【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 02:02:05ID:DVvJduHN常陸・下野の戦国時代を語りましょう
0002名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 02:04:00ID:Koz/Bdk2佐野房綱は剣術の達人
佐野家最高
0003名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 02:07:22ID:Ck6JNXzY0004名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 02:18:47ID:AAPJmN7o0005名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 02:36:03ID:8yaI3rLp0006名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 02:37:17ID:LtFWbaXv佐竹(笑)
0007名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 06:36:31ID:0p/xBfND0008名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 07:09:55ID:WxrHtzvR那須七騎
0009名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 09:40:02ID:XVyYQ/kq0010名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 10:40:00ID:01RaQZJa謙信「またかよ〜」
北条「ちっ、ヤベエのが来たぞ、今日はこんくらいにしてやらあ逃るぞ!」
暫くして…
おだうじはる「また北条がああ、謙信さんをよべ」
謙信「またかい〜自分とこの火の粉は自分で払えよ〜、なにやってんだよ」
おだうじはる「だって〜Tホ」
0011名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 10:40:58ID:ZsIQ2lOL乙です
0012名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 16:07:31ID:8/b7F/EJ謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
0013名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/22(火) 05:35:28ID:ICAWepo+裏山にあるんだけど@佐野市民
0014名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/22(火) 06:23:45ID:OcjwZlQB天と地と
0015名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/22(火) 09:39:03ID:MpVxCEpZコーエーゲーではへっぽこ城ですが、上杉謙信が落とせなかったようですよ?<唐沢山城
0016名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/22(火) 13:27:10ID:Tdvp44qd援軍に来た謙信が44騎で突っ切って入城したとか言う
三国誌演技ばりの逸話があるのも唐沢山だったなw
0017名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/22(火) 16:21:15ID:T8bEYFtt基本的に一時期を除くと佐野昌綱は北条方
永禄十一年(1568)一月に、北条を撃退した戦はしてるけど
0018名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 11:52:31ID:zq7S7Fbx佐野、皆川、壬生は小さいながらも大名だし。
那須七騎辺りがそうかな?
0019名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 12:36:53ID:0scEPiqt0020名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 13:21:38ID:FQE7hT0K国人の定義がはっきりしないが
規模的には皆川や壬生なんかより那須の方がかなり大きい
下野北部は大半那須領だからね
佐竹・千葉・宇都宮などと並んで関東八家に数えられている
0021名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 16:27:38ID:F2YBw/H/でも那須家をつぎ、更に養子に兄(五男)資之を…この系統が嫡流
那須七騎のうち、福原は資之の子資広(与一の兄四郎久隆の養子)、
蘆野と伊王野は資之の養子頼資、千本は与一の兄十郎為隆の系統で、
大関と大田原は丹党
0022名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 20:29:44ID:zq7S7Fbx那須氏と那須七騎の区別が付かないのか?
0023名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 04:39:36ID:PNaKsZc20024名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 11:15:18ID:xEzqaKOA国人っていう概念がなかったのでわ?
以前、町内会レベルの地域しか支配してないのに、「大名」と紹介されていた
下野大名がいたはず。平石氏だっけな?
今の本田技研の研究所当たりにいたらしいが
0025名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 16:32:54ID:n7caQM+F例えば常陸では大掾も江戸も、国人とは言わない
大名とも言わないが
0026名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 17:12:06ID:mrS1/DHf0027名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 18:38:24ID:335Cn3GC0028名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 19:54:50ID:3vshDa2Zとくに大掾は国香以来の名門だから
0029名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 20:32:06ID:PNaKsZc2一揆といえば、武蔵七党以来の平一揆とかはいつの間に消えたんだ?
0030名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/26(土) 15:10:01ID:MS85cFmB0031名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 23:17:53ID:lmXrtZCPとして、珍しいらしいよ。
0032名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 23:19:08ID:4sRpQqOA0033名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 00:23:17ID:YqQ7YG0a0034名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 20:28:53ID:bcvau+8h0035名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 21:24:29ID:YqQ7YG0a本丸の掘切は国道やら電車が通ってるから分かりにくいかもね
でも太田城に比べればマシだよ
太田は完全消滅…
0036名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 23:51:03ID:tb4YbyhCしかも、二の丸と合わせて城マニアにとって見学しずらい場所だよな。
小・中学校・女子高・女子高のテニスコートに、
本丸の一高ってカメラ片手にうろうろしたら怪しいやつになる。
0037名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 04:49:44ID:QQicupVS0038名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 06:24:13ID:3WLHm9/i0039名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 08:24:48ID:bnm91B1D0040名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 12:17:30ID:u8IUHEAz非常に中途半端に
0041名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 20:38:51ID:Ugrr23000042名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 19:10:27ID:bS150Th+kwsk
もしかして近衛の書いた「佐竹義宣」か?
0043名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 02:34:45ID:4fgqERNj本家の跡目相続収めに、鎮西からきますた城井とか
0044名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 08:54:48ID:zJOIoLWo宇都宮本家がお取りつぶしになった後水戸藩に拾われたり、瀬戸内海で水軍やってたのが
いたり、北九州にぶっ飛ばされて黒田家に殺戮されたのがいたりしたからな
ちなみに宇都宮市に宇都宮さんはほとんどいなかったはず。ルーツとしても伊予宇都宮や
豊前宇都宮の血を引く人の方が多かったような
0045名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 15:49:32ID:0wDa9DoC承久の乱で宇都宮頼綱の子頼業と時朝が活躍
頼綱が伊予守護に任じられ、頼綱の孫景綱の三男泰宗の子、貞宗が伊予に土着
鎮西信房流宇都宮氏
宇都宮初代宗円の孫信房が、平氏追討に功を立て、豊前に所領を得、城井に居城し、
子孫が分出し豊前国内で勢力をはる
0046名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 17:26:42ID:YKmvvbLW那須七騎じゃなかったかな
あと蘆野じゃなくて芦野だろ
0047名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 12:35:25ID:CkgMvKHv芦は蘆の略字だからどっちが正しいかと言えば蘆だろうけど
0048名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 16:22:46ID:5ub3f8Gk0049名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 22:16:23ID:c0xBw+Tt芦名氏の場合、会津の戦国大名は「蘆名」と表記されることがあるが、江戸時代伊達家に仕えた分家は「葦名」と
表記されている。
理由はよくわからないけど、江戸時代の今川家で「今川」と名乗れるのは本家だけで分家は「品川」を名乗ったのと
似たようなものか?
0050名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 22:53:14ID:4C0ADYq90051名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 11:25:49ID:y0Hcy0dC0052名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 11:36:08ID:8MZCqAm00053名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 12:32:43ID:yyxX0h2i葦名と蘆名は同じだよ
両方使われてて特に明確な区別はない
0054名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 12:40:55ID:seThMo/P0055名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 10:45:38ID:u8uySg7G0056名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 22:43:08ID:7UL8r9YR0057名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 12:43:36ID:i/sqUirH名前が思い出せない
0058名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/28(木) 19:53:58ID:CFZm+2ni0059名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 01:28:51ID:qzuxWsqU分家筋なら沢山いる。宇都宮って苗字ではないけど。
某町の前町長さんとか神社の神主さんとか。
0060名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 11:08:28ID:RGoTbs/K足利学校くらいしか思いつかん
0061名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 12:02:07ID:yKeg6ODxもともと鎌倉にいたけど、寛正六年(1465)享徳の乱の功で、山内上杉の推挙で足利の代官職を得、翌年入部
謙信と後北条の争いでは越後方だったが、天正十二年(1584)後北条に降伏
秀吉の小田原攻めで、小田原に籠城、敗戦後没落
0062名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 12:02:11ID:IL4rFpPn足利長尾氏がおるやん
0063名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 12:03:32ID:yKeg6ODx0064名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 12:06:49ID:IL4rFpPnあんたには負けたよ
0065名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 15:42:19ID:ezZuXxZM0066名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 17:40:56ID:rJ82spMj北条に付いた裏切り者だ。
0067名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 18:12:10ID:ezZuXxZMむしろ北条につかなかった下野の勢力なんて僅かしかいないだろ
というか皆無に等しい
そもそも裏切り者って誰を裏切ったんだよw
0068名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 01:32:05ID:SH6C3kC/その宇都宮にしたって、後五年あれば降伏か滅亡かしていたと思うけど。
0069名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 10:01:09ID:Eg4tfD9F人質も送ってるし
那須も北条側について幾度も宇都宮領や佐竹領を侵食している
0070名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 14:51:46ID:rsNQncNQ0071名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 16:38:09ID:Eg4tfD9F0072名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 02:10:10ID:q3DkbFLG0073名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 08:36:13ID:6jbo0X+Q0074名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 18:56:42ID:VW30R52u0075名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/08(日) 00:40:51ID:dxjz6n0Xまあ大名が滅ぶと言うことは、今で言えば倒産だからな。
自分と家臣の生活のためには背反も仕方ない。
0076名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/14(土) 00:35:27ID:FkJmLnqD水戸徳川家みたいなところもあるけど
0077名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/14(土) 03:51:39ID:1yuaGWpC0078名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/14(土) 15:24:50ID:Vwaexne9なんて相当の資金がないと無理だからな。そのくせ実入りは少ないし。
金持ちの道楽だろ>農家への転職
0079名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/14(土) 18:13:59ID:1yuaGWpC0080名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/21(土) 12:43:24ID:T/NrHpHf0081名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/21(土) 13:12:25ID:pcsspZcF戊辰のときに白虎隊みたいな美談があればよかった。
0082名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/21(土) 14:43:39ID:sCPvoNGz0083名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/22(日) 00:04:42ID:MuQJV98S佐賀を出すな佐賀を
ここは佐竹・小田・宇都宮・小山のスレだぞ。佐賀はダメだ。
佐賀はいかん佐賀は
0084名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/22(日) 07:02:04ID:kYCvGEiO0085名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/22(日) 10:42:52ID:3s1BApVr小山→結城→下総→千葉→佐賀
0086名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/26(木) 18:52:07ID:oIa8aEpOどうやったらそうなるのか俺は気になる。
0087名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/26(木) 19:40:40ID:su15u9Pt0088名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/27(金) 07:03:55ID:lDzYVA3k0089名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/27(金) 19:35:10ID:VlYs9arG地味ながら面白い地域ではある。
0090名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/27(金) 19:42:02ID:8qaNaDzO北関東で一、二を争う大勢力にしたし
下手すりゃ佐竹や宇都宮より大きいのではないかと思う
0091名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/28(土) 01:04:41ID:WqQK6kPD北条家もメジャーではあるが、メジャーな大名の中だと地味だし
0092名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/28(土) 06:00:32ID:XZDV7FuD傾いた小田家をそれなりに支えたと思うのだが。。。
>>91
畿内を制してこそ、天下という都合上仕方ないわな。
当時はかなり田舎だし。
0093名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/28(土) 15:47:16ID:ke2Z418q別に暗愚じゃないと思うよ
何度も城を落とされて、また城に復帰を繰り返してるから
0094名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/02(木) 12:35:42ID:0W/g0FT1一体何回負けて何回城を落とされた事かわからん
でも天庵自体は暗愚と言われても仕方ない人物かもしれない
というか戦が下手すぎる
菅谷氏をはじめとする家臣団が頑張ったから存続できただけで
でも政治力や人望はあったのかもしれない
家臣達も見離さず氏治を支え続けたし
領民も小田氏贔屓で別の勢力が小田領を支配しても
年貢を納める事を拒否して統治に難渋した
よくわからん人物だ
0095名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/03(金) 01:31:12ID:qGroDC1q0096名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/04(土) 13:48:19ID:DYVwVCbNまだよく読んでないけど、小田城が何回落ちているか抜粋
・弘治二年(1556)三月 結城氏に海老島の戦で敗れ、小田城落城、氏治土浦に落ちる
・同年 八月 氏治小田城奪還
・永禄七年(1564)一月 上杉、佐竹らに山王堂の戦で敗れ、小田城落城、氏治藤沢・土浦に落ちる
・同年 八月 氏治小田城を奪還
・同年 十一月 佐竹勢に攻められ、小田城落城、氏治土浦へ
・永禄八年(1565)十二月 氏治小田城奪還
・永禄九年(1566)二月 上杉、佐竹勢の攻められ、小田城落城
・同年? 時期不明ながら、氏治小田城を奪還
・永禄十二年(1569)十一月、太田三楽、梶原、真壁らに手這山合戦で敗れ、小田城落城、氏治土浦、藤沢に
(こののち小田氏の主力は、土浦、藤沢両城に移る)
・元亀二年(1571)末 氏治小田城を奪還
・元亀三年(1572)末 太田三楽により、小田城最後の落城
(こののち、藤沢城→土浦城→手子生城と順に落されていき、滅亡)
0097名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/04(土) 15:30:14ID:BGY6IBVY>・同年? 時期不明ながら、氏治小田城を奪還
このときは「落城」はしていないんじゃないかな。
氏治が小山と結城を頼って和議を申し入れたので、小田城が開城された。
そのかわり謙信は城中の人々(小田家臣の師弟とかだと思うけど)をみんなとっ捕まえて、
身代金を要求した。有名な話やね。
氏治はそのまま在城を許されたっぽい。
小田がここまで城を何度も取り返せたのは、やっぱり鎌倉時代からずっと小田領だったってことと、
太田梶原真壁というのが、小田に対して決定力をもってなかったってことによるんだろうな。
実際には小田のほうが動員力はあったわけで、太田らがなんとか戦術でしのいでいた感じ。
佐竹もこのときは奥州下野で忙しくて、小田のほうは何とかなっているのでいいやと後回しにしていたっぽい。
たまに手隙のときに来て放火する程度。
ちなみにこの永禄九年の小田攻めでこういう落居の仕方をしたことが、
のちの佐竹の戦略に大きく影響をしたようではある。
0098名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/04(土) 21:11:04ID:Swn/ZjgB小田強すぎてワロタw
0099名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/05(日) 17:38:50ID:plOLYeoc0100名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/05(日) 17:48:01ID:k0OOdYx994だがレスありがとう
やはり天庵は素敵な男だなw
戦じゃ弱いが占領軍は統治が難しく結局放棄せざるを得なかったようだ
まあ、何度か勝った事もあるようだが決定的な所で弱いんだよ…
土浦城主の菅谷氏もいつも逃げ込んでこられて大変だったなw
0101名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/05(日) 22:48:22ID:GAXGMFmX近くに住む者ですが、今時期は収穫も一段落で本丸周辺の城郭がクッキリ見えるのでオヌヌメ
ナイスな平城だと思います
激戦乱、南北朝時代の遺構がなぜ今日まで遺ってるかと云うと統治されてた祖先から、今だに住民から尊敬されてるのだと(親類談
アクセスは非常に悪いので大きい車では厳しいです
で..関城、大宝城ネタを誰か詳しくおながいします
0102名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/05(日) 23:33:11ID:60b74myQ0103名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 06:58:32ID:cnZfZFGH0104名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 08:52:13ID:XpWaN5Ts0105名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 09:58:38ID:HGJuxjkS0106名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 12:09:07ID:cnZfZFGH太田市の金山城なんて大した山じゃないぞ。
筑波山の南側を使えば作れそうなものだってこと。
0107名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 16:12:59ID:rI2rBhKC小田城の向かいの山に前山城と言う山城が築かれている
でも、平城の方が使い勝手がいいし小田城があれだけの大城郭に発展したから
ほとんど利用される事なく放置されていたようだ
古い時代は居住区である館と篭城する場合の砦は別個になっていたから
それの名残かもしれない
市史などによると戦国期にも整備されてたような事は書いてある
0108名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/07(火) 10:55:45ID:M6xmIfYc0109名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/07(火) 13:57:32ID:s9Mw04gTああ男体山(現在の難台山)城(砦?)もかな
0110名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/07(火) 13:59:03ID:s9Mw04gT勉強になります、ありがとうございました
0111名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/09(木) 19:52:02ID:bPdEBMLL水戸以北は山城が多いよ
まあ、小規模なものばかりですが
県境あたりになると月居城や金砂山城みたいな凄い要害にある(ほとんどただの山だけど
下野の山城だと
北条、上杉、佐竹なんかに攻められまくった唐沢山城が有名だね
あと那須氏の居城烏山城もかなり大規模な山城です
織田信雄もちょこっと居た事があったり
0112名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 14:48:37ID:rK7cnoWk袋田の滝の上の山ですよね
>金砂山城
佐竹秀義が頼朝相手に立籠もった城ですね
そうそう義舜が山入相手に立籠もったか
>ほとんどただの山だけど
非常時に難を逃れるために、常時家臣をおいていた、感じの城ですよね
0113名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/27(水) 09:12:23ID:wmL1Mu5n回易の理由が浅野の養子縁組を断ったからのが原因だけど嫡子に義綱がいるよね
0114名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/27(水) 12:36:05ID:pErHxYVP街道沿いで一面は平野に接してるから守り難そうだけど。
0115名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/27(水) 16:50:37ID:CaWEPiXh表高十八万石、実高三十九万石だったらしい
改易になる表向きの理由としては、この差が不正だと
0116名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/27(水) 17:33:30ID:SN2bbFNy表高と実高が違うなんてどこの大名でも同じ事だし
宇都宮は名門だが秀吉が警戒しなきゃならないような大名ではない
何かしら裏があったのかもね
ちなみに宇都宮の嫡流は水戸藩の家老になった
あと下野と言えば那須家は割と優遇されてるね
大田原・大関は関東で唯一外様として中世以来の領地を幕末まで維持した
那須本家は嫡流が無嗣断絶により改易されたが
分流が交代寄合(在国統治が許された準大名的旗本)として存続した
蘆野・千本・福原も交代寄合として存続
伊王野氏だけは無嗣断絶してしまったが分流は水戸藩に仕えた
0117名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/28(木) 23:08:57ID:B7kMoI+6宇都宮家臣の北条勝時とか武茂家臣の北条義興、守直やら
執権北条氏って下野に所領持ってたのかな?
そうだとしたらその傍系かも
0118名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/12(金) 00:24:22ID:KjSc+LyG私の友人の宇都宮市民は「宇都宮氏は吊り天井事件を起こした馬鹿だ」と嘆いていますが。
0119名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/13(土) 18:52:43ID:DWE0aki00120名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/21(日) 15:59:28ID:nhJIYTEy常陸太田城も復元して欲しいところだが絶対無理だな
というか元々たいした構造物ないし
0121名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 18:37:17ID:cjpK3C3s0122名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 19:30:03ID:xarOuV7qだから守護大名を載せたのさ
ちなみに結城は下総だよ
0123名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 21:59:24ID:aEcYDB8q0124名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 22:59:29ID:3/Jl9u7K0125人間七七四年
2007/02/19(月) 23:25:34ID:YyiuHQyU伊達(だて)これが全国区の呼び方だろ?
戦国期は伊達(いたち)だったと、どこかのサイトでみたことあるよ
0126人間七七四年
2007/02/23(金) 00:40:05ID:VfjGe/cB戦は限りなく弱かったけど
0127人間七七四年
2007/03/09(金) 22:55:37ID:UyTnfmYb0128人間七七四年
2007/03/10(土) 11:34:28ID:DhFpdZ4Pttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/1808/
0129人間七七四年
2007/03/10(土) 23:49:01ID:jyT8ba0L印象があるんだけど(基本的にゃ反北条だけどさ)。関東の小領主は独立志向
強くてマジでまとめるのに手こずるよな。北条とか佐竹とかホントご苦労なこって
と思うよ。
0130人間七七四年
2007/03/12(月) 07:59:21ID:YD08RANY【太田資正】さいたま〜の武将【成田長泰】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1149995235/
こっちの方が詳しい人がいると思うよ。
0131人間七七四年
2007/03/17(土) 19:35:27ID:K90N+ue9土塁に変な穴が開いている・・・orz
まさかあれも忠実に復元なんですか?
0132仙台藩百姓
2007/03/17(土) 19:44:40ID:275ig+1c宇都宮城の城門はトンネル型だったのかお?(;^ω^)
0133人間七七四年
2007/03/31(土) 12:10:03ID:6kY+TmU+暖かくなったね
0134人間七七四年
2007/03/31(土) 13:21:00ID:vRfTfN7J戊辰戦争で旧幕府軍から攻撃された際、藩主は抜け穴から脱出したとか言われてる。
城門があの形だったかどうかは分からないけど。
0135人間七七四年
2007/04/04(水) 03:21:07ID:XnxRmxCC0136人間七七四年
2007/04/08(日) 11:32:19ID:lViQhHEB0137人間七七四年
2007/04/08(日) 14:03:20ID:8Viw9UXE今年はやるの?
0138人間七七四年
2007/04/09(月) 21:29:45ID:w2Bf/itU0139人間七七四年
2007/04/10(火) 08:17:27ID:3BQTW1HP慕われてる家なんだな
昔からなのか?
0140人間七七四年
2007/04/11(水) 11:43:48ID:4pGZdfFiどこでも花見やってるね
初日は
小田→土浦→小幡→水戸→太田
二日目は
真壁→笠間→小山→大田原→烏山
距離がありすぎてゆっくりできなかったorz
一日二箇所ぐらいにしたほうがいいね
今度は結城・古河・唐沢山あたりに行きたい
笠間城て初めていったけど
まさかあんなに立派なものだとは思わなかった
登るのは結構しんどいけど
0141人間七七四年
2007/04/12(木) 08:34:06ID:XyFYwb+Ohttp://society6.2ch.net/test/read.cgi/police/1153511952/680-684
秋田市民および秋田県民は、自分自身の娘、妻、あるいは女性の場合は自らが
以下のような佐竹市長の組織犯罪犠牲にあってもよいとお考えの方以外は
今後、佐竹市長に票を入れるべきではない。佐竹市長への落選運動の全県展開が必要だ。
こんな悪質なローカルルール裏手法は許されない。
0142人間七七四年
2007/04/12(木) 12:50:11ID:qyJv2f2a0143人間七七四年
2007/04/12(木) 18:18:49ID:QrFr+pWi0144あぼーん
NGNG0145人間七七四年
2007/04/13(金) 10:25:56ID:yarWOAj/0146人間七七四年
2007/04/16(月) 17:08:56ID:cr19FXob結城秀康
家康の二男にして、秀吉に人質に出され
関東の名門結城家の養子として家督を継いだ男
0147人間七七四年
2007/05/15(火) 00:15:28ID:7Ydbwi4d裏切り者の晴朝のせいで名門とは云え小大名の結城を継がされて貧乏くじを引いた秀康。
佐竹・宇都宮・結城の三国同盟の証として宇都宮から結城に既に養子に入ってた朝勝が可哀相。
秀康が結城を継が無かったら、もっと大身の大名に養子に行けたかも…。或いは、徳川の家督に…。
0148人間七七四年
2007/05/28(月) 16:53:30ID:qSt6SCMh0149人間七七四年
2007/05/30(水) 16:31:52ID:xNZyTxd2北条勝時は執権北条氏の末裔。宇都宮に亡命して客分になってたけど土着化して家臣になったそうです。改易の城だと結構開明的な秀才だったみたいだけど、詳しい人詳細よろ。
0150人間七七四年
2007/06/08(金) 18:50:18ID:dqp6Q/ZR0151仙台藩百姓
2007/06/09(土) 06:10:45ID:3hnLZ469御家を守ろうとした高光、勝時
血筋を守ろうとした高武
いずれにも道理あれども
国綱には他家を継いでるとは言え同腹の弟が二人いる
わざわざ浅野から養子貰う必要があるとは思えないお
そもそも当時国綱は30歳になるかならないかぐらい
弟達は当然もっと若い
慌てて養子貰って世継ぎ決めるほどの歳でもないお
実際翌年に嫡子が誕生している
酷い押し付け話しだお( ´ω`)
国綱は改易の上配流
弟の朝勝は結城家を追い出され
高武も改易の上配流
宇都宮は豊臣政権に酷い目に合わされたおね(;^ω^)
0152人間七七四年
2007/07/22(日) 15:27:53ID:vDHceXIY無礼者、高々奥州の田舎侍の末裔が!
伊達の盗人どもこそ新羅三郎義光様以来の源氏屈指の名門佐竹氏の敵ではない。
0153名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 05:06:01ID:5eBCqSSs中央の現宇都宮市あたりの宇都宮氏が最大勢力
北部大田原市、黒磯市あたりの那須氏が第二勢力
この2者は北条、佐竹と結んだり離れたりを繰り返しながら、基本的に対立関係。
そこまではなんとなく分かるが、
南部の佐野、小山、壬生、結城あたりとの関係になるとさっぱり。
だれかすっきりと解説してくれ。
0154名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 08:02:13ID:XXo6hsks>南部の佐野、小山、壬生、結城
一応宇都宮氏の血縁だったりするから、宇都宮の勢力側なのかな
0155名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 08:20:01ID:j8ePJHlQなんか結城って場所がら誤解されやすいんだよな
歴史サイトもたまに下野やら常陸やらの表記してるとこあるくらいだし
0156名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 11:16:37ID:cUsgyw1k古河公方家を支えた豪族じゃないの
と適当なことを言ってみる
0157人間七七四年
2007/07/29(日) 21:51:36ID:Q3BsEf/j0158人間七七四年
2007/07/29(日) 23:55:32ID:gVPud2us0下総のうち古河〜石下あたりの北側はすべて結城の支配地
0160人間七七四年
2007/07/30(月) 00:45:38ID:Ta7srfvj0161人間七七四年
2007/07/30(月) 22:36:43ID:gHtq2fdf一方、下野北部の宇都宮支族の武茂・塩谷は佐竹傘下?
0163人間七七四年
2007/08/14(火) 21:17:44ID:8BWUOmpU0164人間七七四年
2007/08/15(水) 01:00:17ID:4Mk8M55f0165人間七七四年
2007/08/22(水) 18:07:28ID:VJ0/qhXd0166人間七七四年
2007/08/23(木) 01:00:08ID:OALHGsbF傘下でも佐竹の家臣じゃないよね?。武茂や塩谷は家臣化したけど…。
笠間領は宇都宮氏の支配下じゃなかった?
詳しい方、宜敷く。
0167仙台藩百姓
2007/08/23(木) 02:44:04ID:wQWXfwlM武茂と言い笠間と言い
宇都宮は一族の領主達を統制する力を失っていたようだお
佐竹も宇都宮一族を攻めて服属させたり
宇都宮家中を追われた者を召し抱えたり
佐竹と宇都宮の関係も案外微妙だお
0168人間七七四年
2007/08/23(木) 03:13:08ID:OALHGsbF太閤検地で笠間は佐竹の領国ではなく宇都宮領でOK?
0169仙台藩百姓
2007/08/23(木) 14:21:07ID:wQWXfwlM必ずしも盤石であったわけでもないお
笠間は宇都宮領だね
だから常陸内でも佐竹領に含まれる事はなかった
宇都宮改易後は豊臣系が入った
その後も水戸藩にはならず笠間は別個の藩として存続する
0170千本資政ってどお?
2007/09/04(火) 15:07:11ID:L45VZzNt大関高増(未庵)の正室が佐竹義重の大叔父の娘と聞いたのですが…
具体的には誰でしょうか?
レスお願いします
0171千本資政ってどお?
2007/09/04(火) 15:38:58ID:L45VZzNt×未庵→○入道安磧
0172仙台藩百姓
2007/09/04(火) 18:50:35ID:bXyPbL+7義元だお( ^ω^)
佐竹義舜の三男
佐竹義元、宇留野義元、部垂義元
初め宇留野氏の名跡を継ぎ、後に佐竹重臣小貫氏の部垂城を奪って部垂義元を名乗る
これを不快とした兄義篤と戦になり十二年の抗争の末に滅ぼされた
反逆者の娘だから微妙かも(;^ω^)
でも義重は高増の子晴増をかなり可愛がっていたようだお
ちなみに高増の三男で初代黒羽藩主大関資増の正室は佐竹義久の娘
どちらも微妙なラインだお
0173人間七七四年
2007/09/05(水) 13:39:53ID:7Gcb/PC7佐竹本家(義重)に娘が少なかったから、佐竹三家実力筆頭の義久の娘が近隣の豪族に嫁に出されたのか…?婚姻は、当然義重の命令って事だネ?
0174北条幻庵ってどお?
2007/09/13(木) 16:08:01ID:MrzzvSkEレスご丁寧にありがとうございます。
私はてっきり南義里あたりと思っていたのですが…これではっきりしました。
入道安磧は下野の姦雄!?で、確か弟と息子で那須家中を差配したんですよね。
もう少し、彼の智謀を高く評価しても良いと思うのですが…知名度がなさ過ぎです。
晴増って確か小峰義親の養子になったものの、のちに義広が来たから跡継ぎになれなかったんですよね。
追記
仙台藩百姓さんの顔文字や独特の言い回しにはいつも癒されます。
これもthanks.
>>173
確か義宣の養女で入ったはず!!
うろ覚えなので裏を取ってください。
0175千本資政ってどお?
2007/09/19(水) 13:27:21ID:Z1gKtlWb1582年5月小山領が小山秀綱に返還された時、
北条氏照の重臣である近藤綱秀も同城していたらしいのですが…
この件について詳しい戦国好きの皆さん、レス募集します!!
知っていることなら何でも構いません!! 参考文献だけでもレス求む!!
以上、宜敷お願いします。
0176人間七七四年
2007/09/19(水) 17:54:40ID:F3fjna4L織田にいわれて、建前だけ小山に返しただけ
実際は北条のお目付け役がいたということだろう
0177千本資政ってどお?
2007/09/25(火) 14:23:22ID:1cEevNNFレス、ありがとう!!
調べてみたら、その通りでした。
黒田基樹著『戦国 北条一族』に載ってました
0178人間七七四年
2007/10/10(水) 16:20:55ID:oGz26LwK0179人間七七四年
2007/10/11(木) 13:59:08ID:N/1xmGhh和田・忍・騎西の謀反と同時期?
赤井氏館林は落城し足利長尾家のものにされ小山は落城後は謙信・宇都宮に柔順ですが佐野は人質を気にせずに何度となく反乱してますね…臣下が派閥でも組んでるのかな?
両毛地区はわかりづらいですね…古河公方足利藤氏・関宿城主簗田氏との関係もイマイチわからないし。
赤井氏の娘は由良氏との間に子を生み養子に出して足利長尾を支配した?
0180仙台藩百姓
2007/10/20(土) 12:13:45ID:fLuKmMMp翌永禄5年(1562)の時点で既に
酒井(上総東金)・佐野(下野唐沢山)・小山(下野祇園)・宇都宮(下野宇都宮)・成田(武蔵忍)・小田(常陸小田)・山室(上総飯櫃)・高城(下総小金)
が北条方へ転じているお
ちなみに簗田氏は鎮守府将軍(関東公方)の臣下
房総付近には足利家の所領が多数あり簗田氏もその管理者の一人だったお
次第に公方の信頼をうけて重臣として勢力を伸ばし
古河公方足利晴氏の正室は簗田高助の娘、嫡子が藤氏、次男が藤政と言うわけだお(家国はどうなんだろうか)
ついでに里見義弘の室も藤氏の同腹妹だお
0181人間七七四年
2007/11/08(木) 15:59:42ID:FQuIh2OS結城政勝の弟が小山高朝になり
高朝の子どもが結城晴朝になりと 二代にわたり兄弟関係。
従って行動はほぼ一緒だね。
0182人間七七四年
2007/11/10(土) 20:54:39ID:AaEXgCtL0183人間七七四年
2007/11/21(水) 16:07:13ID:XjpXsVQX資清は大関宗増に敗れて一度失脚したものの
再び大関と戦い宗増の一子増次を敗死させ降し
嫡男高増を宗増の養子に送り込み那須家中最大の大関氏を乗っ取りる事に成功した
更に次男資孝を福原氏の養子に送り込み、三男綱清に大田原を継がせ
那須七騎中、大関・大田原・福原の三家を兄弟で固めた
更に娘を主君の那須政資の側室にし
後に政資の跡を継いだ嫡男高資を謀殺し
娘の子である資胤を那須宗家の当主にする事に成功した
高増も那須七騎・千本氏を誅殺し三兄弟で那須家中を牛耳った
佐竹・結城・宇都宮・葦名などと戦いを重ね、たった一度も遅れをとる事はなかく
豊臣・徳川時代も巧に生き抜き、高増の黒羽藩・綱清の大田原藩は
関東でたった二つの関東地生えの外様大名として幕末に至った
資孝の福原も大名格の旗本(交代寄合)として残った
0184人間七七四年
2007/11/22(木) 10:01:19ID:pABTak5A0185人間七七四年
2007/11/22(木) 13:37:23ID:pABTak5Aなにやらメカっぽい城だったよ('A`)
城風防災施設
0186人間七七四年
2007/11/22(木) 13:57:45ID:Fe118Nzz宇都宮動物園の園内にある宇都宮城が吊り天井がある本物だよ。
0187人間七七四年
2007/11/22(木) 14:42:23ID:pABTak5Aそだね
エレベーター付けるぐらいならもう少し本格的に復元して欲しかったよ
それと土塁の真ん中にコンクリで固めた大穴開ける神経が知れん
本丸の中に御殿風展示場建てればいいのに
動物園の天守で虚しさに泣いたけど
復元もガッカリだ('A`)
宇都宮市には期待できん
0188人間七七四年
2007/11/22(木) 16:07:08ID:ym63QSjM0189人間七七四年
2007/11/23(金) 01:28:25ID:yvFk7gHG0190人間七七四年
2007/11/23(金) 09:59:55ID:Y0GmNvji下手に弄られると復元と言うより破壊になる
遺構を崩して全く違う形に作り替えられてしまった所も多い
0191人間七七四年
2007/11/23(金) 10:15:45ID:KbyoQs3G足利長尾や那須や太田原や大関とか欲張ると毛野地域も見たくなるから群馬も行きたくなる…
0192人間七七四年
2007/11/23(金) 13:19:22ID:E/s+8TfQ城址公園とかで言いからさ・・・。
0193人間七七四年
2007/11/23(金) 21:15:08ID:Y0GmNvji◎=オススメ城跡 ○=そこそこ保存状態よし △=暇ならどうぞ ×=ガッカリ城跡
・常陸
月居城 山
西金砂城 山
太田城 ×
鳥子河内城 山
山方城 ○
大山城 ×
多良崎城 ○
水戸城 △
笠間城 ◎
小幡城 ◎
府中城 ×
木田余城 ×
土浦城 △
木原城 ◎
小田城 ○
・下野
烏山城 薮
大田原城 ◎
勝山城 ◎
宇都宮城 ×
祇園城 ○
唐沢山城 ◎
0194人間七七四年
2007/11/24(土) 23:21:26ID:QRX4kOr/0195人間七七四年
2007/11/25(日) 01:39:28ID:krGrCNOzまぁ、これだけの関東の諸将が雁首揃える機会なんて無いコトだし
誼を通じるのも悪くないんじゃないか?
0196人間七七四年
2007/11/25(日) 09:49:34ID:8VZ84InR0197人間七七四年
2007/11/25(日) 14:20:47ID:8VZ84InR近世にも用いられたぐらいなので1万8000石にしては大きな城です
那珂川と松葉川に挟まれた要害に立つ完全な山城で戦国の雰囲気もよく残しております
元から街道が通っていたので現在も車で近くまで登れる
残念ながらニノ丸は体育館、三ノ丸は芭蕉の館なるものが建っていますが遺構の保存状態はまずまず
本丸跡にある模擬の櫓からは黒羽の町が一望できました
空掘、水掘、土塁、堀切などからなる石垣を用いない典型的な関東の山城です
那須系の城では黒羽城と大田原城が見易いと思います
関係ないけどこの辺りのコンビニやチェーン店は看板が茶色なんだね
京都とかもそうらしいけど自分は初めて見た…
0198人間七七四年
2007/11/25(日) 14:42:56ID:8VZ84InR那須七騎の伊王野や芦野を通過
正直かなり山深いです…
ここから南関東に押し出すのはかなりしんどそう
宇都宮からでもかなり遠い、逆に白河はかなり近い
那須と結城の争いが絶えなかったのも頷ける
そして関東と東北の境目、白河の関を通過
現在は主要街道からうんと離れていて
関を通過するには10kmぐらい山の中を迂回しなくてはならない
まあ、特にたいした物は残ってないですが…
この辺りはちょっとした史跡が散在してるので時間があれば今頃の時期に
紅葉を楽しみながら回ってみるとよいかもしれません
0199人間七七四年
2007/11/25(日) 16:47:56ID:8VZ84InR小峰城は駅前にそびえ立っているからすぐに気がつくと思う
丹羽長重が築いた総石垣の近代城郭だけあって非常に見栄えはする
石垣は高いが割と規模は小さい
木造の天守(三層櫓)と前御門が復元されていて近代城跡の雰囲気がよく出ている
本丸の一段下の腰郭は薔薇園になっている
一般の観光客にはこう言う見世物も必要何だろうけど
城好きとしては薔薇とか白い噴水なんかはちょっと雰囲気が…
何故かポップな音楽が流れてたりしてorz
まあ、その辺りはスルーするとしてよくまとまった城でした
会津若松、二本松、小峰など福島は結構城跡復元に熱心ですね
栃木県も少し見習って下さい
0200人間七七四年
2007/11/25(日) 17:58:44ID:uLy8Hx0G北畠や後醍醐などの展示が見れるところは他にもあるのかな?
0201人間七七四年
2007/11/25(日) 20:02:46ID:T+yCbFOZ関東幕注文には名前が無いようだ。
0202人間七七四年
2007/11/25(日) 20:15:53ID:KNxgR3QK0203人間七七四年
2007/11/25(日) 22:35:00ID:8VZ84InR関東幕注文では佐竹衆と那須衆の名前がないね
いずれも家譜では名が挙がってるけど
この頃白河・佐竹・那須の戦いが激化していたから参加できなかったのかもしれない
佐竹はとりあえず代官を派遣したようだけど、那須もそうだったのかも
あるいは那須は北条寄りだったから参加しなかったとか
0204人間七七四年
2007/11/25(日) 22:42:33ID:8GE49TQk佐竹らと対していたからだろうな。
0205人間七七四年
2007/11/25(日) 23:15:42ID:8VZ84InRそれってニノ丸跡にある集古苑って所ですか?
白河についたころは既に暗くなりかけていたので展示物関連は見る暇なかったorz
>>202
そうなんだよね
小峰城につられて肝心な白河氏の本拠地を見逃してしまったorz
中世城跡好きを自負していたが、やはり近世城跡は存在感があるからなぁ
まあ、今回は那須氏関連が目的だったので白河にはもう一度行かねば…
那須・佐竹の歴史を知るうえでは南陸奥も押さえねばなるまい
0206人間七七四年
2007/11/26(月) 22:36:39ID:gE3FaWsZ宇都宮家の石高が39万石…
計算が合わん
0207人間七七四年
2007/11/27(火) 02:15:06ID:vh4r9Efbつか具体的には白河結城の為にどんな行動したんだろ謙信?
0208人間七七四年
2007/11/27(火) 15:17:49ID:FJuPdR5z0209人間七七四年
2007/11/30(金) 16:00:27ID:nidjiO0tというか城じゃない・・・ただの土手です
鬼怒川沿いの堤防の方が立派だよ
0210人間七七四年
2007/12/08(土) 17:03:34ID:bkV1iuzG宇都宮家関連の資料展示はけっこうある?
0211人間七七四年
2007/12/08(土) 18:25:01ID:N8rZbvls資料を見たいなら図書館にでも行く方がよいでしょう
0212人間七七四年
2007/12/08(土) 21:33:50ID:XwcqqLa9宇都宮家は19万石だろ
0213人間七七四年
2007/12/08(土) 23:12:51ID:N8rZbvls検地の結果39万石が打ち出され大幅な石高隠しが発覚し改易の一要因になったとの事
0214人間七七四年
2007/12/11(火) 15:02:20ID:e2kuTMoj長宗我部の場合はどうだったんだろう。たしか慶長検地の段階では
9万と8千石だったが、実際には20万石強あったようだし。
0215人間七七四年
2007/12/18(火) 07:22:53ID:bkP6Mk6Iしかし表高と同じだけの石高を、隠せるもんなのか?
秀吉も浅野長政も実際に宇都宮に足を踏み入れて、
更に北まで実地を見てるはずなのに、感づかないってのも妙な話。
なんか通説になっていないような裏話がまだありそうだな、改易関係は。
0216人間七七四年
2007/12/18(火) 22:31:50ID:LILDhyq9下野 常陸
宇都宮国綱(甥)−佐竹義重(叔父)
(兄)
\ /
下総
結城 朝勝(甥)
(弟)
東海道と東山道を抑えられてる
あと北行くには冬場は雪が素敵な北陸道
朝勝は家督譲られていたのに当時秀吉の養子だった秀康に奪われてるし
0217人間七七四年
2007/12/19(水) 13:43:03ID:E0ZR31B/北条を例に挙げれば、
土地、田ならどれくらいの広さで幾ら畑ならどれくらいの広さで幾ら、で規定されていた。
0218人間七七四年
2008/01/04(金) 11:56:54ID:v1L6Y3wY佐野が3万2千石、那須本家が8万石など
0219人間七七四年
2008/01/09(水) 22:31:04ID:xuPsjMpC栃木関連は反応がなさすぎるw
0220人間七七四年
2008/01/09(水) 23:48:12ID:9i+U2WXk0222人間七七四年
2008/02/01(金) 15:09:17ID:CGJyUhuA0223人間七七四年
2008/02/09(土) 23:44:15ID:SNzkO9BG佐竹や宇都宮との関係は悪化し、結城とも敵対していたから小田原征伐にも参陣せず
宇都宮宗家に成敗された
笠間氏の本家である塩谷氏も小田原征伐後、反逆の意思ありと宇都宮宗家に成敗された
壬生氏も元は宇都宮に属していたが宇都宮尚綱討死による混乱のなかで
宇都宮と対立して独立し、北条と結び付きを強めて行ったから小田原征伐後改易された
益子氏も結城氏に寝返った為に宇都宮宗家に滅ぼされた
松野氏、武茂氏、茂木氏らも宇都宮一族だが次第に佐竹寄りになり配下に組み込まれていった
宇都宮は関東屈指の実力者だったが尚綱が那須氏に討たれて以来
家中の分裂が加速し苦しい状況に置かれた
0224人間七七四年
2008/02/18(月) 16:07:51ID:JkN6UL6G0225人間七七四年
2008/02/19(火) 12:50:32ID:NO2i8EHBhttp://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E7%9A%86%E5%B7%9D%E5%9F%8E&lr=&ie=UTF8&ll=36.391544,139.682708&spn=0.017238,0.027852&z=15
0226人間七七四年
2008/02/28(木) 12:05:14ID:rL0GYYOT城下町形成するには不向きだが絶好の要害だ
0227人間七七四年
2008/03/03(月) 20:21:43ID:PcGSW13B下野南部と言えば名族小山氏がいる
小山氏の子孫は現在、小山市に戻って生活しているそうだ。
ご当主は老齢らしい。
0228人間七七四年
2008/03/03(月) 21:02:29ID:731abafOやはり源氏でないと不利か。
由良でも(偽源氏みたいだが)高家になってるのに。
0229人間七七四年
2008/03/05(水) 02:15:52ID:bEHDlJVeしかも嫡男が早死にしているし。
0230人間七七四年
2008/03/11(火) 00:20:09ID:Jf/RYYxj結城が徳川に乗っ取られて続いてしまった以上、
付属物の取り立てなんぞ考えないだろう。
0231人間七七四年
2008/03/27(木) 15:14:47ID:Qvnmyz05江戸期は水戸家客分だね。
0232人間七七四年
2008/04/10(木) 15:40:50ID:cDUcZIDb0233人間七七四年
2008/04/13(日) 04:32:47ID:iZu7QRvphttp://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/
から移動してきました。
1.太閤検地によると旧那須領は8万石。宇都宮領は18万石らしい。
(1).天文十八年(1549) 那須高資は、喜連川五月女坂の戦いで宇都宮尚綱(広綱の父)を敗死させてる。
(2).天正十三年(1585) 義重・宇都宮国綱(広綱の子)・結城晴朝・塩谷義綱が、那須資晴・塩谷孝信に薄葉が原の戦いで敗れた時、国綱は討たれそうになるも、大関高増(安磧)の献策!?でワザと逃がしたらしいね。
2.那須氏の歴史については3つ。
(1).伊王野氏の子孫が書いている↓ココのサイトの閲覧をお進めします。少々長いが面白い。上の話も詳しく載ってる。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~ionowie/nasu1.html
(2). 荒川善夫著『戦国期東国の権力構造』
これは那須家中や那須家と上部権力(古河公方・謙信・義重など)の関係について書いてある。
(3). 那須家中は一つにまとまってないから、領土拡張どころではなかったのでは?
那須七党は、大関・大田原・芦野・福原(冨久原)・伊王野の5氏が上那須衆。那須本家(岡本)・千本が下那須衆なんだけど…。
室町幕府側の上那須家と古河公方側の下那須家に分かれて、惣領を争っていたんだよ。(佐竹もそうだけどね。)
結局、1516年に下那須家が、上下那須家を統一するんだけど…
その後も被官国人の独立性が強く、那須本家は他の6氏を支配できず、領主連合体であったようだ。
>>707さんへ
「具体的根拠」は?
追記↓
天正十六年(1588)
大掾清幹、江戸重通と反目し、北条氏の救援を求む。
2月16日 義重父子、江戸氏救援のため出陣。
4月上旬 大掾氏に味方する氏直、霞が関南岸の江戸崎まで出陣。松田憲秀は水軍を使って北岸の高浜に上陸するも、東義久に撃退される。
氏直、矛先を変えて、多賀谷氏の谷田部城、小田の藤沢城を攻撃するも失敗、帰国する。
5月初旬 義重父子、大掾と和して帰国。
「義重家譜」「烟田旧記」
0235人間七七四年
2008/04/21(月) 15:01:28ID:I2GMQHuI私の過去レスを追えば分るが…
私は石高至上主義ではありません!!
260: 常陸の最強武将 佐竹 鬼 義重 スレッド、つまりココ↓
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196512813/
702番目のレスを見てください!!
質問が来たから答えたのみです。
0237人間七七四年
2008/04/24(木) 12:52:26ID:u3pv6r2G松田憲秀は水軍を使って北岸の高浜に上陸するも、東義久に撃退される。
水軍を使っての上陸作戦は牽制球投げたようなもんで
それで勝とうとは思っていなかったと思う。
0238人間七七四年
2008/04/24(木) 13:07:07ID:oHyIvEmA中年だと思ってない中年じじー死ね 中年だと思ってない中年じじー死ね
中年だと思ってない中年じじー死ね 中年だと思ってない中年じじー死ね
中年だと思ってない中年じじー死ね 中年だと思ってない中年じじー死ね
その老いたすがた気持ち悪すぎ
その老いたすがた気持ち悪すぎ
その老いたすがた気持ち悪すぎ
その老いたすがた気持ち悪すぎ
0240人間七七四年
2008/04/27(日) 07:08:49ID:D5VdN70t北条は霞ヶ浦に水軍を持っていたのか?
それとも相模湾から外房を回って常陸川を遡上し霞ヶ浦まで水軍を持って来たのか?
0241人間七七四年
2008/04/27(日) 15:31:39ID:Ked+AYRC在地勢力が麾下になったときに水軍も接収しているかと。
本佐倉城なんか軍港があったはずだし、持っていなかった訳ではないだろう。
0242人間七七四年
2008/04/27(日) 17:31:08ID:l3jHX27q持っていたとしても小規模で
戦況を左右するほどの力はなく
兵站や偵察や連絡が主任務だったのではないか?
0243人間七七四年
2008/04/28(月) 15:11:06ID:TYwDzyw4常陸南部や下総では陸上より水上の方が重要だった
というか舟がないと行動がままならない
だからこの辺りの勢力は皆水軍を保有していた
北条軍が舟で北上してきた事は何の不思議もない
むしろ徒歩で遥か迂回してくるほうが不可解かと
0244人間七七四年
2008/04/29(火) 19:01:02ID:xrVTbjAc霞ヶ浦の水上交通網(水運)が発達して居たのは承知してますが、「水軍」と言われるとちょっと違和感がある。
水軍、つまり純粋に戦闘艦を擁して居たのか?
水運用の船に兵士を乗せただけジャマイカ?
0245人間七七四年
2008/04/30(水) 15:03:07ID:GALr8pKV常陸下総あたりの豪族の舟なんて分かるわきゃないだろ
0246人間七七四年
2008/05/01(木) 05:00:08ID:wRfhRGkh関船とか…
小早とか…
村上(毛利)や織田(九鬼)なんかは保有してたのでは?
0247人間七七四年
2008/05/01(木) 23:00:50ID:TRSpS76n0248人間七七四年
2008/05/13(火) 14:48:37ID:GJVUuoHt0249人間七七四年
2008/05/13(火) 16:25:01ID:MC0Wx3Zo0250人間七七四年
2008/05/13(火) 20:22:47ID:LOKAay230251人間七七四年
2008/05/14(水) 05:55:54ID:GKAN93pd0252人間七七四年
2008/05/17(土) 19:26:27ID:Z8ZbIL9a0253人間七七四年
2008/05/17(土) 20:25:11ID:UrwZeb1M0254人間七七四年
2008/05/18(日) 00:17:28ID:HZEiy/GM0255人間七七四年
2008/05/18(日) 10:35:11ID:wi0CEqiO0256人間七七四年
2008/05/18(日) 11:15:18ID:IadWknSc0257人間七七四年
2008/05/18(日) 11:49:28ID:wi0CEqiO0258人間七七四年
2008/05/18(日) 12:04:18ID:IadWknScと言ったのに
保持とか超後付け設定でワロタw
0259人間七七四年
2008/05/18(日) 12:14:12ID:wi0CEqiO0260人間七七四年
2008/05/18(日) 12:44:25ID:ZWoYsZuD佐竹は別に強い訳ではなく、単に攻めにくい土地にあっただけ
地形を熟知しているホームでの持久戦には強かった。
こう着状態やにらみ合いを苦にしない芸風。
0261人間七七四年
2008/05/18(日) 12:47:48ID:IadWknSc0262人間七七四年
2008/05/19(月) 13:50:36ID:wCwb3zCl農繁期にはあまり攻めてこないんだよね。
0263人間七七四年
2008/05/19(月) 14:08:10ID:Wk/UnuCN撤退→鬼追撃が待ってるからね。
だいたい苦しみながら佐竹が我慢大会に勝って北条を追撃してる。
北条追撃終了後に体も休めず佐竹領地で必死に田植え耕作してるよきっと。
対北条戦は北条の城を落城させるわけじゃないから佐竹は恩賞与えなきゃいかんし頭が痛いだろうけど。
0264人間七七四年
2008/05/20(火) 00:37:50ID:Yg6Enmtl戦闘に強いイメージがある。
0265人間七七四年
2008/05/20(火) 02:04:47ID:pVwhPFuB0266人間七七四年
2008/05/20(火) 08:45:21ID:W0yzPz3X河川や池沼が多いのは小田や結城の支配下である常陸南部や下総
0267人間七七四年
2008/05/23(金) 14:40:14ID:eK7uWInY服従どまりで完全な家臣化はしてない独立性の高い土豪の集団だもんね。
宇都宮家なんかもいろんな大名が服従してて仲は悪かったのかね? 完全な家臣化してたのかな?
あと指示系統の話なんだが、宇都宮家←鹿沼氏(服従)←日光山(服従)だと
宇都宮家は直接日光山には指示でき無いんだろうか
時代ごとの那須家の石高と服従してる大名達の石高さらに大名に服従してる土豪達の
石高なんかが載ってる資料ないですかね? 知ってたら教えてくれ。
0268人間七七四年
2008/05/23(金) 16:27:39ID:kv4x1zl8宇都宮家は直接日光山には指示でき無いんだろうか
たしかできないと思う。
0269人間七七四年
2008/05/23(金) 18:29:50ID:35Imut1t>佐野は人質を気にせずに何度となく反乱してますね…
本当になぁ
なんとなく謙信と由良が対立してから
謙信と佐野の関係が改善してるようだけど
また叛いて、人質を越後に差し出して
それでも又叛いて
北条寄りだった由良とも大喧嘩して
佐野の動向は無茶苦茶だから難し過ぎる
誰か分かり易く唐沢山戦史をまとめてくれないかな
0270人間七七四年
2008/05/23(金) 19:22:49ID:/c2j1UEW0271人間七七四年
2008/05/23(金) 19:43:27ID:XGSCYFAH唐沢山天狗岩に武者の幽霊が出るのもそのせいだろうか。
余談ながら当時の実際の武者姿を見たくて、
深夜の唐沢山に行くべきかどうか一時期迷っていたが、
さすがに不謹慎なんで思い止まりましたw
0272267
2008/05/24(土) 14:17:06ID:me0RNfzlどもです。
服従と言っても対等軍事同盟や不可侵援軍同盟なんかが時代ごとに変化して
一口には言えないんだろうけど、ややこしそうな時代だ。
先方に派遣する使者選びも頭かかえそう
0273人間七七四年
2008/05/24(土) 22:54:45ID:OauhOSOm日光山は宇都宮氏と対立する壬生氏と関係が深いから、
間接的な指示とかそんな問題じゃない気もする。
宇都宮家←壬生氏(宇都宮家と対立)←日光山(壬生氏を支援)
0274千本資政ってどお?ってどお?
2008/05/28(水) 14:40:20ID:qa61uOe71.水軍と霞ヶ浦の件
当時の霞ヶ浦は…香取浦という海だったんだよ。
↓詳しくはココをつついて見てね!!
http://www.jsidre.or.jp/com/hpcheck/rekishi/p094_95/p094_95.htm
琵琶湖にも堅田など、資料で確認できる限り数ヶ所の港(湖岸の都市)に水軍があった。
村上や九鬼に比べれば小規模だけどね。
だから、香取浦にもいたんじゃないのかな?
確か、奈良時代まで東山道のルートは、水戸街道ではなく…
下総経由で常陸に入り、そこから水路で
江戸崎→霞ヶ浦→高浜
と続いていたらしい。「常陸風土記」より
ただ、常陸・下総水軍というのは、ざっと見たところ載ってないけどさ。
これも宿題だね。
2.>>267さんへ
小田原征伐後は…わかる限りで
伊王野家は1万石であった所領が735石。
芦野家は700石となった。
大関家は大関安碩(高増)に1万石、増晴に3千石を与えられ、合計で1万3000石の大身となった。
大田原家は7000石の所領を安堵された。
0275(´ω`)
2008/05/28(水) 14:53:41ID:/5R7Ij1uそんでそいつらは鹿島社がたばねていたようだ。
もちろん四十四の湊が実際にあったわけじゃないぞ。たくさんあるって意味だ。
三十三館とかと同じだな。
0276:千本資政ってどお?
2008/05/28(水) 15:05:42ID:qa61uOe7そして、香取水軍? 鹿島水軍?についてのレスありがとう。
0277(´ω`)
2008/05/28(水) 15:30:07ID:/5R7Ij1uこれからもよろしくお頼み申します(´ω`)
0278人間七七四年
2008/05/28(水) 15:36:11ID:qa61uOe70279人間七七四年
2008/05/28(水) 16:17:25ID:qa61uOe7http://www.ktr.mlit.go.jp/kyoku/river/river_info/kasu_02_01.htm
江戸時代の霞ヶ浦・北浦では、霞ヶ浦四十八津、北浦四十四津と呼ばれる自治組織が霞ヶ浦を入会管理(共同管理)していました。
これらの結束を強化するために従来の漁業の慣習を明文化した「霞ヶ浦四拾八津議掟書」は
入会で漁をするときの漁具、漁法、漁期の制限について規定し、
これにより漁業資源の保護が図られ、湖の秩序が維持されました。
>>274のレス。訂正2ヶ所
1.×東山道→○東海道
2.×「常陸風土記」→○「常陸国風土記」
0280(´ω`)
2008/05/28(水) 18:23:25ID:/5R7Ij1u陸の百姓どもが武力を持っていたことを考えると、
海夫も当然行使できるほどの武力は持っていただろうね。
安宅船や関船はまず間違いなく持っていなかっただろうけれども。
ちなみにこの常総の流海周辺は伊勢とも非常につながりが深いな。
伊勢神宮と香取、鹿島のラインは古代中世から海のハイウェイだったんだろう。
0281人間七七四年
2008/05/28(水) 20:58:32ID:sI37mjFE里見や後北条が水軍を持っていたことは知っているが、
佐竹とかは水軍を持っていたんだろうか?
もし持っていても、戦闘用ではなく、警備とか偵察用の船か、
伝令用の早船ではないだろうか?
0282人間七七四年
2008/05/28(水) 21:23:55ID:IDfDm2Xhそれほどの通商路があったのかねぇ。。
琵琶湖は日本海から京への搬入路だったから栄えたが…鹿島灘を通過し霞ヶ浦を使用して税金まで取られて運び込んだ先が田舎町じゃな。
伊勢からの道ねぇ。せいぜい安房国までじゃないかのう。奇襲灘→遠州灘を通過したあげくに
さらに房総半島をぐるっと迂回して商売するメリットなんてあるかねぇ。瀬戸内海や伊勢湾と違いシブい小さな商売で税とるほどの地力なんてないんじゃない?
阿波国と安房国
和歌山県の那智勝浦・白浜海岸と千葉県の勝浦・白浜の共通点から古くから移住者が多かったと言われてるから安房とは馴染みがあるんだろうが常陸国はどうなんだろ。
房総半島と紀伊半島を重ねると伊勢神宮に鹿島神宮を重ねたりできるけど東京と大阪を重ねるみたいで無理やり感あるし。
0283(´ω`)
2008/05/29(木) 00:20:55ID:rlxd6W6O佐竹が水軍を持っていたという話は聞いたことが無い。
ただ那珂湊を管理していた佐竹の近習の真崎は那珂川久慈川の水運にそれなりに通じていたようで、
朝鮮渡海の際に佐竹の船奉行になっている。最も真崎しかいなかったとも見れるが。
>>282
そりゃ西国と比べれば海運、湖運の頻度は少なかっただろうね。
しかし年齢階梯制で横の連帯を重視する西国と親方子方で縦の繋がりに重きを置く東国じゃ、
特に入会が重要視される湖上の生活の在り方は違っていたと見るのが自然だ。
例えば利根川を通行する料船が関所で止められたことから千葉氏と揉めて、
幕府が裁許したということが鎌倉時代にあった。
上では香取社が流海の海夫を支配していたと書いたが、だがこれは実は建前であって、
千葉氏のような例を通して戦国時代には地元の領主が津々支配権を横領してしまっていた。
だから東国での事情は琵琶湖や瀬戸とは異なっていたのだ。
また東国にもしばしば「唐人」が訪れていたようで、佐竹義重は元亀二年に白土某に
水上する唐人の便宜を図ってやるように知行宛行し、
また天正二年には伊達輝宗が佐竹に紹介された唐人に会ったと日記に書き残している。
銭にならなければ当然態々大陸人が常陸くんだりまでやってくることは無いわけだ。
また唐人が来ているならば、当然ながら伊勢は言うに及ばず、
堺やそれより遠い日本の地方からも来ていたことは十分に想像できることだ。
ついでに、伊勢志摩の漁師は奈良時代から朝鮮のチェジュ島に行ってあわびなどを
手に入れていたらしく、また近代以後もチェジュ島から房総に結構な数の海女が
来ていたことなども考え合わせると、東国の水運は決して言及する価値が無いものじゃない。
0284人間七七四年
2008/05/30(金) 07:06:03ID:u3DXtiFX政朝・政勝・晴朝・朝勝ら下総結城氏を語る
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1212098363/
0285267
2008/06/02(月) 14:41:51ID:ASFmYRmm>>274
どうもです
自分は、下野新聞社の「那須の戦国時代」って本を参考にしてるんだが
出版が平成元年で古いのと那須地方しか載ってないので県中県南の勢力図
がさっぱり解らんです
0286千本資政ってどお?
2008/06/04(水) 16:25:04ID:tA65CWvo牽制じゃないと思うよ。
高浜というのは、府中(石岡市)と霞ヶ浦の間にある湖岸の村だよ!!
Googleマップで「茨城県石岡市高浜」と検索してみてください。
義重軍は大掾側の玉里城(小見玉市玉里、高浜の東北にある)を攻撃中だった隙を突いて、
松田憲秀軍が高浜に上陸し、大掾の本城である府中城に入ろうとしたんじゃないかな?
>>237さんへ
牽制じゃないと思うよ。
高浜というのは、府中(石岡市)と霞ヶ浦の間にある湖岸の村だよ!!
Googleマップで「茨城県石岡市高浜」と検索してみてください。
義重軍は大掾側の玉里城(小見玉市玉里、高浜の東北にある)を攻撃中だった隙を突いて、
松田憲秀軍が高浜に上陸し、大掾の本城である府中城に入ろうとしたんじゃないかな?
>>282さんへ。
「顔文字さん」の>>283のレスに追加するね。
江戸湾に中国から船が度々来ていたらしい。明と交易していたんじゃないかな?
0287人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/07(土) 07:55:43ID:lpyFVPg+高浜に上陸して府中に入るより、直接府中城近辺の湖岸に寄せて上陸した方が手っ取り早い。
高浜から府中へ陸路を採ると、当時は今よりかなり迂回しなくてはならない。
又再び湖水を渡る方が陸路より早いだろう…が、そうすると何故高浜上陸なのか…?
高浜上陸は何等かのイレギュラーだったと思います。天候、風向、地理不案内とか…。
正攻法なら直接玉里救援か玉里より南東部(旧小川町辺り)への上陸し玉里の後詰め。
又は、府中・玉里間への上陸。
但し戦況観望なら高浜上陸もあり得るが…。
しかし府中入城を企てたって説も捨てがたいですね。
0288人間七七四年
2008/06/10(火) 16:42:00ID:/QYTmWKg0289人間七七四年
2008/06/26(木) 14:47:27ID:K21sHFzC0290千本資政ってどお?
2008/07/02(水) 12:32:47ID:TaFvJvuZ高浜より南、つまり神立や土浦は、小田領(厳密に言うと菅谷氏領)であり、
天正十六年(1588) 当時は、小田は佐竹と同盟もしくは服従関係にあった。
だから北条軍は、大掾側の玉里や高浜に上陸せざるを得なかったのではないだろうか?
恐々謹言。
0291千本資政ってどお?
2008/07/02(水) 12:42:04ID:TaFvJvuZ「芳賀高定」只今調査中。
>>267-268さんへ。
宇都宮→鹿沼(壬生氏)→日光山。ちょっと違うんじゃない?
壬生氏は二派に分かれていて、「鹿沼城主の分家の周長」が宇都宮派で…
「壬生城主の宗家の綱雄ー義雄」が北条側であったのは周知の通り。
日光山の支配権は宗家にあったんじゃないかな? (場所は離れているけど…)
以上、「武家家伝 壬生氏」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mibu_k.htmlより。
0292人間七七四年
2008/07/08(火) 19:08:23ID:fYODVBuChttp://www.7andy.jp/books/detail/?accd=31623403
0293人間七七四年
2008/07/19(土) 14:34:46ID:gnasbNPR0295人間七七四年
2008/08/08(金) 15:08:11ID:6K85a0xY0296人間七七四年
2008/08/13(水) 04:38:44ID:3HKSZ3Ip0297人間七七四年
2008/08/19(火) 01:20:54ID:XZYd3F4u0298千本資政ってどお?
2008/08/27(水) 10:16:45ID:5+shKJrK芳賀高定は忠臣?
結論
忠臣かどうかの評価は悩むけど…
主家をもり立て、かつ自分の役割を自己認識でき、筋目を通す誠実な人だったらしい。
1,高定登場までを簡潔に…。
芳賀氏は宇都宮氏の一族でもあり、かつ重臣筆頭でもあるという特殊な家系。
芳賀氏と宇都宮氏の関係が始まったのは平安末期から。
奥州征伐の時にはその働きを源頼朝から称された。
あの『太平記』には「宇都宮は関東一の弓取りなり。【紀清両党】の兵は、命を捨てる事を惜しまない」というような文章がある。
紀は益子氏、清は「清原氏=芳賀氏」の事で、両氏は宇都宮氏の軍事部門を司っていた。
この頃、宇都宮氏綱が越後・上野守護になると、芳賀高名(入道禅可)は、その補佐役として同守護代を務めた。
以降、芳賀氏は代々主家と婚姻・養子縁組を通じて、密接な関係を築き、絶大な権力をふるうようになった。
つまり「宇都宮ー芳賀権力体制」(一心同体的な権力)
2,対立、そして高定登場。
戦国時代に入り、宇都宮氏は家中統制を強めようと、度々芳賀氏の相続に介入し、その権力の弱体化を図る。
(1).永正九年(1512) 宇都宮成綱は芳賀高勝を生害する。
(2).永正十三年(1516) 成綱、弟の興綱に芳賀氏を継がせる。
(3).大永六年(1526) 芳賀興綱、甥の宇都宮当主忠綱を追放し、宇都宮家を相続する。(芳賀氏復権。)
(3).天文八年(1539) 宇都宮俊綱(のち尚綱)は、芳賀高孝・高経を蟄居させたのち高経を殺害し「益子高定」に芳賀氏を継がせる。(宇都宮氏の統制強化。)
(4).天文十八年(1549) 芳賀高経の子、高照が那須高資・壬生綱雄・氏康・白河結城晴綱と組んで、 宇都宮尚綱(俊綱)を討ち、宇都宮城を乗っ取った。 (芳賀氏謀反。)
それに対し高定は、幼主広綱を擁して宇都宮城に復帰させようと奔走し、足利義氏(プラス氏康)・佐竹義昭・那須資胤(高資の弟)・江戸忠通を味方に付け…
天文二十年(1551) 那須高資を討ち、
天文二十四年(弘治元年・1555)頃 芳賀高照をそれぞれ討ち取って尚綱の仇を取る。
弘治三年(1557) 壬生綱雄より宇都宮城を奪い、広綱を帰還させた。
3,その後の高定
佐竹の軍事援助を受けて宇都宮城に復帰した広綱と高定だが、未だ内憂外患を抱える状態にあった。
内は、半独立状態の壬生・皆川がスキあらば宇都宮城を…
外は、北は那須・南は結城・小山連合が虎視眈々と宇都宮領を狙っていた。
この状況で高定は「主家と争わず以前のような“宇都宮ー芳賀体制”を守る事こそ、ひいては芳賀氏自体を守る事になる」と考えて、主家をもり立てたのでしょうね。(佐竹との縁組を進め同盟を強固にするなど)
それだけでなく実子を差し置いて、(4).の自分が殺害した芳賀高照次男の高継(高規)に家督を継がしている。
(自分はあくまでも益子氏であり、代理で芳賀氏を継いでいると考えたのでしょうか?)恐々謹言。
0299人間七七四年
2008/08/28(木) 03:13:11ID:7jq1dKK4芳賀高経の三男高継…高照の弟じゃなかった?
と、言ってみる
0300千本資政ってどお?
2008/09/01(月) 10:40:42ID:Q/++35j2そうですね、間違えてました。
>>298を後で読み返してみたら、第2章が大分間違っていたので、追記訂正します。
2,対立、そして高定登場。
(中略)
(1).永正九年(1512) 宇都宮成綱は芳賀高勝を生害する。(宇都宮錯乱始まる。宇都宮家中、二手に分かれて相争う。)
(2).永正十三年(1516) 成綱、弟の興綱に芳賀氏を継がせる。(内乱終息する。)
(3).大永六年(1526) 芳賀興綱、甥の宇都宮当主忠綱を追放し、宇都宮家を相続する。(芳賀氏復権。)
(4).天文五年(1536) 芳賀高経(高勝の弟)は宇都宮興綱を生害する。(芳賀氏の権力強まる。)
(5).天文八年(1539) 興綱の子俊綱(のち尚綱)は、芳賀高孝・高経を蟄居させたのち高経を殺害し「益子高定」に芳賀氏を継がせる。(宇都宮氏の統制強化。)
(以下、中略)
0301人間七七四年
2008/09/02(火) 08:43:22ID:ECqTNNUD0302人間七七四年
2008/09/02(火) 19:53:46ID:gYxMzwUCわかりづらい。
0304人間七七四年
2008/09/03(水) 05:18:58ID:RGznkm6Tあまり詳しくない俺にはカオスに見える
0305人間七七四年
2008/09/06(土) 09:35:52ID:9IU7l/iE配下と言っても独自の印判でもって年貢取ったり禁制出したりしてるからね
独立国と全く変わらん
0306人間七七四年
2008/09/17(水) 17:45:05ID:sI2P/mfJ歴史の話じゃなくて申し訳ないが、結城と小山って市民同士も仲良くない?w
自分中学は宇都宮で、小山の高校行ったんだけど、凄くそー感じた、
逆に宇都宮とかには、対抗心持ってる感じ、小山の人って
まー3年も通ってりゃ仲良くなったし、いいやつだったけどねorz
0307人間七七四年
2008/09/25(木) 12:35:59ID:UzIUWmSl0308人間七七四年
2008/09/26(金) 15:05:39ID:hIHr+h7f小山、古河、結城あたりは他県同士と言う感覚がない
県境はどこでもそうだと思うけどね
小山辺りからすると宇都宮人の方がよそ者に感じる
古河、結城からしても水戸人の方がよそ者に感じる
0309人間七七四年
2008/09/27(土) 15:05:42ID:0NQ82MoH0310人間七七四年
2008/09/28(日) 03:18:06ID:ZTvUO9v0その筑西の人達にしてみても水戸の人は同県同國にもかかわらずよそ者って感じでしょ?けど同じ選挙区なんだよなぁ〜、筑西と水戸。
0311人間七七四年
2008/10/07(火) 10:37:11ID:KSqmJChP水戸線が小山まで通じてるけどローカル感は否めない
0312人間七七四年
2008/10/14(火) 04:59:25ID:ChlxBYbR昔の水戸近辺の人々は小山回りで上京してた。
だから常磐線は石岡から水戸へ直通せず友部に繋いで工費削減?
0313人間七七四年
2008/10/14(火) 15:45:08ID:QV/etZmz今の茨城町(長岡だか小鶴だか奥谷だか知らないが)の住人が鉄道建設に強硬に反対したとか。
宿場が寂れるとか 今となっては意味不明だが。
0314人間七七四年
2008/10/15(水) 03:41:24ID:myH7Yy1k計画では水戸から今の国道6号線と同じルートだった…
しかし実際は水戸(柵町)から茨城町の長岡辺りまでの開業路線で蒸気機関車だった…orz
電気鉄道って…
昔、長岡には鉄道が走ってたんだよ
0316歴史好き
2008/10/19(日) 16:24:35ID:vkU1UhA7どうだったのでしょうか?
どなたかご存知の方教えてください、推測でもかまいませんが、
0317人間七七四年
2008/10/19(日) 18:15:06ID:HYErbIs2越相同盟への対抗から佐竹と武田は一時的に交流があったが、
越相同盟の消滅とともに目立った動きもなく互いに疎遠。
上杉の御館の乱で再び武田と北条が疎遠になると、
それに乗じて佐竹と武田も対北条協調路線をとるようになり、
1580年前後には共同で何度か上野近辺へ侵攻。
織田と武田の不和に義重が和睦の斡旋をしたが、
案の定信長は無視で武田滅亡。
0318人間七七四年
2008/10/19(日) 20:00:05ID:qy2so+4J「しばらくぶりですが…」という文面を書いてて、現物が残っているらしい。
0319人間七七四年
2008/10/19(日) 23:24:34ID:pgiLaEjL0320人間七七四年
2008/10/20(月) 01:09:39ID:0jjliioF>>317の「共同」して上野近辺へ侵攻…の「共同」は共謀して同時期って事な
一緒に一つの城を攻めた訳では無いから注意
同陣して無いから
0322人間七七四年
2008/10/20(月) 05:09:15ID:7AGVM/S70323人間七七四年
2008/10/21(火) 19:23:59ID:U3G51Kwm通りすがりに補足
佐竹軍は七月下旬に上野に出陣。
武田軍は八月下旬に上野に出陣。
微妙にずれている。
0324歴史好き
2008/10/24(金) 11:12:51ID:kiJ2aT6Pこの頃佐竹家に武田家にゆかりある姫が嫁入りすることがあったとしても
決して不思議ではないわけですね。
佐竹家に嫁いだ女性が不縁になって生後まもない娘を残し甲斐へ帰ったが
後年その母を訪ねて北条の領地を大きく迂回して山中を歩き甲斐へ向かう
娘の伝説がありますが歴史的な背景はあっているみたいですね。
0326人間七七四年
2008/10/24(金) 12:35:22ID:zgQorh38武田と佐竹の婚姻関係と言うのも十分有り得る事だけど
そのような歴史的事実は全くないので
何かの話しがごっちゃになっているのだと思う
0327歴史好き
2008/10/24(金) 19:41:12ID:kiJ2aT6P話があります、天正10年に織田の軍勢から逃れるため山中を踏
破して恩方(八王子)へ向かうのですが、記録では幼い姫も多
数同行していたようです。このあたりの話が形を変えて相模湖
方面で残っているのかも知れませんね。
歴史は分からないことが多いだけに奥が深いです。
0328人間七七四年
2008/10/24(金) 21:23:50ID:QMY4MUJd0329人間七七四年
2008/10/24(金) 21:34:12ID:5j3zVTYYなるほど。そういう伝説があったのか。全く知らなかった。
でもこれは伝説といえども、割と信憑性のありそうな話だ。
まずコレは武田方面の伝説だということ。
武田は大きい大名だし、他の大名家とも親交が多かったはずなのに、
態々佐竹家に嫁いだと捏造する理由が薄い。
それに武田と佐竹の縁は、戦国時代に関してはそれほど深くない。
同盟期間も短いし、お互いにあまり疎通もなかったにも関わらず、
こういった伝説が醸成されてくるというのは不可解だ。
というわけでこれが本当の話だと仮定すると、真相は下のようになる、かも。
越相同盟への対策から武田と佐竹も同盟することになり、武田から女が送られる。
信玄や義信の娘でないとしたら義重の側室、あるいは佐竹の重臣の正室になったはず。
越相同盟は早々に破綻し、武田と北条が再び同盟。北条と仲良く出来ない佐竹は
武田とも仲良くは出来ないので、甲常同盟も破綻する。
つまりここで武田からの女が佐竹から離縁される理由が出来ることになる。
というか離縁される理由はどう考えてもこれしかない。
天正中期武田勝頼の時代、武田と佐竹は再び同盟し、
なんらかの理由で残された娘が返される。
(武田と佐竹の娘である彼女が江甲和与へ至る過程で、
織田へ嫁ぐとしたのだったら面白い。もっとも織田に嫁ぐ相手はいなさそうだけど)。
ただよく分からないのは通った道が何で相模原なんだということだ。
上野→佐久→甲斐ルートのほうが当時ポピュラーだし、相模原を通ると言うことは、
武田佐竹双方の敵である北条領を突っ切らなければならないので、
最短距離だがあまりいいルートではないはず。娘が幼かったせいからか。
0330歴史好き
2008/10/27(月) 17:33:59ID:yrkaMm4yいて横山太郎という武士?が戦乱に乗じてさらい、相模まで逃げた、
小栗判官が横山太郎の屋敷に逗留することになり照手姫に出会う・・・
という伝説が常陸にはあるそうですね。
http://www.rekishi.sagami.in/terute.html
0331人間七七四年
2008/11/05(水) 15:18:25ID:ODERcfc0モデルは誰なんだろう?
0332人間七七四年
2008/11/17(月) 15:48:59ID:q0Gz5wnc0333人間七七四年
2008/11/27(木) 14:57:02ID:kBPOLal90334人間七七四年
2008/11/28(金) 02:17:56ID:DRQTZHEx宇都宮俊綱(尚綱)が頓死しなければ宇都宮が下野の台風の目になれたかもしれないのに
0335人間七七四年
2008/12/08(月) 15:38:42ID:q2ZBxYph0336人間七七四年
2008/12/08(月) 21:31:24ID:nBfa/uVe0337人間七七四年
2008/12/11(木) 02:25:45ID:VnsYxMrk0338人間七七四年
2008/12/11(木) 12:40:01ID:PnJFwnx6この地域は那須七騎が上手く生き抜いたな
とくに大関系は2家も大名として存続したし
大関氏は幕府の奉行もやったはず
0339人間七七四年
2008/12/16(火) 18:02:06ID:CsgnwB5xやはり真壁氏なんでしょうか?
知ってる方お願いします
0340人間七七四年
2008/12/16(火) 19:06:50ID:BQI4xll3下館近辺なら水谷氏。
0341339
2008/12/16(火) 21:03:33ID:a1kmVt/9素早い返答ありがとうございます
筑西と言っても広いんでわかり辛いですよね すいません
家は↓のページで紹介されている海老ヶ島城から南西に4qぐらいのところです
ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/6650/akeno.htm
地図で言うと↓でこの地図は小田城と真壁城跡地がありますのでわかりやすいかと思います
ttp://up2.viploader.net/pic2/src/viploaderf145852.jpg
たびたびすいませんがお願いします
0343人間七七四年
2008/12/18(木) 05:45:43ID:nYUY6Rrhこの辺り(旧明野町)は争奪戦が繰り広げられた所だから、一概に誰の所領と断言するのは難しいかな…
小田原征伐前と後では大して変わらないと思うが、それ以前となると…
時期を特定して呉れれば良いのだが…
0344(´ω`)
2008/12/18(木) 06:58:31ID:etPz4Nviちょうど結城系、小田系の所領の境目付近だな。
海老ケ島は、もともと結城系の所領であり、室町中期に小田によって攻略され、
その後1595に佐竹家臣で旧小田家臣の宍戸氏が入るまで、ずっと小田系だった。
というわけで、戦国時代はほぼずっと小田に年貢を支払っていた地域だったことは間違いない。
ついでにこの西のほうには鳥羽の淡海(騰波ノ江)という湖沼があって、
今小貝川の流域はほぼ水の下だった。
あなたの住んでいる場所は戦国時代は島のようになっていた場所で、
高道祖で下妻の台地と狭まっていた。。
この湖沼地帯はうんちくせい市の北のほうまで繋がっていて、
今は陸地のくせに、やたらと「島」とか「谷」という文字のつく地名が多いな。
また近世以降に水面上になってあらたに名前のつけられた地名も非常にわかりやすい。
0345人間七七四年
2008/12/18(木) 22:52:09ID:2u7egJzG0346人間七七四年
2008/12/20(土) 10:08:19ID:kLxJqssg龍ケ崎やら江戸崎も今じゃ内陸だが昔は遥か県西まで内海が入り込んでいたから崎なんだよな
県西のあたりで海道を目にするのもその名残りのようだ
常陸南部や下総は水だらけだ
0347339
2008/12/20(土) 15:09:06ID:nHFhvQyv皆様反応ありがとう御座いました
たしかに浜とか島とか付く地形はめちゃくちゃ多いですね
当時の地形ががどんなだったかから調べていきたいとおもいます
とりあえず家のあたりの領主様は結城系→小田系→佐竹系→天領
って流れみたいですね
争奪戦が結構あったって話ですが小田や結城の動員兵力ってどんなもんだったんでしょうね
0348人間七七四年
2008/12/29(月) 15:40:51ID:rUJdqvyX0350人間七七四年
2009/01/07(水) 14:40:28ID:WY4JvlVC0351人間七七四年
2009/01/16(金) 05:07:15ID:i0BHMLZT0352人間七七四年
2009/01/16(金) 12:06:42ID:Czt3HAV70353人間七七四年
2009/01/18(日) 04:01:04ID:mPbbeYTiいろいろ想像しちゃうけどなぁ
北条顕家は騎西城城の小田顕家とは別人なんだよね?
0354人間七七四年
2009/01/18(日) 17:25:36ID:p8PuRYwc小田さんの海老ヶ島城には『海老ヶ島七騎』なる武者が居たらしい
やばい 地元民からすると全く強そうに聞こえないwww
しかも小田の海老ヶ島城失落時にうちの村に落ちてきて地侍化とかある
たしかに七騎と同じ名字の家メチャクチャ多い
しかし海老ヶ島から5キロぐらいしか離れてないのにそんなところで地侍化して大丈夫なのか?
0355人間七七四年
2009/01/18(日) 19:01:08ID:rPodWE7M当時は大丈夫だったんじゃなかろうか。
うちの近所にも落城した城の話があるんだけど、そこから逃げ出した
家臣がちょっと離れた場所に住み着いたという砦の伝承がある。
0356人間七七四年
2009/01/27(火) 08:04:27ID:UMQdjwLn小田が藤原姓から源姓に変わったこととも関係があるだろうな。
多分長尾が管領を継ぎ、北条も管領を私称し、
里見も公方の奉行だか政所管理者から副将軍を名乗り、
佐竹も東国の右京大夫だと言い出したので、
小田も対抗するためにそういう話を作ったんだと思う。
態々公方を担ぎ出したのだから、
恐らく何か小さな縁でもあって、そういうことにしたんじゃないかな。
0357人間七七四年
2009/02/06(金) 15:43:49ID:wqa724dQ今家系図を調べていて、氏綱さんを探しています。
小山家の末裔で家紋が佐竹の扇から来ていて
先祖が宇都宮の綱が入ったと思われる「氏綱(天文十九年享年)@お墓記載」なんですが、
困った事に紀州の小山家なんです。
小山高朝の子供の実隆・経幸が紀州にいるのは調べました(本:紀州小山家文書)が記載はありません。
それでもうひとりの結城家より養子できたもう一人の高朝の関連とややこしくなっていて
もうどうしていいやら解らず詰まっています。
あと小山広綱・宇都宮広綱 は別人ですか?
0358人間七七四年
2009/02/06(金) 16:04:00ID:/3madPJTヒント:氏綱じゃなくて氏朝。と言ってみる。
宇都宮広綱は元亀天正の頃の人で、
他の広綱とは間違えようのないくらいしっかりした人。
小山と宇都宮は、系図がごっちゃになるほど血縁的に繋がっていない。
0359人間七七四年
2009/02/06(金) 16:19:44ID:wqa724dQ早速ありがとうございます。残念ながら氏綱なんです。
もう書いてしまいますが
安居初代1世
小山四郎左衛門氏綱
天文19年10月24日享年
この人を探しております。
宇都宮家とは綱位しか関係ないなーとしか見てないのですが
家紋が佐竹の扇から来ているものなので佐竹と関係があるのかなと思ってます
あとお墓が和歌山なので余計に解らなく・・・
歴史オンチなせいで宇都宮広綱さんが有名な人だと知らずに質問してすいません。
0360人間七七四年
2009/02/06(金) 19:29:43ID:kJfcIS8wその氏綱の前後の人はどんな名前と字で、誰に仕えてたの?
そんでどんな資料に書いてあったんだ?
宇都宮広綱のことと同様に、下野の高朝と紀伊の実隆父の高朝では
活躍した時代も場所も全く違うので混同されるはずがない。
>これら小山氏の活動は『紀伊続風土記』に散見しているが、
>文書に年号や名字がないため、その足跡を編年的にたどることは容易でない。
播磨屋のページにもこう書かれているし、信頼されたる可能性が非常に低いな。
0361人間七七四年
2009/02/06(金) 20:39:44ID:kJfcIS8w>ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/oyama.html
>ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/ks_koyam.html
播磨屋のページで見ると、南北朝期の高朝から下野と紀伊の系図が全く違う。
下野小山の高朝の子は朝郷・氏朝だが、紀伊小山は経幸・実隆だ。
これから判断すると、下野小山の系図に、紀州小山の系図を経幸・実隆の
部分から無理矢理繋げた可能性が非常に高い。
しかもurlを見ると紀伊小山氏は「おやま」でなく「こやま」じゃないかい?
東国では「小」を「お」と読み、西国では「こ」と読むことが多い。
また実隆以降、「隆」の字が必ず上について継承されてるのが気に入らないw
土豪クラスでこれがあるのは、相当名門の場合に限ると思うのだが如何なものか。
その上信長に仕える前の人の名前に「左京」「帯刀」と、
かなり江戸臭を感じる百官名が入っている。
経幸系はまだマシで、あざなのみの記載と割と信用できる部類か。
大体土豪クラスは実名が代を通じて定まらないことが多く、
多くの場合あざなや官途のみしか書かれていなかったりする。
「氏綱」という名から判断するに、経幸子の「氏朝」あたりと符合するのでこの系統か。
>家紋が佐竹の扇から来ているものなので
扇の家紋といってもいろいろあるからなあ。佐竹は「月扇五本骨」なんだが。
なんの根拠もない私見だが、たぶん佐竹とは関係がないと思う。
紀州で佐竹といったら、雑賀衆の佐武義昌しか知らんし、
これが月扇五本骨を使用していたかも、「氏綱」と関係あるかも全く不明。
全体から見ると、紀伊小山氏は紀伊の土豪で、下野小山とは全く関係がなく、
経幸・実隆と呼ばれる人から家が勃興したんだろう。
子孫は彼らを先祖とする伝承を持っていたが、確実な文書史料等はほとんどなく、
江戸期に系図を再構成した可能性が非常に高い。これはよくあること。
その際、中途の名前を想像で入れるとともに、下野小山に繋げた。
0362359
2009/02/06(金) 22:21:48ID:ezrb5XUl>>36
資料元は義父の調べた結果の家系図です。それを調べていて不自然だったので
調べると繋がらなかったという事で質問させて頂きました。
ただ上記に書かれてある氏綱からの情報はお墓の情報からのもので
享年だけは記載されています。
元々はちゃんとした家系図があったそうですが昔和歌山の台風?洪水?で流されてしまったとの事です。
その氏綱の親にあたる所が義父も解らず適当に高朝(実隆の父)とくっつけたという無責任な状態orz
氏綱の続きは四郎左衛門の名前だけ繋がってるのです。
ただ、大円寺創興祭神主と書かれた四郎左衛門がいます。これもどこの大円寺だよって感じで信憑性が・・・
そこに藤原則重という名前も書かれています@享年元和九年十二月二十九日
あと「小」は「こ」と呼びます。実際は屋号がついてちょっと違う名前なんです。
その辺はばれてしまうので伏せさせて頂きます。
あと経幸の子孫に「小山肆成」がいます。日本初の天然痘ワクチンをつくった方なんですが
その人の資料より
”正平二十一年(1366)三月田辺口合戦には、多くの負傷者と小山三郎吾郎、同四郎左衛門、周弥三郎、同重左衛門
同兵部丞、−−−割愛−−−−其の子左衛門少尉兼光は、畠山家に属して吉野に奉仕し・・・”
と書かれていて、義父曰くその四郎左衛門が先祖のはずと。
>経幸子の「氏朝」あたりと符合するのでこの系統か。
だからこれだと嬉しいですね。ちょっとこの辺を調べてみます。
ただ、家紋が気になってしまって。家紋は調べると毎回佐竹家が登場するので
関係があるのかと思い私の思いこみで下野国小山を調べていました。
どうも下野国とは違うルートのほうがよさそうですね。
結果スレ違いになってしまって申し訳ないです。歴史の詳しい方の意見が聞けて良かったです。
ありがとうございました。
0363人間七七四年
2009/02/16(月) 16:05:14ID:F4Zc+Sji0364人間七七四年
2009/02/26(木) 15:19:52ID:zdJhEDfU0365人間七七四年
2009/02/27(金) 13:51:54ID:Ab0we9COドングリ'ryというか
あのウチゲバ大好き体質はなんとかならんか
0366人間七七四年
2009/03/05(木) 15:15:29ID:+/IGTlbD0367人間七七四年
2009/03/06(金) 08:33:28ID:EO5s3j1O0368人間七七四年
2009/03/16(月) 15:47:16ID:Kfzj+SlZ0369人間七七四年
2009/03/17(火) 14:18:57ID:0IypERhu0370人間七七四年
2009/03/17(火) 14:21:30ID:0IypERhu0371人間七七四年
2009/03/20(金) 19:36:40ID:rzUgm7i90372人間七七四年
2009/03/25(水) 21:42:55ID:esGIwyB60373人間七七四年
2009/03/27(金) 13:18:00ID:0J5VyluIhttp://www.sakigake.jp/p/special/09/chijisen/
秋田県角館市、佐竹北家の当主、佐竹のりひさ氏。
【略歴】
1947年、秋田県角館町(現仙北市)生まれ。東北大学工学部卒。
72年、秋田県庁に入庁。工業振興課長、地方課長、総務部次長などを歴任、
97年、県庁を退職。2001年7月、第17代秋田市長に就任、
同年8月、秋田県市長会会長。03年、全国市長会副会長、政府税制調査会委員。
07年6月、全国市長会会長、同7月、地方制度調査会委員。
09年3月、秋田市長を退職し、4月12日の秋田県知事選へ向けて始動。
ちなみに、30年にわたり、姉妹都市交流が続けられているんだとか。
0374人間七七四年
2009/03/27(金) 13:19:11ID:0J5VyluI0375おっぱすぴんく
2009/04/05(日) 22:30:07ID:CQiXZ+cD0376人間七七四年
2009/04/08(水) 23:44:54ID:84d5NWsf0377人間七七四年
2009/04/12(日) 22:03:04ID:hZmWTw0G栃木県知事に宇都宮氏の子孫を…
茨城県は…、誰が良いのやら。
まあ、何はともあれ、佐竹氏の藩主復帰って事で記念上げ。
0378人間七七四年
2009/04/12(日) 23:08:07ID:z9PXLuwEいや、殿様の格好して、さたけ軍団のほうがいいと思うんだけど。ダメ?
0379人間七七四年
2009/04/15(水) 04:47:04ID:1hIdongFその先祖・子孫の情報についてご存知の方いらっしゃいますか?
0380人間七七四年
2009/04/15(水) 09:29:37ID:+HSEjNpb九州に派遣され失敗して今川了俊と交代させられ、次に関東執事として堀越公方と一緒に関東へ派遣されたが鎌倉へ入れず、扇谷上杉を義政に讒言した罪で失脚したはず、
(本人は確か武蔵国の北のどこだったかに領地もあったはず)
しかも渋川氏の息子が斯波氏の養子になって相続したことが応仁大乱の元凶になったはず。
この足利一門最大の役立たず一族だろ。
0381仙台藩百姓
2009/04/23(木) 18:27:55ID:DP0DtqbP蔚山での活躍
早乙女坂で大名(宇都宮尚綱)討ち取る
関山で上杉軍を撃破
地味だけど案外つおいお( ^ω^)
0382人間七七四年
2009/04/25(土) 12:25:05ID:iuSNw2Kk0383人間七七四年
2009/04/25(土) 16:28:28ID:941IN3qj興味が湧いたんでググッてみたけど
鮎瀬豊前てのがいい味出してるな
0385人間七七四年
2009/05/14(木) 16:07:08ID:2xtTCKom0386人間七七四年
2009/05/15(金) 20:48:01ID:ArMBFBIA0387人間七七四年
2009/05/16(土) 09:37:27ID:dI4GO6iB水戸市長が適任でしょ
茨城は大掾氏、栃木は小山氏
これで決まり
0388人間七七四年
2009/05/25(月) 15:05:57ID:6RAsVGil0389人間七七四年
2009/05/26(火) 11:54:00ID:5mCH4vOx0390人間七七四年
2009/06/03(水) 14:21:52ID:6LkdwGiD大掾氏とか一度も守護職に就いた事ないし
0391人間七七四年
2009/06/03(水) 16:39:03ID:2QhZHfwa※ここは戦国時代板です。
※ここは戦国時代板です。
※ここは戦国時代板です。
※ここは戦国時代板です。
0392人間七七四年
2009/06/03(水) 23:28:17ID:+Ku3+WoP0393栃木くおりてぃー
2009/06/06(土) 11:12:47ID:xij4d+Kg栃木リンチ殺人事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%83%E6%9C%A8%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%81%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
【強姦】 警部補強姦逮捕 栃木県警「心から深くおわび」 [06/18]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/owabiplus/1213958526/
【栃木】連続強盗強姦の2人 懲役30年と28年を求刑
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20090519/CK2009051902000109.html
【父親が実娘を強姦し続けた】栃木実父殺し事件
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/baby/1096037070/
栃木県立今市高校教師、卒業生も強姦されたと被害届を提出
http://sagool.tv/detail/3880201651115013861/
取り調べ女性への性的行為否定 元栃木県警警部補が無罪主張
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/auto/5043/1190871900/66
【社会】「強姦が好きで、彼女や風俗店では満足できない」 33歳無職の男を再逮捕…栃木
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1240961004/
【栃木】強姦被害者望まなかったのに 宇都宮地検勇み足? 起訴”強行”[01/25]
http://gimpo.2ch.net/test/read.html/wildplus/1232861243/
【栃木/教師】女子生徒への連続淫行高校教諭、3度目の起訴
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1234921971/
【栃木】先生とラブホ女子中学生「ベロチューしまくった」「乳首触りすぎい…まあいっか」お口の中たかゆき★11
http://s03.megalodon.jp/2009-0417-1923-18/tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1239940813/
0394人間七七四年
2009/06/06(土) 13:56:39ID:juMJDnfK0395人間七七四年
2009/06/14(日) 01:48:24ID:WaBFIqFR0396人間七七四年
2009/06/19(金) 15:35:50ID:JoLXny/50397人間七七四年
2009/06/27(土) 15:43:35ID:MqFglreQ0398人間七七四年
2009/07/02(木) 23:14:31ID:5wyr2lpaの一族ですか?
0399人間七七四年
2009/07/02(木) 23:17:30ID:jzuERVdt0400400
2009/07/03(金) 11:54:13ID:ICmjaLDR0401人間七七四年
2009/07/07(火) 20:42:47ID:DkNIzYsL0402人間七七四年
2009/07/08(水) 14:38:48ID:/mTzU29k最上13万石、上杉91万石の真実。。。。。。。。。。。。。。。。
0403人間七七四年
2009/07/12(日) 15:00:29ID:/qCbd3bs0404人間七七四年
2009/07/12(日) 23:24:16ID:H1DSspXE真里谷武田家の「武田信隆」と、宇都宮氏家臣「武田信隆」は同一
人物の可能性が高いのでしょうか?
0405人間七七四年
2009/07/15(水) 02:24:08ID:/2DcVK9c真里谷武田信隆は1540年に死去。
水谷正村と宇都宮家所属(?)の武田信隆が戦ったのは1547年。
全くの別人と思われ。
てか宇都宮家の武田信隆って登場史料は軍記か家記のような気がしてならない。
実在は確認できるのか?
実在とすれば下野を根城とした国人領主クラスの家柄だろうな。
いずれにせよ甲斐武田氏の分家とか庶流に当たる(自称含む)とは思うが。
0406人間七七四年
2009/07/25(土) 15:08:55ID:RN1Wy7Hw0407人間七七四年
2009/08/03(月) 03:35:42ID:e880Py7I0408人間七七四年
2009/08/03(月) 11:35:46ID:jabTt11T0409人間七七四年
2009/08/08(土) 12:10:05ID:S64ivuT40410人間七七四年
2009/08/08(土) 16:34:25ID:kj31QM/e鎌倉時代、伊予は宇都宮氏の領国だぜ?
室町時代に北朝の河野氏に押されて守護職を失ったが、
大洲城を中心に勢力を保持しつづけた。
0411人間七七四年
2009/08/08(土) 16:43:56ID:OUqj18U6伊予宇都宮
下野宇都宮
他に居るかな
0412人間七七四年
2009/08/08(土) 18:02:02ID:S64ivuT4宇都宮氏にとって秀吉は最悪だよね。
藤堂高虎配下にでもなって伊予宇都宮氏だけは生き残れたの?
0413人間七七四年
2009/08/10(月) 21:34:58ID:uUdxd/em>豊前宇都宮氏って本家の下野宇都宮氏を心配しまくってるよね。
芳賀や壬生の問題に加えて尚綱戦死広綱幼少とかあったからな〜。
豊前の領主なのに下野のことを心配してどうするのかという気もするが、
一族思いだよな、長房w
>藤堂高虎配下にでもなって伊予宇都宮氏だけは生き残れたの?
豊綱の息子が小早川家に拾われたらしいが、よくわからん。
あと大洲宇都宮氏は庶流も少なくなったみたいだし、
一部は伊予の各藩士となった連中もいるんじゃないかな?
0414人間七七四年
2009/08/16(日) 16:44:55ID:TPKFIuEd宇都宮宗家は別に滅ぼされたわけではないから
一族臣下とも水戸藩など関東諸藩や久保田藩などに拾われて子孫は現在に至っている
高校の時に宇都宮系や那須系の人が結構いたな
前に仕事で数ヶ月大田原にいたのだが
大田原さんが物凄い数いたけどみんな一族なのだろうか…
0415人間七七四年
2009/08/20(木) 12:11:34ID:l/gN00GB藩主家の方は東京とかに出ている場合がほとんど(ちょっと前に、大田原家の
当主とそのご子息が地元の墓所を訪れたというニュースを見た)だけど、
庶流の、家臣となっていたような一門だったら、多少は地元に住んでいるのではないかな?
0416人間七七四年
2009/08/20(木) 17:52:30ID:JcH8hdV3やはり東京にいるんだね
明治政府も旧藩主を東京に住まわせたから地元に住んでる人は少ないんだよな
大田原の出張に行った会社ではぱっと見た所30人ぐらいは大田原さんがいた
まさか大田原氏のお膝元で明治に名乗った偽者はまずいないだろうから一応一族なんだろう
那須七騎も古い家だから分家がたくさんできたんだな
0417人間七七四年
2009/08/21(金) 19:01:56ID:0Ncdfj5k民主が国政第一党になる
↓
公明「外国人参政権などの党としての本懐で民主党と一致した」
民主、公明の連立政権成立
↓
国政での外国人参政権が成立
国政選挙で民主、公明、社民更なる躍進
↓
人権擁護法が与党の賛成多数により成立
行政、在日朝鮮人、中国人、宗教法人を批判すると罰せられる様になる
↓
国籍法の更なる緩和
日本国籍と生活保護資格だけ持つ、日本人の血が一滴も入ってない中国人が急増
↓
在日朝鮮系、中国人系の国会議員も出現
親中国の自民議員が民主に寝返る
自民党完全無力化、または解散消滅
↓
日本乗っ取り完了
「民主党の正体」 「ミコスマ」 「韓国は“なぜ”反日か?」で検索
0418人間七七四年
2009/08/29(土) 12:52:04ID:Ynu8LcPG0419人間七七四年
2009/09/04(金) 16:04:50ID:LWXZlizS0420人間七七四年
2009/09/05(土) 14:28:41ID:qCv2D76V0421仙台藩百姓
2009/09/05(土) 17:19:03ID:bOlFBvM2小山に住んでるお( ^ω^)
0422人間七七四年
2009/09/08(火) 00:34:06ID:vTTu4wKJ有名な話。
0424人間七七四年
2009/09/13(日) 12:56:43ID:CFOg11zz0425人間七七四年
2009/09/18(金) 15:33:28ID:1zIhVEFF0426人間七七四年
2009/09/24(木) 15:32:01ID:feklRCbA0427人間七七四年
2009/09/30(水) 15:33:29ID:dYjTt+EG0428人間七七四年
2009/09/30(水) 18:54:23ID:iYOuMIh6幕末では秋田で宇都宮氏分家のたけつなちゃんが
かなりの権力を握っていた。
http://www.pref.akita.lg.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1137043033313&SiteID=0
あとはそのころ、同じ家老で宇都宮氏一門の
松野つなとくちゃんも家老してるはず。
他にも宇都宮氏一門で誰かいるかもしれん。
いずれも、家康と浅野の謀略で本家本城を
奪われる様を見ているんだよなぁ。
そりゃあ倒幕したくてたまらんだろう、
なんてこともちょっと考えてしまった。
0429人間七七四年
2009/09/30(水) 23:43:50ID:eROydM0V0430人間七七四年
2009/10/08(木) 15:42:01ID:luzpfPPX0431人間七七四年
2009/10/14(水) 14:38:02ID:XjAJec5D0432人間七七四年
2009/10/14(水) 23:46:47ID:SoMj4F140433人間七七四年
2009/10/16(金) 10:24:48ID:GR/V4+qN0434人間七七四年
2009/10/17(土) 00:31:19ID:gw1gt68r0435人間七七四年
2009/10/23(金) 16:03:28ID:N0cMFcIm0436人間七七四年
2009/10/29(木) 15:44:46ID:xpd7rNOK0437人間七七四年
2009/11/04(水) 15:55:59ID:UcwDFKo60438人間七七四年
2009/11/10(火) 15:09:05ID:OEbZT7FW0439人間七七四年
2009/11/18(水) 15:31:57ID:XourJ+yz0440人間七七四年
2009/11/25(水) 16:07:17ID:cHMk97PG0441人間七七四年
2009/11/26(木) 16:28:36ID:18Ff0ZzU逆だろ。
野木宮合戦でまぐれ勝ちして身分不相応な守護職をもらってしまったのが不幸の始まり。
守護という有利な立場でありながら、全く勢力伸長できなかった。
室町期に本家は討伐されて滅亡。その後は事実上、分家結城の支配下。
領域は下都賀郡の東半分しか押さえていない。戦国期には何回も本拠が落城。
西半分の分家皆川ですら1万数千石という事は、小山は5万未満だろうな。
宇都宮には薬師寺を奪われ、一貫して主権を守った那須にも及ばず、上杉北条に大健闘した佐野未満の小山。
0442人間七七四年
2009/12/07(月) 01:48:29ID:neftw+AW0443人間七七四年
2009/12/07(月) 10:17:33ID:gGHGiPWn資清や高増ら三代はかなりのやり手だな
那須七党の内、四党を支配して大名家を二つも残したのだからたいしたものだよ
まあ、主家にとっては凶悪極まりないだろうけどw
0444人間七七四年
2009/12/07(月) 22:18:25ID:RhaFYxT7那須家の存亡に関わる自体に必ず一枚噛んでる印象だが、悪い方で
0445人間七七四年
2009/12/08(火) 14:34:33ID:5rnkkOnC3兄弟以前にも千本親子に誘殺されてたり、なめられまくりだな。
ただ、小田原征伐に関しては明らかに主家の失態。
遅参してなければ七党を支配下に置くのを公認されただろうに。
0446人間七七四年
2009/12/09(水) 23:54:00ID:RtwNTLR/0447人間七七四年
2009/12/12(土) 16:27:24ID:aFfjDo380448人間七七四年
2009/12/12(土) 22:01:57ID:evuVZCMD0449人間七七四年
2009/12/14(月) 19:02:29ID:Qvsh8AuD主家の小田氏が越前松平氏の陪臣(千石)におさまった事を考えれば
菅谷氏は五千石という大身の旗本になれたのだから勝ち組だ
0450人間七七四年
2009/12/18(金) 14:57:12ID:+KnLqQFE0451人間七七四年
2009/12/26(土) 11:16:06ID:4aH81Ara小田氏や宇都宮氏は旗本になった元家臣に平伏しなくてはならなくなった
相馬氏とか那須氏みたいに意地でも江戸に上って御家再興を訴えるべきだったね
0452人間七七四年
2009/12/28(月) 07:50:19ID:PXmEJnij0453人間七七四年
2009/12/28(月) 08:32:45ID:/m5zSggu知行が万石未満・直参で、将軍御目見得ができるのが旗本、できないのが御家人。
石高の多少による旗本・御家人の区分は無いはずだが?
因みに五千石未満を御家人とする説は誰が言ってるんだ?
武鑑にでも書いてあるのか?
一千石以上の知行を持つ御家人なんていたっけ?
0454人間七七四年
2010/01/10(日) 23:57:18ID:eyRtCmjY鷲子山塊と鶏足山塊が邪魔で那珂川沿いの渓谷みたいな所みたいな細い道からしか兵を入れれない。
防衛戦なら勝ち目はあったかも分からん。
0455人間七七四年
2010/01/21(木) 09:42:38ID:V7aLGsBc今だと常陸大宮の鷲子から一直線に烏山城下に入れるけど
佐竹の侵攻経路を見ると遥か数十キロを迂回して黒羽や茂木から攻めている事が多い
何でわざわざそんな事するのか疑問に思っていたが、地形を見てみたら一目瞭然だった
烏山から見て常陸側は那珂川と山地が国境を分断していてしかも絶壁が続いている
今でこそ山を削り道を作って橋をかけてあるから通行できるが
近代以前(戦後まで渡し舟があったらしい)は烏山付近に軍勢が渡河できるようなポイントがない
鷲子→武茂→興野から渡河する経路もあるが、これだと烏山城の眼前を渡河する事になり
当然、那須勢が対岸で待ち受けるわけで一番危険な渡河中の攻撃に曝される
実際に佐竹義久などがこれで撃退されている
渡河しても烏山城は急坂に囲まれた台地の上にある山に築かれており非常に攻め難い
西の宇都宮方面や南の茂木方面も難路があり烏山は凄く良いところに築城したと思う
0456人間七七四年
2010/01/24(日) 13:36:48ID:91cIKkTe0457人間七七四年
2010/02/21(日) 08:52:25ID:k3WCd2W1八幡山とかを拠点にすればいいのに何であんな平地に築城したのか謎だ
0458人間七七四年
2010/03/04(木) 09:28:10ID:GJfd28Dl宇都宮城って 結構平和だったからねw
0459人間七七四年
2010/03/07(日) 12:32:32ID:OQRnEWtX0460人間七七四年
2010/03/28(日) 10:54:02ID:wHN/EDSJ0461仙台藩百姓
2010/04/30(金) 15:30:36ID:Sf7joQux八幡山あたりは寺社が多かったし、宇都宮氏は元々二荒山神社の神職でもあったから
二荒山の真っ正面に居館を構えたのだお( ^ω^)
戦国末期に多気山へ大規模な詰城を整備したとはいえ多気山は城下町まで移動するには不適だし
結局宇都宮城も落城する事はなかったから平城とはいえ大規模に改修されて堅固だったのだおうね( ^ω^)
0462人間七七四年
2010/05/01(土) 03:06:59ID:3R/k0SpO40代ぐらいでもう隠居してたみたいだが。
0463仙台藩百姓
2010/05/01(土) 07:27:38ID:PGWW2Q7w高定の場合は初めから実子ではなく高継に家督を継承させるつもりで
実子との間で家督争いが起きぬよう早めに隠居して高継を後見した
若しくは、芳賀家中からそういう声が挙がった
といったところではないかお( ^ω^)
0464人間七七四年
2010/05/01(土) 18:59:19ID:3R/k0SpOやっぱり芳賀家中ではそう強い地盤が無かったって事なんだろうか。
0465人間七七四年
2010/05/02(日) 01:44:54ID:F97+A0Zq0466人間七七四年
2010/05/03(月) 12:16:22ID:Q4mjokfo0467人間七七四年
2010/05/10(月) 20:58:29ID:PN5zPWaWなんも知らずによく遊んでたんだけど、そこは宇都宮氏と小山氏が
戦った、茂原(多分感じ違ってますw)の戦いの時戦死した無名の武士
をまつった所なんだそうな、宇都宮最南部の茂原町にあります、
0468人間七七四年
2010/05/18(火) 21:16:39ID:KXhgPQ4x岩田選書◎地域の中世G
松本 一夫 著
(栃木県立文書館館長補佐)
第1章* 中世における下野の位置
−地政学的アプローチ
(奥州との境界/分権性)
第2章 寒河尼−女性地頭の功績
(頼朝の乳母として/寒河尼の「大功」)
第3章 南北朝〜室町中期における足利庄支配
(観応擾乱期/南北朝後期/室町前期/室町中期)
第4章 南北朝・室町前期における茂木氏の動向
−上級権力との関係を中心に
(軍事指揮系統/周辺諸勢力との関係/室町幕府・鎌倉府との関係/
鎌倉公方足利持氏との関係)
第5章 「茂木文書」調査報告
(保存の状況/伝来の経緯/若干の古文書学的所見)
補論1* 茂木氏と東茂木保−鎌倉・南北朝期を中心に
補論2* 茂木賢安の置文
補論3 南北朝初期における茂木氏と佐竹氏の交流
第6章 鎌倉末〜室町期の宇都宮一族
−「宇都宮」を名乗った人々
(宇都宮(芳賀)高久/高貞(弾正少弼家)/左衛門佐(尉)/高有/伊与守家綱)
第7章 南北朝期の越後守護代芳賀氏をめぐって
(文和三・四年段階における文書の伝達ルート/
芳賀高貞・高家は同格か/賀氏発給文書の特質とその意味)芳
第8章 花押の謎
(桃井直常と貞直/山朝氏と桃井六郎/小女性が証判を加えた軍忠状)
第9章 下野中世史研究の回顧と展望
−『栃木県史』以降
(領主権力論/土豪論/室町期の全体的動向/
都市・交通論/荘園支配関係/宗教史)
0469人間七七四年
2010/05/18(火) 21:18:22ID:KXhgPQ4x2010年5月刊
A5判・222頁・並製本・カバー装
ISBN978-4-87294-616-1 C3321
2800円 (税別)
0470人間七七四年
2010/06/03(木) 17:07:37ID:RIP2LLf7戦国時代に大吟醸とかなかったんじゃ…
0471人間七七四年
2010/06/23(水) 22:42:32ID:rUNvThIF俺の持ってる群書類従じゃ六郎高晴になってるんだよな。
wikiのソースは塩谷町史っぽいけど、大元は何が出典なんだろう。
同一人物って認識でいいんだろうか。
0472人間七七四年
2010/07/02(金) 13:08:36ID:5Diz0XYH0473人間七七四年
2010/07/14(水) 10:26:40ID:M0e1mz3x太平記(尊氏)は栃木にカウントかな?
戦国常陸下野で大河は厳しいな…
せいぜい小田原北条の敵役で出て来るぐらいが限界か
平将門vs藤原秀郷なら両国出れるな
0474人間七七四年
2010/07/25(日) 22:44:42ID:a4jLh1U+http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1235224540/l50
0475人間七七四年
2010/07/28(水) 14:00:57ID:AaONKo+6平将門はもうやってる。「風と雲と虹と」というやつ。
慶喜と将門で茨城は二度大河の舞台になっているということだな。
0476人間七七四年
2010/07/30(金) 08:32:59ID:Bv9edpKQ・宇都宮三代(尚綱・広綱・国綱)
・佐竹三代(義昭・義重・義宣)
・那須三代(高資・資胤・資晴)
・那須七騎(大関高増を中心に描く)
・小田氏治(ある意味ネタが豊富)
・古河公方(晴氏、藤氏、義氏、藤政)
・結城晴朝(+結城四天)
0477人間七七四年
2010/08/15(日) 08:46:47ID:znaiDCJ20478人間七七四年
2010/08/15(日) 12:04:14ID:8cZc3aORしかも作った炎立つ、琉球の風、花の乱は視聴率悪く評判も悪かった。
個人的には炎立つは源氏の奥州への野望が面白く、花の乱も日野富子を中心に暗い話ばっかだったものの面白かったのだが。
特に応仁の乱は終わったものの混乱は拡大し最後のテロップで信長の登場までまだまだずいぶんあるみたいなことが表示され、まったく救われない終わり方が良かった。
茨城は幕末の水戸、栃木は足利尊氏があるから良いが群馬は新田義貞が微妙だから悲惨だな。もう剣聖を主人公にするしかw
もっとも実は尊氏が住んでたのは母の実家の京の上杉邸か人質として鎌倉にいたかのどちらかで足利庄に行った事はないらしいw
0479人間七七四年
2010/08/15(日) 23:13:09ID:2UIbZ9Yf水戸人だけど、足利行って、どうして足利の遺跡ってほとんど残ってないのか聞いてみたら
南朝が正統とされ、足利は最近まで逆賊扱いだったからと言われた。
水戸学が果たした負の役割が大きいとも。
そう考えると、21世紀の現在、足利と水戸が組んで世界遺産の招致を狙ってるのは歴史の皮肉だね。
0480人間七七四年
2010/08/17(火) 20:30:15ID:s1by1oHv水戸人と足利人にしてみりゃ今更知ったこっちゃないよ
元々何か恨みがあるわけじゃあるまいし
水戸家中の我が家としてはむしろ水戸家に恨みがあるw
0482人間七七四年
2010/08/24(火) 09:43:45ID:jtNKfxEX逆恨み?言葉の意味分かってるの?w
水戸家の当主が代々暗愚だったのは事実
水戸藩の悪政は藩士ですら批判している
外様なら間違いなく取り潰し対象だが、御三家だから幕府も見てみぬ振りをするという最悪な状態だった
どうあがいても言い逃れは出来ない
0483人間七七四年
2010/08/24(火) 19:22:55ID:W2nKfdo0それを補佐する水戸藩士も徒党を組んで私闘ばかりで
水戸ってほんとどうしようもないということだけはよく分かった。
水戸はどうあがいても言い逃れはできないな。
0484人間七七四年
2010/08/24(火) 20:49:41ID:jtNKfxEX水戸藩は終始統治が定まらず本当に救いようがない
結局藩政改革やったのだって他所から来た人物ばかりだし
まあ、一番の罪は身内贔屓で放置した幕府にあるけど
0485人間七七四年
2010/09/12(日) 13:53:27ID:Iles2dR30486人間七七四年
2010/09/12(日) 13:59:06ID:O63dT8eT0487人間七七四年
2010/09/13(月) 23:35:09ID:PhcmA+xF0490人間七七四年
2010/09/15(水) 18:57:12ID:DYsartF/0491人間七七四年
2010/09/16(木) 00:23:06ID:Pr8byTCS不思議だね。
0492人間七七四年
2010/09/16(木) 20:55:47ID:VAePkQH2家康や上杉や前田や三成を紹介してもらう人脈がないと王手だしな。
0493人間七七四年
2010/09/16(木) 21:49:42ID:3Sz1Kh7F南郡の零細領主は、どうあがいても亡くされる運命にあるんだよ。
特に地方は中央からの目が届きにくいので、中央に比べてより大きなブロックで
大名の所領が形成される傾向にある。実はもうほとんど郡県制と変らないレベルで、
中身が民主的な手続きを経て選ばれた首長ではなく封建領主だというだけのもの。
また南郡仕置も、豊臣政権によって所領が「与えられた」地方の大名の全てが佐竹と同じように
凄惨な暗殺をしているわけではないので、恐らく義宣の決定でこういうことになったと思われる。
これをしなければしないで肥後や奥州みたいな地侍蜂起に繋がった可能性があるので、
一概にダメだったとも言えない。死んだ人たちはかわいそうだったけれども。
0494人間七七四年
2010/09/16(木) 22:05:34ID:kzOxco7a0495人間七七四年
2010/09/16(木) 22:46:39ID:v1pJRJhH0496人間七七四年
2010/09/17(金) 20:04:37ID:nYuOp1160497人間七七四年
2010/09/18(土) 00:24:01ID:f5wL+TE+佐竹がこんなにあざやかに勝ったり殺したりしたこと、他にあるのかな?
0498人間七七四年
2010/09/18(土) 07:46:34ID:Zj5E05LTやむをえず血を流しただけ。
0499人間七七四年
2010/09/18(土) 09:15:54ID:FW58ulb5佐竹の場合は私的な権力の拡大と領土欲という私利私欲のための醜い流血。
0501人間七七四年
2010/09/18(土) 17:18:02ID:6cd+Zqmp誰にも命じられず率先して嬉々としてやった余所者水戸藩
0502人間七七四年
2010/09/20(月) 13:31:59ID:sfJn+RVV0503人間七七四年
2010/09/20(月) 14:18:57ID:iB7baYpM0504人間七七四年
2010/09/20(月) 19:16:30ID:sfJn+RVV0505人間七七四年
2010/09/20(月) 19:35:32ID:iB7baYpM0506人間七七四年
2010/09/20(月) 19:48:50ID:dlbYe5so> 「生瀬の乱を考える――有力な慶長七年説」
>
> ・だがここで『大子町史』に結集された益子公朋氏の慶長七年説に注目する必要がある。
> それは長い間大子地方を含む水戸藩北郡の郡吏として、領民とじかに接していた加藤寛斎の前記の
> 『常陸国北郡里程間数記』の慶長七年説と、事件後藩命によって小生瀬村の再興のため大子村から移住した
> 旧家大藤家の分家に残る書き上げの慶長七年説とを、地元の伝承を忠実に伝えているものとして評価し、
> 慶長七年十月を強く主張するものである。その事件の内容を要約すると次のようになる。
>
> 慶長七年佐竹氏の秋田転封後(中略)。そこで家康の命で佐竹転封後の慶長七年六月、常陸地方を治めるため
> 水戸に派遣されていた重臣の一人芦沢信重(伊賀守)が、一隊を率いて生瀬地方に来り、村民を皆殺しにした。
> その時村民が逃げこんだ場所が地獄沢といわれ、今日でも正式な地名として残っている、というのである。
>
> そこで益子氏は、佐竹義宣が転封を命ぜられた時、国元の家老に夏年貢の取立てを指示した書状があることを
> あげて、前の手代というのが佐竹氏の配下で、後から督促に来たのが、交代した領主側の役人であったとしたならば、
> この騒動は慶長七年の領主交代の混乱に伴う偶発事件とも考えられ、地元の伝承とも一致するとされる。
> 実に耳を傾けるべき説明であるが、交代した新領主というのは、当然武田信吉ということになるが、
> 武田が正式に水戸城主となったのは、慶長七年十一月であるから、村民皆殺しという事件が起こった十月には、
> まだ正式に水戸城主はいなかったわけである。この時期の旧佐竹領は、一時的ではあったが、幕府の
> 直轄支配地だったわけで、それを治めるために派遣されたのが、芦沢らだったことになる。
>
> この領主交代に至るまでの、城主不在の空白時には、すでに述べたことではあるが、七月下旬の
> 家臣車丹波らによる水戸城奪回の計画があり、十月には車らが水戸で処刑されるという、大きな事件があった。
> 生瀬の乱はこうした時に起こったということになると、まず佐竹領接収のため家康から派遣されて、
> 水戸、太田などを中心として各地の治安維持にあたった重臣大久保忠隣、本多正信の連名で六月に出された
> 条例を思い出さざるを得ない。それによると、佐竹の家臣の中には、禁令にもかかわらず、農民に期限もこないのに
> 年貢を催促したり、どさくさにまぎれて、種々の乱暴を働き、勝手に農民を斬ったりして監視の眼のとどかない
> 山林を盗伐する者も出たという(『水戸市史』上巻)。
>
> 一方佐竹の領国引渡しが進み、七月中旬に大体終わった直後、例の車丹波の一揆である。このように
> 生瀬乱前の情勢を概観すると、旧佐竹領内農村では、不測の事件が起こってもおかしくない情勢だったことが分かる。
> かくて生瀬乱の慶長七年十月説は、他の諸説とくらべて、最も有力なものとなる。私も以前の主張の
> 不十分だった点を反省して、慶長七年説をとることに躊躇しない
0507人間七七四年
2010/09/20(月) 22:45:13ID:sfJn+RVV0508人間七七四年
2010/09/21(火) 01:25:34ID:xmP40i9x0509人間七七四年
2010/09/21(火) 01:30:07ID:5t+JTz4f水戸藩士の間で、生瀬の乱は公然の秘密、水戸藩史の恥部として語り継がれていたようだな。
>>506の慶長七年説はあくまで異説。
0510人間七七四年
2010/09/21(火) 01:59:08ID:xmP40i9x鳥取も千葉県と連携して里見氏の大河ドラマ化を訴えている。
>>509
そもそも、その事件の通説って何年よ?
水戸徳川家の成立は慶長14年なのだが。
0511人間七七四年
2010/09/21(火) 07:44:06ID:rb0zNtqC遅すぎる。その説を唱えた人間が時系列を知らなかったとしか思えないが。
>それによると、佐竹の家臣の中には、禁令にもかかわらず、農民に期限もこないのに
> 年貢を催促したり、どさくさにまぎれて、種々の乱暴を働き、勝手に農民を斬ったりして監視の眼のとどかない
> 山林を盗伐する者も出たという
0512人間七七四年
2010/09/21(火) 07:45:18ID:rb0zNtqC>それによると、佐竹の家臣の中には、禁令にもかかわらず、農民に期限もこないのに
> 年貢を催促したり、どさくさにまぎれて、種々の乱暴を働き、勝手に農民を斬ったりして監視の眼のとどかない
> 山林を盗伐する者も出たという
0513人間七七四年
2010/09/21(火) 23:03:55ID:2XmwjXCl本多等の出した禁礼が元ネタだけど(出典・水戸市史)
佐竹が転封した後、旧佐竹領では治安が悪化し手を焼いた徳川の代官等が出した禁礼がそれだ
勿論佐竹云々とは一言も書いてないし、それらの事に佐竹家が関わっていたと読み取る事は出来ない
それを誰が何の為か「佐竹の家臣」の行為であると付け加えた
ちなみにこの話しは生瀬事件と何の関連もない
0514人間七七四年
2010/09/22(水) 00:14:16ID:Mn0GXBV/百騎ほどしか連れて行けなかったし、当然それ以外の連中は召し放ちということになったわけで、
そういうのが自暴自棄になって犯罪を犯したとしても不思議ではない。
それを取り締まらねばならないのは勿論領地の受け取りをする徳川方で、
佐竹には最早警察行為をする権限も何もないんだから、
佐竹の責任的なことを言われても、という感じだろう。
それに徳川方は国替えをするのもされるのも初めてではないんだしな。
0515人間七七四年
2010/09/22(水) 07:38:09ID:N3fvr2oiその水戸市史ってので確認したの?捏造の一言で片付けるんじゃなくて
ソースつきで書いてくれよ。
0516人間七七四年
2010/09/22(水) 08:45:15ID:k6/isOkv義宣は国替えの命を受けて、京から国許へ帰らず、
直接秋田へ赴いた。
そのとき自身はわずかな供しか連れて行かなかったが、
もちろん国許からは家臣たちが大挙して移住した。
0517人間七七四年
2010/09/22(水) 09:03:58ID:rh1/qZrY0518人間七七四年
2010/09/22(水) 12:15:39ID:r6pmCXfh車氏とか水戸城奪還挙兵したやつらも佐竹が転封完了するまでは大人しかったんだし
0519人間七七四年
2010/09/22(水) 18:07:31ID:hZLtkxgO0520人間七七四年
2010/09/22(水) 18:27:12ID:Mn0GXBV/うんそうだね。
>>517
こういう一行レスの馬鹿が出るから困る。
佐竹に都合が悪いも何も、小生瀬虐殺はそもそも芦沢信重がやったとされている事件じゃねーか。
信重は武田家臣でのち水戸徳川家の家臣になった男だ。
水戸藩が編纂した『水府志料』の小生瀬村の項にもこの事件のことは載っていない。
大子村の黒崎某が文政年間に著したとされる『常陸紀行』にも小生瀬のことは出るものの、
事件については書かれていない。また『新編常陸国志』にも、その他の地誌にも載っていない。
知られるようになったのは鈴木成章が明治四十年(1907)に著した『水戸歴世譚』によってで、
事が起こったのは元和三年(1617)丁巳十月であるとしている。
小生瀬の住民が年貢を納めずに役人を打ち殺したため、芦沢が怒って村民を誅戮したとある。
一方私がたまたま持っていた茨城県の歴史という本は、酉の年に起こったという伝説があると書き、
また根拠も書かずに慶長十四年己酉(1609)に起こったとする説が有力であると書く。
どちらの説に従っても佐竹に関係があるとするのは無理がある。
水戸市史のほうは上巻は手元にあるものの、小生瀬事件の記載は多分なし。
近世以降のことが書かれている下巻は持っていないが、多分そっちに書かれているんだろう。
また事件を題材にして飯嶋和一が描いた小説『神無き月十番目の夜』では、
慶長七年(1602)つまり佐竹が転封された年に虐殺が起こっている。
言うまでも無いがこれはあくまで小説だ。
0521人間七七四年
2010/09/22(水) 23:08:24ID:HGkh7h6Zだから書いてあるじゃん
慶長七年に本多等徳川氏代官が連署で
勝手に年貢をとらない事、指示に従わない百姓を独断で斬ったりしない事、山林の伐採を禁じる事
などを布告している
それをソースにして水戸市史では下記↓のような
> それによると、佐竹の家臣の中には、禁令にもかかわらず、農民に期限もこないのに
> 年貢を催促したり、どさくさにまぎれて、種々の乱暴を働き、勝手に農民を斬ったりして監視の眼のとどかない
> 山林を盗伐する者も出たという
というような解説がなされているわけだけど
それによるとって、どれによるとそんな解釈になるんだって話しw
0522人間七七四年
2010/09/23(木) 01:50:06ID:32sY/e470523人間七七四年
2010/09/23(木) 07:53:24ID:+O09pg3Nに書いてあるよ
0524520
2010/09/24(金) 01:46:56ID:5vUukf35水戸市史上巻にここで指示された禁令についての記述があるというので読んでみた。
文書がどう読まれているのか見ていくので、かなり長いことを断っておく。
状況は佐竹が常陸を出て行ったあと、領国受け取りの為に徳川の家臣がやってきたときのこと。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
なお大久保忠隣・本多正信の連名で、次の定書三か条が出されたのは、六月十四日のことである。
一、在々の百姓は前々のごとく村に居付いて作物などを油断なくすべし。非分を行う者はすぐ届けるべし。
一、去年の年貢未進、借銭の取沙汰をしてはならない。人身の売買は停止する。
一、諸給人衆の荷物などは南郷の赤館まで、前々の百姓が運送すべし。
右の条例違反者があらば、水戸駐在の花房助兵衛・島田次兵衛へ訴え出るべし。
この第一条と第二条とは、百姓の移動を禁止し、農耕生活の安定を計ったものであるが、
第三条で百姓は給人衆の荷物を赤館まで送らねばならなかったから、その辛労は多大であった。
その上、給人衆は禁令にもかかわらず百姓に未進年貢などの催促、その他種々の難儀を吹きかけて、
勝手に百姓を斬ったりした。村々の治安も乱れて、どさくさまぎれに乱暴を働く者もあった。
監視の眼のとどかない山林を討伐する者も出た。そこで、六月二十二日、
大久保・本多両人の名で再び次の定め書きが発布された。(大意)
一、在々で理不尽に人を斬るとの噂があるが、もし成敗しなければならない者は水戸奉行中(花房・
島田)へ断るべし。たとえ理を以って致しても、公儀の許可なく我がままをする者は従類共々成敗する。
一、所々へ狼藉を致す者は、すぐ召捕って、水戸奉行衆へ申上げるべし。
一、以前からある立山(領主の材木山)は紊りに伐採してはならない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
これが水戸市史上巻の記述。
定書の全文が意訳になってしまっているので、翻刻された元の文を以下に書いておくが、面倒臭いので
二番目(六月廿二日)の文書だけにする。一番目(六月十四日)のは二番目のと合わせて説明する。
出典は茨城県史料中世編1の鹿島神宮文書。旧字体とかは新字体に直す。■は欠け。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
一 於在々、理不尽に人をきるよ■其聞候、若為無成敗不叶者之義者、水戸奉行中に可相断、
縦理を以いたし候共、不得 公儀、我儘に仕候はゝ、従類共可遂成敗事
一 所々にて致狼藉者有之者、急度めしからめ、水戸奉行衆へ可申上事
一 前々よりのたて山、みたりにきり取へからさる事
右条々於違背之族者、可処厳科者也、仍如件
慶長七年
六月廿二日 大久保相模守(花押)
本多佐渡守(花押)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
0525520
2010/09/24(金) 01:48:17ID:5vUukf35水戸市史の理解は落第点と言ってもいいくらい、ちゃんと読めてない。
先ず重要なのは、この文書が、誰が誰に対して何の目的で出されたのかということだ。どうも水戸市史の
文章を見ると、旧佐竹領全体に対して「お触書」のような感じで出されたのだと考えているように見える。
しかしこれは『鹿島神宮文書』として伝わっているのであるから鹿島神宮に対して与えられたものである。
中世の「文書は受益者の元に到来する」のだ。従ってこの文書は鹿島神宮の関係する領域のみに効力を持つ。
さて本文。まず「在々」というのは村(東国では郷村ともいう)のこと。「(給人衆が)勝手に百姓を斬ったりした」と
水戸市史は書くが、もうこの時点でアウトである。「理不尽に人をき」っているのは在々(郷村)の百姓である。
何故そう言わなければならないのか?一条目で「理不尽に人をき」っているものは、水戸の奉行に断って
云々と書いているのに、二条目でもさらに「所々にて致狼藉者有之者」は急度めしからめて水戸奉行衆へ
申し上ぐべき、と書くのは明らかに重複であり、そもそも書く必要のないことである。
この一条目の解釈は、「郷村で理不尽に(村検断等の判断で)人をきっていると(鹿島神宮から)聞いたが、
もし上位権力がない為に罰則を与えられないものがいるならば、水戸奉行中に報告し、(主に水戸奉行中が)
道理を以って判断を下したにも関わらず、その公儀の判断を無視して我侭な振舞をするならば、それら従類共に
成敗を加えなさい」とするべきである。これは主に他郷村との争い等を起こさないようにとの文言であろう。
そうすると二条目もすんなり解ける。「犯罪を犯す狼藉者は捕縛して水戸奉行中へ報告を上げろ」そのまま。
三条目まで来ると分かるが、これは領主が相続されたり、替わった時に出される通例の禁制事項である。
この文書は、鹿島神宮の社領や佐竹が代官をしていた料所などでの意思統一を計ったもので、何かあった
場合には鹿島神宮が郷村へこの文書を見せて、こういう判断をすべきだと促すためのものなのだ。
郷村が人を斬っていたのは、上位権力である佐竹がいなくなったために村独自で裁判を行ったためなのだ。
また六月十四日の定書でも「給人衆は禁令にもかかわらず百姓に未進年貢などの催促」なんて書いているが、
そういう禁令を犯す行動をしている者が給人衆であるなんて事は、定書に一切書いてない。
「去年の年貢未進、借銭の取沙汰をしてはならない。人身の売買は停止する」この文言についても、
(そもそも去年というのが間違っているが……原文では「去(さる)」であって当年の夏年貢のことだろう)
領主が変わるために年貢の割り付け等も変わることを念頭に置いていると思われ、それで年貢を払えない者が、
借銭したり人を売ったりすると話がややこしくなるので、取り合えず停止ということだ。
ちなみにこの時期は太閤検地のあとであり、一般的に貸銭や人身売買によって富を集積していくのは
どちらかというと百姓であって、武士や給人であるところの侍ではないんじゃないだろうか。東国、しかも常陸だし。
こうしてみると、確かに水戸市史が給人とやらを悪者にして、地域の平和を乱していると恣意的に付け加えている。
水戸市史は昭和三十八年発刊らしいので、時代からいっても階級闘争史観真っ只中だから
まあこういう見方も仕方ないのかも知れないけど。
0526人間七七四年
2010/09/24(金) 12:28:39ID:sMsOgTHM分かりやすい説明ありがとう
私も鹿島神宮文書という点を見逃していたので非常に勉強になりました
0527人間七七四年
2010/09/26(日) 14:48:37ID:SUOxq0ck仙台の伊達と同じで、
いまだに旧水戸徳川系の支配が
水戸を中心として政財界で続いてるって証明でもあるよね。
0529人間七七四年
2010/09/27(月) 06:34:16ID:ACbesW7r東京にしかいないと
分からないかも知れないけど
地方都市なんて
藩主に連なる血筋が
市長や知事になってるの
けっこあるよ?
伊達なんていまだに
家臣の家系が挨拶に来るしw
0530人間七七四年
2010/09/27(月) 07:36:09ID:0mW+0hOhうちも水戸藩士だったけど我が一族は除け者にされているのだろうかw
だいぶ前、従兄の結婚式に徳川さんがいたから親戚に「あれ誰?」て聞いたら
「ああ、水戸家の当主だよ」と言われたけど後で調べたら一橋家の方だし
そもそも水戸家の当主ってどこにいるんだろ…
0531人間七七四年
2010/09/27(月) 08:01:09ID:72ZG448q水戸の政財界を支配してるのかは知らんがw
0532人間七七四年
2010/09/27(月) 15:53:28ID:ozningXT相馬・・・馬追い祭りのゲスト
徳川本家・・・ベトナム人
慶喜家・・・コーヒー写真
尾張徳川・・・徳川美術館
前田・・・忘れた
井伊本家?・・・彦根市長
紀州徳川・・・滅亡寸前
山内・・・山内興業?
細川・・・熊本県知事・総理大臣
島津・・・島津興業?
0533人間七七四年
2010/09/27(月) 18:58:17ID:un4UZXKY山鉾に乗った仙台市長、雀踊りの仙台市民らに先んじ、
大パレードの先頭集団として行進する武者行列(仙台藩士会)の先頭を歩く。
ttp://www.sengoku-roman.com/20100721-1480.html
偉大なおかたの拝顔できるぞ。好きなやつは行ってこい。
0534人間七七四年
2010/09/27(月) 19:10:54ID:72ZG448q伊達の話題はそろそろスレ違いだな。
0535人間七七四年
2010/10/01(金) 18:36:06ID:6lCDoIFL義宣の父・義重は、甲の前立てに毛虫を付けたことなどからテレビゲームのキャラクターとして人気。
同じく毛虫の前立てを付けた義宣も、デザインTシャツが販売されるなど、親子そろって注目を集め始めている。
ただ、関ケ原の戦い後、常陸国から出羽国久保田(現在の秋田市)に国替えを命じられ、同市には
佐竹氏の史料館もあることからファンの視線は秋田に集まっている。また、県生活文化課が「江戸時代以降に
顕著な功績があった」という基準で選ぶ「輝く茨城の先人たち」約200人の中にも入っていない。
これに対し同会は8月、「何らかの形で佐竹氏を取り上げるべきだ」と県に要望書を提出し、
茨城での復権を目指している。同会ブログでは、佐竹親子が甲の前立てに毛虫を選んだ理由を問うなど
計10問の「ご当地検定」を掲載。10月16日午前10時には、佐竹一族をまつる正宗寺(常陸太田市)で解答を発表し、
現地に来た人には同市内に残る史跡を案内するツアーも企画中だ。同会顧問、橋本菊月斎さん(67)は
「義重を茨城ゆかりの人物として定着させるため『ゆるキャラ』化して発信するなど取り組みを広げていきたい」と語った。【高橋慶浩】
http://mainichi.jp/area/ibaraki/news/20101001ddlk08040072000c.html
小七郎と七人の武将のブログ
戦国常陸、武将佐竹氏
佐竹義重の兜の前立てについて、何故義重が戦国当時の武将から笑われるような田舎者が
付けるような「毛虫の前立て」を採用したかについては諸説あり研究・検証の途上であるのが
常陸の戦国史の現状です。
翻って小田原城を本拠として他国者ながら関八州を席巻した北条早雲こと伊勢新九郎長氏や
氏綱に就いて静岡大学の小和田哲男氏や下山治久氏等の研究に依って後北条氏は戦国大名中
一際目立つ戦国武将として顕彰されてきました。
このブログを契機に「戦国大名・佐竹義重の強さの秘密」が一つでも解明出来るように
読者の皆様方からの御意見を頂ければ幸いです。宜しくお願いいたします。
http://blogs.yahoo.co.jp/yamabuki517/MYBLOG/yblog.html
0536人間七七四年
2010/10/03(日) 20:04:12ID:gv72eYb/>戦国常陸、武将佐竹氏
佐竹と別段関わりのない人が利用してるだけじゃないか。桜川市の同好会が
義重のゆるキャラで地域おこしなんて筋違いもいいところだ。
0537人間七七四年
2010/10/04(月) 23:41:47ID:2ljB+5Jt0538人間七七四年
2010/10/05(火) 08:02:27ID:6xgf3LlN桜川市でも真壁地区はまだ分かるとしても
岩瀬地区は佐竹とあまり関係のよろしくない笠間氏の領地が多いし
義重で地区おこしとか意味不明すぎる
0539人間七七四年
2010/10/05(火) 09:51:05ID:oMf+BFV6義重公もつまんないのに目をつけられたもんだ。
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/history/1219318312/701-800
757 :日本@名無史さん :2008/11/05(水) 22:53:08
>>756
出典は『剣祖影流愛洲移香斎久忠の系譜と伊勢大神宮神領奉行職伊勢愛洲氏の考察』
(橋本菊月斎、伊勢愛洲氏顕彰会常陸支部、2006年4月)しかないと思う。読んでみても
意味がわからない本だったが、著者本人が自説の開陳してるような気がするんだ。
http://www.unkar.org/read/gimpo.2ch.net/hobby/1247380237
16 :名無しの愉しみ[sage]:2009/07/12(日) 16:57:10 ID:???
>>13
[[利用者:Aisukageryuu]]の別垢だろうね。
あと[[利用者:Monto]]と[[利用者:Tukushiko]]なんかもまず同一人物と見て間違いないと思う。
で、中の人はどうやら[[愛州久忠]]だったかの顕彰会かなんかやってる郷土史家の橋本菊月斎という人らしい。
別に複垢使って議論妨害するわけでもなく、かといって完全に乗り換えるでもなく、ここ1年ぐらい自説をひたすら投稿してる。
[[ノート:陰流]]あたり参照。
0540人間七七四年
2010/10/05(火) 13:35:59ID:DSOfMwkvつか三楽斎ファンクラブ会員になりたい…
0541人間七七四年
2010/10/05(火) 22:02:40ID:6xgf3LlNせっかく名将がいたのに知名度ゼロだし
0542人間七七四年
2010/10/05(火) 22:58:12ID:DSOfMwkv〜会員募集中〜
ストライクウィッチーズみたいな三楽様でお願いします。
0543人間七七四年
2010/10/06(水) 03:31:27ID:U0Wy7j77萌えはエリアが他県にまたがりすぎて難しいか・・・
なんつーか戦国末期でも
結城晴朝は良いキャラしてるし
家康との付き合いで秀康つながりでおいしかった常陸・下館城 水谷勝俊
佐竹と運命共同体で改易した下総・下妻城 多賀谷重経
の下城コンビに萌えてもいいと思うんだ・・・ストパンのキャラで
晴朝少佐「勝ちゃーん!大丈夫だった?」
勝俊「大丈夫だよぅ」
重経「むむむっ!また少佐とあんなにくっついて!なんなのあの子わぁっ」
岡本禅哲「むぅ萌えた・・・さっそく義重殿に報せてフィギィア買ってもらおう」
0544人間七七四年
2010/10/06(水) 09:14:31ID:EQVNK+qbちなみに八郷は石岡に吸収されました。
0545人間七七四年
2010/10/06(水) 12:37:28ID:4hEZ/ToF〜斎ゆるキャラを作るしかないな!
0546人間七七四年
2010/10/06(水) 12:50:52ID:eX4F1xWi柿岡も片野も今となってはただの田舎だし、太田親子がいたなんて信じられんw
0547人間七七四年
2010/10/06(水) 17:19:02ID:U0Wy7j77p://www.kotobukiya.co.jp/item/page/pvc_s-witch_barkhorn/index.shtml
0548人間七七四年
2010/10/06(水) 18:01:02ID:EQVNK+qb去年真壁の雛祭にいったら「直江兼続」とか書かれた山車があってガッカリしたよ。
久幹とか氏幹とかってそんなに知られてないのかな?
0549人間七七四年
2010/10/06(水) 19:53:13ID:4hEZ/ToF佐竹スレはあるので
下総を含めた利根川中流域関宿周辺エリアのマイナー武将スレにすれば良かったなあ。
0550人間七七四年
2010/10/06(水) 20:07:35ID:Yl7H5EEi実際知名度ってどうなんだ?
世間一般じゃ皆無か?ま、佐野市でも「佐野昌綱?はぁ?」って感じだしな
0551人間七七四年
2010/10/06(水) 20:18:39ID:/sPbZNFN弱小のくせに北条にも上杉にも徹底抗戦したしね。
佐野氏の研究してるのは黒田基樹とか北条大好きな人ばっかりなのかな。
こういう人たちは、北条が佐野氏にとってもすごく友好的で優しい政権だったみたいに書くからイヤだよ。
0552人間七七四年
2010/10/06(水) 20:26:42ID:Yl7H5EEiそう唐沢山に篭城して上杉と対峙すること十回…
よく上杉に負けなかった、唐沢山城は落城しなかったとかいうけどさ
実際には降伏→開城とかしてるよね。こういうのは別に落城とは言わんのか…
0553人間七七四年
2010/10/06(水) 20:32:49ID:4hEZ/ToF上杉の目付けを入れさせられたり
人質取られたりしてるしね。
小田原征伐後に佐野は復興できて良かったよね!
0554人間七七四年
2010/10/06(水) 20:37:56ID:Yl7H5EEiそれでも永禄7年の唐沢山城の戦いで活躍した佐野昌綱と地獄沢の戦いで武勇を馳せた佐野宗綱が大好きw
ところで上杉側には佐野との合戦の経過が描かれた資料がないのかな?
0555人間七七四年
2010/10/06(水) 20:38:17ID:/sPbZNFN佐野領自体が長尾の関東侵攻の基地にされちまってるし。
天徳寺の帰国と復興は良かったよ。
しかし、北条に鞍替えした家中の裏切り者の処分はどうしたのかな?
佐野記あたりに書いてあるように許したのかな。
0556人間七七四年
2010/10/06(水) 20:51:53ID:Yl7H5EEi・佐野勢にみせしめとして殺した(北条系の資料にあったはず)
・解放され無事だった
山上道牛が北条勢にいるような記実があることから前者は信じられてませんがね
佐野記の通りでしょうね
しかし佐野記は合戦の記述少ない…昌綱なんて永禄2年の北条の攻撃と死んだことしか書かれてないし……何故なんだ!!
唐沢軍談とかも同じような内容なのだろうか?
0557人間七七四年
2010/10/06(水) 20:54:55ID:Yl7H5EEiくら替え家臣の話しだたwwww
岩崎系文書には殺されたとありますが、多くの(あまりいないけど)郷土史家は佐野記の記述などを信用してるようですお
0558人間七七四年
2010/10/07(木) 02:37:58ID:TcH0BkKG三楽犬ハァハァ
0559人間七七四年
2010/10/26(火) 15:46:51ID:m/S4Qt8Ihttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1069064209/
0560人間七七四年
2010/10/28(木) 17:20:10ID:iUyXmt9k落ちてる
0561人間七七四年
2010/11/01(月) 01:42:12ID:cF1+AoZa0562人間七七四年
2010/11/03(水) 15:28:20ID:4QsvZuEvttp://www.rekishi.sagami.in/tukuba.html
>小田氏治は30万石〜40万石を領していたと推測される
まじかよ…
0563人間七七四年
2010/11/03(水) 15:44:07ID:C26UF64pそりゃ大きいと思う。
里見氏が上総大半と安房一国で40万石弱と言う説が過大評価あつかいされているのに。
0564人間七七四年
2010/11/06(土) 15:12:37ID:LhqxXXD/0565人間七七四年
2010/11/07(日) 08:51:58ID:R1KndYgX久幹や氏幹というかそもそも真壁氏の存在すら一般的にはそう知られてないと思う。真壁氏の元下僕と言われる平四郎は平四郎最中とかあるから少しは由来知ってる人がいるかもだけど
あと山車はその年の大河とか流行りものを演題にしてる感じなのよw
0566人間七七四年
2010/11/07(日) 10:58:38ID:JqQMD9Vkそりゃさびしい話だなあ。今度の山車は坂本龍馬かなw
別スレにも書いたけど久幹を「どーむ君」とか適当にゆるキャラ化して
真壁氏と真壁城を売り出せばいいのに。
0567人間七七四年
2010/11/07(日) 13:13:55ID:yADPS1zy郷土の英雄に対する敬意がなくなり厳しいな。
0568人間七七四年
2010/11/07(日) 13:47:43ID:2+7Z09zmどこまで無知なんだ?
0569人間七七四年
2010/11/07(日) 23:22:19ID:LRL1wKD8前にもこんなことやらかしてたけど
978 :人間七七四年:2010/10/16(土) 17:41:50 ID:jfWHtVXk
みんな知らないけど水戸徳川はすごい佐竹への弾圧を二度やってるよね
生瀬殺しは有名で、にわかに佐竹を支持する程度の罪の無い百姓を600人惨殺したよね
天狗党弾圧では残党狩りで武田観柳斎の首を妻に持たせながら拷問したよね
それを忘れたの?復権って何?
981 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:14:16 ID:rwi0FBKn
武田観柳斎ってwww
なんで天狗党弾圧で「武田観柳斎」の妻が拷問されんだよ。
982 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:20:44 ID:O4v0a1PA
>天狗党弾圧では残党狩りで武田観柳斎の首を妻に持たせながら拷問したよね
佐竹と関係あるのそれ?
983 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:32:55 ID:kmKnVGS/
>>981
得意げに叩きたがるような手合いに限ってこれだもんなww
武田耕雲斎って言いたかったんだろ
984 :人間七七四年:2010/10/17(日) 01:41:51 ID:1Hij7UwS
武田耕雲斎─水戸藩士
武田観柳斎─新撰組組長
覚えとけよ?
0570人間七七四年
2010/11/08(月) 04:46:16ID:m+RzIFYy佐竹の本ひとつ売ってないどころか佐竹に触れてない
江戸以降のことばかり書かれてる本ばっかで笑えた。
0571人間七七四年
2010/11/08(月) 08:06:25ID:qXNq1CEfでも川又書店の郷土史コーナーには佐竹の本売ってるだろ。
0572人間七七四年
2010/11/08(月) 08:41:27ID:L9ueiz5y0573人間七七四年
2010/11/08(月) 11:01:56ID:qXNq1CEf水戸市の地域おこしをしようぜ。
0574人間七七四年
2010/11/08(月) 14:03:51ID:eXvsV0pcだから江戸も真壁もみんな知名度ない。
結局、水戸藩閥の子孫が掲示板でも必死に工作してるだけだろうね。
0575人間七七四年
2010/11/08(月) 14:16:39ID:qXNq1CEf佐竹をなんで茨城県民全体がそこまでありがたがらなくてはいけないのか
問いたいね。佐竹と水戸市とはほとんどの期間直接縁がなかったんだから
軽視されても仕方がないわな。
真壁が水戸藩領でなかったことはもう気づきましたか?
0576人間七七四年
2010/11/08(月) 14:25:05ID:eXvsV0pc茨城県全域を代表してるはずだ。
別に水戸以外の茨城県内の市町村に強制させろとは言ってないわ。
0578人間七七四年
2010/11/08(月) 15:35:59ID:xrZf+405そりゃブログにでも書いてくれ
ここや佐竹スレを荒らさないでくれ
0579人間七七四年
2010/11/09(火) 08:15:38ID:cYnr3u1f豊臣政権下でも常陸全土ではなかったりする
小田領は結城氏へ、笠間領は宇都宮氏へ、岡見領は由良氏などへ与えられている
あと旧里美村周辺は岩城領で、県西の下総との境界付近は多賀谷領が入り込んでいる
常陸一国与えられたとか書いている本が非常に多いけど
実際は結構な範囲に抜けがある
この点を見ても人々の佐竹氏への関心の低さがうかがえる
最近、ハッスル黄門様が茨城県のキャラみたいになってきたけど
茨城を水戸藩で推してくのも無理あるよね
県南及び県西は水戸藩関係ないし
人口にすれば半分は無関係となる
>>573
それいいかも
いっそそのくらいマイナーな方がうけそうだ
地元民としてももう少し江戸氏に関心持って欲しいw
0580人間七七四年
2010/11/09(火) 08:15:41ID:cYnr3u1f豊臣政権下でも常陸全土ではなかったりする
小田領は結城氏へ、笠間領は宇都宮氏へ、岡見領は由良氏などへ与えられている
あと旧里美村周辺は岩城領で、県西の下総との境界付近は多賀谷領が入り込んでいる
常陸一国与えられたとか書いている本が非常に多いけど
実際は結構な範囲に抜けがある
この点を見ても人々の佐竹氏への関心の低さがうかがえる
最近、ハッスル黄門様が茨城県のキャラみたいになってきたけど
茨城を水戸藩で推してくのも無理あるよね
県南及び県西は水戸藩関係ないし
人口にすれば半分は無関係となる
>>573
それいいかも
いっそそのくらいマイナーな方がうけそうだ
地元民としてももう少し江戸氏に関心持って欲しいw
0581人間七七四年
2010/11/09(火) 09:10:51ID:jR1Woegq鹿島神宮くらいか?
鹿島氏はもちろん、佐竹、小田、大掾、笠間、真壁と敵味方関係なしの
崇敬はあった。もっとも、今の人間は逆にそこまで重要視してはいないんだが。
0582人間七七四年
2010/11/09(火) 10:11:04ID:y7kThAtc義重は最初のうちは鹿島神宮の権威を利用して常陸に力を浸透させようとしていたが
そのうち実力が付いて来ると社領の返還を求められても無視するようになった
かなり後まで出陣の吉日を選んでもらったりはしてるのだが。
0583人間七七四年
2010/11/09(火) 10:48:54ID:jR1Woegq鹿島神宮側もその社領を保証する権威が無い時代に生き残りをかけて権威の拡大と
見入りのいい商売にいそしむために大名たちを利用したってこと。
0584人間七七四年
2010/11/09(火) 10:50:41ID:jR1Woegq実際、県北に住んでると鹿島はいわきとかよりも遠く感じるしな。
0585人間七七四年
2010/11/09(火) 12:48:51ID:cYnr3u1f常陸の一ノ宮だし
俺は県北だけど鹿島神宮、静神社、笠間稲荷はよく初詣に行くよ
鹿島神宮は結構芸能人なんかも来るんだよね
しかし鹿行の歴史も複雑だな
0586人間七七四年
2010/11/10(水) 15:32:42ID:F5u2e+XM妥当なんだろうか?
0588人間七七四年
2010/11/10(水) 21:44:19ID:F5u2e+XM町割りは佐竹が大分いじったようだけど石高がそこまで極端に変化するわけは
ないからだいたいその規模なんだろうね。里見氏が与えられたのは
鹿島郡らしいから烟田氏等の一族領含めて三万石ってことか。
0589人間七七四年
2010/11/13(土) 22:10:48ID:5b/+kkvD細かい事ですまんが、
笠間は元から宇都宮の傘下のような。半独立状態だったのは間違いないが。
佐竹は部垂や山入を克服して戦国大名になったのに対し、
宇都宮は戦国の最後まで家臣団を統制できなかったのは非常に残念だ。
0590人間七七四年
2010/11/13(土) 22:37:29ID:wrl66x6D0591人間七七四年
2010/11/14(日) 08:22:51ID:TNyvjW1L佐竹、宇都宮は当主が本拠地追われていたし那須に至っては当主が何人も殺されている
最近下野の城巡りをしている
下野の城って大大名がいなかったからこじんまりしてるけど何か好きだな
常陸の城って立地からしてやる気ないんだもんw
0592人間七七四年
2010/11/14(日) 19:02:54ID:qM12Dd/S宇都宮と西方の中間にある壬生は、どう考えても元は宇都宮一族(横田家の分家という説)
あるいは家臣(通字の胤から下総千葉家の分家説)だよな。
それなりの書籍ですら下級公家の下向説(笑)を採用してるの見ると呆れる。
0593人間七七四年
2010/11/14(日) 23:45:29ID:TNyvjW1Lでも氏家氏なんかも出自が曖昧なんだよな
あと、武茂氏は何であんな飛び地みたいになっているのだろう
0594人間七七四年
2010/11/16(火) 11:57:48ID:pw78/EnIみんなどうやって宇都宮家の事とか調べてるんですか?
自分ググっても『喜連川五月女坂の戦い』とか知りたくても、
満足いくような情報も調べられなくって・・・。
0596人間七七四年
2010/11/16(火) 22:56:06ID:VNKgQwRj攻めて行った方がいいと思う。もっとローカルなのが検索したら
出てきた。ただ、情報が古いかもね。
http://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000009656213.html
喜連川町史. 第6巻(通史編 1)
喜連川五月女坂の合戦 309
それと本の検索にはこういうものをどんどん活用すべき。
県内図書館一括検索
http://www.lib.pref.tochigi.jp/soumoku/soumoku_top.htm
ぐぐっては参考文献を見つけこっちで図書館を検索の繰り返しで、
図書館行く前にかなり絞れるはず。
0597人間七七四年
2010/11/17(水) 19:09:07ID:ItM1n99Mなるほど!!
そういう県史や市史から調べる手があるんですね!!
>>596
詳しく丁寧に有難う御座います!!
こういう調べ方を知らなかったので胸が高鳴っています。
次の休日は図書館にこもってしっかり調べてみます!!
0598人間七七四年
2010/11/17(水) 20:16:59ID:fjTPq6/Gといいつつ…
http://www.iwata-shoin.co.jp/local/database/32.htm
中央図書館を使うなら、県史・市史に加えてこういう県史研究なんかも置いてあるはずだから
利用してもいいかと。中には自分の知りたい合戦や人物なんかをピンポイントで特集している
記事もあるかもしれない。
あと、見過ごしがちだけど「大日本地名辞書」や日本歴史地名体系の「栃木県の地名」とかは単なる地名研究に留まらず
歴史研究のガイドラインにもなるはず。ただ、「大日本地名辞書」は吉田東伍の独自研究の面も強いので少し注意が
必要かもしれない。
ネットだとこういうのも後々何かの手がかりになるかな?
栃木県立図書館レファレンス事例
http://www.lib.pref.tochigi.jp/reference_ex/r_top.htm
0599人間七七四年
2010/11/19(金) 15:35:50ID:KRHDF7UP0600人間七七四年
2010/11/19(金) 15:51:29ID:XbrbRRNO0601人間七七四年
2010/11/20(土) 13:48:57ID:4+55O8UO『小田家風記』によると「土浦城主 菅谷摂津守 七万八千石」をはじめ
一万石越えの小田家一門や配下武将がゴロゴロしてることになっている。
ただ、あまり信用に足る内容とは思えんw
0602人間七七四年
2010/11/20(土) 13:51:16ID:4+55O8UOttp://www.asahi-net.or.jp/~ku4t-tkhm/odaichimonkafuutype2.html
0603人間七七四年
2010/11/20(土) 20:24:53ID:di3YODt50604人間七七四年
2010/11/20(土) 23:41:58ID:riFjYvBcかなり時代は遡るが
0605人間七七四年
2010/11/20(土) 23:58:47ID:P5Igpy9Oつくば市、土浦市、八郷町、牛久市、かすみがうら町、千代田町、石下町、
水海道市、明野町、茎崎町、伊奈町、谷和原村、藤代町、新治村、岩井町
辺りだから15〜20万石ぐらいだと思う
0606人間七七四年
2010/11/21(日) 11:14:00ID:rqYdfxk1軍記物でしか知らなくて申し訳ないが、既に氏治の前の政治時代から
合戦で負け込んできてるから、既に最盛期ではないような。
0607人間七七四年
2010/11/21(日) 11:18:23ID:djmKJfZM0608人間七七四年
2010/11/21(日) 13:59:53ID:fY7QMgUw霞ヶ浦の利潤が大きくても、大名の収入に直結するわけではないんだ。
役銭なども、守護大名程度の権力しか持たなかった小田が、
はたしてどこまで強制力を以って徴収できたか非常に疑問。
似たような話で武田の金山経営なんていわれるけど、実際には、金山を経営していたのは
金山衆という「企業」で、武田は税金を賦課して軍役に従事させるだけだったりする。
佐竹の場合には、義宣が金山への業務に関する命令を出している文書があるので、
少なくとも豊臣期には佐竹の所有物だった可能性が高いが、実際に掘っている人夫達と
どういう契約を以って採掘採集を行わせていたのかまではよく分からない。
0609人間七七四年
2010/11/22(月) 08:11:59ID:d13zg9ab常陸国は佐竹氏、大掾氏、小田氏の三頭体制だったとか
0610人間七七四年
2010/11/23(火) 13:21:28ID:1C21UKU1それだけじゃなく守護に従う必要のない鎌倉公方・幕府の奉公衆がわらわらいるからなあ。
常陸はそんな複雑怪奇な支配非支配関係が戦国末期くらいまで続く。
0611人間七七四年
2010/11/23(火) 14:53:59ID:bXOEg4rXやたら関東管領と対立した足利成氏公。
だがこの対立軸が関東管領と古河公方の利根川対立ラインを形成し
関東管領の謙信の関宿城攻防でも歴史的対立が影響を与えたと言える。
そもそも関東管領主催下での彼らの序列化は微妙過ぎる問題。
0612人間七七四年
2010/12/04(土) 00:04:20ID:A3jpgWCs0614人間七七四年
2010/12/04(土) 02:36:03ID:2Gq+RO6X棲み分けというか共存共栄の妥協というか。
共倒れを防ぐ生活の知恵かも。
0615人間七七四年
2010/12/04(土) 09:46:21ID:rYPytEYc0616人間七七四年
2010/12/14(火) 01:05:37ID:xdqN2PnT0617人間七七四年
2010/12/16(木) 15:08:51ID:bL4GlnUsどちら側についたんだろう
0618人間七七四年
2010/12/16(木) 15:32:53ID:GRQpe+9f地理的に徳川とはケンカしたくないから東軍についたと思う。
0619人間七七四年
2010/12/16(木) 16:38:07ID:NxzU8Gfu0620人間七七四年
2010/12/16(木) 19:30:42ID:xl0fXxK5佐竹側の創作によくあるような盟友なのか?
北条という強力な外敵の前でかろうじて同盟してただけか。
0621人間七七四年
2010/12/16(木) 19:39:28ID:jxJEyb+c0622人間七七四年
2010/12/16(木) 19:40:47ID:jxJEyb+c関が原の頃になると、たいていの大名は所領安堵で生き残るだけで満足していたようにも思う。
0624人間七七四年
2010/12/16(木) 21:54:32ID:hymCl0X/その子が結城の養子に入ってたよな〜。
秀康に結城当主を奪われた関係もあり
関ヶ原ではその子が白河で上杉と佐竹の連絡係
0626人間七七四年
2010/12/18(土) 19:22:41ID:m/7tdzrIただ、あそこは分家といっても御一門衆と重臣を兼任しているような形態。
0627人間七七四年
2010/12/19(日) 12:59:46ID:u9AfBOKS実際弟どもが上杉に与しているし
0628月孔雀
2010/12/19(日) 13:31:00ID:WsS39nC3文化的に関東と東北の中間のように感じます。
0629月孔雀
2010/12/19(日) 13:32:05ID:WsS39nC30630人間七七四年
2010/12/19(日) 13:36:30ID:vTXG1r1b0631人間七七四年
2010/12/19(日) 18:13:19ID:oVXwgV9Q0632人間七七四年
2010/12/19(日) 18:46:44ID:Y3eZR4A80633人間七七四年
2010/12/25(土) 20:44:22ID:eq4xQsUO0635人間七七四年
2010/12/26(日) 23:42:42ID:uqoGHCGdなぜ養子を入れると佐竹が断絶してることになるのか、意味不明。
0636人間七七四年
2010/12/27(月) 01:17:44ID:0ke0GfBz0637人間七七四年
2010/12/28(火) 21:29:12ID:SOASEfOnたしかに。ちゃんと血は繋がっているし
古い「大名」って言ってるんだから、あくまで
「血」ではなく「家」が対象なのに
0638人間七七四年
2010/12/28(火) 22:18:20ID:ozPPXdd8こういうやつが増えたのは
天皇の跡継ぎの議論で男系だの女系だの議論があってネットのごく一部が盛り上がったからだろうね。
佐竹にとってはとんだとばっちりだ。
0640人間七七四年
2011/01/06(木) 17:49:57ID:0lv6m2sQ0641人間七七四年
2011/01/06(木) 17:58:12ID:oWbV62jI0642人間七七四年
2011/01/06(木) 20:22:12ID:RZ5HcgOf0643人間七七四年
2011/01/06(木) 23:27:56ID:ypI8YHg20644人間七七四年
2011/01/08(土) 00:18:56ID:fyvEvF8z0645人間七七四年
2011/01/08(土) 12:17:34ID:FmNMWnTb0646人間七七四年
2011/01/08(土) 12:23:38ID:fyvEvF8z0647人間七七四年
2011/01/09(日) 13:03:45ID:II+M/LWC0648人間七七四年
2011/01/09(日) 14:48:22ID:5nRkvwoP0649人間七七四年
2011/01/09(日) 15:32:17ID:0Yfu7JVB集権化を成功させたのは1591年以降だからやはり戦国大名とは言い難い
洞中体制は戦国時代頃に発生した独自の体制だけど
構造的にはあくまで室町体制の域を出ていないと思う
佐竹氏も義昭時代から戦国大名化への試みが続けられていたが
成功のめどがついていなかったと言っていい
そこに豊臣氏の東国進出があり、これを契機に中央政権の権威を利用して一気に近世大名へと飛躍した
0650人間七七四年
2011/01/09(日) 23:29:19ID:EgJBuMKA「洞中」について論じた市村高男氏ですら、「戦国大名」と「国人」との間にいくつかの段階があって、
佐竹はその中間段階のかなり上の方に位置すると言ってるだろう。
集権化できてなかったら戦国大名と呼べないなんて言ったら、
上杉謙信も毛利元就も戦国大名とは言えなくなっちゃうよw
峰岸氏は天正以降の佐竹氏は、戦国大名と言っていいと結論してるし、
佐々木倫朗氏や黒田基樹氏はほぼ戦国大名扱いしてるだろう。
「戦国大名」なんて所詮学問的分類のひとつに過ぎない。
去年の茨城歴史館のテーマなんて、『戦国大名常陸真壁氏』だろ。
0651人間七七四年
2011/01/10(月) 12:30:56ID:iPzwso/I洞体制の諸氏とは全く違う
0652人間七七四年
2011/01/10(月) 12:59:28ID:Y+z3XhURかみ合わないってさw
0654人間七七四年
2011/01/10(月) 15:28:51ID:iTTZS+Bs謙信の天正年間の軍役と、成田小田佐竹の洞秩序による軍事力動員では質的に違うんでね?
兵科、人数、旗の指定まで行えた上杉氏と同列には扱えない。
0655人間七七四年
2011/01/11(火) 21:23:35ID:X7SkqYSG0656人間七七四年
2011/01/13(木) 12:45:13ID:7TAtuo7i茂木城と黒羽城がお気に入り
常陸なら小幡城と笠間城かな
常陸太田城の北東に瑞竜という小山があるのだが、太田城と同じぐらいの高さあるし
あそこに付城造られたら危険過ぎると思ってたらやはり城があったんだね
小野崎氏の居城だったらしいけど(後に佐竹氏が接収)
僅か500mぐらいしかない所に他の勢力の居城があるというのも凄いな
0657人間七七四年
2011/01/16(日) 10:36:34ID:gjPZqhJ90658人間七七四年
2011/01/17(月) 02:31:31ID:YDckX+6+葦名盛氏や佐竹義重を過大評価して
石高を大きく見せようとするアホだから。
0659人間七七四年
2011/01/17(月) 09:56:24ID:hyXHDSTA政宗のマヌケぶりは変わらんだろ
0660人間七七四年
2011/01/17(月) 10:53:27ID:/gFf1Ycl0661人間七七四年
2011/01/18(火) 13:25:16ID:jp7Nsj8r> 僅か500mぐらいしかない所に他の勢力の居城があるというのも凄いな
きわめて珍しいというか類例はないと思う。
0662人間七七四年
2011/01/26(水) 11:12:06ID:tVwZKars0663人間七七四年
2011/02/03(木) 20:29:48ID:TTgP0lPd0664人間七七四年
2011/02/03(木) 22:31:55ID:hu0Fl6U0って本当にあったのか?
どうも嘘くさい
0665仙台藩百姓
2011/02/04(金) 15:06:12ID:q7Cty7cx「長尾に都合悪い事は全て無かった事にしたい病」が( ^ω^)
0666人間七七四年
2011/02/04(金) 16:26:53ID:MJ+2yLh20667人間七七四年
2011/02/04(金) 17:07:10ID:GAoRia6i0669人間七七四年
2011/02/05(土) 02:12:49ID:6H77klvl状況的にあんまり意味ないような。
0671人間七七四年
2011/02/15(火) 21:32:19ID:rHoy1K/J0672人間七七四年
2011/02/17(木) 02:11:41ID:If62oVw9結城朝勝→秋田宇都宮氏
芳賀高武→?
0673人間七七四年
2011/02/23(水) 20:12:34.41ID:2OoMN3K70674人間七七四年
2011/02/26(土) 15:44:51.20ID:8bpjuyuaヒットするのでそれで読めるかもしれない。ただ、内容がはっきりわからないので
最悪、『興廃記』の解説がちょろっとだけという可能性も。
ttp://www.geocities.jp/momiji0286/muramati.html
ttp://www.geocities.jp/momiji0286/sankousyoseki.html
こちら情報では『塩谷町史第二巻』に載っているとのこと。中近世資料編だから
期待はできそうだが、町に関わる部分だけを引いている恐れもある。
http://opac.library.tochigi.tochigi.jp/OPP1500?ID=4&SELDATA=TOSHO&SEARCHID=0&START=1&ORDER=ASC&ORDER_ITEM=SORT1-F&LISTCNT=20&MAXCNT=100&SEARCHMETHOD=DT_SEARCH&MENUNO=1
内容を見ると文献・戦記物語という項目がある。
ttp://www5a.biglobe.ne.jp/~miyaya/bandou-nenpyou.htm
こちらは『宇都宮資料(正しくは史料)』から引いている。
『宇都宮史料』ならば県立図書館にあるよ。
0676人間七七四年
2011/02/26(土) 23:49:41.54ID:8bpjuyuattp://www5a.biglobe.ne.jp/~miyaya/bandou-nenpyou.htm
今日、結城関係調べてて↑のサイトにたどり着いたんだけど参考文献にある
『結城史料』なんて存在しないんだよ。おそらく『結城市史』の古代中世史料編
なんだと思うんだけど。だから『宇都宮資料』も別のタイトルの可能性があるというか
普通に『宇都宮市史』なのかもしれない。明日自分が行く図書館に『宇都宮市史』の
中世通史編・中世史料編があるようなので忘れなかったら調べてみる。
0677人間七七四年
2011/02/26(土) 23:57:10.01ID:8bpjuyua39 宇都宮興廃記・日光山法度・宇都宮戦災世帯人口調
http://lib.ohtawara-city.jp/opac/wopc/pc/pages/SearchResultDetail.jsp?srv=&id=15043
初めから横断検索すればよかった。
その友達には宇都宮関係はまずこれで調べてみるよう言っといてw
http://kensaku.tochilib-unet.ocn.ne.jp/cgi-bin/ilisod/odplus.sh
0678人間七七四年
2011/02/27(日) 18:36:33.85ID:4KqPBm1B見られなかった。その知人の健闘を祈っておくw
0679人間七七四年
2011/02/27(日) 18:46:55.98ID:+Uclff6t0680人間七七四年
2011/02/27(日) 22:30:21.52ID:4KqPBm1Bちなみに今見てる結城市史に普通に『宇都宮興廃記』が引かれててワロタw
『下野国誌』所収と書いてある。
0681人間七七四年
2011/02/28(月) 16:22:50.32ID:l2Qj7NLI0682人間七七四年
2011/03/16(水) 13:18:53.25ID:zzcVsu7Wいまの常磐地域を治めたという認識でおk?
佐竹の一族?
0683人間七七四年
2011/03/16(水) 17:01:43.57ID:yVWPBEpB0684人間七七四年
2011/03/24(木) 16:51:09.66ID:w2WxsdVu0686人間七七四年
2011/03/26(土) 23:05:32.39ID:mbsPW1aW水戸?岩城?
0687人間七七四年
2011/04/04(月) 11:55:23.46ID:TF/BxpT20688人間七七四年
2011/04/04(月) 13:40:52.79ID:FRmHCab80689人間七七四年
2011/04/09(土) 01:28:41.08ID:F4P2iGas0690人間七七四年
2011/04/16(土) 01:45:24.37ID:+RjiRgCC守護・・・佐竹
半国守護・・・山入
旧守護・・・小田、宍戸(関東奉公衆)
守護格・・・大掾(吉田・行方・鹿島・真壁・南5郡、東条・方穂2荘、小栗保の棟別銭の徴収権)
京都扶持衆・・・真壁
関東奉公衆・・・
埋めて
0691人間七七四年
2011/04/17(日) 01:36:34.27ID:Cvj2aWqe0693人間七七四年
2011/04/17(日) 03:23:10.53ID:tAbEBbmc0694人間七七四年
2011/04/17(日) 17:16:33.15ID:pPRmDWrH大掾氏族の中で飛びぬけているわけでもないし、京都扶持衆だったせいで辛酸を舐めている。
ただ、その真壁氏が天下が定まる頃には佐竹の外様家臣で第一の立場にまで
行くからわからない。
0695人間七七四年
2011/04/18(月) 22:14:09.59ID:/KDbrktR0696人間七七四年
2011/04/18(月) 22:21:26.43ID:o76PN7Cu0697人間七七四年
2011/04/20(水) 20:47:54.08ID:HidUI1qW佐竹に宣の字貰ったぉ
長尾景勝やお猿さんには負けない
0698天変地異発動! ◆tenpen5cB.
2011/04/22(金) 17:37:41.41ID:e1+IA2Qeこの戦国時代のスレに存在しているのがネット時代として
日本最大の不幸であろう。
こんな屑家系を語る必要はない。
二度と子孫を作らせず、家系ごと日本から葬れ。
赤子が出来たら包丁で殺せ。
0699人間七七四年
2011/04/22(金) 19:50:06.15ID:/WxWlvGa0700人間七七四年
2011/04/22(金) 21:00:19.89ID:VqKagx4z0701人間七七四年
2011/04/28(木) 09:59:21.30ID:qLPiM2pB0702人間七七四年
2011/04/28(木) 12:43:19.19ID:9wdQyX8x0703人間七七四年
2011/04/28(木) 13:26:36.79ID:JHYda1G40704人間七七四年
2011/04/29(金) 03:17:40.86ID:oqV7SKj32度とここにも行けないし野馬追いも見られないのかね・・・
0705人間七七四年
2011/05/01(日) 18:43:11.37ID:q4LhwzGf多賀谷氏のこと忘れてない?
0706人間七七四年
2011/05/01(日) 19:56:52.15ID:cD/gIwxzhttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1169863719/l50
>>704
そうとは限らんだろうが。なんかそういう悲しむだけのレスはイライラする。
0707人間七七四年
2011/05/06(金) 17:46:23.78ID:9T3I9zAo0708人間七七四年
2011/05/10(火) 12:50:47.12ID:gdWMPx2A死に神一族、「佐竹氏」
佐竹歩くところ自殺者多数。
死に神一族、「佐竹氏」
佐竹歩くところ自殺者多数。
死に神一族、「佐竹氏」
佐竹歩くところ自殺者多数。
死に神一族、「佐竹氏」
0709人間七七四年
2011/05/16(月) 00:47:00.97ID:2luU0fBT0710人間七七四年
2011/05/20(金) 01:18:39.85ID:G8z0Y0OOお山なんか結城の子分じゃねーか
0711人間七七四年
2011/05/25(水) 00:41:44.37ID:Qv8bqm7GI 1970年 県南5郡
II 1974年 県北4郡
III 1990年 県西5郡とI,IIの補遺
IV 1992年 青森県・秋田県
V 1994年 秋田県・岩手県・宮城県・山形県・福島県
VI 1996年 栃木県,群馬県,埼玉県
15年音沙汰なし
千葉は?東京は?神奈川は?山梨は?静岡は?新潟は?・・・京都は?
0712人間七七四年
2011/05/28(土) 01:22:09.64ID:0MszFSWb岩上二郎 1959年(昭和34年)4月23日 - 1975年(昭和50年)4月22日 4期
竹内藤男 1975年(昭和50年)4月23日 - 1993年(平成5年)8月11日 5期
橋本昌 1993年(平成5年)9月26日 - 5期
a
この15年余りは準備期間で近い内に刊行が再開される
b
橋本昌が編纂事業に金を出さない
0713人間七七四年
2011/05/28(土) 19:27:34.36ID:/lTOQCWaお山w
0714人間七七四年
2011/05/28(土) 19:56:16.97ID:hMYB8oZ20715人間七七四年
2011/05/28(土) 21:57:13.33ID:kU2+j7eA真壁は天正18年以降佐竹の家臣に組み込まれたけど宇都宮と多賀谷は独立大名
ちなみに江戸時代になってからは
多賀谷→茂木→真壁→宇都宮→伊達→塩谷→武茂→箭田野
といった序列
0718人間七七四年
2011/06/05(日) 22:00:12.76ID:sZDDnax70719人間七七四年
2011/06/05(日) 23:11:40.43ID:Us8yHSPf小山は滅亡してるからな
0720人間七七四年
2011/06/07(火) 22:33:35.68ID:R8vZT7sSまぁ三回目は家督簒奪っぽいんだが。
0721人間七七四年
2011/06/08(水) 09:01:21.55ID:4Ucp0oy7小山家の現在の当主は老人だが、小山市内に住んでいると聞いた。
0722人間七七四年
2011/06/16(木) 08:07:53.81ID:RWcLyWOn改易されるくらいだから、
秀吉の気にも止まらない、
平凡大名かな
逆に気を許してはならないほど、
危険視されていて、
浅野の懐柔政策にものらず、
それゆえの改易だったりして
0723人間七七四年
2011/06/16(木) 21:20:21.88ID:vtDZZiQi0724人間七七四年
2011/06/16(木) 23:05:50.46ID:PzT6wAUX国綱は凡庸な人物だったが弟の朝勝と高武は過激な人物であったようだ
特に高武は、浅野の懐柔作に国綱が従おうとした事に激怒し
親浅野派だった重臣の北條松庵と今泉高光を次々殺害した事で浅野を怒らせて改易に追い込まれた
と言うのが通説
0725人間七七四年
2011/06/18(土) 18:55:05.55ID:ciq9Lx/vその過激さを危ぶまれた一面も、
あるのかな
0726人間七七四年
2011/06/19(日) 01:41:37.72ID:jTPnuKZMこの説だと、朝勝が豊臣政権に対して内心不満を持っていて豊臣シンパとみなされた北條松庵や今泉高光が殺害されたと言う説明も可能だと思う。
0727人間七七四年
2011/06/21(火) 08:42:06.64ID:S2aroYR+宇都宮には何も出来なかったことを、
逆恨みしてるのか?
那須の領土でも狙ってたとか
0728人間七七四年
2011/06/21(火) 08:59:22.82ID:m/IXOjoB0730人間七七四年
2011/06/22(水) 08:13:24.33ID:H4M3jQOv0731人間七七四年
2011/06/24(金) 00:32:38.25ID:yaMBmISc塩谷郡は宇都宮氏、塩谷氏、喜連川足利氏、蔵入地に分割。
壬生領は徳川氏、結城氏、宇都宮氏、蔵入地で分割。大半は結城へ。
壬生を元宇都宮一族とすれば、喪失した事になるな。
0732人間七七四年
2011/06/24(金) 08:04:33.85ID:tukVw2jJ旧壬生領、
確かにこの辺りに芳賀らの不満の種はありそうだ
0733人間七七四年
2011/06/24(金) 11:45:56.98ID:8cE1YhkW基本的には武茂氏や笠間氏と同じ宇都宮一門で洞中に属していたが
小田原征伐辺りからは笠間氏同様に良く分からない
他には那須七騎の一部が与力として宇都宮氏に付けられてはいたようだね
佐竹氏や結城氏は大幅に領地を加増されたのに宇都宮氏は微妙
外交いまいち上手くいってなかったのかもしれない
国綱や今泉・北條らが浅野長吉の養子の件をのんだのは単に押し付けられただけではなく
少しでも外交的優位を得たい思惑があって宇都宮氏の方も望んでいたのではなかろうか
0734人間七七四年
2011/06/24(金) 19:02:14.72ID:IhD/z0qxいつごろから完全な佐竹配下になったのですか?
その理由としてなにか明確なものがあるのでしょうか。
0735人間七七四年
2011/06/24(金) 22:43:49.33ID:RTNHZ4No0736人間七七四年
2011/06/25(土) 05:33:08.55ID:HQrG7jBu宇都宮がグダクダになったあたりだよ。
佐竹は義昭のころかな?
宇都宮の跡取りがどうので揉めて、
ムモマツノで佐竹の軍勢を借りて宇都宮宗家奪還してなかったか。
0738人間七七四年
2011/06/25(土) 14:48:10.66ID:p4dJeh+I旗頭の那須氏と旗下筆頭の伊王野氏は没落したけど
0739人間七七四年
2011/06/25(土) 23:33:52.66ID:NDmz+FD7後々全員まとめて戊辰戦争であっさり新政府軍に付いたから大失敗だった訳だが。
0740人間七七四年
2011/06/25(土) 23:59:57.07ID:p4dJeh+I大田原城は旧幕軍に攻められて結構激戦になったんだよな
そういや、大田原や黒羽は一応陣屋なんだよね
どう見ても城だけど
0741人間七七四年
2011/06/26(日) 20:49:21.12ID:s7m1tUw+おかげで活躍して2万石の小藩なのに戦功賞典で1万5000石貰ってる。
0742人間七七四年
2011/06/27(月) 11:27:09.43ID:jDki5R4q0743人間七七四年
2011/06/27(月) 12:35:54.41ID:04yBWsyp実質他家に乗っ取られるなら、旗本や大名の家老になった方がマシという考えもある。
0744人間七七四年
2011/06/27(月) 13:05:55.71ID:PRR64ZgX0745人間七七四年
2011/06/27(月) 13:32:46.14ID:B4dCQWjO男性血統が残ってると、なぜか萌えるよね
0746人間七七四年
2011/06/27(月) 18:46:52.74ID:SP6WZ+GQって何者?
越後毛利?後北条?鎌倉北条?
0748人間七七四年
2011/06/27(月) 22:20:37.33ID:+VirXYL2宇都宮の被官だね。
被官といっても芳賀氏同様に宇都宮家の家老のようなことをしてたくらい
宇都宮家に近い。
0749人間七七四年
2011/06/28(火) 16:24:19.61ID:ZfWVe9gn1949年、25歳の頃に捕まって14年間服役、1963年に39歳で釈放、1971年に冤罪発覚じゃ結婚も養子縁組も難しかっただろうし
冤罪が原因で名門那須氏断絶とか悲惨すぎる
0750人間七七四年
2011/06/28(火) 17:37:07.25ID:Dn/UUCb4家督自体ははどうなんだろうね
0751人間七七四年
2011/06/28(火) 21:45:00.83ID:ttpl5MMA0752人間七七四年
2011/06/29(水) 11:14:43.25ID:dtfMXvSP0755人間七七四年
2011/07/02(土) 05:28:38.65ID:MLQu8W0t0756人間七七四年
2011/07/03(日) 14:13:45.21ID:ZigRrlq1一応、那須隆氏は釈放後結婚してる
子息がいるかは不明(喪主は奥様だし)
ただし妹夫婦や甥が支援者の中心としていたから、養子に迎えている可能性はある
0757人間七七四年
2011/07/04(月) 09:57:55.42ID:wG5wM1xm0758人間七七四年
2011/07/07(木) 17:27:00.65ID:5l2hoWuh日本の場合、血筋より家重視だから特に問題は無い
そもそも婿養子貰っても家付正室に子が生まれず側室腹が継ぐ方が遥かに多いし
上杉鷹山の様に側室も一族出身の者はかなり珍しい
0759人間七七四年
2011/07/07(木) 17:56:48.46ID:JFfZ64h6全く血縁がない場合は少ない
0760人間七七四年
2011/07/07(木) 20:24:01.87ID:W1VrTa170761人間七七四年
2011/07/07(木) 20:32:36.29ID:Jq7R90zB0762人間七七四年
2011/07/07(木) 22:27:01.35ID:5l2hoWuh交代寄合初代の資弥は青木氏出身だが恐らく血縁無い
その後津軽・佐竹からも入ってるが一代止まりで本庄松平出身の資穀入りその血が明治迎えたと記憶しているがその後養子入ってたっけ
0763人間七七四年
2011/07/07(木) 23:30:27.53ID:J0h1SfJB青木氏の系図がよく分からないけど
青木氏と血縁がなければ那須氏の血は一滴も受け継いでないっぽいね
さすがにここまで中身が入れ替わってるのは珍しいかも
0764人間七七四年
2011/07/09(土) 16:52:07.79ID:kB6ZFcXo居なかったら小田原まで宇都宮持たなかったんじゃないのかってぐらい。
0765人間七七四年
2011/07/09(土) 20:23:55.22ID:hKYMP0Y4必然的に先陣を務める場合が多かったろうし
0766人間七七四年
2011/07/12(火) 17:41:04.80ID:nAmXOrzMこんなタイプは見た事ない
0767人間七七四年
2011/07/14(木) 21:04:33.10ID:wc0IVLE7鎌倉北条ってことか
0768人間七七四年
2011/07/14(木) 21:55:14.40ID:kVhc8I7b蜂須賀氏かな
中身はもはや徳川の親藩同然で別物なのに
相変わらず盗賊の子孫扱いうけちゃったという
0769人間七七四年
2011/07/15(金) 00:29:20.56ID:skTo8iVN0770人間七七四年
2011/07/15(金) 15:21:10.21ID:wX3i0jRfhttp://beebee2see.appspot.com/i/azuY28qfBAw.jpg
http://beebee2see.appspot.com/i/azuYmdqfBAw.jpg
0771人間七七四年
2011/07/15(金) 16:41:36.73ID:KruNZo960773人間七七四年
2011/07/21(木) 01:18:21.48ID:6ETt6MrP見れんw
0774人間七七四年
2011/07/23(土) 07:42:52.45ID:IJkm3F8Sどんな一大事でもとにかく兵が集まらない。
0775人間七七四年
2011/07/25(月) 20:59:36.30ID:CzbPzyIDhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110725-00000026-san-l09
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110723-00000056-mailo-l09
1550年代の蓮の種は、紅色の蓮。
1590年代以降の蓮の種は、緑色の蓮らしい。
つまり・・・浅野が宇都宮氏時代の蓮を取っ払って
別の蓮を植えたんだろうな。
どんだけゲスなんだよ。
0776人間七七四年
2011/07/26(火) 14:54:17.42ID:0/qYNJ8Bどこにも突然鼻の色が変化したなんて書かれておらんぞ?
単純に気候や環境の変化によって植生が変わったんだろ。
よくそこまで短絡的に陰謀論に結び付けられるもんだ。
0777人間七七四年
2011/07/26(火) 20:26:05.89ID:PUpNa8CSこの記事には無いけど
蓮の種が発見された時(1年ぐらい前か)、放射線量の化学分析をした上で
1590年代以降には別の蓮に変わってたという記事があったんだよ
お前こそ事情も知らないくせに知ったような口きくなって。
0778人間七七四年
2011/07/27(水) 15:50:15.29ID:SuvSGyGT浅野の陰謀を安直にむすびつけるな
と、いいたいのでは。その辺を理解する読解力がない人の
「つまり…」というのあてにならないよね
0779人間七七四年
2011/07/27(水) 19:37:25.65ID:f4f5je9Z宇都宮氏改易後、宇都宮城と城下町は大改修されてる。
まあ浅野氏ではなく蒲生氏の可能性もあるけどな。
日野町とかは蒲生氏の出身地から名付けられた。
土塁や水堀まで織豊系の縄張りに改めてる時期に、ちょうど蓮も変わってるんだから、
どちらかと言えば人為的な変化と考えるのが自然。
城の植物は、一種のシンボル的なものでもあるからな。
その辺の道端のタンポポが在来種から外来種に変わったとかいうレベルの話じゃねえんだよw
0780人間七七四年
2011/07/27(水) 19:55:33.14ID:Gb/IrSc2在来の城の大改修しなかった大名なんて存在しないだろ。
その中で、浅野だけが特別にゲスだと言える理由って何か挙げられるの?
0781人間七七四年
2011/07/27(水) 20:02:21.82ID:SuvSGyGT779さんむきにならないでね
それなりにへ〜と思える情報もアップしてるんだから
0782人間七七四年
2011/07/27(水) 21:23:45.92ID:f4f5je9Z大改修した事自体は別に何も。
権力を恣意的に使って改易し(たとされている)、相手の居城の種を立ち斬ろう
としたのが浅野氏だったら尚更に陰険ですね。って話。
蓮だけに限らず、改易の後に宇都宮氏関係の神社仏閣も幾つか廃社廃寺になってるしな
>>781
778みたいな挑発的なレスを棚に上げて、何取り繕おうとしてんだよ。お前が言うなw
ニートって本当に虫が良いんだな
0784人間七七四年
2011/07/27(水) 22:08:41.16ID:f4f5je9Zつーか775は俺なんだが。
成り済ましかよ。
ま、たぶん776と書きたかったんだろうけどな。
この流れの教訓をID:SuvSGyGT風に言えば
ろくに知らない事を安直に断定するな(キリッ
0785人間七七四年
2011/07/29(金) 00:28:14.38ID:i+aSVXi40786人間七七四年
2011/07/30(土) 17:11:00.23ID:0BGyQmWiイメージが強いからね
大軍で那須を攻め奇襲で惨敗、壬生にプレッシャーかけられ
水谷が火事泥棒のように南部を侵攻…
0787人間七七四年
2011/07/30(土) 18:01:10.44ID:gd4zhJdu実際に蓮の品種が変わったのは人為的なものだろうな。
もっとも、嫌がらせとかそんな目的ではないだろうが。
0788人間七七四年
2011/07/30(土) 20:08:18.00ID:HkL5D/QP0789人間七七四年
2011/08/03(水) 08:29:25.99ID:NgUPKGjs佐竹では石田
中央との取り次ぎ役が違うのに、
寄騎の関係になることに違和感を感じる
0790人間七七四年
2011/08/03(水) 11:25:25.28ID:gDPbxW+r小田原征伐の時に常陸南部や下野南部は佐竹、宇都宮、結城、由良など に分配されたが
この配分には石田と浅野の政争があったんだろうな
0791人間七七四年
2011/08/18(木) 09:50:25.77ID:NbwgiJ+h宇都宮城主に1年間だけ浅野がなってたけどマジ?
0792人間七七四年
2011/09/07(水) 16:38:10.26ID:4sNAOIY2分断させようとしてたのか?豊臣政権は。
徳川を仮想的国とするなら、
得策ではないと思うが。
0794人間七七四年
2011/09/07(水) 21:56:32.00ID:sVxnDabj弟達や那須との関係みるにどちらにせよ西軍で没落な気もするが
0795人間七七四年
2011/09/07(水) 23:27:38.81ID:oEkgQhWC0796人間七七四年
2011/09/13(火) 21:27:27.53ID:AISutj1e0797人間七七四年
2011/09/14(水) 19:08:40.80ID:8oArfRfE関東での戦いに興味が無かったのかな。
0798人間七七四年
2011/09/14(水) 19:44:19.38ID:uaI/EiUr後北条が強すぎ。
宇都宮とは婚姻結んでるし北条とガチンコするには実力足りないし
0800人間七七四年
2011/09/14(水) 20:42:10.80ID:8oArfRfEそんな理由で目を付けられた白河結城氏や岩城氏が悲しい。
0801人間七七四年
2011/09/14(水) 20:54:54.78ID:7NTrY9XG0802人間七七四年
2011/09/15(木) 10:54:56.29ID:4zbgTQGD例年の横浜ベイスターズのような奴ら。
0803人間七七四年
2011/09/15(木) 22:30:58.42ID:Qm2DhDXO夜中に目が覚めたら鋤鍬持った領民が布団を囲んでた、
なんてことになりかねんw
0804人間七七四年
2011/09/16(金) 00:19:28.75ID:UKVGD+oz関東は物理的に無理
東は海で西は那須氏・宇都宮氏などの同盟国がある
南は真壁氏・大掾氏・江戸氏・太田氏などの洞中領主が小田方などの勢力と戦って領地を広げているから邪魔する訳にはいかない
だから彼らの後詰めが佐竹氏の役目だった
さらにその外には結城氏・小山氏・佐野氏・簗田氏などがいて、彼らとも協調関係にあったりした
だから佐竹氏が南下するとなると遥か武蔵の方まで攻めて飛び地を獲るしかないけど当然そんなのは現実的ではない
逆に南陸奥の白川氏などとは領地を接している
室町時代には依上(大子町)まで白川氏が進出して来ており佐竹氏とは100年来の仇敵だった
とりわけ白川氏の領する高野郡は常陸口の要所で南陸奥の街道が交わり
依上や東館(矢祭町)から常陸太田へ直行する事が出来る
実際、戦国時代初期頃に南陸奥連合に攻められて常陸国内(里美村)まで進入されて窮地に陥った事がある
だから佐竹領の防衛上、高野郡は絶対に手に入れたい土地だった
佐竹義舜が依上を奪還したのを皮切りに(依上は佐竹領だったが内乱の最中に取り上げられて白川氏に与えられていた)
義篤・義昭・義重と4代に渡って戦火を交えて来た
つまり南陸奥こそが佐竹氏本来の主戦場であり
南部は佐竹氏の意図と言うより同盟国や洞中の援軍要請に答える為に出陣している内に
北条氏の台頭で戦火が拡大していってしまったに過ぎない
旧領復帰とまではいかなくても2〜3万石の小大名として復帰できたんじゃないの?
朝鮮出兵で頑張ったのに復興できなくて疲れちゃったのかな、弟の朝勝は反東軍だけど、別に宇都宮家の為に動いていた訳じゃないみたいだし
嫁の実家の佐竹と歩調合わせてたわけでもないみたいだし、国綱が東軍で活動しても何の問題もなさそうだが
0807人間七七四年
2011/09/16(金) 13:14:29.90ID:LXhs/t9e0808人間七七四年
2011/09/16(金) 13:35:11.93ID:1eG0wAbkあえて佐竹と別れて博打を打つほどの決断力も無かっただろうし。
0809人間七七四年
2011/09/16(金) 13:50:21.79ID:SEHuASJy国綱は特別パッとした逸話もないし大勢に流されるイメージしかない
0810人間七七四年
2011/09/16(金) 14:46:16.52ID:lhVscAqX寄親の佐竹が明らかにしないのに、宇都宮だけで勝手に動くわけにいかなかったんだろう。
大名に復帰できないまま浅草で憤死してしまった・・・と。
弟の朝勝が秋田でちゃっかり文化人ライフを楽しんだのとは対照的だ。
0811人間七七四年
2011/09/16(金) 21:48:07.76ID:XWLuFenW朝勝は西軍側として活動してたんだけど
何もしなかった国綱は浪人で西軍側についた朝勝は久保田藩の十二大将 という家中14位ぐらいの扱いになった皮肉
でも恐らく国綱は相馬氏のように江戸で大名復帰運動してたのではないかと思う
0812人間七七四年
2011/09/17(土) 07:33:09.51ID:LDt4c5ja阪神時代の江夏、国鉄時代の金田みたいな存在か?
0813人間七七四年
2011/09/17(土) 07:36:47.08ID:LDt4c5ja> 南部は佐竹氏の意図と言うより同盟国や洞中の援軍要請に答える為に出陣している内に
> 北条氏の台頭で戦火が拡大していってしまったに過ぎない
佐竹と後北条の会戦が数回あるが、どれも佐竹が判定負けという感じでいいの?
0814人間七七四年
2011/09/17(土) 08:51:29.56ID:hg6su80K北条大好き黒田基樹ですら認めてるよ
0815人間七七四年
2011/09/17(土) 13:24:56.65ID:eKYvuqI3同母弟の朝勝・高武がよりによって上杉傘下で戦ってるからな
信頼的に無理だろ
0816人間七七四年
2011/09/17(土) 13:49:35.94ID:WGQoRiQv追放中の身分で那須の正室に娘を押し込めるとは思えないから追放前(1518年以前)か復帰後(1542年以後)のどちらかか?
0817人間七七四年
2011/09/18(日) 03:00:54.77ID:YL9NFHfX追放後だと年齢的に少し無理がある
0818人間七七四年
2011/09/18(日) 05:00:48.31ID:mhETDW9lガッと連合して、関が原の戦いとかで背後から家康襲えば一発逆転あったね
天下取った後は、連立内閣みたいで幕府やれそうな気がする
0819人間七七四年
2011/09/18(日) 12:17:40.98ID:1iywi3o4政資の長男であるはずの高資が実力行使で家督を奪いに行ったのも既に資胤が居たからと考えたほうが自然。
0820人間七七四年
2011/09/18(日) 14:04:34.57ID:AkRnbrvk連合体は弱いから無理
それぞれ独立勢力だしお互いの利害が絡むから簡単に結束が崩れる
対北条戦でも対伊達戦でも結局それで決定力に欠けた
0821人間七七四年
2011/09/18(日) 14:46:37.61ID:yLI8rgU/そもそも佐竹領内は例の「南方三十三館の仕置き」の余波が未だ続いており、
南方三十三館の残党があの時期ですら策動し、何かあれば東軍と結んで反佐竹行動を取る気
満々だった。
そんなだから佐竹は国境の外に出ることすら不可能だっただろう。
0822人間七七四年
2011/09/18(日) 20:50:15.68ID:x0epvpuv真田と同じで佐竹にも何の相談もなかったから三成挙兵は義宣にとっても寝耳に水
単なる上杉討伐だと思っていた
だから先鋒の須田盛秀らは既に上杉領へ進入していたし
須田氏や葦名盛重らを先鋒にしている事からして、葦名家や二階堂家の復興を目指していたのだろうと思われる
そんな時に三成挙兵の急報が届き、佐竹家中は動揺した
取り敢えず先鋒を赤館で留めて軍議を開いたが、石田と徳川のどちらが「豊臣軍」なのか判断に迷った
義久らは断固徳川支持を主張したが、西軍に人質を取られている事や義宣が乗り気じゃなかった事などで
結局は消極的徳川支持という形になった
初めから徳川と戦う事なんて想定していなかったから、その準備もなかったし
西軍参加は無理なんだよ
0824人間七七四年
2011/09/18(日) 23:48:38.87ID:XujCznxo秋田転封が決まったとき、車丹波が徳川への蜂起を主張したが
「常陸には三十三館の件でまだ佐竹に恨みを持っている者たちがいる。
彼らが混乱に乗じて立ち上がったらどうしようもない」
と義宣がその案を退けた……らしい。
どこで読んだ話だったか忘れたがw、近デジだったかも。
0825人間七七四年
2011/09/19(月) 00:30:46.50ID:alz1j+Rgしかも、関が原の話ですらないし
0826人間七七四年
2011/09/19(月) 00:43:45.10ID:L/LQPez+史料と言われても伝承と紙一重だ
記録する習慣がなかったんじゃないかとさえ思える
0829人間七七四年
2011/09/19(月) 04:01:46.51ID:COgxyVYe義宣は即日、国元に使いを送って一刻も早く常陸を立ち退くように指示している
梅津政景などは行き先が決まってないうちから取り敢えず水戸を立ち退いて下野に滞在するよう家族に連絡している
そして転封先が決まると留守居役の和田昭為や小場義宗らは直ちに秋田へ先行して後続を迎え入れる準備を始めた
義宣、義重、盛重、貞隆、義胤らが上方や江戸を発ったのは3ヶ月近く経って移動が片付いてから
したがって蜂起など思いもよらない事で考えもしなかったと見て良いだろう
まして車はこの頃、家臣ですらないし口出しなどできるわけもなく
恐らく義宣とは一度も顔を合わせる事もなかったと思われる
と言うか義宣が伏見を発ったのは車が死んで1ヶ月以上経ってからだし
どう考えてもその逸話は事実ではない
0830人間七七四年
2011/09/19(月) 05:36:09.19ID:jjAkPAkc逸話は与太でもこの認識はあった、
あるいは周りからそう思われてしまうような状況だったのかね
0831人間七七四年
2011/09/19(月) 07:52:15.45ID:OxbXpGVL>でも恐らく国綱は相馬氏のように江戸で大名復帰運動してたのではないかと思う
だろうな。
死去時に浅草に居たのも、そういう理由だろうし。
相馬氏は外様で大大名の伊達氏への牽制役として使えたので、旧領復帰が叶った。
関東から外様がほぼ消えた状況下で、わざわざ宇都宮氏を
大名に復帰させる必要性は無かったと。
0832人間七七四年
2011/09/19(月) 08:21:22.15ID:alz1j+Rg佐竹は史料豊富だよ。
茨城県史料中世編や秋田藩家蔵文書の膨大な量を見るべし。
もちろん北条や武田の文書量には全く敵わないが。
0833人間七七四年
2011/09/19(月) 10:33:32.97ID:TdreEtDC0834人間七七四年
2011/09/19(月) 11:59:57.90ID:Md7BLRd9佐竹関係書籍は豊富にある一次資料を無視して永慶軍記を丸写ししたような手抜き本ばかりだし
民間にもまだまだ資料が山ほど眠ってる
0835人間七七四年
2011/09/19(月) 15:11:42.95ID:TdreEtDC0836人間七七四年
2011/09/19(月) 17:20:13.90ID:PGzm/wOP里見ですら、佐藤博信・滝川恒昭クラスの人がいるというのに。
0837人間七七四年
2011/09/19(月) 19:39:28.49ID:quEOO99C0838人間七七四年
2011/09/19(月) 20:22:21.93ID:ds6CTBIr0839人間七七四年
2011/09/19(月) 20:34:02.22ID:alz1j+Rg藤木久志 市村高男 佐々木倫朗 今泉徹
好きなの選べ
>>837
冗談きついww
でも、怖いもの見たさってやつで、黒田氏の書く佐竹の戦国史をいつか読んでみたいなw
「佐竹義重は永禄○年に北条氏康に従属し、○年に離反した」
とか目を疑うような記述が満載だろうねw
0840人間七七四年
2011/09/19(月) 23:21:27.59ID:JmShEyj9変に贔屓したり自分の想像で書いたりせずに資料の解析のみに徹しているから信頼できる
0842人間七七四年
2011/09/20(火) 09:30:43.30ID:cZxMxFF/0843人間七七四年
2011/09/20(火) 10:20:18.43ID:eNwFf4nx渋「江」内膳の間違いと思っておk?
茨城訛りか?
0845人間七七四年
2011/09/20(火) 22:18:08.42ID:fx/fbqOr市村が具体的にどう偏ってるの?
0846人間七七四年
2011/09/20(火) 23:12:15.47ID:jqjfj97D黒田といっしょ
ときどきに肩入れしているサイドがある
そこに至るまでに史料をあげるけど
論拠なしに結論にいっていることがチラホラあるよ
そこの結論に至った論拠をなぜ示せないのかと
0848人間七七四年
2011/09/21(水) 01:57:45.50ID:cWJpBq/9必死だにならなくても自分が偏ってないと思っていればいいんじゃないか?
それも人によっての印象だろう。
0849人間七七四年
2011/09/21(水) 02:00:13.35ID:tzUukJC80850人間七七四年
2011/09/21(水) 02:20:04.81ID:McEfLPeG0851人間七七四年
2011/09/21(水) 12:41:12.09ID:XdfUXbYe0852人間七七四年
2011/09/21(水) 20:30:36.76ID:IMi/EJTg0853人間七七四年
2011/09/23(金) 20:35:25.21ID:mtDxpCDR多気山城って惣構えだったんだな。知らなかった。
0854人間七七四年
2011/09/23(金) 21:13:05.83ID:9jw5HCXA城域の外側に堀と土塁の遺構の一部が見つかっただけで、(しかも現在は消滅)
惣構があったかどうかは分からんよ。
西ヶ谷のその本の解説文、酷過ぎるよね。
「天正13年の戦いは、宇都宮勢が岩城に出陣中に小山秀綱が襲来したもので、佐竹義重が後詰となった。
翌年五月の合戦は後北条、小山、佐竹が多気山を直接攻め、大手の大谷口で合戦となった。
この時、佐竹軍は小山に駐屯し、北条氏照の指揮下にあった」
「佐竹が後詰に来た」という書状を、宇都宮支援のためではなく、
何と北条氏照の命令で宇都宮を攻めに来たと誤読してる。
一体どうやったらこんな間違い犯すのかね?
黒田基樹ですらこんなこと書かないよ。
0855人間七七四年
2011/09/23(金) 23:24:47.35ID:xKlNgFie0856人間七七四年
2011/09/24(土) 01:27:32.68ID:Dnp0gP6B0857人間七七四年
2011/09/24(土) 20:39:56.35ID:7EUtQe2W凄すぎるw
宇都宮氏が宿敵の那須氏や、宇都宮を攻めるような関係の佐竹氏の領地をどう掻い潜って岩城を攻めるのだろうか?
とか、書いてて疑問に思わなかったのだろうか
しかも何故宇都宮を攻めるのに小山に駐屯したのか謎過ぎる
0858人間七七四年
2011/09/24(土) 22:37:02.40ID:CTrOPpry俺が読んだ本には
岩城だの小山は出て来なかったから、多分それは別の本。
多気山城に限らず、惣構の全容を遺構・遺跡として
証明するのはハッキリ言って無理だと思う。
町人が住んでた区域なんて宅地化・農地化などの土地改良、
道路整備で消滅してて当然。
惣構があった可能性は高いと思うけどな。
宇都宮城下を焼かれて移ってきた訳だし、移転先でも簡単に
放火されるような構造の城下にはしないだろ。
多気山城って本拠だったのは約5年で、高度な惣構があったとは思わないが。
0859人間七七四年
2011/09/25(日) 02:18:43.66ID:KxZqS004宇都宮城は依然として健在だったし、多気山城は詰め城的なものだったと思う
基本的に宇都宮城と多気山城の二城に篭っていたし、宇都宮城は放棄していない
恐らく商業地は宇都宮のままで一部の武家屋敷だけ移したものと思われる
戦国末期には城がどんどん肥大化して近隣を飲み込んでいるから総構えはあっても不思議ではないね
ただ、江戸時代に見られるような計画的な町割りをしていたのかは謎
城を広げていく過程で、結果的に集落を呑み込んでいったという側面もあるのではないかと考える
常陸の小幡城も外郭は極めて広範囲に及んでおり、集落も取り込んでいたと見て間違いない
これも総構えと言えなくもない
0860人間七七四年
2011/09/25(日) 22:51:42.02ID:JX4oIi3e県史や市史その他の各種資料にも載ってる。
宇都宮城周辺の地名が多気山周辺にも残っていて、
それも塙田や下河原のような明らかに町人百姓が住むような地名だから
武士だけでなく民衆も移転したんだろう。
誰も宇都宮城の方を放棄したとか廃城にしたとは書いてないぞ。
ちょっと取り違えが多すぎじゃないか。
0861人間七七四年
2011/09/26(月) 17:46:43.60ID:UTy1W1EG宇都宮市史にも栃木県史にもそんな事書いてない
北条勢などに攻められた時は宇都宮城を有力家臣に預けて国綱は多気山城に篭った
多気山城は一大「軍事拠点」となった、と書いてあるだけ
宇都宮家系図でも多気城と宇都宮「本城」と記されているし
那須記などでも多気山「出城」と記されている
0862人間七七四年
2011/09/26(月) 19:14:32.76ID:VCjotlXb0863人間七七四年
2011/09/26(月) 21:24:23.57ID:QZO1bXTz>那須記などでも多気山「出城」と記されている
元は出城だから、そう表記される場合もあるだろう。
小田原征伐後、秀吉が宇都宮城に着陣して11日間滞在して宇都宮仕置を行う。
奥羽の各大名(と、その軍勢)も宇都宮に滞陣して秀吉との引見も行う。
秀吉が来る半月前には宇都宮城は増田等の豊臣勢に接収されていた。
帰り道でも秀吉は宇都宮城に10日間滞在。
秀吉が黒川城へ行く間も豊臣勢の一部は宇都宮城で待機してただろう。
という事からすれば、宇都宮氏の政調機能、家臣団、町人街も
多くは秀吉が来る前から多気城に存在してたという事。
それは本拠の移転と捉えるのが普通。
何より知名に町人地の地名が残ってんだから。
移転して5年という短期間で後北条の脅威が無くなったから、文書に残らなかっただけで。
宇都宮城も単なる支城ではないから、有力家臣が配されるのは当然。
姓と同じ名の城だから、本城と強調してるだけだろ。
0864人間七七四年
2011/09/26(月) 21:46:48.94ID:ggiaxP0y本拠移転の問題も同じ。
所詮推定に過ぎないんだから、あまり強弁しすぎるのは良くない。
「おれは遷した可能性が高いと考える。なぜなら・・・」くらいの書き方にしとけばいいんじゃない。
0865人間七七四年
2011/09/26(月) 22:21:48.81ID:QZO1bXTz>恐らく商業地は宇都宮のままで一部の武家屋敷だけ移したものと思われる
少なくともこの部分は推測としてもほぼ当たらないだろ。
戦国時代に「一大軍事拠点」を作るというのは
単に詰城レベルの話ではないだろう。特に追い詰められてる側なら尚更に。
勝頼が新府へ移転したのを詰城に入るとは誰も言わないようにな。
0866人間七七四年
2011/09/26(月) 22:33:51.75ID:QZO1bXTz豊臣勢に差し出していた事も俺個人の「推測」ではなく、公式記録に残っている「事実」だから。
本拠機能がある城をものの数日で、自分から明け渡したり出来ないだろ。
0867人間七七四年
2011/09/26(月) 23:50:13.07ID:YFAbinI/敵が攻めて来た時に宇都宮を出て多気山に篭ったと書いてあるわけだが
つまり平時には宇都宮にいたと考えるのが普通
本拠地を移したとは何処にも書いてない
姓と同じだから本城と強調してるとか滅茶苦茶過ぎる理屈
そもそも多気山に商業地まで含めて本拠地を移したとか一体何が論拠になってるの?
書状類から軍記まで一通り見てみたけど多気山本拠移転の話は見つけられなかった
豊臣方の調書でも宇都宮氏の本拠は宇都宮城となっていて多気山は書いてないし
それに宇都宮城を豊臣に差し出したとか接収したなんて何に書いてあるの?
小田原征伐以後も宇都宮城は宇都宮氏のものだし、秀吉は単に滞在しただけでしょう
0868人間七七四年
2011/09/27(火) 00:56:41.54ID:DsgQ91tU1512年10月 鹿島景幹が下総米野井で討死
1522年月 島崎利幹が長山氏を攻め滅ぼす
1524年月 鹿島氏の内訌に江戸・大掾・島崎・小高・玉造・武田氏らが加担して鹿島義幹が城を追われる
1524年月 高天ケ原の戦いで鹿島義幹が鹿島・島崎氏に討たれる
1530年月 烟田泰幹が鉾田から大和田に逃れる
1531年2月 小田政治と江戸通泰が鹿ノ子原で合戦
1532年月 江戸忠通が小幡義清を誘殺して小幡城を奪う
1533年月 武田氏が木崎砦を築く
1536年月 玉造宗幹が島崎利幹と南郷で戦い富田城を奪う
1536年月 烟田泰幹が鉾田に復帰
1538年月 烟田泰幹が烟田に本拠を移す
1546年月 江戸氏の助けを得た園部兼彦が小田氏から園部城を奪還
1546年月 大掾慶幹が長者原で小田政治・小高直幹を破り小高城を奪う
1559年月 江戸・大掾・玉造・武田氏らと小田・小高氏が柄ケ崎で戦い江戸氏らが勝利
年月 烟田氏を牽制するために鹿島治時が鉾田に城を構えて3男・義清を配す
1563年2月 小田氏治が三村合戦で大掾貞国を破る
1564年1月 上杉輝虎らが小田城を攻め落とす
1566年月 武田通信が烟田忠幹の所領3ケ村を侵略
1568年3月 鹿島氏重臣・津賀大膳が暗殺される
1569年3月 千葉氏派・鹿島氏幹と江戸氏派・鹿島義清兄弟が軍事衝突
1569年6月 鹿島治時が義清派の烟田忠幹を夜討ち
1569年7月 鹿島治時が烟田忠幹を降伏させる
1569年10月 鹿島氏幹が家中の島崎某に暗殺される
1570年4月 江戸重通の妹婿・鹿島義清が家督
1571年月 武田信房が野友城を築く
1571年月 鹿島氏と武田氏が和睦
塚原卜伝のドラマスレにレスしたいから鹿行周辺について訂正と加筆おねがい
0869ついでに作った
2011/09/27(火) 00:58:55.10ID:DsgQ91tU‖――――宇都宮成綱 平野重資
┌佐竹掃部――女子 ‖
佐竹義人―┬佐竹義俊―┴佐竹義治――佐竹義舜――女子 ┌女子
│ ‖ │小山高朝――女子
│江戸通勝―┬江戸通雅―┬江戸通泰―┬江戸忠通―┤ ‖
│ │ │ │ ‖ ├江戸通政―┬江戸重通
│ │ │芳賀高経――女子 │ ├女子
│ │ │ │ │ │ ‖
│ │ ├女子 └女子 │烟田忠幹――烟田通幹
│ │ │ ‖ ‖ │ └女子
│ │ │宍戸政家――宍戸政里 │ ‖
│ │ ├女子 │鹿島治時――鹿島義清
│ │ │ ‖――――女子 └女子
│ │ │鹿島景幹 ‖ ‖――――額田照通
│ │ └女子 ┌鹿島通幹 額田篤通
│ │ ‖ │
│ └女子 岩城由隆 │
│ ‖――――大掾高幹―┴大掾常幹
│ 大掾清幹┐ 土岐原治頼―女子
│ └―女子 ‖――――芹沢国幹
│小高兵部――女子 ‖――――芹沢定幹
└女子 ‖―――┬芹沢秀幹
‖――――芹沢範幹 └女子
芹沢俊幹 ‖――――島崎氏幹
島崎利幹
0870人間七七四年
2011/09/27(火) 01:04:56.94ID:v4Xgzol4そもそも高天原の戦いは大永四年で確定なのか?
どうも調べてもはっきりしないようなんだが。史料の裏付けも期待できないし。
0872人間七七四年
2011/09/27(火) 21:29:18.32ID:2VnhGhWx0873人間七七四年
2011/09/28(水) 00:28:16.19ID:Zf18f4wt0874人間七七四年
2011/09/28(水) 00:42:54.03ID:7I/uI2M1島崎利幹⇒島崎忠幹、島崎氏幹⇒島崎利幹かも
>>870
1526年な気もするけど、そこいら辺も直してほしい
皆川俊宗
‖――――皆川広照
┌女子
┌水谷正吉―┴水谷正村――女子
水谷勝吉―┴女子 ‖ ‖
‖ ‖ ‖
結城政朝―┬結城政勝――女子 ‖
‖ ├小山高朝――――――――結城晴朝
┌宇都宮成綱―女子 └女子
└宇都宮興綱 ‖――――宇都宮広綱┌宇都宮国綱
‖――――――――――宇都宮俊綱 ‖―――┴結城朝勝
┌小田成治女 ‖
└小田成治女 ‖
‖――――――――――佐竹義昭――女子
佐竹義篤
0875人間七七四年
2011/09/28(水) 02:55:41.86ID:DjXleAB2http://blog-imgs-46-origin.fc2.com/z/i/p/zipperzipper/0185.jpg
0877人間七七四年
2011/10/02(日) 01:19:49.30ID:hekGFqUV南(鹿島か中居)から圧迫されたってこと?
鉾田から烟田への移動は武田氏?
0878人間七七四年
2011/10/04(火) 12:32:54.12ID:3TrVGJX5おつ
0879人間七七四年
2011/10/07(金) 18:07:30.15ID:r0motI9+0880人間七七四年
2011/10/07(金) 23:44:38.58ID:oiuYE2hb0881人間七七四年
2011/10/09(日) 08:59:00.78ID:D9AhLmf/今さらなんだがちょっと待った。
那須高資の実母である岩城常隆の娘が輿入れしたのは1521年だからそれはおかしい。
那須政資の継室に大田原の娘が入って資胤が生まれるのは少なくともこれ以後のはず。
0882人間七七四年
2011/10/10(月) 07:55:23.92ID:koPUepws0883人間七七四年
2011/10/10(月) 13:19:20.51ID:JgKN2Md+1542年の復帰後、その年のうちに娘を継室に出して資胤を懐妊した
と、考えるしかない
0884人間七七四年
2011/10/12(水) 01:38:00.78ID:XExbXqJ2何月に復帰したか知らんけどおそらく年は越すだろうから1543年に資胤が生まれたとしよう。
となると1557年に息子資晴が生まれた時に資胤の歳は多く見積もっても14歳(数え年15歳)か…
当時の結婚の基準なら無理ではないがスレスレだな。
0885人間七七四年
2011/10/12(水) 22:42:19.45ID:ljHUqsOK那須氏は不明な点が多いから、どこかで間違ってる可能性が高いな
0886人間七七四年
2011/10/13(木) 22:10:49.14ID:vm8V9Ctq0887人間七七四年
2011/10/16(日) 12:51:37.33ID:1jl+/a2q0888人間七七四年
2011/10/16(日) 13:19:02.22ID:u3L4YeJ60889人間七七四年
2011/10/16(日) 14:12:20.90ID:NSJeTfb40890人間七七四年
2011/10/16(日) 17:23:32.68ID:hZeWwgU8結婚してるから妊娠させても無問題
しかし母子の死亡率を考えると大問題
「死んでも代わりはいくらでもいる」が大前提
0891人間七七四年
2011/10/16(日) 22:47:34.75ID:Hn9jM1Cs正妻は政治的意味合いが大きいから粗末には扱えないし
セックスするだけなら相手はいくらでもいる
0893人間七七四年
2011/10/17(月) 17:09:24.47ID:rnAtqrRV輩出しているよね。
勝宗の時代には譜代大名になってるし。
ま、その後お家は廃絶になっちゃうけど…
0894人間七七四年
2011/10/17(月) 18:21:14.62ID:ty8+M/p/0895人間七七四年
2011/10/17(月) 20:14:35.77ID:rnAtqrRV役は先手鉄砲組頭だったので役高1500石なんで、
計5000石取りの立派な寄合旗本扱いだったみたい。
幕政においては水谷勝久が鬼兵こと長谷川平蔵の
後見役をしていたらしい。
0896人間七七四年
2011/10/17(月) 20:29:01.27ID:9Wga+kfF0897人間七七四年
2011/10/17(月) 23:21:22.86ID:RznOKSy90898人間七七四年
2011/10/18(火) 00:15:54.03ID:eeMeUflb嫁入りしたりされたりがあったみたいだな。
0899人間七七四年
2011/10/18(火) 16:00:16.14ID:I9in7AK3反小田勢力に加わらせるよう工作したのが
水谷治持。その後真壁が佐竹傘下になっても
私的な交流はあったのかも。
鬼真壁の墓も下館の定林寺にあるしね。
0900人間七七四年
2011/10/18(火) 17:50:16.65ID:4IMIXmpBその相手は氏幹入道道無とあって、氏幹なのか、あるいは
父の久幹(道無)の方なのかはわからんけど。
0901人間七七四年
2011/10/18(火) 18:46:47.20ID:I9in7AK3多賀谷、水谷、山川…あとひとつは何家?
ひょっとして小山なの?
0902人間七七四年
2011/10/18(火) 19:18:21.23ID:K7zIpGD7そういや岩上二郎って茨城県知事いたね
0903人間七七四年
2011/10/18(火) 20:56:42.85ID:4IMIXmpB結城単独スレもあるけどね。
0904人間七七四年
2011/10/18(火) 21:11:37.55ID:4IMIXmpB0905人間七七四年
2011/10/19(水) 23:05:51.40ID:GgFq7/UE多賀谷や水谷はセーフだけど
0907人間七七四年
2011/10/20(木) 01:04:12.74ID:cZGH5aHD0908人間七七四年
2011/10/20(木) 01:40:34.69ID:cZGH5aHD0910人間七七四年
2011/10/21(金) 01:08:04.94ID:hwmFEi740911人間七七四年
2011/10/21(金) 08:12:14.55ID:2tJKaWVy同時代の史料ではどうなんだって話が聞きたかったんだが。
0912人間七七四年
2011/10/21(金) 17:23:13.34ID:imAsbXl6芹沢鴨につながる一族なのですかね?
0913人間七七四年
2011/10/22(土) 01:08:03.11ID:S/29rArL小田から諱をもらうような関係だったんでしょうよ
0915人間七七四年
2011/10/22(土) 12:35:15.77ID:5iwbLZpT北条から諱をもらうような関係だった氏幹は佐竹側に行っちゃいましたね。
0916人間七七四年
2011/10/22(土) 19:50:56.71ID:zJGML9a8真壁氏幹の氏の字は、小田氏治からもらったと考えてる学者って誰か実在するの
0917人間七七四年
2011/10/22(土) 20:21:55.58ID:8Q4zD1gS0918人間七七四年
2011/10/23(日) 00:49:47.06ID:W64qSnZz0919人間七七四年
2011/10/23(日) 00:50:52.28ID:W64qSnZz0920人間七七四年
2011/10/23(日) 01:41:49.57ID:bH6DM4gM義幹の諱と違って与えた側からの書状が残っているわけではないから一考の余地はあるね。
0921人間七七四年
2011/10/23(日) 06:07:27.22ID:uxu4O5E5氏幹が元服する頃は一字貰うような関係だったとも思えない
古河公方や小田と考えた方がしっくりくる
0922人間七七四年
2011/10/23(日) 12:26:26.75ID:7bQ/wnp30923人間七七四年
2011/10/26(水) 01:31:07.98ID:h98Bi+i5弟 義幹 1552〜1630 1561年佐竹義昭より偏諱(真壁文書)
義幹のが先に元服したのか?
掘るとちょっとおもしろいかも
0924人間七七四年
2011/10/26(水) 14:10:19.92ID:fpKjzR2O家老にまで出世してるんだな
0925人間七七四年
2011/10/26(水) 14:11:36.29ID:fpKjzR2O宇都宮家の家老ではなく久保田佐竹家の家老
0926人間七七四年
2011/10/27(木) 12:17:00.72ID:M+mRfwTt久保田の宇都宮(真壁から婿養子)が新政府側につこうとゴリ押ししたっけ。
0927人間七七四年
2011/10/27(木) 14:18:15.44ID:ti72oIXI0928人間七七四年
2011/10/27(木) 23:51:52.30ID:6cRwWqCTその辺は久幹や氏幹が当主としてすぐれた政治感覚と統率力を持っていたってことかな。
0929人間七七四年
2011/10/30(日) 21:40:34.03ID:OOWkpE4Tアッ────── !!!
0930人間七七四年
2011/10/31(月) 00:58:27.13ID:r07UySh80931人間七七四年
2011/10/31(月) 09:14:25.36ID:iWP76NYX0932人間七七四年
2011/10/31(月) 18:52:39.08ID:r07UySh8結城朝勝子孫→久保田藩家老
芳賀高武子孫→水戸藩?
芳賀は伊達か上杉、越前松平に仕えて欲しかった
0933人間七七四年
2011/10/31(月) 22:57:50.87ID:edKVHtMz0934人間七七四年
2011/11/01(火) 00:01:59.80ID:RQxMXl/7晴朝庶子名乗ってるが実際は白河結城氏庶流中畠氏っぽい
因みに白河の子孫は
白河本家→久保田藩士
小峰氏(本家簒奪済?)→仙台藩家老
中畠氏→水戸藩家老
水戸藩と久保田藩は西の細川と並んで没落名門の引き取り口だからな
本当は引き取るべき上杉喜連川がボロボロだからってのもあるけど
越前松平に仕えた名族もいるの?
0935人間七七四年
2011/11/01(火) 09:11:45.62ID:mGCKINIz0936人間七七四年
2011/11/01(火) 09:23:32.01ID:lWSfc+060937人間七七四年
2011/11/01(火) 09:45:19.64ID:mGCKINIz0939人間七七四年
2011/11/02(水) 12:48:24.61ID:WiH/8zFw越前松平配下で関東名族の城主レベルだと
岩上朝堅、多賀谷三径、山川朝貞、梶原政景、太田資武、小田氏治、岡見治広、上三川成業、江戸宣通、春秋重元
あたりかな
0940人間七七四年
2011/11/07(月) 01:31:04.88ID:TbeyemuJもちろんそれもあるだろうけど
大掾一族の中では地理的に孤立してる場所に本拠があったのが大きい。
鹿島や行方の辺りに居たら、最終的には33舘の主と共に誘殺されてたと思う。
0941人間七七四年
2011/11/07(月) 10:58:11.31ID:fwJRbPv+元は大掾宗家と接していたのだろうけど、小田氏が八郷方面に進出した事で孤立したのだろう
武茂氏や鷲子江戸氏みたいな立ち位置だは
地理的に見れば小田氏に従うのが自然
後に佐竹方に転身するが、これはこれで孤立している気がするが
0942人間七七四年
2011/11/07(月) 12:23:26.29ID:MOfACUBXでもって、太田三楽が中郡を押さえれば、常陸南部の戦線がつながり
北条の北上を防げると…。
0943人間七七四年
2011/11/07(月) 18:15:17.84ID:3sfYJY38いや、地理的に微妙な場所にいたから真壁は立ち回りがうまくなったんだろ。
そのifは無意味すぎる。
0944人間七七四年
2011/11/11(金) 00:29:56.76ID:5IugzRXZへぇなんていうの?氏幹の初名
0945人間七七四年
2011/11/11(金) 01:27:29.07ID:gl6HPxDs0946人間七七四年
2011/11/11(金) 10:31:21.98ID:Vasyl/xu名前も地味だな
0947人間七七四年
2011/11/11(金) 23:34:12.63ID:MRWbtkKG庶流は佐竹でかなり出世してるけど
0948人間七七四年
2011/11/16(水) 00:37:46.77ID:si960SEY東武志(鹿島景幹)
須田邦裕(鹿島義幹)
永島敏行(松本備前守)
田山涼成(塚原土佐守)
中村錦之助(吉川覚賢)
石井英明(吉川常賢)
堺雅人(塚原新右衛門)
松田悟志(玉造常陸介)
江波杏子(物忌・龍子)
藤田三三三(当禰宜)
伊藤星(物忌・采子)
時代考証・峰岸純夫・飛田英世
0949人間七七四年
2011/11/16(水) 22:35:53.35ID:bEuwzald0950人間七七四年
2011/11/17(木) 00:07:48.75ID:G6y8FUWw0951人間七七四年
2011/11/17(木) 09:24:47.04ID:T/Rp0YA9かといってときどき話が出る鹿島とか真壁程度では微妙だし、
話題の多い結城も下総だしなあ。
0952人間七七四年
2011/11/17(木) 13:40:44.88ID:ROfURNrL0953人間七七四年
2011/11/17(木) 18:29:29.64ID:Wvoim81E佐竹を中心に、この地域の小大名が連合して北条に対抗した歴史的意味でも
洞中という珍しい家中構造を共通して持つという意味でも、
佐竹と比較したり敷衍したりするのは避けられないから。
でも、結城の話題を入れたいのは同意。
次スレは「常陸・下野・下総の戦国大名」にしない?
0956人間七七四年
2011/11/17(木) 22:56:06.04ID:3fiITyjvどちらかと言うと武蔵と統合すべきかと
下総は良いと思う
結城氏、多賀谷氏、水谷氏などは佐竹氏、宇都宮氏と非常に関係が深いし
あと、鹿島氏と香取氏とか
0957人間七七四年
2011/11/18(金) 09:06:25.30ID:NvNEr2Ncスレタイに結城が入っても不自然ではなくなる。
0958人間七七四年
2011/11/18(金) 15:53:40.37ID:++DX8393常総野州じゃダメ?
0959上杉景勝・北条氏政
2011/11/18(金) 17:57:49.76ID:b7efn0uV0960人間七七四年
2011/11/18(金) 18:13:01.23ID:kUZ7nhJmくたばれ
【東方之衆】 常総野の戦国大名2 【佐竹・宇都宮・小山・結城・小田・那須】
長いかな?
0961人間七七四年
2011/11/18(金) 20:24:18.05ID:umlTHGZA0963人間七七四年
2011/11/19(土) 14:12:25.08ID:IVd1crYR【宇都宮・那須】 下野の戦国大名2 【小山・佐野】
【結城】下総の戦国大名【千葉】
の分立でいいだろ。
微妙に立場が違うものを一緒にするのは無理
0964人間七七四年
2011/11/19(土) 23:11:59.68ID:sCpDayPoそれに常陸下野合同でも1000まで5年3ヵ月もかかったのに
分離したら間違いなく保守カキコのみのスレになるか落ちるかだと思う
0965人間七七四年
2011/11/19(土) 23:32:11.62ID:NccLOyhe逆に、結城と千葉を一緒にして「下総の戦国大名」とするのは、非常に違和感が。
結城の本領が常陸下野の三国に跨ってる上に
旗下三家(多賀谷・水谷・山川)の所領まで加えると、下総が本拠と言えるのかすら怪しくなるくらい。
小山との強固な結びつきもあるし、
可能であれば、東関東・常総野のくくりで語った方が、はるかに有意義
0966人間七七四年
2011/11/20(日) 01:01:17.49ID:H+yA7seU0967人間七七四年
2011/11/20(日) 08:45:33.51ID:bDn5oFkD0968人間七七四年
2011/11/20(日) 08:46:48.66ID:bvkb6op10969人間七七四年
2011/11/20(日) 09:44:26.48ID:6HyfvM6J0970人間七七四年
2011/11/20(日) 19:52:48.97ID:dEYclyI60971人間七七四年
2011/11/21(月) 00:06:45.66ID:1N28osFaそれだw
でも、あまり細かすぎると気付かれない恐れがあるし
現行のスレタイでいいんじゃないの?
大名がしぼれないなら「常陸下野の戦国大名」だけでいいかと
もしくは大名の名前じゃなくて他のサブタイトル付ければいいのでは?
たまに結城氏の話題出ても「スレ違いだ!」と目くじら立てる人もこのスレにはいないし
0972人間七七四年
2011/11/21(月) 13:09:50.67ID:DrOOob4W観点いいっな〜。利根川以東の戦国武将は
他の地域と違って守護地頭色を色濃く残してますもんね
0973人間七七四年
2011/11/21(月) 18:49:34.02ID:DKl+3U5X0974人間七七四年
2011/11/21(月) 23:38:01.00ID:zURo4hl7だから利根川水系が武蔵下総の国境になっていた
そして利根川を境に後北条らの新興勢力と上杉、佐竹、宇都宮らの守護系勢力が異なった体制を敷いた
そして更に西部は管領の上杉系の勢力、東部は古河公方の足利系の勢力と分かれていた
まあ、年代によって少しずつ変化しているが大まかに見ればそう言う分け方ができる
研究家の中にもこの分類を使っている者が結構いる
0975人間七七四年
2011/11/22(火) 11:33:27.85ID:f/IRvYkkスーパー堤防が防ぐ水量ハンパねぇぞ。
まじ怖い。
上流にダムがあってもあの怒涛ぶり。
0976人間七七四年
2011/11/23(水) 10:15:38.00ID:0crllVbL次スレ
0977人間七七四年
2011/11/23(水) 11:27:10.39ID:Df9pa0ruhttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1322006429/
で下野は分離独立したが、常陸はどうするね?
0978人間七七四年
2011/11/23(水) 23:39:02.07ID:/f2TzWQ1常陸は必要ないかな
常陸は佐竹抜きでは語れないから佐竹スレだけで十分
佐竹と関係が薄いのは岡見や江戸崎土岐辺りだけど今まで一度も話題になった事ないし
0979人間七七四年
2011/11/23(水) 23:48:16.22ID:v6woXd9phttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1322059640/l50
0980人間七七四年
2011/11/24(木) 13:19:25.77ID:31s07uUo最近のネタも結城、真壁あたりが主流だし…。
0981人間七七四年
2011/11/24(木) 14:04:14.68ID:F9F4EJHV宇都宮から小山以東の話題ばかりだしな。
新幹線以東とも言うか。
栃木県の投資も集中してるからな。
人口も宇都宮集中で
群馬県みたいに前橋、高崎、伊勢崎、太田のような
バランス人口分布になってない。
0982人間七七四年
2011/11/25(金) 02:37:42.29ID:PmwlmwGsレス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。