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【義】【義】直江兼続を語るスレ 2【愛】【義】

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/02(水) 13:17:04ID:EL/8vuxv
何故か三戦板のスレが削除された件

【愛の戦士】 直江兼続を語るスレ 【無双に見参!】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1137033419/
0786名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/02(木) 23:08:00ID:mv/XYSu0
>>784
参謀が好かれると当主の影が薄くなる(下手すりゃ乗っ取られる)という好例ですねw
三成はともかく、兼続正信あたりなら御家のため自ら悪名引っ被るかも。
このふたり、関ヶ原後に親交があったようだが何か通じ合うものがあったんだろう。
0787名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/02(木) 23:19:00ID:mv/XYSu0
>>785
関ヶ原の上杉が狙ってたのは、小牧長久手の徳川みたいなのじゃないかな。
つまり、大勢力にひとあてした後逃げ切り粘って、最良の条件で相手の傘下に入る。
自ら天下を狙わないものが誇りを守ったまま屈服するための古くからのある種の手続き。
まあ、いろいろ予定も狂ったが、大筋では間違っちゃいなかったと思う。
べたべたの豊臣恩顧とちがって家も残せたし。
0788名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 00:42:00ID:MKHJ/W7s
>>784
>小早川、鍋島、片倉、秀長
これら諸将には、戦闘指揮能力と謙虚さがあるね
直江には、この大事な二つがない
0789名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 00:49:34ID:SKlvs/A8
秀長は参謀じゃねぇぇぇ。
隆景は大名じゃないか。
直茂に至っては隆信の代から既に義兄弟で参謀なんて軽々しい立場じゃない。
小十郎ぐらいだろ、その面子で参謀と言えるのは。

兼続と立場的にも重なりそうなのも小十郎くらい、他三人は別の意味で格が違う。
0790名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 03:45:06ID:tWToRFMO
>>787
小牧長久手の徳川と違って上杉は大勢力に一当てしてないでしょ。
そのためには最上でなく徳川とやり合って一泡吹かせないと。
手強いと思わせるか、筋が通ってると思わせる、上杉はどっちもできてないよ。

30万石に減封されたのは「最良の条件で相手の傘下に入る」とはほど遠いしね。
その意味では失敗してるよ。

それができたのは立花とかでしょ。
ちゃんと大名に返り咲いてる。
0791名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 03:47:52ID:tWToRFMO
>>789
兼続も石高見れば立派な大名だし、兄弟や義兄弟、叔父でも
参謀というか補佐役的ポジションにいたという点では同種だと思うが。
要は補佐役での人望ということを比較しているわけで。

肉親で補佐役的立場でも人望がないなんてのはいくらでも例があるわけだから。
0792名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 05:44:51ID:gbJeYaTf
>>787
つか、誇りを持ったまま相手に下るのであれば上杉は理不尽な戦を挑まれた立場だとして専守防衛路線を取るべきだし、
高く売りつけるつもりなら他の人も書いてるが徳川と戦う&その後の外交で踏ん張らないと駄目。

最上と戦って追い返されるなんて、誇りのためにもならないし高く売りつけるネタにもならない。
結果から見ても戦略としても下策。

蜂須賀、前田、鍋島などと比べても処世としては拙劣。

>>790
ああ、立花は筋が通ってると思われて敬意を表されてるな。
0793名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 06:39:59ID:0jTsoWRq
最上攻めは最低の愚策だよ。案の定、義光に粘られて苦戦して時間切れ。
甘粕が不在中に陥落させられた白石城を奪い返すくらいの気概すらない。

戦後、撤退戦を褒められたというが、老獪な家康や敵方の義光の褒め言葉
「さすが直江殿」には相当な皮肉が込められている。
0794名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 12:52:57ID:PN+U90H+
>>787
ひと当てってあんた、オモロイこと言うね。
力量のある人間なら、軽くひと当てかましても良いかもしれないけど、直江程度の力量でひと当てかましてしまったのが問題かもね。
ひと当てして示威するどころか、大衰退しちゃった(^^)
残念ながら、昔日の名も実も失った哀れな貧乏藩、ってのが大方の米沢藩の見方でないかい?

正確には、ひと当ても出来ずスカされて、背後の小勢力に領土(庄内、白石)かじり取られた

>戦後、撤退戦を褒められたというが、老獪な家康や敵方の義光の褒め言葉
>「さすが直江殿」には相当な皮肉が込められている。

禿同。さらには、直江を懐柔しとけば上杉はおとなしいだろう、という読みもあると思われる
0795名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 13:39:21ID:dQneD50g
敵対した場合には肝心なところで戦わない者は相手の敬意を得られない。
それを何よりも理解して実行してきたのが相手の家康だからなあ。

織田、豊臣相手にはそれぞれ今川から独立後や小牧長久手のガチ勝負で自分を高値で売りつけ、
武田相手にも三方原で覚悟を見せつけた。

その家康を相手にして見当外れの最上を攻めたんじゃ駄目だろう。
つか、最上に勝ったとしてどんなビジョンがあったのさ。

いくら領土を切り取っても西軍が負ければどうしようもないことくらいわかっていただろうに。
上杉が徳川を拘束するか討ち破った上で西軍が勝てば大幅加増を望めることも。
最上領を切り取ったのが役に立つのは、東西どちらも勝たずに膠着状態に陥るか、
どちらが勝利したにせよ中央政権が弱体化して大名領の処分を行えなくなった時くらいだろうが。
0796名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 13:52:01ID:SKlvs/A8
>>791
その補佐役的ポジションと言うのにそもそも当てはまらんと言ってるの。
その人らは。信長の野望じゃないんだから。
0797名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 13:55:21ID:dQneD50g
ついでに言っておくと小牧長久手の徳川は外交も含めて打てる限りの手を打ってるぞ。

・後北条と同盟して背後を固める
・織田信雄と同盟して大義名分を得る
・根来・長宗我部・佐々などと同盟を結んで秀吉を牽制する

最近の研究では信雄の三家老は親秀吉派だったので家康側が切らせたという説も出るくらい、
用意周到に準備して家康側から戦機を見切って仕掛けてる。

しかも、三河の中入り阻止では緻密な諜報網、本陣を空けるという決断、
迅速な行軍で後々まで秀吉に対するアドバンテージになる大勝利を得ている。

大勢力とやり合うというのは生半可なことじゃないのさ。
増して一当てして自分を高く売りつけるためにはその後も難しい外交を行わなけりゃならん。
簡単に考えすぎてると思うぞ。
0798名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 13:57:13ID:dQneD50g
>>796
果たした役割から言ったら補佐役じゃないか?
他になんて呼ぶんだ?
一門だって補佐役とそれ以外がいると思うぞ。
0799名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 14:25:41ID:dKtLt6JG
それぞれのスレで
「この人は上杉で言う直江兼続と同じような役割をしてた人ですよね?」
と聞いたらどんな反応返ってくるか想像してみればいい。
0800名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 14:41:09ID:dQneD50g
>>799
答えになってないぞ。
きちんと質問に答えろよ。

補佐役でなければ何と呼ぶんだ?
0801名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 14:43:41ID:dQneD50g
つか、想像って……想像したって仕方がないだろう。
何言ってるんだ。
0802名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 14:44:30ID:Rgpz5AyJ
>>788
片倉は好きだが参謀として完璧かというとそうじゃない。
上杉と最上の戦いで決着がついて弱った勝者を叩くという考えは上杉、最上、伊達三者の戦いなら良い考えだ。
が、この戦いはあくまで豊臣と徳川の手伝い戦。
戦闘の親分つまり伊達の場合は徳川が勝てば、その時の戦闘の様子が後に家康に告げられるわけだ。
事実、南部での一揆の誘発も含めて関ヶ原の合戦中の伊達の不穏な動きを指摘され伊達はほとんど加増されていない。
そういう、どっちつかずの動きを仮に政宗の独断で行われたとしたら、それを止めるのが参謀の役目。
摺上原の戦いの時も秀吉の息のかかった佐竹・芦名を攻めてるが戦を止め様とした形跡がない。
合戦後は領地没収の上、左遷。
戦闘の見極めは良かったとしても家の存亡がかかった時の舵取りはうまかったとはいえんね。
0803名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 14:47:38ID:dKtLt6JG
いや別に質問されてるつもりもなけりゃされて答える気ないし……

そんなに気になるならそもそも直江スレで勝手に比較相手の役割を決め付ける
議論に時間費やすより、比較相手のスレでどう評価されてるか見て来る方が
早いんじゃじゃないかと思うだけで。
0804名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 14:50:11ID:dQneD50g
>>803
>それぞれのスレで
>「この人は上杉で言う直江兼続と同じような役割をしてた人ですよね?」
>と聞いたらどんな反応返ってくるか想像してみればいい。

お前は聞いてこいと言ってるんじゃなくて「想像してみればいい」としか言ってないんだが。
何言ってるんだ。

まともに議論する気のないバカとは思わなかった。
お前が書き込む方がよっぽど時間の無駄だ。
0805名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 15:00:31ID:dKtLt6JG
>>804
そんな事わざわざ聞いたら他スレの人に失礼じゃないか。

804だって単に自分の疑問に答えを見つけたり、個人の考えをまとめたいだけだろ?

勝ち負けの決まるものでなし、元々2chで議論して得られるのはそれだけなんだから。
ならそのためにヒントになりそうなのはむしろここじゃなく他スレなんじゃないかと思う、
と言ってるだけ。別に随う必要はないし、わざわざ抗われても困る。
0806名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 15:04:32ID:dQneD50g
>>805
だからそんなことをお前は>>799で言ってないだろ。
他スレを想像して何か得られると言ってるお前がおかしいと言ってるんだが。
持論の根拠も挙げない、信長の野望を引き合いに出す、
質問に答えるつもりはなく、他スレの反応を想像しろと主張する。

本物のバカだよ、お前。
参考文献や研究を挙げるなり、検索しろとアドバイスすることもできないほど無能だから仕方がないけどな。

お前のレスなんぞ無駄だからとっとと消えろ。
0807名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 15:14:11ID:dKtLt6JG
ちょっと待て、俺は799,803,805しか書き込んでないぞ?
もしかしてそこらへん勘違いして自分が攻撃されてるとか思ってるのか。
0808名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 15:17:57ID:dQneD50g
>>807
なんだ、>>796じゃないのか。
なら>>799のような狂ったレス付けて話に割り込むな。

言っておくが>>799だけで本物のバカだぞ。
他人のやり取りに割って入ってバカなレス付けてる時点でな。

こっちは>>796の意見を聞いてるのに他のスレの反応を想像しても全く意味がないからな。

まあバカだから自分がどれだけバカか理解できないんだろうが。
0809名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 15:30:48ID:dKtLt6JG
割り込んだ事に怒りを覚えているなら謝って終わりにするけど、
無関係の第三者が常に存在する2chのスレで特定個人との個人的な
議論を行おうとするのはちょっと無理があるから止めた方がいいと思うよ。
0810名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 15:31:30ID:4EOFoq+U
>>808
このスレには建設的な議論ができない癖に他人のレスにはケチ付ける奴がいるから放っておいた方がいい。
相手にしても話にならないから。
0811名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 15:32:22ID:4EOFoq+U
>>810
いいから消えろクズ。
全員がお前のようなクズじゃないんだ。
0812名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 15:34:45ID:dQneD50g
>>810
了解。
バカを相手にしても仕方がないしな。
自分がどんなにバカなことを書き込んだのかも理解してないようだし。
相手にするだけ無駄だな。
0813名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 15:43:23ID:4EOFoq+U
>>811
苛立ちのあまり自分にアンカー付けてたよw
>>810>>809だな。
しかし他のスレの反応を想像してみればいいとは大笑いだ。

>812
お疲れさん。
0814名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 15:47:30ID:4EOFoq+U
>>802
小十郎は前線指揮官とか城代とかで活躍してるから戦略家としてのイメージはあまりないなあ。
軍師とか頭脳じゃなくて片腕とかのイメージというか。
0815名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 16:57:19ID:ifHqu7q9
>>802
結局、景勝・直江主従、政宗・片倉主従共に関ヶ原が長期化すると踏んだんだろう。
最上の戦略は伊達・宇都宮の秀康との連携で自分は盾役。関ヶ原が長期化しても、
三者連合で何とかできるという前提で立てている。

少なくとも、東北諸大名、九州の黒田にしても短期決戦は想定してない。
史実の上杉の行動は
1.上杉の戦略はまずは庄内の飛び地を解消し、後顧の憂いを立つ。(出羽侵攻)
2.旧領北越後の奪取。(越後の一揆煽動)
と取り合えず、周囲への領土拡張でしかない。スレの前のほうにもあったように
石田と直江の書状でも越後取得後の権利確約のやり取りだ。

戦国大名的な戦略眼でしかないが、日本全国的戦略を立てれる人間そのものが
少数だからやむを得ないんじゃないかな。ましてや東北と言う地方に位置する大名
ではね。
だから、中央に近かった家康のように豊家との一戦で存在感を示し、組下に入るという
戦略は余りもてなかったのではないかと思う。
0816名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 17:14:07ID:SKlvs/A8
>>798
そうじゃなくて彼ら三人の業績を並べるとだね。

秀長・・・既に稲葉山城攻めから別働隊を指揮していて、信長にも個別に仕えている状況。
     補佐役的な部分は黒田官兵衛らが有名だが彼らとは違う。
隆景・・・元就の視点から見れば息子であり、方面軍司令官。秀吉の視点から見れば
     もはや毛利の代表、輝元の補佐なんて位置じゃない。
直茂・・・初期は隆信と同盟関係に近いなか、慶ギン尼の策で無理矢理兄弟になる事で一門化
     それでもなお戦功を上げる直茂は逆に疎まれる、隆信死後は逆に秀吉から見れば
     もはや龍造寺などというものは眼中に無く、政家も完全に直茂に全てを任せていた。

とりあえず他人にケンカ売ってないで落ち着け、別に俺は兼続の業績に文句をつけているわけじゃない、
彼らとは全然違うというだけ。

いわゆる補佐役というのは、片倉や本多らの事だろう。
上記の連中は信長にとっての光秀や勝家みたいなもんだよ。
彼らを信長の補佐役とは呼ばないだろう。
0817名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 17:18:00ID:4EOFoq+U
>>816
横レスだけど、兼続も景勝の幼少時から仕えてる上に関ヶ原じゃ別働隊を指揮してる。
秀長や隆景、直茂を補佐役として扱ってる書籍もあるよ。

それに、信長に補佐役はいないでしょ。
それはパーソナリティの問題。
毛利元就なんかにも補佐役らしき補佐役はいないんだから。

果たした役割から言ったら三人や兼続も補佐役で良いでしょうが。
0818名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 17:22:13ID:4EOFoq+U
書き込んだ後思ったが、根本的に論点が違うんだな。
果たした役割で見るか家中の立場?で見るか。

つか、秀吉の視点から見ればってお話にならないよ。
それを言ったら徳川の視点から見れば兼続は上杉の代表でしょうが。
0819名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 17:27:05ID:Cx9+AiQO
>>816
ググるとこの3人は全員補佐役として評価してる記述も多いぞ
光秀や勝家は信長の補佐役とは呼ばれないがこの3人は補佐役として一般にも評価されてると言える
0820名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 17:36:46ID:DhsC9/xL
つーか普通に補佐役でしょ。
妙に補佐役でないとか言い張ってる人がいるだけで。
そんなに直江が名将と比較されるのが嫌なのかと勘ぐりたくなるねw

>819
童門冬二とか堺屋太一は書名にまでしてるから。
0821名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 17:50:00ID:SKlvs/A8
>>783
で参謀ポジションと言ってるので、そういう意味での補佐役だと思ったんだがな。
違うのか?
0822名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 17:51:15ID:fKaBaJ+L
>>821
全員参謀としても活躍してますが何か?
参謀としても軍司令官としても活躍するのが当時の補佐役。
まさか近代の参謀のようなイメージで見てたの?
0823名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 17:57:08ID:fKaBaJ+L
「公儀の事は宰相存じ候」:秀長
「『誓約を守ったからこそ、毛利家が豊臣政権下で安泰でいられる』と隆景の自慢の一つとして聞かされた」:隆景
「隆信の首を送っていただいたお気持ちは非常に有り難く存じますが、このような不運の首を此方が貰い受けてもしょうがないこと、
どこへでも捨て置いて下さい」:直茂

三人とも参謀として十分な実績があり、主家の戦略に影響を与えてますが。
0824名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 18:18:51ID:SKlvs/A8
goo辞書 参謀
@高級指揮官の幕僚として、軍の作戦・用兵などの一切を計画して指揮官を補佐する将校。
A表立った指導者・指揮者の下にいて補佐し、意志決定に際して進言・献策など重要な役割を果たす人。

@は作戦時における参謀、なので別働していた事が多い彼らは違う。
Aは三成や本多らの事。「進言・献策」などであって

>>823の三つはいずれも自分で決定してるし判断してる事項。
参謀などというクラスでは無いと思われる。
だから、それでは決めきれない「内々の事は利休に」ひいては秀吉になる。
直茂の件なんか特に主君の首を受け取らないなんていう事を決定してる時点で
参謀なんて地位じゃない。軍司令官とかは全く関係ない。

だが、兼続はあくまで自主決定するまでに至ってるとは思えないので、
参謀という地位で置くのは極めて妥当かと。
0825名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 18:31:53ID:fKaBaJ+L
>>824
それだけ影響力のある参謀(補佐役)だってことですが。
それとも三人は主君とでも言うつもりですか?

それだけ主君に信任されたり影響力があるからこその補佐役なんですが。
公儀(外向きのこと)に関しても最終決定はもちろん秀吉でした。
羽柴との講和に関しては吉川が強硬派、小早川が融和派でどちらも進言してます。
最後に関しては、補佐役が執政として権限を委任されることは十分あり得る話です。

貴方は単にこじつけて否定してるだけでしょう。
少なくとも彼らが参謀であり補佐役であることに関しては書籍も出てますし、
そういう評価は私だけのものではありませんがね。
0826名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 19:09:39ID:XanxXVUk
直江兼続みたいな武将は好かれる
ライバルは伊達家の片倉小十郎かな
0827名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 19:46:55ID:f/OkIUAz
>>824
今更辞書引いて適当な俺解釈をでっち上げられてもなあ。
信長の野望とか他人に言う前に、ちゃんと文献に当たった方が良いぞ。

それに結局>>798には回答してないし。
補佐役でなければなんて呼ぶんだ?
0828名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 20:40:07ID:GfwtFa7z
>>822
参謀っつーと近代の陸海軍を想像してしまうからな。
しかし、あんま言葉遊びせんほうがいいと思うよ御両人。
0829名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 22:16:06ID:arnhDATB
>>826
片倉は正反対だろ
直江と一緒にされたら、片倉が迷惑だろ

ちなみに、片倉は結構イケメンだったらしい
小早川秀秋に好かれて追っかけ回されたんだと
秀秋が小早川に養子に出される前だとしたら、天下人候補だった
ホモとして抱かれていたら大名になれていたかもしれん
しかし彼は、衆道の趣味は無く、イヤで逃げ回っていたんだと

この点が、主君とのホモ関係が権力基盤だった直江と大違い
0830名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/03(金) 22:34:56ID:kUwLypR1
>>829
またホモ男が来てるのか
同じ片倉小十郎でも、景綱と重綱を混同してないか?
0831名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/04(土) 01:52:00ID:s9IK3Feu
>>829
それネタ元片倉代々記。

本人の日記に書いてあったから本当です、てのはさすがに無茶だよ。
それとも他に補足資料があるのか?
0832名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/04(土) 02:06:02ID:f676CQw5
まぁ確かに信憑性という意味では疑問なのは同意。
ただこういうのはさすがに日記でもないと残らないだろうと言うのも事実。
秀秋が衆目の前で追っかけまわしてた変態だと言うならともかく。

また
〜〜と言う手強い武将の首を取ったぜ
とか言う記述が日記に書いてあっても信憑性の点で微妙だが、

秀秋にケツ追っかけられたぜ(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
って言う記述をわざわざ日記に嘘ついてまで書く奴なんているのかなw

俺の美貌は城中の女性を虜にしたぜ、とかならともかく。
0833名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/04(土) 02:24:11ID:s9IK3Feu
当時に日記、特に後に家記になってるようなものは基本的に人に読ませる事を
念頭に置いて書かれてるからある程度の「作り」はあるものと考えた方が良い。

政宗に紹介されそうになって寺に逃げたとかさすがにどうかと思うし、今と違って
当時男色が特別視されてなかった事もあるから、好みじゃないお偉いさん(秀秋)に
色目使われて参った、くらいの状況の方が近いんじゃないだろうか。
0834名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/04(土) 07:19:53ID:a0TXlCwt
片倉重綱は、父の景綱と一緒に十七歳で上杉征伐に従軍。当時の軍事要衝の白石城を
陥落させている。甘粕不在の情報は伊達には筒抜けで、そこを一気に突いた。
甘粕への後の対応をみると、この城を奪われた景勝がいかに悔しがったかが見て取れる。
0835名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/04(土) 09:01:44ID:aOYECXdY
>>829
イケメンだったのは息子だよ。
それくらい知識がなくてもちょっと検索すりゃわかるだろうに。
直江兼続も「長高く、姿容美しく、言語清朗なり」と名将言行録に書かれてるくらいだ。
少なくとも当時のイケメン基準をクリアしていたのは間違いない。
現存する甲冑の大きさは謙信や景勝の甲冑より一回り大きいので名将言行録の記載はそれなりに信用できるかと。
もっとも>>829はなにがなんでも直江兼続を認めようとしない偏ったモノの見方をしているから信用しないだろうがな。
ま、おまいに信用してもらおうなんて誰も思っちゃいないけど。
0836名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/04(土) 13:16:40ID:rvdJFihV
単に直江を貶したいからって二代目小十郎をもちあげてんじゃねーよ
0837名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/04(土) 13:17:48ID:rvdJFihV
まぁ片倉は優秀だけど…。変なくらべかたすんなって感じ
0838名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/04(土) 23:50:32ID:gXNZAolb
直江のキャリアはホモとして寵愛されて始まり、清野に取って代われて、つまりホモとして振られて終わっている。
つまり、ホモに始まりホモに終わっている。ホモありきの奴。

これに対し、片倉重綱は、目の前に出世がちらつこうがホモなどになりたくないという男

こう言えば分かりやすくてOKかな?
0839名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/05(日) 00:01:49ID:s9IK3Feu
本人の日記だけを盾にさしたる根拠もなく出世すらちらつかせて
片倉のケツ追っかけた事にされてる小早川秀秋(´・ω・) カワイソス
0840名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/05(日) 00:12:27ID:q81nfyuJ
そっか、根拠が薄いかな?ごめんね小早川秀秋...(´・ω・)ヾ(^ー^;)
0841名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/05(日) 10:19:42ID:qy0kGyQ7
>>838
たしかに清野は「長門殿」の名前が米沢の町中に残っており、米沢の城下
形成に影響あった。だけど、奉行職になるのは死ぬ前年だし、定勝の養育に
直江兼続室が大きく関わっているあたり、生前に取って代わられたという
ものでもないだろうよ。与板衆が本格的に弾かれたのはお船の方が死んだ後
くらいじゃないか?菩提寺破却の件も含めて・・・・
0842名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/05(日) 16:13:05ID:yNTRiWS3
>>839-840
ここで兼続を叩いてる奴の根拠の多くは逸話を基にしたものばかりでね。
逸話を基に己個人の勝手な想像を膨らませて書き込んでるのばかりだよ。
そりゃあ逸話の中にも信憑性の高いものもあるだろうが裏付ける史料が他に見つかっていない状態では参考話か、おもしろ話にしかならない。
昔の人の常識と現代人の常識は違うかんね。
現代人の感覚で物事を語る事自体が大きな間違いの基。
だから議論をするなら信憑性の高いネタを基に議論するべき。
0843名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/06(月) 00:02:20ID:2DkfB7Gc
>>841
直江が、次代の藩主の定勝を掌握して盾に取っていたから、反対派が手を出せなかった、ということでしょ
ここが直江の抜け目無いところだね
直江が死んでから、一気に反対派の怒りが行動になったのかな
0844名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/06(月) 00:19:39ID:B6v0vZrO
>>843
兼続が亡くなったのは1619年で景勝はまだ生きている。
それに藩主の座すら定勝に譲ってはいない。
自分勝手な想像ばかりしてないで、ちゃんと調べてから書き込めよ。
0845名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/06(月) 01:02:38ID:cD7ZDJ85
>>844
定勝は直江兼続が死んだ時点で16歳だもんな。それにまだ景勝は健在だし
0846名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/08(水) 00:05:17ID:mVZ9UAbb
景勝が先に死んでいたらどうなっていたんだろうな。
お船が定勝にいかに信頼されていようとも、
過去の責任を取って引責辞任はさけられないかもしれない。
美しく生きるという表看板からして、殉死として死ぬのが精いっぱいで、
そこを詰め腹扱いにするのか、どうするかで暗闘がありそう。
0847名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/08(水) 13:51:18ID:WVO8XHP/
>>846
景勝死去から定勝・お船の方政権が14年間も続いてるわけだが。
景勝死去と同時に定勝が藩主となり、その定勝から3000石の禄高と手明組40人の家臣が与えられている。
「山城守相果て候とも大小の事ども後室へ相計られ候よし。」
それまで米沢藩は相談事の大小にかかわらず兼続に相談して決めていた。
藩では兼続亡き後、冷静かつ客観的に物事を裁ける人物がいなくなり困っていた。
そこでお船の方に相談したところ相談事が解決しだして藩内から全幅の信頼を置かれるようになり藩政に参画。
米沢藩の記録には、その姿はまるで尼将軍であった北条政子の様だと記載されている。
定勝・お船の方政権時の大きな事件としては藩内の切支丹弾圧がある。
内部告発により幕府の知れる事となったわけだが迅速に対応し事を沈めている。
一方で兼続が行っていた事業を更に推進させ、お船の方が亡くなった翌年には実石51万石を記録する。
この51万石は米沢藩264年の歴史の中でトップの禄高となっている。
また定勝時代の記録には米沢城の金蔵の床が金子の重みでこわれたとの記載も残っている。
そういった功績に報いるため、定勝はお船の方に京都や奈良や高野山への寺社参詣の旅をプレゼントしている。
今でも毎年長尾上杉家一族の末裔の方々が直江夫妻の墓参りに訪れている。






0848名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/08(水) 18:37:50ID:LoGpB35x
まるでまつやねねのような待遇だな
それだけの女性なのにマイナーなのは勿体無い
0849名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/08(水) 22:30:18ID:PGSQ/otv
>>846
お船の方政権ってw
それは、兼続が死んで、お船が寡婦(=政治的に中立と思われる存在)だからできたことであって、
(これは子供がいなかったねねや、中立ではないが前田家の本流そのものだったまつにも通じる重大な資質)
それを拒むことが出来るのは、景勝と言う「大人の男の君主」だけ。

君主でも「こども」ではそういうことができないのは、定勝よりもはるかに位が高い秀頼が
大事な時にどんな意思も家臣団に押し通せなかったことでも証明できる。
ある意味、兼続によって最大の被害をこうむった景勝が「処罰しない、重用する」と言えば
逆らうものはいないが、それ以外の人間がなにを言おうとも、兼続は責められるし、
景勝の容認なしでそれに抗弁したり、自分を守ろうとしたりしたら、たちまちその名声は傷が付く。
景勝が先に死んでいたら、兼続に残された道は殉死しかないし、当時のシンパもそれを望むだろう。

0850名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/08(水) 22:32:00ID:PGSQ/otv
すまん、一行消してしまっていた。

(これは子供がいなかったねねや、中立ではないが前田家の本流そのものだったまつにも通じる重大な資質)

※「兼続に責任を取らせろ」という家中からの意見が出たときに

それを拒むことが出来るのは、景勝と言う「大人の男の君主」だけ。
0851名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/08(水) 22:41:04ID:3hLTuwWJ
何で景勝が被害こうむった事になるんだ?

兼続が景勝を操って上杉の全権握ってるほどの存在だったならいざ知らず、
景勝は幼年でもなきゃ傀儡でもない歴とした当主として存在し、上杉家の
選択の最終決定権をちゃんと持ってたはずだろう。
0852名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/08(水) 23:08:20ID:HOb4u2eR
>>847
権力者は、正史に好き勝手に良いことだけかけるんだよ。
むしろ、些末な逸話にホントのことが残っていたりするかもしれない。
2ちゃんねるで正史の講釈をしたってしょうがなくないかい?

たとえば、北朝鮮の正史には将軍様は偉大です、とでも書いてあるんだよ
それを真に受けてるバカと同じレベルになっちゃうよ
そんなに個人崇拝が好きなら、北朝鮮にでも移住するのがいいんじゃなかい

お船の方にしても、単に権力者と近かったから、給料を好きに設定していた可能性が考えられる
一般藩士が貧窮だったのに、そんな法外な給料を取っていたら当然嫌われるよ
だから、直江家を断絶せざるを得なかったんだろうし、
そうじゃないと言うなら、それ以外の理由が考えられるかい?
0853名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/08(水) 23:39:39ID:3hLTuwWJ
>>852
史料批判は基本中の基本だから当然の事だけど、それにはまずその
「史料」を批判しなきゃいけないんであって、史料の内容、成立過程を
検証もせずにいきなり「正史は権力者が好き勝手にできるから」とか
言い出してしまうと説得力など何にもなくなるぞ?
0854名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/09(木) 11:25:22ID:nq805ss1
>>849>>852
おまいら上杉家の事あまり知らないだろ?
知っているのは一般に出回っている歴史書の知識くらいでさ。
兼続亡き後の景勝の書状にはお船の方の指示を仰げといった書状が何通か残ってるぞ。
今年、米沢で上杉景勝展が行われたんだが、その資料の一部を抜粋すると、
『直江兼続の妻直江後室が他の女性とは異なり米沢藩内で特別な地位にあったことを、編纂物ではない史料「越後供養帳」において確認でき、さらに上杉定勝にとって特別な女性であることが確認できた。』とある。
ここ数年、米沢では鷹山、謙信、景勝と連続して特別展を開いて研究結果を公表しているんで、早ければ来年あたりにも直江兼続特別展を開いて研究結果を公表するだろう。
こういう調査は国や県レベルによっての研究結果であるんで信頼性はピカ一。
世の中の人は、おまいらの勝手な想像と国や県レベルの調査とどちらを信用するよ?
いわなくても結果はわかるよな?

0855名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/09(木) 12:09:15ID:AFoQgqWv
>>854
>国や県レベルの調査

 県や市町村単位でも、地元所縁の有名武将などは、それなりにバイアスが
 かかることがあるよ。むしろ市井の民間の研究者なんかが、地味ながらいい
 ものを発表することがあるし。
 
0856名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/09(木) 12:20:07ID:VtsWCXTQ
>>855
それは同意だが、その場合はまずその「いいもの」を具体的に上げないと意味無くないか?
市井の研究で信頼のおけるものが、国の研究でも信頼できるないものがあるかないかなら
そりゃ両方とも一定数はあるだろうね、としか答えられないわけで。

一定の信用がおける、広く手に入る基礎研究であること、を基本にして話すんでないなら
更に遡って元史料を自分で調べた結果をここでちゃんと説明しないといけなくなるわけだし。

……無論、本当にそこまでしてくれるんなら興味深く拝聴するけれども。
0857名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/09(木) 14:23:49ID:s+CxYDz2
くだらねー争いしてる奴らがいるなw

資料を疑うのは結構だが、個々が独自に信頼する資料に基づいて争って
たら、議論にならんだろ。
普通は通説に基づいてなされるもんだ。

別の説に基づくなら、確たる根拠を呈示しなければならん。
「〜だと思う」というような個人的見解は根拠にならん。
0858名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/09(木) 15:40:46ID:VtsWCXTQ
普通は通説にも史料が付随するもんだから結局変わらなくないか、それ。
0859名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/09(木) 15:47:58ID:s+CxYDz2
各専門家が研究した結果、多くの専門家の意見が一致したのが通説。

一ちゃねらが独自の判断で、或る資料に基づいて考えついた説とは違う。
0860名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/09(木) 15:57:53ID:VtsWCXTQ
だからその研究家が研究したのにも史料があったはずだよな、て事。
その元史料に疑いがあるとか言い出すのが絶対居るから。

そもそも「多くの専門家の意見が一致してる」という判断自体がすでに
恐らく個人で違っちゃってるし。
0861名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/09(木) 16:20:41ID:p9bLwhqh
>>854
直江ってのは、とにかく権力者には覚えめでたい奴
だから、藩主には信頼されるけど、有能かどうかは別問題じゃないかい?
0862名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/09(木) 16:24:08ID:ggizQ0+N
家康に逆らって120万石を30万石に減らした時の家老だからな
評価が辛くなるのが普通だけど、小説とかだとかっこよく書かれてるんだよなぁ
0863名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/09(木) 22:14:02ID:kyJJO2PV
>>854
米沢の歴史研究関係は相当キモいぞ?
商工会議所などからのオラが村バイアスかかりまくりで、
兼続&上杉マンセー以外のこといったら即刻会追放w

基調講演とかが、尻尾振りちょうちん持ち作家の童門冬二だから、
ここまでくると、もう「米沢市民が調べた」だけですでに疑わしさ100%オーバー。
発表会何ざ、キモい田舎者のオナニー討論会以外の何者でもない。
会津の会津藩研究の次ぐらいに身内びいきで狂っている。
さすがに会津のあれほどではないが。

0864名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/09(木) 22:36:05ID:VtsWCXTQ
>>863
正誤はこの際置いておくとして、どんな史料を主にして論考してます?

別に是非を問いたいわけではなく、ある史料を信じる人の批判、反対をする側が
元にしてる史料も知りたいと思うだけなので、端的に史料、論文名さえあげて
頂ければいいです。じゃないとその賛否で無駄に荒れそうですし。
0865名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/10(金) 11:05:13ID:Z2KOUBlW
>>863
あほですか?
米沢市の史料はきちんと国の管理下で行われているが
だいたい米沢市だけで調べてどうやって国宝や重文に指定できるんだよ
市町村がOKすれば国宝になるのか?
それで済むなら全国中国宝や重文だらけだ
史料で太刀打ちできなくなったら逸話で対抗して、それが通用しなくなったからって今度は上杉の史料叩きかよw
めでてーな
0866名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/10(金) 11:56:57ID:Kg4Zpdtb
『正伝 直江兼続』渡邊三省(恒文社)は、確か越後のお膝元の直江の研究者だろ。
巻頭で、地元の商工会議所の会長だかが、著者の直江像をよいしょしている。
伊達家との抗争などは、ほとんど伝承と憶測で描かれている。
0867名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/10(金) 14:35:29ID:vRibD+2j
なんで伊達家は上杉に目の仇にされてるの?
政宗が大判を見せたのを兼続がおちょくった逸話なんてその台詞からして創作であることがばりばり
「謙信公以来軍配を授かった手で伊達の金なんかもてねーよ( ´,_ゝ`)」
歳や履歴からして謙信存命中に軍配預かったなんてありえねーのに…
0868名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/10(金) 14:57:31ID:2OTVaJlx
>>867
創作なんだから誰が作ったのか分からんと思うだが。

辿った出典が上杉の史料だったりするなら寡聞ですまん。
0869名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/10(金) 21:01:41ID:PZPRN2VU
史料の真意はまぁ、いろいろあるけどさ
なんていうか評価が極端すぎるんだよ。有名になる人物だから明もあれば暗もある
史料を疑っていたら他の武将だって扱き下ろせてしまうだろ
あと、〜よりもなんていう話はナンセンス
立場が違えば行動も違ってくる。それだけで愚将扱いはアンチ以外の何者でもない
0870名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/10(金) 21:39:41ID:2OTVaJlx
別に極端でもいいと思うけどな、どうせ2chだから(さすがに荒らしは勘弁だけど)。
信じる信じないは読み手の勝手、てのは板、スレ問わず暗黙の了解なんだし。

ただそれなりにまとまった意見を言うのに論拠となる元史料すら書いてないんじゃ
読んでる人間がその判断をできないから読み飛ばすしかなくて書き込む意味が
あんまりないとは思うけど。
0871名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/11(土) 01:00:32ID:dCdKcNVn

つまり、

内政能力があり、功績があった。しかしそれ以外は無能だった。
人格は悪く、嫌われていたが、権力者にはしっかり信頼されていた。

だから、良い部分は正史に書かれ、悪い部分は逸話として残った。
それだけのことでしょ。
なにも矛盾無いんじゃないかい?
史料がどうとか、話をこじれさせる奴がいるな
0872名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/11(土) 01:09:30ID:9Bxf0Cap
兼続の評価はまた別として、
まぁ100%創作だろうけど、兼続が政宗の見せてくれた金を扇子で受け取った話は俺は普通に引いた。
なんか嫌な奴だなって思った。もっと洒落の効いた事で返すならともかく、面白くもカッコよくもない、陰湿。

これは一体どういう筋から出てきた逸話なんだろうな。
0873名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/11(土) 02:23:52ID:Xb8vgE8/
>>865
資料資料と言うけれど、たとえば、
>>866みたいな出版物で現代の米沢の人間が
キモい兼続よいしょをしている、というのは「たしかな資料を元にした批判」ジャマイカ?
実際、米沢の上杉&兼続よいしょは、いかにも偏狭な田舎者のファビョり混じりの盛り上げで、
会津の次くらいに気持ち悪い。
ついでに、おまえさんのようなファンがキモイのもたしかな資料に基づく批評だw
0874名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/11(土) 02:30:42ID:sDh6EVE3
>>873
865がしてるのは、そもそも資料じゃなくて史料の話じゃないのか?
0875名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/11(土) 07:18:42ID:UJzrfXZr
>>869
それだけで名将扱いは信者以外の何者でもないけどな。
0876名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/11(土) 10:10:23ID:Z1i6b+6k
地元だから多少のバイアスがかかっているというのは一理あるとしても、
それでも資料に基づいて学説や論文をだしているわけだから、それを一読
したうえで判断ずればよい訳だし、何よりも>>873の書き込みからは議論云々
というより、「僕は直江山城守が嫌いです」ということしか伝わってこない。
0877名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/11(土) 11:52:20ID:i/pc5ykU
僕は与六が嫌いです
0878藤田信吉2006/11/11(土) 12:35:06ID:FP8iAXO1
僕は直江山城が嫌いです
0879名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/11(土) 13:00:41ID:Plu2zAo+
ゴネ厨を地獄送りにした逸話は大好きです
0880名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/11(土) 13:52:27ID:xrL28nFr
>>871>>873
無能だったという史料を提示せよ。この一言だ。
お前達の個人的な感想など俺達は聞いちゃいない。
直江兼続が無能だったという確かな史料があるなら俺達は素直に見てみたいし、大いに興味がある。
当時を生きていた人間が現代にいない以上、確かな史料によって判断するしかないのが現状だ。
国宝や重文に指定されたものは上杉家だけでなく関係を持った朝廷や大名や人物の史料とも照らし合わせた上で信頼性が高いと判断されてお墨付きを頂いた代物だ。
現状でこれ等の史料を信じないで何を信用しろというのか?
ひとついっておくが勘違いしないで貰いたい。
誰のファンであれ真のファンなら史実の人物像を知りたいわけだ。悪い部分も含めてな。
大坂の役で安田能元の功績をわざと家康に伝えなかった時の兼続は俺は嫌いだし、人の上に立つ者としては失格だと思う。
だがそういった部分も含めて総合で見て好きな奴は好きなんだよ。
好きな人物の良い部分しか見ようとしなかったり、悪い部分を良い方に見ようと勝手に解釈する様な奴は真のファンとはいえない。




0881藤田信吉2006/11/11(土) 14:02:54ID:FP8iAXO1
>>880
客観的な史料出せと言ってる一方で、主観バリバリの発言もしてるし。
矛盾だらけだなチミは
0882名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/11(土) 14:08:41ID:xrL28nFr
>>881
最後の一行か?
確かに我ながら突っ走り過ぎた書き込みだ。
0883名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/11(土) 14:12:46ID:c9mg8A0p
>>578
>己個人の想像で書き込みしてる輩ばっかだな。残ってる史料で見てみろよ。
 関ヶ原合戦前の上杉家は徳川秀忠と親密な関係だぞ。
 慶長5年3月21日付の手紙では上杉家が城下の整備と武力増強をするのはもっとも
 な事といった内容の書状が秀忠から送られている。
 少なくとも慶長5年3月21日までは上杉家と徳川家との親交はあった。
 上杉家にしてみれば秀忠と親睦を深めていたわけだから、よもや戦争をふっかけてくる
 とは思わなかった部分もあるのではなかろうか

家康親子にまんまと騙されたんだろ。徳川の詰問使の伊奈昭綱と河村長門が
「景勝非違八ヶ条」の弾劾状をを景勝に突きつけたのが、慶長5年4月1日。
この時点で、上洛勧告はもはや上洛「命令」に変化している。
景勝、兼続がいかに甘い現状認識だったかがわかるな。
0884名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/11(土) 14:30:03ID:y4mnUolf
前立の愛はラブじゃなくて愛染様からでよろし?
0885名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/11(土) 14:45:38ID:sDh6EVE3
愛宕からって説もある。
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