そこで目の敵にされたのが、三成であって秀頼ではないことに注目。
あくまで豊臣政権そのものを転覆させようとは、襲撃したメンバーも(少なくともその時点では)考えていない。
クーデターではなく、豊臣政権内での主流派争いにすぎない。
それを焚きつけ、二分するよう巧みにもっていったのが家康の力量。

そもそも応仁の乱と違って、後継者争いになる余地がないんだが。