【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 02:02:05ID:DVvJduHN常陸・下野の戦国時代を語りましょう
0019名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 12:36:53ID:0scEPiqt0020名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 13:21:38ID:FQE7hT0K国人の定義がはっきりしないが
規模的には皆川や壬生なんかより那須の方がかなり大きい
下野北部は大半那須領だからね
佐竹・千葉・宇都宮などと並んで関東八家に数えられている
0021名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 16:27:38ID:F2YBw/H/でも那須家をつぎ、更に養子に兄(五男)資之を…この系統が嫡流
那須七騎のうち、福原は資之の子資広(与一の兄四郎久隆の養子)、
蘆野と伊王野は資之の養子頼資、千本は与一の兄十郎為隆の系統で、
大関と大田原は丹党
0022名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 20:29:44ID:zq7S7Fbx那須氏と那須七騎の区別が付かないのか?
0023名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 04:39:36ID:PNaKsZc20024名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 11:15:18ID:xEzqaKOA国人っていう概念がなかったのでわ?
以前、町内会レベルの地域しか支配してないのに、「大名」と紹介されていた
下野大名がいたはず。平石氏だっけな?
今の本田技研の研究所当たりにいたらしいが
0025名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 16:32:54ID:n7caQM+F例えば常陸では大掾も江戸も、国人とは言わない
大名とも言わないが
0026名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 17:12:06ID:mrS1/DHf0027名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 18:38:24ID:335Cn3GC0028名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 19:54:50ID:3vshDa2Zとくに大掾は国香以来の名門だから
0029名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 20:32:06ID:PNaKsZc2一揆といえば、武蔵七党以来の平一揆とかはいつの間に消えたんだ?
0030名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/26(土) 15:10:01ID:MS85cFmB0031名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 23:17:53ID:lmXrtZCPとして、珍しいらしいよ。
0032名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 23:19:08ID:4sRpQqOA0033名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 00:23:17ID:YqQ7YG0a0034名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 20:28:53ID:bcvau+8h0035名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 21:24:29ID:YqQ7YG0a本丸の掘切は国道やら電車が通ってるから分かりにくいかもね
でも太田城に比べればマシだよ
太田は完全消滅…
0036名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 23:51:03ID:tb4YbyhCしかも、二の丸と合わせて城マニアにとって見学しずらい場所だよな。
小・中学校・女子高・女子高のテニスコートに、
本丸の一高ってカメラ片手にうろうろしたら怪しいやつになる。
0037名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 04:49:44ID:QQicupVS0038名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 06:24:13ID:3WLHm9/i0039名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 08:24:48ID:bnm91B1D0040名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 12:17:30ID:u8IUHEAz非常に中途半端に
0041名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 20:38:51ID:Ugrr23000042名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 19:10:27ID:bS150Th+kwsk
もしかして近衛の書いた「佐竹義宣」か?
0043名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 02:34:45ID:4fgqERNj本家の跡目相続収めに、鎮西からきますた城井とか
0044名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 08:54:48ID:zJOIoLWo宇都宮本家がお取りつぶしになった後水戸藩に拾われたり、瀬戸内海で水軍やってたのが
いたり、北九州にぶっ飛ばされて黒田家に殺戮されたのがいたりしたからな
ちなみに宇都宮市に宇都宮さんはほとんどいなかったはず。ルーツとしても伊予宇都宮や
豊前宇都宮の血を引く人の方が多かったような
0045名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 15:49:32ID:0wDa9DoC承久の乱で宇都宮頼綱の子頼業と時朝が活躍
頼綱が伊予守護に任じられ、頼綱の孫景綱の三男泰宗の子、貞宗が伊予に土着
鎮西信房流宇都宮氏
宇都宮初代宗円の孫信房が、平氏追討に功を立て、豊前に所領を得、城井に居城し、
子孫が分出し豊前国内で勢力をはる
0046名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 17:26:42ID:YKmvvbLW那須七騎じゃなかったかな
あと蘆野じゃなくて芦野だろ
0047名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 12:35:25ID:CkgMvKHv芦は蘆の略字だからどっちが正しいかと言えば蘆だろうけど
0048名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 16:22:46ID:5ub3f8Gk0049名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 22:16:23ID:c0xBw+Tt芦名氏の場合、会津の戦国大名は「蘆名」と表記されることがあるが、江戸時代伊達家に仕えた分家は「葦名」と
表記されている。
理由はよくわからないけど、江戸時代の今川家で「今川」と名乗れるのは本家だけで分家は「品川」を名乗ったのと
似たようなものか?
0050名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 22:53:14ID:4C0ADYq90051名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 11:25:49ID:y0Hcy0dC0052名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 11:36:08ID:8MZCqAm00053名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 12:32:43ID:yyxX0h2i葦名と蘆名は同じだよ
両方使われてて特に明確な区別はない
0054名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 12:40:55ID:seThMo/P0055名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 10:45:38ID:u8uySg7G0056名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 22:43:08ID:7UL8r9YR0057名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 12:43:36ID:i/sqUirH名前が思い出せない
0058名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/28(木) 19:53:58ID:CFZm+2ni0059名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 01:28:51ID:qzuxWsqU分家筋なら沢山いる。宇都宮って苗字ではないけど。
某町の前町長さんとか神社の神主さんとか。
0060名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 11:08:28ID:RGoTbs/K足利学校くらいしか思いつかん
0061名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 12:02:07ID:yKeg6ODxもともと鎌倉にいたけど、寛正六年(1465)享徳の乱の功で、山内上杉の推挙で足利の代官職を得、翌年入部
謙信と後北条の争いでは越後方だったが、天正十二年(1584)後北条に降伏
秀吉の小田原攻めで、小田原に籠城、敗戦後没落
0062名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 12:02:11ID:IL4rFpPn足利長尾氏がおるやん
0063名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 12:03:32ID:yKeg6ODx0064名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 12:06:49ID:IL4rFpPnあんたには負けたよ
0065名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 15:42:19ID:ezZuXxZM0066名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 17:40:56ID:rJ82spMj北条に付いた裏切り者だ。
0067名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 18:12:10ID:ezZuXxZMむしろ北条につかなかった下野の勢力なんて僅かしかいないだろ
というか皆無に等しい
そもそも裏切り者って誰を裏切ったんだよw
0068名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 01:32:05ID:SH6C3kC/その宇都宮にしたって、後五年あれば降伏か滅亡かしていたと思うけど。
0069名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 10:01:09ID:Eg4tfD9F人質も送ってるし
那須も北条側について幾度も宇都宮領や佐竹領を侵食している
0070名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 14:51:46ID:rsNQncNQ0071名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 16:38:09ID:Eg4tfD9F0072名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 02:10:10ID:q3DkbFLG0073名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 08:36:13ID:6jbo0X+Q0074名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 18:56:42ID:VW30R52u0075名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/08(日) 00:40:51ID:dxjz6n0Xまあ大名が滅ぶと言うことは、今で言えば倒産だからな。
自分と家臣の生活のためには背反も仕方ない。
0076名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/14(土) 00:35:27ID:FkJmLnqD水戸徳川家みたいなところもあるけど
0077名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/14(土) 03:51:39ID:1yuaGWpC0078名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/14(土) 15:24:50ID:Vwaexne9なんて相当の資金がないと無理だからな。そのくせ実入りは少ないし。
金持ちの道楽だろ>農家への転職
0079名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/14(土) 18:13:59ID:1yuaGWpC0080名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/21(土) 12:43:24ID:T/NrHpHf0081名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/21(土) 13:12:25ID:pcsspZcF戊辰のときに白虎隊みたいな美談があればよかった。
0082名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/21(土) 14:43:39ID:sCPvoNGz0083名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/22(日) 00:04:42ID:MuQJV98S佐賀を出すな佐賀を
ここは佐竹・小田・宇都宮・小山のスレだぞ。佐賀はダメだ。
佐賀はいかん佐賀は
0084名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/22(日) 07:02:04ID:kYCvGEiO0085名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/22(日) 10:42:52ID:3s1BApVr小山→結城→下総→千葉→佐賀
0086名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/26(木) 18:52:07ID:oIa8aEpOどうやったらそうなるのか俺は気になる。
0087名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/26(木) 19:40:40ID:su15u9Pt0088名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/27(金) 07:03:55ID:lDzYVA3k0089名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/27(金) 19:35:10ID:VlYs9arG地味ながら面白い地域ではある。
0090名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/27(金) 19:42:02ID:8qaNaDzO北関東で一、二を争う大勢力にしたし
下手すりゃ佐竹や宇都宮より大きいのではないかと思う
0091名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/28(土) 01:04:41ID:WqQK6kPD北条家もメジャーではあるが、メジャーな大名の中だと地味だし
0092名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/28(土) 06:00:32ID:XZDV7FuD傾いた小田家をそれなりに支えたと思うのだが。。。
>>91
畿内を制してこそ、天下という都合上仕方ないわな。
当時はかなり田舎だし。
0093名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/28(土) 15:47:16ID:ke2Z418q別に暗愚じゃないと思うよ
何度も城を落とされて、また城に復帰を繰り返してるから
0094名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/02(木) 12:35:42ID:0W/g0FT1一体何回負けて何回城を落とされた事かわからん
でも天庵自体は暗愚と言われても仕方ない人物かもしれない
というか戦が下手すぎる
菅谷氏をはじめとする家臣団が頑張ったから存続できただけで
でも政治力や人望はあったのかもしれない
家臣達も見離さず氏治を支え続けたし
領民も小田氏贔屓で別の勢力が小田領を支配しても
年貢を納める事を拒否して統治に難渋した
よくわからん人物だ
0095名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/03(金) 01:31:12ID:qGroDC1q0096名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/04(土) 13:48:19ID:DYVwVCbNまだよく読んでないけど、小田城が何回落ちているか抜粋
・弘治二年(1556)三月 結城氏に海老島の戦で敗れ、小田城落城、氏治土浦に落ちる
・同年 八月 氏治小田城奪還
・永禄七年(1564)一月 上杉、佐竹らに山王堂の戦で敗れ、小田城落城、氏治藤沢・土浦に落ちる
・同年 八月 氏治小田城を奪還
・同年 十一月 佐竹勢に攻められ、小田城落城、氏治土浦へ
・永禄八年(1565)十二月 氏治小田城奪還
・永禄九年(1566)二月 上杉、佐竹勢の攻められ、小田城落城
・同年? 時期不明ながら、氏治小田城を奪還
・永禄十二年(1569)十一月、太田三楽、梶原、真壁らに手這山合戦で敗れ、小田城落城、氏治土浦、藤沢に
(こののち小田氏の主力は、土浦、藤沢両城に移る)
・元亀二年(1571)末 氏治小田城を奪還
・元亀三年(1572)末 太田三楽により、小田城最後の落城
(こののち、藤沢城→土浦城→手子生城と順に落されていき、滅亡)
0097名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/04(土) 15:30:14ID:BGY6IBVY>・同年? 時期不明ながら、氏治小田城を奪還
このときは「落城」はしていないんじゃないかな。
氏治が小山と結城を頼って和議を申し入れたので、小田城が開城された。
そのかわり謙信は城中の人々(小田家臣の師弟とかだと思うけど)をみんなとっ捕まえて、
身代金を要求した。有名な話やね。
氏治はそのまま在城を許されたっぽい。
小田がここまで城を何度も取り返せたのは、やっぱり鎌倉時代からずっと小田領だったってことと、
太田梶原真壁というのが、小田に対して決定力をもってなかったってことによるんだろうな。
実際には小田のほうが動員力はあったわけで、太田らがなんとか戦術でしのいでいた感じ。
佐竹もこのときは奥州下野で忙しくて、小田のほうは何とかなっているのでいいやと後回しにしていたっぽい。
たまに手隙のときに来て放火する程度。
ちなみにこの永禄九年の小田攻めでこういう落居の仕方をしたことが、
のちの佐竹の戦略に大きく影響をしたようではある。
0098名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/04(土) 21:11:04ID:Swn/ZjgB小田強すぎてワロタw
0099名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/05(日) 17:38:50ID:plOLYeoc0100名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/05(日) 17:48:01ID:k0OOdYx994だがレスありがとう
やはり天庵は素敵な男だなw
戦じゃ弱いが占領軍は統治が難しく結局放棄せざるを得なかったようだ
まあ、何度か勝った事もあるようだが決定的な所で弱いんだよ…
土浦城主の菅谷氏もいつも逃げ込んでこられて大変だったなw
0101名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/05(日) 22:48:22ID:GAXGMFmX近くに住む者ですが、今時期は収穫も一段落で本丸周辺の城郭がクッキリ見えるのでオヌヌメ
ナイスな平城だと思います
激戦乱、南北朝時代の遺構がなぜ今日まで遺ってるかと云うと統治されてた祖先から、今だに住民から尊敬されてるのだと(親類談
アクセスは非常に悪いので大きい車では厳しいです
で..関城、大宝城ネタを誰か詳しくおながいします
0102名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/05(日) 23:33:11ID:60b74myQ0103名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 06:58:32ID:cnZfZFGH0104名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 08:52:13ID:XpWaN5Ts0105名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 09:58:38ID:HGJuxjkS0106名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 12:09:07ID:cnZfZFGH太田市の金山城なんて大した山じゃないぞ。
筑波山の南側を使えば作れそうなものだってこと。
0107名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 16:12:59ID:rI2rBhKC小田城の向かいの山に前山城と言う山城が築かれている
でも、平城の方が使い勝手がいいし小田城があれだけの大城郭に発展したから
ほとんど利用される事なく放置されていたようだ
古い時代は居住区である館と篭城する場合の砦は別個になっていたから
それの名残かもしれない
市史などによると戦国期にも整備されてたような事は書いてある
0108名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/07(火) 10:55:45ID:M6xmIfYc0109名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/07(火) 13:57:32ID:s9Mw04gTああ男体山(現在の難台山)城(砦?)もかな
0110名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/07(火) 13:59:03ID:s9Mw04gT勉強になります、ありがとうございました
0111名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/09(木) 19:52:02ID:bPdEBMLL水戸以北は山城が多いよ
まあ、小規模なものばかりですが
県境あたりになると月居城や金砂山城みたいな凄い要害にある(ほとんどただの山だけど
下野の山城だと
北条、上杉、佐竹なんかに攻められまくった唐沢山城が有名だね
あと那須氏の居城烏山城もかなり大規模な山城です
織田信雄もちょこっと居た事があったり
0112名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 14:48:37ID:rK7cnoWk袋田の滝の上の山ですよね
>金砂山城
佐竹秀義が頼朝相手に立籠もった城ですね
そうそう義舜が山入相手に立籠もったか
>ほとんどただの山だけど
非常時に難を逃れるために、常時家臣をおいていた、感じの城ですよね
0113名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/27(水) 09:12:23ID:wmL1Mu5n回易の理由が浅野の養子縁組を断ったからのが原因だけど嫡子に義綱がいるよね
0114名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/27(水) 12:36:05ID:pErHxYVP街道沿いで一面は平野に接してるから守り難そうだけど。
0115名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/27(水) 16:50:37ID:CaWEPiXh表高十八万石、実高三十九万石だったらしい
改易になる表向きの理由としては、この差が不正だと
0116名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/27(水) 17:33:30ID:SN2bbFNy表高と実高が違うなんてどこの大名でも同じ事だし
宇都宮は名門だが秀吉が警戒しなきゃならないような大名ではない
何かしら裏があったのかもね
ちなみに宇都宮の嫡流は水戸藩の家老になった
あと下野と言えば那須家は割と優遇されてるね
大田原・大関は関東で唯一外様として中世以来の領地を幕末まで維持した
那須本家は嫡流が無嗣断絶により改易されたが
分流が交代寄合(在国統治が許された準大名的旗本)として存続した
蘆野・千本・福原も交代寄合として存続
伊王野氏だけは無嗣断絶してしまったが分流は水戸藩に仕えた
0117名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/28(木) 23:08:57ID:B7kMoI+6宇都宮家臣の北条勝時とか武茂家臣の北条義興、守直やら
執権北条氏って下野に所領持ってたのかな?
そうだとしたらその傍系かも
0118名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/12(金) 00:24:22ID:KjSc+LyG私の友人の宇都宮市民は「宇都宮氏は吊り天井事件を起こした馬鹿だ」と嘆いていますが。
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