毛利家が天下を取るには
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 02:19:07ID:y1ZtxQc4武田家なんかよりよっぽど可能性があると思うが、どうか。
0002名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 02:22:49ID:eDRsVSYo石高は少ない。
銀山などで収入には恵まれていたようだが。
0003名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 02:26:05ID:8kO/aKtt0004名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 03:29:49ID:U/ZiC8Ds0005名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 07:37:23ID:Agsr1R2Pいかんせん輝元がガキすぎて、家のまとまりに不安があった。
0006名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 16:32:21ID:D3UAfcda後は秀頼公の守役となりキャスティングボードを握る、天下の2として生き残る。
0007名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 18:44:08ID:GYL6Cwo7ムリムリ
まぁ頑張れって感じだね
0008名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 19:07:14ID:tZwWs1ib中国でじっとしてれば、自然と転がり込んでくる
0009名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 19:09:12ID:QfthvKK5それが一番ベターな毛利の天下だろうね。
一応豊臣摂関家を頂く執権として事実上の武家の棟梁となり
しかも元就の遺言に一応そむいていないw。
毛利が天下を望んだんじゃなく豊臣の天下を護持して
あと縁戚関係でそれを乗っ取った。
まさに元就好みの天下取り
0010名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 19:11:26ID:EA2gFxtv平成の今まで長州藩の連中は甘い汁を吸えるぞ。
0011名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 19:23:39ID:HQSqmV1Cまあ、実質的に天下を取ったよなw
0012名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 19:29:33ID:eDRsVSYo0013名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/22(火) 00:28:55ID:md2beA4l0014奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2006/08/22(火) 22:28:00ID:tTrxbVBZ0015名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/23(水) 17:49:13ID:+tKOnZAbその時九州から撤兵しているが、その時点で戦略を東に向けていればと・・・
もともと毛利は地政学的に有利な点が多い。
一、北、西、南と海に囲まれていて攻められにくい。
一、大内、尼子と倒し、残る強敵大友は九州で手一杯。
一、瀬戸内の制海権を握っていて京への距離が実際よりも近い。
その他にも
一、下っ端国人からの成り上がりで、伝統、しがらみが少ない。
一、家中の大物、吉川、小早川が叔父さんで仲良し。
後を継いですぐって訳には行かないだろうけど、両川に支えられながら
信長討伐令って言う大義名分をもって東上すれば道中の大名も味方になり
3万の大軍で入京。武田の始動もちょっとだけ早まり織田は美濃まで撤退。
長門、周防、石見、安芸、備後、出雲、隠岐、伯耆、因幡、美作、備中
和泉、河内、山城14国を支配する毛利 (*゚д゚*)モエー
元就が余計な遺言残さなければと・・・
0016名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/27(日) 04:19:38ID:a8ag/IN6両川が「輝元は阿呆だからだめだ」
って言ってるから。
0017名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 16:29:31ID:Tx0cj5gO毛利の支配できる能力限界。
0018名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 17:01:11ID:ngyQRH/7まあ九州の方向に固執したら畿内は遠のくと思うけど。
両川が兄に従うという形で、一枚岩の状態なら相当展望は明るかったと思うんだが。
隆元急死で、すべてご破算というかなんというか。
輝元が幼少で、両川が主導権握り始めると本家の力がおちて、内紛という状態に
なるかもわからんので、元就としては外を向かず外敵にそなえよとの方針だった
んではなかろうか。元就死後外に向かうとなれば、元春か隆景のどっちかが
主導的な立場にならざるをおえんだろし、あの二人の性格からして行く先は決裂・分裂
って方向は十二分にありえるからな。返す返すも隆元が生きてたらどうなっていたかは
気になるなー。1523年生まれで信玄より二つ上か。 信長あたりとも
老獪に戦えそうな感じはあるよな。
0019名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 17:06:42ID:fNBpDd2V毛利両川が上手く機能したのは、
元就という重石あるいは保護欲をそそられる甥の輝元という存在故だと思う。
むしろ実に良い時期に死んだ。
0020名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 20:55:05ID:BrD9fWgz当主と同等の発言力を家臣も持っていたらしいな
隆元に家臣が「俺たちがお前を持ち上げてるからお前は当主でいられるんだぞ」
と言ってる記述が残ってるとか
連判状も横ではなく輪にして書くのが毛利流だそうだ
横だと後先があるが、輪だとそれがない
毛利家では上下関係をなくすため輪の連判状なんだとよ
0021奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2006/08/30(水) 20:57:46ID:zEtBftvc0022名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 21:01:45ID:J/x9dh+G元就時代は土豪小大名の連合体以外の何者でもないからな>毛利家
それが急速な拡大も可能にしたし、逆に成長の限界も作ってしまった。
0023名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 10:44:08ID:sBSHaRmmその弱点を補うには関が原戦後の処分おまたないといけなかったんだな。
毛利に“東海筋の徳川の関東移封”に匹敵するものがあればよかったわけだ。
となると秀吉からの輝元への九州移封の打診をうけていれば
よかったんだな。
まんざら悪い話でもなかったわけだし。
石見と長門周防をそのままで九州の筑前筑後豊前豊後と四国の伊予を中国筋に代わりに宛がう
ってんだから瀬戸内の制海権と石見をそのまま交易の要衝筑前とかを手に出来て
しかも近世的大名への脱皮も、大規模移封にともなう再編で可能になったわけだし。
そもそも小早川隆景が秀秋を養子に受け入れざるを得なかった理由が
毛利一族の九州移封を阻止したためのやむをえない政治的譲歩だったともいうし・・
この話を受けていれば小早川家の当主も秀包となってたろうし・・
0024名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 16:46:10ID:QFAdphVh0025名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 12:46:09ID:RfVS7tT0まったく同感。
追撃すれば羽柴部隊を壊滅できていた。
その後、毛利連合軍が明智軍を殲滅すれば
畿内を掌握できたのではないか。
柴田だの徳川だのは敵ではない。
元春・隆景・輝元が元就なみに勇猛果敢であれば
羽柴ごとき下賎な輩に臣従せずにすんだのに・・・
0026名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 02:43:46ID:kv9OBpxhまずその連合体を解消して、織田家のように
毛利家を頂点にした形にしなければ、話は進まないんじゃ?
0027名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 13:38:12ID:Z1QuI6/m元就が九州に見切りをつけ、大友は放っておく(もしくは停戦)。
元就死ぬも隆元奇跡の長生き。
宇喜多を先鋒にドンドン東へ進み、播磨ゲト。と、同時に黒田ウマー。
その後荒木も裏切り摂津ゲト。
秀吉が攻めてくるのに苦戦して停滞。
ここで、本能寺起きる。
秀吉が明智に勝つが、疲弊した秀吉を柴田と挟み撃ち。
山城ゲト。
この間四国を毛利水軍で閉じ込めておく。
ここで飽きた。
0028名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 01:37:36ID:fYFxRVqd戦線が伸びすぎないか?ソレ
畿内まで進出したとして、ソコに常駐軍を当面は置かねばなるまい
すると本国の守りは?生産は?補給線は?と言うことになる
仮に畿内まで進出しても、撤退するしか道が無い気がする
0029名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 05:52:38ID:wSiUniog本願寺にも別所氏にも鳥取城にも物資運んでるから。
運ぶ物資が用意できるのならばだけどね。
でも播磨の赤松氏は早い段階で織田に付いてるからなぁ。
0030名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 08:08:50ID:86fQa+vW元就がこう遺言していれば・・・
「我が魂を毛利庄へ導くべし」
0031名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 12:19:10ID:tlVWS1lk畿内制圧・室町幕府殲滅に向ければよかったのだ。
0032名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 13:29:22ID:zYhOVBKjなんて考え甘すぎじゃないか。
まあ成功したが。
0033名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 13:56:47ID:2nCmKKNh幕末あたりの長州藩は毛利家自体はほとんど政務を取ってないからな。
まあ多くの藩がそうなんだけど。
長州藩が天下取ったと言えても毛利家が天下取ったとは言いがたい。
つーかマジレスするの野暮だったかな。
0034名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 14:41:20ID:1wTP1yux逆にあれだけの領地がありながら天下を狙わせず
天下人の重鎮となるって元就の戦略と実行した息子達こそが凄いんだよ。
0035名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 15:39:13ID:zYhOVBKjそう、輝元はすごい。
支えた叔父もすごいわ。
領地は削られたが、生き残った。
0036名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 17:55:13ID:8q9IRUvm天下を取る方法?
そんなの天下は狙わず適当にその時の王者に屈しつつその王者が倒れそうな隙を狙う
歴史がそれを証明している
0037名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 18:11:24ID:2nCmKKNhだから、それは違う。
幕末に天下を取ったのは長州藩であり毛利家ではない。
0038名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 18:33:04ID:499suCTi0039名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 19:13:48ID:zYhOVBKj0040名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 19:35:38ID:qivmjpOL毛利連合軍は室町将軍家に総攻撃を仕掛けるべきだった。
室町将軍直属軍なんて高が知れてるんだから
室町将軍家もろともたやすく全滅できただろう。
0041名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 19:55:43ID:se8qTOxh0042名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 20:27:44ID:2nCmKKNh秀秋は関係ないだろう。
毛利は秀秋のいる小早川家を掌握してない。
むしろ取られただけ。
0043名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 22:41:31ID:oQZoWFZz0044名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 01:36:32ID:MNxQVmNu後々災いの種にもなりかねないと常々考えていたらしく、秀秋にこれ幸いと家督を譲った。
一連の養子問題も諸説あって、一族勢力を欲していた秀吉と
上手いこと自領を処理したがっていた隆景の思惑が一致したからというのも結構有力みたい。
0045名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 03:58:06ID:Qdm5vo4Jまず
・元就死後もイケイケで勢力拡大路線で突っ走って京に上洛する
当時、畿内に敵らしい敵はいないので(三好くらい)容易に上洛出来たはず
・本能寺の変後、光秀と手を結び、秀吉軍を追撃する。
そのまま、柴田、丹羽と織田残党勢力を倒して行けば、織田領も支配でき
しかも、他の大名から見れば織田を滅ぼしてくれた救世主として支持される
・関ヶ原で徳川本陣に突入する
全部、確率高く成功できると思うけど、全ては隆元の早死にと輝元の無能が原因だね
0046名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 04:23:30ID:Qdm5vo4Jこの場合、史実と違い、信長は京に上洛出来ないのだから飛躍的な成長ができない
なので最大の敵と言えば武田になるが、毛利家は将軍を擁し、中国、畿内と制圧してる為
双方の戦力差は圧倒的。毛利は普通に天下取れるだろう
次のチャンスは諸大名の共通の敵である信長勢力を討伐するのだから各大名の支持を受けれるのは必定
織田各軍団長を討伐する際は、まず家康は北条と挟み撃ち。柴田は、明智・上杉と挟み撃ち
この場合、最大の敵が九州を制圧しイケイケの島津。そして東北の伊達
島津は長宗我部と協力し、制圧。残る伊達は史実通り降伏するだろう
これで、九州、中国、畿内、東海を支配下に置いた毛利
関東の北条、北陸の上杉、四国の長宗我部、東北の伊達と毛利連合政権ができる
最後のチャンスは、まさに西軍の総大将として家康を討ち取るのだから
戦後は豊臣政権で敵なしの一大勢力になれ、三成も逆らえない存在になるだろう
0047名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 05:00:13ID:YX+p2Wnu0048名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 06:34:18ID:QaLb/aXVまず地理から勉強しような。
0049名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 06:42:47ID:kIXPl7E2あんたは数個前のレスも読んでないんだな。
あんたは斬新な意見と思って描いたのかもしれないが、
それは腐る程聞いた、散々、既出のネタ。
そして、それは毛利家ではなく長州藩が取ったというのも散々、既出の反論。
実際、幕末の毛利家は政務にはほとんどかかわってなかったし。
0050名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 06:51:45ID:edxIkUpL同意。
てか、長州だけじゃなくて、
薩長土肥、その他諸々の諸藩が活躍したのであって、
毛利が天下をとったわけじゃない。
0051名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 07:10:58ID:kIXPl7E2>ぶっちゃけ幕末まで待てば
>平成の今まで長州藩の連中は甘い汁を吸えるぞ。
今更だが、ちと指摘。
明治維新の時に起きた萩の乱、神風連の乱、西南戦争といった不平士族の乱が何で起きたか知ってる?
それは早い話しが長州藩や薩摩藩の士族の大部分が実は甘い汁をすえなかったからだ。
そもそも、薩摩長州などの倒幕運動に参加した大部分の志士たちの動機が
実は歴史小説などで書かれているような崇高なもの(例えば四民平等とか新しい日本とか)ではない。
ごく一部の思想や抗争を持っていた人間以外は戦国武士と同じような概念しかもってなかった。
つまり、大部分の幕末志士たちの意識はようするに「藩対抗天下取り合戦」でしかなかった。(続く)
005251
2006/10/03(火) 07:18:21ID:kIXPl7E2関が原後の勝ち組武士のようにたくさん所領を貰って豊かな暮らしが出来ると考えてたが
実際に来た明治維新の世の中は想像とは遥かにに違うものだった。
ごく一部の上級武士やの功労者は爵位を貰ったり政職についたりもしたし、
他に警官や軍隊などでうまくやった者もいたが、
大部分の武士は路頭に迷い、しかも廃刀令やら四民平等など武士の誇りを取り上げる政策がふりかかってきた。
それでも、いわゆる負け組の武士はそれでよかった。
なぜなら「自分たちはどうせ負けたんだから酷い目に合わされても仕方ない」と考えたからだ。
しかし、勝ち組の筈の薩摩・長州の武士はそうもいかない、
「自分たちは勝った筈なのになんで、こんな世の中になったんだ。何でこんな目に合うんだ」と屈辱を感じ反乱を起こしたというわけ。
皮肉なもんだね。負け組よりも勝ち組の方が結局は不幸になってしまうとは。
0053名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 14:17:32ID:ty3XsOAy元就が死んだのっていつだか知ってる?
どうして、隆景が追撃を留めたか知ってる?そもそも何故毛利は領国の半分を
差し出すなんていう講和条約を結ぼうとしていたか知ってる?
0054名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 16:09:35ID:5F++t/V1>領国の半分を差し出す
講和などではなく、事実上の全面降伏だな・・・
0055名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 16:38:33ID:I4QFfwzK(世界と呼ぶには狭すぎるが
0056名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 18:50:10ID:kIXPl7E2ちょっと違うな。毛利が割譲する毛利領東部の五カ国とは
毛利の武威に屈して配下になった諸豪族の割拠する土地で
実を言うと毛利にはあまり取られても痛くない土地だった。
ましてや毛利は天下を狙ってないし。
0057名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 19:05:41ID:/MtUBWWx毛利が秀吉を追撃できなかったのは羽柴軍が高松城に貯まってた水を
工夫して毛利軍の東側に放水したかららしいな。
0058名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 19:16:14ID:wHhbTZDs0059名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 20:22:29ID:jox8OYa2のちの話だが
割譲された5ヶ国に代わり九州四国征伐の恩賞として
伊予、豊前、筑前、筑後、肥後を与える予定だったそうだ。
そのうち
伊予35万石を小早川隆景
筑前35万石は吉川元長
に与え独立大名の格式として扱う
いわば上杉家での直江のように石高と与える国を
毛利両川には秀吉自らが指定する方式が予定されてたそうだ。
この話は小早川隆景が阻止したといわれ、そのせいで
徳川を関東に、毛利を九州に遠ざける豊臣の戦略は半分しか実現しなかった
そうな。
0060名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 20:49:18ID:YX+p2Wnu天下取らせたんだから満足しろ
0061名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 20:51:00ID:KbCwUjHx0062名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 21:25:40ID:jox8OYa2輝元の責任よりも当時の毛利家のお家事情のがでかいとおもう。
輝元と秀元との微妙な関係
毛利両川の関係や
傘連判に代表される一揆寄合体制を脱却しきれない
といった弱点を克服しきれないままに突き進んでいたのだから。
個人の器量に問うのは酷だろう。
逆にいえば運であれ関が原に勝利すれば事態は変わったかもな
全国規模の再編や転封の命令権と豊臣の威光を背景に天下の政務に口出しだから
秀元と吉川はじめ小うるさい古株を体よく恩賞代わりに独立大名として
出してしまい、毛利家中は関が原に勝利した大将輝元の名のもと集権化とか
一気に体質改善できたかもしれない。
古い体質のまま室町幕府の管領細川家のような有様になるかも知れんけど
0063名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 00:59:00ID:zNbS1zHhしてたら事態は変わってた可能性はあると思う。各織田包囲網と連携し、秀吉撃退>近畿蹂躙>
>織田本隊及び明智撃破(できればの話)>織田遠征軍を上杉等と挟撃、各個撃破
あるいは、秀吉中国大返しの際の和平を破り追撃>明智撃破。
0064名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 20:29:57ID:acaxB8ru信玄が健在なときは謙信は信長の同盟者。謙信が織田と敵対したときには
本願寺とも組んで織田と戦ったが勝てなかった。
Ifを語るにしても、まず史実は押えておこうよ。
006563
2006/10/04(水) 21:03:44ID:zNbS1zHhスマソ・・・・。俺、消防逝ってきマス!
0066名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 20:48:21ID:WrVsFLLx戦国時代から大名家はただの家ではなく、一個の法人みたいなもの
織田家等の特殊な家以外、当主の個人所有とはいいがたかった
長州藩を毛利家と称すのは、間違いじゃないと思う
0067名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 22:56:02ID:+wDSu6x4やはり毛利幕府
征夷大将軍 毛利輝元
管領 小早川隆景
あたりか?
幕府所在地は安芸じゃ不便だよな
やはり大阪か?
0068名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 23:50:03ID:CXLL4Mr7隆景を管領にするはずはないのでは?
管領とはあくまで「家臣」の役職。
隆景は養子に出されたとはいえ元就の息子。
隆景だってそれは願い下げでしょう。
管領は桂・熊谷・宍戸などから出すのが妥当かと。
0069奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2006/10/06(金) 00:29:47ID:qMV6S+z40070農民
2006/10/06(金) 01:16:03ID:l91F8sjG京都所司代・兼任で軍艦奉行で海戦担当 →小早川隆景
0071名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 01:21:37ID:GyREBwoX0072名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 01:25:48ID:H00sBzh7ヒッヒッヒッ・・
チンギスもーんと世界から賞賛される
大国家を樹立してくれたはずです
0073名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 01:27:05ID:8EAPlsLB鎖国というよりも明に朝貢して中国貿易を幕府独占
東南アジアの日本人町も黙認して交易網に組み入れていくくらいか?
江戸幕府のような貿易独占はやる可能性があるが
徳川よりもよほど積極的な貿易振興はやったと思う。
秀吉ほど無計画でも無かろうから大明征伐はなさそうだが
対中国貿易と南蛮貿易の旨みを独占する為
そのうちイスパニアやポルトガルと衝突して東南アジアに外征くらいか?
0074名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 02:12:47ID:sry5A/j+ありえない。なぜ徳川幕府が鎖国(貿易規制の意)をしたのかぜんぜんわかってないな。
当時の日本の輸出品は銀と奴隷だけだ。つまり単なる資本の流出。マクロ経済の観点でみれば
貿易収支は大赤字だ。つまり、買い手一方の貿易になってしまう。
つまり当時の日本は国際的な競争力がなかったわけだ。陶磁器や織物や茶や生糸などの商品は
中国や朝鮮が高品質のものを生産していたからな。それらを仲介した海賊(松浦等)や一部の大
名がうまい汁はすうことはできても、マクロ的観点で長期的にみれば、当時の日本の貿易はま
ったくうまみがない。
007574
2006/10/06(金) 02:29:30ID:sry5A/j+後に明も鎖国を試みる。これは地方の郷神たちが勝手に銀や明発行の銅銭や
銀銭を退蔵させ、私鋳銭をつくりだし、海外貿易や地方での商売につかいだ
したからだ。この結果、明の国家としての貨幣経済は崩壊し、租税徴収に困
難をきたすようになった。当然中央政府としての権力は弱まり、鎖国も名ば
かりのものとなってしまう。この体質は清にかわってもかわらず、結果中央
政府の権力を弱く、列強諸外国の食い物にされたのは歴史のとおりだ。
貿易、貿易といっても今のようなドル建ての為替レートがないような時代だ
からマクロ経済てきにはとても難しいものだったのだよ。徳川幕府の米建政
権にはこういった背景がある。
007674
2006/10/06(金) 02:47:38ID:sry5A/j+毛利が九州にとらわれなければ天下が狙えたという意見がいくつかあるが、ありえない。
大友を無視または和睦できるはずがない。毛利と大友は結局商人だったのだよ。
74でいってる貿易でうまい汁をすっていた大名の大内家の遺産を狙って、骨肉の争い
をしていたのだから。結局毛利は政治家ではなく「せいじや」だったのだよ。日本の
形などまったく目をむけず利権争いを大友てやっていたただの商人だ。
0077名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 12:24:41ID:2nh867+D毛利が関ケ原でうまく立ち回れば。
ただ、その毛利が執権や将軍の場合は徳川幕府のような天下泰平や元禄文化
といった繁栄、平和な統治ができず、日本が植民地になってた可能性が高く
家康、秀忠、家光などに比して毛利じゃ劣るというだけで。
日本の形まで考慮できたのは三英傑ぐらいで、後は所詮地方大名なんだから。
ま、だからこそ毛利などでは天下は無理とは言えるが、それは結果論で。
0078名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 13:56:02ID:39xDiGgz0079名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 15:02:12ID:m2kgss2j0080名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 15:58:31ID:39xDiGgz実際無理だもんなぁ
0081名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 18:17:06ID:kr9v/ZZdIFで申し訳ないが
もしも本能寺ないし桶狭間なかりせば、もしくは関が原次第では
>>ただ、徳川が執権や将軍の場合は平和な統治ができず、
>>日本が植民地になってた可能性が高く
とか
>>○○などに比して徳川じゃ劣る
>>所詮地方の田舎大名なんだから徳川などでは天下は無理だったんだよ。
>>つーか徳川が天下?100%ありえねー妄想書くなよプゲラ
というカキコになって徳川では天下は平定できなかった説が跋扈してたことは
想像にかたくない。
毛利幕府でも徳川幕府なみの天下の安定が実現できないという保証も無い。
0082名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 19:24:21ID:wvjs/LRY0083名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 19:26:23ID:49vgDesy0084名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 19:28:26ID:wvjs/LRY0085名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 20:37:56ID:Yn07ykqd毛
利家が天下を取るには
に見えた
0086名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 21:52:42ID:6seYCrkp0087名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/10(火) 23:49:04ID:MwGsUI66関が原に毛利が参戦してれば
輝元が広家、秀秋をきちんと管理してれば
普通に西軍が買った。
0088名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 00:37:14ID:iAzw1M1H0089名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 02:36:43ID:IcbkGbd10090名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 15:47:42ID:FeeGo1cE0091名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 23:37:34ID:Ym0EPJyX輝元は名ばかりと言っても西軍の総大将なんだぞ?
しかも両川は西軍の中でも毛利家に近い同盟国だろうが
裏切られてもいいって訳ないだろ
0092名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 00:28:30ID:9q49+ayj小早川は一族じゃないどころか、縁もゆかりももはや無いんだよ。
毛利ゆかりの家臣はほとんど引き上げてるしな。
0093名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 18:03:10ID:ZldNNkjP毛利一門から離れたことにもさほど抵抗感が無かった?
隆景には小早川の血はまったく入ってないし、
興元の娘と小早川興景の間には子がいなかったし。
0094奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2006/10/12(木) 21:52:06ID:eEamEPos小早川の流れは秀包であって、秀秋は豊臣一門だわな。
0095名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 22:28:38ID:lXtmbhje天下取れたんじゃないですか?程度で結論。
0096名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 22:43:00ID:ALhHjLIAそれまでの毛利ー小早川の関係が隆景を養子に出す前の関係、
白紙に戻ったって事?
0097名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 22:49:27ID:ALhHjLIA三成と家康とを争わせといて漁夫の利を狙えば
三成、家康よりもたやすく天下を取れた
輝元にそこまでの政治力がなかったから不可能だが
隆景が生きてたらどうしたかね?
0098名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/13(金) 00:30:03ID:iJrewvL2タイミング次第かと。
開戦当初は、東軍も14000近く南宮山方面に配置していたから、
言うほど簡単には抜けない気がする。
主戦場での立場がほぼ逆になって展開するから、数に勝っていても抜くには苦労するだろうし。
0099名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/13(金) 01:00:50ID:Nib0iNJX抜くのはもちろん簡単じゃないだろうね。
ただ南宮山の軍が動けば、松尾山の銃撃や脇坂らの寝返りも難しくなるわけだし、
西軍有利に動くのは間違いないかなぁくらいの予想。
まぁifだし簡単に考えるのが良いと思うがもっと真剣に考えた方が良いのかな?
0100名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/13(金) 01:58:21ID:iJrewvL2・南宮山が動いても、東軍を簡単に抜けない。
・一挙に大勢は決まらないが、西軍がやや優位を保つ。
・小早川は引き続き傍観。
位で良いと多う。
まあ、最終的な鍵はやっぱり小早川か。
0101名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/13(金) 04:38:15ID:72KC/IWpどこから1万5千となったのだろう
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