【史上】伊達政宗以上の天才はいない【最強】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/17(木) 03:01:25ID:ekJqkzet更に人格、容貌に優れ
超一流の多彩な趣味、世界規模の外交手腕まである
当然人気も絶大
間違いなく史上最強
0405人間七七四年
2007/08/13(月) 10:53:54ID:Zb3mV8gAとあるんで、実際は他城も含めて12万石くらい。
政宗wのスタートはよく分からんが人取橋で1万3千の兵をだしてるんで
少なくとも50万石は下らない事になる。
0406人間七七四年
2007/08/13(月) 11:01:47ID:wk87HKrS政宗は30万石スタート。よく分からんのにレスすんなよ。
0407人間七七四年
2007/08/13(月) 11:08:53ID:Zb3mV8gA0408人間七七四年
2007/08/13(月) 11:21:04ID:Zb3mV8gA0409人間七七四年
2007/08/13(月) 11:22:53ID:wk87HKrS0410仙台藩百姓
2007/08/13(月) 11:53:17ID:DCaXDbVa独立から20年以上経っても三河一国
遠江一国を切り取る事も叶わなかった
斜陽の今川を倒すのも武田と共同での事だし
その後は信長に泣き付きながら生き延びていたに過ぎないお(≧ω≦)
0411松平忠吉
2007/08/13(月) 13:12:36ID:LGu/IpsT0412人間七七四年
2007/08/13(月) 14:02:43ID:3N0JmlxL0414人間七七四年
2007/08/13(月) 17:59:09ID:3N0JmlxL0416人間七七四年
2007/08/14(火) 04:06:51ID:YTVDZwbQ0417Y ◆nzdGjBH722
2007/08/14(火) 04:26:51ID:NCx6RyVF米沢15万石、福島県の伊達郡と置賜郡が15万石、足して30万石だろ。
あと直江の30万石は米沢に出羽の一部とか足してるから、米沢単独で30万石じゃない。
そもそも、50万石近くのほうもソース出してないのに、30万石のほうだけソース要求すんなよw
0418人間七七四年
2007/08/15(水) 17:41:12ID:toTwgGzm>>政宗wのスタートはよく分からんが人取橋で1万3千の兵をだしてるんで
>>少なくとも50万石は下らない事になる。
って書いてあんじゃん。1万石=250人の計算を使っただけだろ。
ていうか>>417には30万石のソース書いてねーしw
たった一年で30万→50万相当と倍近く領土を広げたなら、そのソースが残っていないわけないと思うが。
0419人間七七四年
2007/08/15(水) 20:02:15ID:V9ptiwxC0420Y ◆nzdGjBH722
2007/08/16(木) 03:47:19ID:ElGeGKgC石高について太閤検地以前の石高は兵数換算(つまりあなたのいう1万石=250人)
を基準にするしかないのであるが、
伊達政宗は人取橋の前に大内定綱を葦名領へ追っ払い、畠山義継の領地大部分をかっぱらってる。
ここで30万石→50万石に伸びた可能性はあると思う。
また>>407は人取橋を根拠に50万石以上あると言っているが、伊達家の初期領が
米沢と福島の伊達郡と置賜郡で、米沢はのちに入った兼続の方から推察すると、
出羽米沢で6万石、寄騎を含めて30万石だから、米沢単体で30万石あるはずない。
後者は多く見積もっても15万石程度、米沢で6〜あって15万石くらい。
0421人間七七四年
2007/08/16(木) 05:08:52ID:08l366Zk0422人間七七四年
2007/08/16(木) 08:37:25ID:LXw5gUCkあと相馬に旧領取られてるの取り返したのも政宗だよな。
0423マンキョ
2007/08/16(木) 10:08:36ID:Df0ukaVU南部晴政が北東北統一して一気に伊達領へなだれこむか、
最上義光たんが次々と伊達の人間を暗殺しまくる落ち。
0424takeda
2007/08/16(木) 10:22:56ID:78x0+unj0425人間七七四年
2007/08/16(木) 10:29:58ID:LXw5gUCk戦いは政宗の苛烈さによるとこが大きいよ。
まあこの二人がガッチリ組み合ったことで、あれだけの成果が出たとは思うけどね。
でも、最終的な決定権は政宗にしかないわけだから、別段片倉のみの手柄という
わけでもないと思うよ。 それにそんなこと言い出したら、他の大名も同じこと
言えるよ。
0426人間七七四年
2007/08/16(木) 10:56:49ID:kf2UdYJo国元を空にしているわけじゃないから
少なくても1万3千以上の兵力があったと言う事だ
万石300人と考えてもやはり50万石程度が妥当かと
ちなみに旧芦名領を取り上げられた当初は70数万石だった
これは旧畠山領や旧大内領など含む数字
0427人間七七四年
2007/08/16(木) 12:21:50ID:LXw5gUCk1684年の家督継承時の情勢っての見ると、米沢30万石に転封された上杉と
ほとんど変わらんけどな。上杉本も持ってて所領が掲載されてるけどほぼ同じ。
あと小和田哲男が書いてる史伝伊達政宗には、野臥日記とかいう軍勢調査書によると
伊達・刈田2群で1540人、一群にすると770人の軍勢とあるだとさ。
1685年当時の政宗の所領は6群なんで、単純計算すれば4620人とのこと。
また群によっては、置賜群のように大きな群もあり、またかなりの直属群もいたと
思われるので6000くらいにはなっただろうと言ってはるね。
しかもこの軍の大半が農兵だと。人取橋はがんばって7000だしたんだと思うよ。
ってか畠山攻め1万3千ってなんだ? そんなの載ってないが?
0428人間七七四年
2007/08/16(木) 12:57:09ID:LxFxRrrS1万3千てのはたぶんWikiの数字だろ。
Wikiを信じると、1万3千を二手に分けて?、8千で3万の連合軍と対峙。残り5千は・・?
死傷者の数は伊達軍が426人、連合軍側が961人・・
戦死者は伊達側が鬼庭良直(政宗に指揮負かされた人?)、連合軍??
まあWikiは信じられない数字だが、結局ソースが無いんでどれを信じて
いいのか分からんww
0429人間七七四年
2007/08/16(木) 14:38:00ID:lcsaRegm0430人間七七四年
2007/08/16(木) 15:15:58ID:kf2UdYJo後は刈田、名取、柴田、伊具、宇多周辺で11万石強
そして大内から奪った安達の塩松一帯が約3万5千石
これに田村などの援軍を含めれば何の不思議もない
0431人間七七四年
2007/08/16(木) 15:24:35ID:LXw5gUCkこの辺は政宗家督継承の段階で伊達領か? 歴群では伊達領にはされてないが?
0433人間七七四年
2007/08/16(木) 16:53:12ID:LXw5gUCkああそうなん? 政宗が最初から引き継いだ基盤が50万石あったから
楽に席巻できたとかいう話じゃなかったっけ?
まあ人取橋前後はよくわからんけど、安定支配なんて到底できてない時期だから
40も50もあったかは微妙なんじゃない?
小和田氏もせいぜい6000とか言ってることだし。
間違っても人取橋の前段階で1万3千以上? 留守含めて1万5・6千くらいか?
なんて数は尋常じゃないよ思うけど。
0434人間七七四年
2007/08/16(木) 17:12:24ID:LxFxRrrSだから生涯で切取った領土なんぞで政宗と家康の人物を量ることはできない
0435人間七七四年
2007/08/16(木) 17:29:02ID:kY41UbAjは継ぐ前に政宗公が自ら取り返してるし
伊達、信夫、置賜、刈田、名取、柴田、伊具、亘理、宮城郡までは伊達領でいいだろ
雑魚の国分いるけど留守は伊達家臣だしな
稙宗のときの伊達の最大本領はプラス行方郡の合計10郡だったわけだし
過小評価イクナイ
0436人間七七四年
2007/08/16(木) 18:46:43ID:LXw5gUCk状況での自立を余儀なくされた。家督を譲られて一年を経ていたとはいえ、
政宗にはさしたる実績がない。輝宗の突然の死によって風向きは急変し、主として
輝宗の信用で維持されてきた周辺諸大名との外交関係は大幅な後退を余儀なくされた。
再び勢いがつき始めていた伊達家の南奥平定の覇業は頓挫し、晴宗と輝宗の二代
にわたる復旧の努力は水泡に帰そうとしていた。
これ河合秀郎とかいう著者の日本戦史とかいう本で、政宗の奥羽制覇扱ってる文章なんだが、
これでも政宗の版図は、伊達、信夫、置賜になってる。人取橋の前段階の頃なんて
勢力的に最悪だったんじゃない? むしろ人取橋で旧領を安定的に支配できるように
なったんじゃないかな。
0438人間七七四年
2007/08/16(木) 19:23:40ID:ump60LZ/>これでも政宗の版図は、伊達、信夫、置賜になってる。
政宗の初陣は天正9年(1581)で、これは相馬が亘理郡に
侵入してきたのを父輝宗と迎撃した戦い。天正期の初期には
伊達、信夫郡も相馬勢に蹂躙されていた(輝宗は何度も相馬に
敗退している)から、当時の伊達家の安住の地は置賜くらいしか
なかったろう。で、人取り橋が大きな転機になったことは間違いない。
0439人間七七四年
2007/08/16(木) 20:20:41ID:7zoYQqKy南部が10万石
津軽が5万石
岩城が12万石
相馬が5万石として
旧葛西大崎領を治めた木村が約30万石と言われている
それら以外のすべてを伊達が支配していたとすると
陸奥だけで伊達は105万石それに米沢15万石加えても120万石にしかならない
岩城が1589年の冬に服属したとも言われているけど
それを加えても150万石には届かない
伊達の石高を150万石とするのはどんな計算に基づいているんだ?
0440人間七七四年
2007/08/16(木) 23:58:41ID:rj92sg0t今の宮城県のうち中部と南部を足した値ということか。
表高150万石というのは1589年伊達に臣従した大崎領も含めて?
陸奥の実高は293万石なので、実高190万石というのは妥当な数字としても。
0441人間七七四年
2007/08/17(金) 01:44:31ID:x0hKkoi3大崎含めてだろうね
そうじゃないと150万石には届かない
あと実高190万って論拠はそれなのか?
陸奥の293万石ってそんな250年以上経ったあとの検地の数値に意味あるの?
0442Y ◆nzdGjBH722
2007/08/17(金) 04:34:28ID:zGXe3TP9多分、伊達家の旧領であった刈田、伊達、信夫、二本松、塩松、田村、長井が
約50万石、
摺上原で切り取った旧葦名及び諸豪族領からさきほど足した二本松を引いて40万弱
出羽の一部が大体6万石に、旧伊達領の一部と葛西大崎の領地を足した豊臣政権時の政宗領土が60万石程度、
あとはここに、南郷地区を望む陸前の佐竹領やら、相馬から分捕った領地、
それに岩手県南部にあった伊達領を入れたら190万石いくんじゃないだろうか?
あと葛西大崎は事実上寄騎化してたから、普通に入るんじゃないかな。
0444人間七七四年
2007/08/17(金) 09:01:45ID:8lKtR91gその計算だと陸奥の石高が167万石をオーバーすることになると思うが
>あと葛西大崎は事実上寄騎化してたから、普通に入るんじゃないかな。
そんな事実あるの?
0446人間七七四年
2007/08/17(金) 15:57:11ID:8yVOCCDc太閤検地の出羽は32万石だがかなりいい加減だったらしく
寛永期には87万石に増えている
たとえば最上義光は関ヶ原後57万石に加増されてるが、太閤検地の値では出羽の全てを含めても足りない
0447Y ◆nzdGjBH722
2007/08/17(金) 23:55:41ID:YxBKZjnC>>その計算だと陸奥の石高が167万石をオーバーすることになると思うが
実高293万石の方での150、190万石なんだろ。
葛西は伊達と同盟、大崎は伊達に対立で摺上原ののち臣従。
まあ伊達と葛西は織田と徳川みたいなもんなんじゃない?
0448人間七七四年
2007/08/18(土) 14:35:13ID:/UTXronO0449人間七七四年
2007/08/18(土) 16:48:13ID:vAs90+zK必要ないよ
ついでに言うと政宗が生まれる必要もない
伊達が存続する必要もない
政宗さえ居なければ小手森&高玉等の大虐殺は無かったし
伊達さえ無ければ東北が地獄絵図に染まる事も無かったであろう
「氏綱公御書置」を家訓とした氏康公が伊達を滅ぼしていたらなぁ
民を苛め抜き、殺戮を続けた卑怯な山賊=政宗を、
民を慈しみ抜いた大盟主たる北条が潰していたら・・・東北の民は幸せになっていた筈
ちなみに仙台藩が幕府直轄領だったら
あそこまで餓死者も増えなかったろうしね
伊達は代々民を殺しまくるのが得意、つーか無能なんだろうな
0450人間七七四年
2007/08/18(土) 18:14:40ID:/UTXronO0452人間七七四年
2007/08/19(日) 02:03:39ID:zt/FxkkA逆に政宗は小田原の役のとき、伊達は北関東への侵攻寸前だった。
おまえは伊達と北条が政宗以前から同盟結んでたことも知らんのだろうな。
0453人間七七四年
2007/08/19(日) 02:52:26ID:pp+oQBr80454人間七七四年
2007/08/19(日) 09:43:58ID:tf9dt0Tt歴代藩主に点数付けてみて
0455人間七七四年
2007/08/19(日) 11:24:31ID:53yc/ihc忠宗 地味ながら政宗路線を継承。そこそこの名君 B
綱宗 浪費家で伊達騒動の引き金を作る D-
綱村 伊達騒動時は幼少なので考慮せず。運河、防風林工事などで実績を残すも、寺社建設の乱発で藩財政は危機に C
吉村 中興の名君、強制買米制度と寛永通宝の領内鋳造で藩財政を一気に立て直す A
宗村 運悪くこの代に大飢饉。吉村路線を継承。わりと名君 B
重村 官位昇進運動で著しく財政を悪化させる。愚君だが山片蟠桃の改革で財政は立ち直っている運のいい人 C
斉村 若死に たいした実績も実害もなし D
周宗 14歳で死去。実績実害ともになし。 D
斉宗 この辺以降になるとほとんど藩主の存在感はない。
〜
0456人間七七四年
2007/08/19(日) 21:16:18ID:/G4G4y61> 政宗 別格 A+
えー、忠宗より下なんて信じられない。政宗なんかC+がいいとこだろ。A+なのは小田原まで南奥羽を暴れまわった愛姫だろ。
あと吉村がAだって? 息子と違って在位時期が良かっただけだよ。領内総検地やろうとして家臣から総すかんくって失敗して
るんだから綱村よりちょっといいくらいだろ。
0457人間七七四年
2007/08/20(月) 06:49:57ID:xBQBMD2g書き方が悪かったですね
すいませんでした
A〜Zまでのアルファベット26文字評価で
Aが最低です
分かりやすくする為に
「北条氏康 封建制度では並ぶ物が居ない名君 Z」
を新たに書き加え、政宗は
「政宗 論外 A−」
と訂正させて下さい
さて・・・一人殺せば殺人犯、三人殺せば凶悪犯
しかし百人殺せば英雄だとでも言いたいのでしょうが
そうは問屋が卸しません
何ら罪の無い多くの民・・・女子供、犬ネコまで皆殺しにした伊達政宗
彼の異名として相応しいのは
「戦国時代の宅間守」「東北の宮崎勤」ではないでしょうか
0458伊達成実ってどお?
2007/08/20(月) 10:37:16ID:WbBo23MV1.200万石
江戸時代、仙台藩は表向きは62万石だが、川村孫兵衛の北上川改修(1623年〜)により、
実高は、江戸時代の記録によると200万石(安井息軒『読書余滴』)あるいは250万石(帆足万里『東潜夫論』)に膨れ上がったと言う。
これは、オーバーだと思うのだが、100万石は確実に超えていたと思われる。
つまり、前田と肩を並べられるほどね。
それだけではなく、生産された仙台米を「買米」(かいまい)という藩営の独占企業が買い取り、常時
20万石から25万石はこれを江戸に送っていたという。
『武功年表』によると「江戸の米の2/3は奥州米だった」と書いてあるが、もちろんその大半は仙台米。
だから、江戸の米相場は仙台米が基準で価格が決まっていたらしい。
一説には、江戸時代は、現在のドル相場みたいに貨幣の価値は毎日の米相場によって、決められていたらしい。
簡単に言うと仙台藩の米生産量により、江戸の消費者物価指数が左右されていたと言うわけ。
2.東廻り海運の大半も仙台米だったらしいし…
0459人間七七四年
2007/08/20(月) 10:42:29ID:KYNmG0Ax江戸開幕以後の米どころ仙台藩の基礎をつくったことをもっと評価するべき
>>458が言うようにね
豊臣政権下〜関が原あたりにかけての妙なグダグダさは黒歴史
0460人間七七四年
2007/08/20(月) 14:37:50ID:7eYAXs8Uしたたかな名将ブリが黒歴史かよw 見る目ねーな
0461人間七七四年
2007/08/20(月) 14:42:44ID:KkEcNm47仙台藩の実高は985,328.95000石じゃないの?
あと仙台藩の内政度が悪い理由は「買米」を当初のまま続けたことと
無理な仙台米の増産とかじゃないの?
0462人間七七四年
2007/08/20(月) 14:55:22ID:2+I11ETj副産物の収益が100万石程あった
木材、紙、海産、鉱山、畜産、織物などなど
政宗はあらゆる産業を推奨して一定の成果を出していた
0463人間七七四年
2007/08/20(月) 15:23:16ID:M/2bnpzS0464伊達成実ってどお?
2007/08/20(月) 15:25:07ID:WbBo23MV仙台だけじゃなくたいていの藩が、時代がたつにつれて、赤字経営になるから、しょうがないんじゃない?
鎖国だから、食料品や貨幣の原料の輸入はできないし、戦争がないから、人口は右肩上がりだし…
一説には、江戸時代後期(1720 年頃)から明治元年(1868 年)までの150 年で、日本の人口は3,100 万人か
ら3,400 万人強へと1.1 倍になったらしい。
出典元http://group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/monthly/pdf/0506_9.pdf
0465人間七七四年
2007/08/20(月) 16:38:06ID:HuqU6YaTできなっ方のかな?
家康死んだら南下するとか
0466人間七七四年
2007/08/20(月) 16:54:36ID:KYNmG0Ax裏目に出て失敗ばかりじゃねーかw
政宗が野心に燃えることは天下に知れ渡ってることなのに
小細工ばかり弄するからすぐにバレちゃう
政宗の一番悪い癖だと思うよ
失敗を評価ってお前だけじゃね?
0467人間七七四年
2007/08/20(月) 17:51:44ID:2HHInZUmなるほど凄く勉強になります
冷害に弱く、収穫が不安定な米ばかり育てた挙句、飢饉が頻発
まさに目先の事しか考えないバカ武将・アホ政宗
稗(冷え)は冷害に強く、収穫時期も早いことから重宝がられていたというのに
江戸で売れる米ばかりに目が眩んでしまった政宗
仙台藩は大飢饉のたびに未曾有の餓死者を出しますが(30万以上)
それって政宗が元凶だったのですね
戦で赤子、幼児、老人に到るまで撫で斬りにしただけでなく、
政(まつりごと)では餓死者を桁違いに増やしてしまった失政王・アホ政宗
本当にどうしようもない奴ですな
最近は伊達をつい「アホ」と読んでしまいます
0468人間七七四年
2007/08/20(月) 18:16:18ID:VBrztSvG伊達は諸侯と余り付き合いが無い。
伊達は領土が広く守りきれない。
伊達は冬は出陣できない。
伊達は政宗が名将なだけで普通の家。
0469人間七七四年
2007/08/20(月) 19:08:15ID:KYNmG0Ax南部じゃなくて?
0470人間七七四年
2007/08/20(月) 19:29:29ID:2+I11ETjむしろ飢饉の度に東北の緒藩から難民がなだれ込み
やむなくその保護を行っていた
0471人間七七四年
2007/08/20(月) 22:19:14ID:x+2d7BLA結果、領民は武田・上杉・豊臣と三度の略奪の嵐に見舞われた
結局民を守ることができなかったのだ
伊達は領地を転々としながらも大藩として生き残った
米沢から岩出山に移った時、農民が自発的についてきたのも善政ぶりがうかがえる話だ
0472人間七七四年
2007/08/20(月) 22:22:55ID:pTIHkA32仙台藩 餓死者でググると凄いよ
天明の大飢饉の発生(1780年代)
被害拡大=関東・東北中心に餓死者
・夏は冷夏でヤマセが吹く。東北は皆無作。
・津軽藩の餓死者8万人。南部藩は6万人。仙台藩では作柄は9割減で、40万人が餓死。
どこのサイトでも30万人〜40万人死んだと書いてある
あと天保の大飢饉でも仙台藩は酷かったとの事
0473人間七七四年
2007/08/21(火) 02:05:28ID:HqSL/dvjそもそも天災って領主の所為なの?
0474人間七七四年
2007/08/21(火) 02:36:52ID:JLpii3Nl第二小氷期じゃ飢饉が定期的に襲ってきたらしいね
しかも伊達が治めてる地は東北
あらかじめ対応策を考えておくべきだったのでは?
それが非常に御粗末だったようだね
米に依存し過ぎた藩政は「街道をゆく」でも批難されてた
0475人間七七四年
2007/08/21(火) 05:33:39ID:a6ADivtS>米に依存し過ぎた藩政は「街道をゆく」でも批難されてた
逆に言えば、それほど仙台平野が豊饒であったということ。「街道を行く〜仙台、塩竃、
松島、石巻」では、司馬遼太郎は、非常に政宗に対して好意的に描いているな。
政宗の開いた仙台市の町並みが清潔で美しい印象を与えること、江戸時代に発展した石巻
から仙台を経由して名取の閖上へ到る貞山運河を見て、いかにも爽快で雄大な戦国武将の
政宗らしい事業だと褒めている。司馬は家康とは違って政宗には好意的だ。
なお、日本で一番一揆が多発したのは、南部藩と長州藩。「長州の天保の一揆」は規模が凄く、
首謀者の農民は徹底的に弾圧された。4畳半程度の収容所に10人位押し込められ、そこで拷問
を受けたいわれている。
0476人間七七四年
2007/08/21(火) 20:17:09ID:nrNPqhau秋田や庄内は東北ではその点で恵まれた気候だ
0477人間七七四年
2007/08/21(火) 21:46:46ID:92rfW6eZ>逆に言えば、それほど仙台平野が豊饒であったということ
全然違うと思う
江戸時代中期後期に関しては稲作に適していない土地で無理に稲作を広めたことが問題
更に「買米」制度が被害を広げただろ
政宗の頃は気候も温暖で稲作にはあまり支障が出なかったし
「買米」もその時点では農民に有利な政策だったけどさ
0478人間七七四年
2007/08/21(火) 23:11:01ID:nrNPqhau水田面積の広さという意味ではそうだね
稲作に適した広大な平野があれだけあれば実高百数十万石というのも頷ける
実高通り収穫できた年が何年あるかは知らないがw
冷害がな・・・
0479人間七七四年
2007/08/21(火) 23:13:01ID:nrNPqhauもっと厨っぽい流れだったのに
0480人間七七四年
2007/08/21(火) 23:20:10ID:bdQ00qogましてや寒冷気候の江戸中期なら尋常じゃない被害が出るのも不思議ではない
0483人間七七四年
2007/08/22(水) 01:37:55ID:MasFiLkSいや買米制度だからこそ、米は食べるためには余り残さず、カテ飯を喰ってたはずだが・・・。
つまりそういった災害に強い雑穀で出来たものが主食になってくるので
当たり前だがそういうのも多く作っていた。稗や麦は当たり前。
でもそれじゃ足りんと言いたいんでしょ?具体的に何をどう作ればよかったの?
0484人間七七四年
2007/08/22(水) 09:49:38ID:QXEaYV3g0485人間七七四年
2007/08/22(水) 12:29:07ID:JP1enbFxこの時期の冷害って
0486人間七七四年
2007/08/22(水) 14:29:18ID:A9gka1Ov50年に一度は大飢饉が巡ってきたらしい
大飢饉までいかなくとも飢饉の年は多かったとか
40万人の餓死者は驚くべき数字だが
別の飢饉でも数千人〜数万人は死んでいただろう
天保の大飢饉では
仙台藩において餓死者をついばむ鳥、犬の姿が多かったとの事
0487人間七七四年
2007/08/22(水) 20:02:30ID:wqOtjYDe0488人間七七四年
2007/08/22(水) 23:17:18ID:2VT5YHps冷静に考えるとかなりうそ臭い
もし農民の主食が雑穀と仮定すると
江戸時代
海外との貿易はあまりなく
人口に占める農民の割合は8割から9割
その人口のほとんどを占める農民が米を食べずに雑穀を食していたとすると
主食となる農作物の8割から9割が米以外の雑穀を栽培していたことになる
米の消費から考えると人口の1割から2割にあたる層だけが米を食べれるとすると
酒などに使用や備蓄米の存在を無視すれば
江戸時代の人口3000万人の1割2割で、人が一年食べる米の量を一石とすると
石高のうち稲の占める割合は300万石から600万石ほどでしかないことに
0489人間七七四年
2007/08/23(木) 07:45:50ID:3mrhwbc+0490人間七七四年
2007/08/23(木) 08:11:53ID:Z65RRavU長州藩の場合、年貢収入2万5000両に対し、累積借銀170万両。
倒幕は、貧困から発している。
0491人間七七四年
2007/08/23(木) 09:48:22ID:868nXM690492Y ◆nzdGjBH722
2007/08/23(木) 12:47:43ID:UVb5grnd0493人間七七四年
2007/08/23(木) 13:47:43ID:rSVAwO/H0494人間七七四年
2007/08/23(木) 17:01:32ID:3mrhwbc+0495人間七七四年
2007/08/23(木) 18:29:46ID:868nXM690496人間七七四年
2007/08/23(木) 18:44:48ID:rSVAwO/H訂正
○政宗公
×正宗公
いやマジすみません。
そりゃ、普通に誰それですよねw
でも、次のレスでの貴様知らんのかを見て笑っちゃったよw
0497人間七七四年
2007/08/23(木) 20:04:35ID:GJEW2rLE0499Y ◆nzdGjBH722
2007/08/24(金) 00:14:57ID:KCdtCU/r0500人間七七四年
2007/08/24(金) 00:52:31ID:dC9+TmoZ0502人間七七四年
2007/08/24(金) 09:57:55ID:Gx6hT/9i本当子供っぽいなとオモタ。政宗らしいけど
0503人間七七四年
2007/08/26(日) 04:51:25ID:OPuRgLmC40万人の餓死は多すぎだろ。
藩内では村単位に食料を備蓄、金融など飢饉対策を講じたことを示す資料が多数見つかった。
http://www.iwanichi.co.jp/iwanichi01/news/ichi_hira_fuzi/3gatu/news-ichi_hira_fuzi_21.htm
高木教授らの研究によると、仙台藩の村方人口は一六六八年から一八七〇年までの約二百年間、
五十万人前後の範囲で推移したが、うち、天明と天保の二大飢饉の際は餓死などでそれぞれ十万人近い人口減があった。
岩山家文書を調査したところ、仙台藩の村は天明の飢饉以降村ごとに穀物を備蓄したり、複数の村単位に「賑民講」を組織したり、
上層民が困窮者に金を貸したりと、飢饉・凶作対策として二重、三重のいわば“セーフティーネット”(安全網)を講じていたことが分かった。
高木教授は「江戸時代も非常時は地域ぐるみで切り抜けようという地域力、自助システムがあった」と指摘。こうした取り組みは岩山家文書に
記録が残る増沢村や新沼村に限らず広範に行われていたという。また、同グループが復元した増沢・新沼村の人口推移からすると、
天保の飢饉(一八三三−三六年)の際は人口減が少なく、セーフティーネットの一定の効果があったとみている。
同グループは藤沢町が保管していた八沢村(一八八九−一九五五年)の行政文書についても調査。大学院生の頼富省三さん(64)によると、
明治三十八−三十九年の大凶作の際は豆腐やおからが村人たちの貴重な栄養源として広がり、村長の呼び掛けで寒冷地でも強い大麦栽培を村人に奨励したことなどが分かった。
0504人間七七四年
2007/08/26(日) 05:07:13ID:lrJM8Tn440万と10万じゃ捏造にも程が・・・w
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