>>316
越相同盟への対抗から佐竹と武田は一時的に交流があったが、
越相同盟の消滅とともに目立った動きもなく互いに疎遠。
上杉の御館の乱で再び武田と北条が疎遠になると、
それに乗じて佐竹と武田も対北条協調路線をとるようになり、
1580年前後には共同で何度か上野近辺へ侵攻。
織田と武田の不和に義重が和睦の斡旋をしたが、
案の定信長は無視で武田滅亡。