【義】【義】直江兼続を語るスレ 2【愛】【義】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 13:17:04ID:EL/8vuxv【愛の戦士】 直江兼続を語るスレ 【無双に見参!】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1137033419/
0020名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/13(日) 12:50:23ID:AefIJj7u自分で会いに行けって素晴らしい屁理屈をこねた男
0021名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/13(日) 16:21:12ID:67uRvigj0022名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/13(日) 23:10:05ID:IseL1MaB0023名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/14(月) 02:50:03ID:nruv47bC豊臣家に懐柔されて、上杉家を滅亡させた男。天下三大バカ家老の一人です
【愛の前立て】直江山城守兼続【樋口与六】
ttp://live14.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1153573603/l50
0024名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/14(月) 08:16:27ID:NxfTSpCrむしろ自分が滅亡。いいんじゃない?
0025名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/15(火) 00:28:33ID:vvji1+qt( ゚Д゚) ちわっす、直江っす。
私にとって上杉はどうでもよかったんです。上杉より豊臣が大事だったんです。
だって、30万石ももらっちゃいましたから。30万石。
え、それは懐柔されただろうって? 他の家来が面白くないだろって?
合戦はいつも負けてただろう、って?
いいんです。合戦なんか出来なくてもいいんです。
大事なことは、「義ー義ー」って言い続けること。そうすれば皆だまされます。
みんなも一緒に、言いましょう。
ハイ、「義ー義ー」
0026名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/15(火) 12:39:54ID:k8GyOPDL0027名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/16(水) 14:41:44ID:B2Ld0xyk江戸期の上杉は、貧乏に困って、さらに士風が退廃して、結局、吉良上野介の植民地になっちゃってるよ
それ以降は、一般的に武勇の名門として知られる杉上杉家ではないでしょ
家の貧乏と士風の退廃をもたらした人、ってことで、「直江が上杉をつぶした」といっても、
まあジャスト当たらずとも、まあまあ遠からず、といったところじゃまいかい?
0028名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/18(金) 16:00:24ID:NpIkDzPc上杉の場合綱勝の急死→吉良の子綱憲を末期養子で15万石が痛かった
これだって保科正之が相当骨を折っての結果だけど
0029名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/18(金) 21:07:43ID:zTDMq4Xdこれが吉良が暗殺したとか、しないとか。
長尾氏系の男子も居たのに、吉良がゴリ押しで自分の子供を世継ぎに。
この頃は、上杉家が活気無くなって、他家からも孤立していた。
大した反対も無くこれが通った、こんな感じではなかったかな?
直江の専横が長く続いた影響が大きいのではないかな。
0030名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 23:43:56ID:eRL+udP+謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
0031名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 17:32:09ID:4dkMS/B9狂信的なアンチ上杉ってのが居るんだな
ゲームで上杉が最強になってたりして、その反動でこういうアホが現れるのかな
0032名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/23(水) 16:31:23ID:8a7DfjTq大老にもならず、中立のままで。
直江が懐柔されたから、そうもいかなくなったね
0033名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/23(水) 19:47:08ID:u8W1UmF7それは無理という物です
0034名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 23:01:10ID:jcaF2fs6移封も直江の増封も断り、多少の領土の割譲に応じたり、佐渡の金山くらい手放しても
0035名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 07:05:05ID:JLjH59NR無理だと思うよ。
秀吉相手じゃ。
0036名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 20:29:23ID:3vshDa2Z北条と信雄ぐらいでは
痛い目みたのは
0037名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 22:14:42ID:uPr19sGu直江の増封のエサに釣られたって感じかな。
上杉にも、徳川と敵対するべきではない、って家臣も居たみたいね。
その人達がまともな人達だったね。
直江は、天下三大ナントカなんておだてられて、自身を過信しちゃったんだろうね。
0038名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/27(日) 14:22:38ID:hXh4ifcw白石は土地も豊饒で、要衝だし、どうみても捨てるような場所ではない
攻めている伊達家の連中も、上杉のあまりの弱さに呆気に取られたんではないかな
おそらく、甘糟を初めとする守備の連中はヤル気が無かったんではないかな?
豊臣政権下で直江ばっかリいい思いして、勝手に戦争を始めた。
どうせ、勝ったって直江ばっかりいい思いするんだろう。直江のために命張ったってしょうがない。
サッサと開城してしまえ。ってな感じで。
0039名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 10:48:42ID:dWjDTNER0040名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 16:30:28ID:Gzff//Yu0041名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 19:48:25ID:0YeHk7ar0042名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 01:03:38ID:b6by+w4e家康旧領への転封を拒んだ織田信雄は有無をいわさず改易だし、
とくに晩年のボケ爺と化した秀吉相手というのを考慮すれば・・・なあ
0043名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 10:39:38ID:KEtKCe76だと思う。ところが、じっくり慎重派の家康が、あっという間に牙を向いて、武力討伐
にでてきた。上杉としてはメンツを重視するのが大事で、徳川との一戦は想定外のこと
だったんじゃないか。反転した家康を追いかけられなかったのは、もとより自信がなかっ
たからだし。
0044名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 13:24:27ID:fCFUZ5OU直江状でケンカ売っているわけだし。
でも、上杉家中の他の連中は冷めていたんだろ。何で徳川と戦わなくちゃなんないの?ってな感じで。
豊臣の恩恵を受けたのは直江だけじゃん、みたいな
0045名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 13:55:29ID:tXqRB9HU直江状は後世に作られた偽文書。
0046名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 15:49:21ID:Ir2khmcOまず新潟県立歴史博物館にある上杉景勝から安田、甘粕、岩井、大石、本庄宛に出された書状。
慶長5年6月10日付の書状で内容は景勝の言い分全てが却下され、何度も無条件で上洛する様、家康が催促している事に理不尽過ぎると景勝が怒っている。
これ以上ふざけた要求をしてくるなら一戦を交える覚悟。で家臣に対しておまえ等、俺についてくるのかハッキリしろといった様な感じの書状。
もうひとつは米沢市上杉博物館所蔵の直江兼続書状。
慶長5年8月6日付で福島県須賀川市に出陣していた兼続から会津の清野助次郎に宛てたもの。
三成の使者が会津に来ている事を知り、三成の書状を兼続が見て返事を出すと指示。
また三成と兼続が中心となって立てられた越後の一揆衆の指揮は上杉軍に任せるといった内容。
また市立米沢図書館には上杉軍の白河口での戦闘配備の図がある。
0047名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 15:35:26ID:g+RQ65Rf狸おやじのせいで忠臣蔵でも敵役にされるわ幕末まで苦しまされるわ
0048名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 16:43:27ID:fnrvemNo吉良上野介が討たれた事件では米沢藩の人間も喜んでいるんだよ。
悲しんでいたのは藩主綱憲と妻で先代藩主の妹の参姫くらいではなかろうか。
当時、吉良家は上杉家にたかっていて上杉家の蓄財を使い果たした上に借金までさせていた。
当然そのツケは米沢藩の家臣や領民の負担となり苦しめられた。
また先代藩主綱勝が吉良家を訪れた後に腹痛を起して急死してる事から毒殺したとの説すらある。
吉良上野介が討たれた時、米沢の人々は「ざまあねえや。」と同情すらしなかった。
それどころか重税から開放されるってんで大喜びしたとの言い伝えが残ってるのな。
今でも米沢市民は吉良家と藩主綱憲に良い感情を抱いていない。
もっとも、この綱憲の悪政があったおかげで後の上杉鷹山の功績が輝くわけだが。
0049名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 17:00:55ID:g+RQ65Rf否定しないよね? スレの話題とは離れるけど、大学さんはマジでかわいそう・・・
0050名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 18:04:04ID:XxaCjzskはあ?
なに恩知らずな事言ってんだ?
吉良が本来は自分の嫡男であるはずの綱憲出して、
しかも、幕府に上杉家尊属を嘆願してくれたからこそ、
本来は世継ぎが耐えて取り潰されるはずの上杉家が存続したんだよ。
まあ、吉良も人間だから、この事でちょっとは上杉に
たかったのも事実だろうけど、それを補ってあまりある恩義が上杉にはある。
それと米沢藩の財政が傾いたのを全面的に綺羅のせいにしてるが、それも違う。
そうなったのは120万石から30万石に減封されたのに
武士の数をほとんど減らさなかった上杉家の構造的問題が
一番大きいんだよ。
0051名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 18:06:54ID:tPQw5K+0005250
2006/08/31(木) 18:07:52ID:XxaCjzsk0053名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 19:00:49ID:jwN6Cuxp長尾氏系断絶の原因をである、減封をやらかした直江の責任は大きいね
直江の専横が続いたせいで、家中がシラケて、吉良に抵抗できなくなったんだよね。
それ以外に、直江が江戸で嫌われていたから、上杉が他家から孤立していたんじゃないだろうか?
0054名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 19:26:44ID:XxaCjzsk>吉良が嫡子を暗殺したんじゃなかったっけ?他にも謙信の血のつながりがあるヤシも居たのに吉良が…違ったっけ?
はあ?
どこの四流歴史小説にそんなアホな事が書いてあった?
0055名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 20:01:23ID:g1ZHg0x40056名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 06:49:56ID:HMVUTs8z偏執的なアンチ直江がいるな。
0057名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 08:05:46ID:8KjBIJVKこの口調の思考停止した奴が。
0058名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 08:16:25ID:Zep5gooB長谷堂城を一気に下し、義光と政宗の母親を人質にして半年くらい粘って、
外交交渉にもちこんでいれば、70万石位は残せたんじゃないだろうか。
0059名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 08:33:54ID:HMVUTs8zそりゃ無理だろう。
最上は当然、城に篭ろうとするだろうし。
あとの観測も甘すぎ。
0060名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 10:13:55ID:oweLabW7上杉家臣なのに、秀吉から大領土もらう時点でおかしくね?
自分に大封与えてくれた豊臣家に、結局大阪の陣で弓を引いてんじゃん
そんなヤシ他にいね〜よ?
自分の主家にも100万石級の大損を与えているんだよね。
それで責任取らない。そんなヤシも他にいないんだよね
武士じゃねーよ。
0061名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 17:29:37ID:Ukfuhi2i0062名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 18:33:10ID:HMVUTs8z120万石が30万石に削られたからこそ、
潰されもせずに存続したとも言える。
俺が徳川ならそんな危険な存在はさっさと潰す。
0063名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 19:37:04ID:JbRbUwCT島津は井伊直政を死に到らせ、家康の上洛命令を無視しているのに、
寸土も領土を失っていない。
0064名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 00:14:45ID:3vkChvc8直江兼続って、頑張った人であることは間違いないね。
でも、天下人に懐柔されてしまうところと、権力にしがみ付くところは、元々は下級の身分だった卑しさかな〜
0065名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 03:59:55ID:2ed5KjJt「うまかった」というか「下手だった」から生き残れた気がする。
島津義久が非現実的な中立主義や中央政権を理解しない行動をし続けて
変に粘って上洛命令を無視したり徳川の船を焼いたりしたが、
島津忠恒が最終的には義久の命令を無視して勝手に上洛して家康と
会見したから助かった。
ちなみに義久はそれを「親不孝の極み」と罵ったという。
どう見ても義久の「老獪で巧みな事後交渉」とかではなく、
単なる勘違いに満ちた出たとこ勝負が功を制しただけ。
それをたまたま状況などが左右してうまくいったと思われる
0066蒲倉
2006/09/02(土) 04:43:41ID:7DJrqRIc0067名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 06:57:16ID:2ed5KjJtそもそも事の発端は上杉景勝が上洛を拒否して
少なくとも表向きは豊臣秀頼の命令による上杉討伐令を
受けてしいまったのですから。
全ての責任を直江に押し付けるのは無理ありすぎてす。
それと毛利についても無理です。
なんせ毛利輝元が西軍総大将を引き受けてしまったのですからね。
いくら吉川広家が裏で手を回しても減封は逃れられないです。
上杉、毛利ら比べれば島津は末端だし、見逃されたのでしょう。
0068名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 08:03:54ID:FaAevv4Z無嗣断絶?
0069名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 12:02:42ID:Ok3a6Ez+0070名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 12:25:24ID:KBI7UUBOだれか理由を教えてくれ…
0071名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 12:54:39ID:LOIrDxZ5直江も上杉も小早川秀秋に敗北したんだよ。
0072名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 13:06:20ID:yTv2hmTY評価はマシだと思うがな
しかも、吉川は主家が大事で、むしろ吉川家だけで処理しようとした策が
裏目に出た結果なのにな
0073名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 15:16:36ID:2ed5KjJt「毛利家は当主が西軍総大将に就任した件で全所領没収。
吉川広家は毛利家の進撃を防いだ功績で中国地方に1、2カ国を与え栄転」
だったのを吉川が「我が所領はいいから、主家を助けてください」と必死で懇願した結果、
「格別の計らいで本来は吉川広家に与える予定であった周防・長門両国を毛利家に与える」
に変更されたわけだからね。
毛利家は本来は全所領没収の処置だったのだが。
0074名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 00:47:08ID:+QmH0gpz片倉とは前と悪の正反対の好対照としてよく比べられる
片倉景綱は、秀吉が領土をくれる、といってももらわなかった。主君がくれるものしかもらわない、と。
子の重綱は、家康に江戸屋敷をやる、といってももらわなかった。自分は伊達家の一家老でいい、と。
〜守などの官位も一切もらわなかった。小十郎のままでいい、と。
徹底して懐柔されないヤシだった。
直江は、領土も官位も江戸屋敷も何でもかんでももらっていたね。
その結果、伊達家は大藩のまんま残り、上杉は吉良上野の殖民地に…
直江は、家中で嫌われて養子縁組も解消されて、結局直江家は断絶してるよ。
0075名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 01:22:30ID:I9xthLQj切り盛りできる器量があるなら1石でも多く取り込んだ方が自家にとっても有利に決まってる
0076名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 01:23:32ID:ycUybHwC0077名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 01:38:11ID:7R9GSlRnゆっくりと鋸で切り刻んで殺してやりて〜本当むかつく!!(#・∀・)
0078名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 07:52:02ID:L15f1A31なんか直江が嫌いで嫌いで
しかたない奴がいるね。
0079名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 08:28:49ID:MzvCfoUv/::::::: \
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(、`ーー、ィ } ̄` ノ
`ー、、___/`"''−‐" 自己愛
義理チョコ
0080名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 17:57:11ID:sU42Z7+Y(゚Д゚)
義
(゚Д゚)
0081名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 22:02:07ID:L15f1A31厨が多すぎるインターネットですねプw
さっさとゲームの世界にお帰りw
0082名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 02:10:41ID:ZXEgz/tH吉良上野の植民地って、直江家断絶後だぜ、それ
それから、直江氏断絶も直江兼続の意向だったらしいが?
0083名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 06:58:44ID:XPJd0XAK直江は功労者、吉良は恩人だろうが。
吉良が自分の嫡男出さなければ上杉は取り潰されてただろうに。
それとそもそも上杉が120万から30万に減封されたからこそ、
米沢の発展があったのだが。
あと関が原で上杉から奪った領地の多くは
天領になって領民は厚遇を受けたわけだし、
所詮は外様の上杉家の領地であるよりよっぽどラッキーだっただろ。
江戸時代、外様一の大身であった加賀藩の租税の多さはトップクラスだったし、
上杉も、もし120万石のままなら、広大な領内の領民は塗炭の苦しみだったと思われ。
0084名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 07:14:43ID:XPJd0XAK領民にとってはよっぽど幸せだったと思われ。
上杉鷹山の改革も酷すぎる状況という前提があったから
うまくいっただけだろうよ。
0085名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 11:07:24ID:ejJU/E62>直江は功労者、吉良は恩人だろうが。
功労や恩もあったけど、それ以上に実害が大きかった、ってかんじじゃね?
>いっその事、上杉なんて取り潰された方が領民にとってはよっぽど幸せだったと思われ。
そうなると日本全国、大名なんか無くなった方がよかった、ってことになるね。この版もいらないってことに。
ここはやっぱり、領民がどうの、という視点ではなく、上杉家の視点で語るのがよろしいかと
0086名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 13:37:21ID:Q8w8P6gc>そうなると日本全国、大名なんか無くなった方がよかった、ってことになるね。
>ここはやっぱり、領民がどうの、という視点ではなく、上杉家の視点で語るのがよろしいかと
これ同意。正論だと思う。実際、領民サイドはなかなか確かめようもないし、
真面目に調べるには戦国板では手に余る。
0087名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 14:35:29ID:XPJd0XAK天領の租税なんて外様大名の半分程度だよ。
しかも飢饉の時は餓死者を出さないように蔵を開いて領民救済の措置がとられた。
戦国オタは徳川を嫌い親豊臣・西軍派、外様大名などを好意的に論じるが、
実際は豊臣とか福島とか真田とか毛利とか上杉とかの領民は高い税負担にどこも苦しんでた。
これは江戸幕府の工事などを外様に押し付けて
経済的余裕を与えず謀反を起こさないようにする政策でもあるんだけどね。
まあスレ違いならやめるけど
あんまりにも、スレに感情的な直江・吉良叩きがはこびってるのが気になってね。
こういう反論してみた。
他スレでは「直江は関が原で切腹すべき」とか頑固に主張してる人がいたね。
同じ人なのかな?
あんま、そんな暗い主張はやめて欲しいんだが。
0088名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 14:58:18ID:Ed6tyshC上杉家が外様大名である以上、その制約内でどういう施政が可能だったとか
具体的な政策を論じないと仕方ないんじゃないか???
取り潰されて天領になりゃいいって、そんなこと言っても無意味でしょう。
あんま、そんな馬鹿な主張はやめて欲しいんだが。
0089名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 15:38:58ID:0HQKSdzu0090名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 16:17:39ID:NB/zibNY全然違うがな。
直江兼続を貶したい奴は”120万石を30万石にしてしまった=愚かな家臣”としか見ないが、それはあくまで結果論。
景勝流罪で上杉家取り潰しが決りかけていたのを減封までもっていった手腕はさすが。
また、城下町を10年以上かけて整備し、これといった産業がなかった藩にたくさんの産業を興し、米沢藩を最大時で実石51万石までにした。
ちゃんと減封の責任を取ってるわけね。
本人は質素な生活を貫き、継ぎはぎだらけの着物に食は一汁一菜。
”負けた責任=切腹”と短絡的な考えをする奴もいるだろうけど直江兼続も切腹の方が楽と考えたろう。
生きて責任を取る方が苦しく辛い人生だと思うぞ。
例えていうなら交通事故の加害者が死ぬまで被害者に詫び続ける様なもんだ。
0091名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 17:06:19ID:n/4p7qub0092名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 17:29:06ID:XPJd0XAK吉良もそんなに悪い奴じゃないぞ。
少しくらいはたかっただろうけどさ。
そもそも植えすぎの財政が傾いたのを
吉良のせいにするのは間違ってるぞ。
0093名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 17:42:05ID:pmh6df1F景勝は120万石を守り抜きたかっただけなのを、直江が率先して
家康との大戦争に発展させちまった。
その意味でバカになった前田の方が遙かに利口だった。
0094名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 18:21:31ID:EPwo0hySスレ違いだがこれだけは訂正してもらおう
0095名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 18:28:03ID:XPJd0XAKは? ソースは?
確かに飛騨で起きた一揆の時のように悪質な代官の判断で過剰取立てが行われたり、
徳川吉宗の時にある家臣が勝手に「百姓と菜種油は絞れば絞るほど出る」
とか言って高い租税をかけた事件はあったが、
それらはかなり例外的なケースだが。
0096名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 18:43:09ID:XPJd0XAKしかし、それでも外様よりは軽いよ。ただ今までの年貢が非常に軽かったので苦しんだだけ。
ましてや農民が過酷な取立てで村ごと離散するような
上杉とは比べものにならない。
0097名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 19:05:23ID:JTYpiF/e天領が年貢が軽かったというのは通説だと思ってた
0098名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 19:33:10ID:EPwo0hyS役人共は飢饉の救済も拒否して飢える民衆を無視し米買い漁って将軍家に送るのみで
やむなく大塩先生は家財を投げ売り救済活動するも個人の資産でたかが知れてる
商人と役人は結託し暴利を貪るばかりで
ついには成功する事のない反乱へと踏み切らなければならなかった
また世直し一揆も天領より始まった
今までの百姓一揆ではなく政治や幕府そのものを批判するものである
そこまで民衆は追い詰められていた
武州騒動を皮切りに全国へと飛び火し明治まで治まる事はなかった
0099名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 19:54:25ID:EPwo0hyS切実な思いが伝わってくる
ttp://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/gekibun.htm
0100名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 20:11:46ID:GUbjCYCz事件の原因が、なぜ天領は年貢が重いっていう誤解になるのか理解できん。
調べてみろ。
一般に天領は年貢が比較的軽かったって、大抵の入門書でも書いてあるから。
0101名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 20:41:04ID:XPJd0XAKあ、ちょっと反省しすぎたな。
天領の年貢は外様より原則として軽いよ。
ただ、例外的事項として天領でも過酷な年貢が課されることがあって、
その時は騒動になった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A3%E5%AE%98
それと世直し一揆はやはり幕府が相手だからだろうね。
あと一揆についてだが、
普通の外様藩では年に何十回も起こってるものものだしさ。
そんで何はともあれ平均的に天領の年貢が
外様より重かったとかいう具体的なソースがあったら
提出してくれ。
0102101
2006/09/04(月) 20:45:26ID:XPJd0XAK正徳の治の時代の天領の年貢の平均が2割7分6厘と書いてあるぞ。
ただし、開く代官のいるとこでは例外的に凄い年貢が取られてたようだ。
0103名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 23:00:19ID:EPwo0hyS洒落で暴動起こすわけじゃない
この時代は命懸けなんだから
自分自身、今の政治に不満あるからといって命懸けてまで糾弾する気あるか?
普通ないだろ
そこに至るまでにはどれだけ生活が逼迫していたかなんて簡単に分かる事じゃないか
0104名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 01:43:53ID:pF4s24iQ>”120万石を30万石にしてしまった=愚かな家臣”としか見ないが、それはあくまで結果論
結果論と言い捨てるが、武士の世界は結果が大事なんよ。お家を興隆させれは善。衰退させれば悪。
悪い家臣と言われないように命を懸けているのが武士というもの。直江はどうもそれが甘い。
軽々しくケンカを売ったり、懐柔されたり、武士としてのモラルの感覚が甘いといわざるを得ない。
開墾したって100万石に達しない。それに開墾なんぞどこの藩でもやっている。開墾したからって直江の罪が消えるわけではない。
0105名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 04:11:07ID:j5idIIgYで、そういう理屈が何で「天領の農民が外様以上に年貢率が高い」
「天領の農民が外様の農民以上に困窮してた」になるわけ?
その具体的史料をさっさと明示してください。
明示してくれたらすぐにでも認めますからね。
「一揆が起きた」とかは残念ながら証拠にはなりません。
少なくとも定説とは別の事を言っているわけですから、
ちゃんと史料示してくれないと困ります。
そもそも現代ですら15年ほど前に起きた米不足の年に東北では日射量不足で収穫ゼロ
なんて年があったくらいなので
農作物、特に米の農業技術や品種改良が少ない昔ならなおさらでしょう?
幕府がたとえベストを尽くしたとしても
不作だと困窮する農民、餓死する農民は確実に出てきます。
前にも言ったとおり一揆なんてのは外様の藩では毎年たくさん起きてました。
例えば江戸初期の長州藩では年間に三百件もおきたという記録があります。
江戸中期の天領での一揆は単に普段は低年貢率なので一揆が起こりにくく、
その対策が不備だったと考えられます。
0106名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 05:00:16ID:EWVimYCS上杉米沢30万石、かたや治水開墾が進み伊達仙台250万石(全国1位)
0107名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 05:23:32ID:RYbn2Lpt大坂城代領(天領)は、江戸と並んですごく恵まれてるんだよ。
この二都市の町人は御用金は課されるけど、租税は優遇されてるし、
いわば例外的な扱い。
そんで大坂は米相場の中心地で集積地だから、とんでもない飢饉の時以外は、
他の地方が餓死者がでてても、ここでは基本的に米が手に入る。
つか、大坂城代領の住民も大塩の時にはそりゃ困っただろうけど、
東北諸藩では、藩の人口自体が餓死者で激減してる状態なわけで。
江戸時代を通じて、大坂と江戸の人口が増え続けたのをみればわかるだろ?
0108名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 07:03:24ID:j5idIIgY1 盛岡(南部) 97件
2 広島(安芸) 69件
3 秋田 65件
4 荻(長州) 61件
5 金沢(加賀) 57件
6 宇和島 56件
7 徳島(阿波) 42件
8 鳥取 38件
9 松山(伊予) 36件
10 会津 35件
11 庄内 32件
12 仙台 31件
13 高知(土佐) 29件
14 福山 29件
15 名古屋(尾張) 28件
16 岡山 27件
17 新庄 24件
18 延岡 22件
19 上田 22件
20 熊本 21件
0109名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 07:10:33ID:j5idIIgY天領で起きた一揆の原因は
「天領を外される事に抗議して」のものだったらしい。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1889004
今まで天領として無税だったのに
庄内藩に割譲されることに抗議して
一揆が発生したそうなる
もしも天領になるのがそんなに嫌なのなら、
喜んで庄内藩に組み込まれるのを望む筈だが?
0110名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 07:23:27ID:j5idIIgY面積が全然違う。
ちなみに仙台藩では領内での農作物の売買を禁止し
農民が自分たちで使うわずかな分以外は全て藩に強制的に売らされた。
藩はその農作物を江戸に売って儲けたわけだ。
とはいえ、それは当初はむしろ農民なとっても有利なものであったが、
物価はどんどん値上がりするものなのに対して
藩の作物買い上げ価格はいつまでも据え置かれたために
江戸中期以降くらいから買い上げ価格と相場の差が相当にかけ離れたものになってしまい、
実質、第二の年貢となってしまい農民を苦しめたという。
0111名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 07:46:21ID:0MrX+PLB>地方の天領は年貢の徴収が出来ず放置されていました。
有名なのは庄内南部の天領で、実質年貢ゼロだったの
ですが、庄内藩の転封問題が起きた後(転封は中止となった)、
そのお詫びとして幕府が庄内南部の天領を庄内藩に組み入れ
ることになりました。いままで年貢ゼロだったのに明らかに
徴税可能な藩の領地になるという事で一揆が起きています。
当然の話だし、庄内の貧窮ぶりを示すエピソードだろうな。
>会津や和歌山は酷かったと言われており、会津降伏後に新政府が
進駐したら領民の体型が異様に小さかったと報告され、米の配給
を行う政策が行われています。また、会津の転封予定先であった
猪苗代では、会津の地獄統治を知っていましたので、転封反対運動
が起きています。
会津は地獄だなw
0112名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 08:07:39ID:j5idIIgY中には酷いとこもあったみたいだね。
0113名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 08:16:23ID:j5idIIgYナンバー1が南部藩であり、ナンバー2が秋田藩なのは有名だがな。
その次が長州か。
あとは会津とか津軽とか加賀なんかが有名だが。
加賀藩は農作物の質にまで拘って農民どもを困らせたという。
酷くスレ違いになってきた。
0114名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 08:37:58ID:jwKSZ52pこのところ話題がループしてたからかも知れんけど
しかし、遠くまで話題が流れ流れてきたもんだ・・・
0115名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 09:41:53ID:AXgUSJ17結果で語るなら家康に加勢した後に用済みで潰された最上家や福島家はどうなるんだ?
それこそ藩主はもとより家臣一同おまぬけっちゅうことになるな
幕府からの言いがかりはどこの藩でも大なり小なりあったわけで
0116名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 11:04:30ID:u8IUHEAz一体何に対して反論してるんだよw
天領も他と変わらず領民の生活は逼迫していたと言ってる
0117名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 11:26:49ID:WuVS1bSL江戸時代の領民は、そりゃ支配されてる方なんだから、ぶっちゃけ誰でも逼迫
しているといえば逼迫しているわけでしょうよ
その困窮にも度合いがあって、年貢の割合が天領では他と<比較すると>
軽かったという、ごくごく簡単な事実が、何でこの馬鹿にはわからんのかw
0118名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 12:09:05ID:u8IUHEAz呆れたものだ
くだらん煽りで息巻いてないでちゃんとログを読む事だな
検討違いな事を俺に反論されても困る
0119名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 12:45:34ID:EuDDkmJIこれ何年頃の話?
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