【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 02:02:05ID:DVvJduHN常陸・下野の戦国時代を語りましょう
0431人間七七四年
2009/10/14(水) 14:38:02ID:XjAJec5D0432人間七七四年
2009/10/14(水) 23:46:47ID:SoMj4F140433人間七七四年
2009/10/16(金) 10:24:48ID:GR/V4+qN0434人間七七四年
2009/10/17(土) 00:31:19ID:gw1gt68r0435人間七七四年
2009/10/23(金) 16:03:28ID:N0cMFcIm0436人間七七四年
2009/10/29(木) 15:44:46ID:xpd7rNOK0437人間七七四年
2009/11/04(水) 15:55:59ID:UcwDFKo60438人間七七四年
2009/11/10(火) 15:09:05ID:OEbZT7FW0439人間七七四年
2009/11/18(水) 15:31:57ID:XourJ+yz0440人間七七四年
2009/11/25(水) 16:07:17ID:cHMk97PG0441人間七七四年
2009/11/26(木) 16:28:36ID:18Ff0ZzU逆だろ。
野木宮合戦でまぐれ勝ちして身分不相応な守護職をもらってしまったのが不幸の始まり。
守護という有利な立場でありながら、全く勢力伸長できなかった。
室町期に本家は討伐されて滅亡。その後は事実上、分家結城の支配下。
領域は下都賀郡の東半分しか押さえていない。戦国期には何回も本拠が落城。
西半分の分家皆川ですら1万数千石という事は、小山は5万未満だろうな。
宇都宮には薬師寺を奪われ、一貫して主権を守った那須にも及ばず、上杉北条に大健闘した佐野未満の小山。
0442人間七七四年
2009/12/07(月) 01:48:29ID:neftw+AW0443人間七七四年
2009/12/07(月) 10:17:33ID:gGHGiPWn資清や高増ら三代はかなりのやり手だな
那須七党の内、四党を支配して大名家を二つも残したのだからたいしたものだよ
まあ、主家にとっては凶悪極まりないだろうけどw
0444人間七七四年
2009/12/07(月) 22:18:25ID:RhaFYxT7那須家の存亡に関わる自体に必ず一枚噛んでる印象だが、悪い方で
0445人間七七四年
2009/12/08(火) 14:34:33ID:5rnkkOnC3兄弟以前にも千本親子に誘殺されてたり、なめられまくりだな。
ただ、小田原征伐に関しては明らかに主家の失態。
遅参してなければ七党を支配下に置くのを公認されただろうに。
0446人間七七四年
2009/12/09(水) 23:54:00ID:RtwNTLR/0447人間七七四年
2009/12/12(土) 16:27:24ID:aFfjDo380448人間七七四年
2009/12/12(土) 22:01:57ID:evuVZCMD0449人間七七四年
2009/12/14(月) 19:02:29ID:Qvsh8AuD主家の小田氏が越前松平氏の陪臣(千石)におさまった事を考えれば
菅谷氏は五千石という大身の旗本になれたのだから勝ち組だ
0450人間七七四年
2009/12/18(金) 14:57:12ID:+KnLqQFE0451人間七七四年
2009/12/26(土) 11:16:06ID:4aH81Ara小田氏や宇都宮氏は旗本になった元家臣に平伏しなくてはならなくなった
相馬氏とか那須氏みたいに意地でも江戸に上って御家再興を訴えるべきだったね
0452人間七七四年
2009/12/28(月) 07:50:19ID:PXmEJnij0453人間七七四年
2009/12/28(月) 08:32:45ID:/m5zSggu知行が万石未満・直参で、将軍御目見得ができるのが旗本、できないのが御家人。
石高の多少による旗本・御家人の区分は無いはずだが?
因みに五千石未満を御家人とする説は誰が言ってるんだ?
武鑑にでも書いてあるのか?
一千石以上の知行を持つ御家人なんていたっけ?
0454人間七七四年
2010/01/10(日) 23:57:18ID:eyRtCmjY鷲子山塊と鶏足山塊が邪魔で那珂川沿いの渓谷みたいな所みたいな細い道からしか兵を入れれない。
防衛戦なら勝ち目はあったかも分からん。
0455人間七七四年
2010/01/21(木) 09:42:38ID:V7aLGsBc今だと常陸大宮の鷲子から一直線に烏山城下に入れるけど
佐竹の侵攻経路を見ると遥か数十キロを迂回して黒羽や茂木から攻めている事が多い
何でわざわざそんな事するのか疑問に思っていたが、地形を見てみたら一目瞭然だった
烏山から見て常陸側は那珂川と山地が国境を分断していてしかも絶壁が続いている
今でこそ山を削り道を作って橋をかけてあるから通行できるが
近代以前(戦後まで渡し舟があったらしい)は烏山付近に軍勢が渡河できるようなポイントがない
鷲子→武茂→興野から渡河する経路もあるが、これだと烏山城の眼前を渡河する事になり
当然、那須勢が対岸で待ち受けるわけで一番危険な渡河中の攻撃に曝される
実際に佐竹義久などがこれで撃退されている
渡河しても烏山城は急坂に囲まれた台地の上にある山に築かれており非常に攻め難い
西の宇都宮方面や南の茂木方面も難路があり烏山は凄く良いところに築城したと思う
0456人間七七四年
2010/01/24(日) 13:36:48ID:91cIKkTe0457人間七七四年
2010/02/21(日) 08:52:25ID:k3WCd2W1八幡山とかを拠点にすればいいのに何であんな平地に築城したのか謎だ
0458人間七七四年
2010/03/04(木) 09:28:10ID:GJfd28Dl宇都宮城って 結構平和だったからねw
0459人間七七四年
2010/03/07(日) 12:32:32ID:OQRnEWtX0460人間七七四年
2010/03/28(日) 10:54:02ID:wHN/EDSJ0461仙台藩百姓
2010/04/30(金) 15:30:36ID:Sf7joQux八幡山あたりは寺社が多かったし、宇都宮氏は元々二荒山神社の神職でもあったから
二荒山の真っ正面に居館を構えたのだお( ^ω^)
戦国末期に多気山へ大規模な詰城を整備したとはいえ多気山は城下町まで移動するには不適だし
結局宇都宮城も落城する事はなかったから平城とはいえ大規模に改修されて堅固だったのだおうね( ^ω^)
0462人間七七四年
2010/05/01(土) 03:06:59ID:3R/k0SpO40代ぐらいでもう隠居してたみたいだが。
0463仙台藩百姓
2010/05/01(土) 07:27:38ID:PGWW2Q7w高定の場合は初めから実子ではなく高継に家督を継承させるつもりで
実子との間で家督争いが起きぬよう早めに隠居して高継を後見した
若しくは、芳賀家中からそういう声が挙がった
といったところではないかお( ^ω^)
0464人間七七四年
2010/05/01(土) 18:59:19ID:3R/k0SpOやっぱり芳賀家中ではそう強い地盤が無かったって事なんだろうか。
0465人間七七四年
2010/05/02(日) 01:44:54ID:F97+A0Zq0466人間七七四年
2010/05/03(月) 12:16:22ID:Q4mjokfo0467人間七七四年
2010/05/10(月) 20:58:29ID:PN5zPWaWなんも知らずによく遊んでたんだけど、そこは宇都宮氏と小山氏が
戦った、茂原(多分感じ違ってますw)の戦いの時戦死した無名の武士
をまつった所なんだそうな、宇都宮最南部の茂原町にあります、
0468人間七七四年
2010/05/18(火) 21:16:39ID:KXhgPQ4x岩田選書◎地域の中世G
松本 一夫 著
(栃木県立文書館館長補佐)
第1章* 中世における下野の位置
−地政学的アプローチ
(奥州との境界/分権性)
第2章 寒河尼−女性地頭の功績
(頼朝の乳母として/寒河尼の「大功」)
第3章 南北朝〜室町中期における足利庄支配
(観応擾乱期/南北朝後期/室町前期/室町中期)
第4章 南北朝・室町前期における茂木氏の動向
−上級権力との関係を中心に
(軍事指揮系統/周辺諸勢力との関係/室町幕府・鎌倉府との関係/
鎌倉公方足利持氏との関係)
第5章 「茂木文書」調査報告
(保存の状況/伝来の経緯/若干の古文書学的所見)
補論1* 茂木氏と東茂木保−鎌倉・南北朝期を中心に
補論2* 茂木賢安の置文
補論3 南北朝初期における茂木氏と佐竹氏の交流
第6章 鎌倉末〜室町期の宇都宮一族
−「宇都宮」を名乗った人々
(宇都宮(芳賀)高久/高貞(弾正少弼家)/左衛門佐(尉)/高有/伊与守家綱)
第7章 南北朝期の越後守護代芳賀氏をめぐって
(文和三・四年段階における文書の伝達ルート/
芳賀高貞・高家は同格か/賀氏発給文書の特質とその意味)芳
第8章 花押の謎
(桃井直常と貞直/山朝氏と桃井六郎/小女性が証判を加えた軍忠状)
第9章 下野中世史研究の回顧と展望
−『栃木県史』以降
(領主権力論/土豪論/室町期の全体的動向/
都市・交通論/荘園支配関係/宗教史)
0469人間七七四年
2010/05/18(火) 21:18:22ID:KXhgPQ4x2010年5月刊
A5判・222頁・並製本・カバー装
ISBN978-4-87294-616-1 C3321
2800円 (税別)
0470人間七七四年
2010/06/03(木) 17:07:37ID:RIP2LLf7戦国時代に大吟醸とかなかったんじゃ…
0471人間七七四年
2010/06/23(水) 22:42:32ID:rUNvThIF俺の持ってる群書類従じゃ六郎高晴になってるんだよな。
wikiのソースは塩谷町史っぽいけど、大元は何が出典なんだろう。
同一人物って認識でいいんだろうか。
0472人間七七四年
2010/07/02(金) 13:08:36ID:5Diz0XYH0473人間七七四年
2010/07/14(水) 10:26:40ID:M0e1mz3x太平記(尊氏)は栃木にカウントかな?
戦国常陸下野で大河は厳しいな…
せいぜい小田原北条の敵役で出て来るぐらいが限界か
平将門vs藤原秀郷なら両国出れるな
0474人間七七四年
2010/07/25(日) 22:44:42ID:a4jLh1U+http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1235224540/l50
0475人間七七四年
2010/07/28(水) 14:00:57ID:AaONKo+6平将門はもうやってる。「風と雲と虹と」というやつ。
慶喜と将門で茨城は二度大河の舞台になっているということだな。
0476人間七七四年
2010/07/30(金) 08:32:59ID:Bv9edpKQ・宇都宮三代(尚綱・広綱・国綱)
・佐竹三代(義昭・義重・義宣)
・那須三代(高資・資胤・資晴)
・那須七騎(大関高増を中心に描く)
・小田氏治(ある意味ネタが豊富)
・古河公方(晴氏、藤氏、義氏、藤政)
・結城晴朝(+結城四天)
0477人間七七四年
2010/08/15(日) 08:46:47ID:znaiDCJ20478人間七七四年
2010/08/15(日) 12:04:14ID:8cZc3aORしかも作った炎立つ、琉球の風、花の乱は視聴率悪く評判も悪かった。
個人的には炎立つは源氏の奥州への野望が面白く、花の乱も日野富子を中心に暗い話ばっかだったものの面白かったのだが。
特に応仁の乱は終わったものの混乱は拡大し最後のテロップで信長の登場までまだまだずいぶんあるみたいなことが表示され、まったく救われない終わり方が良かった。
茨城は幕末の水戸、栃木は足利尊氏があるから良いが群馬は新田義貞が微妙だから悲惨だな。もう剣聖を主人公にするしかw
もっとも実は尊氏が住んでたのは母の実家の京の上杉邸か人質として鎌倉にいたかのどちらかで足利庄に行った事はないらしいw
0479人間七七四年
2010/08/15(日) 23:13:09ID:2UIbZ9Yf水戸人だけど、足利行って、どうして足利の遺跡ってほとんど残ってないのか聞いてみたら
南朝が正統とされ、足利は最近まで逆賊扱いだったからと言われた。
水戸学が果たした負の役割が大きいとも。
そう考えると、21世紀の現在、足利と水戸が組んで世界遺産の招致を狙ってるのは歴史の皮肉だね。
0480人間七七四年
2010/08/17(火) 20:30:15ID:s1by1oHv水戸人と足利人にしてみりゃ今更知ったこっちゃないよ
元々何か恨みがあるわけじゃあるまいし
水戸家中の我が家としてはむしろ水戸家に恨みがあるw
0482人間七七四年
2010/08/24(火) 09:43:45ID:jtNKfxEX逆恨み?言葉の意味分かってるの?w
水戸家の当主が代々暗愚だったのは事実
水戸藩の悪政は藩士ですら批判している
外様なら間違いなく取り潰し対象だが、御三家だから幕府も見てみぬ振りをするという最悪な状態だった
どうあがいても言い逃れは出来ない
0483人間七七四年
2010/08/24(火) 19:22:55ID:W2nKfdo0それを補佐する水戸藩士も徒党を組んで私闘ばかりで
水戸ってほんとどうしようもないということだけはよく分かった。
水戸はどうあがいても言い逃れはできないな。
0484人間七七四年
2010/08/24(火) 20:49:41ID:jtNKfxEX水戸藩は終始統治が定まらず本当に救いようがない
結局藩政改革やったのだって他所から来た人物ばかりだし
まあ、一番の罪は身内贔屓で放置した幕府にあるけど
0485人間七七四年
2010/09/12(日) 13:53:27ID:Iles2dR30486人間七七四年
2010/09/12(日) 13:59:06ID:O63dT8eT0487人間七七四年
2010/09/13(月) 23:35:09ID:PhcmA+xF0490人間七七四年
2010/09/15(水) 18:57:12ID:DYsartF/0491人間七七四年
2010/09/16(木) 00:23:06ID:Pr8byTCS不思議だね。
0492人間七七四年
2010/09/16(木) 20:55:47ID:VAePkQH2家康や上杉や前田や三成を紹介してもらう人脈がないと王手だしな。
0493人間七七四年
2010/09/16(木) 21:49:42ID:3Sz1Kh7F南郡の零細領主は、どうあがいても亡くされる運命にあるんだよ。
特に地方は中央からの目が届きにくいので、中央に比べてより大きなブロックで
大名の所領が形成される傾向にある。実はもうほとんど郡県制と変らないレベルで、
中身が民主的な手続きを経て選ばれた首長ではなく封建領主だというだけのもの。
また南郡仕置も、豊臣政権によって所領が「与えられた」地方の大名の全てが佐竹と同じように
凄惨な暗殺をしているわけではないので、恐らく義宣の決定でこういうことになったと思われる。
これをしなければしないで肥後や奥州みたいな地侍蜂起に繋がった可能性があるので、
一概にダメだったとも言えない。死んだ人たちはかわいそうだったけれども。
0494人間七七四年
2010/09/16(木) 22:05:34ID:kzOxco7a0495人間七七四年
2010/09/16(木) 22:46:39ID:v1pJRJhH0496人間七七四年
2010/09/17(金) 20:04:37ID:nYuOp1160497人間七七四年
2010/09/18(土) 00:24:01ID:f5wL+TE+佐竹がこんなにあざやかに勝ったり殺したりしたこと、他にあるのかな?
0498人間七七四年
2010/09/18(土) 07:46:34ID:Zj5E05LTやむをえず血を流しただけ。
0499人間七七四年
2010/09/18(土) 09:15:54ID:FW58ulb5佐竹の場合は私的な権力の拡大と領土欲という私利私欲のための醜い流血。
0501人間七七四年
2010/09/18(土) 17:18:02ID:6cd+Zqmp誰にも命じられず率先して嬉々としてやった余所者水戸藩
0502人間七七四年
2010/09/20(月) 13:31:59ID:sfJn+RVV0503人間七七四年
2010/09/20(月) 14:18:57ID:iB7baYpM0504人間七七四年
2010/09/20(月) 19:16:30ID:sfJn+RVV0505人間七七四年
2010/09/20(月) 19:35:32ID:iB7baYpM0506人間七七四年
2010/09/20(月) 19:48:50ID:dlbYe5so> 「生瀬の乱を考える――有力な慶長七年説」
>
> ・だがここで『大子町史』に結集された益子公朋氏の慶長七年説に注目する必要がある。
> それは長い間大子地方を含む水戸藩北郡の郡吏として、領民とじかに接していた加藤寛斎の前記の
> 『常陸国北郡里程間数記』の慶長七年説と、事件後藩命によって小生瀬村の再興のため大子村から移住した
> 旧家大藤家の分家に残る書き上げの慶長七年説とを、地元の伝承を忠実に伝えているものとして評価し、
> 慶長七年十月を強く主張するものである。その事件の内容を要約すると次のようになる。
>
> 慶長七年佐竹氏の秋田転封後(中略)。そこで家康の命で佐竹転封後の慶長七年六月、常陸地方を治めるため
> 水戸に派遣されていた重臣の一人芦沢信重(伊賀守)が、一隊を率いて生瀬地方に来り、村民を皆殺しにした。
> その時村民が逃げこんだ場所が地獄沢といわれ、今日でも正式な地名として残っている、というのである。
>
> そこで益子氏は、佐竹義宣が転封を命ぜられた時、国元の家老に夏年貢の取立てを指示した書状があることを
> あげて、前の手代というのが佐竹氏の配下で、後から督促に来たのが、交代した領主側の役人であったとしたならば、
> この騒動は慶長七年の領主交代の混乱に伴う偶発事件とも考えられ、地元の伝承とも一致するとされる。
> 実に耳を傾けるべき説明であるが、交代した新領主というのは、当然武田信吉ということになるが、
> 武田が正式に水戸城主となったのは、慶長七年十一月であるから、村民皆殺しという事件が起こった十月には、
> まだ正式に水戸城主はいなかったわけである。この時期の旧佐竹領は、一時的ではあったが、幕府の
> 直轄支配地だったわけで、それを治めるために派遣されたのが、芦沢らだったことになる。
>
> この領主交代に至るまでの、城主不在の空白時には、すでに述べたことではあるが、七月下旬の
> 家臣車丹波らによる水戸城奪回の計画があり、十月には車らが水戸で処刑されるという、大きな事件があった。
> 生瀬の乱はこうした時に起こったということになると、まず佐竹領接収のため家康から派遣されて、
> 水戸、太田などを中心として各地の治安維持にあたった重臣大久保忠隣、本多正信の連名で六月に出された
> 条例を思い出さざるを得ない。それによると、佐竹の家臣の中には、禁令にもかかわらず、農民に期限もこないのに
> 年貢を催促したり、どさくさにまぎれて、種々の乱暴を働き、勝手に農民を斬ったりして監視の眼のとどかない
> 山林を盗伐する者も出たという(『水戸市史』上巻)。
>
> 一方佐竹の領国引渡しが進み、七月中旬に大体終わった直後、例の車丹波の一揆である。このように
> 生瀬乱前の情勢を概観すると、旧佐竹領内農村では、不測の事件が起こってもおかしくない情勢だったことが分かる。
> かくて生瀬乱の慶長七年十月説は、他の諸説とくらべて、最も有力なものとなる。私も以前の主張の
> 不十分だった点を反省して、慶長七年説をとることに躊躇しない
0507人間七七四年
2010/09/20(月) 22:45:13ID:sfJn+RVV0508人間七七四年
2010/09/21(火) 01:25:34ID:xmP40i9x0509人間七七四年
2010/09/21(火) 01:30:07ID:5t+JTz4f水戸藩士の間で、生瀬の乱は公然の秘密、水戸藩史の恥部として語り継がれていたようだな。
>>506の慶長七年説はあくまで異説。
0510人間七七四年
2010/09/21(火) 01:59:08ID:xmP40i9x鳥取も千葉県と連携して里見氏の大河ドラマ化を訴えている。
>>509
そもそも、その事件の通説って何年よ?
水戸徳川家の成立は慶長14年なのだが。
0511人間七七四年
2010/09/21(火) 07:44:06ID:rb0zNtqC遅すぎる。その説を唱えた人間が時系列を知らなかったとしか思えないが。
>それによると、佐竹の家臣の中には、禁令にもかかわらず、農民に期限もこないのに
> 年貢を催促したり、どさくさにまぎれて、種々の乱暴を働き、勝手に農民を斬ったりして監視の眼のとどかない
> 山林を盗伐する者も出たという
0512人間七七四年
2010/09/21(火) 07:45:18ID:rb0zNtqC>それによると、佐竹の家臣の中には、禁令にもかかわらず、農民に期限もこないのに
> 年貢を催促したり、どさくさにまぎれて、種々の乱暴を働き、勝手に農民を斬ったりして監視の眼のとどかない
> 山林を盗伐する者も出たという
0513人間七七四年
2010/09/21(火) 23:03:55ID:2XmwjXCl本多等の出した禁礼が元ネタだけど(出典・水戸市史)
佐竹が転封した後、旧佐竹領では治安が悪化し手を焼いた徳川の代官等が出した禁礼がそれだ
勿論佐竹云々とは一言も書いてないし、それらの事に佐竹家が関わっていたと読み取る事は出来ない
それを誰が何の為か「佐竹の家臣」の行為であると付け加えた
ちなみにこの話しは生瀬事件と何の関連もない
0514人間七七四年
2010/09/22(水) 00:14:16ID:Mn0GXBV/百騎ほどしか連れて行けなかったし、当然それ以外の連中は召し放ちということになったわけで、
そういうのが自暴自棄になって犯罪を犯したとしても不思議ではない。
それを取り締まらねばならないのは勿論領地の受け取りをする徳川方で、
佐竹には最早警察行為をする権限も何もないんだから、
佐竹の責任的なことを言われても、という感じだろう。
それに徳川方は国替えをするのもされるのも初めてではないんだしな。
0515人間七七四年
2010/09/22(水) 07:38:09ID:N3fvr2oiその水戸市史ってので確認したの?捏造の一言で片付けるんじゃなくて
ソースつきで書いてくれよ。
0516人間七七四年
2010/09/22(水) 08:45:15ID:k6/isOkv義宣は国替えの命を受けて、京から国許へ帰らず、
直接秋田へ赴いた。
そのとき自身はわずかな供しか連れて行かなかったが、
もちろん国許からは家臣たちが大挙して移住した。
0517人間七七四年
2010/09/22(水) 09:03:58ID:rh1/qZrY0518人間七七四年
2010/09/22(水) 12:15:39ID:r6pmCXfh車氏とか水戸城奪還挙兵したやつらも佐竹が転封完了するまでは大人しかったんだし
0519人間七七四年
2010/09/22(水) 18:07:31ID:hZLtkxgO0520人間七七四年
2010/09/22(水) 18:27:12ID:Mn0GXBV/うんそうだね。
>>517
こういう一行レスの馬鹿が出るから困る。
佐竹に都合が悪いも何も、小生瀬虐殺はそもそも芦沢信重がやったとされている事件じゃねーか。
信重は武田家臣でのち水戸徳川家の家臣になった男だ。
水戸藩が編纂した『水府志料』の小生瀬村の項にもこの事件のことは載っていない。
大子村の黒崎某が文政年間に著したとされる『常陸紀行』にも小生瀬のことは出るものの、
事件については書かれていない。また『新編常陸国志』にも、その他の地誌にも載っていない。
知られるようになったのは鈴木成章が明治四十年(1907)に著した『水戸歴世譚』によってで、
事が起こったのは元和三年(1617)丁巳十月であるとしている。
小生瀬の住民が年貢を納めずに役人を打ち殺したため、芦沢が怒って村民を誅戮したとある。
一方私がたまたま持っていた茨城県の歴史という本は、酉の年に起こったという伝説があると書き、
また根拠も書かずに慶長十四年己酉(1609)に起こったとする説が有力であると書く。
どちらの説に従っても佐竹に関係があるとするのは無理がある。
水戸市史のほうは上巻は手元にあるものの、小生瀬事件の記載は多分なし。
近世以降のことが書かれている下巻は持っていないが、多分そっちに書かれているんだろう。
また事件を題材にして飯嶋和一が描いた小説『神無き月十番目の夜』では、
慶長七年(1602)つまり佐竹が転封された年に虐殺が起こっている。
言うまでも無いがこれはあくまで小説だ。
0521人間七七四年
2010/09/22(水) 23:08:24ID:HGkh7h6Zだから書いてあるじゃん
慶長七年に本多等徳川氏代官が連署で
勝手に年貢をとらない事、指示に従わない百姓を独断で斬ったりしない事、山林の伐採を禁じる事
などを布告している
それをソースにして水戸市史では下記↓のような
> それによると、佐竹の家臣の中には、禁令にもかかわらず、農民に期限もこないのに
> 年貢を催促したり、どさくさにまぎれて、種々の乱暴を働き、勝手に農民を斬ったりして監視の眼のとどかない
> 山林を盗伐する者も出たという
というような解説がなされているわけだけど
それによるとって、どれによるとそんな解釈になるんだって話しw
0522人間七七四年
2010/09/23(木) 01:50:06ID:32sY/e470523人間七七四年
2010/09/23(木) 07:53:24ID:+O09pg3Nに書いてあるよ
0524520
2010/09/24(金) 01:46:56ID:5vUukf35水戸市史上巻にここで指示された禁令についての記述があるというので読んでみた。
文書がどう読まれているのか見ていくので、かなり長いことを断っておく。
状況は佐竹が常陸を出て行ったあと、領国受け取りの為に徳川の家臣がやってきたときのこと。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
なお大久保忠隣・本多正信の連名で、次の定書三か条が出されたのは、六月十四日のことである。
一、在々の百姓は前々のごとく村に居付いて作物などを油断なくすべし。非分を行う者はすぐ届けるべし。
一、去年の年貢未進、借銭の取沙汰をしてはならない。人身の売買は停止する。
一、諸給人衆の荷物などは南郷の赤館まで、前々の百姓が運送すべし。
右の条例違反者があらば、水戸駐在の花房助兵衛・島田次兵衛へ訴え出るべし。
この第一条と第二条とは、百姓の移動を禁止し、農耕生活の安定を計ったものであるが、
第三条で百姓は給人衆の荷物を赤館まで送らねばならなかったから、その辛労は多大であった。
その上、給人衆は禁令にもかかわらず百姓に未進年貢などの催促、その他種々の難儀を吹きかけて、
勝手に百姓を斬ったりした。村々の治安も乱れて、どさくさまぎれに乱暴を働く者もあった。
監視の眼のとどかない山林を討伐する者も出た。そこで、六月二十二日、
大久保・本多両人の名で再び次の定め書きが発布された。(大意)
一、在々で理不尽に人を斬るとの噂があるが、もし成敗しなければならない者は水戸奉行中(花房・
島田)へ断るべし。たとえ理を以って致しても、公儀の許可なく我がままをする者は従類共々成敗する。
一、所々へ狼藉を致す者は、すぐ召捕って、水戸奉行衆へ申上げるべし。
一、以前からある立山(領主の材木山)は紊りに伐採してはならない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
これが水戸市史上巻の記述。
定書の全文が意訳になってしまっているので、翻刻された元の文を以下に書いておくが、面倒臭いので
二番目(六月廿二日)の文書だけにする。一番目(六月十四日)のは二番目のと合わせて説明する。
出典は茨城県史料中世編1の鹿島神宮文書。旧字体とかは新字体に直す。■は欠け。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
一 於在々、理不尽に人をきるよ■其聞候、若為無成敗不叶者之義者、水戸奉行中に可相断、
縦理を以いたし候共、不得 公儀、我儘に仕候はゝ、従類共可遂成敗事
一 所々にて致狼藉者有之者、急度めしからめ、水戸奉行衆へ可申上事
一 前々よりのたて山、みたりにきり取へからさる事
右条々於違背之族者、可処厳科者也、仍如件
慶長七年
六月廿二日 大久保相模守(花押)
本多佐渡守(花押)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
0525520
2010/09/24(金) 01:48:17ID:5vUukf35水戸市史の理解は落第点と言ってもいいくらい、ちゃんと読めてない。
先ず重要なのは、この文書が、誰が誰に対して何の目的で出されたのかということだ。どうも水戸市史の
文章を見ると、旧佐竹領全体に対して「お触書」のような感じで出されたのだと考えているように見える。
しかしこれは『鹿島神宮文書』として伝わっているのであるから鹿島神宮に対して与えられたものである。
中世の「文書は受益者の元に到来する」のだ。従ってこの文書は鹿島神宮の関係する領域のみに効力を持つ。
さて本文。まず「在々」というのは村(東国では郷村ともいう)のこと。「(給人衆が)勝手に百姓を斬ったりした」と
水戸市史は書くが、もうこの時点でアウトである。「理不尽に人をき」っているのは在々(郷村)の百姓である。
何故そう言わなければならないのか?一条目で「理不尽に人をき」っているものは、水戸の奉行に断って
云々と書いているのに、二条目でもさらに「所々にて致狼藉者有之者」は急度めしからめて水戸奉行衆へ
申し上ぐべき、と書くのは明らかに重複であり、そもそも書く必要のないことである。
この一条目の解釈は、「郷村で理不尽に(村検断等の判断で)人をきっていると(鹿島神宮から)聞いたが、
もし上位権力がない為に罰則を与えられないものがいるならば、水戸奉行中に報告し、(主に水戸奉行中が)
道理を以って判断を下したにも関わらず、その公儀の判断を無視して我侭な振舞をするならば、それら従類共に
成敗を加えなさい」とするべきである。これは主に他郷村との争い等を起こさないようにとの文言であろう。
そうすると二条目もすんなり解ける。「犯罪を犯す狼藉者は捕縛して水戸奉行中へ報告を上げろ」そのまま。
三条目まで来ると分かるが、これは領主が相続されたり、替わった時に出される通例の禁制事項である。
この文書は、鹿島神宮の社領や佐竹が代官をしていた料所などでの意思統一を計ったもので、何かあった
場合には鹿島神宮が郷村へこの文書を見せて、こういう判断をすべきだと促すためのものなのだ。
郷村が人を斬っていたのは、上位権力である佐竹がいなくなったために村独自で裁判を行ったためなのだ。
また六月十四日の定書でも「給人衆は禁令にもかかわらず百姓に未進年貢などの催促」なんて書いているが、
そういう禁令を犯す行動をしている者が給人衆であるなんて事は、定書に一切書いてない。
「去年の年貢未進、借銭の取沙汰をしてはならない。人身の売買は停止する」この文言についても、
(そもそも去年というのが間違っているが……原文では「去(さる)」であって当年の夏年貢のことだろう)
領主が変わるために年貢の割り付け等も変わることを念頭に置いていると思われ、それで年貢を払えない者が、
借銭したり人を売ったりすると話がややこしくなるので、取り合えず停止ということだ。
ちなみにこの時期は太閤検地のあとであり、一般的に貸銭や人身売買によって富を集積していくのは
どちらかというと百姓であって、武士や給人であるところの侍ではないんじゃないだろうか。東国、しかも常陸だし。
こうしてみると、確かに水戸市史が給人とやらを悪者にして、地域の平和を乱していると恣意的に付け加えている。
水戸市史は昭和三十八年発刊らしいので、時代からいっても階級闘争史観真っ只中だから
まあこういう見方も仕方ないのかも知れないけど。
0526人間七七四年
2010/09/24(金) 12:28:39ID:sMsOgTHM分かりやすい説明ありがとう
私も鹿島神宮文書という点を見逃していたので非常に勉強になりました
0527人間七七四年
2010/09/26(日) 14:48:37ID:SUOxq0ck仙台の伊達と同じで、
いまだに旧水戸徳川系の支配が
水戸を中心として政財界で続いてるって証明でもあるよね。
0529人間七七四年
2010/09/27(月) 06:34:16ID:ACbesW7r東京にしかいないと
分からないかも知れないけど
地方都市なんて
藩主に連なる血筋が
市長や知事になってるの
けっこあるよ?
伊達なんていまだに
家臣の家系が挨拶に来るしw
0530人間七七四年
2010/09/27(月) 07:36:09ID:0mW+0hOhうちも水戸藩士だったけど我が一族は除け者にされているのだろうかw
だいぶ前、従兄の結婚式に徳川さんがいたから親戚に「あれ誰?」て聞いたら
「ああ、水戸家の当主だよ」と言われたけど後で調べたら一橋家の方だし
そもそも水戸家の当主ってどこにいるんだろ…
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