このスレ読むと、上杉にとって悲劇だったのは書状のやりとりが「秀忠」経由
でなされていて、それを脳天気に、額面通りに受け取っていることだな。甘い。
伊達政宗と比較すれば、一目瞭然。政宗と家康は関ヶ原の直前、頻繁に文書を
やりとりをし連携を強めていく経過がみてとれる。また家康とは別に秀忠や結城
秀康とも書状を交わしているが、それは戦術的な軍事作戦などの打ち合わせといった
類。家康は4月には島津惟新に、はっきり上杉征伐の意を伝えている。
当初から景勝と直江は、情報戦からも孤立していたことがわかる。