武将のもっともらしい逸話を捏造するスレ
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/19(土) 01:01:32ID:DIrwAufi0047名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 19:11:01ID:cqs7Voxj補足
信玄は掘り専門
0048名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 19:13:19ID:KeTQe6Ko0049名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 19:21:36ID:cqs7Voxjスレ違いではないと思うけど…
ダメですか?そうですか………。
0050名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 19:26:43ID:KeTQe6Ko0051名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 19:57:02ID:iIdr6lUy>>31は八戸じゃないのか?
何言っても聞かない奴だから、構わない方が良いよ。
0052名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 21:01:54ID:7y9DehHfそうなんか…。教えてくれてありがと。
しかし、こいつってダメ人間の要素、幾つ持ってんだろ…。本人はまぁ、病気だろうから仕方ないが、親が可哀相だな。
0053名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 22:53:09ID:KeTQe6Ko0054名無しさん@お腹いっぱい。
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0055名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 10:10:54ID:EJQmmczq0056名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 11:01:42ID:NDa6GO120057名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 11:03:14ID:EJQmmczqネタっは本気で作るものだ
0058名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 11:15:08ID:mrS1/DHfお前がスルー汁>>31はただのツンデレ
0059名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 11:21:29ID:mrS1/DHf必死に叩くやつらがアフォ
0060名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 14:01:56ID:vfHGeTvd0061名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 14:16:26ID:KkFmPnV00062名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 15:41:27ID:XxAeXqY60063名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 18:25:12ID:8Zd+uZ5Q0064名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 18:29:35ID:Bt+gk7c00065名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/28(月) 00:37:27ID:1LYBWC030066名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 04:40:04ID:CMhgCfuF彼の料理には、京都から下向してきた公家に仕えていた料理人もうなったという。
湯漬けにかける汁の量は多からず少なからず、いつも完璧なまでに適量であり、
義元は「これで今川家は安泰ぞ」と喜んだという。
出展:『わかる!甲陽軍艦』(民明書房)
0067名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 12:29:57ID:LqSfX4Hiただ、素人治療なので間違いも多く家来からは迷惑がられてた。
0068名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 20:31:39ID:+sG1XI6Jその内に誰かが「太閤百年の後には誰が天下を取るであろう」と
言い出した。家康ではないか、いや利家ではないか、
或いは蒲生氏郷ではという声もあった。
そこに秀吉がすいと入ってきた。彼はある意味では不忠とも
取られかねぬ話題について咎めることはなく、その代わりにこう言った。
「自分の後天下を取るものは、伊予の鉢ひらきめよ」と。
意外な名が出て驚く一同を前に秀吉は続けて言った。
「恵瓊は本来人の死に向き合う僧侶であるのに、
生に対する造詣も深い。滅びた名家の末が刀鑓を扱うことなく
城持ちになる等に例がない」と笑い、
「さらに、一介の僧侶でありながら中国の雄たる大毛利を動かし
この秀吉に天下を取らしめた。この無形のちからこそ、
真に畏るるに足るものである」と締め括った。
一同はその弁に打たれ、声もなかったという。
「泉州老爺聞取夜話」より
0069名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 20:41:08ID:9sFQFEDR0070名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 23:50:56ID:fNiUjr++0071名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 02:10:56ID:DsH+px6j遺していく子らの行く末が気がかりと思し召したからである。
まず、三人の兄弟に一本ずつ矢を折らせてみた。
七男の天野元政殿はこのとき13歳、こともなげに矢を折ってみせた。
八男の末次元康殿は12歳、やすやすと矢を折ってみせた。
九男で末っ子の小早川秀包殿は、まだ5歳だったが簡単に矢を折ってみせた。
次に三人の兄弟に、三本の矢を束ねて折らせてみた。
のちに名門天野家に婿養子に入り、上月城の戦いなどで手柄を立て、
右田毛利家1万3000石の祖となることになる天野元政殿は、束ねた矢を折れなかった。
出雲末次城主となったのち、早世した兄・椙杜元秋の跡をついで月山富田城主となり、
関ヶ原戦後には厚狭毛利家の祖となる末次元康殿もがんばったが、矢は折れなかった。
隆景殿の養子となり、太閤のもとに人質に出され、秀秋殿が小早川家を嗣ぐことに
なったため別家を立てることになる小早川秀包殿も、やはり矢の束を折れなかった。
元就公はこのようにして三人の子供、
天野元政殿(1559〜1609)・末次元康殿(1560〜1601)・小早川秀包殿(1567〜1601)
に向かって、次のように遺訓をお示しになったのである。
こういうエピソードをつくってでも名前を残していかないと、
マイナーな武将は歴史に埋もれて誰からも忘れられてしまう。
そもそもわしも吉田郡山の土豪の弟分として、一生を終えかねなかったのじゃ。
なんとかエピソードを残そうとして、わしも若い頃は必死でな……
元就公の若い頃の苦労話は、夜明けまで続いたということである。
出典:『仁義なき広島県史 資料編(7)』(民明書房)
0072名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 18:02:31ID:7cvJbPL+一度寂れた後ここまで良作でて復興するて羨ましいな
松永久秀も大喜びだ
0073名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 19:19:27ID:TXOnBQHM問 金吾殿の参戦にて東軍が勝利した心境は如何?
答 まだ実感ござらぬ。
問 なにゆえ、大谷陣への攻撃が昼過ぎまで遅れたのでござるか?
答 拙者流の「さぷらいず」にて候 。
問 西軍に組して伏見城を攻め、東軍に加わるは「返り忠」ではござらぬか?
答 言いたき事があれば言えばよろしい。人それぞれ、いろんな見方がありまする。
問 有利な方につこうと日和見していたという噂については如何?
答 それぞれ判断基準があり申す。されど、拙者は密約を守るのみ。
問 最後に西軍の諸大名衆に一言お願いいたす。
答 どんなもんじゃ〜〜〜〜い!でござる 。
『−慶長年中見聞記 大田牛−』
0074名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 03:12:54ID:fBjNng3N▼東武東上線志木駅東武バス下南畑下車10分
難波田城址を整備した難波田城公園の程近くに、城主・難波田弾正憲重(善銀)
を祀る難波田神社がある。難波田弾正は扇谷上杉家に仕える重臣であったが、
1546(天文15)年の河越合戦の折に討死した。一説に古井戸に落ちて死亡した
とも伝えられ、地元では「弾正さん」として親しまれている。社殿(県重文)
は1732(享保17)年の建立で、「河越合戦図屏風」(重文)や、「万事に陥穽
あるものなり、足許に油断あるべからず」など、武将としての心得を子に伝え
た「難波田善銀話記」(県重文)などが所蔵されている。例大祭は弾正の命日
と伝えられる4月30日。「油断大敵」の戒めを伝える神社として崇敬を集めてい
る。10月に行われる「富士見弾正まつり」には仮装行列も繰り出し、多くの市
民で賑わう。また、市制施行30年を記念して2002年に制定された富士見市のシ
ンボルキャラクター「弾正くん」は、井戸から這い出す難波田弾正の姿を図案
化し、不屈の精神を表現したもので、境内には「弾正くん」の石像もある。
出典:『埼玉県の歴史競歩』(民明書房)
0075名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 05:15:55ID:fBjNng3Nこれに対し、丹波黒井城主の赤井直正ら丹波の諸豪族は頑強に抵抗を繰り広げた。
戦局ははじめ一進一退。時に光秀が勝利を収め、時には直正が凱歌を上げた。
敵も味方も直正の天晴れ武者ぶりを称え、丹波に赤鬼ありと謳われたのだった。
とはいえ、相手は天下の信長軍、大将は知将明智光秀。
光秀は信義をもって国人たちを帰服させ、亀山に城を築いて支配を固めていった。
押されながら抗戦を続ける「赤鬼」赤井直正も、ついに病の前に倒れたのだった。
秀吉の家臣に脇坂安治という者がいた。彼は丹波に援軍に送られていたのであるが、
直正が病に倒れたことを聞くや、降伏勧告のために単騎黒井城に向かった。
いや、降伏勧告など、名目に過ぎなかったのかもしれない。
たとえ命を危険に晒しても、豪傑と一目対面したいという思いがあったのだろう。
敵城に飛び込んだ若き安治の堂々たる態度に、直正も深く感じ入るものがあった。
直正は言った――
「脇坂殿。そなたに、わが赤井家の3つの家宝のうちのひとつを差し上げよう。
今日のこの日の対面の、かたみとされよ」
安治は答えた――
「それがしには勿体ないお言葉。赤井殿の武勇を思い起こすよすがに、戦場に伴い、
子に教え、孫に語り継ぎ、末代までの家宝といたします」
兵火を交える中で芽生える漢と漢の友情。強敵と書いて「とも」と読む。
嗚呼、英傑は英傑を知るのである。
直正は小姓に命じて、3つの家宝を持って来させた。
・パンダの皮で作った着ぐるみ。
・立ち上がったレッサーパンダの剥製を前立てにした兜。
・貂の皮で作った槍の鞘。
安治は、しばらく考えた末、槍の鞘を選んだ。
出展:『日本おとこ話』(民明書房)
0076名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 06:36:28ID:fBjNng3Nというものがあった。
子供同士の遊びではあるが、そこは荒々しい戦国の時代である。
数百人規模の子供が集まり、時には死者も出るという危険きわまりないものだった。
1555年から56年にかけて越後の子供たちを巻き込んで繰り広げられた石合戦の様子が、
「弘治越後石合戦録」「餓鬼大将家滅亡記」という書物に残っている。
小千谷の六歳児「拾い」と姉の「茶々」は、信濃川の河原に二重三重の堀を廻らせた
難攻不落のヒミツ基地を築き、「餓鬼大将」を称して越後じゅうの子供の上に君臨して、
我が世の春を謳歌していた。これに対し下越地方に一大勢力を誇る少年「竹千代」は、
表に従順を装いながら「餓鬼大将」の地位を狙い、たくみな権謀術数でひそかに味方を増やしていた。
1555年、小千谷の橋の下の落書きに「狸のバカ」と書いていることがきっかけとなり、
両者の間は決裂する。仲裁しようとした片桐村のかっちゃんは泣き出した。
有力な子供が「竹千代」につく一方で、寺子屋の盛ちゃん、後藤の又っぺ、
由岐村のサナダ丸くんといった名の知れた子供たちがヒミツ基地に続々入城、
互いに数千人の子供を動員する、大規模な石合戦が展開された。
石見村の重太郎君がメンコに熱中してる間に砦を取られたりいろいろあったけれども、
ヒミツ基地は難攻不落。竹千代軍は夜も昼も投石器で石を投げつづけたり、
どんちゃん騒いだり、たぶんいやらしいな言葉とかも投げつけたりして、
お年頃の茶々姉ちゃんの神経をすり減らし、和議に持ちこんだ。
これが世に言う「針千本の和約」である。
しかし、約束ではヒミツ基地の外堀だけ埋めるよ!という話だったのに、
ずるい竹千代君はどさくさにまぎれて内堀まで埋めてしまう。
茶々姉ちゃんが「ずっこい!約束破り!」と叫んだけれども後の祭り。
56年夏、越後じゅうの子供8千人くらいを率いた竹千代軍が小千谷に来襲。
サナダ丸くんも又っぺも盛ちゃんも、圧倒的な石礫の前にはどうしようもなく、
裸同然のヒミツ基地の本丸にはとうとうネズミ花火が放り込まれて炎上。
拾いと茶々はわあわあ泣きながら薩摩ならぬ信州の方へ落ち延びていったのである。
これが「弘治の越後石合戦」の顛末である。
さて、この石合戦に、大関弥七という少年も参加していた。
大関弥七は後年、北蒲原の名門・水原氏の跡を継いで水原常陸介親憲と名乗り、
諸国を転戦して数多くの武勲を立てた。
1614年の大坂冬の陣には69歳の高齢ながら出陣、
徳川秀忠から感状を受けたが、次のような言葉を残している。
「子供の石合戦みたいな戦いで、感状を賜ることになるとは」。
出典:『クレヨン信玄 嵐を呼ぶアッバレ!戦国石合戦』(民明書房)
0077名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 00:22:06ID:/HkEeSQP信長は言った。
「みじかびの、きゃぷりきとれば、すぎちょびれ」
可之助はすぐさま答えた。
「すぎかきすらの、はっぱふみふみ」
周囲の者はなんのことやらさっぱりわからなかったが、
信長と可之助は満足げな笑みを浮かべて互いに顔を見合わせたという。
0078名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 14:50:12ID:/HkEeSQP伊東マンショ「マヨネーズというものは、うまいものだな」
原マルティノ「うめぇ!」
中浦ジュリアン「むしろ最強の万能調味料だろ、これ」
千々石ミゲル「……そうか?」
中浦ジュリアン「なあ、ご飯にマヨネーズかけてみようぜ」
千々石ミゲル「お、おい! それはご飯に対する冒涜だぜ。やめろよ」
原マルティノ「うめぇ!」
伊東マンショ「うん、これはなかなかいけるかもしれないな」
中浦ジュリアン「マヨごはんは至高!マヨごはんは究極! よし、味噌汁にも入れてみようぜ!」
原マルティノ「うめぇ!」
伊東マンショ「そうだ、日本に帰ったらマヨネーズを大いに広めよう!」
千々石ミゲル「…………」
千々石ミゲルは、のちに棄教した。
出典:「天草版 麻与良物語」(民明書房)
0079名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 08:11:23ID:FItUZhcO0080名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 08:30:46ID:As1udonR21世紀のワールドスタンダードに認定したWebパブリッシングアプリケーションである。
ホームページ制作王に不可能はない。
不可能があるとすれば、そこが人類の英知の限界点である。
21世紀、世界のWebはホームページ制作王を中心に回っていくのである。
にもかかわらず、ここ日本では、心ない風評のため、まだまだ普及に
遅れがみられる。
ホームページ制作王を普及させないかぎり、我が国のWebは、
世界の趨勢の後塵を拝するばかりである。
世界が認めた高性能!ホームページ制作王
http://pc8.2ch.net/test/read.cgi/hp/1106508682/
0081名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 09:33:56ID:1DwdRtyj原のキャラに笑った
0082名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 13:15:34ID:FItUZhcO0083名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 01:23:32ID:+MNyIq3+訛りが酷くてお互い何言ってるか理解できずに
敵軍と勘違いして交戦状態になった。
0084名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/21(火) 05:49:39ID:kMyj8CFd0085堀秀政
2006/12/10(日) 00:40:05ID:ixIQ1fP7秀政は先鋒部隊を任される。
諸城を次々落とし、薩摩の武士五十数人生捕り、
助けてやる代わりに、
「堀久太郎は、このたびの戦に先陣を承り、
至る所で敵軍は手間も入らずに崩れたが、
このため遥々とやってきた我等人数は、
休息の暇も無く、殊の外くたびれている。
だから行く先々の城兵は、いずれも精を出して、
せめてもう三日は、城を持ちこたえていてほしい。
そうしている間に我等は人馬を休ませたいのだ」
この事をしっかりと伝言せよ、と言いつけて生捕りを放した。
薩摩の武士は驚いて逃げ帰り、この事を伝えれば、
秀政の武威に、もはやこれまでかと詠嘆した。
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