【何故負けた?】上杉景虎【御館の乱】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/08(火) 01:44:03ID:PwULYb+H0002名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/08(火) 02:12:55ID:JXxa1rLm0003名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/08(火) 02:30:01ID:UwIztxZc0004名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/08(火) 02:31:37ID:lMf1/C6a0005名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/08(火) 06:51:47ID:wvICqKRo0006名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/08(火) 13:37:49ID:r5nG7AD50007名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/08(火) 18:41:04ID:31OuErII0008名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/08(火) 20:32:23ID:oXfFhBhK本能寺が無かったら景勝でも潰されてたって
0009名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/08(火) 20:56:33ID:A04sRJxP0010名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/09(水) 02:21:37ID:8oRf6/VY0011名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 23:49:12ID:eRL+udP+謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
0012名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 16:20:48ID:Tx0cj5gO0013名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 17:03:22ID:Y3e2rfvs0014名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 17:25:35ID:EXJiY5Qn0015名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 18:29:07ID:tU4GZ6Ee「景勝は上杉の一族なので謙信も景勝を後継者と見ていた」
とえらそうに講釈垂れる人がいるが、
上杉(長尾)家は伝統的に養子相続は多いし、
謙信も景虎を後継者にするのに抵抗はなかんったと思う。
むしろ景勝の法が油断ならん男で謙信の前でも隙を見せなかったそうで、
謙信の愛情と信頼は景虎にあったと思われ。
0016名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 19:46:33ID:spRtfdZf必ずしもそうとは言い切れんのだよなぁ。
謙信の書状で「雪が降るからもどっておいで」と、
飯山の守備に出陣中の景勝宛書状もあるし、幼いころの
溺愛ぶり(書道のお手本)は周知のとおり。
官途をそのまま譲ってることを考えても、越後国主は景勝移譲だろ。
景虎は北条との鎹にと期待し、名目だけの関東管領を譲るという説に説得力がある。
0017名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 20:40:26ID:EnvARBjU軍神様カワユス。
0018名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 18:06:02ID:XxaCjzskそうだとしても証拠がないんだよね。
有名な仙桃院のインチキ遺言で
謙信の遺言を捏造した件もあるし。
0019名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 18:22:30ID:gBkPCcPP直江実綱未亡人が正しい。
これも江戸時代に編集された「年譜」の記事なんだけどね。
0020名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 18:51:42ID:XxaCjzsk景勝が胡散臭いのは事実だけどね。
0021名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 18:55:22ID:kjuyS6JO根拠は
謙信が春日山の本丸に近い、二の郭に景虎を住まわせ、景勝を下方に置いたこと
景勝には他の諸将と同様の扱いで軍役を課しているが、景虎には何も課していないこと
自分の旧名「景虎」を与えた事
0022名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 19:30:09ID:vRen4UO9景勝の場合はまぁ血縁関係という分かり易い背景があるから納得するの簡単だけど。
0023名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 20:03:43ID:XxaCjzskまあ、ようするに可愛かったという事か。
別に謙信は変人だから、特におかしいとも思わんが。
0024名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 20:55:56ID:gBkPCcPPたしかに二の郭は本丸(実城)に近かったんだろうが、
景勝の中城も、当時の春日山(鉢ヶ峰)では実城とならぶ
2大城郭だった説もあるからなぁ。
景虎には軍役を課してないのではなく、知行地がないから軍役衆もいない。
兵を出せといわれても困るわけだ。この場合も、謙信の直領を相続するはずだった。
とかの推論では結論まで出せない。従五位下弾正少弼は謙信生前に景勝が継いでるし。
0025名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 00:15:45ID:d0qCVKdx国内が安定してしまうと結局コストだけかかって実益のない関東管領職。
これを穏便に手放すための口実に使えないかな>>三郎景虎
0026名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 06:48:57ID:HMVUTs8z変わり者の謙信はそんなこと考えてないだろ。
0027名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 09:51:21ID:ovlBLUBF一族唯一の成人男子で後がないのに容赦なく前線に立たされて。
謙信乗っとる気満々じゃん。
0028名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 14:16:45ID:Jc2s1IsI土手が崩れて狭くなったんかな
昔見に行った時
こんな所に掘っ立て小屋でも建てて住んでたのだろうかと想像して悲しくなった記憶が…
0029名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 01:39:42ID:J/TM6o/O上杉景勝支持→直江信綱、斎藤朝信、河田長親、千坂兵部など
上杉景虎支持→本庄秀綱、北条景広、神余親綱、上杉景信など
よく、謙信時代に政権の中枢にあった連中が景虎派に属しているから、
謙信の真意は上杉景虎に後を継がせたかったというが、上を見る限り
そうでもないような気がする
0030名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 06:59:20ID:2ed5KjJtいや、いくら何でも上条は論外だろうけど・・・
0031名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 07:17:46ID:n0Y3UK/D越後国内の昔からの豪族は景虎
って気もする
0032名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 14:29:19ID:8lSj6CRe仮に景虎が勝ったとしても、余所者の彼が国内を
まとめることができたかは疑問だ。
0033名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 14:35:16ID:4MqdH/3X0034名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 15:08:00ID:bcvau+8h0035名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 18:18:45ID:2ed5KjJtならないだろ。
養子相続なんて日本ではゴロゴロある。
血の繋がりよりも家の繋がりが大切。
例えば芦名盛氏の養子も佐竹の人間だしさ。
そもそも上杉綱憲は吉良家の人間。
上杉鷹山も秋月家の人間。
そもそも上杉自体が上杉憲政の形式的養子の長尾景虎が
継いだのたが。
0036名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 18:33:40ID:VioZtHQhやっぱできてたの?
0037名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 18:44:24ID:2ed5KjJtつーか、それで有名なんだが、
なんせ北条と喧嘩別れしたあとも手放すどころか
養子にまでして可愛がった男だし。
0038名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 20:06:00ID:60YNYCof男とはヤリまくりだったの?
0039名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 20:29:01ID:duPeJoyI0040名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 20:52:29ID:60YNYCof欲情を酒にぶつけて、その結果、突然死したと思ってた。
0041名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 21:56:11ID:2ed5KjJt信長、政宗、信玄と
当時の英雄はみんな男色にハマってたし、
そんなガッカリする程のことではないが。
あと、景勝と兼続も夫婦ね。
0042名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 22:10:16ID:FoZgZeZlいやつまり景勝がうっかり死んじゃうと
上田長尾の血をひく男子は景虎嫡男と上条嫡男しかいないってことでしょう。
実際上条の息子は子がない景勝のために人質に出されたりしているし。
0043名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 22:41:14ID:60YNYCof毘沙門様に不犯を誓って酒だけに生きたのだと思ってた。
ショックだけど勉強になりました。
p,sこれで消えます。スレ違いごめんさない。
0044名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 23:04:47ID:2ed5KjJt消えるそうだけど、
ホモが最低とか変態行為いうのはあくまで現代人の価値観で
当時は男色は女色とは比べ物にならない程、
豪快で爽やかなイメージがあったのであって、
少なくとも当時の価値観ではその人物のイメージを
下げる性質のものでは全くなかったとだけ言っておく。
男色は元々は女色を仏教の戒律で禁止されていた僧侶のための
代替品として盛んだったのだが、
昔ですらこっそり妻子を囲っている愛人が居て世間に眉を顰められてたのに対して、
男色しかしない僧侶はきちんと戒律を守る清僧として尊敬されてたほどなんだよね。
謙信も男色しかしないというのは清い人物と見られてたんだが。
0045名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 23:07:40ID:2ed5KjJt両刀=普通
女色しかしない奴=付き合いの悪い奴、変人
男色しかしない奴=カタブツ、清い人
両方しない奴=変態、病人
0046名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 23:13:36ID:iEXotg/L0047名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 23:17:25ID:duPeJoyI0048名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 00:30:00ID:PeftYZtw0049名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 02:07:50ID:EQ63EnBi0050名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 05:44:09ID:SQyQuue3つまり、貴族の息子もホモばっか。
0051名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 06:15:26ID:NetnAEvk戦国期には大いに流行ったが
江戸時代に入るとだいぶ廃れた
0052名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 07:55:07ID:L15f1A31うーん、本格的に廃れたのは江戸時代というか明治維新以降だと思うぞ。
幕末には会津や薩摩の衆道話も有名だし、
庶民レベルでの男色も盛んになった。
もっとも維新の後も海軍とか学校で男色は盛んだったようだが。
0053名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 13:07:39ID:DET47xfyhttp://www.cablenet.ne.jp/~h-mkkn/niho-kanwa5.html
色々とつっこみたい部分もあるが、おおむねの流れはわかると思う。
0054名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 23:56:54ID:DH6OvtK40055名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/20(金) 01:52:54ID:Ipq3Tjpq0056名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/20(金) 03:55:00ID:Frgb5ZxK0057名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/20(金) 04:18:58ID:JBwyiC4S0058名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/20(金) 20:12:59ID:CjMOI6ut北条長綱こと幻庵の子供だっけ?
0059名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/20(金) 22:22:58ID:klsygmtC氏堯は氏康の弟で、氏忠・氏光は氏堯死後氏康の養子にされたらしいしな。
なんかごちゃごちゃしてきた
0060名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/21(土) 03:27:07ID:l4TryPdE0061名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/20(月) 00:31:48ID:/7al+RTL0062名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/26(日) 01:11:10ID:/F5azo730063名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/26(日) 01:27:16ID:/F5azo730064名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 18:58:46ID:B0/kdvlu織田信秀の第11子で織田信長の実弟。本名は織田長益
景勝との政争に敗れた後に豊臣秀吉、徳川家康に仕えた。
茶道の有楽流の祖になった程の文化人でもあった。
0065名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/28(火) 00:48:16ID:esCmY5ux0066名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/28(火) 22:18:42ID:9BBRx0Aqしむらー!メール欄!メール欄!
0067名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/20(水) 05:54:28ID:Re6tgkrQ0068名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/20(水) 08:48:32ID:GDSMznxz景虎は所詮、人質として送られてきた長年の宿敵北条氏の子
当時の価値観からすればどっちを選ぶかは大勢が決まるだろう
北条氏の後援が鈍かったのも、自分達がしゃしゃりでれば却って少ない景虎支持派にも悪影響を与えかねないとかの思いがあったんじゃ?
0069名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/20(水) 09:16:50ID:Re6tgkrQ0070名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/20(水) 09:49:59ID:rLGyPYymよく考えてみればかなりアホらしい構図になるな。義はどこに隠れた?
0071名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/20(水) 10:13:05ID:Re6tgkrQ0072名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/20(水) 10:28:57ID:XlxdXZ1jは無理ですか?
0073名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/21(木) 08:00:50ID:jnDTA4oa0074名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/21(木) 08:24:08ID:V/Z+y1Zhすべて憲政のためだけの壮大なドッキリカメラ。
0075名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/21(木) 15:16:41ID:vJA1kSRJ御館の乱の上杉家内 (wikiとその他資料で補足してみた)
* ○は、一門衆
景勝側 VS 景虎側 中立?
○山浦国清 ○上杉憲政 河田長親
○上条政繁 ○上杉景信
○山本寺定長
○椎名景直
直江信綱 北条高広
本庄繁長 北条景広
斎藤朝信 本庄秀綱
色部長実 河田重親
吉江宗信 堀江宗親(後に景勝側へ寝返る)
吉江景資 加地秀綱
安田顕元 神余親綱
安田能元
安田長秀
新発田長敦
新発田重家
三条道寿斎
毛利秀広
直江兼続
樋口兼豊
山崎秀仙
柿崎憲家
須田満親
狩野秀治
間違いや不足分があったら、補足してくれ。
0076名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/21(木) 15:24:08ID:gOkYj+8V越後守護上杉景勝
0077名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/21(木) 22:04:22ID:prNOu0lM小早川とか吉川とかそのにもいくらでも、養子が家を継いだ例はあるよ。探せば
血縁がある一族がほかにいたにもかかわらず。
ちなみに当時は同じ一族血筋で何十年も争って因縁が残る例もいくらもある。
実際に謙信の出身である府中長尾氏と景勝の出身である上田長尾氏は長年抗争を
続けた間柄。父親には謙信よる謀殺説すらある。
0078名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 10:43:55ID:MfdfphVY景勝はパッと見が優秀に見えなかったのかも……。
>>67
景勝を推した直江ら与板衆って、そんなに嫌われてたの?
0079名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 11:57:36ID:eoroFKASそれは他家を乗っ取るための謀略での養子入りじゃん
抗争してようが血筋が重視された時代には違いない
景勝は別にそれまでに無能とか性格劣悪とかの評価があったわけでもない
当然の結果だよ
0080名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 14:56:43ID:OgZ+PYGe古くは木曾義高、下っては津田信澄など
あっさり謀殺された遺児など挙げればきりがない
0081名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 16:04:52ID:zM45ZG3z第一例に挙げられたものがことごとく当主争いとは別種だというのは何だよ
0082名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 16:24:22ID:OgZ+PYGe府内長尾系はことごとく景虎派
例外は琵琶嶋弥七郎くらいで、それにしたところで
息子と目される琵琶島善次郎は景虎派の主力
ちなみに津田信澄は明智光秀が織田新当主として担ぐことを
恐れたので旗色鮮明にする前に殺されたんですよ
0083名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 16:28:45ID:zM45ZG3zことごとく、と言いながら自分で違う人物がいるとしっかり認めるとは如何にw
津田の件なんて証拠あんの?
0084名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 16:42:54ID:OgZ+PYGe琵琶嶋家の主力は景虎側であったことが言いたいだけですが
いちいち御館の乱の基礎知識から説明しなきゃならんのはなんなんですが
大半の家は両陣に分けられていたわけです
例として、山本寺上杉なら兄の定長が景虎、弟の孝長が景勝
河田なら伯父の重親が景虎、甥の長親が景勝
斉藤なら兄の朝信が景勝、弟の三郎左衛門が景虎
下越本荘なら親の繁長が景勝、子の顕長が景虎
ちなみに本荘顕長は繁長謀反の降伏後に謙信に人質として出され
以後春日山にいた人です
0085名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 16:48:57ID:OgZ+PYGeこれをみれば一目同然なんですが
乱後から上田衆と信濃衆の重用が進み
会津時代に至っては家中序列上位の殆どを占め
兼続没後にようやく旧中越系が復権を果たします
景勝政権が誰を信頼できる身内を見なしていたかが
よくわかります
0086名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 19:05:25ID:ajteuEQW0087名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 19:42:07ID:OgZ+PYGe安房忌部氏の系だとかで
0088名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 21:11:54ID:ajteuEQW0089名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 22:23:01ID:OgZ+PYGe重要視されたのは間違い無いでしょうね
0090名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/26(火) 19:11:30ID:G9Atzkga0091名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/26(火) 22:19:44ID:9UYeCSwL久盛が応永年間と長森原の合戦と2回出てきたり
豊盛と景長は兄弟ではなく別家かもしれないとふと思った
盛を通字とする家(行盛・久盛・能盛・正盛)
政を通字として孫五郎を継ぐ家(義政・政応・政久)
景を通字として玄蕃を継ぐ家で(景久・景長)
全部別だったのをムリクリ合わせたとか
孫次郎も豊盛ともう1人長森原の合戦に出ていてたぶん親子だよね
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2007/01/04(木) 23:12:32ID:WiHBalm7越相同盟は本当に義の無い場当たり的なものだね。
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2007/01/05(金) 10:13:55ID:FAQ6Sc030094名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/05(金) 19:13:43ID:AvMJ7A59他の越後毛利一族と違って本姓を名乗っているのはなんでだろう
もしかしてかなり宗家筋に近かったのかな?
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2007/01/11(木) 16:55:51ID:uY8aq0X70096名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/11(木) 17:55:35ID:rjJf1VmD0097名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/11(木) 20:01:43ID:BFvBCaNM家帰って調べたらあった
3)『戦国人名辞典』遠山康光項
(…)相模国中郡白根のうちに三百四十一貫文を領し、天文年間の末頃から永禄年間にかけて奏者となる。北条氏康の命により上杉謙信との講和の交渉にあたり、元亀元年、氏康の子氏秀(景虎)が謙信に養子入りしたとき従い奏者となった。
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2007/01/12(金) 01:07:10ID:IIq1bvKZ0099名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/28(日) 06:38:50ID:SUhIkDVV以前ニュース速報+で信澄が信長頃した犯人だって誤報が出てた証拠か何か発見されたニュースのスレがあった。
それで頃されたんじゃないかな。
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2007/02/01(木) 00:56:02ID:4C5MnKhI子孫残ってないんですか?
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2007/02/03(土) 14:48:29ID:MuSujSU/信澄の?
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