【義】【義】直江兼続を語るスレ 2【愛】【義】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 13:17:04ID:EL/8vuxv【愛の戦士】 直江兼続を語るスレ 【無双に見参!】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1137033419/
0320名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 19:16:26ID:ZnFn2pPc割と簡単に大坂を退去した毛利ですら3分の1以下に減らされるわけだし
0321名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 19:45:51ID:KqRUk1Qa天皇家は政治の実権を手放したから存続したんだろう。
>>319
無理。
上杉家は謙信原理主義だから謙信がやらない事を景勝がやったら家臣がついてこない。
家中が分裂したところを家康に潰されてたと思う。
0322名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 20:39:49ID:BOIZ8x1kこんなんじゃ、上杉もその他大勢のワン・オブ・ゼン。
これしてたら、俺は今上杉ファンじゃないね。
0323名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 20:41:49ID:DPxwkQt3秀吉が大のお気に入りで高く買っている直江兼続という男が居たからこそ上杉に120万石与えたんじゃないのか?
秀吉は高く買ってる人物には割とポンと大封与えるからね。
蒲生氏郷とか丹羽長秀とか小早川隆景とか鍋島直茂とか前田利家とか徳川家康とかがそうだ。
その代わりその男が死ぬと簡単に領地取り上げるけどね。
パッとしない上杉景勝とまとまりのない家臣たちの集団体制では
上杉にそんな大封は与えないだろう。
「直江兼続が居なければ上杉は大封失わずに済んだ」なんて理屈自体が空論としか思えない。
まあ元は越後40万石だったんだし、
豊臣政権に貰った領地を豊臣政権のために戦って返上したと思えばあまり惜しくないと思うが?
0324名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 22:48:57ID:ARykyBrd違うだろ、秀吉が上杉家を豊臣の柱石にするために、都合のいい直江を見つけて、大封をくれて懐柔したんだろ
0325名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 23:28:49ID:SuyM2dyM前田利長に比べたら景勝も直江も百倍律儀だし、正直それでよかったんでは
上杉の意地を見せて、名は残したんだから
0326名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 23:32:27ID:j86rv/H+0327名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 23:35:04ID:DPxwkQt3そうかねえ?
どっちにしろ直江がいなければ、あれだけの厚遇はうけなかったと思う。
なんにせよアンチの理屈は
都合の良い部分だけ切り貼りして繋ぎ合わせ上杉に良い話として、
直江や吉良に都合の悪い部分だけ押し付けてるようにしか思えない。
直江がいなければ120万石にはなってないだろうし、
吉良が自分の嫡子を養子出さなければ上杉は取り潰されてたし。
0328名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 23:39:00ID:DPxwkQt3前田家なんてヘタレのイメージは
今の世まで伝わってるし。
前田利長以降の卑屈な徳川屈従政策は
実はかなり取れたけど、名の方は最低だな。
0329名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 23:54:02ID:v9yGzXMf戦国オタならいざしらず、一般的にはどっちもどっち。
人を引き付ける魅力としては、残念ながら金沢>米沢だし、戦国オタに人気高いと言っても、
その人気のもとは直江がどうこうより、謙信とその家臣団にあるわけだし。
残念ながら、景勝と直江だけではそんなに人気はあがらないだろう。
どうも、ここの直江好きは何でもかんでも直江擁護になればそれでいいという感じがする。
直江擁護の価値基準がブレすぎ。
0330名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 00:17:07ID:lgLIur7B会津移動で、増封になって美味しい思いをしたのは直江だけ。
家老おだてて懐柔するのは秀吉の得意技なんだよ。
直江に加えて、徳川の石川数正、毛利の吉川なんかが懐柔されて主家を売ったバカたちだ。
俗に、天下三大バカ家老と言う
0331名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 00:41:41ID:xFNxemK+0332名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 00:51:58ID:cVARx9B9家康に通じて毛利の生き残りを画策したものの、ツメが甘く
転けた。秀吉に懐柔されたとか分け分からん事を抜かすな。
石川数正の場合は、対秀吉の対応に苦慮した末に家中で孤立し、
内通疑惑などが持ち上がり白眼視されるようになり、徳川にいられなく
なってしまったという側面が大きい。懐柔されたというよりも、離間策に
かかってしまったという感じ。
会津へ国替えになったのに直江はあまり関係ない気がする。米沢30万石の話だって
実際は6万石程度らしいし。それに、基本的に家中の連中の禄高は上がっているからなあ。
なんか論になっていない気がする。
>>330を筆頭にアンチも擁護派もなんかギスギスしているし、必死さを感じる。
0333名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 01:22:03ID:xFNxemK+やたら吉良ネタを持ち出す。レス例>>27、74、104、283、292、330など)が自説を繰り返すから
みないい加減にウザくなってんじゃね?
0334名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 01:25:17ID:+7fkRVR60335名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 02:47:49ID:PGOv53G4吉川は親父の元春の代から、毛利家の中では豊臣嫌いの家なんだが。
秀吉が優遇したのは小早川隆景と秀包で、吉川はやや冷遇された。
しかし、別に関ヶ原の裏切りの土壇場まで親徳川だったわけでもない。
当時、毛利家の中で東軍へ内応を一番疑われていたのは毛利秀元だった。
吉川広家は、内応の仲介をすべて黒田長政を通して行っているように
徳川家とのコネクション自体が薄かったくらい。
黒田家は豊臣政権下で毛利家担当の外交係で、昔から吉川家と最も仲の
よかった家だから、長政を頼ったのも正しい判断。
関ヶ原では、小早川隆景が秀吉の中国大返しで恩を高く売って所領安堵
されたやり方を目指して、結果的にこけた感じ。
狙い自体はそう悪くない。時間があまりにもなくて(徳川の使者と作戦
について直接話したのは関ヶ原前日)家康の言質が取れなかったのが
甘かっただけ。
0336名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 04:00:49ID:hKoTMlhN無理ありすぎるぞ
0337名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 04:25:56ID:xFNxemK+軍事能力:微妙。議論アリ。
政治・外交感覚:微妙。議論アリ。西軍についたことで叩かれるが、結果論でいくなら
徳川とそれについていった大名以外は先見性ナシってことになっちゃうからなぁ。
信長だって家臣に背かれる程度の男ってことになりかねん。
ところで人格はどうなんだろう?伊達との絡みを見ていると割と厨っぽいのだが。
三成タイプの良く言えば剛直悪く言えば傲慢・偏狭って感じなのかね。
0338名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 06:44:16ID:hKoTMlhNどうかねえ。
秀吉が最も信頼した家臣の蒲生氏郷の後釜という事で、
かなりのお気に入りの直江がいる上杉をあてたと思うぞ。
あと、直江自身の石高というより尚江が取り仕切る上杉家というのが
大事なんだと思うが。
0339名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 07:22:30ID:hKoTMlhN織田信雄と同じ運命・・・・
0340名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 07:53:41ID:NsNSi0bS名も実も失った>毛利
名をとり、実を失った>上杉
名も実も得た>島津
島津は遠方だから云々という意見があるが、武力征伐の危険に
最大限さらされていた。黒田、加藤をはじめとする九州勢は
島津侵攻計画を練っていたが、家康に最終決断を躊躇させる
何かがあったということだろう。気の狂ったような撤退戦、
井伊直正の致命傷を、その目で一部始終をみていたし。
外交的な勝利者は、島津だった。
0341名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 08:49:23ID:hKoTMlhNただ、それが島津義久の老獪な外交手腕というよりは
単に状況や運が重なってものだと思われ。
島津義久は関が原以前から実現不可能な中立主義を強硬に主張し
関が原後も徳川の船を焼いたり、かたくなに上洛命令を拒否したりで、
結局は島津忠恒が独断で上洛して島津家を救った。
義久はそんな忠恒を「親不孝の極み」と罵った。
どうやら中立主義を貫けると思いこんでて徳川の臣下とかは思考の外だったらしい。
0342名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 08:55:28ID:hKoTMlhN正則の無茶な要求に屈さざるやおえなかったように
関が原戦後は家康と言えど万能ではなかったと思われ。
やはり状況とか時間的制約とか一杯あったろう。
島津攻めも遠すぎ精強な島津の本拠に攻め込みがたく
討伐軍が負けたりしたら厄介なので、
ここは徳川の天下のために穏便に収めておこうと思ったんだろうね。
0343名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 09:24:11ID:sq2368/z0344名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 09:29:31ID:9QtN9CXH0345名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 09:32:39ID:JnI5SWij名も家も守ったんで褒めてあげて。
0346名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 10:10:30ID:IwpCcjJd徳川家康 → 天下人
前田利家 → 加賀百万国
宇喜多秀家 → 滅亡
毛利輝元 → 30万国
小早川隆景 → 断絶
上杉景勝 → 30万国
こうみると、上杉はそう悪いほうじゃないと思う。良くもないけど。
0347名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 10:20:22ID:07vbO7sX0348名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 19:27:32ID:4TIhtZWQされただけ
0349名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 23:07:41ID:bXVlMINi島津は実石高は40万石程度しかないのに参勤交代は鬼のように大変だぞ
0350名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 07:01:49ID:voWTviyN島津だけは特別で実高は表高の2/3程度、
しかもいろんな建築や土木工事を命じられたり、
遠くて大人数の参勤交代をしたりで大変。
まあ、島津家や上級武士はそれでもよかったが、
農民や中下級武士は大変。
西郷や大久保が農作してたように中下級武士にも農役があった。
0351名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 12:06:27ID:AA6C8EGSやっぱり、琉球(中国貿易)・奄美(砂糖)を持ってたからか?
一種の藩内経済植民地があったっていうか
0352名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 12:39:47ID:2eMiqltJ0353名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 13:01:03ID:TF5MNCg3その後平安時代になって日本に渡来してきたときの子孫だそうだ
鎌倉時代以来の名門だったので官位や領地を認められたというのが公式見解
0354名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 13:52:39ID:fhi4+FEc初耳だなあ。島津は惟宗氏の系統で、初代忠久が頼朝の落胤であると自称した
ってのは聞いた事あるが
0355名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 15:18:17ID:7fgo7SW3他にやり合える人物がいなかったというか
しかし、転封二年目の合戦は早すぎた…
0356名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 16:49:10ID:/bmBmYHP0357名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 17:04:16ID:w8wOe+b10358名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 18:32:20ID:NKCZ5fdjワロタwなぜ伊達ごときに?
0359名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 18:55:52ID:epbnn6VG秀吉の腹は伊達対策に決まってるだろ。会津は伊達の旧領で、
火薬庫みたいな場所だ。景勝にとっては迷惑な話だったが。
会津が伊達の脅威にさらされているのは上杉自身、認めている。
「蓋し福島、梁川は伊達政宗を押える枢要の地たるに依而本庄、須田両豪家、
其撰に当るものか」(「上杉文書」)
0360名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 19:11:26ID:voWTviyN0361名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 19:21:20ID:2bx5qZmT御館の乱以降のガタガタな内部を纏めて、景勝の正統性を主張するために
謙信公のカリスマを利用したに過ぎないと思うのだが。
俺も兼続は性格悪そうな人だと思うんだが、
かといって義だ何だとその辺で嫌悪感を抱くのには違和感がある。
>>351
調所広郷の改革の成果。
その過程で奄美琉球の搾取や密貿易の拡大もしているが、借金対策も大きい。
調所の前にも蘭癖大名重豪が幕府への影響力を拡大していたが、
そのために財政を逼迫してとんでもないことになっていた。
>>354
惟宗氏は秦(はた)氏の一族。
似たようなのに後漢霊帝の子孫を名乗った坂上氏なんてのもいる。
0362名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 19:34:06ID:wkWCUzUY秀吉の時代すらも伊達中心の妄想かよ、幸せなやつだ
0363名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 19:44:35ID:NAOSCXZP義ーだの「謙信公に采配を任された」だの言って、家中で権力を拡大していったんだろう。
あと、景勝の寵愛と秀吉の都合だろう
0364名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 19:45:29ID:nP1NoPxC上杉を本拠地からずらして弱体化させるのが本音だろ。
家康の関東移封とか。
0365名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 19:47:24ID:F4l1yF2O0366名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 19:47:33ID:m6MWQ6Jbだろう、だろう、て想像かよ。
0367名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 19:59:23ID:7UJ/QArb0368名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 20:19:20ID:voWTviyN経済的に改革があったからではなく、
単に商人からの膨大な借金を踏み倒したからだろ。
それに尽きる。
0369名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 20:33:13ID:6Z096M6V義ー義ーなんて言ってるのは無双の中の兼続だけですから。
ゲームと現実を混同して想像の中の兼続像を勝手に作らんように。
漢籍、儒教に造詣が深かったとはいえ、ね。
0370名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 21:00:43ID:VbRbt9fP蒲生・佐竹・上杉の三者体制で抑え込むのが理想的だったような
氏郷が欠けたのが痛すぎる…
0371名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 21:02:16ID:voWTviyN含めての話じゃないのか?
領民から二束三文で物資を買いあさるあれね。
独り言なんだが、このスレ読んでると
正義とか悪とか立場によってガラリと変わるもんなんだとわかる。
幕末の薩摩・長州の借金踏み倒しも
薩摩・長州のファンには痛快な話なんだろうが。
債権者の商人にとっては地獄のように理不尽な話しだからね。
0372名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 01:28:59ID:yiEUhavE「義」が家中で飽きられて、次は「愛」にしたんじゃね。でも、景勝に見捨てられた。
そのまんま逝ってたら、次は「何」を掲げるつもりだったんだか?
0373名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 02:12:00ID:o/RQ+dxGゲームの中だけ。「愛」も愛染明王の「愛」らしいが・・・
0374名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 02:21:58ID:eI+FjK5N伊達藩は固定相場で買い取ってたからな
0375名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 04:10:47ID:h/bC5FRW上杉史年表からも伺えるな。景勝が会津に移封したのは、慶長3年の
3月のことだが、何とその月に、伊達政宗が攻めてきて、それを撃退し、
3月29日に兼続が諸将にに感状を与えたとある。
この頃、伊達政宗は京の伏見屋敷に在住して、秀吉らと有名な醍醐の花見
などに列席している。幻覚を見たのだろうが、伊達勢が何かちょっとした
動きを見せると、政宗本人が攻めてきたと、たびたび記されているのをみると
気の毒としかいいようがない。
すべては氏郷の死が引き起こしたことではあるが。
0376名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 04:39:11ID:4YgabpCk伊達がいるんだから過剰になってもしかたあるまい。
0377名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 09:57:43ID:pQR+kDBG0378名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 10:11:51ID:XUQl4NpNまぁ、それが本音だろうて。
もちろん隣接する大名への牽制とか新しい領地を治めるだけの器量とかも当然理由としてあるだろうが。
将来豊臣家を脅かす勢力になりそうな大名を出来るだけ大坂から遠ざける。
新しい領地へ移るとなれば莫大な大金を使う事になる。
領内を治めきれなかったら佐々成政と同様に切腹させて責任を取らせる。
どういう形に転んでも豊臣家がおいしい思いをする様に出来てんのな。
0379名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 10:21:39ID:qJZFvIVp太閤が天下人なんだから、そりゃそうだ
0380名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 12:36:41ID:GhLrK+q2利に釣られた松田の裏切りを許したのもおかしいし
0381名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 12:53:08ID:0nWEc25E天下統一できた面も大きいから、難しいところではあるな。
0382名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 12:54:20ID:/1nXa+npこの矛盾に満ちた不思議な人への不思議な人気。強弁擁護する人達…
要するに、オマイら伊達コンプレックスか。なるほど…
確かに伊達と比べると何一つ勝っているところが…
0383名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 13:03:03ID:LeusHrzd伊達厨よ、日本語でおk
0384名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 13:27:23ID:GhLrK+q2長谷堂でも伊達は兼続に撃退されたし
0385名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 13:42:46ID:LeusHrzd昔、上杉家も直江も嫌いだったんだけど(何というかこの人態度でかいし)
この頃その矛盾に満ちたあたりがかえって面白いと思うようになった。
0386名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 14:15:56ID:xbwYYD2P毛利は、小早川隆景と吉川元春の両川なきあと、凡人ばかりになっていた。
しかし、凡人ばかりだからこそ、凡人輝元を中心に団結し、開墾や殖産興業に励み、
士風も保たれ、豊かな藩になっていく。というもので、いい番組だった。
直江という、政治も軍事も外交も任された、特大家老の長期政権ってのが、果たして上杉にホントによかったのかどうか。
まあ、こればかりは直江本人に非があるわけではないけど。景勝と秀吉の責任かな
0387名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 17:01:37ID:03Om5swp>>384
長谷堂で撃退されたのは伊達じゃなくて直江だろーがw
0388名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 17:22:00ID:WAjY4koB>長谷堂でも伊達は兼続に撃退されたし
そりゃ、掃討・追撃戦のことだろ。撃退されたのは上杉。最上に援軍として派遣されていた
伊達政景の軍は、関ヶ原の敗報を聞き、米沢へ遁走する兼続を、最上と一緒に叩いている。
兼続は営舎を焼き、転がるように逃げ帰っている。
ちなみに、政宗は、この勝利の様子を家康の側近井伊直政へ報告している。
0389名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 17:40:17ID:hJd0pZqO伊達厨は、腐るほどある伊達スレへ帰ればいいのに
粘着も自演もいい加減にすればいいのに
0390名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 18:06:15ID:FnPfldfd> ちなみに、政宗は、この勝利の様子を家康の側近井伊直政へ報告している。
当時の武将が書いた書状が真実を語ってるわけじゃないことは知ってるよね?
そう。これもいわゆる「大本営発表」ってやつさ。実際には勝っちゃいないのさ。
0391名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 18:20:13ID:GhLrK+q20392名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 18:28:40ID:WAjY4koB劣勢著しい上杉が伊達を「撃退」したとはとお世辞にも言えない、とレスしたまでのこと。
反論があれば「撃退」? した、のそのソースを示すのが先だろ。
長谷堂城では兼続が十日以上包囲しても、義光は動じていないし、上山で上杉が大敗したことも事実。
兼続の指揮に疑問を呈した上泉泰綱は、その進言を聞き入れられず、里見に攻められ、戦死してもいる。
直江が、戦術家としても失敗を犯した事実は変わりはないよ。
0393名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 19:53:37ID:A3k/xO3y十日で落ちる城ってどんな城?
きちんと守りが固められた城が十日程度で落ちるわけ無いと思うけど。
0394名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 20:10:53ID:03Om5swp何度も攻撃失敗して攻めあぐんだのは、時間が無かったとは別だろ。
0395名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 20:24:01ID:k+f2hnOZ上杉方の白石城。
千人近い兵力に守られていて、たった2日で落ちたよ。
0396名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 00:44:39ID:P3PliyDgどうせ断念するんだろと思ってたら家康死後マジで挙兵して
幕軍と戦い出したからびびった
0397名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 01:31:49ID:W+dOI3Sr上泉泰綱かわいそう。(つД`;)
白石の甘糟は、直江のヘタレ指揮に対する仕事ボイコットでしょ
0398名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 02:31:17ID:D9s9r47A本文くらい読もうね。「きちんと守りが固められた城」でしょ?志村伊豆の籠る長谷堂と、
城主不在で、いるのはヘタレ(としか思えない)登坂だけの白石とは比較できまいて。
>>397
本当にお前いろんなとこに出てくるな。甘糟は白石城を守っていたが、会津にいた
奥方が亡くなったそうで、白石を空にしていたらしい。そこを攻められて落ちたらしい。
やはりこの不手際に上杉景勝は激怒したらしく、直江がかろうじて取りなしたらしい。
ちなみに、甘糟自体は徹底抗戦を主張したらしいな。
0399名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 03:18:11ID:rdPXLJc6うーん、でもその「白石城はきちんと守りを固められなかった城」という解釈はおかしくないか?
城主(代行)がへたれだからきちんと守られたうちに入らない、といっているわけでしょ?
城代も含めて城の防御能力=大名、武将の実力なんだから。
城主不在でそれこそ名も伝わらない城代が大軍相手に城を守りきった例など幾らでもある。
「登坂がへたれだから、白石城は落城のうちにカウントしないっ!」ていうのは、
上杉びいきの俺から見てもみっともない意見だ。
奇襲を受けたといっても白石城は十分な兵力を残していたはずだし、
そもそも奇襲を受ける受けない、城代を選ぶ時点で
すでのそこに大名、武将の器量、城の防御力、すべての能力が試される。
極論すれば、「登坂を城代に選んだ甘糟、甘糟を城主に選んだ景勝の責任」だ。
そこに目をつぶっては、この手の議論なんか何の意味もない。
0400名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 08:27:40ID:dJ+kVHhHなんつーか「綱憲の悪政があったおかげで後の上杉鷹山の功績が輝くわけだが」とか言ってるが、
都合の悪い事は外部の人間(つまり綱憲や吉良)に押し付けるくせに
綱憲と同じく他家から養子に来た鷹山は「上杉家の誇り」みたいな言い方している。
せめて、どっちかに統一して欲しいもんだ。
別に上杉鷹山は上杉家の血もたいして引いてないし、10歳で養子入りしたので
上杉の者に先見の明があったとは思えない。
そのうえ「上杉鷹山が上杉家家風の元、改革を行った」なんておせじにもいえないだろ?
なんせ七家騒動を見ればわかるとおり、上杉鷹山が生涯を通じて戦った相手は
まさに「上杉家そのもの」だ。別に外部の連中と戦ったわけではない。
鷹山は借金まみれの藩政を立て直すために上杉家の本流たる保守派の連中と激しく争い続けて改革をなしとげた。
上杉家があれだけ借金まみれになったのも、武士を減らさなかった事や
直江以来さして改革をしなかったことが主因で吉良や綱憲のせいで少々膨らんだ借金など副次的なものでしかないだろう。
それなのに「上杉家の英君、鷹山公の改革により直江や吉良のせいでガタガタになって藩政が立て直された」
みたいな意識になってるのはイタすぎる。
0401名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 09:51:18ID:T9yf9HEeあっちは、八幡太郎義家以来の御当主様だから
転封直後に即実戦ってのが、そもそも無茶だわ
0402名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 10:58:13ID:nMYh4TUmおまい、なんか勘違いしてないか?
>>48の書き込みは当時の米沢領民の気持ちを代弁してるだけじゃないか
個人の感情的な表現じゃなくて
そういった史料は今でも米沢に残ってるぞ
史料が信用できないなら直に米沢市民に聞いてみれば?
米沢市民の大半が上杉家の家臣や上杉家に仕えていた商人とかの末裔だから
0403名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 11:11:04ID:rdPXLJc6たとえ>>48が当時の米沢領民の声というか感情を代弁しているものだったとしても、
史実を考えていけば、上杉の困窮は上杉自身が生み出したもので、
鷹山は外から来た改革者であることには変わりがない。
なんというか、他県から集めて入学させた選手で甲子園に行った地元高校を
さすがオラの地元!!と大騒ぎする市民のような気持ち悪さがある。
0404400
2006/09/18(月) 11:11:07ID:dJ+kVHhHふーん、そうなの?
それがもしも史実だとしたら、あんまり失礼な事は言いたくないが、
米沢の人たち自身がイタイと言わざるやおえない。
自分たちでしっかりこさえた借金を全て吉良や綱憲に責任転嫁する癖に
自分たちが執拗に抵抗した鷹山の改革を「我らが鷹山公と共に成し遂げた」みたいな思考になってるという事か。
まあ確かに人間なんてものはそんなものだけどね。
都合の悪い事は外部の特定の人間に押し付け。都合の良い事は自分たちが成し遂げた。
みたいになるのは確かに普通って言えば普通だ。
0405名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 11:25:19ID:6oeyWng8薩摩・長州も完全にスルーしてるから、どこでも一緒だべ。
ザルツブルグもモーツァルト解雇して追放したのに、
モーツァルト生誕の地ということで、観光客呼びまくり。
0406名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 12:02:55ID:nMYh4TUmいくら鷹山公が名君とはいえ一人では改革はできんよ
多くの領民が賛同し協力してくれたからこそ改革が成功したんじゃないのか
鷹山公が普通の藩主と違ったのは自らも倹約したからでしょ
鷹山公以前の藩主も倹約令を出したりはしていたけど自らは倹約していなかったから領民はついていかなかっただけで
鷹山公の二代前の藩主宗房公は結構頑張っていたけど運悪く早世しちまったが
養蚕業を広めたのは表向きは鷹山公の功績だけど実質は側室のお豊の方の力だし
鷹山公の功績というのは米沢領民のやる気を引き出した点だとおもう
0407名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 13:38:34ID:rdPXLJc6そのやる気を引き出すだけの人材すら自前で生み出せなかったのは、どこの土地かね?
やる気を引き出すトップと言うのがいかに難しいか、
そういうトップがいれば、後の人間はどんなものでもなんとかなるというのが日本人の習性。
鷹山以前に上杉が自前で改革をしていて、その路線に乗っただけなら
そういう主張をしてもいいが鷹山の改革を見る限り、よそから鷹山が来なければ
何も変わらなかった、というのが米沢藩のクオリティだったことは間違いない。
0408名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 13:45:22ID:D9s9r47A須田・芋川・色部・千坂・長尾・清野・平林って、いずれも家老クラスの
重臣ばかりだな。
0409名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 16:33:28ID:ulaUoMbRこの時期は米沢藩だけが財政苦だったわけじゃない。
米沢藩がトップクラスの貧乏藩だったのは間違いないが何処の藩も苦労してんだよ。
鷹山来なかったら米沢藩は変わらなかったって?
そうかもしれんが現実には変わってるわけだ。
領民の考えや意識が変わっただけでも凄い事だぞ。人間年齢を重ねれば重ねる程己の意識や考えを変え様としない。
>>408
七人の重臣の反乱だから七家騒動。
ちなみに切腹させられた芋川家と須田家は二年後に許されている。
七家騒動の首謀者藁科立沢は斬首になったが息子の立遠は鷹山に養蚕業を薦めた人物でその功績により御記録所勤めに取り立てられる。
NHKその時が歴史が動いたでも放送されたが鷹山35歳までの改革は失敗している。
漆・桑・楮の三百万本の植樹は未達に終わり漆を原料にして作られた蝋燭も全く売れず。
重臣にイエスマンばかり起用したせいで竹俣当綱の不正の発見が遅れ、とどめは天明の大飢饉。改革失敗の責任を取る形で藩主の座を降りた。
10代藩主冶広時代の改革は鷹山の改革とは違った方向の改革をしたが領民はついて来なかった。
領民からは鷹山時代の改革に戻せとの声が多く上がって再び鷹山が表舞台に登場した。
0410名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 17:50:00ID:rdPXLJc6いいかげん、あきらめろ。
君の言っていることをどんなに積み上げても、米沢の人間=上杉がすごいという理由にはならない。
借金背負ったダメ人間が、いい弁護士とであって、借金をゼロ近くにまで返済した。
このダメ人間は、普通に貯蓄した人間よりも有能だろうか?
ちなみにそのダメ人間の人生(藩の一生)のうち、上手くいったのは、その弁護士と二人三脚であゆんだ
ほんの一時期だけだったとする。
すごかったのはダメ人間? 弁護士?
0411名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 18:43:13ID:dJ+kVHhHただそれが
都合の悪い事は一部の特定人物に押し付け
都合の良い事は自分たちの努力とかいう
偏った発想になってるのが感心できないだけ。
なんつーか「お前のせいじゃなくて♪ お前のおかげ♪」とか
いう歌詞の歌があるけど、もっと人間、功罪両面で見ないとね。
養子を出してくれた吉良や米沢藩の礎を作った直江にもっと感謝しても良いと思うんだが。
0412名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 20:11:58ID:3Esnrqtu0413名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/19(火) 06:49:41ID:B/NXct9G改革しようとしても官僚やら族議員やら地方自治体やらに抵抗されて全然うまく行かないね。
良い意味での独裁がないと改革はうまく行かないんだろう。
長州や薩摩みたいに借金踏み倒すわけにもいかんしね。
かなりスレ違いな雑感でした。
0414名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/20(水) 06:47:35ID:Tk5p70sFただの田舎たたきだと思っていたけど、ここを見るとあながち間違っていないかもしれない。
よいことは俺らの為したこと
わるいことはよそ者が持ち込んだこと
事実はまるで逆なのに。
0415名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/20(水) 08:41:02ID:Ce80QaOC彼は楽天的なエゴイストで、時代や流行から超然とした耽溺派であった。
この男は時代や流行に投じる媚がなかったが、時代の流れから投影される理想もなかった。
彼は通俗の型を徹底的に軽蔑し、通俗を怖れる理由を持たない代りに、
ひとりよがりで、三成すらも自分の趣味の道具のひとつに考えているばかりであった。
家康も直江山城を怖れなかった。怖れる理由を知らなかった。
直江山城も家康を嫌っていたが、それはちょっと嫌いなだけで、実は好きなのかも知れなかった。』
(坂口安吾「二流の人」)
0416名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/20(水) 09:01:55ID:Ce80QaOC今読んでも人物造型が新鮮で面白かった。家康も秀吉も黒田も直江も
みんなキャラが立ってて魅力的でした(伊達政宗がイマイチなのもイイ!)
坂口安吾は新潟出身だけど、ひとひねりある上杉ファンという感じで
なかなか魅力的でしかもうがった直江や上杉家の描き方をしています。
安吾には「直江山城守」という短編もある。
0417名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/20(水) 09:18:54ID:TW7aTLFu世間知らずだな
どこでも郷土ゆかりの武将は祭り上げられてるわ
それが当時地元民が見限った武将でもな
0418名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/20(水) 09:27:52ID:r/UmDa210419名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/20(水) 09:42:00ID:E++2pBxz中で最も外征に積極的で、秀吉をけしかけた、なんて平気で嘘を書いている。
伊達政宗にコンプレックスもっていたとしか思えない。
あまりにも適当極まりない政宗像なので、宮城県民から総すかんを食らっている。
本人も気にしたらしく、牡鹿半島へ旅行したときは、子供から石までぶつけられ、
ガキ相手に睨み返した等、被害妄想的に書いているのが微笑ましかったな。
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