【義】【義】直江兼続を語るスレ 2【愛】【義】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 13:17:04ID:EL/8vuxv【愛の戦士】 直江兼続を語るスレ 【無双に見参!】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1137033419/
0242名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 06:54:36ID:VsA6shdZ2chにありがちな議論で、みんな自分勝手の情況を想定して話を進めるので、
お互いに話が噛み合わなくなってるのが目に見える。
俺からいわせれば平地の城のほうがどう考えてもアクセスのしやすさという一点でもって
攻略しやすいと思うが、そう言うと忍城や下妻城のような沼沢地に囲まれた城の例を出してきて、
必ずしもアクセスしやすいわけじゃないよ、なんて言われたりするからな。
まず平地にある城と山間部の城の定義をしなきゃならん。
平地のどこにあるのか、山の頂上にあるのか中腹にあるのか等々。
もちろん寄せ手の規模や装備等、守り手の規模や装備等も同じ条件で決める必要がある。
それ以外にも、守り手が水を確保できる可能性はどれくらいか?
寄せ手がそれを遮断できる可能性はどれくらいか?とか。
おっと、その前に寄せ手が自軍の城を出陣するところから議論をはじめるか、
すでに守り手の城を囲んでいるところから話をはじめるのか、ってのもあるな。
でもそういう定義をしても、例えば武蔵松山城をダレソレが攻めるといった
個別の場合に適用できないのは言うまでもないわな。
それにそういう定義化された議論じゃ現実に即しないから満足しないという奴もおるし。
まるっきり意味のない議論だと思う。
0243名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 07:05:02ID:SauPPCJd二万程度の兵力で最上を二週間で攻め落とすのは無理だと思うよ。
0244名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 07:17:02ID:2HmdhOHp9月15日辺りになると、奥州戦の局面は様変わりしてるよ。
もはや上杉と最上の二家の戦争ではなく、当初様子をみていた伊達家が
積極的に戦いに介入してきている。もはや上杉VS最上・伊達の全面戦争。
9月23日には伊達政景は、景勝本人が出馬してくる情報をつかみ、山形城
でその対策を最上と評議していた。ここで景勝の加勢を封じるため、煮え切らな
い態度を示していた伊達政宗が直々に出馬して政景に合流、上杉を叩く。
むろん、結城秀康と連携しての軍事行動となる。
「二十九日此月御出陣、晦日(三十日)白石御着、来月朔日(10月1日)
より伊達信夫筋へ働きたまうの事御書を賜う」(伊達治家記録)
あと二週間関ヶ原の報告が遅れていれば、上杉vs伊達、最上、結城の連合軍
との一大決戦が行われていた。長谷堂城陥落ではなく、>>237のような上杉滅亡
の可能性の方が高い情勢だった。
0245名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 07:17:51ID:zco9H/DP戦国一般の中世城郭なら、一般的に山城の方が攻めづらいべ。
だからこそ、山城ばっかつくってたわけだ。
0246名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 07:31:05ID:SauPPCJd0247名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 08:44:13ID:FmBFd7B2なぜなら最強の御館様と共に強敵達と常に戦闘を繰り広げてきたからだ
景勝時代に領地が30万石に大減封された後も、鉄野結束を誇った上杉家家臣は、
貧しくとも上杉家に使えることを望んだ
0248名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 08:47:18ID:zco9H/DP0249名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 08:58:36ID:omZnsiaEいや煽りとかじゃなく、
普段一行レスばっかりの過疎武将スレにいる住人からすると、
信じられんほどマメ
0250名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 09:06:59ID:SauPPCJd0251名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 09:12:02ID:SauPPCJd「人間塞翁が馬」が馬という言葉を思い浮かべずにはいられない。
もしも上杉が大勢力のままだったら、
上杉の監視役として最上は優遇され続けたかもしれないが、実際は10年で改易。
それに対して上杉は直系が何度か絶えたにもかかわらず、
改易はあったものの養子を貰い維新まで生き延びた。
逆に言えば上杉が巨大勢力のままなら、あっという間に
潰されてたかもしれない。
0252名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 09:45:00ID:RevW2U+2> >>237はやけに必死だなあ、べつにこちとら直江山城が神のごとき軍略家なんて
> 言って無いのに
直江山城守は神以上の軍略家ですが何か?
0253名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 10:00:46ID:SauPPCJd上杉軍は長谷堂、植山は落とせず畑谷城も苦戦したが、
白岩・谷地・寒河江・八沼・左沢・山辺・延沢・長崎・五百川などの諸城
は落としてるんだよね。
最上の勝勢だったなんてとても言えない。
小田原征伐でも圧倒的に優勢な軍勢に抵抗したいくつかの諸城もあったように
最上の城にも二週間以上くらいは粘る城の一つや二つもあってもおかしくはない。
0254名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 12:42:33ID:w9mRomCm思ってたからそれ向けの軍略を作っていたそうで。それがたった一日の
戦いで終わったから予定が全部狂ったのでは?
0255名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 23:04:55ID:oT1yX434>防戦能力を削れていない」とか、そういうことはどの史料を見れば考えられるの?
長谷堂の防衛能力が削られたという史料は見たことが無いから。
長谷堂の戦いを記してあるもので、長谷堂の○の丸を落としたとか、曲輪を落としたとか言うものを見たことがない。
あのまま攻めてれば落とせたと言うならば、少なくともそういうものがなきゃダメだろう。
>>235
>楯岡光直が須川方面から 奇襲をかけようとして、水原親憲に見破られて失敗していたりする。
これは記憶が曖昧でスマンが、長谷堂隊ではなく山形隊ではなかったか?
違ってたらスマソ。
それと、これ自体は守勢であった最上が逆襲しようとして失敗したということで、
これによって前に書いたように長谷堂の防衛能力が落ちたわけではない。
>何度も繰り返すが、城攻めに際して、力攻めしてダメだったら、持久戦に持ち込むというのは基本中の基本。
持久戦してたっけ?
9月29日でさえ、総攻撃に失敗して上泉他を討ち取られてたと思ったが。
それと、直江にしても速戦即決を目指したはず。伊達と宇都宮が心配だし、冬もあるし。
だから、最後まで力攻めじゃなかったっけ?
第一、直江自体が長谷堂を力攻めで落とせないので、迂回も検討してたはず。
>痛手と言うが、本村討死は痛いとは思うが、その他は実際戦局が動くほどのものではないだろうに。
木村討死は上山戦ね。
長谷堂では上泉他。
で、確かに戦局全体は動かないね。
そして、その動かない戦局というのは、直江が長谷堂を攻めあぐねてたというもので、
直江が有利に戦いを進めていたと言うものではない。
直江の用兵能力を測るうえでは、特に上泉の討ち死には大きい。
上田城防戦との比較の話はね、直江が長谷堂を攻めあぐねたことを、城攻めだったから仕方ないというのなら、
秀忠が上田城を攻めあぐねたのも、城攻めだったから仕方ないということになるね、ということ。
別に戦略目標がどこにあったかではなくて、あくまで城攻めのやり方の問題。
>ちなみに、苅田は城攻めの際の寄せ手の基本戦術だから、これを云々いうのはどうかな?
そういう意味でなくて、刈田で長谷堂城兵をおびき出して殱滅を計ったが、
志村に見破られて逆に痛手を負ったという話。
>水原や前田の働きは特筆すべきものがあるが、それでもその総指揮を執っているのは
直江なわけで、彼の指揮あってのものだろう。
これは、意味無いぞ。
水原や前田は立派だが、直江の指揮がなきゃダメだったのか?
むしろ、直江の窮地を救ったんだろ。
>東軍が本戦で勝ったから、自動的に最上が勝ち馬に乗れたようなもの。実際城側にも損害は出ているし、
えーとだから、直江は長谷堂を追い詰めていたか、それとも、
この先追い詰めることが確実に予想できる状況だったのか。
長谷堂迂回を考えてるようだと、とてもそうとは言えないだろう。
>西軍が勝利していたら最上の側こそ一気に窮地に陥ったわけだし。
西軍が勝利したら、東軍大名はみんな窮地だよ。
0256名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 23:13:54ID:oT1yX434という意見が多いが、別に2週間で勝てなかったからダメと言ってるわけでなくて、
2週間の戦い方が、内容がイマイチだったと言っている。
2週間攻めあぐねてたのに、もっと時間たったら有利に戦いを進められるというのは変だと言っている。
2週間、有利に戦いを進めていたと言うのなら、確かにもっと時間があれば
長谷堂を落とせたという主張にも納得がいくが、そうではなかったんだし。
仮に関ケ原が続くとしても、時間は上杉には味方しないんだよ。
0257名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 00:25:34ID:ynoK0V+lそのうち落ちないとも限らないが?
極端な話し、それまで無傷でも次の攻撃で崩れないとは100%いえないわけだし。
0258名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 00:35:10ID:ynoK0V+l逆に言えばいつまで経っても落ちないこともあるわけだが、
まるで長谷堂城が絶対鉄壁のように言うのはヘン。
>仮に関ケ原が続くとしても、時間は上杉には味方しないんだよ。
仮に関が原が10年続けば、
最低でも兵糧が尽きて長谷堂城も山形城も落ちるだろう。
0259名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 02:39:37ID:1tjKbsiA長谷堂は見込みが甘いよ。白石速攻落城も直江にも責任の一端はあるよね。
優れている面は見つからないよね。
愚将とまでいうのは?だけど、少なくとも普通、平凡だよね。
少なくとも、天下三大ナントカなどというほどのものは、軍事では見つけられないよね。
それよりも、人間性のほうにより問題があるような気がするな。
自身の失策の反省がまったく感じられないんだよね。
自分の失策のせいで減封になり、お家をクビなる人もいるのに、自身はぬけぬけと高禄を貰い続けた。
「金は汚し」などというわりに、結構欲張りだね。
自分の妻にまで3000石もの破格の給料を払わせ続けた。
失策の責任を問われるのを恐れて、権力を離れなかったのかも知れないね。
結局、死後もお家で嫌われ続けたんだよね
0260名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 05:38:07ID:+kgVp5de0261名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 06:36:15ID:ylfp4IHO自分の奥さんを完全なシンパにしてしまった一点だけにある。
0262名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 07:10:02ID:KCNLa8390263名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 07:32:37ID:VQ9jNP47親友と栗卒じゃねーかww
0264名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 08:18:06ID:EGrI0UHc典型的な東照宮史観
0265名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 08:22:05ID:9s0cu97f逆に何だか嫌らしさを感じてしまう。
0266名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 08:26:27ID:KCNLa839いや、愛を前面に出してはいるけどもw
0267名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 08:39:03ID:VQ9jNP47俺は三成は好きだけどね。
直江はやっぱ過大評価の気がしてならん。島左近もだが。
0268名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 08:40:32ID:7L82QsQQ東照宮史観と言うより実証的な近代的史観だと思うぞ。
だいたい徳川時代は直江は実力以上に評価されていたように思うが。
それに上杉家ほどの大名の家老なら、むしろ武将としてより政治家や行政官として
評価されるべきなんじゃないかね?
兼続の時代はもう、多少喧嘩に強いくらいじゃ何の自慢にもならない時代に入っていたわけだし。
0269名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 09:30:50ID:oLTG1QDD0270名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 09:46:00ID:9Pn1GhN70271名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 10:04:37ID:ynoK0V+l家康はそこまで神様じゃないだろう。
関が原開戦も最初は渋ってたらしいが、
福島らに岐阜城落とされて催促され無理矢理、開戦せざるおえなかったようだし。
家康はもう少し準備したかったらしい。秀忠が到着しなかったのも、
真田の妨害というよりも準備不測によるものだったらしいしな。
0272名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 11:53:12ID:hRcGVNqC小説やゲームだと直江が景勝を動かした、みたいなシナリオで書かれることが多いけど……。
0273名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 11:57:02ID:xb5Hdrnl同意。関ヶ原の勝利も「勝つべくして勝った」ものではなかっただろう。
家康が八つ当たりに家来の旗指物を切り落とした話など、家康はそれなりに
焦っていただろ。もし小早川が寝返らなかったり、東軍が不利になったら、
吉川もどう動くか分からないだろうし・・・・・。
>>259
米沢へ移された後も、臨時雇いの浪人は別としても基本的に上杉は暇を
出してないが。それで、石高の割りに家臣がかなり多かったらしい。で、
のちに15万石にされたときもそのままで、財政は破綻しかかっていたらしい。
で、「金は汚し」のエピも事実ではないのでは?米沢の殖産興業、領内整備を
メインで進めた直江が、金を(=経済を)軽視してたとは到底思えない。
そまた、お船の方に3千石という破格の待遇を受けていたのは単純に景勝、
定勝の信頼を受けていたことの現れだと思う。現に、定勝の養育を行ったのはお船の方というし、
お船の方が病に倒れた際に定勝は自ら見舞いに訪れ、伊勢神宮に大神楽を奉納させ病気平癒の祈願、
亡くなったら亡くなったで高野山に常灯料を出して墓石を立てている。いくら直江の後室とはいえ、
ふつうそこまでしないだろ。
「山城守相果て候とも大小の事ども後室へ相計られ候よし」という『米沢雑事記』の言葉が
全てを物語っているだろう。
それに、直江は上杉再建のために奔走しているし、本多正信とのパイプをつくって10万
石ぶんの免除を引き出している。そして、嫡子の死後も養子をもらおうと思えばできたのに、
あえて家を絶やしたのは、やはり意図的にしたことで、敗戦の責任をとってのことだろうと思う。
0274名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 12:05:22ID:xb5Hdrnl同意。直江の本領は軍事よりも政治、殖産興業、「文選」などにあると思う。
また、過大評価されているのもあると思う。これは直江に限らず、信玄や謙信など
世間一般で神の如く語られる事の多い「名将」にも言える事だと思う。ただ、その反動
として、アンチが必要以上に有能でなかった、無能だったと躍起になっている傾向も
つよい。2chでは特にその傾向がつよい。
0275名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 13:06:54ID:eGwfPTzF日本で初の銅活字である直江版あたりの、
文芸面では、謙信をも抜いて飛び抜けて戦国一に
なっちゃうと思う。
0276名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 13:42:09ID:BUy/S2Ui0277名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 16:30:02ID:LRWx4dEB所詮、政宗と義光の敵ではない。
政宗の城攻めは、ほとんどが謀略、内応工作で篭絡させている。
白石城などはその典型で、城代が説得される形で投降してきた。
梁川城攻めも謀略をこらし、それが上手くいかなければすぐに引き上げる。
上杉は、長谷堂城も真正面から正攻法でぶつかっているから、老獪な義光の
思うつぼになっている。
「上杉」の看板だけでは勝てないということだね。
0278名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 20:07:42ID:ynoK0V+lひょっとすると直江のバカ正直で謀略がないとこを評したのかもしれんね。
思えば閻魔大王の逸話も案外、直江のバカ正直なとこを表したものかも。
0279名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 20:39:39ID:ynoK0V+l嫡子殺害が遠因となってあっという間に滅亡したんだろ?
まさに義光の「策士、策に溺れる」じゃないか?
それに引き替え、真っ直ぐに真っ当に生きた上杉は
二度の減封はあったものの直江や鷹山の善政もあり、
堂々と維新まで続き、その名をアメリカ大統領にまで
聞こえさしたんじゃないの?
このスレで最上を讃え、上杉を貶めている奴は
これにどう答えるんだか?
0280名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 22:01:47ID:c0xBw+Tt> 政治は得意だが軍事は得意でなく性格悪い。。
何だ、政宗と仲悪いのは単なる同属嫌悪であったかw
0281名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 00:37:05ID:sCC+nMok伊達は策を廻らせて生き延び、上杉は(減封されたが)剛直だった故に生き延びれた
感がある。それに対し、最上の場合は謀略を駆使しすぎた故に結果没落している感がある。
まあ、三者とも領国を経営する手腕は非常に優れていたと思うが。
0282名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 02:04:09ID:HGET73Ky0283名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 02:32:32ID:pAYLBO90そうなったら見ものだったね。
あるいはさらに結城が加わっていたかも。
直江の力量では、コテンパンにやられていただろう。
上杉が細々とでも残ったからいいとはいえないと思う。
弱体化して貧窮して、ごぞんじ吉良上野介に植民地化された上杉は、もう一般的に皆が知る上杉ではないよ。
武勇の上杉は、直江によって終わらせられた…
藤田が正しかったね
0284名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 04:18:36ID:f0bIhSM90285名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 04:19:56ID:hPFLqodBそんな問題か?植民地って言っても上野介そのものは見殺しにされてるし。。
0286名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 04:57:12ID:aWIvDglo武士はなるまい町人になれ
景虎も今や猫にや成りにけん
長尾を引いて出もやらねば
綱憲も幕府の手前助けるわけにもいかず、吉良を見殺しにしても
腰抜けだと馬鹿にされ、つらいところだ・・・。
しかし、江戸の庶民って残酷というか容赦ないなw
0287名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 10:02:39ID:Vt7dMbK/景虎って謙信のことで合ってるよね?
0288名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 10:08:16ID:CtSxrR6e旗本も借金で首がまわらなくて、
町人に旗本株を売るのが続出してた。
江戸時代の武士なんてそんなもの。
0289名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 10:26:44ID:Vt7dMbK/討ち入ったり、吉良にも上杉家にも迷惑かけてごめんな。
気の利かない殿をフォローできなかった浅野の江戸家老が悪いんです。
許してください。
0290名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 12:56:24ID:sCC+nMokなんかお前を見てると必死すぎて・・・・
ウィキペディアの西方藩の項目書いたのはお前かいw
0291名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 18:26:58ID:o8LGRvHdぶちまけてる奴って同一人物なんだろうね。
先祖の上杉家臣が兼続のせいで酷い目にあったとか言ってるらしいが、
そんなもん、今のお前に関係ないだろうがと言いたい。
実際は兼続も吉良もむしろ上杉を救った人物だと思うが。
0292名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 18:38:02ID:pAYLBO90真の上杉ファンなんよ。
直江と吉良が嫌いってのが真の上杉ファンと思う。
ウイキペディアは知らんかった。
藤田のその後ってのを始めて知った。旗本でなく大名になったんだ。
ウイキペディアの直江っての読んでみた。
かなり贔屓目に書かれてるね。
0293名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 19:06:20ID:nM8X54hq読み物でもまして専門書でもないし。
0294名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 19:41:08ID:o8LGRvHd>真の上杉ファンなんよ。
>直江と吉良が嫌いってのが真の上杉ファンと思う。
それは君が勝手にそう思ってるだけだろう。
吉良が養子出さなければ上杉は滅びてたし、
直江は功労者であるる
あと120万石のままだったら上杉は潰されてたかもしれにない。
だから意味のないIFだ。
つーか、歴史にIFはない。
0295名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 19:52:34ID:Ie8nQIxR冷静に分析していこうじゃないの
確かにこの人物はよく働いた。
しかし、傲慢さ、独善性、偽善、うぬぼれ、がある。
それが、実は上杉をとんでもない方向に持っていっているのだ
0296名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 20:26:49ID:o8LGRvHdアフォ?
人にはそれぞれ考え方とか好き嫌いがあるんだよ。
別に「冷静な分析」だの必要ない。
個人の好き嫌いの問題だ。
ただ「こう考えるのが真の上杉ファン」だのいう
決め付けた発想があまりに傲慢な考え方だと思うだけだ。
>>290は自分と同じ考え方以外は認められないようで、
他の人間にも自分の考え方を正しいと考えて押し付けて
考えの統一をしようとしているのが不快だ。
そんなの「上杉ファンにも尚江隙な奴もいれば嫌いな奴もいる」
でいいんじゃないの?
0297名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 20:31:28ID:o8LGRvHdアフォ?
人にはそれぞれ考え方とか好き嫌いがあるんだよ。
別に「冷静な分析」だの必要ない。
個人の好き嫌いの問題だ。
ただ「こう考えるのが真の上杉ファン」だのいう
決め付けた発想があまりに傲慢な考え方だと思うだけだ。
>>290は自分と同じ考え方以外は認められないようで、
他の人間にも自分の考え方を正しいと考えて押し付けて
考えの統一をしようとしているのが不快だ。
そんなの「上杉ファンにも直江好きな奴もいれば嫌いな奴もいる」
でいいんじゃないの?
全員が自分と同じ考え方・感じ方じゃないと我慢ならないの?
0298名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 22:07:44ID:sCC+nMokお前、自分に自分でレスして何が楽しい?
0299名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 22:23:51ID:sCC+nMokしつこく粘着するから嫌なんだよ
0300名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 10:14:32ID:amflpogI「義」のために戦ったわけではない。あくまでも自家の利益、保全のためだ。
ただ、表向きは義という精神論を掲げているので、そこにしらじらしさを
感じてしまう人間もいるということ。
0301名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 10:26:51ID:j86rv/H+良くある戦争のお題目以上に重んじていたようには感じないんだが。
0302名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 10:36:27ID:QLZSGOTf0303名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 10:53:51ID:GCWDYpHh自分は直江の事をよく知らんから評価出来んが、
>直江は功労者である
>あと120万石のままだったら上杉は潰されてたかもしれない。
>だから意味のないIFだ。
>つーか、歴史にIFはない。
この文章の意味がよく分からん。
0304名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 11:55:11ID:01bJKHD50305名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 12:54:08ID:HVUkv/KDあと江戸初期は、外様の池田輝政とその弟で播磨・備前・因州を与えられ
実質的に100万石越えだったから「姫路宰相100万石」と呼ばれた。
まあ池田は豊臣恩顧でも、家康の娘婿だったんで例外だけど。
それでも輝政の死後は、速攻で国替えされて要地の播磨52万石を失ってるから、
やっぱり、毛利・上杉はよほどうまく立ち回らない限り
100万石超えた石高で残るのは難しかったと思う。
ただ、両家とも、立ち回りによっては、50・60万石くらいの大大名で残る
可能性は十分あったとは思うけどな。
そう考えると前田はすごい。普通なら潰れてるだろ、あれ。
0306名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 15:07:54ID:KqRUk1Qaつうか前田以外のヤシは最果ての地の島津以外潰されたり領土減らされてるから
50・60万石クラスは無理だったと思う。
前田は関が原以前から人質出して徳川に隙を見せなかったから領土を
安堵されたんだろう。
0307名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 15:38:47ID:mQPZCzlT政宗の指示で治水開墾を進めたおかげで、
江戸時代には実石250万石まで増えたからな
外様筆頭、徳川家についで第二の勢力だった
0308名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 15:47:50ID:j86rv/H+世の中ずっと勝ち組なんてのはありえないんだとしみじみ思うな。
0309名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 15:48:31ID:mQPZCzlT0310名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 15:49:48ID:mQPZCzlT万世一系でよく続いたもんだ
0311名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 16:05:54ID:01bJKHD50312名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 16:34:47ID:XPL9sfnl面倒というか、人によってはかなり微妙な問題だしな
0313名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 17:02:26ID:v9yGzXMfあの辺は、特に交通の要衝と言うわけではないし。
毛利は西国筋だし、上杉は東北への道筋だから、大石高は許されなかったと思う。
ただ、今の東北道を放棄して、会津5〜60万石なら可能性はあったんじゃない?
0314名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 17:11:07ID:01bJKHD5俺の現住所をバカにすんな!裏日本とは言え日本の中心近くにあんぞ!
0315名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 17:26:51ID:ncMhuotW加賀を要衝とみるか僻地とみるかは、微妙かな。
江戸へはだいぶ遠いと見ると僻地。
京都に近いと見ると要衝。
個人的は、前者かな。京都への水運的にも、越前のほうが重要。
0316名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 17:40:12ID:oMy0r3E9これがなければ、約50万石の加増は無理としても、伊達
(約7万石)、信夫(約5.5万石)、二本松(約3.5万石)
辺りの約16万石程度は、最低でも恩賞として与えねばならんわな。
また最上には最大の被害を与えているから、長井約17万石を献上。
これでもまだ90万石近くは残ってるが、家康が残り30万石をペナル
ティとして没収して、半分の60万石程度の家として残す。
問題は、上杉もすぐに頭を丸めるなりして全面恭順を示せばいいのに、
意地を張りまくって、慶長6年の4〜5月辺りまで伊達最上を敵視して、
小競り合いをしていたことが、家康の心証をさらに悪化させたんじゃないかな。
0317名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 17:59:31ID:DPxwkQt3都合の悪い事を上杉家の外の人物の仕業にしているような気がする。
まず上杉の経済が破綻したのは吉良がたかったからというより、
家臣を減らさなかったのと30万石→15万石に収入半減したのだろう。
吉良が少々、たかったのはあったが、それは一因に過ぎず、
まるでそれが経済危機の原因の全てみたいに言われてもね。
それと直江兼続に至っては正真正銘、上杉家内部の人物じゃないか。
当時の「○○家」というのは勢力そのものをあらわす名称だしね。
江戸期のOO藩とは俗称に過ぎず正確にはOO家というんだしね。
で、直江は別にどこかから押し付けられたわけでもないんだし、
上杉家生え抜きの人物で上杉景勝が信任した人物なんだしさ。
上杉家そのものの人物を叩いてもあまり意味がない気がする。
0318名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 18:08:29ID:DPxwkQt3うーん「その後の開墾・開発」という要素は
その時点での勝ち組・負け組とはあまり関係ないと思うが?
関が原でちゃんと一貫して東軍として働いてれば
表高で100万石もらえてたのをフイしたわけだしね。
それと>>110の話しもあるとおり、
領民にとっては強制買取制度は過酷な支配だったみたいだしね。
あと、その後、伊達政宗は接待のし過ぎと心労で
健康を壊したという話もある。
実際は「天下をうかがってた」どころではなく
徳川への恭順に身を砕いてたわけだ。
いや、この話しはNHKの「そして歴史は動いた」で
やってたのを見ただけだが。
0319名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 18:22:46ID:v9yGzXMfそりゃもちろん、江戸にとってだよ。江戸幕府なんだから。
江戸から京に行くにしても、第一に中仙道、第二に東海道があるから、北陸街道は重要度が薄い。
もし仮に京への道が北陸街道しかないような状況なら、
北陸街道を守るよりも江戸のほうが危機に直面してるわけで。
そんなわけで、前田の位置は、大大名の存在が許せる位置だったと思う。
>>316
そう思う。
西軍につくにしても日和見とか、すぐに恭順なら会津とかで5〜60万石残せた可能性はあったかも。
0320名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 19:16:26ID:ZnFn2pPc割と簡単に大坂を退去した毛利ですら3分の1以下に減らされるわけだし
0321名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 19:45:51ID:KqRUk1Qa天皇家は政治の実権を手放したから存続したんだろう。
>>319
無理。
上杉家は謙信原理主義だから謙信がやらない事を景勝がやったら家臣がついてこない。
家中が分裂したところを家康に潰されてたと思う。
0322名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 20:39:49ID:BOIZ8x1kこんなんじゃ、上杉もその他大勢のワン・オブ・ゼン。
これしてたら、俺は今上杉ファンじゃないね。
0323名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 20:41:49ID:DPxwkQt3秀吉が大のお気に入りで高く買っている直江兼続という男が居たからこそ上杉に120万石与えたんじゃないのか?
秀吉は高く買ってる人物には割とポンと大封与えるからね。
蒲生氏郷とか丹羽長秀とか小早川隆景とか鍋島直茂とか前田利家とか徳川家康とかがそうだ。
その代わりその男が死ぬと簡単に領地取り上げるけどね。
パッとしない上杉景勝とまとまりのない家臣たちの集団体制では
上杉にそんな大封は与えないだろう。
「直江兼続が居なければ上杉は大封失わずに済んだ」なんて理屈自体が空論としか思えない。
まあ元は越後40万石だったんだし、
豊臣政権に貰った領地を豊臣政権のために戦って返上したと思えばあまり惜しくないと思うが?
0324名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 22:48:57ID:ARykyBrd違うだろ、秀吉が上杉家を豊臣の柱石にするために、都合のいい直江を見つけて、大封をくれて懐柔したんだろ
0325名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 23:28:49ID:SuyM2dyM前田利長に比べたら景勝も直江も百倍律儀だし、正直それでよかったんでは
上杉の意地を見せて、名は残したんだから
0326名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 23:32:27ID:j86rv/H+0327名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 23:35:04ID:DPxwkQt3そうかねえ?
どっちにしろ直江がいなければ、あれだけの厚遇はうけなかったと思う。
なんにせよアンチの理屈は
都合の良い部分だけ切り貼りして繋ぎ合わせ上杉に良い話として、
直江や吉良に都合の悪い部分だけ押し付けてるようにしか思えない。
直江がいなければ120万石にはなってないだろうし、
吉良が自分の嫡子を養子出さなければ上杉は取り潰されてたし。
0328名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 23:39:00ID:DPxwkQt3前田家なんてヘタレのイメージは
今の世まで伝わってるし。
前田利長以降の卑屈な徳川屈従政策は
実はかなり取れたけど、名の方は最低だな。
0329名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 23:54:02ID:v9yGzXMf戦国オタならいざしらず、一般的にはどっちもどっち。
人を引き付ける魅力としては、残念ながら金沢>米沢だし、戦国オタに人気高いと言っても、
その人気のもとは直江がどうこうより、謙信とその家臣団にあるわけだし。
残念ながら、景勝と直江だけではそんなに人気はあがらないだろう。
どうも、ここの直江好きは何でもかんでも直江擁護になればそれでいいという感じがする。
直江擁護の価値基準がブレすぎ。
0330名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 00:17:07ID:lgLIur7B会津移動で、増封になって美味しい思いをしたのは直江だけ。
家老おだてて懐柔するのは秀吉の得意技なんだよ。
直江に加えて、徳川の石川数正、毛利の吉川なんかが懐柔されて主家を売ったバカたちだ。
俗に、天下三大バカ家老と言う
0331名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 00:41:41ID:xFNxemK+0332名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 00:51:58ID:cVARx9B9家康に通じて毛利の生き残りを画策したものの、ツメが甘く
転けた。秀吉に懐柔されたとか分け分からん事を抜かすな。
石川数正の場合は、対秀吉の対応に苦慮した末に家中で孤立し、
内通疑惑などが持ち上がり白眼視されるようになり、徳川にいられなく
なってしまったという側面が大きい。懐柔されたというよりも、離間策に
かかってしまったという感じ。
会津へ国替えになったのに直江はあまり関係ない気がする。米沢30万石の話だって
実際は6万石程度らしいし。それに、基本的に家中の連中の禄高は上がっているからなあ。
なんか論になっていない気がする。
>>330を筆頭にアンチも擁護派もなんかギスギスしているし、必死さを感じる。
0333名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 01:22:03ID:xFNxemK+やたら吉良ネタを持ち出す。レス例>>27、74、104、283、292、330など)が自説を繰り返すから
みないい加減にウザくなってんじゃね?
0334名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 01:25:17ID:+7fkRVR60335名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 02:47:49ID:PGOv53G4吉川は親父の元春の代から、毛利家の中では豊臣嫌いの家なんだが。
秀吉が優遇したのは小早川隆景と秀包で、吉川はやや冷遇された。
しかし、別に関ヶ原の裏切りの土壇場まで親徳川だったわけでもない。
当時、毛利家の中で東軍へ内応を一番疑われていたのは毛利秀元だった。
吉川広家は、内応の仲介をすべて黒田長政を通して行っているように
徳川家とのコネクション自体が薄かったくらい。
黒田家は豊臣政権下で毛利家担当の外交係で、昔から吉川家と最も仲の
よかった家だから、長政を頼ったのも正しい判断。
関ヶ原では、小早川隆景が秀吉の中国大返しで恩を高く売って所領安堵
されたやり方を目指して、結果的にこけた感じ。
狙い自体はそう悪くない。時間があまりにもなくて(徳川の使者と作戦
について直接話したのは関ヶ原前日)家康の言質が取れなかったのが
甘かっただけ。
0336名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 04:00:49ID:hKoTMlhN無理ありすぎるぞ
0337名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 04:25:56ID:xFNxemK+軍事能力:微妙。議論アリ。
政治・外交感覚:微妙。議論アリ。西軍についたことで叩かれるが、結果論でいくなら
徳川とそれについていった大名以外は先見性ナシってことになっちゃうからなぁ。
信長だって家臣に背かれる程度の男ってことになりかねん。
ところで人格はどうなんだろう?伊達との絡みを見ていると割と厨っぽいのだが。
三成タイプの良く言えば剛直悪く言えば傲慢・偏狭って感じなのかね。
0338名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 06:44:16ID:hKoTMlhNどうかねえ。
秀吉が最も信頼した家臣の蒲生氏郷の後釜という事で、
かなりのお気に入りの直江がいる上杉をあてたと思うぞ。
あと、直江自身の石高というより尚江が取り仕切る上杉家というのが
大事なんだと思うが。
0339名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 07:22:30ID:hKoTMlhN織田信雄と同じ運命・・・・
0340名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 07:53:41ID:NsNSi0bS名も実も失った>毛利
名をとり、実を失った>上杉
名も実も得た>島津
島津は遠方だから云々という意見があるが、武力征伐の危険に
最大限さらされていた。黒田、加藤をはじめとする九州勢は
島津侵攻計画を練っていたが、家康に最終決断を躊躇させる
何かがあったということだろう。気の狂ったような撤退戦、
井伊直正の致命傷を、その目で一部始終をみていたし。
外交的な勝利者は、島津だった。
0341名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 08:49:23ID:hKoTMlhNただ、それが島津義久の老獪な外交手腕というよりは
単に状況や運が重なってものだと思われ。
島津義久は関が原以前から実現不可能な中立主義を強硬に主張し
関が原後も徳川の船を焼いたり、かたくなに上洛命令を拒否したりで、
結局は島津忠恒が独断で上洛して島津家を救った。
義久はそんな忠恒を「親不孝の極み」と罵った。
どうやら中立主義を貫けると思いこんでて徳川の臣下とかは思考の外だったらしい。
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