【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】
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0283(´ω`)
2008/05/29(木) 00:20:55ID:rlxd6W6O佐竹が水軍を持っていたという話は聞いたことが無い。
ただ那珂湊を管理していた佐竹の近習の真崎は那珂川久慈川の水運にそれなりに通じていたようで、
朝鮮渡海の際に佐竹の船奉行になっている。最も真崎しかいなかったとも見れるが。
>>282
そりゃ西国と比べれば海運、湖運の頻度は少なかっただろうね。
しかし年齢階梯制で横の連帯を重視する西国と親方子方で縦の繋がりに重きを置く東国じゃ、
特に入会が重要視される湖上の生活の在り方は違っていたと見るのが自然だ。
例えば利根川を通行する料船が関所で止められたことから千葉氏と揉めて、
幕府が裁許したということが鎌倉時代にあった。
上では香取社が流海の海夫を支配していたと書いたが、だがこれは実は建前であって、
千葉氏のような例を通して戦国時代には地元の領主が津々支配権を横領してしまっていた。
だから東国での事情は琵琶湖や瀬戸とは異なっていたのだ。
また東国にもしばしば「唐人」が訪れていたようで、佐竹義重は元亀二年に白土某に
水上する唐人の便宜を図ってやるように知行宛行し、
また天正二年には伊達輝宗が佐竹に紹介された唐人に会ったと日記に書き残している。
銭にならなければ当然態々大陸人が常陸くんだりまでやってくることは無いわけだ。
また唐人が来ているならば、当然ながら伊勢は言うに及ばず、
堺やそれより遠い日本の地方からも来ていたことは十分に想像できることだ。
ついでに、伊勢志摩の漁師は奈良時代から朝鮮のチェジュ島に行ってあわびなどを
手に入れていたらしく、また近代以後もチェジュ島から房総に結構な数の海女が
来ていたことなども考え合わせると、東国の水運は決して言及する価値が無いものじゃない。
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