【義】【義】直江兼続を語るスレ 2【愛】【義】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 13:17:04ID:EL/8vuxv【愛の戦士】 直江兼続を語るスレ 【無双に見参!】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1137033419/
0192名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/06(水) 06:29:06ID:dVIVq40zいや別にホモ相手=無能という事はない。
信玄と高坂の関係もあるし。
0193名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/06(水) 15:17:43ID:V9Xhjw8V>御家の利害を無視して云々も
上杉家自体が謙信の神話で纏まってる組織だったので「先代ならこうしたはず」という
基準から外れたら家中の結束が取れない状況だった訳で。故にああ動くしか
無かったと思う。直江の凄さは徳川に徹底抗戦した後上杉家を存続できた
交渉能力にあると思います。
0194名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/06(水) 17:06:51ID:YFx5SdAk結局、上杉は謙信様々なんだよ。結城秀康がたまたま謙信を崇拝していたため、
伊達に、頼むから上杉をこれ以上叩かないでくれって、戦後頼んでたりな。
あと、90万石は減らされすぎだよ。翌年の3〜4月に最上に簡単に庄内かっさらわれ
たため、失わなくてもいいはずの領土を義光に既製事実化された。約30万石は余計。
60万石程度は、交渉で何とか残ったような気もするね。直江は家康に長谷堂の撤退
を上手く煽てられたという始末。
0195名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/06(水) 20:00:16ID:lRUwF3JRまともに戦わなかった毛利や佐竹ですら所領を半分以下に減封されてるし、
ましてや謀反云々を吹っ掛けられた挙げ句、派手な軍事行動を起こしているんだから
30万石でも残るようにしただけ大したものだと思うけどな。
謙信を結城秀康が崇拝していたということよりも、本多正信らに働きかけた
ことが大きいんじゃないのか。「景勝は流罪で上杉は改易」という意見も
あったみたいだし。
なんかどうしても直江を貶めたいやつがいるみたいだが・・・・2ch的に直江兼続は
人気ないのか?
0196名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/06(水) 20:29:41ID:1D+vmI0e0197名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 00:24:07ID:SwlkvAqM毛利の場合、なんとか戦わせまいと吉川広家がいろいろ工作していたな。
ただ、吉川の場合、ツメが甘いというかなんというか・・・・・
0198名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 09:00:43ID:mYdEUvwy領土を攻め取られているのは上杉だけ。しかも、国力半分以下の伊達や最上に。
むしろ、直江のようなスタンドプレイやる奴がいない毛利のほうが、その後発展し、しまいにゃ徳川にリベンジしている。
0199名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 09:04:34ID:XKLFbRfY中国大返しで静観して豊臣家に恩を売ったように、関ヶ原で徳川家に恩を売るという
吉川の作戦自体は、そう悪くないもないんだがな・・・
まあ、吉川は不憫なところも大いにあるよ。
0200名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 12:37:03ID:SwlkvAqM鍋島は東軍に寝返って柳川を攻めているし、前田は母親を人質に出して、
当初から東軍に属している。また、島津は家を挙げて東西どちらかに属した
わけじゃないからな(この時当主は義久で、義弘の個人行動に近い状態)。
これらと同列に語る事はできないだろ。
また、毛利は総大将とはいえ、伊勢や大津(末次元康)で戦った程度で、
関ヶ原では全く動かず、大坂城を退去したのに所領を今までの3割程度まで
減らされたんだから、それを考えてみろ。
合戦を起こし、かつ積極的な軍事行動を展開しているんだから、それで
改易されなかっただけマシというもの。宇喜多など、西軍に付いたら基本改易だし、
佐竹に至ってはろくに動いてないのに秋田へ飛ばされてるわけで。
白石城はあっけなく落ちたとは言え、最上の所領をかなり切り取っているんだし、
一概には言えないんではないか?また、戦後庄内を攻められたのは、孤立した
別働隊の下吉忠が降伏したというのもあるだろうし。
最後の一文に至っては関係ない。
0201名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 20:05:03ID:67uTS19G「毛利の方が四万石多く残せたんだぞ」とか威張るようなことでもない。
そして、島津や鍋島はともかく前田なんてまるっきりの東軍だが。
何で前田を持ち出すのかさっぱりわからない。
0202名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 20:07:48ID:0biAsPJ2徳川家が800万石、伊達家が250万石、前田家が102万石、島津家は実石は40万石程度
0203名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 20:09:27ID:RZW5nU1D0204名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 20:13:18ID:67uTS19Gわずか二週間程度で最上領を席巻し
長谷堂城と山形城を残すだけになった。
現実はゲームと違って一国取るのに数十年の自体だし、
三十万石もある最上領をたった二週間で城二つ残して切り取っただけでも立派立派。むしろかなり早い。
実際、当時の上杉と最上の力関係は武田と徳川程度だが、徳川なんて信玄相手に10年も粘ったんだしさ。
あと山形城と長谷堂城を落とせなかった件だが、
城なんてのはいかなる攻撃を受けても数ヶ月持って当たり前。
奥平はたった五百の兵で武田一万五千を開いてに長篠城を二ヶ月も持たせたし。
高橋招運は八百の兵で島津の四万の大軍に二週間ほど粘った。
ましてや山形城と長谷堂城には東軍勝利を信じた、
最上の主力が必至で防戦している以上、二週間程度では落とせないだろう。
しかも、もう少し関が原が長引いてたらこの二城もまな板の上の鯉で
遅かれ早かれ落ちてたわけだしさ。
0205名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 21:12:16ID:F9ViLa5z2ちゃん的というか、どの武将のスレにも一人二人はまぁいる感じ…。
たまに寂しくなるわな。
0206名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 21:43:48ID:gfnOwL0G直江と信玄はアンチが目立つね。
信玄なんて名将評価なのは当たり前なのに、ちょっと誉めると
必死に叩く奴がいる。
0207名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 23:01:34ID:WI1mYWNE大谷みたいに一大名として西軍に与したなら立派なんだが
家臣だからな、結局そこだろ。
0208名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 00:22:04ID:KNiSbWi1伊達とのエピソードその2、は江戸城での話だね。
戦場出会ったってのはおそらく事実ではないね。伊達の影武者か、伊達家の他の将でしょ。
直江のほうも、対伊達の合戦を指揮してんの?
白石を速攻で攻め取られていて、自身にも多少責任があろうに、どんな顔してこんな軽口をたたいたんだろう?
伊達の無反応は、あきれてたんじゃまいか?
(伊達)「???バカじゃね、こいつ???…」
そもそも、伊達って結構、幕閣や将軍とツーカーだったみたいだから、そんな椰子にケンカ売って、上杉に何の利益があるんだろう?
大藩の家老を務めるような人物ではないことが、この一事を見ても明らか
0209名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 00:35:30ID:Fw7QTX9Jさすがにこれは史実ではないだろ。直江が直接政宗と戦ったことはないはずだし、これは江戸城での話だから、30万石にされてから。この状況でわざわざ喧嘩売るようなまねしないだろ
0210名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 00:36:23ID:jPy7JdkFえーと、最上領で快進撃に見えるのは、最上が各個撃破を避けるため、
山形城への撤収命令をだしていたから。
畑谷城にしても、義光は撤収命令を出していたが、江口五兵衛が玉砕を選んだ。
最上の防衛ラインは始めから山形−長谷堂−上山だったわけで、それを一つも崩せなかったわけだ。
特に長谷堂では、直卒なのにいいようにやられてるし。
あのまま戦っても勝てたとは言えないだろうな。
>>200
庄内を孤立させたのも、元はと言えば最上領進行に失敗したからだろう。
0211名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 01:20:53ID:jPy7JdkFそれから、撤退戦にしてもしかり。
退却側が不利とはいえ、兵数的には圧倒的直江有利。
にも関わらず、兼続自身は寡兵の最上勢に攻め立てられ、一時切腹を覚悟。
水原など部下の奮戦で窮地を脱する。退却戦は見事だったが、直江の手柄ではなく部下の手柄だろう。
もっとも、最上攻めの失敗を以て直江に軍事的才能が無いとまでは言わない。
この件は寧ろ、義光以下の最上勢が過小評価されているのだろう。
要所に兵を集め、他は形だけの防戦にする思い切った防衛戦略。上山と長谷堂の用兵。
直江がダメダメだったのではなく、最上がよかったということだろう。
最上への過小評価が、兵をほとんど居なくした最上領内の席巻、部下に助けられた撤退戦を
直江の功績にすることにつながっていると思うが。
0212名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 08:25:31ID:myi3FzZY何度も言うが攻城戦とはそういうものだ。
城というのは元々、兵数的に大幅に上回る軍勢相手に戦えるように作られてる。
そんな事言ってたら五百の兵の篭る長篠城を二ヶ月も落とせなかった勝頼はどうなるんだか?
あと、あの状況の退却戦に兵力の多寡など関係ない。、
本当なら確かに退却戦は深追いは禁物で
相手が大軍なら逆に方位される可能性もあるが、
上杉軍はもはや徳川方の最上に逆襲なんて事もできないし、
最上もそれはわかりきっていたので好き勝手に攻撃しまくれたと。
それだけ。
0213名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 08:31:20ID:myi3FzZY別に対等な条件で最上が上杉を打ち破ったわけではないのだが、
城に篭って防戦したのと、
もはや関が原が終わって撤収するしかなかった、
上杉を追い立てるくらいしか出来なかったわけで、
そういうのを比較するのは意味がない。
そもそも最上は本庄繁長単独に
してやられた程度なのだが。
0214212 213
2006/09/08(金) 08:41:06ID:myi3FzZY確かに最上は相当な奮闘はしたと思うよ。
ただ>>210-211の言い方を見ると
まるで
「最上が単独で上杉を打ち破った」
「関が原の東軍勝利が無くても上杉に勝ってた」
というふうに読めてしまうのがどうかと思った。
関が原の東軍勝利が無ければ
遅かれ早かれ最上は上杉に潰されてたろう。
勿論、これは兵力の多寡の問題でもあるが。
0215名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 08:53:36ID:L8qlOjFN前提からして直江の評価が高まるような要素はない。
0216名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 09:46:39ID:KhAokWpB>家臣だからな、結局そこだろ。
結局、これに尽きると思うがな。家老としての結果責任を問われるのは仕方ない。
ただ、戦後の徳川家との交渉で米沢30万石保ったのは、誰かが言っていたけれど、
上出来の部類だと思うし、そこは直江の業績として素直に褒めてもいいと思うけどな。
0217直江スレより転載
2006/09/08(金) 10:13:01ID:7Vqbm7Ua確かにな。例えば、韮山城で北条氏規は、4000くらいの兵で3万くらい
いた豊臣軍を3ヶ月近く凌いでいるわけだしな。そして、夜襲して上杉を脅かした
などの話が出てくるが、正直戦局を変えるようなものでは到底無いんだな。
>>215
家康の方が一枚上手だったとは思うが、上杉としては、ほかに選択肢があったかどうか。
会津から庄内、佐渡を押さえている上杉は前田よりも排除せにゃならん相手であるはず。
また、家康が勝つべくして勝ったみたいにいう人が居るが、決してそんな事は無い。
0218名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 10:43:20ID:5tXCVslv同意。
何故いきなり伊達に?という感じ。何かよく言われる直江像みたいな
もんから物凄く遠ざかる一件。これ史実だったらホントショックだわ。
0219名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 11:10:33ID:WInRutzc人格者の直江にして、反発したくなる何か不快なものを持ってるんだよ。伊達政宗という目障りな子鼠は。
0220名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 11:11:39ID:KhAokWpB畿内に隣接する北陸(前田)は、上方に至る北からの路だから
軍事的にすごく重要なんだけど
大坂に距離的に近いから、ここが徳川方に落ちると豊臣家には
直接的な脅威なわけで…
0221名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 01:18:47ID:1vamj7rF前田の場合、利家が死んだ直後で、利長になったから父より与し易かろうが、
上杉、直江の場合はそうもいかへんだろって話。
0222名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 01:38:17ID:LBRMglE2徳川政権下では上杉はほとんど用無しで、かろうじて利用価値があるとすれば、伊達の押さえに使えるかも、と言ったところではないかな。
だから、考えようによっては、その残ったわずかな存在価値を必死にアピールしたのかもね。
こう考えると、お家の利害に一致する。
でも、武勇の名門上杉の家老がそんなことに汲々とするなんて、上杉ファンとしてはなんか悲しいな〜
直江っていったい何なの…
0223名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 01:44:25ID:P/L6U3/r疑問だったんだが、そもそもそれってどこにある話?
エピソード載せてる本やサイトは多いんだけど、史料に
言及してる所がなくて知らないんで教えてくれると嬉しい。
0224名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 12:32:50ID:S+3Cr5U9つうか石田と直江が連携してたというのはあくまで通説で計画を起こすための書簡とか
発見されてない訳で。関が原からの流れはあくまで上杉家の単独行動から始まっていると思われる。
0225名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 16:44:16ID:UWi7YjoD上杉家と石田三成の連携の計画を示す書状は米沢市上杉博物館蔵に直江兼続書状として残っているが。
正式な鑑定を受けていて間違いなく当時のモノとされている。
慶長5年8月6日付で兼続から会津にいる清野助二郎に宛てた書状なのだが当時の上杉家と三成との関係がわかる。
書状には会津に三成の使者が来ている事を知った兼続が使者が持ってきた三成の書状の返事は自分がすると指示している。
また越後の一揆の指揮は上杉家に任せる様にとの指示もしている。
書状の中には佐竹の使者が兼続のもとへ来ていた事も書かれている。
ただ、よく言われている東西から家康を挟み撃ちにするといったものだったかは不明。
今の段階では家康が会津に向けて軍を進めた後に三成が挙兵する段取りだったところまでは証明できる。
0226名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 17:41:44ID:Q2J+DrY50227名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 17:44:54ID:Ew7KoR0d0228名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 20:01:17ID:j30/lY3e俺は名将言行録で読んだけど、アレは他のとこからの転載だろうからなぁ。
0229名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 21:21:13ID:mmIoSgNU防戦とは城を活用した防御も、当然含むものだ。
進行戦とはとは巧城戦も含めて戦略を立てるもの。
その言い方すれば、真田昌幸の上田城防戦も、大したことないことになってしまう。
>別に対等な条件で最上が上杉を打ち破ったわけではないのだが、
状況的には直江有利だったが、凌いだわけだ。
>城に篭って防戦したのと、もはや関が原が終わって撤収するしかなかった、
上杉を追い立てるくらいしか出来なかったわけで、
それをやるのは守備側として当然の戦法。
>そもそも最上は本庄繁長単独にしてやられた程度なのだが。
それを言うなら十五里原は最上主力は参加してなかったわけだし、
一つの戦いで大名の全てを評価するのも意味が無いな。
白石城戦をもって伊達>上杉と言うようなもの。
0230名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 21:44:27ID:cnrL8ypv謙信は俗説で実際は景勝の寵童。
米沢市のホームページには「ご学友」とか書いてあったので笑った。
0231名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 21:47:26ID:mmIoSgNUそれと順序が逆になったスマソ。
>何度も言うが攻城戦とはそういうものだ。
城というのは元々、兵数的に大幅に上回る軍勢相手に戦えるように作られてる。
そんな事言ってたら五百の兵の篭る長篠城を二ヶ月も落とせなかった勝頼はどうなるんだか?
えーと、ただ長谷堂を落とせなかったことを問題にしてるのではなく、
長谷堂を落とそうとしてあの手この手をやったが、ことごとく裏をかかれて痛手を
受けてたこと、城の防戦能力を削れていないことを問題にしてるんだが。
夜襲や青田がりや、武将討ち死にとか。
これを籠城戦だったから当然というのなら、昌幸の上田城防戦も当然だし、
秀忠にも戦術上の非はなかったことになるな。
>あと、あの状況の退却戦に兵力の多寡など関係ない。、
上杉軍はもはや徳川方の最上に逆襲なんて事もできないし、
最上もそれはわかりきっていたので好き勝手に攻撃しまくれたと。
最上は所々で逆襲受けてるよ?
でも、主将の直江が切腹を覚悟するほど追い込んだけどね。
でも、見事最上の追撃を食い止めた直江の部下は見事だね。
>まるで「最上が単独で上杉を打ち破った」
「関が原の東軍勝利が無くても上杉に勝ってた」
というふうに読めてしまうのがどうかと思った。
いや、実際はそうなんだよ。
山形−長谷堂−上山の防衛ラインに対して、上山進行は遁座、長谷堂では被害を受けるばかりで
城の防戦能力を削れていない。
この状況で考えれば、長谷堂を抜く前に冬になる。
あとは直江が上手いことやって長谷堂を落とせたかだが、それはたらればの世界。
見えてる状況で考えれば、直江は最上を落とせないことになる。
また、直江が最上攻めにてこずれば、伊達がどう動くかも分からなくなるし、
宇都宮からの突き上げもある。
上杉は、結構厳しい状況にあったのは分かるでしょ。
だから、速戦即決の最上攻めを目指したけど、それが遁座した時点で、上杉は結構厳しかったと思うよ。
0232名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 22:17:03ID:cnrL8ypv当時の上杉と最上の力関係は
武田と徳川程度だったが徳川は二週間どころではないほど粘りまくったよ。
でも時間敵余裕があれば、
最上はやはりいつまでも持たなかったと思うよ。
たらればになるが「関が原で西軍が勝ってれば」という家庭もあるし。
0233名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 22:36:50ID:swUSyezhお互いに包囲網が展開されていたし。
0234名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 22:41:51ID:7K0CxjbE>城の防戦能力を削れていない。
>この状況で考えれば、長谷堂を抜く前に冬になる。
>あとは直江が上手いことやって長谷堂を落とせたかだが、それはたらればの世界。
>見えてる状況で考えれば、直江は最上を落とせないことになる。
煽りではなくて正直な質問なんだが、こういう「防戦能力を削れていない」とか、
そういうことはどの史料を見れば考えられるの?
0235名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 00:20:07ID:hoMd9Xsyまず、長谷堂側にも相応の被害はでているんだよな。楯岡光直が須川方面から
奇襲をかけようとして、水原親憲に見破られて失敗していたりする。
それから、何度も繰り返すが、城攻めに際して、力攻めしてダメだったら、
持久戦に持ち込むというのは基本中の基本。そして、痛手と言うが、本村討死は
痛いとは思うが、その他は実際戦局が動くほどのものではないだろうに。
そして、徳川秀忠の上田攻撃とは状況も大分違うだろ。同列には語れないはず。
秀忠の場合は、上田攻略は目的ではないし、是が非でも上田を陥落させなきゃならない
何て事はない。押さえにある程度の兵を割いての進軍も可能だった。それにたいして
直江は長谷堂攻略は最上攻撃のための必須事項。
そして、秀忠の場合藪蛇な真似をした結果の損害という感じで、いたずらに兵を疲弊させて
しまっている。さらに、各将が功を焦っていた節もあり、大久保配下の奉行が処刑されている。
秀忠は明らかにトロい指揮をしていた。
まあ、真田昌幸も志村伊豆も優れた将であるのは確かだが。ちなみに、苅田は
城攻めの際の寄せ手の基本戦術だから、これを云々いうのはどうかな?
そして、直江の部下が凄かったんだろ?みたいな事をあんたは言っている。たしかに
水原や前田の働きは特筆すべきものがあるが、それでもその総指揮を執っているのは
直江なわけで、彼の指揮あってのものだろう。現に、直江があそこで討たれたとしたら、
前田や水原が頑張った所でダメだったはずだし。
「最上単独で勝ったようなもの」と言っているが、東軍が本戦で勝ったから、
自動的に最上が勝ち馬に乗れたようなもの。実際城側にも損害は出ているし、
西軍が勝利していたら最上の側こそ一気に窮地に陥ったわけだし。
0236名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 00:25:32ID:hoMd9Xsyだから凌いだのは結果論。一日で本戦のカタがついてしまったもんで、
結果的に凌げたということになっただけ。まあ、ラスト3行には同意だが。
0237名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 01:05:00ID:8wz6Cx1f城攻めだからどうとかはいえないと思う。
現実に同時期の白石城は余裕で1日で落ちているわけだし。過去に伊達種宗は最上の長谷堂を余裕で落としているよ。
さらに関ヶ原の決着がなかったら、伊達が大軍で援軍を差し向けていた可能性もある。
ここで、白石城が落ちていたので、伊達は南方を心配しないで大軍を向けられることになる。
白石城を甘く見た直江の間抜けさがここで影響してくることになる。
山形の盆地のどっかで伊達の大軍と最上軍に挟撃されて、直江は命もなかった可能性が高いと思う。
0238名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 03:01:19ID:hoMd9Xsy白石は城将甘糟景継が不在で、城将は登坂式部という奴で、こいつは別段優れた
将というわけでもない。さらに兵も少なく、孤立された事で士気も低い。
士気も高く、態勢も万全だった長谷堂とは比べ物に並んだろ。さらにこの城を
奪われたのは直江というよりこんな時に城を空にした甘糟と、簡単に降伏した
登坂式部の不覚だろう。
それから、過去の伊達稙宗の場合だって、関ヶ原から90年近く前だし(つまり
城郭が関ヶ原の時代よりも劣るわけだし)、迎撃した際に最上側の足並みが揃って
いなかったという(豪族の寄せ集めでしかなかった上、最上義定の到着も遅れたらしい)。
だから、この時落とせた長谷堂を落とせなかったことを理由に直江=凡将とするのは早計。
この論法で行くと、高天神を落とせなかった信玄<落とせた勝頼ってことになるが?
南方を心配しないでって、佐竹(及び相馬、岩城)の動向は不鮮明だし、そちらにも
押さえの兵を割かなければならない。また、会津には上杉景勝が、福島には本庄繁長など
がおり、それにも相応の兵を割かねばならない。
それに戦が長引けば最上も危うくなるし、佐竹やその他の動きも怪しくなる。そうなれば、
総力を挙げて進撃・・・なんてことは出来なくなるのでは?
>>237はやけに必死だなあ、べつにこちとら直江山城が神のごとき軍略家なんて
言って無いのに
0239名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 04:08:54ID:SauPPCJdつーか、最上程の勢力がたかだか二週間も持たずに上杉に滅ぼされる方が
よっぽどおかしい気もするが?
0240名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 04:20:26ID:SauPPCJd村上や長野ごときにてこずった信玄とか
浅井や波多野ごときに手こずった信長はどうなるんだか。
毛利元就や秀吉も一年以上もの長期の攻城戦経験があるしなあ。
そして徳川が真田にてこずった。
何にせよ城を利用して補給や時間的な制約のある敵軍を
撃退した例は数多い。
0241名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 05:33:00ID:DYzq+VMS山間部に建てられた城なら一般的にどちらが攻略は難しい?
他スレで議論になってた話題なのだけど。
もちろん大阪や安土レベルの大規模な城や
特殊な例を除外した一般論として。
0242名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 06:54:36ID:VsA6shdZ2chにありがちな議論で、みんな自分勝手の情況を想定して話を進めるので、
お互いに話が噛み合わなくなってるのが目に見える。
俺からいわせれば平地の城のほうがどう考えてもアクセスのしやすさという一点でもって
攻略しやすいと思うが、そう言うと忍城や下妻城のような沼沢地に囲まれた城の例を出してきて、
必ずしもアクセスしやすいわけじゃないよ、なんて言われたりするからな。
まず平地にある城と山間部の城の定義をしなきゃならん。
平地のどこにあるのか、山の頂上にあるのか中腹にあるのか等々。
もちろん寄せ手の規模や装備等、守り手の規模や装備等も同じ条件で決める必要がある。
それ以外にも、守り手が水を確保できる可能性はどれくらいか?
寄せ手がそれを遮断できる可能性はどれくらいか?とか。
おっと、その前に寄せ手が自軍の城を出陣するところから議論をはじめるか、
すでに守り手の城を囲んでいるところから話をはじめるのか、ってのもあるな。
でもそういう定義をしても、例えば武蔵松山城をダレソレが攻めるといった
個別の場合に適用できないのは言うまでもないわな。
それにそういう定義化された議論じゃ現実に即しないから満足しないという奴もおるし。
まるっきり意味のない議論だと思う。
0243名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 07:05:02ID:SauPPCJd二万程度の兵力で最上を二週間で攻め落とすのは無理だと思うよ。
0244名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 07:17:02ID:2HmdhOHp9月15日辺りになると、奥州戦の局面は様変わりしてるよ。
もはや上杉と最上の二家の戦争ではなく、当初様子をみていた伊達家が
積極的に戦いに介入してきている。もはや上杉VS最上・伊達の全面戦争。
9月23日には伊達政景は、景勝本人が出馬してくる情報をつかみ、山形城
でその対策を最上と評議していた。ここで景勝の加勢を封じるため、煮え切らな
い態度を示していた伊達政宗が直々に出馬して政景に合流、上杉を叩く。
むろん、結城秀康と連携しての軍事行動となる。
「二十九日此月御出陣、晦日(三十日)白石御着、来月朔日(10月1日)
より伊達信夫筋へ働きたまうの事御書を賜う」(伊達治家記録)
あと二週間関ヶ原の報告が遅れていれば、上杉vs伊達、最上、結城の連合軍
との一大決戦が行われていた。長谷堂城陥落ではなく、>>237のような上杉滅亡
の可能性の方が高い情勢だった。
0245名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 07:17:51ID:zco9H/DP戦国一般の中世城郭なら、一般的に山城の方が攻めづらいべ。
だからこそ、山城ばっかつくってたわけだ。
0246名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 07:31:05ID:SauPPCJd0247名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 08:44:13ID:FmBFd7B2なぜなら最強の御館様と共に強敵達と常に戦闘を繰り広げてきたからだ
景勝時代に領地が30万石に大減封された後も、鉄野結束を誇った上杉家家臣は、
貧しくとも上杉家に使えることを望んだ
0248名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 08:47:18ID:zco9H/DP0249名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 08:58:36ID:omZnsiaEいや煽りとかじゃなく、
普段一行レスばっかりの過疎武将スレにいる住人からすると、
信じられんほどマメ
0250名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 09:06:59ID:SauPPCJd0251名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 09:12:02ID:SauPPCJd「人間塞翁が馬」が馬という言葉を思い浮かべずにはいられない。
もしも上杉が大勢力のままだったら、
上杉の監視役として最上は優遇され続けたかもしれないが、実際は10年で改易。
それに対して上杉は直系が何度か絶えたにもかかわらず、
改易はあったものの養子を貰い維新まで生き延びた。
逆に言えば上杉が巨大勢力のままなら、あっという間に
潰されてたかもしれない。
0252名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 09:45:00ID:RevW2U+2> >>237はやけに必死だなあ、べつにこちとら直江山城が神のごとき軍略家なんて
> 言って無いのに
直江山城守は神以上の軍略家ですが何か?
0253名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 10:00:46ID:SauPPCJd上杉軍は長谷堂、植山は落とせず畑谷城も苦戦したが、
白岩・谷地・寒河江・八沼・左沢・山辺・延沢・長崎・五百川などの諸城
は落としてるんだよね。
最上の勝勢だったなんてとても言えない。
小田原征伐でも圧倒的に優勢な軍勢に抵抗したいくつかの諸城もあったように
最上の城にも二週間以上くらいは粘る城の一つや二つもあってもおかしくはない。
0254名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 12:42:33ID:w9mRomCm思ってたからそれ向けの軍略を作っていたそうで。それがたった一日の
戦いで終わったから予定が全部狂ったのでは?
0255名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 23:04:55ID:oT1yX434>防戦能力を削れていない」とか、そういうことはどの史料を見れば考えられるの?
長谷堂の防衛能力が削られたという史料は見たことが無いから。
長谷堂の戦いを記してあるもので、長谷堂の○の丸を落としたとか、曲輪を落としたとか言うものを見たことがない。
あのまま攻めてれば落とせたと言うならば、少なくともそういうものがなきゃダメだろう。
>>235
>楯岡光直が須川方面から 奇襲をかけようとして、水原親憲に見破られて失敗していたりする。
これは記憶が曖昧でスマンが、長谷堂隊ではなく山形隊ではなかったか?
違ってたらスマソ。
それと、これ自体は守勢であった最上が逆襲しようとして失敗したということで、
これによって前に書いたように長谷堂の防衛能力が落ちたわけではない。
>何度も繰り返すが、城攻めに際して、力攻めしてダメだったら、持久戦に持ち込むというのは基本中の基本。
持久戦してたっけ?
9月29日でさえ、総攻撃に失敗して上泉他を討ち取られてたと思ったが。
それと、直江にしても速戦即決を目指したはず。伊達と宇都宮が心配だし、冬もあるし。
だから、最後まで力攻めじゃなかったっけ?
第一、直江自体が長谷堂を力攻めで落とせないので、迂回も検討してたはず。
>痛手と言うが、本村討死は痛いとは思うが、その他は実際戦局が動くほどのものではないだろうに。
木村討死は上山戦ね。
長谷堂では上泉他。
で、確かに戦局全体は動かないね。
そして、その動かない戦局というのは、直江が長谷堂を攻めあぐねてたというもので、
直江が有利に戦いを進めていたと言うものではない。
直江の用兵能力を測るうえでは、特に上泉の討ち死には大きい。
上田城防戦との比較の話はね、直江が長谷堂を攻めあぐねたことを、城攻めだったから仕方ないというのなら、
秀忠が上田城を攻めあぐねたのも、城攻めだったから仕方ないということになるね、ということ。
別に戦略目標がどこにあったかではなくて、あくまで城攻めのやり方の問題。
>ちなみに、苅田は城攻めの際の寄せ手の基本戦術だから、これを云々いうのはどうかな?
そういう意味でなくて、刈田で長谷堂城兵をおびき出して殱滅を計ったが、
志村に見破られて逆に痛手を負ったという話。
>水原や前田の働きは特筆すべきものがあるが、それでもその総指揮を執っているのは
直江なわけで、彼の指揮あってのものだろう。
これは、意味無いぞ。
水原や前田は立派だが、直江の指揮がなきゃダメだったのか?
むしろ、直江の窮地を救ったんだろ。
>東軍が本戦で勝ったから、自動的に最上が勝ち馬に乗れたようなもの。実際城側にも損害は出ているし、
えーとだから、直江は長谷堂を追い詰めていたか、それとも、
この先追い詰めることが確実に予想できる状況だったのか。
長谷堂迂回を考えてるようだと、とてもそうとは言えないだろう。
>西軍が勝利していたら最上の側こそ一気に窮地に陥ったわけだし。
西軍が勝利したら、東軍大名はみんな窮地だよ。
0256名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 23:13:54ID:oT1yX434という意見が多いが、別に2週間で勝てなかったからダメと言ってるわけでなくて、
2週間の戦い方が、内容がイマイチだったと言っている。
2週間攻めあぐねてたのに、もっと時間たったら有利に戦いを進められるというのは変だと言っている。
2週間、有利に戦いを進めていたと言うのなら、確かにもっと時間があれば
長谷堂を落とせたという主張にも納得がいくが、そうではなかったんだし。
仮に関ケ原が続くとしても、時間は上杉には味方しないんだよ。
0257名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 00:25:34ID:ynoK0V+lそのうち落ちないとも限らないが?
極端な話し、それまで無傷でも次の攻撃で崩れないとは100%いえないわけだし。
0258名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 00:35:10ID:ynoK0V+l逆に言えばいつまで経っても落ちないこともあるわけだが、
まるで長谷堂城が絶対鉄壁のように言うのはヘン。
>仮に関ケ原が続くとしても、時間は上杉には味方しないんだよ。
仮に関が原が10年続けば、
最低でも兵糧が尽きて長谷堂城も山形城も落ちるだろう。
0259名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 02:39:37ID:1tjKbsiA長谷堂は見込みが甘いよ。白石速攻落城も直江にも責任の一端はあるよね。
優れている面は見つからないよね。
愚将とまでいうのは?だけど、少なくとも普通、平凡だよね。
少なくとも、天下三大ナントカなどというほどのものは、軍事では見つけられないよね。
それよりも、人間性のほうにより問題があるような気がするな。
自身の失策の反省がまったく感じられないんだよね。
自分の失策のせいで減封になり、お家をクビなる人もいるのに、自身はぬけぬけと高禄を貰い続けた。
「金は汚し」などというわりに、結構欲張りだね。
自分の妻にまで3000石もの破格の給料を払わせ続けた。
失策の責任を問われるのを恐れて、権力を離れなかったのかも知れないね。
結局、死後もお家で嫌われ続けたんだよね
0260名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 05:38:07ID:+kgVp5de0261名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 06:36:15ID:ylfp4IHO自分の奥さんを完全なシンパにしてしまった一点だけにある。
0262名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 07:10:02ID:KCNLa8390263名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 07:32:37ID:VQ9jNP47親友と栗卒じゃねーかww
0264名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 08:18:06ID:EGrI0UHc典型的な東照宮史観
0265名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 08:22:05ID:9s0cu97f逆に何だか嫌らしさを感じてしまう。
0266名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 08:26:27ID:KCNLa839いや、愛を前面に出してはいるけどもw
0267名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 08:39:03ID:VQ9jNP47俺は三成は好きだけどね。
直江はやっぱ過大評価の気がしてならん。島左近もだが。
0268名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 08:40:32ID:7L82QsQQ東照宮史観と言うより実証的な近代的史観だと思うぞ。
だいたい徳川時代は直江は実力以上に評価されていたように思うが。
それに上杉家ほどの大名の家老なら、むしろ武将としてより政治家や行政官として
評価されるべきなんじゃないかね?
兼続の時代はもう、多少喧嘩に強いくらいじゃ何の自慢にもならない時代に入っていたわけだし。
0269名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 09:30:50ID:oLTG1QDD0270名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 09:46:00ID:9Pn1GhN70271名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 10:04:37ID:ynoK0V+l家康はそこまで神様じゃないだろう。
関が原開戦も最初は渋ってたらしいが、
福島らに岐阜城落とされて催促され無理矢理、開戦せざるおえなかったようだし。
家康はもう少し準備したかったらしい。秀忠が到着しなかったのも、
真田の妨害というよりも準備不測によるものだったらしいしな。
0272名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 11:53:12ID:hRcGVNqC小説やゲームだと直江が景勝を動かした、みたいなシナリオで書かれることが多いけど……。
0273名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 11:57:02ID:xb5Hdrnl同意。関ヶ原の勝利も「勝つべくして勝った」ものではなかっただろう。
家康が八つ当たりに家来の旗指物を切り落とした話など、家康はそれなりに
焦っていただろ。もし小早川が寝返らなかったり、東軍が不利になったら、
吉川もどう動くか分からないだろうし・・・・・。
>>259
米沢へ移された後も、臨時雇いの浪人は別としても基本的に上杉は暇を
出してないが。それで、石高の割りに家臣がかなり多かったらしい。で、
のちに15万石にされたときもそのままで、財政は破綻しかかっていたらしい。
で、「金は汚し」のエピも事実ではないのでは?米沢の殖産興業、領内整備を
メインで進めた直江が、金を(=経済を)軽視してたとは到底思えない。
そまた、お船の方に3千石という破格の待遇を受けていたのは単純に景勝、
定勝の信頼を受けていたことの現れだと思う。現に、定勝の養育を行ったのはお船の方というし、
お船の方が病に倒れた際に定勝は自ら見舞いに訪れ、伊勢神宮に大神楽を奉納させ病気平癒の祈願、
亡くなったら亡くなったで高野山に常灯料を出して墓石を立てている。いくら直江の後室とはいえ、
ふつうそこまでしないだろ。
「山城守相果て候とも大小の事ども後室へ相計られ候よし」という『米沢雑事記』の言葉が
全てを物語っているだろう。
それに、直江は上杉再建のために奔走しているし、本多正信とのパイプをつくって10万
石ぶんの免除を引き出している。そして、嫡子の死後も養子をもらおうと思えばできたのに、
あえて家を絶やしたのは、やはり意図的にしたことで、敗戦の責任をとってのことだろうと思う。
0274名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 12:05:22ID:xb5Hdrnl同意。直江の本領は軍事よりも政治、殖産興業、「文選」などにあると思う。
また、過大評価されているのもあると思う。これは直江に限らず、信玄や謙信など
世間一般で神の如く語られる事の多い「名将」にも言える事だと思う。ただ、その反動
として、アンチが必要以上に有能でなかった、無能だったと躍起になっている傾向も
つよい。2chでは特にその傾向がつよい。
0275名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 13:06:54ID:eGwfPTzF日本で初の銅活字である直江版あたりの、
文芸面では、謙信をも抜いて飛び抜けて戦国一に
なっちゃうと思う。
0276名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 13:42:09ID:BUy/S2Ui0277名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 16:30:02ID:LRWx4dEB所詮、政宗と義光の敵ではない。
政宗の城攻めは、ほとんどが謀略、内応工作で篭絡させている。
白石城などはその典型で、城代が説得される形で投降してきた。
梁川城攻めも謀略をこらし、それが上手くいかなければすぐに引き上げる。
上杉は、長谷堂城も真正面から正攻法でぶつかっているから、老獪な義光の
思うつぼになっている。
「上杉」の看板だけでは勝てないということだね。
0278名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 20:07:42ID:ynoK0V+lひょっとすると直江のバカ正直で謀略がないとこを評したのかもしれんね。
思えば閻魔大王の逸話も案外、直江のバカ正直なとこを表したものかも。
0279名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 20:39:39ID:ynoK0V+l嫡子殺害が遠因となってあっという間に滅亡したんだろ?
まさに義光の「策士、策に溺れる」じゃないか?
それに引き替え、真っ直ぐに真っ当に生きた上杉は
二度の減封はあったものの直江や鷹山の善政もあり、
堂々と維新まで続き、その名をアメリカ大統領にまで
聞こえさしたんじゃないの?
このスレで最上を讃え、上杉を貶めている奴は
これにどう答えるんだか?
0280名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 22:01:47ID:c0xBw+Tt> 政治は得意だが軍事は得意でなく性格悪い。。
何だ、政宗と仲悪いのは単なる同属嫌悪であったかw
0281名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 00:37:05ID:sCC+nMok伊達は策を廻らせて生き延び、上杉は(減封されたが)剛直だった故に生き延びれた
感がある。それに対し、最上の場合は謀略を駆使しすぎた故に結果没落している感がある。
まあ、三者とも領国を経営する手腕は非常に優れていたと思うが。
0282名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 02:04:09ID:HGET73Ky0283名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 02:32:32ID:pAYLBO90そうなったら見ものだったね。
あるいはさらに結城が加わっていたかも。
直江の力量では、コテンパンにやられていただろう。
上杉が細々とでも残ったからいいとはいえないと思う。
弱体化して貧窮して、ごぞんじ吉良上野介に植民地化された上杉は、もう一般的に皆が知る上杉ではないよ。
武勇の上杉は、直江によって終わらせられた…
藤田が正しかったね
0284名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 04:18:36ID:f0bIhSM90285名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 04:19:56ID:hPFLqodBそんな問題か?植民地って言っても上野介そのものは見殺しにされてるし。。
0286名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 04:57:12ID:aWIvDglo武士はなるまい町人になれ
景虎も今や猫にや成りにけん
長尾を引いて出もやらねば
綱憲も幕府の手前助けるわけにもいかず、吉良を見殺しにしても
腰抜けだと馬鹿にされ、つらいところだ・・・。
しかし、江戸の庶民って残酷というか容赦ないなw
0287名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 10:02:39ID:Vt7dMbK/景虎って謙信のことで合ってるよね?
0288名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 10:08:16ID:CtSxrR6e旗本も借金で首がまわらなくて、
町人に旗本株を売るのが続出してた。
江戸時代の武士なんてそんなもの。
0289名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 10:26:44ID:Vt7dMbK/討ち入ったり、吉良にも上杉家にも迷惑かけてごめんな。
気の利かない殿をフォローできなかった浅野の江戸家老が悪いんです。
許してください。
0290名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 12:56:24ID:sCC+nMokなんかお前を見てると必死すぎて・・・・
ウィキペディアの西方藩の項目書いたのはお前かいw
0291名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 18:26:58ID:o8LGRvHdぶちまけてる奴って同一人物なんだろうね。
先祖の上杉家臣が兼続のせいで酷い目にあったとか言ってるらしいが、
そんなもん、今のお前に関係ないだろうがと言いたい。
実際は兼続も吉良もむしろ上杉を救った人物だと思うが。
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