【義】【義】直江兼続を語るスレ 2【愛】【義】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 13:17:04ID:EL/8vuxv【愛の戦士】 直江兼続を語るスレ 【無双に見参!】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1137033419/
0519名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/26(火) 18:03:24ID:Bti+VP1q情報伝達の遅れから、酒田衆と尾浦衆の大半を失ったのは痛すぎる。
なんつーか、状況が状況だけに、仕方のない側面もあるけどね。
元々、後方を顧みることなく突撃するよう命令された部隊だし。
0520名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/26(火) 20:06:28ID:qFWVHEaU禿同。
開墾とか労役の軽減嘆願とか、何処の藩でもやっているようなことで直江をマンセーするのはキモい。
他藩と比べて、直江のおかげで、外交に成功していた、あるいは内政で藩が発展した、というのを示してくれ。
特に、関が原西軍組という同じ境遇の毛利と比べて発展、成功しているか?
>>517
>>佐竹だってほとんど動かなかったのに、半分以下に減封だし、岩城や相馬にいたっては改易されてる(相馬は伊達のとりなしでセーフ、岩城も後復帰)。
オマイ、何が言いたいんだ。岩城も相馬も全然徳川に潰されてないだろ。岩城は秀吉に潰されたんでなかったか?オマイこそ恣意的に捻じ曲げてないか?
0521名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/26(火) 20:32:51ID:Y6XJm2X/決着ついちゃうと思ってた人間はそういなかっただろうしね。
0522名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/26(火) 20:33:59ID:Y6XJm2X/0523名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/26(火) 22:30:26ID:d/Tnatzqんー、でもさぁ、どこの藩でもやっているからという理由で、
結果を出していることを評価しないってのもどうよ?
独創的じゃなくちゃ絶対駄目なの?
0524名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/26(火) 22:49:50ID:OkiUzJLb功績として。
他にはない?
0525名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/27(水) 00:13:44ID:G22zcPcX・関ヶ原合戦後の短期間に、本多正信との協力関係を築いたこと。
・家康や土井利勝に蔵書を貸し、個人的なパイプを築いたこと。
・禅林文庫を公開し、江戸初期の儒学・医学の発展に貢献したこと。
・国友、堺の鉄砲職人を招聘し、白布で極秘に開発させたこと。
・谷地河原堤防の難工事を成功させ、新田開発に貢献したこと。
・これらの作業を、徳川幕府の普請命令と平行して実行したこと。
ざっとこんな感じ。こりゃ、家中から憎まれるのも分かる気がする…。
0526名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/27(水) 01:36:31ID:Vz0wvxgn岩城は常隆のあと、佐竹義宣の弟(貞隆)が家督を継いで、12万石を知行したものの
関ヶ原で動かなかった為改易されている(まあ、後に再び大名になるが)。相馬も同じ
理由で一旦は改易と決定したものの、三胤(相馬義胤の子)が江戸へ向かい交渉するとともに
ともに、水谷だかの助言を得て上杉方の城に夜襲をかけたりして、結局安堵されているんだが?
>>523
同意。「どこの藩もやってる=評価対象にならない」はおかしい。
米沢の城下町の整備、直江堤の造築、本多正信や戸田氏鉄とかの結びつきを深めたりとか。
直江兼続の功績として大きいのは「直江版」の出版とか、禅林寺の創立など
の文化事業や藩の人材教育などがあるだろうな。
あと、やはり関ヶ原のきっかけをつくり、さらに積極的に交戦したにも関わらず、御家存続に
こぎ着けた事もやはり評価できると思う。
軍事に関しては長谷堂の撤退戦くらいか?有名なのは。あと、新発田討伐や佐渡平定とかでも
働きはあったみたいだな。
0527名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/27(水) 07:59:48ID:6wkcJDjf所詮は同じ日本人の領土なんだから日本人にはなんら損失はないのだが、
それに引き替え太平洋戦争では。樺太とか千島とか日本が永遠に所持すべき貴重な領土をわずか数年の戦争で永遠に失ったのだしな。
あーもったいない。
0528名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/27(水) 09:55:50ID:VeyFU4xM0529名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/27(水) 11:35:33ID:PAvxfh8H0530名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/27(水) 13:35:29ID:svOekBA1たしかに冬場はマイナス60度くらいでロシアと樺太北西部の海が凍って、
2時間くらいで歩いて渡れるんだけど、
夏場は暑くて30度近くあるんだよ樺太
密林が多い
0531名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/27(水) 22:43:21ID:5jSvFLDSまあ、内政をシコシコやっとくのが良かったんじゃなかろうか
誰がこの男をおだててしまったんだろう
0532名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/28(木) 01:13:08ID:m7ZrCSZFお前なんだか痛いよw
0533名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/28(木) 13:38:38ID:oPR2wUTnからかった奴にアムロ行きマース!と言って殴りかかった後
殴るたびに口でガシャーンとか効果音つけてたのには笑った
0534名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/28(木) 14:20:54ID:MN86f3wwよかったな そいつ俺のクラスにいなくて。
俺にちょっかい出してきたやつがいて、授業中に俺が椅子で頭を弾き飛ばしたから。
なんか、いい音した。
0535名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/28(木) 15:50:23ID:7MxNoylCホモの絆で出世してもバチがあたるのね
0536名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/28(木) 17:37:17ID:Lx6gk7v1ホモだけで出世したっていう根拠を忘れとる
0537名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/28(木) 23:52:42ID:45Z3N2J00538名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/29(金) 04:55:01ID:Rdwxp1XF兼続と同じく見目麗しく、弁舌が爽やかで、上司をいらつかせない人だったらしい。
イラチで好き嫌いが激しい景勝は、こういう人間を好んだ。
側に寄せるのも重要なことをまかせるのも、こうした頭の回る美男子。
もちろん兼続も清野も、頭は用紙、教養もある(これも景勝の好み)、
低い身分から取り立てられて努力もしたし、高い能力も合った。
だけど、その価値観「だけ」を重視、というより偏向した景勝は、
清濁併せ呑めないというか、醜いもの、爽やかさに欠けるものは他の点が有能でも遠ざけた。
この器量の小ささが上杉を迷走させる一番大きな原因だったんじゃないだろうか。
0539名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/29(金) 09:32:56ID:eqhysZkh無口で何を考えているのかわからないので、家臣達は物凄い
緊張感を強いられていた。
白石城を留守にしていた甘糟は景勝に疎まれた。家康が甘糟の不遇
に同情し、召し抱えの話を持ち出した際などは、横やりを入れ反古
にしている程だ。
0540名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/30(土) 14:08:42ID://SIK0Dk0541名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 01:44:31ID:siXPyF5U禿同。直江-景勝のホモカップルの専横で家中は段々シラけていったのではないかと。
家康を牽制し伊達を抑えるという会津120万国の責務は、このホモカップル主従には重すぎたか。
0542名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 01:45:22ID:7vTC00+hそこでなぜそういう結論になるwただ、景勝が相当仕えにくいタイプの主君である
件については同意。まあ、謙信にも似てるっちゃあ似てるがw
0543名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 18:35:02ID:2nCmKKNh何回謀反起してんだよ、内部争いしてんだよってくらいに
それでよく家保てたよな
0544名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 18:55:27ID:H61T9X0K一国一城令がでるまではどの大名もにたりよったりだ。
0545名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 19:00:42ID:oqlx4rDp大抵の大名家も元々はそうやって成立して来たわけだし。
0546名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 20:45:41ID:Juunhrh1直江批判で何故最上義光まで貶される(´゠ω゠`)
0547名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 21:41:17ID:2Lpdxj8o最上如き〜というのは、国力が小さいからだと思う
でも、一般的に最上ってどうしてこうマイナスイメージなんだろ?
0548名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 22:52:21ID:i07NiDFs謀略によって城を落とす事で、傷つかないようにはしていたのだが、
客観的に見れば暗殺になるわけでその辺のイメージもあると思う。
あと政宗側の視点での悪役のイメージが強すぎる。
にもかかわらず、最上家は断絶してしまっているので、
現存する資料が伊達家側からのものばかりになってしまっているらしい。
マイナスイメージばかり残るのはそこが原因かと。
0549名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 23:05:36ID:PigdwLE4あれで一気に悪のイメージが定着。
あの凄みを凄みと取れる人間は少ない。
今ほどではないにしても、大河ドラマの圧倒的多数視聴者は
無学単純な「TVが一番の娯楽」階層だからな。
0550名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 23:41:40ID:oIhmW4az(それが解決であるか否かは別として)話が終わってしまうから止めた方がいい。
結局は「物を知ってる自分達」による「バカは仕方ない」or啓蒙論にしかならないから。
真面目な議論として話すなら、だけどな。
0551名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 00:52:33ID:CRBrCpRK陰険な義光に毒殺されそうになりながら、間一髪脱した政宗とか、
最上をあと一息まで追い詰めながら、東軍勝利により無念の涙を飲む兼続、
って書くとそれらしい物語になるからな。
まあ、実際は物語とは違うようだが。
それから、>>548にもあるように、実際の義光はダーティなイメージとはちと違う可能性あり。
開墾、水運開発、町割り、寺社振興に力を入れ、義光治世では一揆がおきず。
謀略により倒した相手に対し、会津に逃げたその一族を呼び戻し家を再興させる。
上方では当代一流の連歌師に交じり歌会に出ている。など。
0552名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 10:24:46ID:mNsPDU6n> 陰険な義光に毒殺されそうになりながら、間一髪脱した政宗とか、
> 最上をあと一息まで追い詰めながら、東軍勝利により無念の涙を飲む兼続、
> って書くとそれらしい物語になるからな。
> まあ、実際は物語とは違うようだが。
本当は
陰険な政宗に暗殺されそうになりながら、間一髪脱した義光とか、
直江をあと一息まで追い詰めながら、伊達の協力が得られず無念の涙を飲む義光
なんだけどね。
0553名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 11:28:38ID:p2ufK7YS小説の話か
0554名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 23:50:42ID:iGVpHEvIでも妹の身案じたり駒姫の助命の為に愛や北政所に土下座までしたりしてる辺り単なる悪役ともとれなかったぞ
0555名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 23:55:35ID:Lcl0/k2h0556名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 00:38:42ID:6VGuyQu+駒姫の件は確かに可哀想だからなぁ。
例え大名の身分でも、娘の命のために土下座でも何でもする気持ちもわかる。
実際の義光も、助命の為かなり奔走したみたいだしね。
そしてこの件が、最上が反豊臣、徳川の強固な味方になることを決定づけた。
あと、義光は駒姫のために専称寺を建ててるね。
0557名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 01:20:42ID:BA5HjqL7それほとんど政宗の方が上をいってるじゃん・・・
いや、確かに功績があるのは解るんだが・・・
0558名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 21:26:17ID:GsISoc0iでも何か直江よりか功績あんじゃね。政宗>>義光>直江ってかんじ
0559名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 21:41:47ID:P8NyNVvV政宗>>義光>>>>>直江
でしょ、秀吉の覚えめでたかったと言う以外、
上の二人より秀でた部分など見当たらない。
0560名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 22:54:30ID:ZLVfZnRsお、伊達厨言い切ってくれるじゃんw
0561名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/08(日) 01:18:58ID:/HP0NQ8nこのスレも500まで議論しても、いやほんとに秀でた部分が見つからないよな〜軍事でも政治でも
知識人だったかもしれないけど、家老が学者でなくちゃいけない理由ないもんな
学者なんてのは、飼っとけばいいわけだし
ホモとして寵愛されて、懐柔されやすさで優遇された、ただそれだけの人
0562名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/08(日) 04:33:45ID:0Va/7jP0佐竹義重>最上義光>>>津軽為信>>>>>>>>>>>>>>直江=景勝=ヘタレ南部親子(信直利直)だろ
なのに直江は名将扱いで反面義光や為信は極悪人呼ばわりで義重に至っては空気
それに新発田重家の反乱鎮圧するのに8年近く掛かってる時点で景勝も無能だろ
こんなホモ上杉が生き残って勝頼や氏政が滅びたのは本当に皮肉としか言えない
0563名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/08(日) 22:27:51ID:Zikz5EUS0564名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/09(月) 00:50:28ID:rL6yG+cY@天下の家老と言われ
A30(6?)万石を領し、大名級の待遇
B伊達のような大大名にも対等にケンカを売り
Cはたまた天下人家康にまで堂々ケンカを売った
と、ここまではいい
その後
@主家を大衰退させ
A恩があるはずの豊臣を攻撃し、滅亡させ
B家中で嫌われて
C主人の景勝にも見捨てられ
D大事なはずの直江家を断絶させ
E死後も家中で否定され、その一派は左遷され粛清された
何か、極端すぎて、爽快感すら感じる
ヤバイ俺、このスレ読んで直江が好きになってきた。バカっぷりが見事すぎる
0565名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/09(月) 01:05:23ID:6xIECSwG0566名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/09(月) 01:07:09ID:6xIECSwGちなみに直江巡り行く話の流れで上杉神社が出た事へのレスだ。
美味いんだぞ、あれ。
0567名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/09(月) 01:08:24ID:6CgUlD8u小早川隆景とか鍋島直茂とかと並び称されてるから智将のイメージが出回ってるけど
>>564を見てるとなんだか福島正則の方が近い気がするな。
あぁでも考えてみれば並び称された時も三要素のうち智恵が無い言われたのは彼だっけ?
天下を狙うなという毛利の遺訓を守る隆景が勇気が無くて、
主君をあくまで立てようとする鍋島が大気が無いってのはわかるけど、
智恵が無いって言われたって事は秀吉の評価もあながち間違って無いか。
智恵が無いのに勇気と野望だけは一人前で自滅したのって
まさに直江と福島にピッタリの評価だ。
0568名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/09(月) 02:18:29ID:vQ0PN0Lgしかも景勝は御館の乱で味方してくれた上条政繁の聡明ぶりに嫉妬して追放した程の狭量者
変に意地張って武門の誇りとか言ってる分痛いし見苦しすぎる
大名やめたいと黒田如水に泣きついた毛利輝元の方がまだ人間味があって良い
このホモ主従には戦国最低の評価くれてやってもいいだろうよ
0569名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/09(月) 12:19:08ID:qkOU6jEFだいたい直江が義だ何とか言うのはやっぱ宿命じゃないかね。
家康に喧嘩売られたとき、利家以来世渡り上手で存続している前田家と違い、
武勇と大義を売り物にしてきた上杉家が「家康様。我々は悪くないですけれど謝ります」
なんて言えるもんかいな。
景勝をそれで説得すれば家中が景勝を侮るだろうし、ここはやっぱ直江がずいと前に出て
「武門の意地」とやらを示さにゃいかんかったでしょうよ。
結局は家康に従うことになったけれど、総合的な大戦で敗北した上でのことだから、
戦う前から屈服した家の連中とはわけが違う。
御家を残すかどうかも大事だが、それだけが大事じゃないと思った頭の固い連中に、
少しばかり温かみを持ってみてやるのが、それこそ人間味って奴じゃないかい?
まあ愛って奴だ。
0570名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/09(月) 12:50:31ID:6xIECSwGよる変動はあれど結局どっちが「良い」かなんて別にないんじゃないかね。
確かに命は残ったけど、それで子孫が幸せになるかというとまた別だし、
命あっての物種とはいうが、それを押し付けるのはまた本末転倒だし。
何かの小説で赤穂浪士の中で途中で外れた人間の子孫だかの話があったけど、
生まれた時から臆病者、卑怯者の血と言われて生きるのも大変だよなって話。
0571名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/09(月) 14:17:01ID:WmAn2AAW0572名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/09(月) 17:43:30ID:y/3tP3Woそこまでやった以上、もしもそれで徳川とぶつかって、玉砕した上に
お家取り潰しにでもなっていたなら、戦略としてはどうかと思うが、
まぁ義と越後兵の意地を貫いたというのもわかる、現在の風評も納得がいく。
だけどさ、違うじゃん。
上杉がやったのは、留守居とは言えそこそこの兵力を持っていた
結城秀康をおっぽり出して、石高4分の1以下の最上のそのまた支城に攻め込んでるわけよ。
駒姫の一件から考えても、最上が徳川につくのは当たり前とはいえ、
どう見ても火事場ドロボーにしか映らんわけよ。
0573名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/09(月) 18:52:30ID:vQ0PN0Lgしかもそれで負けてるしな
関ヶ原語の本領安堵で活躍したのは千坂景親
直江とは対照的に本庄繁長は大量の伊達軍を相手に奮戦
このホモ主従は何一つやってない
どころか景勝は甘粕景継の僅かな失態を責めて以降死ぬまで冷遇した
しかし景継はそれでも上杉に忠誠を誓った
本当に評価されるべきは千坂、本庄、甘粕、色部とかだろ
0574名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/09(月) 19:14:57ID:6xIECSwG言いだしっぺの法則。
上杉謙信の親衛隊長●千坂対馬守景親
ttp://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1155402933/
人が来なくて寂しいから思う様評価してくれ、いっそアンチが来る位に。
0575名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/10(火) 01:39:41ID:HXK7VIkB結局、上杉は大阪の陣で豊臣を攻撃しているんだぜ。名を取っているように見えんが。
名をとるなら、真田幸村みたいに最後まで豊臣に付けといいたい。
特に直江は一人でも大阪城にこもれと。
実を取るっていうなら、最初っから徳川に付けと。
威勢よく啖呵を切っておいてケンカを売っておいて、その後、「やっぱりごめんなサ〜イ」
ヘタレっぷりをむちゃくちゃさらしていると思うが。
0576名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/10(火) 03:13:44ID:ICWsoHno>特に直江は一人でも大阪城にこもれと。
景勝にそれを言うのは流石に酷だが直江はそうするべきだよな
ところで直江と似たような境遇の佐竹義宣はあまり叩かれんね
0577名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/10(火) 16:18:55ID:5bzIzW/N家康にケンカ売られる時点でそれ以前に間違いを犯している
直江らは、反徳川親三成の流れに持っていってしまっているのが失態。
そもそも上杉は名誉も国力もあり、天下を狙わないなら現状維持が目標なのは明白だったはず。
天下が豊臣だろうが徳川だろうが上杉には関係ない。
三成らと必要以上に親しくして、不必要なリスクを犯した時点で大局観が無かったというほか無い。
実力以上に領土をもらったり、役職に着いたりすることもできれば避けるべきだったかも。
0578名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/10(火) 17:31:39ID:jokQnuAT関ヶ原合戦前の上杉家は徳川秀忠と親密な関係だぞ。
1598年以降に出された徳川秀忠からの書状が米沢上杉博物館に複数残っている。
慶長3年9月20日付の手紙では景勝が会津に下向したお祝いとして秀忠から書状が送られている。
慶長5年3月21日付の手紙では上杉家が城下の整備と武力増強をするのはもっともな事といった内容の書状が秀忠から送られている。
少なくとも慶長5年3月21日までは上杉家と徳川家との親交はあった。
上杉家にしてみれば秀忠と親睦を深めていたわけだから、よもや戦争をふっかけてくるとは思わなかった部分もあるのではなかろうか。
秀忠の上杉家への信頼は戦後も変わる事無く続いているところから秀忠に上杉家を戦闘に巻き込もうとした考えがあったとは思えない。
となると上杉家を戦闘に引きずり出した人物は家康しかいない。
上杉家がどんなに徳川家に媚びを売っても無理矢理戦争に持っていっただろう。
つまり上杉家には戦う道しか残されていなかったと見る。
0579名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/10(火) 20:07:17ID:ICWsoHnoでもあれは死人に口無しって感じだし明治になってから家名再興許されてるからな
如何に畠山や宇佐美の影響があったからと言って直江家が再興されないってのは
やっぱ兼続と与板衆はある意味上杉家の癌化してたんじゃないのか?
尼子の新宮党みたいに
0580名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 11:33:31ID:KZ7vEqo+本当は前田家みたいに「ありません。景勝に上洛させます」と答えていたのに、
家康が「嘘つけ」と激怒していたとかだったら面白いな。
0581名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 11:58:00ID:OU2Exzj9評価外だし、手紙に怒った事自体パフォーマンスである可能性はあると思う。
0582名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 13:48:23ID:XaoTpbUE家老が勝手に徒党を組んでお家の運命を決めてしまったことが間違い。
直江はまさに上杉家の「癌」だ。
結局、大阪の陣で豊臣を攻撃して、さすがに「義」などとは言えなくなっただろ
だから「愛」だなんて言い出したんじゃね
0583名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 13:56:11ID:OU2Exzj9それに関してはすぐ上の >>578 にあるように徳川側との交渉も確認できると思うのだが。
三成側とやりとりした書状はどんなものが現存してるの?
0584名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 14:29:28ID:+XcZjf+mだから、関ヶ原の合戦前の上杉家は徳川とも石田とも外交交渉してるんだって。
すなわち中立の立場だった可能性が高いんだよ。
おまいがどこの歴史書を読んで決め付けた考えを持ってるか知らんが残ってる史料がなによりの証拠だろ。
しかも上杉家の史料は国が鑑定し、国宝に指定した史料だ。そんじょそこいらの二流歴史書とはわけが違う。
上杉家が徳川に反抗する態度を示したのは慶長5年6月10日付で景勝から家臣に出した書状からはじまっている。
兼続が主君を無視して先走ったというのは勝手な想像にしかならない。現時点でその様な史料は残っていないから。
おまいさんの考えを正当化したいなら信憑性の高い史料を探してくるこった。
それと兼続の愛は愛染明王からとったもので人間愛とかそういった類のモノじゃない。
上越市の春日山林泉寺の宝物館には当時に描かれたとされる愛染明王の絵と御旗がある事から今は愛染明王説が高い。
0585名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 17:18:29ID:JrbDgUw6なまじゲームの知識から妄想広げている厨房に何言ったたて
曲解して必要以上に貶めるんだから
「義」から「愛」にしたって言葉からしてアホだろ
何にもそんな記述無いだろ。てか、「愛」の前立ての兜はいつ出来たと
思ってるんだ?まさか関ヶ原後なんて言わないよなw
0586名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 19:06:25ID:5DZNAGqq>>582
↑
こいつはこのスレにズーと張り付いて直江兼続を叩いて喜んでいる厨房だ
煽るにしてもちゃんと調べてから煽れ
着色された時代劇や小説の見過ぎ
0587名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 19:10:38ID:jEP5KylN0588名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 20:10:49ID:pB7Dj8Vc交渉してるから中立だったなんていえないぜ。
直江が三成と仲良しで、上杉が親文治派になってしまっていたのはある程度周知じゃないか?
0589名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 20:27:45ID:bo7Jb+DN>上杉家が徳川に反抗する態度を示したのは慶長5年6月10日付で景勝から家臣に出した書状からはじまっている。
慶長5年の正月からだろ。家康は藤田信吉に景勝の上洛を命じたが、景勝は拒否。
2月には堀直政が景勝の不穏な動きを家康に注進している。
家康相手に一戦覚悟したが、直前で臆病風に吹かれ、最上攻めと相成った。
0590名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 21:35:40ID:KZ7vEqo+0591名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 21:38:42ID:1IjWrLbG何故?
0592名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 22:06:14ID:+XcZjf+mでは逆に訊ねるが秀忠から慶長5年3月21日に出された会津領内の工事や軍備補強の了承の書状はどうなるんだ?
藤田や堀のチクリ後の書状だぞ。
この書状も国が鑑定し本物と認められ国宝に指定されていて信憑性は高い。
上杉家に対して危機感を抱いていたなら領内の工事や軍備補強は認めないだろうに。
いっとくが俺は徳川にも上杉にも肩入れしてるつもりはない。
あくまでも現在残っている信憑性の高い史料を元に話をしている。
小説や時代劇で作られた話をするつもりはない。
0593名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 22:41:41ID:Ew74GAEb他の大名武将から好かれたりしていたら、この板での評価はどんなものだったんだろう。
個人的には、中世の最後から近世の最初という、人間の好き嫌いの感情がすごく大きな要素だった時代で
美形だったことはものすごい得点だったと思う。
それを生かすほかの能力がなかったらもちろんダメだけど、この時代のイケメンの価値は今の比じゃないと思われるし。
0594名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 22:48:58ID:OU2Exzj9外見は本人が整える気さえあればそれなりになるもんだし、何人かの
同時代人が客観的に外見を褒める記述を残してるとか、それなりに
有名な逸話があるとかないと「美形」だったかどうかなんてわからんだろ。
森乱なんかと一緒で、重用された小姓、近習=美形という後世の
イメージである可能性も高いと思うが。
0595名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 23:16:06ID:5QdSvPCKつまり美形なら小姓近習になれるんだ、みたいな言い方されても困るよな。
そんな馬鹿なという…。
だいたい穴小姓なんて、当時でも蔑み対象だろうが。
森乱は外見が美形なんてことは証明できんが、まぁああいう最後だと
後世の人間はどうしてもね…。
0596名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 23:22:14ID:YfnUcqRt特に大国同士は。
現代でも国交断絶になり大使館引き上げとかになっても、第三国で情報のパイプは繋いでおくもんだ。
子供の喧嘩じゃないんだから、仲違いして一切口をきかないなんてありえんよ。
交戦状態でなければ、儀礼的な意味でも書状のやり取りくらいするさ。
むしろこの場合は、書状の相手方が家康でなく秀忠であることに意味があるだろ。
仲良くなくても、少なくとも中立であれば、同じ大老同士なんだから、互いにやり取りしていいはず。
それがそうではなく、正式なトップである家康でなく、サブの秀忠であることの意味。
今で言えば、他国の大統領が総理大臣とやり取りせず、事務レベルと折衝してるようなもの。
これがどういう意味かわかるだろ。
0597名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 23:27:22ID:OU2Exzj9それはいくら何でも秀忠の事を軽んじ過ぎだ。
0598名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 23:31:00ID:JrbDgUw6立ち振る舞いがスマートで洗練されているという意味にも取れるけど
でも、そこそこ良かった程度のものだと思う
景勝は美形好きというより機転が利いて比較的立ち回りが上手い人間を
求めていたんじゃないだろうか。美形なら別に直江に似たタイプの奴を
後釜にしなくてもいいだろうし
0599名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 23:42:43ID:+XcZjf+m秀忠の上杉家に対する行いは儀礼的なものじゃない事くらいわかるはずだが。
関ヶ原後も最後まで抵抗し戦闘態勢を強いていた上杉家に対し江戸城桜田門前に屋敷を与えた上に直江兼続にも屋敷を与えている。
それに兼続が亡くなった時には香典として銀50枚を送っている。
譜代の大名ですらこういう扱いはほとんど受けていない。
また景勝にも些細な事でも書状を送って連絡を取っている書状がいくつも残っている。
0600名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 00:03:03ID:aBPJ52wh他国の大統領が、総理大臣と連絡を取らずに官房長官とのみ連絡をとっている。
この意味だけで、両国の仲が険悪なのはわかる。例え官房長官と他国の大統領が個人的に仲が良くても、だ。
0601名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 00:12:05ID:rX+ffjhw政治形態を例えるのは無理だから止めとけ。
0602名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 00:23:26ID:aBPJ52wh>戦国の延長である当時の「国」の概念や政治形態
に照らし合わせて、同じ大老同士の大名が、同じ大老同士で書状をやり取りせず、
大老の息子とやり取りをしてる。
この状況が、険悪ではないという説明をしてくれ。
0603名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 00:31:35ID:aBPJ52wh上でも書いてる人いたが、家老の立場で江戸屋敷もらうのはどうかと思うよ。
いくら仲が良かろうともね。
中国国家主席と仲がいい大臣が、北京に個人用大使館を貰うようなもんだ。
自国としての大使館が、すでに別にあるにもかかわらず。
それとも、これも
>戦国の延長である当時の「国」の概念や政治形態
ならば問題ない話なの?
0604名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 00:46:35ID:rX+ffjhwあと鱗屋敷を貰ったのはすでに江戸幕府が成立してからだ。
これだけ言えばその例えはおかしい事が自分で分かるよな?
0605名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 00:55:06ID:b0oMWdKX佐竹義宣は叩かれない代わりに、褒められてもいないねw
0606名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 00:58:32ID:aBPJ52wh同じ大老同士に拘るのがおかしいというのなら、おかしいという理由を説明してくれよ。
そして、大老同士でやり取りせずに、大老の息子とやり取りするのが普通だと説明してくれ。
それが説明できれば、秀忠との書状をもって、徳川と上杉が険悪でなかったという主張に同意しよう。
また、幕府開府後も藩は国だよ。直江は陪臣にすぎん。おかしいことに変わりはない。
0607名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 01:02:43ID:ONSvQh0K主家を立てる、二心無きを示す、というような意味で辞するのが常だろう
0608名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 01:03:14ID:ONSvQh0K0609名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 01:07:14ID:ed5yGJ+M秀吉の、直江をおだてて懐柔しておく政策を、徳川も踏襲している
武士としてのモラルに甘さがある。
上杉家よりも、名士としての自分が大事なんだろ。だから独自の江戸屋敷なんか貰ってたんだろ
0610名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 01:14:50ID:MpVHLchuお気に入りの陪臣が屋敷を賜るのは、秀吉時代からの慣例だね。
直江の場合、徳川家の好意を無視する方が危ないかもしれんよ。
上杉家中の不和にしても、いまさらって感じだし…。
0611名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 05:44:42ID:RBCAfabtでなされていて、それを脳天気に、額面通りに受け取っていることだな。甘い。
伊達政宗と比較すれば、一目瞭然。政宗と家康は関ヶ原の直前、頻繁に文書を
やりとりをし連携を強めていく経過がみてとれる。また家康とは別に秀忠や結城
秀康とも書状を交わしているが、それは戦術的な軍事作戦などの打ち合わせといった
類。家康は4月には島津惟新に、はっきり上杉征伐の意を伝えている。
当初から景勝と直江は、情報戦からも孤立していたことがわかる。
0612名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 10:25:53ID:CoaaIhSnおまい秀忠の性格をわかっていないな。
代々徳川家を支えてきた本多家は本多正純の代に一度改易になったわけだ。
しかし先代正信やそれまでの正純の功績を考慮され5万5千石が再び与えられたわけだよ。
だが正純は固辞しちまった。
この対応に秀忠は怒り心頭となって本多家は再び改易となり出羽横手に流罪となった。
秀忠というと一般に温厚な性格だったと勘違いされてる部分があるが実際は全然違うわけだ。
もし兼続が屋敷の拝領を拒んだなら、もしかしたら上杉家が取り潰しにあっていたかもしれんのだぞ。
0613名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 12:03:18ID:CoaaIhSnその伊達も充分に甘いんだがな。
100万石のお墨付きを家康から貰いながら南部領で一揆を誘導した事がばれて反故されとる。
加増はたったの2万石で家康側につきながら戦前の所領からの増加率はワースト1。
家康と直接連絡を取っていても何の意味もなかった結果だ。
0614名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 15:15:15ID:UT4fgVdDそりゃあしょうがないだろ。政宗はどこまで行っても所詮政宗なんだからw
0615名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 16:55:54ID:pAN3M70Z>100万石のお墨付きを家康から貰いながら
馬鹿だなあ。この文書は証文ではなく単なる「覚え」。
リアリストの政宗が信じる訳もない。ナイーブな上杉ならありえるがw
慶長6年早々に家康と政宗で上杉を討伐した際にでも実現されただろうが、
残念ながら上杉は、慶長5年暮れには徳川に土下座してしまっている。
なお、家康はこの件を負い目に思っていたため、大阪の陣で宇和島10万石
を与え、政治的な手打ちを行っている。
0616名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 18:06:10ID:ukOpH00r0617名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 22:39:24ID:eh1wXMcv直江の、ダメなところは、独善的で、他の家臣と仲良くやれないことだ。
伊達の片倉は、オレは殿様じゃねーただの家老だ、専用の屋敷なんかいらね。といって断っている。
とがめられていないところをみると、幕閣とツーカーの仲だったんだろう
0618名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 23:10:22ID:9TTiLC9Bカッコいいと思ってる奴が多いからなあ・・・。ここもその例に漏れず・・・。
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