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【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/21(月) 02:02:05ID:DVvJduHN
大国に囲まれながら中小勢力がしぶとく割拠し続けた
常陸・下野の戦国時代を語りましょう
0556人間七七四年2010/10/06(水) 20:51:53ID:Yl7H5EEi
人質については大きく二つありますな

・佐野勢にみせしめとして殺した(北条系の資料にあったはず)

・解放され無事だった

山上道牛が北条勢にいるような記実があることから前者は信じられてませんがね

佐野記の通りでしょうね


しかし佐野記は合戦の記述少ない…昌綱なんて永禄2年の北条の攻撃と死んだことしか書かれてないし……何故なんだ!!

唐沢軍談とかも同じような内容なのだろうか?
0557人間七七四年2010/10/06(水) 20:54:55ID:Yl7H5EEi
>>555


くら替え家臣の話しだたwwww

岩崎系文書には殺されたとありますが、多くの(あまりいないけど)郷土史家は佐野記の記述などを信用してるようですお
0558人間七七四年2010/10/07(木) 02:37:58ID:TcH0BkKG
>>547
三楽犬ハァハァ
0559人間七七四年2010/10/26(火) 15:46:51ID:m/S4Qt8I
宇都宮氏
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1069064209/
0560人間七七四年2010/10/28(木) 17:20:10ID:iUyXmt9k
>>559
落ちてる
0561人間七七四年2010/11/01(月) 01:42:12ID:cF1+AoZa
8回許して9回目に討伐じゃなかったけ
0562人間七七四年2010/11/03(水) 15:28:20ID:4QsvZuEv
天庵公について詳しいサイトを見つけた。
ttp://www.rekishi.sagami.in/tukuba.html

>小田氏治は30万石〜40万石を領していたと推測される
まじかよ…
0563人間七七四年2010/11/03(水) 15:44:07ID:C26UF64p
>>562
そりゃ大きいと思う。
里見氏が上総大半と安房一国で40万石弱と言う説が過大評価あつかいされているのに。
0564人間七七四年2010/11/06(土) 15:12:37ID:LhqxXXD/
その石高の根拠が書いてないねえ。
0565人間七七四年2010/11/07(日) 08:51:58ID:R1KndYgX
>>548
久幹や氏幹というかそもそも真壁氏の存在すら一般的にはそう知られてないと思う。真壁氏の元下僕と言われる平四郎は平四郎最中とかあるから少しは由来知ってる人がいるかもだけど

あと山車はその年の大河とか流行りものを演題にしてる感じなのよw
0566人間七七四年2010/11/07(日) 10:58:38ID:JqQMD9Vk
>>565
そりゃさびしい話だなあ。今度の山車は坂本龍馬かなw

別スレにも書いたけど久幹を「どーむ君」とか適当にゆるキャラ化して
真壁氏と真壁城を売り出せばいいのに。
0567人間七七四年2010/11/07(日) 13:13:55ID:yADPS1zy
旧水戸藩の地だから戦国以前の歴史を消しまくってて
郷土の英雄に対する敬意がなくなり厳しいな。
0568人間七七四年2010/11/07(日) 13:47:43ID:2+7Z09zm
>>567
どこまで無知なんだ?
0569人間七七四年2010/11/07(日) 23:22:19ID:LRL1wKD8
この水戸藩嫌いのヤツだろうけど、つくづく無知だなあ
前にもこんなことやらかしてたけど

978 :人間七七四年:2010/10/16(土) 17:41:50 ID:jfWHtVXk
みんな知らないけど水戸徳川はすごい佐竹への弾圧を二度やってるよね
生瀬殺しは有名で、にわかに佐竹を支持する程度の罪の無い百姓を600人惨殺したよね
天狗党弾圧では残党狩りで武田観柳斎の首を妻に持たせながら拷問したよね
それを忘れたの?復権って何?

981 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:14:16 ID:rwi0FBKn
武田観柳斎ってwww
なんで天狗党弾圧で「武田観柳斎」の妻が拷問されんだよ。

982 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:20:44 ID:O4v0a1PA
>天狗党弾圧では残党狩りで武田観柳斎の首を妻に持たせながら拷問したよね

佐竹と関係あるのそれ?

983 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:32:55 ID:kmKnVGS/
>>981
得意げに叩きたがるような手合いに限ってこれだもんなww
武田耕雲斎って言いたかったんだろ

984 :人間七七四年:2010/10/17(日) 01:41:51 ID:1Hij7UwS
武田耕雲斎─水戸藩士
武田観柳斎─新撰組組長

覚えとけよ?
0570人間七七四年2010/11/08(月) 04:46:16ID:m+RzIFYy
実際、水戸へ行って歴史本を見ても
佐竹の本ひとつ売ってないどころか佐竹に触れてない
江戸以降のことばかり書かれてる本ばっかで笑えた。
0571人間七七四年2010/11/08(月) 08:06:25ID:qXNq1CEf
そりゃ佐竹が水戸を本拠にしたのなんてたった10年程度だもんなw

でも川又書店の郷土史コーナーには佐竹の本売ってるだろ。
0572人間七七四年2010/11/08(月) 08:41:27ID:L9ueiz5y
水戸は佐竹というより江戸氏だろ
0573人間七七四年2010/11/08(月) 11:01:56ID:qXNq1CEf
戦国武将江戸重通をモチーフにしたゆるキャラで
水戸市の地域おこしをしようぜ。
0574人間七七四年2010/11/08(月) 14:03:51ID:eXvsV0pc
茨城県の県都が佐竹軽視な時点で終わってるんだけどな。
だから江戸も真壁もみんな知名度ない。
結局、水戸藩閥の子孫が掲示板でも必死に工作してるだけだろうね。
0575人間七七四年2010/11/08(月) 14:16:39ID:qXNq1CEf
豊臣政権に取り入って常陸全土を10年程度治めただけの
佐竹をなんで茨城県民全体がそこまでありがたがらなくてはいけないのか
問いたいね。佐竹と水戸市とはほとんどの期間直接縁がなかったんだから
軽視されても仕方がないわな。

真壁が水戸藩領でなかったことはもう気づきましたか?
0576人間七七四年2010/11/08(月) 14:25:05ID:eXvsV0pc
水戸は県都だろ。
茨城県全域を代表してるはずだ。
別に水戸以外の茨城県内の市町村に強制させろとは言ってないわ。
0577人間七七四年2010/11/08(月) 15:03:35ID:A4Tw86r4
>>576
頭大丈夫かお前?もう手遅れっぽいが。
0578人間七七四年2010/11/08(月) 15:35:59ID:xrZf+405
水戸閥の陰謀君
そりゃブログにでも書いてくれ
ここや佐竹スレを荒らさないでくれ
0579人間七七四年2010/11/09(火) 08:15:38ID:cYnr3u1f
>>575
豊臣政権下でも常陸全土ではなかったりする
小田領は結城氏へ、笠間領は宇都宮氏へ、岡見領は由良氏などへ与えられている
あと旧里美村周辺は岩城領で、県西の下総との境界付近は多賀谷領が入り込んでいる
常陸一国与えられたとか書いている本が非常に多いけど
実際は結構な範囲に抜けがある
この点を見ても人々の佐竹氏への関心の低さがうかがえる

最近、ハッスル黄門様が茨城県のキャラみたいになってきたけど
茨城を水戸藩で推してくのも無理あるよね
県南及び県西は水戸藩関係ないし
人口にすれば半分は無関係となる

>>573
それいいかも
いっそそのくらいマイナーな方がうけそうだ
地元民としてももう少し江戸氏に関心持って欲しいw
0580人間七七四年2010/11/09(火) 08:15:41ID:cYnr3u1f
>>575
豊臣政権下でも常陸全土ではなかったりする
小田領は結城氏へ、笠間領は宇都宮氏へ、岡見領は由良氏などへ与えられている
あと旧里美村周辺は岩城領で、県西の下総との境界付近は多賀谷領が入り込んでいる
常陸一国与えられたとか書いている本が非常に多いけど
実際は結構な範囲に抜けがある
この点を見ても人々の佐竹氏への関心の低さがうかがえる

最近、ハッスル黄門様が茨城県のキャラみたいになってきたけど
茨城を水戸藩で推してくのも無理あるよね
県南及び県西は水戸藩関係ないし
人口にすれば半分は無関係となる

>>573
それいいかも
いっそそのくらいマイナーな方がうけそうだ
地元民としてももう少し江戸氏に関心持って欲しいw
0581人間七七四年2010/11/09(火) 09:10:51ID:jR1Woegq
茨城全県は無理でも旧常陸部分を代表できる由緒があるものというと
鹿島神宮くらいか?

鹿島氏はもちろん、佐竹、小田、大掾、笠間、真壁と敵味方関係なしの
崇敬はあった。もっとも、今の人間は逆にそこまで重要視してはいないんだが。
0582人間七七四年2010/11/09(火) 10:11:04ID:y7kThAtc
崇敬ね。

義重は最初のうちは鹿島神宮の権威を利用して常陸に力を浸透させようとしていたが
そのうち実力が付いて来ると社領の返還を求められても無視するようになった
かなり後まで出陣の吉日を選んでもらったりはしてるのだが。
0583人間七七四年2010/11/09(火) 10:48:54ID:jR1Woegq
別に絶対的な権威として崇め奉ってたなんて言ってないがね。

鹿島神宮側もその社領を保証する権威が無い時代に生き残りをかけて権威の拡大と
見入りのいい商売にいそしむために大名たちを利用したってこと。
0584人間七七四年2010/11/09(火) 10:50:41ID:jR1Woegq
実入りだな。つか、思いついただけで別に気に入らんならいいよ。
実際、県北に住んでると鹿島はいわきとかよりも遠く感じるしな。
0585人間七七四年2010/11/09(火) 12:48:51ID:cYnr3u1f
鹿島神宮いいじゃないか
常陸の一ノ宮だし
俺は県北だけど鹿島神宮、静神社、笠間稲荷はよく初詣に行くよ
鹿島神宮は結構芸能人なんかも来るんだよね

しかし鹿行の歴史も複雑だな
0586人間七七四年2010/11/10(水) 15:32:42ID:F5u2e+XM
鹿島城址の石碑に鹿島氏の石高が三万石とあったんだが
妥当なんだろうか?
0587人間七七四年2010/11/10(水) 21:12:28ID:y2e7z1CS
>>586
鹿島氏のことは知らないが、関ヶ原の戦功で里見氏が鹿島に飛領を与えられた時は3万石とされた。
0588人間七七四年2010/11/10(水) 21:44:19ID:F5u2e+XM
どうも。
町割りは佐竹が大分いじったようだけど石高がそこまで極端に変化するわけは
ないからだいたいその規模なんだろうね。里見氏が与えられたのは
鹿島郡らしいから烟田氏等の一族領含めて三万石ってことか。
0589人間七七四年2010/11/13(土) 22:10:48ID:5b/+kkvD
>>580
細かい事ですまんが、
笠間は元から宇都宮の傘下のような。半独立状態だったのは間違いないが。
佐竹は部垂や山入を克服して戦国大名になったのに対し、
宇都宮は戦国の最後まで家臣団を統制できなかったのは非常に残念だ。
0590人間七七四年2010/11/13(土) 22:37:29ID:wrl66x6D
益子と笠間はまさに犬猿の仲
0591人間七七四年2010/11/14(日) 08:22:51ID:TNyvjW1L
那須、宇都宮も内訌に散々苦しめられたからね
佐竹、宇都宮は当主が本拠地追われていたし那須に至っては当主が何人も殺されている

最近下野の城巡りをしている
下野の城って大大名がいなかったからこじんまりしてるけど何か好きだな
常陸の城って立地からしてやる気ないんだもんw
0592人間七七四年2010/11/14(日) 19:02:54ID:qM12Dd/S
西方家が宇都宮領の西端だから西方という名乗った訳だから
宇都宮と西方の中間にある壬生は、どう考えても元は宇都宮一族(横田家の分家という説)
あるいは家臣(通字の胤から下総千葉家の分家説)だよな。
それなりの書籍ですら下級公家の下向説(笑)を採用してるの見ると呆れる。
0593人間七七四年2010/11/14(日) 23:45:29ID:TNyvjW1L
状況的に見れば宇都宮氏ゆかりの一族と見るのが自然だね
でも氏家氏なんかも出自が曖昧なんだよな
あと、武茂氏は何であんな飛び地みたいになっているのだろう
0594人間七七四年2010/11/16(火) 11:57:48ID:pw78/EnI
話ぶった切ってすみません。
みんなどうやって宇都宮家の事とか調べてるんですか?
自分ググっても『喜連川五月女坂の戦い』とか知りたくても、
満足いくような情報も調べられなくって・・・。
0595人間七七四年2010/11/16(火) 13:05:29ID:1bo331D+
>>594
栃木県史や宇都宮市史を読んではどうか
0596人間七七四年2010/11/16(火) 22:56:06ID:VNKgQwRj
下野のことはさっぱりだけど、上の人の言うとおりローカルなものから
攻めて行った方がいいと思う。もっとローカルなのが検索したら
出てきた。ただ、情報が古いかもね。

http://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000009656213.html
喜連川町史. 第6巻(通史編 1)

喜連川五月女坂の合戦  309  


それと本の検索にはこういうものをどんどん活用すべき。

県内図書館一括検索
http://www.lib.pref.tochigi.jp/soumoku/soumoku_top.htm

ぐぐっては参考文献を見つけこっちで図書館を検索の繰り返しで、
図書館行く前にかなり絞れるはず。
0597人間七七四年2010/11/17(水) 19:09:07ID:ItM1n99M
>>595
なるほど!!
そういう県史や市史から調べる手があるんですね!!

>>596
詳しく丁寧に有難う御座います!!
こういう調べ方を知らなかったので胸が高鳴っています。
次の休日は図書館にこもってしっかり調べてみます!!
0598人間七七四年2010/11/17(水) 20:16:59ID:fjTPq6/G
こういうことは調べ方がわかってくると面白すぎて中々抜けられなくなるよw
といいつつ…

http://www.iwata-shoin.co.jp/local/database/32.htm
中央図書館を使うなら、県史・市史に加えてこういう県史研究なんかも置いてあるはずだから
利用してもいいかと。中には自分の知りたい合戦や人物なんかをピンポイントで特集している
記事もあるかもしれない。

あと、見過ごしがちだけど「大日本地名辞書」や日本歴史地名体系の「栃木県の地名」とかは単なる地名研究に留まらず
歴史研究のガイドラインにもなるはず。ただ、「大日本地名辞書」は吉田東伍の独自研究の面も強いので少し注意が
必要かもしれない。

ネットだとこういうのも後々何かの手がかりになるかな?

栃木県立図書館レファレンス事例
http://www.lib.pref.tochigi.jp/reference_ex/r_top.htm
0599人間七七四年2010/11/19(金) 15:35:50ID:KRHDF7UP
小山家の現在の当主(ご老人)は、小山在住らしい。
0600人間七七四年2010/11/19(金) 15:51:29ID:XbrbRRNO
格闘家の岡見勇信はあの岡見氏の流れなのかな?
0601人間七七四年2010/11/20(土) 13:48:57ID:4+55O8UO
>>562
『小田家風記』によると「土浦城主 菅谷摂津守 七万八千石」をはじめ
一万石越えの小田家一門や配下武将がゴロゴロしてることになっている。

ただ、あまり信用に足る内容とは思えんw
0602人間七七四年2010/11/20(土) 13:51:16ID:4+55O8UO
検索したら出てきたw

ttp://www.asahi-net.or.jp/~ku4t-tkhm/odaichimonkafuutype2.html
0603人間七七四年2010/11/20(土) 20:24:53ID:di3YODt5
小田は15万石ぐらいではないだろうか?どうだろう。
0604人間七七四年2010/11/20(土) 23:41:58ID:riFjYvBc
ttp://yamaguti.ddo.jp/show?page=72

かなり時代は遡るが
0605人間七七四年2010/11/20(土) 23:58:47ID:P5Igpy9O
小田氏(洞含む)の最盛期は大まかに見て
つくば市、土浦市、八郷町、牛久市、かすみがうら町、千代田町、石下町、
水海道市、明野町、茎崎町、伊奈町、谷和原村、藤代町、新治村、岩井町
辺りだから15〜20万石ぐらいだと思う
0606人間七七四年2010/11/21(日) 11:14:00ID:rqYdfxk1
氏治時代はどの程度だったんだろう。
軍記物でしか知らなくて申し訳ないが、既に氏治の前の政治時代から
合戦で負け込んできてるから、既に最盛期ではないような。
0607人間七七四年2010/11/21(日) 11:18:23ID:djmKJfZM
小田氏は石高以上に、霞ヶ浦交易の利潤が大きかった感じがする。
0608人間七七四年2010/11/21(日) 13:59:53ID:fY7QMgUw
それはどうだろうな。基本的に大名は年貢を取っているだけなので、
霞ヶ浦の利潤が大きくても、大名の収入に直結するわけではないんだ。
役銭なども、守護大名程度の権力しか持たなかった小田が、
はたしてどこまで強制力を以って徴収できたか非常に疑問。
似たような話で武田の金山経営なんていわれるけど、実際には、金山を経営していたのは
金山衆という「企業」で、武田は税金を賦課して軍役に従事させるだけだったりする。
佐竹の場合には、義宣が金山への業務に関する命令を出している文書があるので、
少なくとも豊臣期には佐竹の所有物だった可能性が高いが、実際に掘っている人夫達と
どういう契約を以って採掘採集を行わせていたのかまではよく分からない。
0609人間七七四年2010/11/22(月) 08:11:59ID:d13zg9ab
そういや小田氏や大掾氏も守護と同程度の課税権を幕府に認められていたんだっけ
常陸国は佐竹氏、大掾氏、小田氏の三頭体制だったとか
0610人間七七四年2010/11/23(火) 13:21:28ID:1C21UKU1
>>609
それだけじゃなく守護に従う必要のない鎌倉公方・幕府の奉公衆がわらわらいるからなあ。
常陸はそんな複雑怪奇な支配非支配関係が戦国末期くらいまで続く。
0611人間七七四年2010/11/23(火) 14:53:59ID:bXOEg4rX
結城の乱で幕府や関東管領に反旗を翻して滅亡した者達の子の功を賞賛して
やたら関東管領と対立した足利成氏公。
だがこの対立軸が関東管領と古河公方の利根川対立ラインを形成し
関東管領の謙信の関宿城攻防でも歴史的対立が影響を与えたと言える。
そもそも関東管領主催下での彼らの序列化は微妙過ぎる問題。
0612人間七七四年2010/12/04(土) 00:04:20ID:A3jpgWCs
二重三重支配で戦乱起こらないほうが不思議だわな
0613人間七七四年2010/12/04(土) 01:05:54ID:KGfwYQp6
>>612
しかし平和なときはそれも安定剤の役割を果たしていたんだぜ
0614人間七七四年2010/12/04(土) 02:36:03ID:2Gq+RO6X
中世はそんなところがあるなあ。

棲み分けというか共存共栄の妥協というか。

共倒れを防ぐ生活の知恵かも。
0615人間七七四年2010/12/04(土) 09:46:21ID:rYPytEYc
関東副将軍里見参上!
0616人間七七四年2010/12/14(火) 01:05:37ID:xdqN2PnT
不屈の返り忠、佐野昌綱参上!
0617人間七七四年2010/12/16(木) 15:08:51ID:bL4GlnUs
宇都宮家が関ヶ原まで存在したら
どちら側についたんだろう
0618人間七七四年2010/12/16(木) 15:32:53ID:GRQpe+9f
>>617

地理的に徳川とはケンカしたくないから東軍についたと思う。
0619人間七七四年2010/12/16(木) 16:38:07ID:NxzU8Gfu
うまく行けば佐竹を潰すチャンスだしな
0620人間七七四年2010/12/16(木) 19:30:42ID:xl0fXxK5
宇都宮家にとって佐竹って何だったんだろうな。
佐竹側の創作によくあるような盟友なのか?
北条という強力な外敵の前でかろうじて同盟してただけか。
0621人間七七四年2010/12/16(木) 19:39:28ID:jxJEyb+c
仲は良くも悪くもない(どちらかというと良い)という感じだろうか。
0622人間七七四年2010/12/16(木) 19:40:47ID:jxJEyb+c
>>619

関が原の頃になると、たいていの大名は所領安堵で生き残るだけで満足していたようにも思う。
0623人間七七四年2010/12/16(木) 19:55:28ID:pJOLyho4
>>620
宇都宮氏庶流からしたら盟友
0624人間七七四年2010/12/16(木) 21:54:32ID:hymCl0X/
義重の姉妹が宇都宮に嫁いで
その子が結城の養子に入ってたよな〜。
秀康に結城当主を奪われた関係もあり
関ヶ原ではその子が白河で上杉と佐竹の連絡係
0625人間七七四年2010/12/18(土) 19:07:27ID:oVA44UOc
>>532
県知事よ。
0626人間七七四年2010/12/18(土) 19:22:41ID:m/7tdzrI
佐竹分家は県知事になった。

ただ、あそこは分家といっても御一門衆と重臣を兼任しているような形態。
0627人間七七四年2010/12/19(日) 12:59:46ID:u9AfBOKS
宇都宮は佐竹の与力みたいな扱いだし、岩城らと同じ運命だろ。
実際弟どもが上杉に与しているし
0628月孔雀2010/12/19(日) 13:31:00ID:WsS39nC3
茨城と下野は、言葉も東北に似ていて、
文化的に関東と東北の中間のように感じます。
0629月孔雀2010/12/19(日) 13:32:05ID:WsS39nC3
常陸と下野か、茨城と栃木でした^^;
0630人間七七四年2010/12/19(日) 13:36:30ID:vTXG1r1b
改易された大友義統も義宣の水戸に預けられたように佐竹って流された人の行き着く終着駅感が激しい。
0631人間七七四年2010/12/19(日) 18:13:19ID:oVXwgV9Q
佐竹は日本一古い大名でしょ。平家時代からだから。
0632人間七七四年2010/12/19(日) 18:46:44ID:Y3eZR4A8
平家時代?
0633人間七七四年2010/12/25(土) 20:44:22ID:eq4xQsUO
九州と四国と栃木の宇都宮氏はぜんぶ秀吉に改易されたんだっけ?
0634人間七七四年2010/12/26(日) 22:36:26ID:xPv8PSJi
>>631
でも、途中で上杉から養子を入れたから、一番古いのは相良じゃないかな?
0635人間七七四年2010/12/26(日) 23:42:42ID:uqoGHCGd
時々佐竹関連スレにはこういう人が沸くが
なぜ養子を入れると佐竹が断絶してることになるのか、意味不明。
0636人間七七四年2010/12/27(月) 01:17:44ID:0ke0GfBz
大友家辺りも、元寇の乱で出兵してたよね
0637人間七七四年2010/12/28(火) 21:29:12ID:SOASEfOn
>>635
たしかに。ちゃんと血は繋がっているし
古い「大名」って言ってるんだから、あくまで
「血」ではなく「家」が対象なのに
0638人間七七四年2010/12/28(火) 22:18:20ID:ozPPXdd8
>>637
こういうやつが増えたのは
天皇の跡継ぎの議論で男系だの女系だの議論があってネットのごく一部が盛り上がったからだろうね。
佐竹にとってはとんだとばっちりだ。
0639人間七七四年2010/12/28(火) 23:37:10ID:xFQNDson
>>18
千本、伊王野、大金氏あたりは国人だろう
0640人間七七四年2011/01/06(木) 17:49:57ID:0lv6m2sQ
下野は地味だよなー
0641人間七七四年2011/01/06(木) 17:58:12ID:oWbV62jI
下野って、那須(+七騎)、宇都宮、佐野位しか分からん。
0642人間七七四年2011/01/06(木) 20:22:12ID:RZ5HcgOf
せめて小山氏は思い出して…
0643人間七七四年2011/01/06(木) 23:27:56ID:ypI8YHg2
佐野、皆川、壬生、長尾、茂木…いっぱいいるじゃない
0644人間七七四年2011/01/08(土) 00:18:56ID:fyvEvF8z
そいつらは戦国大名と呼べるのか
0645人間七七四年2011/01/08(土) 12:17:34ID:FmNMWnTb
それを言うと佐竹、宇都宮、那須、小山、結城、小田、大掾なども戦国大名とは言い難いけど
0646人間七七四年2011/01/08(土) 12:23:38ID:fyvEvF8z
まぁ北関東以北は全体的にそうだな
0647人間七七四年2011/01/09(日) 13:03:45ID:II+M/LWC
いや佐竹氏は立派な戦国大名でしょ
0648人間七七四年2011/01/09(日) 14:48:22ID:5nRkvwoP
最終的にはしっかり戦国大名への進化は果たしたな。
0649人間七七四年2011/01/09(日) 15:32:17ID:0Yfu7JVB
佐竹氏が国人豪族らの特権を廃して家臣に組み込み
集権化を成功させたのは1591年以降だからやはり戦国大名とは言い難い
洞中体制は戦国時代頃に発生した独自の体制だけど
構造的にはあくまで室町体制の域を出ていないと思う
佐竹氏も義昭時代から戦国大名化への試みが続けられていたが
成功のめどがついていなかったと言っていい
そこに豊臣氏の東国進出があり、これを契機に中央政権の権威を利用して一気に近世大名へと飛躍した
0650人間七七四年2011/01/09(日) 23:29:19ID:EgJBuMKA
実りがない議論だな。
「洞中」について論じた市村高男氏ですら、「戦国大名」と「国人」との間にいくつかの段階があって、
佐竹はその中間段階のかなり上の方に位置すると言ってるだろう。
集権化できてなかったら戦国大名と呼べないなんて言ったら、
上杉謙信も毛利元就も戦国大名とは言えなくなっちゃうよw

峰岸氏は天正以降の佐竹氏は、戦国大名と言っていいと結論してるし、
佐々木倫朗氏や黒田基樹氏はほぼ戦国大名扱いしてるだろう。
「戦国大名」なんて所詮学問的分類のひとつに過ぎない。
去年の茨城歴史館のテーマなんて、『戦国大名常陸真壁氏』だろ。
0651人間七七四年2011/01/10(月) 12:30:56ID:iPzwso/I
上杉は国人達に軍役かけられるぐらいの集権化に成功している
洞体制の諸氏とは全く違う
0652人間七七四年2011/01/10(月) 12:59:28ID:Y+z3XhUR
「戦国大名」という言葉をどれくらい広義に取るかの違いだから、
かみ合わないってさw
0653人間七七四年2011/01/10(月) 13:07:17ID:/CJlPUJw
つーか洞がどうこう言ってる>>651
まともに『戦国期東国の都市と権力』読んだことないだろw
0654人間七七四年2011/01/10(月) 15:28:51ID:iTTZS+Bs
>>653
謙信の天正年間の軍役と、成田小田佐竹の洞秩序による軍事力動員では質的に違うんでね?
兵科、人数、旗の指定まで行えた上杉氏と同列には扱えない。
0655人間七七四年2011/01/11(火) 21:23:35ID:X7SkqYSG
なるほど
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