33.14ID:Gb/IrSc2
1590年以降に新領に入部して
在来の城の大改修しなかった大名なんて存在しないだろ。
その中で、浅野だけが特別にゲスだと言える理由って何か挙げられるの?
0781人間七七四年2011/07/27(水) 20:02:21.82ID:SuvSGyGT
775だけど、第三者的に見て、780のいっている方が受け入れやすいなぁ
779さんむきにならないでね

それなりにへ〜と思える情報もアップしてるんだから
0782人間七七四年2011/07/27(水) 21:23:45.92ID:f4f5je9Z
>>780
大改修した事自体は別に何も。
権力を恣意的に使って改易し(たとされている)、相手の居城の種を立ち斬ろう
としたのが浅野氏だったら尚更に陰険ですね。って話。
蓮だけに限らず、改易の後に宇都宮氏関係の神社仏閣も幾つか廃社廃寺になってるしな
>>781
778みたいな挑発的なレスを棚に上げて、何取り繕おうとしてんだよ。お前が言うなw
ニートって本当に虫が良いんだな
0783人間七七四年2011/07/27(水) 22:01:49.67ID:/QACLe5q
>>781
いや、当事者のお前が「第三者的に見て」とか言える立場じゃないから。
こいつ半端じゃねえ馬鹿だ
0784人間七七四年2011/07/27(水) 22:08:41.16ID:f4f5je9Z
>>781
つーか775は俺なんだが。
成り済ましかよ。
ま、たぶん776と書きたかったんだろうけどな。

この流れの教訓をID:SuvSGyGT風に言えば
ろくに知らない事を安直に断定するな(キリッ
0785人間七七四年2011/07/29(金) 00:28:14.38ID:i+aSVXi4
宇都宮もいつの間にか佐竹与力扱いになってるなwiki
0786人間七七四年2011/07/30(土) 17:11:00.23ID:0BGyQmWi
佐竹と同盟していないときの戦は負けばかりの
イメージが強いからね

大軍で那須を攻め奇襲で惨敗、壬生にプレッシャーかけられ
水谷が火事泥棒のように南部を侵攻…

0787人間七七四年2011/07/30(土) 18:01:10.44ID:gd4zhJdu
陰謀論はともかくとしても、
実際に蓮の品種が変わったのは人為的なものだろうな。
もっとも、嫌がらせとかそんな目的ではないだろうが。
0788人間七七四年2011/07/30(土) 20:08:18.00ID:HkL5D/QP
例えば蓮の収穫量はどちらの方がぐれているか、とか、そういうものを見てみるべきだろうな
0789人間七七四年2011/08/03(水) 08:29:25.99ID:NgUPKGjs
宇都宮の取り次ぎは浅野
佐竹では石田
中央との取り次ぎ役が違うのに、
寄騎の関係になることに違和感を感じる
0790人間七七四年2011/08/03(水) 11:25:25.28ID:gDPbxW+r
いや、与力じゃないし

小田原征伐の時に常陸南部や下野南部は佐竹、宇都宮、結城、由良など に分配されたが
この配分には石田と浅野の政争があったんだろうな
0791人間七七四年2011/08/18(木) 09:50:25.77ID:NbwgiJ+h
宇都宮城を見学に行ったら史料に
宇都宮城主に1年間だけ浅野がなってたけどマジ?
0792人間七七四年2011/09/07(水) 16:38:10.26ID:4sNAOIY2
佐竹と宇都宮が縁戚で強固な同盟関係にあるのを知っていながら、取次が別々。
分断させようとしてたのか?豊臣政権は。
徳川を仮想的国とするなら、
得策ではないと思うが。
0793人間七七四年2011/09/07(水) 21:13:03.08ID:XpqAlhbb
いや、と言うより
石田と浅野が影響力を強める為に取り合いしていたと言った方が正しい

>>791
マジ
0794人間七七四年2011/09/07(水) 21:56:32.00ID:sVxnDabj
上杉からの繋がりで石田にすべきだったんだよな
弟達や那須との関係みるにどちらにせよ西軍で没落な気もするが
0795人間七七四年2011/09/07(水) 23:27:38.81ID:oEkgQhWC
浅野と徳川は豊臣政権内部で派閥作ってたと言う人も多いしね
0796人間七七四年2011/09/13(火) 21:27:27.53ID:AISutj1e
宇都宮家は被害者か
0797人間七七四年2011/09/14(水) 19:08:40.80ID:8oArfRfE
佐竹ってなんで東北に何度も遠征してたの?
関東での戦いに興味が無かったのかな。
0798人間七七四年2011/09/14(水) 19:44:19.38ID:uaI/EiUr
>>797

後北条が強すぎ。
0799 忍法帖【Lv=16,xxxPT】 2011/09/14(水) 19:44:21.06ID:2Us0gcaX
東北の小勢力併呑するほうが楽チンだろ
宇都宮とは婚姻結んでるし北条とガチンコするには実力足りないし
0800人間七七四年2011/09/14(水) 20:42:10.80ID:8oArfRfE
みもふたも無いw
そんな理由で目を付けられた白河結城氏や岩城氏が悲しい。
0801人間七七四年2011/09/14(水) 20:54:54.78ID:7NTrY9XG
小田天庵様がいたから
0802人間七七四年2011/09/15(木) 10:54:56.29ID:4zbgTQGD
あぁ、負けまくりのザコ豪族ね。
例年の横浜ベイスターズのような奴ら。
0803人間七七四年2011/09/15(木) 22:30:58.42ID:Qm2DhDXO
天庵様を馬鹿にするな
夜中に目が覚めたら鋤鍬持った領民が布団を囲んでた、
なんてことになりかねんw
0804人間七七四年2011/09/16(金) 00:19:28.75ID:UKVGD+oz
>>797
関東は物理的に無理
東は海で西は那須氏・宇都宮氏などの同盟国がある
南は真壁氏・大掾氏・江戸氏・太田氏などの洞中領主が小田方などの勢力と戦って領地を広げているから邪魔する訳にはいかない
だから彼らの後詰めが佐竹氏の役目だった
さらにその外には結城氏・小山氏・佐野氏・簗田氏などがいて、彼らとも協調関係にあったりした
だから佐竹氏が南下するとなると遥か武蔵の方まで攻めて飛び地を獲るしかないけど当然そんなのは現実的ではない
逆に南陸奥の白川氏などとは領地を接している
室町時代には依上(大子町)まで白川氏が進出して来ており佐竹氏とは100年来の仇敵だった
とりわけ白川氏の領する高野郡は常陸口の要所で南陸奥の街道が交わり
依上や東館(矢祭町)から常陸太田へ直行する事が出来る
実際、戦国時代初期頃に南陸奥連合に攻められて常陸国内(里美村)まで進入されて窮地に陥った事がある
だから佐竹領の防衛上、高野郡は絶対に手に入れたい土地だった
佐竹義舜が依上を奪還したのを皮切りに(依上は佐竹領だったが内乱の最中に取り上げられて白川氏に与えられていた)
義篤・義昭・義重と4代に渡って戦火を交えて来た
つまり南陸奥こそが佐竹氏本来の主戦場であり
南部は佐竹氏の意図と言うより同盟国や洞中の援軍要請に答える為に出陣している内に
北条氏の台頭で戦火が拡大していってしまったに過ぎない
0805人間七七四年2011/09/16(金) 06:58:50.89ID:oNJBA6/3
>>791
城主というか、城代、管理人的立場だったんだろうな
0806 忍法帖【Lv=17,xxxPT】 2011/09/16(金) 11:31:51.40ID:Ji2ZrEFS
なんで宇都宮国綱は関ヶ原で東軍に参加しなかったの?
旧領復帰とまではいかなくても2〜3万石の小大名として復帰できたんじゃないの?
朝鮮出兵で頑張ったのに復興できなくて疲れちゃったのかな、弟の朝勝は反東軍だけど、別に宇都宮家の為に動いていた訳じゃないみたいだし
嫁の実家の佐竹と歩調合わせてたわけでもないみたいだし、国綱が東軍で活動しても何の問題もなさそうだが
0807人間七七四年2011/09/16(金) 13:14:29.90ID:LXhs/t9e
関ヶ原当時は国綱って佐竹の客分になってたんじゃないの?
0808人間七七四年2011/09/16(金) 13:35:11.93ID:1eG0wAbk
まあ佐竹の下でうろちょろしてたから、動くに動けない感じだったんだろ。
あえて佐竹と別れて博打を打つほどの決断力も無かっただろうし。
0809人間七七四年2011/09/16(金) 13:50:21.79ID:SEHuASJy
弟二人は行動派なんだけどな
国綱は特別パッとした逸話もないし大勢に流されるイメージしかない
0810人間七七四年2011/09/16(金) 14:46:16.52ID:lhVscAqX
宇都宮は浅野の罠に掛かって改易されてから佐竹の寄騎扱いだったしね。
寄親の佐竹が明らかにしないのに、宇都宮だけで勝手に動くわけにいかなかったんだろう。
大名に復帰できないまま浅草で憤死してしまった・・・と。
弟の朝勝が秋田でちゃっかり文化人ライフを楽しんだのとは対照的だ。
0811人間七七四年2011/09/16(金) 21:48:07.76ID:XWLuFenW
>>810
朝勝は西軍側として活動してたんだけど
何もしなかった国綱は浪人で西軍側についた朝勝は久保田藩の十二大将 という家中14位ぐらいの扱いになった皮肉
でも恐らく国綱は相馬氏のように江戸で大名復帰運動してたのではないかと思う
0812人間七七四年2011/09/17(土) 07:33:09.51ID:LDt4c5ja
>>801

阪神時代の江夏、国鉄時代の金田みたいな存在か?
0813人間七七四年2011/09/17(土) 07:36:47.08ID:LDt4c5ja
>>804

> 南部は佐竹氏の意図と言うより同盟国や洞中の援軍要請に答える為に出陣している内に
> 北条氏の台頭で戦火が拡大していってしまったに過ぎない


佐竹と後北条の会戦が数回あるが、どれも佐竹が判定負けという感じでいいの?
0814人間七七四年2011/09/17(土) 08:51:29.56ID:hg6su80K
元亀三年の多功ヶ原合戦で佐竹・宇都宮らが北条を破ってるのは
北条大好き黒田基樹ですら認めてるよ
0815人間七七四年2011/09/17(土) 13:24:56.65ID:eKYvuqI3
>>811
同母弟の朝勝・高武がよりによって上杉傘下で戦ってるからな
信頼的に無理だろ
0816人間七七四年2011/09/17(土) 13:49:35.94ID:WGQoRiQv
那須の話なんだが大田原資清はいつ娘を那須政資の正室にさせたんだろう。

追放中の身分で那須の正室に娘を押し込めるとは思えないから追放前(1518年以前)か復帰後(1542年以後)のどちらかか?
0817人間七七四年2011/09/18(日) 03:00:54.77ID:YL9NFHfX
追放前だろうね
追放後だと年齢的に少し無理がある
0818人間七七四年2011/09/18(日) 05:00:48.31ID:mhETDW9l
あの辺の大名、基本的に姻戚や同盟でつるんでるわけだしさ、
ガッと連合して、関が原の戦いとかで背後から家康襲えば一発逆転あったね

天下取った後は、連立内閣みたいで幕府やれそうな気がする
0819人間七七四年2011/09/18(日) 12:17:40.98ID:1iywi3o4
資晴の事も考えると確かに復帰後はちょっとキツイな。

政資の長男であるはずの高資が実力行使で家督を奪いに行ったのも既に資胤が居たからと考えたほうが自然。
0820人間七七四年2011/09/18(日) 14:04:34.57ID:AkRnbrvk
>>818
連合体は弱いから無理
それぞれ独立勢力だしお互いの利害が絡むから簡単に結束が崩れる
対北条戦でも対伊達戦でも結局それで決定力に欠けた
0821人間七七四年2011/09/18(日) 14:46:37.61ID:yLI8rgU/
>>818
そもそも佐竹領内は例の「南方三十三館の仕置き」の余波が未だ続いており、
南方三十三館の残党があの時期ですら策動し、何かあれば東軍と結んで反佐竹行動を取る気
満々だった。

そんなだから佐竹は国境の外に出ることすら不可能だっただろう。
0822人間七七四年2011/09/18(日) 20:50:15.68ID:x0epvpuv
そもそも西軍につくと言う発想がない
真田と同じで佐竹にも何の相談もなかったから三成挙兵は義宣にとっても寝耳に水
単なる上杉討伐だと思っていた
だから先鋒の須田盛秀らは既に上杉領へ進入していたし
須田氏や葦名盛重らを先鋒にしている事からして、葦名家や二階堂家の復興を目指していたのだろうと思われる
そんな時に三成挙兵の急報が届き、佐竹家中は動揺した
取り敢えず先鋒を赤館で留めて軍議を開いたが、石田と徳川のどちらが「豊臣軍」なのか判断に迷った
義久らは断固徳川支持を主張したが、西軍に人質を取られている事や義宣が乗り気じゃなかった事などで
結局は消極的徳川支持という形になった
初めから徳川と戦う事なんて想定していなかったから、その準備もなかったし
西軍参加は無理なんだよ
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