【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 02:02:05ID:DVvJduHN常陸・下野の戦国時代を語りましょう
0723人間七七四年
2011/06/16(木) 21:20:21.88ID:vtDZZiQi0724人間七七四年
2011/06/16(木) 23:05:50.46ID:PzT6wAUX国綱は凡庸な人物だったが弟の朝勝と高武は過激な人物であったようだ
特に高武は、浅野の懐柔作に国綱が従おうとした事に激怒し
親浅野派だった重臣の北條松庵と今泉高光を次々殺害した事で浅野を怒らせて改易に追い込まれた
と言うのが通説
0725人間七七四年
2011/06/18(土) 18:55:05.55ID:ciq9Lx/vその過激さを危ぶまれた一面も、
あるのかな
0726人間七七四年
2011/06/19(日) 01:41:37.72ID:jTPnuKZMこの説だと、朝勝が豊臣政権に対して内心不満を持っていて豊臣シンパとみなされた北條松庵や今泉高光が殺害されたと言う説明も可能だと思う。
0727人間七七四年
2011/06/21(火) 08:42:06.64ID:S2aroYR+宇都宮には何も出来なかったことを、
逆恨みしてるのか?
那須の領土でも狙ってたとか
0728人間七七四年
2011/06/21(火) 08:59:22.82ID:m/IXOjoB0730人間七七四年
2011/06/22(水) 08:13:24.33ID:H4M3jQOv0731人間七七四年
2011/06/24(金) 00:32:38.25ID:yaMBmISc塩谷郡は宇都宮氏、塩谷氏、喜連川足利氏、蔵入地に分割。
壬生領は徳川氏、結城氏、宇都宮氏、蔵入地で分割。大半は結城へ。
壬生を元宇都宮一族とすれば、喪失した事になるな。
0732人間七七四年
2011/06/24(金) 08:04:33.85ID:tukVw2jJ旧壬生領、
確かにこの辺りに芳賀らの不満の種はありそうだ
0733人間七七四年
2011/06/24(金) 11:45:56.98ID:8cE1YhkW基本的には武茂氏や笠間氏と同じ宇都宮一門で洞中に属していたが
小田原征伐辺りからは笠間氏同様に良く分からない
他には那須七騎の一部が与力として宇都宮氏に付けられてはいたようだね
佐竹氏や結城氏は大幅に領地を加増されたのに宇都宮氏は微妙
外交いまいち上手くいってなかったのかもしれない
国綱や今泉・北條らが浅野長吉の養子の件をのんだのは単に押し付けられただけではなく
少しでも外交的優位を得たい思惑があって宇都宮氏の方も望んでいたのではなかろうか
0734人間七七四年
2011/06/24(金) 19:02:14.72ID:IhD/z0qxいつごろから完全な佐竹配下になったのですか?
その理由としてなにか明確なものがあるのでしょうか。
0735人間七七四年
2011/06/24(金) 22:43:49.33ID:RTNHZ4No0736人間七七四年
2011/06/25(土) 05:33:08.55ID:HQrG7jBu宇都宮がグダクダになったあたりだよ。
佐竹は義昭のころかな?
宇都宮の跡取りがどうので揉めて、
ムモマツノで佐竹の軍勢を借りて宇都宮宗家奪還してなかったか。
0738人間七七四年
2011/06/25(土) 14:48:10.66ID:p4dJeh+I旗頭の那須氏と旗下筆頭の伊王野氏は没落したけど
0739人間七七四年
2011/06/25(土) 23:33:52.66ID:NDmz+FD7後々全員まとめて戊辰戦争であっさり新政府軍に付いたから大失敗だった訳だが。
0740人間七七四年
2011/06/25(土) 23:59:57.07ID:p4dJeh+I大田原城は旧幕軍に攻められて結構激戦になったんだよな
そういや、大田原や黒羽は一応陣屋なんだよね
どう見ても城だけど
0741人間七七四年
2011/06/26(日) 20:49:21.12ID:s7m1tUw+おかげで活躍して2万石の小藩なのに戦功賞典で1万5000石貰ってる。
0742人間七七四年
2011/06/27(月) 11:27:09.43ID:jDki5R4q0743人間七七四年
2011/06/27(月) 12:35:54.41ID:04yBWsyp実質他家に乗っ取られるなら、旗本や大名の家老になった方がマシという考えもある。
0744人間七七四年
2011/06/27(月) 13:05:55.71ID:PRR64ZgX0745人間七七四年
2011/06/27(月) 13:32:46.14ID:B4dCQWjO男性血統が残ってると、なぜか萌えるよね
0746人間七七四年
2011/06/27(月) 18:46:52.74ID:SP6WZ+GQって何者?
越後毛利?後北条?鎌倉北条?
0748人間七七四年
2011/06/27(月) 22:20:37.33ID:+VirXYL2宇都宮の被官だね。
被官といっても芳賀氏同様に宇都宮家の家老のようなことをしてたくらい
宇都宮家に近い。
0749人間七七四年
2011/06/28(火) 16:24:19.61ID:ZfWVe9gn1949年、25歳の頃に捕まって14年間服役、1963年に39歳で釈放、1971年に冤罪発覚じゃ結婚も養子縁組も難しかっただろうし
冤罪が原因で名門那須氏断絶とか悲惨すぎる
0750人間七七四年
2011/06/28(火) 17:37:07.25ID:Dn/UUCb4家督自体ははどうなんだろうね
0751人間七七四年
2011/06/28(火) 21:45:00.83ID:ttpl5MMA0752人間七七四年
2011/06/29(水) 11:14:43.25ID:dtfMXvSP0755人間七七四年
2011/07/02(土) 05:28:38.65ID:MLQu8W0t0756人間七七四年
2011/07/03(日) 14:13:45.21ID:ZigRrlq1一応、那須隆氏は釈放後結婚してる
子息がいるかは不明(喪主は奥様だし)
ただし妹夫婦や甥が支援者の中心としていたから、養子に迎えている可能性はある
0757人間七七四年
2011/07/04(月) 09:57:55.42ID:wG5wM1xm0758人間七七四年
2011/07/07(木) 17:27:00.65ID:5l2hoWuh日本の場合、血筋より家重視だから特に問題は無い
そもそも婿養子貰っても家付正室に子が生まれず側室腹が継ぐ方が遥かに多いし
上杉鷹山の様に側室も一族出身の者はかなり珍しい
0759人間七七四年
2011/07/07(木) 17:56:48.46ID:JFfZ64h6全く血縁がない場合は少ない
0760人間七七四年
2011/07/07(木) 20:24:01.87ID:W1VrTa170761人間七七四年
2011/07/07(木) 20:32:36.29ID:Jq7R90zB0762人間七七四年
2011/07/07(木) 22:27:01.35ID:5l2hoWuh交代寄合初代の資弥は青木氏出身だが恐らく血縁無い
その後津軽・佐竹からも入ってるが一代止まりで本庄松平出身の資穀入りその血が明治迎えたと記憶しているがその後養子入ってたっけ
0763人間七七四年
2011/07/07(木) 23:30:27.53ID:J0h1SfJB青木氏の系図がよく分からないけど
青木氏と血縁がなければ那須氏の血は一滴も受け継いでないっぽいね
さすがにここまで中身が入れ替わってるのは珍しいかも
0764人間七七四年
2011/07/09(土) 16:52:07.79ID:kB6ZFcXo居なかったら小田原まで宇都宮持たなかったんじゃないのかってぐらい。
0765人間七七四年
2011/07/09(土) 20:23:55.22ID:hKYMP0Y4必然的に先陣を務める場合が多かったろうし
0766人間七七四年
2011/07/12(火) 17:41:04.80ID:nAmXOrzMこんなタイプは見た事ない
0767人間七七四年
2011/07/14(木) 21:04:33.10ID:wc0IVLE7鎌倉北条ってことか
0768人間七七四年
2011/07/14(木) 21:55:14.40ID:kVhc8I7b蜂須賀氏かな
中身はもはや徳川の親藩同然で別物なのに
相変わらず盗賊の子孫扱いうけちゃったという
0769人間七七四年
2011/07/15(金) 00:29:20.56ID:skTo8iVN0770人間七七四年
2011/07/15(金) 15:21:10.21ID:wX3i0jRfhttp://beebee2see.appspot.com/i/azuY28qfBAw.jpg
http://beebee2see.appspot.com/i/azuYmdqfBAw.jpg
0771人間七七四年
2011/07/15(金) 16:41:36.73ID:KruNZo960773人間七七四年
2011/07/21(木) 01:18:21.48ID:6ETt6MrP見れんw
0774人間七七四年
2011/07/23(土) 07:42:52.45ID:IJkm3F8Sどんな一大事でもとにかく兵が集まらない。
0775人間七七四年
2011/07/25(月) 20:59:36.30ID:CzbPzyIDhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110725-00000026-san-l09
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110723-00000056-mailo-l09
1550年代の蓮の種は、紅色の蓮。
1590年代以降の蓮の種は、緑色の蓮らしい。
つまり・・・浅野が宇都宮氏時代の蓮を取っ払って
別の蓮を植えたんだろうな。
どんだけゲスなんだよ。
0776人間七七四年
2011/07/26(火) 14:54:17.42ID:0/qYNJ8Bどこにも突然鼻の色が変化したなんて書かれておらんぞ?
単純に気候や環境の変化によって植生が変わったんだろ。
よくそこまで短絡的に陰謀論に結び付けられるもんだ。
0777人間七七四年
2011/07/26(火) 20:26:05.89ID:PUpNa8CSこの記事には無いけど
蓮の種が発見された時(1年ぐらい前か)、放射線量の化学分析をした上で
1590年代以降には別の蓮に変わってたという記事があったんだよ
お前こそ事情も知らないくせに知ったような口きくなって。
0778人間七七四年
2011/07/27(水) 15:50:15.29ID:SuvSGyGT浅野の陰謀を安直にむすびつけるな
と、いいたいのでは。その辺を理解する読解力がない人の
「つまり…」というのあてにならないよね
0779人間七七四年
2011/07/27(水) 19:37:25.65ID:f4f5je9Z宇都宮氏改易後、宇都宮城と城下町は大改修されてる。
まあ浅野氏ではなく蒲生氏の可能性もあるけどな。
日野町とかは蒲生氏の出身地から名付けられた。
土塁や水堀まで織豊系の縄張りに改めてる時期に、ちょうど蓮も変わってるんだから、
どちらかと言えば人為的な変化と考えるのが自然。
城の植物は、一種のシンボル的なものでもあるからな。
その辺の道端のタンポポが在来種から外来種に変わったとかいうレベルの話じゃねえんだよw
0780人間七七四年
2011/07/27(水) 19:55:33.14ID:Gb/IrSc2在来の城の大改修しなかった大名なんて存在しないだろ。
その中で、浅野だけが特別にゲスだと言える理由って何か挙げられるの?
0781人間七七四年
2011/07/27(水) 20:02:21.82ID:SuvSGyGT779さんむきにならないでね
それなりにへ〜と思える情報もアップしてるんだから
0782人間七七四年
2011/07/27(水) 21:23:45.92ID:f4f5je9Z大改修した事自体は別に何も。
権力を恣意的に使って改易し(たとされている)、相手の居城の種を立ち斬ろう
としたのが浅野氏だったら尚更に陰険ですね。って話。
蓮だけに限らず、改易の後に宇都宮氏関係の神社仏閣も幾つか廃社廃寺になってるしな
>>781
778みたいな挑発的なレスを棚に上げて、何取り繕おうとしてんだよ。お前が言うなw
ニートって本当に虫が良いんだな
0784人間七七四年
2011/07/27(水) 22:08:41.16ID:f4f5je9Zつーか775は俺なんだが。
成り済ましかよ。
ま、たぶん776と書きたかったんだろうけどな。
この流れの教訓をID:SuvSGyGT風に言えば
ろくに知らない事を安直に断定するな(キリッ
0785人間七七四年
2011/07/29(金) 00:28:14.38ID:i+aSVXi40786人間七七四年
2011/07/30(土) 17:11:00.23ID:0BGyQmWiイメージが強いからね
大軍で那須を攻め奇襲で惨敗、壬生にプレッシャーかけられ
水谷が火事泥棒のように南部を侵攻…
0787人間七七四年
2011/07/30(土) 18:01:10.44ID:gd4zhJdu実際に蓮の品種が変わったのは人為的なものだろうな。
もっとも、嫌がらせとかそんな目的ではないだろうが。
0788人間七七四年
2011/07/30(土) 20:08:18.00ID:HkL5D/QP0789人間七七四年
2011/08/03(水) 08:29:25.99ID:NgUPKGjs佐竹では石田
中央との取り次ぎ役が違うのに、
寄騎の関係になることに違和感を感じる
0790人間七七四年
2011/08/03(水) 11:25:25.28ID:gDPbxW+r小田原征伐の時に常陸南部や下野南部は佐竹、宇都宮、結城、由良など に分配されたが
この配分には石田と浅野の政争があったんだろうな
0791人間七七四年
2011/08/18(木) 09:50:25.77ID:NbwgiJ+h宇都宮城主に1年間だけ浅野がなってたけどマジ?
0792人間七七四年
2011/09/07(水) 16:38:10.26ID:4sNAOIY2分断させようとしてたのか?豊臣政権は。
徳川を仮想的国とするなら、
得策ではないと思うが。
0794人間七七四年
2011/09/07(水) 21:56:32.00ID:sVxnDabj弟達や那須との関係みるにどちらにせよ西軍で没落な気もするが
0795人間七七四年
2011/09/07(水) 23:27:38.81ID:oEkgQhWC0796人間七七四年
2011/09/13(火) 21:27:27.53ID:AISutj1e0797人間七七四年
2011/09/14(水) 19:08:40.80ID:8oArfRfE関東での戦いに興味が無かったのかな。
0798人間七七四年
2011/09/14(水) 19:44:19.38ID:uaI/EiUr後北条が強すぎ。
宇都宮とは婚姻結んでるし北条とガチンコするには実力足りないし
0800人間七七四年
2011/09/14(水) 20:42:10.80ID:8oArfRfEそんな理由で目を付けられた白河結城氏や岩城氏が悲しい。
0801人間七七四年
2011/09/14(水) 20:54:54.78ID:7NTrY9XG0802人間七七四年
2011/09/15(木) 10:54:56.29ID:4zbgTQGD例年の横浜ベイスターズのような奴ら。
0803人間七七四年
2011/09/15(木) 22:30:58.42ID:Qm2DhDXO夜中に目が覚めたら鋤鍬持った領民が布団を囲んでた、
なんてことになりかねんw
0804人間七七四年
2011/09/16(金) 00:19:28.75ID:UKVGD+oz関東は物理的に無理
東は海で西は那須氏・宇都宮氏などの同盟国がある
南は真壁氏・大掾氏・江戸氏・太田氏などの洞中領主が小田方などの勢力と戦って領地を広げているから邪魔する訳にはいかない
だから彼らの後詰めが佐竹氏の役目だった
さらにその外には結城氏・小山氏・佐野氏・簗田氏などがいて、彼らとも協調関係にあったりした
だから佐竹氏が南下するとなると遥か武蔵の方まで攻めて飛び地を獲るしかないけど当然そんなのは現実的ではない
逆に南陸奥の白川氏などとは領地を接している
室町時代には依上(大子町)まで白川氏が進出して来ており佐竹氏とは100年来の仇敵だった
とりわけ白川氏の領する高野郡は常陸口の要所で南陸奥の街道が交わり
依上や東館(矢祭町)から常陸太田へ直行する事が出来る
実際、戦国時代初期頃に南陸奥連合に攻められて常陸国内(里美村)まで進入されて窮地に陥った事がある
だから佐竹領の防衛上、高野郡は絶対に手に入れたい土地だった
佐竹義舜が依上を奪還したのを皮切りに(依上は佐竹領だったが内乱の最中に取り上げられて白川氏に与えられていた)
義篤・義昭・義重と4代に渡って戦火を交えて来た
つまり南陸奥こそが佐竹氏本来の主戦場であり
南部は佐竹氏の意図と言うより同盟国や洞中の援軍要請に答える為に出陣している内に
北条氏の台頭で戦火が拡大していってしまったに過ぎない
旧領復帰とまではいかなくても2〜3万石の小大名として復帰できたんじゃないの?
朝鮮出兵で頑張ったのに復興できなくて疲れちゃったのかな、弟の朝勝は反東軍だけど、別に宇都宮家の為に動いていた訳じゃないみたいだし
嫁の実家の佐竹と歩調合わせてたわけでもないみたいだし、国綱が東軍で活動しても何の問題もなさそうだが
0807人間七七四年
2011/09/16(金) 13:14:29.90ID:LXhs/t9e0808人間七七四年
2011/09/16(金) 13:35:11.93ID:1eG0wAbkあえて佐竹と別れて博打を打つほどの決断力も無かっただろうし。
0809人間七七四年
2011/09/16(金) 13:50:21.79ID:SEHuASJy国綱は特別パッとした逸話もないし大勢に流されるイメージしかない
0810人間七七四年
2011/09/16(金) 14:46:16.52ID:lhVscAqX寄親の佐竹が明らかにしないのに、宇都宮だけで勝手に動くわけにいかなかったんだろう。
大名に復帰できないまま浅草で憤死してしまった・・・と。
弟の朝勝が秋田でちゃっかり文化人ライフを楽しんだのとは対照的だ。
0811人間七七四年
2011/09/16(金) 21:48:07.76ID:XWLuFenW朝勝は西軍側として活動してたんだけど
何もしなかった国綱は浪人で西軍側についた朝勝は久保田藩の十二大将 という家中14位ぐらいの扱いになった皮肉
でも恐らく国綱は相馬氏のように江戸で大名復帰運動してたのではないかと思う
0812人間七七四年
2011/09/17(土) 07:33:09.51ID:LDt4c5ja阪神時代の江夏、国鉄時代の金田みたいな存在か?
0813人間七七四年
2011/09/17(土) 07:36:47.08ID:LDt4c5ja> 南部は佐竹氏の意図と言うより同盟国や洞中の援軍要請に答える為に出陣している内に
> 北条氏の台頭で戦火が拡大していってしまったに過ぎない
佐竹と後北条の会戦が数回あるが、どれも佐竹が判定負けという感じでいいの?
0814人間七七四年
2011/09/17(土) 08:51:29.56ID:hg6su80K北条大好き黒田基樹ですら認めてるよ
0815人間七七四年
2011/09/17(土) 13:24:56.65ID:eKYvuqI3同母弟の朝勝・高武がよりによって上杉傘下で戦ってるからな
信頼的に無理だろ
0816人間七七四年
2011/09/17(土) 13:49:35.94ID:WGQoRiQv追放中の身分で那須の正室に娘を押し込めるとは思えないから追放前(1518年以前)か復帰後(1542年以後)のどちらかか?
0817人間七七四年
2011/09/18(日) 03:00:54.77ID:YL9NFHfX追放後だと年齢的に少し無理がある
0818人間七七四年
2011/09/18(日) 05:00:48.31ID:mhETDW9lガッと連合して、関が原の戦いとかで背後から家康襲えば一発逆転あったね
天下取った後は、連立内閣みたいで幕府やれそうな気がする
0819人間七七四年
2011/09/18(日) 12:17:40.98ID:1iywi3o4政資の長男であるはずの高資が実力行使で家督を奪いに行ったのも既に資胤が居たからと考えたほうが自然。
0820人間七七四年
2011/09/18(日) 14:04:34.57ID:AkRnbrvk連合体は弱いから無理
それぞれ独立勢力だしお互いの利害が絡むから簡単に結束が崩れる
対北条戦でも対伊達戦でも結局それで決定力に欠けた
0821人間七七四年
2011/09/18(日) 14:46:37.61ID:yLI8rgU/そもそも佐竹領内は例の「南方三十三館の仕置き」の余波が未だ続いており、
南方三十三館の残党があの時期ですら策動し、何かあれば東軍と結んで反佐竹行動を取る気
満々だった。
そんなだから佐竹は国境の外に出ることすら不可能だっただろう。
0822人間七七四年
2011/09/18(日) 20:50:15.68ID:x0epvpuv真田と同じで佐竹にも何の相談もなかったから三成挙兵は義宣にとっても寝耳に水
単なる上杉討伐だと思っていた
だから先鋒の須田盛秀らは既に上杉領へ進入していたし
須田氏や葦名盛重らを先鋒にしている事からして、葦名家や二階堂家の復興を目指していたのだろうと思われる
そんな時に三成挙兵の急報が届き、佐竹家中は動揺した
取り敢えず先鋒を赤館で留めて軍議を開いたが、石田と徳川のどちらが「豊臣軍」なのか判断に迷った
義久らは断固徳川支持を主張したが、西軍に人質を取られている事や義宣が乗り気じゃなかった事などで
結局は消極的徳川支持という形になった
初めから徳川と戦う事なんて想定していなかったから、その準備もなかったし
西軍参加は無理なんだよ
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