【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 02:02:05ID:DVvJduHN常陸・下野の戦国時代を語りましょう
0202人間七七四年
2007/11/25(日) 20:15:53ID:KNxgR3QK0203人間七七四年
2007/11/25(日) 22:35:00ID:8VZ84InR関東幕注文では佐竹衆と那須衆の名前がないね
いずれも家譜では名が挙がってるけど
この頃白河・佐竹・那須の戦いが激化していたから参加できなかったのかもしれない
佐竹はとりあえず代官を派遣したようだけど、那須もそうだったのかも
あるいは那須は北条寄りだったから参加しなかったとか
0204人間七七四年
2007/11/25(日) 22:42:33ID:8GE49TQk佐竹らと対していたからだろうな。
0205人間七七四年
2007/11/25(日) 23:15:42ID:8VZ84InRそれってニノ丸跡にある集古苑って所ですか?
白河についたころは既に暗くなりかけていたので展示物関連は見る暇なかったorz
>>202
そうなんだよね
小峰城につられて肝心な白河氏の本拠地を見逃してしまったorz
中世城跡好きを自負していたが、やはり近世城跡は存在感があるからなぁ
まあ、今回は那須氏関連が目的だったので白河にはもう一度行かねば…
那須・佐竹の歴史を知るうえでは南陸奥も押さえねばなるまい
0206人間七七四年
2007/11/26(月) 22:36:39ID:gE3FaWsZ宇都宮家の石高が39万石…
計算が合わん
0207人間七七四年
2007/11/27(火) 02:15:06ID:vh4r9Efbつか具体的には白河結城の為にどんな行動したんだろ謙信?
0208人間七七四年
2007/11/27(火) 15:17:49ID:FJuPdR5z0209人間七七四年
2007/11/30(金) 16:00:27ID:nidjiO0tというか城じゃない・・・ただの土手です
鬼怒川沿いの堤防の方が立派だよ
0210人間七七四年
2007/12/08(土) 17:03:34ID:bkV1iuzG宇都宮家関連の資料展示はけっこうある?
0211人間七七四年
2007/12/08(土) 18:25:01ID:N8rZbvls資料を見たいなら図書館にでも行く方がよいでしょう
0212人間七七四年
2007/12/08(土) 21:33:50ID:XwcqqLa9宇都宮家は19万石だろ
0213人間七七四年
2007/12/08(土) 23:12:51ID:N8rZbvls検地の結果39万石が打ち出され大幅な石高隠しが発覚し改易の一要因になったとの事
0214人間七七四年
2007/12/11(火) 15:02:20ID:e2kuTMoj長宗我部の場合はどうだったんだろう。たしか慶長検地の段階では
9万と8千石だったが、実際には20万石強あったようだし。
0215人間七七四年
2007/12/18(火) 07:22:53ID:bkP6Mk6Iしかし表高と同じだけの石高を、隠せるもんなのか?
秀吉も浅野長政も実際に宇都宮に足を踏み入れて、
更に北まで実地を見てるはずなのに、感づかないってのも妙な話。
なんか通説になっていないような裏話がまだありそうだな、改易関係は。
0216人間七七四年
2007/12/18(火) 22:31:50ID:LILDhyq9下野 常陸
宇都宮国綱(甥)−佐竹義重(叔父)
(兄)
\ /
下総
結城 朝勝(甥)
(弟)
東海道と東山道を抑えられてる
あと北行くには冬場は雪が素敵な北陸道
朝勝は家督譲られていたのに当時秀吉の養子だった秀康に奪われてるし
0217人間七七四年
2007/12/19(水) 13:43:03ID:E0ZR31B/北条を例に挙げれば、
土地、田ならどれくらいの広さで幾ら畑ならどれくらいの広さで幾ら、で規定されていた。
0218人間七七四年
2008/01/04(金) 11:56:54ID:v1L6Y3wY佐野が3万2千石、那須本家が8万石など
0219人間七七四年
2008/01/09(水) 22:31:04ID:xuPsjMpC栃木関連は反応がなさすぎるw
0220人間七七四年
2008/01/09(水) 23:48:12ID:9i+U2WXk0222人間七七四年
2008/02/01(金) 15:09:17ID:CGJyUhuA0223人間七七四年
2008/02/09(土) 23:44:15ID:SNzkO9BG佐竹や宇都宮との関係は悪化し、結城とも敵対していたから小田原征伐にも参陣せず
宇都宮宗家に成敗された
笠間氏の本家である塩谷氏も小田原征伐後、反逆の意思ありと宇都宮宗家に成敗された
壬生氏も元は宇都宮に属していたが宇都宮尚綱討死による混乱のなかで
宇都宮と対立して独立し、北条と結び付きを強めて行ったから小田原征伐後改易された
益子氏も結城氏に寝返った為に宇都宮宗家に滅ぼされた
松野氏、武茂氏、茂木氏らも宇都宮一族だが次第に佐竹寄りになり配下に組み込まれていった
宇都宮は関東屈指の実力者だったが尚綱が那須氏に討たれて以来
家中の分裂が加速し苦しい状況に置かれた
0224人間七七四年
2008/02/18(月) 16:07:51ID:JkN6UL6G0225人間七七四年
2008/02/19(火) 12:50:32ID:NO2i8EHBhttp://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E7%9A%86%E5%B7%9D%E5%9F%8E&lr=&ie=UTF8&ll=36.391544,139.682708&spn=0.017238,0.027852&z=15
0226人間七七四年
2008/02/28(木) 12:05:14ID:rL0GYYOT城下町形成するには不向きだが絶好の要害だ
0227人間七七四年
2008/03/03(月) 20:21:43ID:PcGSW13B下野南部と言えば名族小山氏がいる
小山氏の子孫は現在、小山市に戻って生活しているそうだ。
ご当主は老齢らしい。
0228人間七七四年
2008/03/03(月) 21:02:29ID:731abafOやはり源氏でないと不利か。
由良でも(偽源氏みたいだが)高家になってるのに。
0229人間七七四年
2008/03/05(水) 02:15:52ID:bEHDlJVeしかも嫡男が早死にしているし。
0230人間七七四年
2008/03/11(火) 00:20:09ID:Jf/RYYxj結城が徳川に乗っ取られて続いてしまった以上、
付属物の取り立てなんぞ考えないだろう。
0231人間七七四年
2008/03/27(木) 15:14:47ID:Qvnmyz05江戸期は水戸家客分だね。
0232人間七七四年
2008/04/10(木) 15:40:50ID:cDUcZIDb0233人間七七四年
2008/04/13(日) 04:32:47ID:iZu7QRvphttp://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/
から移動してきました。
1.太閤検地によると旧那須領は8万石。宇都宮領は18万石らしい。
(1).天文十八年(1549) 那須高資は、喜連川五月女坂の戦いで宇都宮尚綱(広綱の父)を敗死させてる。
(2).天正十三年(1585) 義重・宇都宮国綱(広綱の子)・結城晴朝・塩谷義綱が、那須資晴・塩谷孝信に薄葉が原の戦いで敗れた時、国綱は討たれそうになるも、大関高増(安磧)の献策!?でワザと逃がしたらしいね。
2.那須氏の歴史については3つ。
(1).伊王野氏の子孫が書いている↓ココのサイトの閲覧をお進めします。少々長いが面白い。上の話も詳しく載ってる。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~ionowie/nasu1.html
(2). 荒川善夫著『戦国期東国の権力構造』
これは那須家中や那須家と上部権力(古河公方・謙信・義重など)の関係について書いてある。
(3). 那須家中は一つにまとまってないから、領土拡張どころではなかったのでは?
那須七党は、大関・大田原・芦野・福原(冨久原)・伊王野の5氏が上那須衆。那須本家(岡本)・千本が下那須衆なんだけど…。
室町幕府側の上那須家と古河公方側の下那須家に分かれて、惣領を争っていたんだよ。(佐竹もそうだけどね。)
結局、1516年に下那須家が、上下那須家を統一するんだけど…
その後も被官国人の独立性が強く、那須本家は他の6氏を支配できず、領主連合体であったようだ。
>>707さんへ
「具体的根拠」は?
追記↓
天正十六年(1588)
大掾清幹、江戸重通と反目し、北条氏の救援を求む。
2月16日 義重父子、江戸氏救援のため出陣。
4月上旬 大掾氏に味方する氏直、霞が関南岸の江戸崎まで出陣。松田憲秀は水軍を使って北岸の高浜に上陸するも、東義久に撃退される。
氏直、矛先を変えて、多賀谷氏の谷田部城、小田の藤沢城を攻撃するも失敗、帰国する。
5月初旬 義重父子、大掾と和して帰国。
「義重家譜」「烟田旧記」
0235人間七七四年
2008/04/21(月) 15:01:28ID:I2GMQHuI私の過去レスを追えば分るが…
私は石高至上主義ではありません!!
260: 常陸の最強武将 佐竹 鬼 義重 スレッド、つまりココ↓
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196512813/
702番目のレスを見てください!!
質問が来たから答えたのみです。
0237人間七七四年
2008/04/24(木) 12:52:26ID:u3pv6r2G松田憲秀は水軍を使って北岸の高浜に上陸するも、東義久に撃退される。
水軍を使っての上陸作戦は牽制球投げたようなもんで
それで勝とうとは思っていなかったと思う。
0238人間七七四年
2008/04/24(木) 13:07:07ID:oHyIvEmA中年だと思ってない中年じじー死ね 中年だと思ってない中年じじー死ね
中年だと思ってない中年じじー死ね 中年だと思ってない中年じじー死ね
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その老いたすがた気持ち悪すぎ
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0240人間七七四年
2008/04/27(日) 07:08:49ID:D5VdN70t北条は霞ヶ浦に水軍を持っていたのか?
それとも相模湾から外房を回って常陸川を遡上し霞ヶ浦まで水軍を持って来たのか?
0241人間七七四年
2008/04/27(日) 15:31:39ID:Ked+AYRC在地勢力が麾下になったときに水軍も接収しているかと。
本佐倉城なんか軍港があったはずだし、持っていなかった訳ではないだろう。
0242人間七七四年
2008/04/27(日) 17:31:08ID:l3jHX27q持っていたとしても小規模で
戦況を左右するほどの力はなく
兵站や偵察や連絡が主任務だったのではないか?
0243人間七七四年
2008/04/28(月) 15:11:06ID:TYwDzyw4常陸南部や下総では陸上より水上の方が重要だった
というか舟がないと行動がままならない
だからこの辺りの勢力は皆水軍を保有していた
北条軍が舟で北上してきた事は何の不思議もない
むしろ徒歩で遥か迂回してくるほうが不可解かと
0244人間七七四年
2008/04/29(火) 19:01:02ID:xrVTbjAc霞ヶ浦の水上交通網(水運)が発達して居たのは承知してますが、「水軍」と言われるとちょっと違和感がある。
水軍、つまり純粋に戦闘艦を擁して居たのか?
水運用の船に兵士を乗せただけジャマイカ?
0245人間七七四年
2008/04/30(水) 15:03:07ID:GALr8pKV常陸下総あたりの豪族の舟なんて分かるわきゃないだろ
0246人間七七四年
2008/05/01(木) 05:00:08ID:wRfhRGkh関船とか…
小早とか…
村上(毛利)や織田(九鬼)なんかは保有してたのでは?
0247人間七七四年
2008/05/01(木) 23:00:50ID:TRSpS76n0248人間七七四年
2008/05/13(火) 14:48:37ID:GJVUuoHt0249人間七七四年
2008/05/13(火) 16:25:01ID:MC0Wx3Zo0250人間七七四年
2008/05/13(火) 20:22:47ID:LOKAay230251人間七七四年
2008/05/14(水) 05:55:54ID:GKAN93pd0252人間七七四年
2008/05/17(土) 19:26:27ID:Z8ZbIL9a0253人間七七四年
2008/05/17(土) 20:25:11ID:UrwZeb1M0254人間七七四年
2008/05/18(日) 00:17:28ID:HZEiy/GM0255人間七七四年
2008/05/18(日) 10:35:11ID:wi0CEqiO0256人間七七四年
2008/05/18(日) 11:15:18ID:IadWknSc0257人間七七四年
2008/05/18(日) 11:49:28ID:wi0CEqiO0258人間七七四年
2008/05/18(日) 12:04:18ID:IadWknScと言ったのに
保持とか超後付け設定でワロタw
0259人間七七四年
2008/05/18(日) 12:14:12ID:wi0CEqiO0260人間七七四年
2008/05/18(日) 12:44:25ID:ZWoYsZuD佐竹は別に強い訳ではなく、単に攻めにくい土地にあっただけ
地形を熟知しているホームでの持久戦には強かった。
こう着状態やにらみ合いを苦にしない芸風。
0261人間七七四年
2008/05/18(日) 12:47:48ID:IadWknSc0262人間七七四年
2008/05/19(月) 13:50:36ID:wCwb3zCl農繁期にはあまり攻めてこないんだよね。
0263人間七七四年
2008/05/19(月) 14:08:10ID:Wk/UnuCN撤退→鬼追撃が待ってるからね。
だいたい苦しみながら佐竹が我慢大会に勝って北条を追撃してる。
北条追撃終了後に体も休めず佐竹領地で必死に田植え耕作してるよきっと。
対北条戦は北条の城を落城させるわけじゃないから佐竹は恩賞与えなきゃいかんし頭が痛いだろうけど。
0264人間七七四年
2008/05/20(火) 00:37:50ID:Yg6Enmtl戦闘に強いイメージがある。
0265人間七七四年
2008/05/20(火) 02:04:47ID:pVwhPFuB0266人間七七四年
2008/05/20(火) 08:45:21ID:W0yzPz3X河川や池沼が多いのは小田や結城の支配下である常陸南部や下総
0267人間七七四年
2008/05/23(金) 14:40:14ID:eK7uWInY服従どまりで完全な家臣化はしてない独立性の高い土豪の集団だもんね。
宇都宮家なんかもいろんな大名が服従してて仲は悪かったのかね? 完全な家臣化してたのかな?
あと指示系統の話なんだが、宇都宮家←鹿沼氏(服従)←日光山(服従)だと
宇都宮家は直接日光山には指示でき無いんだろうか
時代ごとの那須家の石高と服従してる大名達の石高さらに大名に服従してる土豪達の
石高なんかが載ってる資料ないですかね? 知ってたら教えてくれ。
0268人間七七四年
2008/05/23(金) 16:27:39ID:kv4x1zl8宇都宮家は直接日光山には指示でき無いんだろうか
たしかできないと思う。
0269人間七七四年
2008/05/23(金) 18:29:50ID:35Imut1t>佐野は人質を気にせずに何度となく反乱してますね…
本当になぁ
なんとなく謙信と由良が対立してから
謙信と佐野の関係が改善してるようだけど
また叛いて、人質を越後に差し出して
それでも又叛いて
北条寄りだった由良とも大喧嘩して
佐野の動向は無茶苦茶だから難し過ぎる
誰か分かり易く唐沢山戦史をまとめてくれないかな
0270人間七七四年
2008/05/23(金) 19:22:49ID:/c2j1UEW0271人間七七四年
2008/05/23(金) 19:43:27ID:XGSCYFAH唐沢山天狗岩に武者の幽霊が出るのもそのせいだろうか。
余談ながら当時の実際の武者姿を見たくて、
深夜の唐沢山に行くべきかどうか一時期迷っていたが、
さすがに不謹慎なんで思い止まりましたw
0272267
2008/05/24(土) 14:17:06ID:me0RNfzlどもです。
服従と言っても対等軍事同盟や不可侵援軍同盟なんかが時代ごとに変化して
一口には言えないんだろうけど、ややこしそうな時代だ。
先方に派遣する使者選びも頭かかえそう
0273人間七七四年
2008/05/24(土) 22:54:45ID:OauhOSOm日光山は宇都宮氏と対立する壬生氏と関係が深いから、
間接的な指示とかそんな問題じゃない気もする。
宇都宮家←壬生氏(宇都宮家と対立)←日光山(壬生氏を支援)
0274千本資政ってどお?ってどお?
2008/05/28(水) 14:40:20ID:qa61uOe71.水軍と霞ヶ浦の件
当時の霞ヶ浦は…香取浦という海だったんだよ。
↓詳しくはココをつついて見てね!!
http://www.jsidre.or.jp/com/hpcheck/rekishi/p094_95/p094_95.htm
琵琶湖にも堅田など、資料で確認できる限り数ヶ所の港(湖岸の都市)に水軍があった。
村上や九鬼に比べれば小規模だけどね。
だから、香取浦にもいたんじゃないのかな?
確か、奈良時代まで東山道のルートは、水戸街道ではなく…
下総経由で常陸に入り、そこから水路で
江戸崎→霞ヶ浦→高浜
と続いていたらしい。「常陸風土記」より
ただ、常陸・下総水軍というのは、ざっと見たところ載ってないけどさ。
これも宿題だね。
2.>>267さんへ
小田原征伐後は…わかる限りで
伊王野家は1万石であった所領が735石。
芦野家は700石となった。
大関家は大関安碩(高増)に1万石、増晴に3千石を与えられ、合計で1万3000石の大身となった。
大田原家は7000石の所領を安堵された。
0275(´ω`)
2008/05/28(水) 14:53:41ID:/5R7Ij1uそんでそいつらは鹿島社がたばねていたようだ。
もちろん四十四の湊が実際にあったわけじゃないぞ。たくさんあるって意味だ。
三十三館とかと同じだな。
0276:千本資政ってどお?
2008/05/28(水) 15:05:42ID:qa61uOe7そして、香取水軍? 鹿島水軍?についてのレスありがとう。
0277(´ω`)
2008/05/28(水) 15:30:07ID:/5R7Ij1uこれからもよろしくお頼み申します(´ω`)
0278人間七七四年
2008/05/28(水) 15:36:11ID:qa61uOe70279人間七七四年
2008/05/28(水) 16:17:25ID:qa61uOe7http://www.ktr.mlit.go.jp/kyoku/river/river_info/kasu_02_01.htm
江戸時代の霞ヶ浦・北浦では、霞ヶ浦四十八津、北浦四十四津と呼ばれる自治組織が霞ヶ浦を入会管理(共同管理)していました。
これらの結束を強化するために従来の漁業の慣習を明文化した「霞ヶ浦四拾八津議掟書」は
入会で漁をするときの漁具、漁法、漁期の制限について規定し、
これにより漁業資源の保護が図られ、湖の秩序が維持されました。
>>274のレス。訂正2ヶ所
1.×東山道→○東海道
2.×「常陸風土記」→○「常陸国風土記」
0280(´ω`)
2008/05/28(水) 18:23:25ID:/5R7Ij1u陸の百姓どもが武力を持っていたことを考えると、
海夫も当然行使できるほどの武力は持っていただろうね。
安宅船や関船はまず間違いなく持っていなかっただろうけれども。
ちなみにこの常総の流海周辺は伊勢とも非常につながりが深いな。
伊勢神宮と香取、鹿島のラインは古代中世から海のハイウェイだったんだろう。
0281人間七七四年
2008/05/28(水) 20:58:32ID:sI37mjFE里見や後北条が水軍を持っていたことは知っているが、
佐竹とかは水軍を持っていたんだろうか?
もし持っていても、戦闘用ではなく、警備とか偵察用の船か、
伝令用の早船ではないだろうか?
0282人間七七四年
2008/05/28(水) 21:23:55ID:IDfDm2Xhそれほどの通商路があったのかねぇ。。
琵琶湖は日本海から京への搬入路だったから栄えたが…鹿島灘を通過し霞ヶ浦を使用して税金まで取られて運び込んだ先が田舎町じゃな。
伊勢からの道ねぇ。せいぜい安房国までじゃないかのう。奇襲灘→遠州灘を通過したあげくに
さらに房総半島をぐるっと迂回して商売するメリットなんてあるかねぇ。瀬戸内海や伊勢湾と違いシブい小さな商売で税とるほどの地力なんてないんじゃない?
阿波国と安房国
和歌山県の那智勝浦・白浜海岸と千葉県の勝浦・白浜の共通点から古くから移住者が多かったと言われてるから安房とは馴染みがあるんだろうが常陸国はどうなんだろ。
房総半島と紀伊半島を重ねると伊勢神宮に鹿島神宮を重ねたりできるけど東京と大阪を重ねるみたいで無理やり感あるし。
0283(´ω`)
2008/05/29(木) 00:20:55ID:rlxd6W6O佐竹が水軍を持っていたという話は聞いたことが無い。
ただ那珂湊を管理していた佐竹の近習の真崎は那珂川久慈川の水運にそれなりに通じていたようで、
朝鮮渡海の際に佐竹の船奉行になっている。最も真崎しかいなかったとも見れるが。
>>282
そりゃ西国と比べれば海運、湖運の頻度は少なかっただろうね。
しかし年齢階梯制で横の連帯を重視する西国と親方子方で縦の繋がりに重きを置く東国じゃ、
特に入会が重要視される湖上の生活の在り方は違っていたと見るのが自然だ。
例えば利根川を通行する料船が関所で止められたことから千葉氏と揉めて、
幕府が裁許したということが鎌倉時代にあった。
上では香取社が流海の海夫を支配していたと書いたが、だがこれは実は建前であって、
千葉氏のような例を通して戦国時代には地元の領主が津々支配権を横領してしまっていた。
だから東国での事情は琵琶湖や瀬戸とは異なっていたのだ。
また東国にもしばしば「唐人」が訪れていたようで、佐竹義重は元亀二年に白土某に
水上する唐人の便宜を図ってやるように知行宛行し、
また天正二年には伊達輝宗が佐竹に紹介された唐人に会ったと日記に書き残している。
銭にならなければ当然態々大陸人が常陸くんだりまでやってくることは無いわけだ。
また唐人が来ているならば、当然ながら伊勢は言うに及ばず、
堺やそれより遠い日本の地方からも来ていたことは十分に想像できることだ。
ついでに、伊勢志摩の漁師は奈良時代から朝鮮のチェジュ島に行ってあわびなどを
手に入れていたらしく、また近代以後もチェジュ島から房総に結構な数の海女が
来ていたことなども考え合わせると、東国の水運は決して言及する価値が無いものじゃない。
0284人間七七四年
2008/05/30(金) 07:06:03ID:u3DXtiFX政朝・政勝・晴朝・朝勝ら下総結城氏を語る
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1212098363/
0285267
2008/06/02(月) 14:41:51ID:ASFmYRmm>>274
どうもです
自分は、下野新聞社の「那須の戦国時代」って本を参考にしてるんだが
出版が平成元年で古いのと那須地方しか載ってないので県中県南の勢力図
がさっぱり解らんです
0286千本資政ってどお?
2008/06/04(水) 16:25:04ID:tA65CWvo牽制じゃないと思うよ。
高浜というのは、府中(石岡市)と霞ヶ浦の間にある湖岸の村だよ!!
Googleマップで「茨城県石岡市高浜」と検索してみてください。
義重軍は大掾側の玉里城(小見玉市玉里、高浜の東北にある)を攻撃中だった隙を突いて、
松田憲秀軍が高浜に上陸し、大掾の本城である府中城に入ろうとしたんじゃないかな?
>>237さんへ
牽制じゃないと思うよ。
高浜というのは、府中(石岡市)と霞ヶ浦の間にある湖岸の村だよ!!
Googleマップで「茨城県石岡市高浜」と検索してみてください。
義重軍は大掾側の玉里城(小見玉市玉里、高浜の東北にある)を攻撃中だった隙を突いて、
松田憲秀軍が高浜に上陸し、大掾の本城である府中城に入ろうとしたんじゃないかな?
>>282さんへ。
「顔文字さん」の>>283のレスに追加するね。
江戸湾に中国から船が度々来ていたらしい。明と交易していたんじゃないかな?
0287人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/07(土) 07:55:43ID:lpyFVPg+高浜に上陸して府中に入るより、直接府中城近辺の湖岸に寄せて上陸した方が手っ取り早い。
高浜から府中へ陸路を採ると、当時は今よりかなり迂回しなくてはならない。
又再び湖水を渡る方が陸路より早いだろう…が、そうすると何故高浜上陸なのか…?
高浜上陸は何等かのイレギュラーだったと思います。天候、風向、地理不案内とか…。
正攻法なら直接玉里救援か玉里より南東部(旧小川町辺り)への上陸し玉里の後詰め。
又は、府中・玉里間への上陸。
但し戦況観望なら高浜上陸もあり得るが…。
しかし府中入城を企てたって説も捨てがたいですね。
0288人間七七四年
2008/06/10(火) 16:42:00ID:/QYTmWKg0289人間七七四年
2008/06/26(木) 14:47:27ID:K21sHFzC0290千本資政ってどお?
2008/07/02(水) 12:32:47ID:TaFvJvuZ高浜より南、つまり神立や土浦は、小田領(厳密に言うと菅谷氏領)であり、
天正十六年(1588) 当時は、小田は佐竹と同盟もしくは服従関係にあった。
だから北条軍は、大掾側の玉里や高浜に上陸せざるを得なかったのではないだろうか?
恐々謹言。
0291千本資政ってどお?
2008/07/02(水) 12:42:04ID:TaFvJvuZ「芳賀高定」只今調査中。
>>267-268さんへ。
宇都宮→鹿沼(壬生氏)→日光山。ちょっと違うんじゃない?
壬生氏は二派に分かれていて、「鹿沼城主の分家の周長」が宇都宮派で…
「壬生城主の宗家の綱雄ー義雄」が北条側であったのは周知の通り。
日光山の支配権は宗家にあったんじゃないかな? (場所は離れているけど…)
以上、「武家家伝 壬生氏」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mibu_k.htmlより。
0292人間七七四年
2008/07/08(火) 19:08:23ID:fYODVBuChttp://www.7andy.jp/books/detail/?accd=31623403
0293人間七七四年
2008/07/19(土) 14:34:46ID:gnasbNPR0295人間七七四年
2008/08/08(金) 15:08:11ID:6K85a0xY0296人間七七四年
2008/08/13(水) 04:38:44ID:3HKSZ3Ip0297人間七七四年
2008/08/19(火) 01:20:54ID:XZYd3F4u0298千本資政ってどお?
2008/08/27(水) 10:16:45ID:5+shKJrK芳賀高定は忠臣?
結論
忠臣かどうかの評価は悩むけど…
主家をもり立て、かつ自分の役割を自己認識でき、筋目を通す誠実な人だったらしい。
1,高定登場までを簡潔に…。
芳賀氏は宇都宮氏の一族でもあり、かつ重臣筆頭でもあるという特殊な家系。
芳賀氏と宇都宮氏の関係が始まったのは平安末期から。
奥州征伐の時にはその働きを源頼朝から称された。
あの『太平記』には「宇都宮は関東一の弓取りなり。【紀清両党】の兵は、命を捨てる事を惜しまない」というような文章がある。
紀は益子氏、清は「清原氏=芳賀氏」の事で、両氏は宇都宮氏の軍事部門を司っていた。
この頃、宇都宮氏綱が越後・上野守護になると、芳賀高名(入道禅可)は、その補佐役として同守護代を務めた。
以降、芳賀氏は代々主家と婚姻・養子縁組を通じて、密接な関係を築き、絶大な権力をふるうようになった。
つまり「宇都宮ー芳賀権力体制」(一心同体的な権力)
2,対立、そして高定登場。
戦国時代に入り、宇都宮氏は家中統制を強めようと、度々芳賀氏の相続に介入し、その権力の弱体化を図る。
(1).永正九年(1512) 宇都宮成綱は芳賀高勝を生害する。
(2).永正十三年(1516) 成綱、弟の興綱に芳賀氏を継がせる。
(3).大永六年(1526) 芳賀興綱、甥の宇都宮当主忠綱を追放し、宇都宮家を相続する。(芳賀氏復権。)
(3).天文八年(1539) 宇都宮俊綱(のち尚綱)は、芳賀高孝・高経を蟄居させたのち高経を殺害し「益子高定」に芳賀氏を継がせる。(宇都宮氏の統制強化。)
(4).天文十八年(1549) 芳賀高経の子、高照が那須高資・壬生綱雄・氏康・白河結城晴綱と組んで、 宇都宮尚綱(俊綱)を討ち、宇都宮城を乗っ取った。 (芳賀氏謀反。)
それに対し高定は、幼主広綱を擁して宇都宮城に復帰させようと奔走し、足利義氏(プラス氏康)・佐竹義昭・那須資胤(高資の弟)・江戸忠通を味方に付け…
天文二十年(1551) 那須高資を討ち、
天文二十四年(弘治元年・1555)頃 芳賀高照をそれぞれ討ち取って尚綱の仇を取る。
弘治三年(1557) 壬生綱雄より宇都宮城を奪い、広綱を帰還させた。
3,その後の高定
佐竹の軍事援助を受けて宇都宮城に復帰した広綱と高定だが、未だ内憂外患を抱える状態にあった。
内は、半独立状態の壬生・皆川がスキあらば宇都宮城を…
外は、北は那須・南は結城・小山連合が虎視眈々と宇都宮領を狙っていた。
この状況で高定は「主家と争わず以前のような“宇都宮ー芳賀体制”を守る事こそ、ひいては芳賀氏自体を守る事になる」と考えて、主家をもり立てたのでしょうね。(佐竹との縁組を進め同盟を強固にするなど)
それだけでなく実子を差し置いて、(4).の自分が殺害した芳賀高照次男の高継(高規)に家督を継がしている。
(自分はあくまでも益子氏であり、代理で芳賀氏を継いでいると考えたのでしょうか?)恐々謹言。
0299人間七七四年
2008/08/28(木) 03:13:11ID:7jq1dKK4芳賀高経の三男高継…高照の弟じゃなかった?
と、言ってみる
0300千本資政ってどお?
2008/09/01(月) 10:40:42ID:Q/++35j2そうですね、間違えてました。
>>298を後で読み返してみたら、第2章が大分間違っていたので、追記訂正します。
2,対立、そして高定登場。
(中略)
(1).永正九年(1512) 宇都宮成綱は芳賀高勝を生害する。(宇都宮錯乱始まる。宇都宮家中、二手に分かれて相争う。)
(2).永正十三年(1516) 成綱、弟の興綱に芳賀氏を継がせる。(内乱終息する。)
(3).大永六年(1526) 芳賀興綱、甥の宇都宮当主忠綱を追放し、宇都宮家を相続する。(芳賀氏復権。)
(4).天文五年(1536) 芳賀高経(高勝の弟)は宇都宮興綱を生害する。(芳賀氏の権力強まる。)
(5).天文八年(1539) 興綱の子俊綱(のち尚綱)は、芳賀高孝・高経を蟄居させたのち高経を殺害し「益子高定」に芳賀氏を継がせる。(宇都宮氏の統制強化。)
(以下、中略)
0301人間七七四年
2008/09/02(火) 08:43:22ID:ECqTNNUD■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています