【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】
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1.太閤検地によると旧那須領は8万石。宇都宮領は18万石らしい。
(1).天文十八年(1549) 那須高資は、喜連川五月女坂の戦いで宇都宮尚綱(広綱の父)を敗死させてる。
(2).天正十三年(1585) 義重・宇都宮国綱(広綱の子)・結城晴朝・塩谷義綱が、那須資晴・塩谷孝信に薄葉が原の戦いで敗れた時、国綱は討たれそうになるも、大関高増(安磧)の献策!?でワザと逃がしたらしいね。
2.那須氏の歴史については3つ。
(1).伊王野氏の子孫が書いている↓ココのサイトの閲覧をお進めします。少々長いが面白い。上の話も詳しく載ってる。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~ionowie/nasu1.html
(2). 荒川善夫著『戦国期東国の権力構造』
これは那須家中や那須家と上部権力(古河公方・謙信・義重など)の関係について書いてある。
(3). 那須家中は一つにまとまってないから、領土拡張どころではなかったのでは?
那須七党は、大関・大田原・芦野・福原(冨久原)・伊王野の5氏が上那須衆。那須本家(岡本)・千本が下那須衆なんだけど…。
室町幕府側の上那須家と古河公方側の下那須家に分かれて、惣領を争っていたんだよ。(佐竹もそうだけどね。)
結局、1516年に下那須家が、上下那須家を統一するんだけど…
その後も被官国人の独立性が強く、那須本家は他の6氏を支配できず、領主連合体であったようだ。
>>707さんへ
「具体的根拠」は?
追記↓
天正十六年(1588)
大掾清幹、江戸重通と反目し、北条氏の救援を求む。
2月16日 義重父子、江戸氏救援のため出陣。
4月上旬 大掾氏に味方する氏直、霞が関南岸の江戸崎まで出陣。松田憲秀は水軍を使って北岸の高浜に上陸するも、東義久に撃退される。
氏直、矛先を変えて、多賀谷氏の谷田部城、小田の藤沢城を攻撃するも失敗、帰国する。
5月初旬 義重父子、大掾と和して帰国。
「義重家譜」「烟田旧記」
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