【史上】伊達政宗以上の天才はいない【最強】
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/17(木) 03:01:25ID:ekJqkzet更に人格、容貌に優れ
超一流の多彩な趣味、世界規模の外交手腕まである
当然人気も絶大
間違いなく史上最強
0886人間七七四年
2007/12/02(日) 16:00:07ID:rmDALxEX0887人間七七四年
2007/12/02(日) 17:54:22ID:xcce5lXP伊達厨のせいで政宗が嫌いになったな。
0888人間七七四年
2007/12/02(日) 20:27:44ID:i8Gf4Hd20889人間七七四年
2007/12/02(日) 21:37:18ID:TO/h1W890890人間七七四年
2007/12/02(日) 22:00:38ID:oY71Kg7b明・朝鮮同盟軍を撃破し日本軍の武名をおおいに高め明軍は主戦論から講和論に方針転換する事になった。
政宗なんてド田舎大名とはレベルが違う。アジア世界編だよ。
立ち位置でいったら独立大名伊達政宗のように恵まれてない明らかに格下だが武名の方は当時政宗の100倍は高かったな。
なんせ2人の経歴は島津の前に滅亡寸前の大友家臣の宗茂と元就側室の子で9男の秀包。
だが宗茂は
東は本多忠勝で西は立花宗茂と双璧。
秀包は元就の武勇を次男吉川元春とともにもっとも強く受け継いだと謳われた。
関ヶ原では独立大名として伊達のように思うままに行動できたわけでないので宗茂は宇喜多の嫌がらせで背後の大津城攻めを命じられ
秀包は毛利軍指揮下に組み込まれ吉川に進軍を阻まれ傍観せざるおえなかった。
だが後世の人々はこの西軍最強の勇将2人の関ヶ原本戦への本格参戦がなかった事を非常に惜しんだ。
特に宗茂は大阪城で再度の決戦をと訴え士気がまったく衰えなかったと言う。
天草の乱では宗茂は幕府軍から神将と敬意を払われ的確な指揮をしたと言う。
0891奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/12/02(日) 22:39:26ID:QS2Vvo+i0892人間七七四年
2007/12/03(月) 00:49:45ID:18c6NP0hどう考えてもローマ市民権持ってる方が上だろ
0893人間七七四年
2007/12/03(月) 01:33:26ID:nBnGl2oV>>885
隣国に道三いる信長とは状況が違い過ぎる。
0894人間七七四年
2007/12/03(月) 03:07:55ID:oyZaXjWm政宗は日本をローマ教皇やスペインに売り渡そうとする売国奴w
だいたい当時の西欧はやっと大航海時代が始まったもののイスラムや中華世界から遅れてますがw
0895人間七七四年
2007/12/03(月) 10:21:02ID:MShdYZ+4最上の方が遥かに上だよ。
彼ら兵の損耗を嫌い政略と謀略を多用しあまり犠牲を出さずに北上していく安定性が高い統治をしている。
同じ斯波家つながりの最上は大崎を攻撃し大敗した政宗と対立した時に政宗の母が兄の義光に直談判して和解斡旋しなければ相当やばかった。
もし義光が甥の政宗を助けて北方戦線を安定させてくれなかったら最上・黒川・大崎・相馬・岩城・佐竹・芦名・須賀川などにスペシャルフルボッコされ滅亡だった。
このメンバーで一番怖いのはやはり謀略の名手最上義光だな。佐竹などは戦バカだからな。
無謀で無計画な戦略性ゼロの狂犬病政宗にお似合いの末路だったのになw
0896人間七七四年
2007/12/03(月) 12:47:49ID:MShdYZ+4秀吉に結局は会津を召し上げられるの明白なのに?
政宗ってさすがDQNだな。家臣カワイソ。あっでも家臣も時流が読めないアホばかりだったね。
0897人間七七四年
2007/12/03(月) 13:46:22ID:7xGnMkKd片倉家は御一家白石1万8千石
景綱の代は着坐
独立した大名とは考えられてなかった?
どこら辺から独立した大名って考えればいいのか
大名扱いしてる時点で独立?
0899人間七七四年
2007/12/03(月) 15:48:08ID:egKZ96Eh0900人間七七四年
2007/12/03(月) 18:08:54ID:MShdYZ+4そのような発言をする権利があるのは島津や毛利、長曾我部、北条くらいの支配域じゃないとな。
0901人間七七四年
2007/12/03(月) 19:06:21ID:egKZ96Eh0902人間七七四年
2007/12/03(月) 19:24:07ID:nBnGl2oV大河でハリウッドスターの演技が上手過ぎたからメジャーになった感は否めないね。
0903897
2007/12/03(月) 21:20:05ID:5mlZPmRU出直そう…
田村だけが御一門(大名)
伊達成実とかは御一門(縁戚関係)
だった
0904人間七七四年
2007/12/03(月) 22:20:06ID:XSuHVp8Hわかるが、本能寺の変後の3年間で四国2カ国から5カ国まで拡大した
長曾我部は石高で言うとどれぐらいの拡大だったの?あと島津も本能寺の
変後に大きく領土を拡大したらしいけど、石高としてはどのぐらい?
短期間で大きく力を伸ばした大名は政宗だけじゃないかもよ?
なんで本能寺の変後にみんなそろって急に大きく力を伸ばせたんだろう・・
0905奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/12/03(月) 22:21:48ID:olm1p5Mo0906人間七七四年
2007/12/04(火) 00:00:14ID:l8hVX7Or土佐は長宗我部氏の頃行った太閤検地では9.8万石
で、阿波が18.4万石、讃岐が12.6万石、伊予が36.6万石。
ただし、土佐はの実高は20万石強あるので、ほか3国も、もう少し
実高は上かも知れない。
0907人間七七四年
2007/12/04(火) 07:40:30ID:x9SgAF5q0908人間七七四年
2007/12/04(火) 15:25:38ID:y0fBhzuqしかも葦名盛氏も死去しちゃうから後ろ盾のいなくなったザコ小領主ばかりがライバルw
父と弟と闘争していた最上義光は山形城周辺しか支配権はなく、
米沢から北上する伊達輝宗の干渉を受けたり、裏切られたりしてる。
本当にすごいのは義光以外だと
宇喜多直家
長宗我部国親
龍造寺隆信
などなどは政宗のように恵まれておらず一代で築いたものですごい。
0909人間七七四年
2007/12/04(火) 15:37:30ID:x9SgAF5q0910人間七七四年
2007/12/04(火) 16:16:00ID:pWEYT5M7正室には代々伊達家の女が入りやりたい放題し当主は相次いで死亡(盛興・盛隆・亀王丸)血縁者が絶えて須賀川二階堂家→佐竹と外部者が継いで支配し内部崩壊した芦名だもん。
こんなん楽勝でしょ。むしろ何でこれらに大苦戦するのか理解不能。
笑っちゃうのが一万の大軍で攻めて見事なまでに大崎義隆に大敗北。つうか黒川晴氏の策謀に騙されてあっと言う間に最大の危機www
事態が飲み込めないうちに最上・大内・芦名・相馬が大崎救援に侵攻開始してあっと言う間にウルトラフルボッコ寸前になり政宗は母ちゃんに泣きつきますたw
0911人間七七四年
2007/12/04(火) 16:53:57ID:g93nxDbj19歳で当主告いだガキをまわりの諸大名はどう思いますかね?
あ?伊達の次の当主糞ガキじゃん? しかも次男が母親よりで最上よりw
みんなでよってたかって潰しちゃおうゼってなるよね。
それが人取橋なんだけど、伊達なんて調べたこともないやつは、
>政宗は当主を継いだ時点でもっとも恵まれた大名の一人と言える。
>しかも葦名盛氏も死去しちゃうから後ろ盾のいなくなったザコ小領主ばかりがライバルw
になっちゃうんだろうなw
しかも佐竹義重の名前とか一文字も出さないのが笑えるw
まあ例えまわりが雑魚で、いい状態で家継げたとしても19で何ができると俺は
思うけどね。 当主として認知されるまで3−5年は普通掛かると思うが。
0912人間七七四年
2007/12/04(火) 17:33:09ID:x9SgAF5q0913人間七七四年
2007/12/04(火) 18:41:30ID:rN4zGDwF>本当にすごいのは義光以外だと
>宇喜多直家
>長宗我部国親
>龍造寺隆信
>などなどは政宗のように恵まれておらず一代で築いたものですごい。
「恵まれてなさ」で言えば上杉謙信も酷いな
14才で揚北と中越の最前線に有る小城へと送られ、
しかも黒田秀忠なんて奸臣とも対峙させらるわ・・・
国は上杉、長尾、揚北といった勢力に分かれ、その長尾や揚北内部でも争乱が絶えない
謙信一代で200万石近い勢力を築いたのは凄い
0914人間七七四年
2007/12/04(火) 19:49:09ID:y0fBhzuq19歳・・・その時はまだ伊達輝宗が健在でしたが何か?謙信は14歳で最前線送りですが?
佐竹義重は疲弊しまくってて伊達に介入できる余力はほとんどありませんでしたが?
北条は真田以外の上野国をおさえ、下野でも小山が北条配下に組み込まれていて親戚筋の宇都宮が
直接の脅威に晒された。このために佐野を通じて由良氏と足利長尾兄弟に謀反させ北条を引き付けておいてる隙に小山を討つことにした。
だが戦いは劣勢下にすすみ佐竹傘下の梶原政景が北条と内通し佐竹本隊が本国との連絡を遮断される恐れが発生しており
さらには長沼城を奪われ北条軍が佐竹・宇都宮の退路をおさえる岩船山を奪取し王手をかけて積みになり事実上の敗北。
さらに北条は後詰めまで追加に派兵できる準備すらあった。このため佐竹は和睦せざるおえなくなり、
小山は健在で宇都宮への圧迫はさらに強まり佐竹に見放された由良氏は金山城を北条に譲渡し桐生城へ押し込められ、
館林城の足利長尾も館林城を譲渡し足利へ退去し北条の軍門に降る。ここまで前面が危機的なのに背後ではさらに人取橋で政宗と郡山近くで戦う始末。
あげくに北条方になった足利長尾に佐野宗綱は討ち死にし佐野氏に北条からの養子が入る。長沼城の皆川広照も北条に臣従。
0915人間七七四年
2007/12/04(火) 20:29:26ID:pWEYT5M7武田晴信は19歳だぜ。
元服したら一人前だよアホか。
0916人間七七四年
2007/12/04(火) 20:35:30ID:g93nxDbj0917人間七七四年
2007/12/04(火) 20:52:52ID:pWEYT5M7実力は母に泣いて頼んで最上を説得してもらった大崎合戦の大敗北で充分に判断できる。
0918人間七七四年
2007/12/04(火) 20:56:19ID:g93nxDbjんだから文句ないでしょ。
しかも24で。
0919人間七七四年
2007/12/04(火) 21:37:15ID:pWEYT5M7>>911
最上義光とは違い伊達は父の輝宗は世継ぎは政宗と決めていて相続争いも一切なく円滑に相続してますが何か?
あまりに政宗がDQN過ぎて小田原に来てる秀吉に伊達家が潰される危機感から弟を擁立して謝罪させようとした母の話はまた別の話。
0920人間七七四年
2007/12/04(火) 21:42:32ID:g93nxDbj0921人間七七四年
2007/12/04(火) 21:45:43ID:pWEYT5M70922奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/12/04(火) 22:50:24ID:Rkmav0s+>>913の上杉謙信、騒乱が多くても地力がある程度あるからちょっと除外。
>>921津軽為信には同意。
>>919
陸奥にあって一国の統一を語る勇者がここにいる。このスレすごいな。
0923人間七七四年
2007/12/04(火) 23:25:28ID:l8hVX7Or地力って具体的になんだ?経済力か?越後も景虎相続当初は
豊かでもなかったはず。また、在地領主への権限も強くは
なかった(本庄討伐の時ですら色部氏に血判をおした起請文を
だして出兵を頼んでいるし・・・)
政宗も確かに凄い人物ではあるんだけど、何かと言うと「最強」とか
いうよくわからない概念で語ろうとするのはどうかと思うな。
0924人間七七四年
2007/12/05(水) 01:38:47ID:omV0PuBc佐竹は常陸国であって陸奥国じゃないけどな。
>>617
統治する課題というのは国ごとに其々違ってくる訳だけど
越後の場合はまず、財政再建が急務だった。
池享教授が戦国上杉氏の内情を明らかにしているが、
為景時代というのは>>596も書いてる通り、酷い赤字体質。
これが謙信時代になると
城下町の再建、焼け落ちた大橋の修理、広範囲から商人達を勧誘、五ヵ年の租税免除、
治安体勢の強化は事細かく指示など・・・次から次へと文書や制札で命令を下している。
郷用商人・蔵田五郎左衛門を府内の代官に任じ、府内の管轄をさせた。
これら数多くの政策によって、財政が破綻していた越後は富める国へ飛躍的な変貌を遂げる。
商業や迅速な軍隊移動の必要性から伝馬宿送制度を発達させたのも謙信。
長尾政景に対しては何度も道路普請を命令。
諸役免除、不入の権を認めたとしても伝馬宿送役は勤めさせたといわれている。
さらに港湾支配に絡んだ制札は直江津だけでなく柏崎港にまで下しており、
青苧など紙、塩、木材、蝋などの特産物流通の円滑化、整備に腐心している。
謙信は国内における要衝の確保にも余念が無い。
春日山城主となった翌年には、阿賀野川&信濃川河口の三ヶ津(蒲原・沼垂・新潟)に代官職を与える。
為景時代、揚北衆が侵攻する上での渡河点を制した事で、越後国内の安定化に繋がった。
下越国人層の臣従に向け、大きな一歩を踏み出したと言える。
崩壊していた越後を建て直した謙信の統治はまだまだ有るが、ひとまず止めておく。
0925人間七七四年
2007/12/05(水) 01:43:40ID:omV0PuBc>>805
>>833
この意見に同意!政宗は恵まれていた。
596 :日曜8時の名無しさん:2007/11/14(水) 23:24:10.72 ID:Xsr8QnUN
昔の資料なんだけど、こんなのを見つけた。
・・・景虎が生まれる前年の享禄二年(1529)、父為景の長尾家の終始決算書を見ると
総収入の3割が赤字で、借財でやりくりしながら越後統一を図っていた・・・んだとさ。
幕末の頃、多くの藩が大赤字でどうにも経営ができないので版籍奉還にあっさり乗っかったように、
ひょっとして、晴景がそれを継いだが、借金が返せず弟の景虎に、だったのかも知れないw
0926人間七七四年
2007/12/05(水) 01:49:39ID:5Q6P09XI政宗の限界を知りつつも政宗が好きな
俺みたいな奴が迷惑するんだじょ
0927人間七七四年
2007/12/05(水) 07:52:32ID:auixxplO0928人間七七四年
2007/12/05(水) 09:06:10ID:3QzidSv00929人間七七四年
2007/12/05(水) 10:34:55ID:s22hsNGL0930人間七七四年
2007/12/05(水) 10:52:05ID:TTwTFH9R読み違えてるなおまいw
伊達氏は陸奥にいるから一国を治めたことないのに
それを知らず常陸一国を取れない佐竹をからかったのが>>919
指摘して皮肉っているのが>>922
0931人間七七四年
2007/12/05(水) 11:15:09ID:Qk/Nwhil捏造三昧だな!ちゃんと佐竹出てただろ。映像でも赤い扇の家紋入った旗があったろうが。
もっとも人取橋などには残念ながら鬼佐竹義重は参加してなかったと言われてるけどな。
しかも義宣の母が伊達出身で重臣達にことごとく伊達を追い詰めるなと圧力かけまくった為に北方戦線責任者の東家が一日の戦闘だけで撤退を開始したから政宗は助かったんだよ。義重もそれをやむを得ないって言って処罰しなかったし。
政宗はラッキーだよな。伊達家の婚姻政策のおかげでみんな親戚筋だから政宗を追い詰めたりしないもんな。最後には母や伯父や伯母が助けてくれる。
その婚姻政策を利用して平和的統一をはかろうとしたのが輝宗。
だいたい平和な東北では下克上の雰囲気もなく名門滅亡がまったくなかった。
政宗はみんなが助けてくれるのを良く知ってて戦ってるから大崎合戦の大敗北の後の危機的な状況も伯父の最上義光が黒川・大崎と伊達の和睦をとりなしてくれたり。
そのくせDQN政宗は芦名盛氏死去後の後ろ立てのいなくなった小領主を基地外のように滅亡させる分別のない行動をしまくったアホ。
三代揃って早世した芦名は弱体化しまくり(人質だった二階堂や白河結城ごときを継いだ佐竹次男のガキ)正室が代々伊達の女で政治工作されまくり求心力なくなって猪苗代氏が離反したからラッキーだよほんと。
0932人間七七四年
2007/12/05(水) 11:20:03ID:Qk/Nwhil「それを知らない」ってのはどこを読めば知らないってのがわかるんだ?
そりゃあアンタが自分に都合よく歪曲してるだけだろ。
0933人間七七四年
2007/12/05(水) 12:58:02ID:KPSIdJSP香宗我部って、家が没落してから伊達家家臣になったんだよな。
今でも全国の香宗我部さん20世帯のうち、半分くらい仙台にいるんじゃね?
0934人間七七四年
2007/12/05(水) 13:01:16ID:KPSIdJSP片眼では遠近感をとらえることができないから、大変だったろうに。
0935人間七七四年
2007/12/05(水) 13:17:15ID:Qk/Nwhil0936人間七七四年
2007/12/05(水) 14:44:20ID:pFdpDgLX武田家は数千石・上杉家は30万石・北条家は1万石・織田家は5万石・豊臣家は滅亡であることを照らし合わせれば評価してもいい
0937人間七七四年
2007/12/05(水) 15:19:00ID:Qk/Nwhilそんなん比較対象にはならないよ。
みんな主役たる人物が死んでしまい衰退期に入ったあとじゃん。
ムリヤリ比較すんなよw
0938人間七七四年
2007/12/05(水) 16:50:59ID:omV0PuBc伊達家の潜在力は天文の乱の疲弊を回復し終わった輝宗期にそうとう蓄えられてる。
秀吉の奥州仕置で58万石→最終62万石でわずか4万石しか増えてないトコに政宗の無能さを感じる。
最上義光は奥州仕置で24万石→最終57万石と倍増以上。
惣無事令が出されたのでもはや家臣を酷使しての領土拡張は無駄になったので
自重し戦備を緩めていた諸将相手に無意味な暴走をする時勢を読む力が皆無なDQN政宗は基地害。
0939人間七七四年
2007/12/05(水) 17:22:48ID:Qk/Nwhil最上義光は父と弟とそれを後援する輝宗と争ったあげくに
勝ち取った家督だがスタートは直轄地山形城くらいしか持ってなかった非力で四面楚歌でとても武力統一ができるような状況じゃなかった。
すぐ南の上山城からして伊達の息がかかってたしな。
こっから急拡大するんだから神レベルだよ義光。
0940人間七七四年
2007/12/05(水) 17:46:48ID:omV0PuBc大した働きもせずにこそ泥しようとしてあまりに可哀相だから4万石の捨扶持だろ隠居料や化粧料かってwww
でもその4万石があって良かったな!もし無ければ政宗58万石で義光が57万石で
最上義守時代までは旧属国みたいな扱いだった最上に対しての伊達の面目が立たずに嘲笑もんだったろうから
天下人の侮蔑のまなざしの4万石と言えども政宗も地べたに這いつくばるほど有難かっただろうし心から天下人に感謝しただろうね。
0941人間七七四年
2007/12/05(水) 18:47:07ID:O4sm6YDx>>28
嫡子の義康の悲話は?
なんか甲斐武田家に似てない?
源氏の名家生まれ→親父を追放→勢力拡大→長男廃絶→次期当主と家臣の不和→滅亡
0942人間七七四年
2007/12/05(水) 18:58:14ID:auixxplO0943人間七七四年
2007/12/05(水) 19:04:53ID:omV0PuBcつまり政宗はアホだって認めたようなもんだな。
0944人間七七四年
2007/12/05(水) 19:20:07ID:Qk/Nwhil南部家に惣無事令を見事に違反した謀反人だとチクられても本領安堵だけどな。
政宗みたいな無能は会津召し上げwww
0945人間七七四年
2007/12/05(水) 19:36:10ID:/WgOQtOp0946人間七七四年
2007/12/05(水) 19:43:20ID:auixxplO0947人間七七四年
2007/12/05(水) 20:10:38ID:Qk/Nwhil0948人間七七四年
2007/12/05(水) 20:17:19ID:/WgOQtOp0949人間七七四年
2007/12/05(水) 20:19:49ID:auixxplO0950人間七七四年
2007/12/05(水) 20:29:20ID:O4sm6YDx批判しているが義光は4分の1程度の寡兵で佐竹義重以上の武将と
戦って何らかの意義のある結果・戦果を残した経験はあるのかね?
それとも
「義重ごときは義光より遥かに格下の武将で
義光が退けた直江は義重よりずっと上だろw」
みたいな認識なのか?
0951人間七七四年
2007/12/05(水) 21:02:32ID:auixxplO0952人間七七四年
2007/12/05(水) 23:21:01ID:Qk/Nwhil謀略でいかに戦わずして勝つかが重要だ。
義光は強敵に惚れるから調略をもって味方にする術に長けているからな。
0953人間七七四年
2007/12/05(水) 23:55:38ID:KPSIdJSPちなみに2回目です。それだけ政宗公の人生はすばらしい。
0954人間七七四年
2007/12/06(木) 00:12:30ID:aY/g0mf5同時期の信玄なんて村上義清にボコボコにされ、同時期の信長はやっとこさ尾張統一
まとめたくらいのもん。 全然レベルが違う。政宗最強すぎ。
0955人間七七四年
2007/12/06(木) 00:57:00ID:1prZLJbBだいたい外交戦略がクソだから無謀に敵を作りまくり自分で不利な状況作ってるだけ。
ただ伊達はかなり恵まれていたから、それを背景に強硬突破しただけに過ぎない。
そりゃーそうだ田村家がすごい圧迫を加えられて芦名や佐竹に攻められて非常に困難な立場だったが
政宗は万が一の時は田村を棄て駒にするつもりで伊達に直接圧力伝わってこないから危機意識なんてないんだから。
そんで優しい伯父の最上義光が義姫の頼みを聞いて大崎に大敗した政宗の危機を救ってやって和睦斡旋して背後を守ってやってるんだから。
義光は伊達の不誠実で和睦交渉が暗礁に乗り上げてるから義姫に甥を何とか言い聞かせてくれって依頼してるくらい気を使ってる。
DQNな甥を持って大変だったろうな義光は。
0956人間七七四年
2007/12/06(木) 01:00:26ID:aY/g0mf5信長も拙速ではあったが、スピードを意識してた武将ではあったな。
もちろん政宗は言わずもがなだけど。
0957人間七七四年
2007/12/06(木) 01:31:19ID:PangmajZ0958人間七七四年
2007/12/06(木) 01:32:50ID:gZ9EmvYoほぼ服属してたようなもんなんだろ。これらの勢力圏を背景にしても
相馬に劣勢だったから大内に小ばかにされ大内を苦戦しながら討ち、父が拉致られた二本松城を攻めて失敗してんだろ。
散々極小領主を討つのに大苦戦したDQN政宗は大内領で逆ギレ大虐殺。
さらに大崎攻めでは政宗の戦下手を見限った黒川に裏切られて大敗。
佐竹親子が沼尻の戦いなどで北条に超圧迫を加えられて疲弊してたし義宣の母が伊達の女だったから助かったようなもんでラッキーだよな。
0959人間七七四年
2007/12/06(木) 01:39:10ID:aY/g0mf5暴れるだけ暴れて、危なくなったら泣き付き戦略取ればいいという保険では
あったろうな。じゃなきゃあんな事はできんわな。
もう戦国も後期で急がないと間に合わないから、使えるもんは全部使えって
いうのが本音だろう。 じゃなきゃ万全に万全を期して奥州制覇は10年後って
とこだろな。
0960人間七七四年
2007/12/06(木) 02:14:02ID:PangmajZ博打ばかりだな伊達は
0961人間七七四年
2007/12/06(木) 02:33:10ID:1prZLJbB元は二階堂氏からの人質の身の上からいきなり養子になり芦名家臣団から反発的された芦名盛隆も暗殺されすっかり弱体化した芦名を相手に
翌年には早速に政宗は生後わずか一か月で当主になった幼君の亀王丸を討ちに芦名へ進軍して見事に大敗北しましたw
この内応者まで作りながら見事にぶさまな大敗をした戦いを関柴合戦と言います。
この亀王丸が3歳で死ぬ12歳の佐竹の子で格下の白河結城の養子から芦名の養子になりましたが
芦名派や二階堂派や伊達正室派に佐竹家臣派が闘争し混乱に拍車がかかり芦名は空中分解してしまいました。
0963人間七七四年
2007/12/06(木) 04:35:13ID:1prZLJbB伊達直轄領は米沢藩と同じくらいで30万石だが>>958のように伊達動員力は今の仙台市あたりまで確実に傘下に組み込まれてるから余裕で60万石以上はいくよな。
そして大内や二本松のような虫けら大名に大苦戦ってアホだろ。
0964人間七七四年
2007/12/06(木) 11:24:13ID:wM2mTUmD0965人間七七四年
2007/12/06(木) 11:53:51ID:INwByun20966人間七七四年
2007/12/06(木) 14:08:28ID:oRuYv0Hq開発せずに、保存状態がよければ魅力ある城址公園となっていたであろう。
若林城は日本で最も不幸な城だな。
0967人間七七四年
2007/12/06(木) 14:30:05ID:gZ9EmvYo上杉景勝の場合の120万石は佐渡・越後東蒲原地域・出羽庄内地域を込んでる。
つまり92-会津23=69万石+黒川や田村らも含めれば政宗が家督相続した時点で80万石はあったはず。
二本松や大内はそれぞれ3万石以下でしょ。
伊達輝宗は北は最上と婚姻関係を結び、東北は葛西を利用し大崎を牽制。南は政宗の婚姻で田村を傘下に組み込む。
平和的手段でも伊達勢力圏の拡大を続ける事で東の相馬に圧力をかけ戦う。
だが政宗は東は相馬に手を焼き、南は葦名亀王丸に破れ、北は大崎に敗れる。
南東の田村側の阿武隈川東岸に沿って大内を攻め苦戦して逆切れし撫で斬り大虐殺。
父の輝宗が拉致られ二本松城の国王丸(11歳)を真冬に攻めるDQNぶりで大失敗。
のちに葦名義広(14歳)にも大苦戦し風向きに助けられて何とか勝利したガキいじめのラッキーボーイ政宗。
平和合併戦術の輝宗時代の80万石強の石高から→家臣を死地に追いやり政宗最終62万石まで減封しミジメに終了。
最上義光はスタートは山形城だけ→最終出羽57万石と急拡大。
0968人間七七四年
2007/12/06(木) 15:00:27ID:1prZLJbB政宗の伯母なのに…芦名氏や二階堂氏の未亡人達はみんな嫁ぎ先から責められただろうな。
しかも二階堂氏も芦名氏も相続と方針に絡み伯母は政治工作までやらなきゃならんかったろうし。
佐竹義重に嫁いだ伯母は佐竹家臣や息子義宣に伊達を救えてか追い詰めるなって圧力かけてるし。
母は実家の最上義光に政宗が一方的に攻めて大崎氏に大敗しているのに無茶な和睦斡旋を必死に頼んでるし。
愛姫の実家田村氏は伊達の悪逆のツケを払わされ集中フルボッコされる矢面に立つ被害担当役をさせられるし。
0969人間七七四年
2007/12/06(木) 15:50:46ID:IzmSDegJ0970人間七七四年
2007/12/06(木) 16:36:14ID:wM2mTUmD0971人間七七四年
2007/12/06(木) 16:59:11ID:gZ9EmvYoだから名門のほとんどが生き残ってる。
だからこそ津軽為信は衝撃的な野心家として有名なんです。
0972人間七七四年
2007/12/06(木) 17:14:28ID:IzmSDegJ0973人間七七四年
2007/12/06(木) 17:32:58ID:1prZLJbBいろいろ言われてるがはっきりしない。だが万が一にも久慈出身だとしても本家筋を打倒した事には違いない。
当主南部信直の父とも伯父とも言われる石川氏を討ち名家たる北畠氏の御所まで滅ぼしたからね。
0974人間七七四年
2007/12/06(木) 17:33:25ID:qB0QwHiSその方針が為、徐々に周囲から舐められ始めていた大名〜
と、今までは思ってた
でもとても優秀な親父だったんだなぁ
良い勉強になった
0975人間七七四年
2007/12/06(木) 18:40:05ID:aY/g0mf5あんだけ恵まれれば誰でも勢力拡大くらいできるしな。
人取橋・窪田・大崎・関柴の負け戦ばかりで、戦術的にも見るとこないし、
アホみたいに敵つくるのが趣味で、外交・戦略の基礎も丸で知らない若ぞうだしな。
最大の成功は、若さゆえに秀吉に土下座できたことかなw
ええ年してたら秀吉に土下座はできんからな。
関ヶ原ではちょろちょろしてるだけのアホだし、大阪の陣じゃ真田に殺されかけるし
挙句の果てには味方皆殺しにするし、基地外大名NO1の称号に相応しいと思うねw
0976人間七七四年
2007/12/06(木) 20:19:07ID:wM2mTUmD0977人間七七四年
2007/12/06(木) 22:34:57ID:PangmajZは間違いだろう
0979人間七七四年
2007/12/06(木) 22:56:31ID:wM2mTUmD0980人間七七四年
2007/12/07(金) 01:43:28ID:hpZtK0BY0981人間七七四年
2007/12/07(金) 02:22:29ID:M0MFE/x4「わしは優しすぎる。藤次郎は最上の血が入ったせいか猛々しい」とかカミングアウトするもんな。
まぁ稙宗と晴宗が天文の乱で親子が争い、晴宗が輝宗と対立し45歳で隠居し輝宗20歳の頃に家督を譲ってるし
輝宗は40歳で隠居したが、まだまだ発言力もあり輝宗のことを政宗が疎ましく思い謀殺したのかもしれんが(義姫はそう疑っていた)
伊達家お得意の親子争乱パターンの可能性あるけど早めに家督を譲る行為自体が「おれは甘くて大人しいから」って事はないだろうね。
0982人間七七四年
2007/12/07(金) 03:14:31ID:csJmzlvZ畠山国王丸
芦名亀王丸
岩城親隆(政宗の伯父)
石川昭光(政宗の伯父)
須賀川二階堂は未亡人(政宗の伯母)なので不参加
を実質的に指揮したのは陸奥方面責任者佐竹義久と軍師佐竹義政だと言われてる。
佐竹義重は沼尻の戦いの和睦を北条が違約し戦線を拡大しており動けないと思われる。
伊達は要害に野戦築城し鉄砲を揃えて防衛し大雪の冬で早く日が落ちて戦は終了。
この烏合の衆メンバーだから佐竹は裏切りをかなり警戒していたらしいが佐竹義政が家臣に刺殺された事もあり、義久も佐竹正室(政宗伯母)に伊達を救えと圧力をかけられていた為に撤退開始。
退却は非常に難しくて和議してから撤退が基本だが、佐竹軍は伊達軍にまったく気付かれないように見事な撤退をしてしまったという。
つか伊達は物見とかいないのか…
また武田信玄すらそんな動員できなかったのにどう考えても連合軍3万なんて動員力はありえない。
次の窪田の戦いも伊達は要害に野戦築城し討って出ずに防衛しわずか1日戦っただけだった。のちに今度は親戚の岩城・石川が斡旋し和議。
佐竹にのって郡山方面はあまりにも遠く出張ってきているしメンバーがいつ裏切るかわからない為に不安要素がたくさんあったろう。
0983人間七七四年
2007/12/07(金) 03:28:37ID:M0MFE/x4二本松畠山国王丸の母はどこの出身かわからないけど
芦名亀王丸の母は未亡人で政宗の伯母だよ。
しかし伊達と戦うとみんな伊達の出身者ばかりで疑心暗鬼になるな。
家臣内にも伊達派なんてのもあって対立してたろうから戦場でも戦闘だけを考えていては
政治謀略工作で味方が側面から攻撃かけてくる事も充分にある。
その点政宗は気楽だよな。みんな伊達出身だから味方に変身する可能性はあっても傘下の軍から裏切られる心配はないもんな。
あとはひたすら要害を堅固にしてやってくる敵に鉄砲喰らわせて持久戦やってりゃいいんだから。
0984人間七七四年
2007/12/07(金) 07:04:11ID:M2dISrYEレス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。