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【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/21(月) 02:02:05ID:DVvJduHN
大国に囲まれながら中小勢力がしぶとく割拠し続けた
常陸・下野の戦国時代を語りましょう
0274千本資政ってどお?ってどお?2008/05/28(水) 14:40:20ID:qa61uOe7
どうも、久しぶりです!!
1.水軍と霞ヶ浦の件
当時の霞ヶ浦は…香取浦という海だったんだよ。
↓詳しくはココをつついて見てね!!
http://www.jsidre.or.jp/com/hpcheck/rekishi/p094_95/p094_95.htm

琵琶湖にも堅田など、資料で確認できる限り数ヶ所の港(湖岸の都市)に水軍があった。
村上や九鬼に比べれば小規模だけどね。
だから、香取浦にもいたんじゃないのかな?


確か、奈良時代まで東山道のルートは、水戸街道ではなく…
下総経由で常陸に入り、そこから水路で
江戸崎→霞ヶ浦→高浜
と続いていたらしい。「常陸風土記」より


ただ、常陸・下総水軍というのは、ざっと見たところ載ってないけどさ。
これも宿題だね。

2.>>267さんへ
小田原征伐後は…わかる限りで
伊王野家は1万石であった所領が735石。
芦野家は700石となった。
大関家は大関安碩(高増)に1万石、増晴に3千石を与えられ、合計で1万3000石の大身となった。
大田原家は7000石の所領を安堵された。

0275(´ω`)2008/05/28(水) 14:53:41ID:/5R7Ij1u
香澄の流海には四十四津というものがあってだな、湖上の通行権を支配していたようだぞ。
そんでそいつらは鹿島社がたばねていたようだ。
もちろん四十四の湊が実際にあったわけじゃないぞ。たくさんあるって意味だ。
三十三館とかと同じだな。
0276:千本資政ってどお?2008/05/28(水) 15:05:42ID:qa61uOe7
「顔文字」さん、北条の兵力数の数学的分析、どうもありがとう。かつ大変お疲れ様でした。
そして、香取水軍? 鹿島水軍?についてのレスありがとう。
0277(´ω`)2008/05/28(水) 15:30:07ID:/5R7Ij1u
いえいえ、てどお氏の明快な考察に恐れ入っているのはわっちの方でして。
これからもよろしくお頼み申します(´ω`)
0278人間七七四年2008/05/28(水) 15:36:11ID:qa61uOe7
こちらこそ宜敷ね。
0279人間七七四年2008/05/28(水) 16:17:25ID:qa61uOe7
霞ヶ浦について。ココから参照。
http://www.ktr.mlit.go.jp/kyoku/river/river_info/kasu_02_01.htm
江戸時代の霞ヶ浦・北浦では、霞ヶ浦四十八津、北浦四十四津と呼ばれる自治組織が霞ヶ浦を入会管理(共同管理)していました。
これらの結束を強化するために従来の漁業の慣習を明文化した「霞ヶ浦四拾八津議掟書」は
入会で漁をするときの漁具、漁法、漁期の制限について規定し、
これにより漁業資源の保護が図られ、湖の秩序が維持されました。

>>274のレス。訂正2ヶ所
1.×東山道→○東海道
2.×「常陸風土記」→○「常陸国風土記」
0280(´ω`)2008/05/28(水) 18:23:25ID:/5R7Ij1u
香澄、香取の流海の海夫をまとめていたのは鹿島社じゃなくて香取社だった。
陸の百姓どもが武力を持っていたことを考えると、
海夫も当然行使できるほどの武力は持っていただろうね。
安宅船や関船はまず間違いなく持っていなかっただろうけれども。

ちなみにこの常総の流海周辺は伊勢とも非常につながりが深いな。
伊勢神宮と香取、鹿島のラインは古代中世から海のハイウェイだったんだろう。
0281人間七七四年2008/05/28(水) 20:58:32ID:sI37mjFE
>常陸・下総水軍というのは、ざっと見たところ載ってないけどさ。


里見や後北条が水軍を持っていたことは知っているが、
佐竹とかは水軍を持っていたんだろうか?

もし持っていても、戦闘用ではなく、警備とか偵察用の船か、
伝令用の早船ではないだろうか?

0282人間七七四年2008/05/28(水) 21:23:55ID:IDfDm2Xh
海上通商路が確立してる地域は安全通行保証税を取る水軍が成長するが
それほどの通商路があったのかねぇ。。
琵琶湖は日本海から京への搬入路だったから栄えたが…鹿島灘を通過し霞ヶ浦を使用して税金まで取られて運び込んだ先が田舎町じゃな。
伊勢からの道ねぇ。せいぜい安房国までじゃないかのう。奇襲灘→遠州灘を通過したあげくに
さらに房総半島をぐるっと迂回して商売するメリットなんてあるかねぇ。瀬戸内海や伊勢湾と違いシブい小さな商売で税とるほどの地力なんてないんじゃない?
阿波国と安房国
和歌山県の那智勝浦・白浜海岸と千葉県の勝浦・白浜の共通点から古くから移住者が多かったと言われてるから安房とは馴染みがあるんだろうが常陸国はどうなんだろ。
房総半島と紀伊半島を重ねると伊勢神宮に鹿島神宮を重ねたりできるけど東京と大阪を重ねるみたいで無理やり感あるし。
0283(´ω`)2008/05/29(木) 00:20:55ID:rlxd6W6O
>>281
佐竹が水軍を持っていたという話は聞いたことが無い。
ただ那珂湊を管理していた佐竹の近習の真崎は那珂川久慈川の水運にそれなりに通じていたようで、
朝鮮渡海の際に佐竹の船奉行になっている。最も真崎しかいなかったとも見れるが。

>>282
そりゃ西国と比べれば海運、湖運の頻度は少なかっただろうね。
しかし年齢階梯制で横の連帯を重視する西国と親方子方で縦の繋がりに重きを置く東国じゃ、
特に入会が重要視される湖上の生活の在り方は違っていたと見るのが自然だ。
例えば利根川を通行する料船が関所で止められたことから千葉氏と揉めて、
幕府が裁許したということが鎌倉時代にあった。
上では香取社が流海の海夫を支配していたと書いたが、だがこれは実は建前であって、
千葉氏のような例を通して戦国時代には地元の領主が津々支配権を横領してしまっていた。
だから東国での事情は琵琶湖や瀬戸とは異なっていたのだ。

また東国にもしばしば「唐人」が訪れていたようで、佐竹義重は元亀二年に白土某に
水上する唐人の便宜を図ってやるように知行宛行し、
また天正二年には伊達輝宗が佐竹に紹介された唐人に会ったと日記に書き残している。
銭にならなければ当然態々大陸人が常陸くんだりまでやってくることは無いわけだ。
また唐人が来ているならば、当然ながら伊勢は言うに及ばず、
堺やそれより遠い日本の地方からも来ていたことは十分に想像できることだ。

ついでに、伊勢志摩の漁師は奈良時代から朝鮮のチェジュ島に行ってあわびなどを
手に入れていたらしく、また近代以後もチェジュ島から房総に結構な数の海女が
来ていたことなども考え合わせると、東国の水運は決して言及する価値が無いものじゃない。
0284人間七七四年2008/05/30(金) 07:06:03ID:u3DXtiFX
ご近所なのでご挨拶までに

政朝・政勝・晴朝・朝勝ら下総結城氏を語る
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1212098363/
02852672008/06/02(月) 14:41:51ID:ASFmYRmm
>>273
>>274
どうもです

自分は、下野新聞社の「那須の戦国時代」って本を参考にしてるんだが
出版が平成元年で古いのと那須地方しか載ってないので県中県南の勢力図
がさっぱり解らんです
0286千本資政ってどお? 2008/06/04(水) 16:25:04ID:tA65CWvo
>>237さんへ
牽制じゃないと思うよ。
高浜というのは、府中(石岡市)と霞ヶ浦の間にある湖岸の村だよ!!
Googleマップで「茨城県石岡市高浜」と検索してみてください。
義重軍は大掾側の玉里城(小見玉市玉里、高浜の東北にある)を攻撃中だった隙を突いて、
松田憲秀軍が高浜に上陸し、大掾の本城である府中城に入ろうとしたんじゃないかな?

>>237さんへ
牽制じゃないと思うよ。
高浜というのは、府中(石岡市)と霞ヶ浦の間にある湖岸の村だよ!!
Googleマップで「茨城県石岡市高浜」と検索してみてください。
義重軍は大掾側の玉里城(小見玉市玉里、高浜の東北にある)を攻撃中だった隙を突いて、
松田憲秀軍が高浜に上陸し、大掾の本城である府中城に入ろうとしたんじゃないかな?

>>282さんへ。
「顔文字さん」の>>283のレスに追加するね。
江戸湾に中国から船が度々来ていたらしい。明と交易していたんじゃないかな?

0287人間七七四年@全板トナメ開催中2008/06/07(土) 07:55:43ID:lpyFVPg+
>>286
高浜に上陸して府中に入るより、直接府中城近辺の湖岸に寄せて上陸した方が手っ取り早い。

高浜から府中へ陸路を採ると、当時は今よりかなり迂回しなくてはならない。
又再び湖水を渡る方が陸路より早いだろう…が、そうすると何故高浜上陸なのか…?

高浜上陸は何等かのイレギュラーだったと思います。天候、風向、地理不案内とか…。

正攻法なら直接玉里救援か玉里より南東部(旧小川町辺り)への上陸し玉里の後詰め。
又は、府中・玉里間への上陸。
但し戦況観望なら高浜上陸もあり得るが…。

しかし府中入城を企てたって説も捨てがたいですね。
0288人間七七四年2008/06/10(火) 16:42:00ID:/QYTmWKg
小山家の当主(高齢)は現在、小山市内で暮らしていると聞いている。
0289人間七七四年2008/06/26(木) 14:47:27ID:K21sHFzC
結城は小山であって小山は結城。
0290千本資政ってどお?2008/07/02(水) 12:32:47ID:TaFvJvuZ
>>287さんへ。貴札披見。態々啓候。
高浜より南、つまり神立や土浦は、小田領(厳密に言うと菅谷氏領)であり、
天正十六年(1588) 当時は、小田は佐竹と同盟もしくは服従関係にあった。
だから北条軍は、大掾側の玉里や高浜に上陸せざるを得なかったのではないだろうか?
恐々謹言。
0291千本資政ってどお?2008/07/02(水) 12:42:04ID:TaFvJvuZ
あ、そうそう>>270さんへ。
「芳賀高定」只今調査中。
>>267-268さんへ。
宇都宮→鹿沼(壬生氏)→日光山。ちょっと違うんじゃない?

壬生氏は二派に分かれていて、「鹿沼城主の分家の周長」が宇都宮派で…
「壬生城主の宗家の綱雄ー義雄」が北条側であったのは周知の通り。
日光山の支配権は宗家にあったんじゃないかな? (場所は離れているけど…)
以上、「武家家伝 壬生氏」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mibu_k.htmlより。
0292人間七七四年2008/07/08(火) 19:08:23ID:fYODVBuC
小山・結城氏好きならこの本オススメです
http://www.7andy.jp/books/detail/?accd=31623403
0293人間七七四年2008/07/19(土) 14:34:46ID:gnasbNPR
俵藤太流。
0294人間七七四年2008/07/26(土) 01:36:30ID:fk0SmwpD
>>289
だから結城市と小山市の越県合併の話が出たんだな。
頓挫したけど…。
0295人間七七四年2008/08/08(金) 15:08:11ID:6K85a0xY
文化圏は一緒だもんな
0296人間七七四年2008/08/13(水) 04:38:44ID:3HKSZ3Ip
大田原の図々しさは異常
0297人間七七四年2008/08/19(火) 01:20:54ID:XZYd3F4u
資清の復帰に隠居の那須資房の意向ってのがどの程度反映してたんだろ
0298千本資政ってどお?2008/08/27(水) 10:16:45ID:5+shKJrK
>>270さんへ。大変お待たせしました。
芳賀高定は忠臣?
結論
忠臣かどうかの評価は悩むけど…
主家をもり立て、かつ自分の役割を自己認識でき、筋目を通す誠実な人だったらしい。

1,高定登場までを簡潔に…。
芳賀氏は宇都宮氏の一族でもあり、かつ重臣筆頭でもあるという特殊な家系。
芳賀氏と宇都宮氏の関係が始まったのは平安末期から。
奥州征伐の時にはその働きを源頼朝から称された。
あの『太平記』には「宇都宮は関東一の弓取りなり。【紀清両党】の兵は、命を捨てる事を惜しまない」というような文章がある。
紀は益子氏、清は「清原氏=芳賀氏」の事で、両氏は宇都宮氏の軍事部門を司っていた。

この頃、宇都宮氏綱が越後・上野守護になると、芳賀高名(入道禅可)は、その補佐役として同守護代を務めた。
以降、芳賀氏は代々主家と婚姻・養子縁組を通じて、密接な関係を築き、絶大な権力をふるうようになった。
つまり「宇都宮ー芳賀権力体制」(一心同体的な権力)

2,対立、そして高定登場。
戦国時代に入り、宇都宮氏は家中統制を強めようと、度々芳賀氏の相続に介入し、その権力の弱体化を図る。
(1).永正九年(1512) 宇都宮成綱は芳賀高勝を生害する。
(2).永正十三年(1516) 成綱、弟の興綱に芳賀氏を継がせる。
(3).大永六年(1526) 芳賀興綱、甥の宇都宮当主忠綱を追放し、宇都宮家を相続する。(芳賀氏復権。)
(3).天文八年(1539) 宇都宮俊綱(のち尚綱)は、芳賀高孝・高経を蟄居させたのち高経を殺害し「益子高定」に芳賀氏を継がせる。(宇都宮氏の統制強化。)

(4).天文十八年(1549) 芳賀高経の子、高照が那須高資・壬生綱雄・氏康・白河結城晴綱と組んで、 宇都宮尚綱(俊綱)を討ち、宇都宮城を乗っ取った。 (芳賀氏謀反。)

それに対し高定は、幼主広綱を擁して宇都宮城に復帰させようと奔走し、足利義氏(プラス氏康)・佐竹義昭・那須資胤(高資の弟)・江戸忠通を味方に付け…
天文二十年(1551) 那須高資を討ち、
天文二十四年(弘治元年・1555)頃 芳賀高照をそれぞれ討ち取って尚綱の仇を取る。
弘治三年(1557) 壬生綱雄より宇都宮城を奪い、広綱を帰還させた。

3,その後の高定
佐竹の軍事援助を受けて宇都宮城に復帰した広綱と高定だが、未だ内憂外患を抱える状態にあった。
内は、半独立状態の壬生・皆川がスキあらば宇都宮城を…
外は、北は那須・南は結城・小山連合が虎視眈々と宇都宮領を狙っていた。

この状況で高定は「主家と争わず以前のような“宇都宮ー芳賀体制”を守る事こそ、ひいては芳賀氏自体を守る事になる」と考えて、主家をもり立てたのでしょうね。(佐竹との縁組を進め同盟を強固にするなど)

それだけでなく実子を差し置いて、(4).の自分が殺害した芳賀高照次男の高継(高規)に家督を継がしている。
(自分はあくまでも益子氏であり、代理で芳賀氏を継いでいると考えたのでしょうか?)恐々謹言。
0299人間七七四年2008/08/28(木) 03:13:11ID:7jq1dKK4
芳賀高照の次男高継?

芳賀高経の三男高継…高照の弟じゃなかった?

と、言ってみる

0300千本資政ってどお?2008/09/01(月) 10:40:42ID:Q/++35j2
>>299さんへ。リポート読んでいただき誠に有難うございます。
そうですね、間違えてました。

>>298を後で読み返してみたら、第2章が大分間違っていたので、追記訂正します。
2,対立、そして高定登場。
(中略)
(1).永正九年(1512) 宇都宮成綱は芳賀高勝を生害する。(宇都宮錯乱始まる。宇都宮家中、二手に分かれて相争う。)
(2).永正十三年(1516) 成綱、弟の興綱に芳賀氏を継がせる。(内乱終息する。)
(3).大永六年(1526) 芳賀興綱、甥の宇都宮当主忠綱を追放し、宇都宮家を相続する。(芳賀氏復権。)
(4).天文五年(1536) 芳賀高経(高勝の弟)は宇都宮興綱を生害する。(芳賀氏の権力強まる。)
(5).天文八年(1539) 興綱の子俊綱(のち尚綱)は、芳賀高孝・高経を蟄居させたのち高経を殺害し「益子高定」に芳賀氏を継がせる。(宇都宮氏の統制強化。)
(以下、中略)
0301人間七七四年2008/09/02(火) 08:43:22ID:ECqTNNUD
一時は武茂氏が有力だった時期もなかったっけ
0302人間七七四年2008/09/02(火) 19:53:46ID:gYxMzwUC
那須、宇都宮方面は、何がなんやらで、那須氏は同族で争っているし、
わかりづらい。
0303人間七七四年2008/09/02(火) 21:34:25ID:LntJAnUT
>>302
那須は基本的な対立構図が下那須系vs上那須系だから案外はっきりしてるぞ。
0304人間七七四年2008/09/03(水) 05:18:58ID:RGznkm6T
那須・宇都宮方面は半立半属の家が結構多いからかな
あまり詳しくない俺にはカオスに見える
0305人間七七四年2008/09/06(土) 09:35:52ID:9IU7l/iE
北関東あたりは実際カオスだったよ
配下と言っても独自の印判でもって年貢取ったり禁制出したりしてるからね
独立国と全く変わらん
0306人間七七四年2008/09/17(水) 17:45:05ID:sI2P/mfJ
>>294
歴史の話じゃなくて申し訳ないが、結城と小山って市民同士も仲良くない?w
自分中学は宇都宮で、小山の高校行ったんだけど、凄くそー感じた、
逆に宇都宮とかには、対抗心持ってる感じ、小山の人って
まー3年も通ってりゃ仲良くなったし、いいやつだったけどねorz
0307人間七七四年2008/09/25(木) 12:35:59ID:UzIUWmSl
宇都宮氏族の麻生が天下取ったぞ
0308人間七七四年2008/09/26(金) 15:05:39ID:hIHr+h7f
>>306
小山、古河、結城あたりは他県同士と言う感覚がない
県境はどこでもそうだと思うけどね
小山辺りからすると宇都宮人の方がよそ者に感じる
古河、結城からしても水戸人の方がよそ者に感じる
0309人間七七四年2008/09/27(土) 15:05:42ID:0NQ82MoH
水戸と古河や結城は藩どころか国まで違うからね
0310人間七七四年2008/09/28(日) 03:18:06ID:ZTvUO9v0
結城の人達にとって筑西(旧下館)の人はお隣さんだろ。國は違うけど…。
その筑西の人達にしてみても水戸の人は同県同國にもかかわらずよそ者って感じでしょ?けど同じ選挙区なんだよなぁ〜、筑西と水戸。
0311人間七七四年2008/10/07(火) 10:37:11ID:KSqmJChP
筑西なんかは小山とくっついてるもんね
水戸線が小山まで通じてるけどローカル感は否めない
0312人間七七四年2008/10/14(火) 04:59:25ID:ChlxBYbR
けど水戸線の方が常磐線よりはやく出来た。
昔の水戸近辺の人々は小山回りで上京してた。
だから常磐線は石岡から水戸へ直通せず友部に繋いで工費削減?
0313人間七七四年2008/10/14(火) 15:45:08ID:QV/etZmz
>常磐線は石岡から水戸へ直通せず友部に繋いで工費削減?

今の茨城町(長岡だか小鶴だか奥谷だか知らないが)の住人が鉄道建設に強硬に反対したとか。
宿場が寂れるとか 今となっては意味不明だが。
0314人間七七四年2008/10/15(水) 03:41:24ID:myH7Yy1k
昔、水戸石岡電気鉄道(うろ覚え)なる会社が有った…
計画では水戸から今の国道6号線と同じルートだった…
しかし実際は水戸(柵町)から茨城町の長岡辺りまでの開業路線で蒸気機関車だった…orz
電気鉄道って…

昔、長岡には鉄道が走ってたんだよ
0315人間七七四年2008/10/17(金) 17:48:58ID:4C0LBCCN
>>313
東京から宮城が新幹線で直通で県の大部分がスルー対象と化したからな
0316歴史好き2008/10/19(日) 16:24:35ID:vkU1UhA7
天正年間(武田家滅亡までの10年)の佐竹と甲斐武田の軍事関係は
どうだったのでしょうか?
どなたかご存知の方教えてください、推測でもかまいませんが、
0317人間七七四年2008/10/19(日) 18:15:06ID:HYErbIs2
>>316
越相同盟への対抗から佐竹と武田は一時的に交流があったが、
越相同盟の消滅とともに目立った動きもなく互いに疎遠。
上杉の御館の乱で再び武田と北条が疎遠になると、
それに乗じて佐竹と武田も対北条協調路線をとるようになり、
1580年前後には共同で何度か上野近辺へ侵攻。
織田と武田の不和に義重が和睦の斡旋をしたが、
案の定信長は無視で武田滅亡。
0318人間七七四年2008/10/19(日) 20:00:05ID:qy2so+4J
上杉謙信が佐竹に手紙を出していて、
「しばらくぶりですが…」という文面を書いてて、現物が残っているらしい。
0319人間七七四年2008/10/19(日) 23:24:34ID:pgiLaEjL
武家藤原氏嫡流小山氏
0320人間七七四年2008/10/20(月) 01:09:39ID:0jjliioF
>>316

>>317の「共同」して上野近辺へ侵攻…の「共同」は共謀して同時期って事な

一緒に一つの城を攻めた訳では無いから注意
同陣して無いから
0321人間七七四年2008/10/20(月) 04:27:05ID:CjRsTsDb
>>319
秀郷やその子孫に詳しい野口実氏によると、秀郷流の嫡流は佐藤氏らしいよ。
0322人間七七四年2008/10/20(月) 05:09:15ID:7AGVM/S7
佐藤氏は戦国時代もう没落してて、系図も怪しげなもんだろ
0323人間七七四年2008/10/21(火) 19:23:59ID:U3G51Kwm
>>320
通りすがりに補足
  佐竹軍は七月下旬に上野に出陣。
  武田軍は八月下旬に上野に出陣。

微妙にずれている。


0324歴史好き2008/10/24(金) 11:12:51ID:kiJ2aT6P
ありがとうございました。
この頃佐竹家に武田家にゆかりある姫が嫁入りすることがあったとしても
決して不思議ではないわけですね。
佐竹家に嫁いだ女性が不縁になって生後まもない娘を残し甲斐へ帰ったが
後年その母を訪ねて北条の領地を大きく迂回して山中を歩き甲斐へ向かう
娘の伝説がありますが歴史的な背景はあっているみたいですね。

0325人間七七四年2008/10/24(金) 11:45:06ID:5j3zVTYY
>>324
ちょっと待て。そんな話しはじめて聞いたぞ(´ω`;)
詳細plz
0326人間七七四年2008/10/24(金) 12:35:22ID:zgQorh38
明王峠で亡くなったと言われる白百合姫伝説でしょ
武田と佐竹の婚姻関係と言うのも十分有り得る事だけど
そのような歴史的事実は全くないので
何かの話しがごっちゃになっているのだと思う
0327歴史好き2008/10/24(金) 19:41:12ID:kiJ2aT6P
武田勝頼の異母妹の松姫(実在)の甲斐から武州へと逃避する
話があります、天正10年に織田の軍勢から逃れるため山中を踏
破して恩方(八王子)へ向かうのですが、記録では幼い姫も多
数同行していたようです。このあたりの話が形を変えて相模湖
方面で残っているのかも知れませんね。
歴史は分からないことが多いだけに奥が深いです。
0328人間七七四年2008/10/24(金) 21:23:50ID:QMY4MUJd
武家藤原氏嫡流小山氏
0329人間七七四年2008/10/24(金) 21:34:12ID:5j3zVTYY
http://www.rekishi.sagami.in/shira.html
なるほど。そういう伝説があったのか。全く知らなかった。
でもこれは伝説といえども、割と信憑性のありそうな話だ。
まずコレは武田方面の伝説だということ。
武田は大きい大名だし、他の大名家とも親交が多かったはずなのに、
態々佐竹家に嫁いだと捏造する理由が薄い。
それに武田と佐竹の縁は、戦国時代に関してはそれほど深くない。
同盟期間も短いし、お互いにあまり疎通もなかったにも関わらず、
こういった伝説が醸成されてくるというのは不可解だ。
というわけでこれが本当の話だと仮定すると、真相は下のようになる、かも。

越相同盟への対策から武田と佐竹も同盟することになり、武田から女が送られる。
信玄や義信の娘でないとしたら義重の側室、あるいは佐竹の重臣の正室になったはず。
越相同盟は早々に破綻し、武田と北条が再び同盟。北条と仲良く出来ない佐竹は
武田とも仲良くは出来ないので、甲常同盟も破綻する。
つまりここで武田からの女が佐竹から離縁される理由が出来ることになる。
というか離縁される理由はどう考えてもこれしかない。
天正中期武田勝頼の時代、武田と佐竹は再び同盟し、
なんらかの理由で残された娘が返される。
(武田と佐竹の娘である彼女が江甲和与へ至る過程で、
織田へ嫁ぐとしたのだったら面白い。もっとも織田に嫁ぐ相手はいなさそうだけど)。
ただよく分からないのは通った道が何で相模原なんだということだ。
上野→佐久→甲斐ルートのほうが当時ポピュラーだし、相模原を通ると言うことは、
武田佐竹双方の敵である北条領を突っ切らなければならないので、
最短距離だがあまりいいルートではないはず。娘が幼かったせいからか。
0330歴史好き2008/10/27(月) 17:33:59ID:yrkaMm4y
この話とは別物でしょうが、佐竹一門の娘で照手姫という美しい姫が
いて横山太郎という武士?が戦乱に乗じてさらい、相模まで逃げた、
小栗判官が横山太郎の屋敷に逗留することになり照手姫に出会う・・・
という伝説が常陸にはあるそうですね。
http://www.rekishi.sagami.in/terute.html

0331人間七七四年2008/11/05(水) 15:18:25ID:ODERcfc0
>照手姫
モデルは誰なんだろう?
0332人間七七四年2008/11/17(月) 15:48:59ID:q0Gz5wnc
小栗助重は上野介のご先祖さま。
0333人間七七四年2008/11/27(木) 14:57:02ID:kBPOLal9
小山や宇都宮より那須の方が強そう
0334人間七七四年2008/11/28(金) 02:17:56ID:DRQTZHEx
那須は外に打って出ることが絶対にできないような作りの家だからなぁ
宇都宮俊綱(尚綱)が頓死しなければ宇都宮が下野の台風の目になれたかもしれないのに
0335人間七七四年2008/12/08(月) 15:38:42ID:q2ZBxYph
宇都宮の場合宇都宮錯乱で長期間争っていたのが痛かった。
0336人間七七四年2008/12/08(月) 21:31:24ID:nBfa/uVe
佐竹ね
0337人間七七四年2008/12/11(木) 02:25:45ID:VnsYxMrk
スレタイの4大名家で大名として残ったのは佐竹のみか…
0338人間七七四年2008/12/11(木) 12:40:01ID:PnJFwnx6
でも転封されていなくなってしまった
この地域は那須七騎が上手く生き抜いたな
とくに大関系は2家も大名として存続したし
大関氏は幕府の奉行もやったはず
0339人間七七四年2008/12/16(火) 18:02:06ID:CsgnwB5x
筑西市(下妻・つくばと境も近い)に住んでるんですがこの辺は誰の領地だったんでしょうか?
やはり真壁氏なんでしょうか?
知ってる方お願いします
0340人間七七四年2008/12/16(火) 19:06:50ID:BQI4xll3
旧真壁郡近辺ならそうだと思われます。
下館近辺なら水谷氏。
03413392008/12/16(火) 21:03:33ID:a1kmVt/9
>>340
素早い返答ありがとうございます
筑西と言っても広いんでわかり辛いですよね すいません

家は↓のページで紹介されている海老ヶ島城から南西に4qぐらいのところです
ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/6650/akeno.htm
地図で言うと↓でこの地図は小田城と真壁城跡地がありますのでわかりやすいかと思います
ttp://up2.viploader.net/pic2/src/viploaderf145852.jpg

たびたびすいませんがお願いします
0342人間七七四年2008/12/17(水) 01:15:01ID:Jqg+DP1b
>>339
宇都宮はともかく、小山は実質北条の一支城主にような状況になって
るからなあ
0343人間七七四年2008/12/18(木) 05:45:43ID:nYUY6Rrh
>>339>>341
この辺り(旧明野町)は争奪戦が繰り広げられた所だから、一概に誰の所領と断言するのは難しいかな…

小田原征伐前と後では大して変わらないと思うが、それ以前となると…

時期を特定して呉れれば良いのだが…
0344(´ω`)2008/12/18(木) 06:58:31ID:etPz4Nvi
>>341
ちょうど結城系、小田系の所領の境目付近だな。

海老ケ島は、もともと結城系の所領であり、室町中期に小田によって攻略され、
その後1595に佐竹家臣で旧小田家臣の宍戸氏が入るまで、ずっと小田系だった。
というわけで、戦国時代はほぼずっと小田に年貢を支払っていた地域だったことは間違いない。

ついでにこの西のほうには鳥羽の淡海(騰波ノ江)という湖沼があって、
今小貝川の流域はほぼ水の下だった。
あなたの住んでいる場所は戦国時代は島のようになっていた場所で、
高道祖で下妻の台地と狭まっていた。。
この湖沼地帯はうんちくせい市の北のほうまで繋がっていて、
今は陸地のくせに、やたらと「島」とか「谷」という文字のつく地名が多いな。
また近世以降に水面上になってあらたに名前のつけられた地名も非常にわかりやすい。
0345人間七七四年2008/12/18(木) 22:52:09ID:2u7egJzG
小田天庵ほど領民に慕われた小田氏当主はない
0346人間七七四年2008/12/20(土) 10:08:19ID:kLxJqssg
>>344
龍ケ崎やら江戸崎も今じゃ内陸だが昔は遥か県西まで内海が入り込んでいたから崎なんだよな
県西のあたりで海道を目にするのもその名残りのようだ
常陸南部や下総は水だらけだ
03473392008/12/20(土) 15:09:06ID:nHFhvQyv
>>342-346
皆様反応ありがとう御座いました
たしかに浜とか島とか付く地形はめちゃくちゃ多いですね
当時の地形ががどんなだったかから調べていきたいとおもいます
とりあえず家のあたりの領主様は結城系→小田系→佐竹系→天領
って流れみたいですね

争奪戦が結構あったって話ですが小田や結城の動員兵力ってどんなもんだったんでしょうね
0348人間七七四年2008/12/29(月) 15:40:51ID:rUJdqvyX
牛久沼も名残の一部だね。
0349人間七七四年2008/12/30(火) 04:58:05ID:9qLpe5Yz
>>347
ずーっと天領?
旗本の知行地とか大名の属領(飛び地)とかになってないの?
0350人間七七四年2009/01/07(水) 14:40:28ID:WY4JvlVC
常陸の特に西部や南部は入り組んでますから。
0351人間七七四年2009/01/16(金) 05:07:15ID:i0BHMLZT
小田政治って本当に堀越公方政知の子供なの?
0352人間七七四年2009/01/16(金) 12:06:42ID:Czt3HAV7
政治実父は足利義澄、足利義稙、足利政知、小田成治など諸説あるが確証を得ない
0353人間七七四年2009/01/18(日) 04:01:04ID:mPbbeYTi
政治は堀越サイドからの関東への楔の一つとして打ち込まれたのかなぁとか
いろいろ想像しちゃうけどなぁ

北条顕家は騎西城城の小田顕家とは別人なんだよね?
0354人間七七四年2009/01/18(日) 17:25:36ID:p8PuRYwc
気になって図書館で町史読んできたんだが
小田さんの海老ヶ島城には『海老ヶ島七騎』なる武者が居たらしい
やばい 地元民からすると全く強そうに聞こえないwww
しかも小田の海老ヶ島城失落時にうちの村に落ちてきて地侍化とかある
たしかに七騎と同じ名字の家メチャクチャ多い
しかし海老ヶ島から5キロぐらいしか離れてないのにそんなところで地侍化して大丈夫なのか?
0355人間七七四年2009/01/18(日) 19:01:08ID:rPodWE7M
>>354
当時は大丈夫だったんじゃなかろうか。
うちの近所にも落城した城の話があるんだけど、そこから逃げ出した
家臣がちょっと離れた場所に住み着いたという砦の伝承がある。
0356人間七七四年2009/01/27(火) 08:04:27ID:UMQdjwLn
小田政治が堀越公方の息子かどうかという話だが、多分仮冒。
小田が藤原姓から源姓に変わったこととも関係があるだろうな。

多分長尾が管領を継ぎ、北条も管領を私称し、
里見も公方の奉行だか政所管理者から副将軍を名乗り、
佐竹も東国の右京大夫だと言い出したので、
小田も対抗するためにそういう話を作ったんだと思う。
態々公方を担ぎ出したのだから、
恐らく何か小さな縁でもあって、そういうことにしたんじゃないかな。
0357人間七七四年2009/02/06(金) 15:43:49ID:wqa724dQ
宇都宮・小山・佐竹スレなので質問させて下さい。
今家系図を調べていて、氏綱さんを探しています。

小山家の末裔で家紋が佐竹の扇から来ていて
先祖が宇都宮の綱が入ったと思われる「氏綱(天文十九年享年)@お墓記載」なんですが、
困った事に紀州の小山家なんです。
小山高朝の子供の実隆・経幸が紀州にいるのは調べました(本:紀州小山家文書)が記載はありません。
それでもうひとりの結城家より養子できたもう一人の高朝の関連とややこしくなっていて
もうどうしていいやら解らず詰まっています。

あと小山広綱・宇都宮広綱 は別人ですか?


0358人間七七四年2009/02/06(金) 16:04:00ID:/3madPJT
>>357
ヒント:氏綱じゃなくて氏朝。と言ってみる。

宇都宮広綱は元亀天正の頃の人で、
他の広綱とは間違えようのないくらいしっかりした人。
小山と宇都宮は、系図がごっちゃになるほど血縁的に繋がっていない。
0359人間七七四年2009/02/06(金) 16:19:44ID:wqa724dQ
>>358
早速ありがとうございます。残念ながら氏綱なんです。
もう書いてしまいますが

安居初代1世
小山四郎左衛門氏綱
天文19年10月24日享年

この人を探しております。

宇都宮家とは綱位しか関係ないなーとしか見てないのですが
家紋が佐竹の扇から来ているものなので佐竹と関係があるのかなと思ってます
あとお墓が和歌山なので余計に解らなく・・・
歴史オンチなせいで宇都宮広綱さんが有名な人だと知らずに質問してすいません。
0360人間七七四年2009/02/06(金) 19:29:43ID:kJfcIS8w
>>359
その氏綱の前後の人はどんな名前と字で、誰に仕えてたの?
そんでどんな資料に書いてあったんだ?
宇都宮広綱のことと同様に、下野の高朝と紀伊の実隆父の高朝では
活躍した時代も場所も全く違うので混同されるはずがない。

>これら小山氏の活動は『紀伊続風土記』に散見しているが、
>文書に年号や名字がないため、その足跡を編年的にたどることは容易でない。

播磨屋のページにもこう書かれているし、信頼されたる可能性が非常に低いな。
0361人間七七四年2009/02/06(金) 20:39:44ID:kJfcIS8w
暇なのでもうちょっと書いておく。
>ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/oyama.html
>ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/ks_koyam.html
播磨屋のページで見ると、南北朝期の高朝から下野と紀伊の系図が全く違う。
下野小山の高朝の子は朝郷・氏朝だが、紀伊小山は経幸・実隆だ。
これから判断すると、下野小山の系図に、紀州小山の系図を経幸・実隆の
部分から無理矢理繋げた可能性が非常に高い。
しかもurlを見ると紀伊小山氏は「おやま」でなく「こやま」じゃないかい?
東国では「小」を「お」と読み、西国では「こ」と読むことが多い。

また実隆以降、「隆」の字が必ず上について継承されてるのが気に入らないw
土豪クラスでこれがあるのは、相当名門の場合に限ると思うのだが如何なものか。
その上信長に仕える前の人の名前に「左京」「帯刀」と、
かなり江戸臭を感じる百官名が入っている。
経幸系はまだマシで、あざなのみの記載と割と信用できる部類か。
大体土豪クラスは実名が代を通じて定まらないことが多く、
多くの場合あざなや官途のみしか書かれていなかったりする。
「氏綱」という名から判断するに、経幸子の「氏朝」あたりと符合するのでこの系統か。

>家紋が佐竹の扇から来ているものなので
扇の家紋といってもいろいろあるからなあ。佐竹は「月扇五本骨」なんだが。
なんの根拠もない私見だが、たぶん佐竹とは関係がないと思う。
紀州で佐竹といったら、雑賀衆の佐武義昌しか知らんし、
これが月扇五本骨を使用していたかも、「氏綱」と関係あるかも全く不明。

全体から見ると、紀伊小山氏は紀伊の土豪で、下野小山とは全く関係がなく、
経幸・実隆と呼ばれる人から家が勃興したんだろう。
子孫は彼らを先祖とする伝承を持っていたが、確実な文書史料等はほとんどなく、
江戸期に系図を再構成した可能性が非常に高い。これはよくあること。
その際、中途の名前を想像で入れるとともに、下野小山に繋げた。
03623592009/02/06(金) 22:21:48ID:ezrb5XUl
沢山情報ありがとうございます。
>>36
資料元は義父の調べた結果の家系図です。それを調べていて不自然だったので
調べると繋がらなかったという事で質問させて頂きました。

ただ上記に書かれてある氏綱からの情報はお墓の情報からのもので
享年だけは記載されています。
元々はちゃんとした家系図があったそうですが昔和歌山の台風?洪水?で流されてしまったとの事です。
その氏綱の親にあたる所が義父も解らず適当に高朝(実隆の父)とくっつけたという無責任な状態orz
氏綱の続きは四郎左衛門の名前だけ繋がってるのです。
ただ、大円寺創興祭神主と書かれた四郎左衛門がいます。これもどこの大円寺だよって感じで信憑性が・・・
そこに藤原則重という名前も書かれています@享年元和九年十二月二十九日

あと「小」は「こ」と呼びます。実際は屋号がついてちょっと違う名前なんです。
その辺はばれてしまうので伏せさせて頂きます。

あと経幸の子孫に「小山肆成」がいます。日本初の天然痘ワクチンをつくった方なんですが
その人の資料より
”正平二十一年(1366)三月田辺口合戦には、多くの負傷者と小山三郎吾郎、同四郎左衛門、周弥三郎、同重左衛門
同兵部丞、−−−割愛−−−−其の子左衛門少尉兼光は、畠山家に属して吉野に奉仕し・・・”
と書かれていて、義父曰くその四郎左衛門が先祖のはずと。
>経幸子の「氏朝」あたりと符合するのでこの系統か。
だからこれだと嬉しいですね。ちょっとこの辺を調べてみます。
ただ、家紋が気になってしまって。家紋は調べると毎回佐竹家が登場するので
関係があるのかと思い私の思いこみで下野国小山を調べていました。

どうも下野国とは違うルートのほうがよさそうですね。
結果スレ違いになってしまって申し訳ないです。歴史の詳しい方の意見が聞けて良かったです。
ありがとうございました。
0363人間七七四年2009/02/16(月) 16:05:14ID:F4Zc+Sji
ここは詳しいですよね。
0364人間七七四年2009/02/26(木) 15:19:52ID:zdJhEDfU
下野は力が拮抗していて面白い
0365人間七七四年2009/02/27(金) 13:51:54ID:Ab0we9CO
拮抗というか
ドングリ'ryというか

あのウチゲバ大好き体質はなんとかならんか
0366人間七七四年2009/03/05(木) 15:15:29ID:+/IGTlbD
本来力があるはずの小山が 結城とともに叩かれたから。
0367人間七七四年2009/03/06(金) 08:33:28ID:EO5s3j1O
赤松がとっとと義教暗殺してれば・・・
0368人間七七四年2009/03/16(月) 15:47:16ID:Kfzj+SlZ
持氏に近づき過ぎたんだ
0369人間七七四年2009/03/17(火) 14:18:57ID:0IypERhu
バーブ佐竹
0370人間七七四年2009/03/17(火) 14:21:30ID:0IypERhu
烏山300万石
0371人間七七四年2009/03/20(金) 19:36:40ID:rzUgm7i9
伊王野の朝鮮出兵時の働きについて
0372人間七七四年2009/03/25(水) 21:42:55ID:esGIwyB6
age
0373人間七七四年2009/03/27(金) 13:18:00ID:0J5VyluI
2009 秋田知事選
http://www.sakigake.jp/p/special/09/chijisen/

秋田県角館市、佐竹北家の当主、佐竹のりひさ氏。
【略歴】
1947年、秋田県角館町(現仙北市)生まれ。東北大学工学部卒。
72年、秋田県庁に入庁。工業振興課長、地方課長、総務部次長などを歴任、
97年、県庁を退職。2001年7月、第17代秋田市長に就任、
同年8月、秋田県市長会会長。03年、全国市長会副会長、政府税制調査会委員。
07年6月、全国市長会会長、同7月、地方制度調査会委員。
09年3月、秋田市長を退職し、4月12日の秋田県知事選へ向けて始動。

ちなみに、30年にわたり、姉妹都市交流が続けられているんだとか。
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