【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 02:02:05ID:DVvJduHN常陸・下野の戦国時代を語りましょう
0556人間七七四年
2010/10/06(水) 20:51:53ID:Yl7H5EEi・佐野勢にみせしめとして殺した(北条系の資料にあったはず)
・解放され無事だった
山上道牛が北条勢にいるような記実があることから前者は信じられてませんがね
佐野記の通りでしょうね
しかし佐野記は合戦の記述少ない…昌綱なんて永禄2年の北条の攻撃と死んだことしか書かれてないし……何故なんだ!!
唐沢軍談とかも同じような内容なのだろうか?
0557人間七七四年
2010/10/06(水) 20:54:55ID:Yl7H5EEiくら替え家臣の話しだたwwww
岩崎系文書には殺されたとありますが、多くの(あまりいないけど)郷土史家は佐野記の記述などを信用してるようですお
0558人間七七四年
2010/10/07(木) 02:37:58ID:TcH0BkKG三楽犬ハァハァ
0559人間七七四年
2010/10/26(火) 15:46:51ID:m/S4Qt8Ihttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1069064209/
0560人間七七四年
2010/10/28(木) 17:20:10ID:iUyXmt9k落ちてる
0561人間七七四年
2010/11/01(月) 01:42:12ID:cF1+AoZa0562人間七七四年
2010/11/03(水) 15:28:20ID:4QsvZuEvttp://www.rekishi.sagami.in/tukuba.html
>小田氏治は30万石〜40万石を領していたと推測される
まじかよ…
0563人間七七四年
2010/11/03(水) 15:44:07ID:C26UF64pそりゃ大きいと思う。
里見氏が上総大半と安房一国で40万石弱と言う説が過大評価あつかいされているのに。
0564人間七七四年
2010/11/06(土) 15:12:37ID:LhqxXXD/0565人間七七四年
2010/11/07(日) 08:51:58ID:R1KndYgX久幹や氏幹というかそもそも真壁氏の存在すら一般的にはそう知られてないと思う。真壁氏の元下僕と言われる平四郎は平四郎最中とかあるから少しは由来知ってる人がいるかもだけど
あと山車はその年の大河とか流行りものを演題にしてる感じなのよw
0566人間七七四年
2010/11/07(日) 10:58:38ID:JqQMD9Vkそりゃさびしい話だなあ。今度の山車は坂本龍馬かなw
別スレにも書いたけど久幹を「どーむ君」とか適当にゆるキャラ化して
真壁氏と真壁城を売り出せばいいのに。
0567人間七七四年
2010/11/07(日) 13:13:55ID:yADPS1zy郷土の英雄に対する敬意がなくなり厳しいな。
0568人間七七四年
2010/11/07(日) 13:47:43ID:2+7Z09zmどこまで無知なんだ?
0569人間七七四年
2010/11/07(日) 23:22:19ID:LRL1wKD8前にもこんなことやらかしてたけど
978 :人間七七四年:2010/10/16(土) 17:41:50 ID:jfWHtVXk
みんな知らないけど水戸徳川はすごい佐竹への弾圧を二度やってるよね
生瀬殺しは有名で、にわかに佐竹を支持する程度の罪の無い百姓を600人惨殺したよね
天狗党弾圧では残党狩りで武田観柳斎の首を妻に持たせながら拷問したよね
それを忘れたの?復権って何?
981 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:14:16 ID:rwi0FBKn
武田観柳斎ってwww
なんで天狗党弾圧で「武田観柳斎」の妻が拷問されんだよ。
982 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:20:44 ID:O4v0a1PA
>天狗党弾圧では残党狩りで武田観柳斎の首を妻に持たせながら拷問したよね
佐竹と関係あるのそれ?
983 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:32:55 ID:kmKnVGS/
>>981
得意げに叩きたがるような手合いに限ってこれだもんなww
武田耕雲斎って言いたかったんだろ
984 :人間七七四年:2010/10/17(日) 01:41:51 ID:1Hij7UwS
武田耕雲斎─水戸藩士
武田観柳斎─新撰組組長
覚えとけよ?
0570人間七七四年
2010/11/08(月) 04:46:16ID:m+RzIFYy佐竹の本ひとつ売ってないどころか佐竹に触れてない
江戸以降のことばかり書かれてる本ばっかで笑えた。
0571人間七七四年
2010/11/08(月) 08:06:25ID:qXNq1CEfでも川又書店の郷土史コーナーには佐竹の本売ってるだろ。
0572人間七七四年
2010/11/08(月) 08:41:27ID:L9ueiz5y0573人間七七四年
2010/11/08(月) 11:01:56ID:qXNq1CEf水戸市の地域おこしをしようぜ。
0574人間七七四年
2010/11/08(月) 14:03:51ID:eXvsV0pcだから江戸も真壁もみんな知名度ない。
結局、水戸藩閥の子孫が掲示板でも必死に工作してるだけだろうね。
0575人間七七四年
2010/11/08(月) 14:16:39ID:qXNq1CEf佐竹をなんで茨城県民全体がそこまでありがたがらなくてはいけないのか
問いたいね。佐竹と水戸市とはほとんどの期間直接縁がなかったんだから
軽視されても仕方がないわな。
真壁が水戸藩領でなかったことはもう気づきましたか?
0576人間七七四年
2010/11/08(月) 14:25:05ID:eXvsV0pc茨城県全域を代表してるはずだ。
別に水戸以外の茨城県内の市町村に強制させろとは言ってないわ。
0578人間七七四年
2010/11/08(月) 15:35:59ID:xrZf+405そりゃブログにでも書いてくれ
ここや佐竹スレを荒らさないでくれ
0579人間七七四年
2010/11/09(火) 08:15:38ID:cYnr3u1f豊臣政権下でも常陸全土ではなかったりする
小田領は結城氏へ、笠間領は宇都宮氏へ、岡見領は由良氏などへ与えられている
あと旧里美村周辺は岩城領で、県西の下総との境界付近は多賀谷領が入り込んでいる
常陸一国与えられたとか書いている本が非常に多いけど
実際は結構な範囲に抜けがある
この点を見ても人々の佐竹氏への関心の低さがうかがえる
最近、ハッスル黄門様が茨城県のキャラみたいになってきたけど
茨城を水戸藩で推してくのも無理あるよね
県南及び県西は水戸藩関係ないし
人口にすれば半分は無関係となる
>>573
それいいかも
いっそそのくらいマイナーな方がうけそうだ
地元民としてももう少し江戸氏に関心持って欲しいw
0580人間七七四年
2010/11/09(火) 08:15:41ID:cYnr3u1f豊臣政権下でも常陸全土ではなかったりする
小田領は結城氏へ、笠間領は宇都宮氏へ、岡見領は由良氏などへ与えられている
あと旧里美村周辺は岩城領で、県西の下総との境界付近は多賀谷領が入り込んでいる
常陸一国与えられたとか書いている本が非常に多いけど
実際は結構な範囲に抜けがある
この点を見ても人々の佐竹氏への関心の低さがうかがえる
最近、ハッスル黄門様が茨城県のキャラみたいになってきたけど
茨城を水戸藩で推してくのも無理あるよね
県南及び県西は水戸藩関係ないし
人口にすれば半分は無関係となる
>>573
それいいかも
いっそそのくらいマイナーな方がうけそうだ
地元民としてももう少し江戸氏に関心持って欲しいw
0581人間七七四年
2010/11/09(火) 09:10:51ID:jR1Woegq鹿島神宮くらいか?
鹿島氏はもちろん、佐竹、小田、大掾、笠間、真壁と敵味方関係なしの
崇敬はあった。もっとも、今の人間は逆にそこまで重要視してはいないんだが。
0582人間七七四年
2010/11/09(火) 10:11:04ID:y7kThAtc義重は最初のうちは鹿島神宮の権威を利用して常陸に力を浸透させようとしていたが
そのうち実力が付いて来ると社領の返還を求められても無視するようになった
かなり後まで出陣の吉日を選んでもらったりはしてるのだが。
0583人間七七四年
2010/11/09(火) 10:48:54ID:jR1Woegq鹿島神宮側もその社領を保証する権威が無い時代に生き残りをかけて権威の拡大と
見入りのいい商売にいそしむために大名たちを利用したってこと。
0584人間七七四年
2010/11/09(火) 10:50:41ID:jR1Woegq実際、県北に住んでると鹿島はいわきとかよりも遠く感じるしな。
0585人間七七四年
2010/11/09(火) 12:48:51ID:cYnr3u1f常陸の一ノ宮だし
俺は県北だけど鹿島神宮、静神社、笠間稲荷はよく初詣に行くよ
鹿島神宮は結構芸能人なんかも来るんだよね
しかし鹿行の歴史も複雑だな
0586人間七七四年
2010/11/10(水) 15:32:42ID:F5u2e+XM妥当なんだろうか?
0588人間七七四年
2010/11/10(水) 21:44:19ID:F5u2e+XM町割りは佐竹が大分いじったようだけど石高がそこまで極端に変化するわけは
ないからだいたいその規模なんだろうね。里見氏が与えられたのは
鹿島郡らしいから烟田氏等の一族領含めて三万石ってことか。
0589人間七七四年
2010/11/13(土) 22:10:48ID:5b/+kkvD細かい事ですまんが、
笠間は元から宇都宮の傘下のような。半独立状態だったのは間違いないが。
佐竹は部垂や山入を克服して戦国大名になったのに対し、
宇都宮は戦国の最後まで家臣団を統制できなかったのは非常に残念だ。
0590人間七七四年
2010/11/13(土) 22:37:29ID:wrl66x6D0591人間七七四年
2010/11/14(日) 08:22:51ID:TNyvjW1L佐竹、宇都宮は当主が本拠地追われていたし那須に至っては当主が何人も殺されている
最近下野の城巡りをしている
下野の城って大大名がいなかったからこじんまりしてるけど何か好きだな
常陸の城って立地からしてやる気ないんだもんw
0592人間七七四年
2010/11/14(日) 19:02:54ID:qM12Dd/S宇都宮と西方の中間にある壬生は、どう考えても元は宇都宮一族(横田家の分家という説)
あるいは家臣(通字の胤から下総千葉家の分家説)だよな。
それなりの書籍ですら下級公家の下向説(笑)を採用してるの見ると呆れる。
0593人間七七四年
2010/11/14(日) 23:45:29ID:TNyvjW1Lでも氏家氏なんかも出自が曖昧なんだよな
あと、武茂氏は何であんな飛び地みたいになっているのだろう
0594人間七七四年
2010/11/16(火) 11:57:48ID:pw78/EnIみんなどうやって宇都宮家の事とか調べてるんですか?
自分ググっても『喜連川五月女坂の戦い』とか知りたくても、
満足いくような情報も調べられなくって・・・。
0596人間七七四年
2010/11/16(火) 22:56:06ID:VNKgQwRj攻めて行った方がいいと思う。もっとローカルなのが検索したら
出てきた。ただ、情報が古いかもね。
http://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000009656213.html
喜連川町史. 第6巻(通史編 1)
喜連川五月女坂の合戦 309
それと本の検索にはこういうものをどんどん活用すべき。
県内図書館一括検索
http://www.lib.pref.tochigi.jp/soumoku/soumoku_top.htm
ぐぐっては参考文献を見つけこっちで図書館を検索の繰り返しで、
図書館行く前にかなり絞れるはず。
0597人間七七四年
2010/11/17(水) 19:09:07ID:ItM1n99Mなるほど!!
そういう県史や市史から調べる手があるんですね!!
>>596
詳しく丁寧に有難う御座います!!
こういう調べ方を知らなかったので胸が高鳴っています。
次の休日は図書館にこもってしっかり調べてみます!!
0598人間七七四年
2010/11/17(水) 20:16:59ID:fjTPq6/Gといいつつ…
http://www.iwata-shoin.co.jp/local/database/32.htm
中央図書館を使うなら、県史・市史に加えてこういう県史研究なんかも置いてあるはずだから
利用してもいいかと。中には自分の知りたい合戦や人物なんかをピンポイントで特集している
記事もあるかもしれない。
あと、見過ごしがちだけど「大日本地名辞書」や日本歴史地名体系の「栃木県の地名」とかは単なる地名研究に留まらず
歴史研究のガイドラインにもなるはず。ただ、「大日本地名辞書」は吉田東伍の独自研究の面も強いので少し注意が
必要かもしれない。
ネットだとこういうのも後々何かの手がかりになるかな?
栃木県立図書館レファレンス事例
http://www.lib.pref.tochigi.jp/reference_ex/r_top.htm
0599人間七七四年
2010/11/19(金) 15:35:50ID:KRHDF7UP0600人間七七四年
2010/11/19(金) 15:51:29ID:XbrbRRNO0601人間七七四年
2010/11/20(土) 13:48:57ID:4+55O8UO『小田家風記』によると「土浦城主 菅谷摂津守 七万八千石」をはじめ
一万石越えの小田家一門や配下武将がゴロゴロしてることになっている。
ただ、あまり信用に足る内容とは思えんw
0602人間七七四年
2010/11/20(土) 13:51:16ID:4+55O8UOttp://www.asahi-net.or.jp/~ku4t-tkhm/odaichimonkafuutype2.html
0603人間七七四年
2010/11/20(土) 20:24:53ID:di3YODt50604人間七七四年
2010/11/20(土) 23:41:58ID:riFjYvBcかなり時代は遡るが
0605人間七七四年
2010/11/20(土) 23:58:47ID:P5Igpy9Oつくば市、土浦市、八郷町、牛久市、かすみがうら町、千代田町、石下町、
水海道市、明野町、茎崎町、伊奈町、谷和原村、藤代町、新治村、岩井町
辺りだから15〜20万石ぐらいだと思う
0606人間七七四年
2010/11/21(日) 11:14:00ID:rqYdfxk1軍記物でしか知らなくて申し訳ないが、既に氏治の前の政治時代から
合戦で負け込んできてるから、既に最盛期ではないような。
0607人間七七四年
2010/11/21(日) 11:18:23ID:djmKJfZM0608人間七七四年
2010/11/21(日) 13:59:53ID:fY7QMgUw霞ヶ浦の利潤が大きくても、大名の収入に直結するわけではないんだ。
役銭なども、守護大名程度の権力しか持たなかった小田が、
はたしてどこまで強制力を以って徴収できたか非常に疑問。
似たような話で武田の金山経営なんていわれるけど、実際には、金山を経営していたのは
金山衆という「企業」で、武田は税金を賦課して軍役に従事させるだけだったりする。
佐竹の場合には、義宣が金山への業務に関する命令を出している文書があるので、
少なくとも豊臣期には佐竹の所有物だった可能性が高いが、実際に掘っている人夫達と
どういう契約を以って採掘採集を行わせていたのかまではよく分からない。
0609人間七七四年
2010/11/22(月) 08:11:59ID:d13zg9ab常陸国は佐竹氏、大掾氏、小田氏の三頭体制だったとか
0610人間七七四年
2010/11/23(火) 13:21:28ID:1C21UKU1それだけじゃなく守護に従う必要のない鎌倉公方・幕府の奉公衆がわらわらいるからなあ。
常陸はそんな複雑怪奇な支配非支配関係が戦国末期くらいまで続く。
0611人間七七四年
2010/11/23(火) 14:53:59ID:bXOEg4rXやたら関東管領と対立した足利成氏公。
だがこの対立軸が関東管領と古河公方の利根川対立ラインを形成し
関東管領の謙信の関宿城攻防でも歴史的対立が影響を与えたと言える。
そもそも関東管領主催下での彼らの序列化は微妙過ぎる問題。
0612人間七七四年
2010/12/04(土) 00:04:20ID:A3jpgWCs0614人間七七四年
2010/12/04(土) 02:36:03ID:2Gq+RO6X棲み分けというか共存共栄の妥協というか。
共倒れを防ぐ生活の知恵かも。
0615人間七七四年
2010/12/04(土) 09:46:21ID:rYPytEYc0616人間七七四年
2010/12/14(火) 01:05:37ID:xdqN2PnT0617人間七七四年
2010/12/16(木) 15:08:51ID:bL4GlnUsどちら側についたんだろう
0618人間七七四年
2010/12/16(木) 15:32:53ID:GRQpe+9f地理的に徳川とはケンカしたくないから東軍についたと思う。
0619人間七七四年
2010/12/16(木) 16:38:07ID:NxzU8Gfu0620人間七七四年
2010/12/16(木) 19:30:42ID:xl0fXxK5佐竹側の創作によくあるような盟友なのか?
北条という強力な外敵の前でかろうじて同盟してただけか。
0621人間七七四年
2010/12/16(木) 19:39:28ID:jxJEyb+c0622人間七七四年
2010/12/16(木) 19:40:47ID:jxJEyb+c関が原の頃になると、たいていの大名は所領安堵で生き残るだけで満足していたようにも思う。
0624人間七七四年
2010/12/16(木) 21:54:32ID:hymCl0X/その子が結城の養子に入ってたよな〜。
秀康に結城当主を奪われた関係もあり
関ヶ原ではその子が白河で上杉と佐竹の連絡係
0626人間七七四年
2010/12/18(土) 19:22:41ID:m/7tdzrIただ、あそこは分家といっても御一門衆と重臣を兼任しているような形態。
0627人間七七四年
2010/12/19(日) 12:59:46ID:u9AfBOKS実際弟どもが上杉に与しているし
0628月孔雀
2010/12/19(日) 13:31:00ID:WsS39nC3文化的に関東と東北の中間のように感じます。
0629月孔雀
2010/12/19(日) 13:32:05ID:WsS39nC30630人間七七四年
2010/12/19(日) 13:36:30ID:vTXG1r1b0631人間七七四年
2010/12/19(日) 18:13:19ID:oVXwgV9Q0632人間七七四年
2010/12/19(日) 18:46:44ID:Y3eZR4A80633人間七七四年
2010/12/25(土) 20:44:22ID:eq4xQsUO0635人間七七四年
2010/12/26(日) 23:42:42ID:uqoGHCGdなぜ養子を入れると佐竹が断絶してることになるのか、意味不明。
0636人間七七四年
2010/12/27(月) 01:17:44ID:0ke0GfBz0637人間七七四年
2010/12/28(火) 21:29:12ID:SOASEfOnたしかに。ちゃんと血は繋がっているし
古い「大名」って言ってるんだから、あくまで
「血」ではなく「家」が対象なのに
0638人間七七四年
2010/12/28(火) 22:18:20ID:ozPPXdd8こういうやつが増えたのは
天皇の跡継ぎの議論で男系だの女系だの議論があってネットのごく一部が盛り上がったからだろうね。
佐竹にとってはとんだとばっちりだ。
0640人間七七四年
2011/01/06(木) 17:49:57ID:0lv6m2sQ0641人間七七四年
2011/01/06(木) 17:58:12ID:oWbV62jI0642人間七七四年
2011/01/06(木) 20:22:12ID:RZ5HcgOf0643人間七七四年
2011/01/06(木) 23:27:56ID:ypI8YHg20644人間七七四年
2011/01/08(土) 00:18:56ID:fyvEvF8z0645人間七七四年
2011/01/08(土) 12:17:34ID:FmNMWnTb0646人間七七四年
2011/01/08(土) 12:23:38ID:fyvEvF8z0647人間七七四年
2011/01/09(日) 13:03:45ID:II+M/LWC0648人間七七四年
2011/01/09(日) 14:48:22ID:5nRkvwoP0649人間七七四年
2011/01/09(日) 15:32:17ID:0Yfu7JVB集権化を成功させたのは1591年以降だからやはり戦国大名とは言い難い
洞中体制は戦国時代頃に発生した独自の体制だけど
構造的にはあくまで室町体制の域を出ていないと思う
佐竹氏も義昭時代から戦国大名化への試みが続けられていたが
成功のめどがついていなかったと言っていい
そこに豊臣氏の東国進出があり、これを契機に中央政権の権威を利用して一気に近世大名へと飛躍した
0650人間七七四年
2011/01/09(日) 23:29:19ID:EgJBuMKA「洞中」について論じた市村高男氏ですら、「戦国大名」と「国人」との間にいくつかの段階があって、
佐竹はその中間段階のかなり上の方に位置すると言ってるだろう。
集権化できてなかったら戦国大名と呼べないなんて言ったら、
上杉謙信も毛利元就も戦国大名とは言えなくなっちゃうよw
峰岸氏は天正以降の佐竹氏は、戦国大名と言っていいと結論してるし、
佐々木倫朗氏や黒田基樹氏はほぼ戦国大名扱いしてるだろう。
「戦国大名」なんて所詮学問的分類のひとつに過ぎない。
去年の茨城歴史館のテーマなんて、『戦国大名常陸真壁氏』だろ。
0651人間七七四年
2011/01/10(月) 12:30:56ID:iPzwso/I洞体制の諸氏とは全く違う
0652人間七七四年
2011/01/10(月) 12:59:28ID:Y+z3XhURかみ合わないってさw
0654人間七七四年
2011/01/10(月) 15:28:51ID:iTTZS+Bs謙信の天正年間の軍役と、成田小田佐竹の洞秩序による軍事力動員では質的に違うんでね?
兵科、人数、旗の指定まで行えた上杉氏と同列には扱えない。
0655人間七七四年
2011/01/11(火) 21:23:35ID:X7SkqYSG■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています