戦国時代のトリビア
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/01(火) 13:46:39ID:LOnCX40D0386人間七七四年
2011/01/27(木) 11:18:07ID:I9P1dmMH蹄鉄と馬の運動に関係はないこと
0387人間七七四年
2011/01/27(木) 17:37:50ID:psRMjVs8えっ?蹄鉄付けないとヒヅメが減って長距離を歩けなくなるんじゃないの?
それで幕末までは馬に草鞋を履かせてたとか何とか。
山中鹿之助の息子は武士をやめたあと酒造業でお金持ちになり、
のちの鴻池財閥のもとになった。
0388人間七七四年
2011/01/27(木) 17:49:06ID:I9P1dmMH野生馬と、遊牧などの自然環境で飼育された馬はそもそも蹄など必要としないことが分かっている。
しかし長年の馬小屋での飼育方法と蹄鉄の伝統は、これらの見解によっても容易に変化するものではない。
これらの研究で特に大きな影響があったのはジェイム・ジャクソン、およびヒルトラド・シュトラッサー博士である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B9%84%E9%89%84#.E8.B9.84.E9.89.84.E3.81.AB.E9.96.A2.E3.81.99.E3.82.8B.E6.96.B0.E3.81.9F.E3.81.AA.E8.A6.8B.E8.A7.A3
家畜の馬が蹄鉄を必要とするほど蹄が弱くなる原因に
湿気やアンモニアに蹄が晒され続けることが挙げられますが
武士の厩は床を板敷にし、頻繁に掃除を行うことで馬の足元を清潔に保ち
蹄が劣化することを防いでいます。
当時の厩は馬の目の前で各々が寛ぎながら歓談する、ちょっとしたサロンでした
ttp://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/rekisi/naiyou/gadan/naoki/naoki.htm
ttp://longlife.city.hikone.shiga.jp/museum/past/theme/0801/24.html
0389人間七七四年
2011/01/27(木) 19:34:02ID:jIIRKYdP0390人間七七四年
2011/01/27(木) 21:22:26ID:H2QejCCFそれも不正確だな。つーか、痛むのがやだから使わないわけじゃねーよ。単純に野戦では槍より役に立たないからだ。
主兵装は弓・鉄砲・投石だな、死傷者の原因から考えると。
0391人間七七四年
2011/01/27(木) 22:50:21ID:AdE/I6zM日本の記録でも宣教師の記録でも、最初は弓鉄砲での打ち合い、もう少し近づくと
槍でのせめぎ合い、最後は刀での接近戦、となっている。
戦場で使わないものをわざわざ持っていくような馬鹿じゃないよ武士は。
お前と違ってな。
0392人間七七四年
2011/01/28(金) 01:59:19ID:uD/DQhxQ0393あ
2011/01/28(金) 03:27:19ID:MQeZR5nj信仰心とは関係無い。
0394人間七七四年
2011/01/28(金) 10:47:19ID:7HtiIcBPもともと鎌倉時代から大きな勢力基盤があった守護・守護代からの名門大名が
近隣の中小勢力を吸収、征服してさらに大きくなったケースがほとんど。
0395人間七七四年
2011/01/30(日) 18:29:27ID:BCpK/3+qしまも両家とも源頼朝がらみだし。
0397人間七七四年
2011/02/02(水) 02:39:09ID:hrtJK/S5そりゃ投石が最強になるわな
火攻めで落ちた城の籠城データだけ出して
戦国時代で一番活躍した武器は火である
とか言うくらい恥ずかしい事なんだけど
騙されてる人は意外と多いんだよな
0398人間七七四年
2011/02/04(金) 18:59:15ID:4NexGgh4まぁ当時の村の神主や僧といったら当地の顔役兼インテリだろうしな。
今でも途上国の村の神父とか呪術師なんかそうだし
陶晴賢は大内義隆を討った後、甥の大内義長を名目上の後継者に立てていたが、
厳島の戦いで陶晴賢が毛利軍に敗れるとその翌々年に毛利軍に城を包囲され
義長は自害。大内氏はここに滅亡した。
0399人間七七四年
2011/02/08(火) 22:22:55ID:npHsdNCx0400人間七七四年
2011/02/08(火) 22:52:12ID:+8NS0k3d0401人間七七四年
2011/02/08(火) 23:31:14ID:npHsdNCxその後信長の精鋭部隊の黒母衣衆、旗本と昇進。
本能寺の変では織田信忠とともに二条城で奮戦の末、戦死した。
いっぽう、義元を討ちそこねた服部小平太のほうは、信長死後
秀吉の精鋭部隊の黄母衣衆になり、養子秀次の家来となるも
秀次失脚で連座、切腹させられた。
0402人間七七四年
2011/02/09(水) 00:16:25ID:X0mxwbZ7弟蘭丸を本能寺の変で討ち取った安田作兵衛を
「武功は武功」と周囲の反対を押し切って召抱えた。
0403人間七七四年
2011/02/09(水) 00:34:53ID:X0mxwbZ7クリスマス休戦を戦国時代で初めて提案した。
また彼は初めて火薬による自爆で最期を遂げた戦国武将でもある。
0404人間七七四年
2011/02/10(木) 21:34:43ID:T7u6S46E信長が開城条件の約束破って岩村城の兵士や領民を虐殺した理由は
単なる騙し討ちではなく
秋山と女城主の子供(馬場六太夫)が見つからなかった腹いせらしいな
いくら問い詰めても拷問しても逆さ磔しても秋山夫婦は子供の居場所を絶対に言わなかったらしい
0405人間七七四年
2011/02/16(水) 19:02:37ID:vyNUD4930406人間七七四年
2011/03/02(水) 22:27:32.57ID:d4it1fyc会員数は約2万人。現存するカトリック系男子修道会では二番目に多い。
現在の総長をつとめているアドルフォ・ニコラス神父は、
上智大で教鞭をとっていたことがある。
0407人間七七四年
2011/03/02(水) 23:02:50.24ID:d4it1fyc残った二の丸が織田家の居城としてしばらく利用されていた。
だが豊臣秀吉の養子秀次が安土城の近くの領地をもらうことになると
安土城の残った資材は城下町ごと秀次の新しい居城・八幡山城建築に使うため
移されたといわれる。
0408人間七七四年
2011/03/03(木) 16:40:14.76ID:UiuwrDla嵯峨天皇の代に平安京の西(左京)を長安、東(右京)を洛陽と
それぞれ命名したが、京都の発展が東に集中したため
京都を洛陽で表すのが人々の間に定着していったことから。
0409人間七七四年
2011/03/04(金) 10:49:40.53ID:vMdDrRUd0410人間七七四年
2011/03/04(金) 11:45:50.29ID:DaM4afsh0411人間七七四年
2011/03/04(金) 23:34:28.70ID:c0MwiiIo実は一度も本格的な合戦をしたことはない。
0412人間七七四年
2011/03/04(金) 23:58:42.50ID:d+SImIuJ0413人間七七四年
2011/03/05(土) 00:22:11.91ID:6myydj1eだがそのかいなく彼は肺ガンで亡くなった。
0415人間七七四年
2011/03/05(土) 11:59:35.49ID:6myydj1e0416人間七七四年
2011/03/05(土) 12:18:40.34ID:6myydj1e0417人間七七四年
2011/03/05(土) 12:58:01.92ID:lIeExuBn0418人間七七四年
2011/03/07(月) 00:00:24.80ID:fmvCqN/S松の廊下事件で浅野内匠頭を取り押さえたのは吉田藩主伊達村豊(政宗曾孫、当時宗春)
浅野内匠頭があずけられ、切腹したのは一関藩主田村建顕(同じく政宗曾孫)邸。
0419人間七七四年
2011/03/07(月) 00:20:08.69ID:H/Q67qc/彼の孫は俳人、ひ孫は朱子学者としてそれぞれ名を成し
またその道の優れた弟子を多く育成、輩出した。
0420人間七七四年
2011/03/07(月) 14:04:11.25ID:r+QG450Uそれで、糞たれたのか!! なるほど。
0421人間七七四年
2011/03/07(月) 17:54:02.13ID:/H1Ur1l4苦労人らしい徳川家康の遺訓として扱われるが
実際は徳川光圀の言葉
このように、家康の美談などは神君として奉られた後世の創作が多い
0422人間七七四年
2011/03/07(月) 21:11:00.40ID:TaAwYFBO> このように、家康の美談などは神君として奉られた後世の創作が多い
そもそもそれは美談かよ?
あと家康が天婦羅に当たって死んだという話。
あれは後世、江戸城で火災の危険があるため揚げ物を禁止したとき、
その理由として「揚げ物は徳川家に祟る。昔神君が天婦羅に当たって死んだので」とやった
つくり話。
0423人間七七四年
2011/03/08(火) 00:23:30.55ID:wL1O2bfp彼は松永久秀と三好三人衆の権力抗争や義昭を奉じた信長上洛により
将軍職にあるにもかかわらず本拠地の京に来られずに一生を終えた
ちなみに日本史上、在職中に本拠地に来れなかった将軍は
足利義栄以外では徳川慶喜(江戸)だけ
0424人間七七四年
2011/03/08(火) 02:07:40.75ID:2PREDeTX幕府が作った創作話
本当は権力のためなら何でもする極悪非道な強欲な人間
0425人間七七四年
2011/03/08(火) 02:08:58.68ID:f/OsFQRcはいはいここは病院じゃないから
0426人間七七四年
2011/03/08(火) 02:37:24.35ID:2PREDeTX豊臣秀頼が普請した神社仏閣の膨大な費用を個人財産で支払い。
その支払われた費用の一部に税金を掛け、建設業者から巻き上げ
豊臣氏を滅ぼすための鉄砲の弾(鉛)の購入費用にあてたのは家康。
現代にも通じる政治のカラクリ
0428人間七七四年
2011/03/08(火) 10:56:54.22ID:DY233kST0429人間七七四年
2011/03/08(火) 13:08:00.54ID:wL1O2bfp>>428
農民上がりだから他の戦国武将のような信頼できる家臣団が無くて
いきおい身内びいきになるのは仕方ないオモ。
秀吉が苦心して作りあげた家臣団も彼の死後の関ヶ原の戦いでは
石田三成以外ほとんどが家康についちゃったし
0430人間七七四年
2011/03/09(水) 05:15:13.03ID:QlS2zua5つまり内輪揉めであるからお互いに自分こそ正当な豊臣家臣団と思ってるから福島、加藤等は裏切ってるとか微塵も感じてない
0432人間七七四年
2011/03/09(水) 22:48:23.43ID:QlS2zua50433人間七七四年
2011/03/10(木) 01:07:33.88ID:NjN3kGqdそりゃあ違う。今だってたとえ同じ職場にいても、他人である同僚と親戚の同僚って
やっぱり違うだろ?
0434人間七七四年
2011/03/10(木) 01:28:02.30ID:EUrCXwPG0435仙台藩百姓
2011/03/10(木) 08:23:10.23ID:4t9gkIrN他人の家ばかり心配していた大名がいるなら教えてもらいたいものだお( ^ω^)
0436人間七七四年
2011/03/10(木) 18:51:16.84ID:EUrCXwPG0437人間七七四年
2011/03/10(木) 21:12:38.32ID:nGzR+eSo攻め手の武田軍から受けた損傷がひどかったため、翌年放棄された
0438人間七七四年
2011/03/11(金) 03:06:34.47ID:sRbrh075…というのは司馬遼太郎の創作。
0439人間七七四年
2011/03/11(金) 13:24:59.32ID:H38FjljA信長は男根の絵が描かれた羽織りを着て、尾張から美濃まで出向いた。
もちろん、美濃に着いたら着替えたが…
0440人間七七四年
2011/03/11(金) 20:10:26.61ID:Uveo99710441人間七七四年
2011/03/23(水) 12:05:30.48ID:Gx4WYrE2秀吉から軍規違反を理由に領地百二十万石の大部分と家臣を没収され、
さらに関ヶ原では西軍に加わったことで一時改易。
その後大名に復帰するも「築城の名人だから」ということを理由に
伊達政宗監視のため奥州の要衝・白川藩に移され、城下町と築城整備に専念させられた。
すべて丹羽氏の財力を削ぐための処置だったとされる
0442人間七七四年
2011/03/23(水) 22:02:06.70ID:jRtC6JAw…というのは後世の作り話。実際はひた隠しに隠した。
0443人間七七四年
2011/03/25(金) 16:28:53.74ID:a5L4noch小早川秀秋とともに東軍に寝返ったが、脇坂安治を除く三将は
「戦う前に裏切りの意思を知らせていなかった」という理由で
それぞれ所領没収、所領半分没収、改易処分を受けてしまった。
その後の三将は、
赤座直保→加賀藩の前田家に家臣として仕えるも、彼の死後、息子は改姓。
朽木元網→出家して死んだ後、所領は三人の子に分けられたため、家は旗本に転落。
ただ三男・朽木稙綱だけは徳川家光の信頼を受けたことで大名の地位を取り戻す。
小川祐忠→改易後、京に戻り間もなく病没。息子は両替商として大成功。
曾孫は鷹匠、曾々々孫は小石川養生所の開祖の名医としてそれぞれ名を残した。
0444人間七七四年
2011/03/26(土) 22:32:43.33ID:4LiH1Jee現行の暦であるグレゴリオ暦の採用者
また彼の使用していた冠は、現存する教皇冠のなかでは世界最古のもの
0445人間七七四年
2011/03/26(土) 22:40:23.27ID:L9tlkcyw実は秀吉よりも先に、徳川家康が伊賀越の後の西上の途中、三法師を立てての
弔い合戦を主張している。
0446人間七七四年
2011/03/27(日) 12:44:35.86ID:+cK8ooD7秀吉への恩義から関ヶ原では西軍側につく。
降伏後は岐阜の所領を没収され高野山へ追放された。
その後は高野山のふもとの村の郷士になったとも
一万石の大名として復活したとも伝えられる。
0447人間七七四年
2011/03/27(日) 13:00:51.44ID:+cK8ooD7伊東マンショ達は、次のローマ法王・シクストゥス五世の戴冠式にも参加したが
彼は歴代ローマ法王の中でも大きな功績を持つ。
ローマ教皇領内の治安回復や財政再建をしたり
ローマ市内のインフラ整備に莫大な公共投資を行い現代のローマ市の基礎を作った。
0448人間七七四年
2011/03/27(日) 13:21:27.35ID:+cK8ooD7高野山という名の山はない。
「高野山」とは宝珠山・弁天岳・摩尼山などの八つの山々に囲まれた
盆地のことを指す地名である。
ちなみに、ユネスコは2004年に高野山を世界文化遺産に登録している。
0449人間七七四年
2011/04/03(日) 19:44:33.13ID:Wi2N2B2m降伏した敵首謀者の織田信孝を移して切腹させた場所として有名だが、
かつて平安時代に源義朝が暗殺された場所でもある。
0450人間七七四年
2011/04/05(火) 00:59:20.75ID:dQwOAX3M0451人間七七四年
2011/04/05(火) 01:07:48.86ID:iPyu7KiM0452人間七七四年
2011/04/06(水) 07:12:31.79ID:iNE0qZ0o長篠の戦いで有名になった鳥居強右衛門の息子の鳥居信商
0453人間七七四年
2011/04/09(土) 08:19:37.75ID:A2bG4nPU0454人間七七四年
2011/04/11(月) 21:00:12.65ID:4x6TLtFZ大阪城落城後に真田幸村の娘を保護した事で改易された
0455人間七七四年
2011/04/11(月) 21:14:47.11ID:EIL712g9それは息子ではなく孫だ。滝川一積な。しかも改易を受けたのは
大坂の陣から17年もたった寛永9年(1632)な。
真田云々の単純な話じゃない。
0456人間七七四年
2011/04/12(火) 18:47:11.37ID:YO44H2e80457人間七七四年
2011/04/12(火) 18:51:16.95ID:sD8G39HW在日で創価のお前がそれを聞いてどうしたいんだ?
0459人間七七四年
2011/04/13(水) 16:30:42.53ID:sO8GAoFu毛利軍を釘付けにする代償に戦後の毛利領を保証する密約を結んでいたが、
毛利輝元は自発的に西軍の総大将になっていたからという理由で
密約は反故にされてしまい、毛利家は改易されそうになった。
これに慌てた広家が必死に家康との交渉に努めた結果、
自分が貰うことになっていた長門・周防二国を毛利家に与えることで
毛利家取り潰しはまぬがれた。
0460人間七七四年
2011/04/16(土) 23:57:53.92ID:H/+Jd4in家が生き残るようにそれぞれ西軍、東軍について戦った。
勝った後、守隆は父の助命を家康に約束させたが
嘉隆のもとにその使者が来る前に、家臣が独断で切腹させてしまっていた。
0461人間七七四年
2011/04/17(日) 00:05:48.63ID:z5dvcaSZ0462人間七七四年
2011/04/17(日) 00:19:19.49ID:IUKeP+Rq領民は供養塚築いて彼の命運を慰めたという。
0463人間七七四年
2011/04/17(日) 22:11:26.87ID:+0o1j6yn武田信玄が二度も落とせなかった城を
信玄の命令で総大将として攻めたら、
落とせた。
0464人間七七四年
2011/04/18(月) 03:37:24.89ID:4N3o/IRr0465人間七七四年
2011/04/19(火) 16:59:29.16ID:H6lPfmtl室町時代、関東管領を辞めて諸国遍歴の旅に出ていた上杉憲実の最期の地でもある
0466人間七七四年
2011/04/24(日) 22:38:54.47ID:ZAYgyOGI戦国時代も権益を握っていた大内氏により続いていた。
大内義隆が殺された後、名目上の跡継ぎとなった大内義長が
貿易再開を求める使者を派遣したが、明側は彼を簒奪者とみなして拒否。
その後大内氏が毛利元就に滅ぼされると再開の目途は完全に途絶え、
以後、東アジアの貿易は倭寇らによる密貿易が中心となった
0467人間七七四年
2011/05/01(日) 16:41:09.05ID:731tBxiO武田信玄ではなく北畠顕家
0468人間七七四年
2011/05/02(月) 14:11:56.73ID:sh9n9spf島原の領民を重税と暴政で苦しめてのちの「島原の乱」を誘発させた松倉重政だが、
彼はその前の大和十条藩の統治では労役免除、城下町整備などの
産業振興策を行ったことで領民から名君と崇められ、彼を称える祭りや石碑まで作られた。
0469人間七七四年
2011/05/02(月) 19:50:29.81ID:zH2j5gDAへえー パクリじゃん信玄
0471人間七七四年
2011/06/09(木) 17:38:29.46ID:prjOB1D2金の茶釜だけは焼け跡から掘り出された
0472人間七七四年
2011/06/15(水) 15:56:15.30ID:TFhOoI4Dこの記録は今もやぶられていない
0473人間七七四年
2011/06/15(水) 16:01:05.27ID:hKufVc6C0474人間七七四年
2011/07/22(金) 15:16:28.75ID:VU2gQ9yQ鎌倉幕府執権を代々つとめていた北条氏のものより
高さを少し低めに作っている。
0475人間七七四年
2011/07/22(金) 15:58:28.28ID:VU2gQ9yQそれでは足りないと不平を言ったために秀吉の怒りを買い、所領を一時没収された
0476人間七七四年
2011/07/22(金) 20:51:41.56ID:CC7OjXHI0477人間七七四年
2011/07/24(日) 13:39:38.27ID:tol+mz+B0478人間七七四年
2011/07/25(月) 06:37:13.68ID:Qp6I+pgd「太閤さま軍記のうち」より。
0480人間七七四年
2011/07/27(水) 19:26:14.88ID:BH09dtBe特に問題はない。
0481人間七七四年
2011/07/28(木) 00:30:24.53ID:1xicTOBL0482人間七七四年
2011/07/28(木) 00:43:21.55ID:XZIyubjB前者は武家読み、後者は公家読み。
0483人間七七四年
2011/07/28(木) 00:46:41.52ID:7SkkWpoR信長を「上総介」とか、秀吉の「藤吉郎」「筑前守」家康の「三河殿」「内府殿」とかの名称の方が
書物的にはよくみられる表記。
0485人間七七四年
2011/07/29(金) 08:12:40.91ID:TuDaoMTUどう見ても関ヶ原だろ
0486人間七七四年
2011/07/29(金) 08:23:27.98ID:TuDaoMTU■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています