>>472
40万人の餓死は多すぎだろ。

藩内では村単位に食料を備蓄、金融など飢饉対策を講じたことを示す資料が多数見つかった。
http://www.iwanichi.co.jp/iwanichi01/news/ichi_hira_fuzi/3gatu/news-ichi_hira_fuzi_21.htm

高木教授らの研究によると、仙台藩の村方人口は一六六八年から一八七〇年までの約二百年間、
五十万人前後の範囲で推移したが、うち、天明と天保の二大飢饉の際は餓死などでそれぞれ十万人近い人口減があった。

 岩山家文書を調査したところ、仙台藩の村は天明の飢饉以降村ごとに穀物を備蓄したり、複数の村単位に「賑民講」を組織したり、
上層民が困窮者に金を貸したりと、飢饉・凶作対策として二重、三重のいわば“セーフティーネット”(安全網)を講じていたことが分かった。

 高木教授は「江戸時代も非常時は地域ぐるみで切り抜けようという地域力、自助システムがあった」と指摘。こうした取り組みは岩山家文書に
記録が残る増沢村や新沼村に限らず広範に行われていたという。また、同グループが復元した増沢・新沼村の人口推移からすると、
天保の飢饉(一八三三−三六年)の際は人口減が少なく、セーフティーネットの一定の効果があったとみている。

 同グループは藤沢町が保管していた八沢村(一八八九−一九五五年)の行政文書についても調査。大学院生の頼富省三さん(64)によると、
明治三十八−三十九年の大凶作の際は豆腐やおからが村人たちの貴重な栄養源として広がり、村長の呼び掛けで寒冷地でも強い大麦栽培を村人に奨励したことなどが分かった。