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戦国時代のトリビア

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/01(火) 13:46:39ID:LOnCX40D
戦国時代に関するトリビアを言っていきましょう。
0386人間七七四年2011/01/27(木) 11:18:07ID:I9P1dmMH
>>385
蹄鉄と馬の運動に関係はないこと
0387人間七七四年2011/01/27(木) 17:37:50ID:psRMjVs8
>>386
えっ?蹄鉄付けないとヒヅメが減って長距離を歩けなくなるんじゃないの?
それで幕末までは馬に草鞋を履かせてたとか何とか。

山中鹿之助の息子は武士をやめたあと酒造業でお金持ちになり、
のちの鴻池財閥のもとになった。
0388人間七七四年2011/01/27(木) 17:49:06ID:I9P1dmMH
蹄鉄に関しては年来、生理学的な視点から検討されてきた。
野生馬と、遊牧などの自然環境で飼育された馬はそもそも蹄など必要としないことが分かっている。
しかし長年の馬小屋での飼育方法と蹄鉄の伝統は、これらの見解によっても容易に変化するものではない。
これらの研究で特に大きな影響があったのはジェイム・ジャクソン、およびヒルトラド・シュトラッサー博士である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B9%84%E9%89%84#.E8.B9.84.E9.89.84.E3.81.AB.E9.96.A2.E3.81.99.E3.82.8B.E6.96.B0.E3.81.9F.E3.81.AA.E8.A6.8B.E8.A7.A3


家畜の馬が蹄鉄を必要とするほど蹄が弱くなる原因に
湿気やアンモニアに蹄が晒され続けることが挙げられますが
武士の厩は床を板敷にし、頻繁に掃除を行うことで馬の足元を清潔に保ち
蹄が劣化することを防いでいます。

当時の厩は馬の目の前で各々が寛ぎながら歓談する、ちょっとしたサロンでした
ttp://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/rekisi/naiyou/gadan/naoki/naoki.htm
ttp://longlife.city.hikone.shiga.jp/museum/past/theme/0801/24.html
0389人間七七四年2011/01/27(木) 19:34:02ID:jIIRKYdP
戦国時代の主力兵器は槍だった 刀は使うと痛むので使わなかった
0390人間七七四年2011/01/27(木) 21:22:26ID:H2QejCCF
>>389
それも不正確だな。つーか、痛むのがやだから使わないわけじゃねーよ。単純に野戦では槍より役に立たないからだ。
主兵装は弓・鉄砲・投石だな、死傷者の原因から考えると。
0391人間七七四年2011/01/27(木) 22:50:21ID:AdE/I6zM
>>389
日本の記録でも宣教師の記録でも、最初は弓鉄砲での打ち合い、もう少し近づくと
槍でのせめぎ合い、最後は刀での接近戦、となっている。


戦場で使わないものをわざわざ持っていくような馬鹿じゃないよ武士は。
お前と違ってな。
0392人間七七四年2011/01/28(金) 01:59:19ID:uD/DQhxQ
最近真偽を疑われている信玄と謙信の一騎打ちは史実
03932011/01/28(金) 03:27:19ID:MQeZR5nj
神社から兵を良く借りた。信長が桶狭間の時に熱田神宮に寄ったのもこのため。
信仰心とは関係無い。
0394人間七七四年2011/01/28(金) 10:47:19ID:7HtiIcBP
戦国時代といえば下克上だが、京都から遠く離れた東北・九州などでは
もともと鎌倉時代から大きな勢力基盤があった守護・守護代からの名門大名が
近隣の中小勢力を吸収、征服してさらに大きくなったケースがほとんど。
0395人間七七四年2011/01/30(日) 18:29:27ID:BCpK/3+q
そういえば島津や伊達は鎌倉時代にすでにあった勢力だな。
しまも両家とも源頼朝がらみだし。
0396人間七七四年2011/01/31(月) 01:30:08ID:oHjmFWAp
>>390
鈴木信者が湧いて出た…
0397人間七七四年2011/02/02(水) 02:39:09ID:hrtJK/S5
元々の史料が城攻め時のヤツで自陣生還者の傷の原因しか統計してないからね
そりゃ投石が最強になるわな
火攻めで落ちた城の籠城データだけ出して
戦国時代で一番活躍した武器は火である
とか言うくらい恥ずかしい事なんだけど
騙されてる人は意外と多いんだよな
0398人間七七四年2011/02/04(金) 18:59:15ID:4NexGgh4
>>393
まぁ当時の村の神主や僧といったら当地の顔役兼インテリだろうしな。
今でも途上国の村の神父とか呪術師なんかそうだし

陶晴賢は大内義隆を討った後、甥の大内義長を名目上の後継者に立てていたが、
厳島の戦いで陶晴賢が毛利軍に敗れるとその翌々年に毛利軍に城を包囲され
義長は自害。大内氏はここに滅亡した。
0399人間七七四年2011/02/08(火) 22:22:55ID:npHsdNCx
リーフデ号のもともとの船名は、エラスムス号
0400人間七七四年2011/02/08(火) 22:52:12ID:+8NS0k3d
馬場六太夫という人物の両親は秋山信友と女城主おつやの方
0401人間七七四年2011/02/08(火) 23:31:14ID:npHsdNCx
桶狭間で今川義元を討ち取った毛利新助は、
その後信長の精鋭部隊の黒母衣衆、旗本と昇進。
本能寺の変では織田信忠とともに二条城で奮戦の末、戦死した。

いっぽう、義元を討ちそこねた服部小平太のほうは、信長死後
秀吉の精鋭部隊の黄母衣衆になり、養子秀次の家来となるも
秀次失脚で連座、切腹させられた。
0402人間七七四年2011/02/09(水) 00:16:25ID:X0mxwbZ7
鬼武蔵として恐れられた森長可は
弟蘭丸を本能寺の変で討ち取った安田作兵衛を
「武功は武功」と周囲の反対を押し切って召抱えた。
0403人間七七四年2011/02/09(水) 00:34:53ID:X0mxwbZ7
松永久秀は三次三人衆と戦争中に
クリスマス休戦を戦国時代で初めて提案した。
また彼は初めて火薬による自爆で最期を遂げた戦国武将でもある。
0404人間七七四年2011/02/10(木) 21:34:43ID:T7u6S46E
>>400
信長が開城条件の約束破って岩村城の兵士や領民を虐殺した理由は
単なる騙し討ちではなく
秋山と女城主の子供(馬場六太夫)が見つからなかった腹いせらしいな

いくら問い詰めても拷問しても逆さ磔しても秋山夫婦は子供の居場所を絶対に言わなかったらしい
0405人間七七四年2011/02/16(水) 19:02:37ID:vyNUD493
今川義元は


























0406人間七七四年2011/03/02(水) 22:27:32.57ID:d4it1fyc
イエズス会は、現在も存続している。
会員数は約2万人。現存するカトリック系男子修道会では二番目に多い。

現在の総長をつとめているアドルフォ・ニコラス神父は、
上智大で教鞭をとっていたことがある。
0407人間七七四年2011/03/02(水) 23:02:50.24ID:d4it1fyc
安土城は、山崎の戦いでの本丸・天守閣焼失後も
残った二の丸が織田家の居城としてしばらく利用されていた。

だが豊臣秀吉の養子秀次が安土城の近くの領地をもらうことになると
安土城の残った資材は城下町ごと秀次の新しい居城・八幡山城建築に使うため
移されたといわれる。
0408人間七七四年2011/03/03(木) 16:40:14.76ID:UiuwrDla
京都内外の名称「洛中・洛外」の由来は、
嵯峨天皇の代に平安京の西(左京)を長安、東(右京)を洛陽と
それぞれ命名したが、京都の発展が東に集中したため
京都を洛陽で表すのが人々の間に定着していったことから。
0409人間七七四年2011/03/04(金) 10:49:40.53ID:vMdDrRUd
黒人奴隷から信長の家来に召抱えられた弥助はモザンビーク人だった
0410人間七七四年2011/03/04(金) 11:45:50.29ID:DaM4afsh
斎藤道三の通称『美濃の蝮』は、「徳川家康」などで有名な作家、山岡荘八の創作
0411人間七七四年2011/03/04(金) 23:34:28.70ID:c0MwiiIo
江戸時代、犬猿の仲だった南部と津軽は
実は一度も本格的な合戦をしたことはない。
0412人間七七四年2011/03/04(金) 23:58:42.50ID:d+SImIuJ
屁 屁 屁
0413人間七七四年2011/03/05(土) 00:22:11.91ID:6myydj1e
柳生宗矩は沢庵和尚から喫煙を控えるようにたしなめられていた。
だがそのかいなく彼は肺ガンで亡くなった。
0414人間七七四年2011/03/05(土) 07:09:22.92ID:Ayop0wMx
>>409
誰でも知ってる
0415人間七七四年2011/03/05(土) 11:59:35.49ID:6myydj1e
大砲を初めて戦争に使った戦国武将は、大友宗麟
0416人間七七四年2011/03/05(土) 12:18:40.34ID:6myydj1e
信長の上洛を途中で邪魔した六角氏の家紋は四角
0417人間七七四年2011/03/05(土) 12:58:01.92ID:lIeExuBn
凍み豆腐を開発して戦場に持参させたのは、伊達政宗
0418人間七七四年2011/03/07(月) 00:00:24.80ID:fmvCqN/S
200年以上絶交していた伊達家と浅野家だか意外なところで接触している。

松の廊下事件で浅野内匠頭を取り押さえたのは吉田藩主伊達村豊(政宗曾孫、当時宗春)
浅野内匠頭があずけられ、切腹したのは一関藩主田村建顕(同じく政宗曾孫)邸。
0419人間七七四年2011/03/07(月) 00:20:08.69ID:H/Q67qc/
松永久秀は戦国三大梟雄の一人として有名だが
彼の孫は俳人、ひ孫は朱子学者としてそれぞれ名を成し
またその道の優れた弟子を多く育成、輩出した。
0420人間七七四年2011/03/07(月) 14:04:11.25ID:r+QG450U
>>176
それで、糞たれたのか!! なるほど。
0421人間七七四年2011/03/07(月) 17:54:02.13ID:/H1Ur1l4
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」は
苦労人らしい徳川家康の遺訓として扱われるが
実際は徳川光圀の言葉
このように、家康の美談などは神君として奉られた後世の創作が多い
0422人間七七四年2011/03/07(月) 21:11:00.40ID:TaAwYFBO
>>421
> このように、家康の美談などは神君として奉られた後世の創作が多い

そもそもそれは美談かよ?


あと家康が天婦羅に当たって死んだという話。
あれは後世、江戸城で火災の危険があるため揚げ物を禁止したとき、
その理由として「揚げ物は徳川家に祟る。昔神君が天婦羅に当たって死んだので」とやった
つくり話。
0423人間七七四年2011/03/08(火) 00:23:30.55ID:wL1O2bfp
将軍義輝暗殺後、足利義栄が将軍の座に就けられたが、
彼は松永久秀と三好三人衆の権力抗争や義昭を奉じた信長上洛により
将軍職にあるにもかかわらず本拠地の京に来られずに一生を終えた

ちなみに日本史上、在職中に本拠地に来れなかった将軍は
足利義栄以外では徳川慶喜(江戸)だけ
0424人間七七四年2011/03/08(火) 02:07:40.75ID:2PREDeTX
徳川家康=神君
幕府が作った創作話

本当は権力のためなら何でもする極悪非道な強欲な人間
0425人間七七四年2011/03/08(火) 02:08:58.68ID:f/OsFQRc
>>424
はいはいここは病院じゃないから
0426人間七七四年2011/03/08(火) 02:37:24.35ID:2PREDeTX
父が犯した数々の戦争犠牲者の霊を祈祷するために
豊臣秀頼が普請した神社仏閣の膨大な費用を個人財産で支払い。
その支払われた費用の一部に税金を掛け、建設業者から巻き上げ
豊臣氏を滅ぼすための鉄砲の弾(鉛)の購入費用にあてたのは家康。

現代にも通じる政治のカラクリ
0427人間七七四年2011/03/08(火) 07:22:26.69ID:pv7bOLQI
>>426
「戦争犠牲者の追悼」?
普通に豊臣の繁栄を願ってじゃないのか?
0428人間七七四年2011/03/08(火) 10:56:54.22ID:DY233kST
豊臣家くらい自分たちのことしか考えない家も珍しいからな
0429人間七七四年2011/03/08(火) 13:08:00.54ID:wL1O2bfp
聚楽第の跡地には、いまハローワークが建っている

>>428
農民上がりだから他の戦国武将のような信頼できる家臣団が無くて
いきおい身内びいきになるのは仕方ないオモ。
秀吉が苦心して作りあげた家臣団も彼の死後の関ヶ原の戦いでは
石田三成以外ほとんどが家康についちゃったし
0430人間七七四年2011/03/09(水) 05:15:13.03ID:QlS2zua5
一応言っとくがあの時点では家康も豊家の家臣
つまり内輪揉めであるからお互いに自分こそ正当な豊臣家臣団と思ってるから福島、加藤等は裏切ってるとか微塵も感じてない
0431人間七七四年2011/03/09(水) 08:10:50.05ID:QwCXCyaO
>>430
豊家の家臣じゃなくて、一族じゃないか?
0432人間七七四年2011/03/09(水) 22:48:23.43ID:QlS2zua5
?縁戚と家臣ってそんなに別物なのか?
0433人間七七四年2011/03/10(木) 01:07:33.88ID:NjN3kGqd
>>432
そりゃあ違う。今だってたとえ同じ職場にいても、他人である同僚と親戚の同僚って
やっぱり違うだろ?
0434人間七七四年2011/03/10(木) 01:28:02.30ID:EUrCXwPG
家臣と親戚の上下関係でなく俺が>>430で言いたいのは家康をつまり豊臣家が親戚筋を家臣扱いしてるのがそんなに変か?って事
0435仙台藩百姓2011/03/10(木) 08:23:10.23ID:4t9gkIrN
>>428
他人の家ばかり心配していた大名がいるなら教えてもらいたいものだお( ^ω^)
0436人間七七四年2011/03/10(木) 18:51:16.84ID:EUrCXwPG
講談での上杉家がそうだお
0437人間七七四年2011/03/10(木) 21:12:38.32ID:nGzR+eSo
長篠の戦いで戦場になった長篠城は
攻め手の武田軍から受けた損傷がひどかったため、翌年放棄された
0438人間七七四年2011/03/11(金) 03:06:34.47ID:sRbrh075
徳川家康は野戦が得意で城攻めが苦手


…というのは司馬遼太郎の創作。
0439人間七七四年2011/03/11(金) 13:24:59.32ID:H38FjljA
織田信長が斎藤道三と会見する時の話。

信長は男根の絵が描かれた羽織りを着て、尾張から美濃まで出向いた。

もちろん、美濃に着いたら着替えたが…
0440人間七七四年2011/03/11(金) 20:10:26.61ID:Uveo9971
初めて大規模な長鑓隊を作って戦線に投入したのは遊佐長教
0441人間七七四年2011/03/23(水) 12:05:30.48ID:Gx4WYrE2
丹羽長秀の息子の長重は、佐々成正の討伐や九州征伐の際に
秀吉から軍規違反を理由に領地百二十万石の大部分と家臣を没収され、
さらに関ヶ原では西軍に加わったことで一時改易。
その後大名に復帰するも「築城の名人だから」ということを理由に
伊達政宗監視のため奥州の要衝・白川藩に移され、城下町と築城整備に専念させられた。
すべて丹羽氏の財力を削ぐための処置だったとされる
0442人間七七四年2011/03/23(水) 22:02:06.70ID:jRtC6JAw
関東で本能寺の変を知った滝川一益は、信長横死の情報を包み隠さず関東の諸侯に伝えた




…というのは後世の作り話。実際はひた隠しに隠した。
0443人間七七四年2011/03/25(金) 16:28:53.74ID:a5L4noch
脇坂、赤座、朽木、小川の四将は関ヶ原の戦いで
小早川秀秋とともに東軍に寝返ったが、脇坂安治を除く三将は
「戦う前に裏切りの意思を知らせていなかった」という理由で
それぞれ所領没収、所領半分没収、改易処分を受けてしまった。

その後の三将は、
赤座直保→加賀藩の前田家に家臣として仕えるも、彼の死後、息子は改姓。
朽木元網→出家して死んだ後、所領は三人の子に分けられたため、家は旗本に転落。
ただ三男・朽木稙綱だけは徳川家光の信頼を受けたことで大名の地位を取り戻す。
小川祐忠→改易後、京に戻り間もなく病没。息子は両替商として大成功。
曾孫は鷹匠、曾々々孫は小石川養生所の開祖の名医としてそれぞれ名を残した。
0444人間七七四年2011/03/26(土) 22:32:43.33ID:4LiH1Jee
伊東マンショ達が謁見したローマ法王グレゴリウス十三世は、
現行の暦であるグレゴリオ暦の採用者

また彼の使用していた冠は、現存する教皇冠のなかでは世界最古のもの
0445人間七七四年2011/03/26(土) 22:40:23.27ID:L9tlkcyw
羽柴秀吉は清洲会議で信長の子、信孝信雄ではなく、織田信忠の子、三法師を擁立したが…


実は秀吉よりも先に、徳川家康が伊賀越の後の西上の途中、三法師を立てての
弔い合戦を主張している。
0446人間七七四年2011/03/27(日) 12:44:35.86ID:+cK8ooD7
三法師はのちに元服して織田秀信と名乗り
秀吉への恩義から関ヶ原では西軍側につく。
降伏後は岐阜の所領を没収され高野山へ追放された。

その後は高野山のふもとの村の郷士になったとも
一万石の大名として復活したとも伝えられる。
0447人間七七四年2011/03/27(日) 13:00:51.44ID:+cK8ooD7
>>444
伊東マンショ達は、次のローマ法王・シクストゥス五世の戴冠式にも参加したが
彼は歴代ローマ法王の中でも大きな功績を持つ。
ローマ教皇領内の治安回復や財政再建をしたり
ローマ市内のインフラ整備に莫大な公共投資を行い現代のローマ市の基礎を作った。
0448人間七七四年2011/03/27(日) 13:21:27.35ID:+cK8ooD7
高野山は、多くの戦国武将が追放された場所として有名だが
高野山という名の山はない。
「高野山」とは宝珠山・弁天岳・摩尼山などの八つの山々に囲まれた
盆地のことを指す地名である。

ちなみに、ユネスコは2004年に高野山を世界文化遺産に登録している。
0449人間七七四年2011/04/03(日) 19:44:33.13ID:Wi2N2B2m
大御堂寺は秀吉が賤ヶ岳の戦いの後
降伏した敵首謀者の織田信孝を移して切腹させた場所として有名だが、
かつて平安時代に源義朝が暗殺された場所でもある。
0450人間七七四年2011/04/05(火) 00:59:20.75ID:dQwOAX3M
服部半蔵は何人かいた。
0451人間七七四年2011/04/05(火) 01:07:48.86ID:iPyu7KiM
鈴木孫市も何人かいた
0452人間七七四年2011/04/06(水) 07:12:31.79ID:iNE0qZ0o
関ヶ原の戦いに敗れた後、逃亡中の安国寺恵瓊を京都で捕えたのは
長篠の戦いで有名になった鳥居強右衛門の息子の鳥居信商
0453人間七七四年2011/04/09(土) 08:19:37.75ID:A2bG4nPU
服部半蔵は初代以外は侍であり忍者ではない
0454人間七七四年2011/04/11(月) 21:00:12.65ID:4x6TLtFZ
滝川一益の息子は徳川家の旗本として召抱えられたが、
大阪城落城後に真田幸村の娘を保護した事で改易された
0455人間七七四年2011/04/11(月) 21:14:47.11ID:EIL712g9
>>454
それは息子ではなく孫だ。滝川一積な。しかも改易を受けたのは
大坂の陣から17年もたった寛永9年(1632)な。
真田云々の単純な話じゃない。
0456人間七七四年2011/04/12(火) 18:47:11.37ID:YO44H2e8
在日認定と創価認定された武将を教えてくれ
0457人間七七四年2011/04/12(火) 18:51:16.95ID:sD8G39HW
>>456
在日で創価のお前がそれを聞いてどうしたいんだ?
0458人間七七四年2011/04/12(火) 20:11:03.61ID:1CdpWqep
>>456
三浦按針、耶楊子
武将じゃないか
0459人間七七四年2011/04/13(水) 16:30:42.53ID:sO8GAoFu
吉川広家は関ヶ原の戦いの前に、東軍側の黒田長政と
毛利軍を釘付けにする代償に戦後の毛利領を保証する密約を結んでいたが、
毛利輝元は自発的に西軍の総大将になっていたからという理由で
密約は反故にされてしまい、毛利家は改易されそうになった。

これに慌てた広家が必死に家康との交渉に努めた結果、
自分が貰うことになっていた長門・周防二国を毛利家に与えることで
毛利家取り潰しはまぬがれた。
0460人間七七四年2011/04/16(土) 23:57:53.92ID:H/+Jd4in
九鬼水軍の九鬼嘉隆・守隆父子は関ヶ原の戦いでどちらが勝っても
家が生き残るようにそれぞれ西軍、東軍について戦った。

勝った後、守隆は父の助命を家康に約束させたが
嘉隆のもとにその使者が来る前に、家臣が独断で切腹させてしまっていた。
0461人間七七四年2011/04/17(日) 00:05:48.63ID:z5dvcaSZ
信長、秀吉と仕えた強者の死
0462人間七七四年2011/04/17(日) 00:19:19.49ID:IUKeP+Rq
そそのかした家臣はのちに守隆の命によりて鋸引きの極刑に処せられた。
領民は供養塚築いて彼の命運を慰めたという。
0463人間七七四年2011/04/17(日) 22:11:26.87ID:+0o1j6yn
真田幸村の祖父の真田幸隆は
武田信玄が二度も落とせなかった城を
信玄の命令で総大将として攻めたら、
落とせた。
0464人間七七四年2011/04/18(月) 03:37:24.89ID:4N3o/IRr
家康たんは俺のマイワイフ
0465人間七七四年2011/04/19(火) 16:59:29.16ID:H6lPfmtl
大内義隆が陶晴賢に謀反されて自害した大寧寺は
室町時代、関東管領を辞めて諸国遍歴の旅に出ていた上杉憲実の最期の地でもある
0466人間七七四年2011/04/24(日) 22:38:54.47ID:ZAYgyOGI
足利義満の始めた中国(明朝)との勘合貿易は
戦国時代も権益を握っていた大内氏により続いていた。

大内義隆が殺された後、名目上の跡継ぎとなった大内義長が
貿易再開を求める使者を派遣したが、明側は彼を簒奪者とみなして拒否。
その後大内氏が毛利元就に滅ぼされると再開の目途は完全に途絶え、
以後、東アジアの貿易は倭寇らによる密貿易が中心となった
0467人間七七四年2011/05/01(日) 16:41:09.05ID:731tBxiO
「風林火山」の文字を旗印に最初に用いたのは
武田信玄ではなく北畠顕家
0468人間七七四年2011/05/02(月) 14:11:56.73ID:sh9n9spf
戦国時代からちょっとずれるが

島原の領民を重税と暴政で苦しめてのちの「島原の乱」を誘発させた松倉重政だが、
彼はその前の大和十条藩の統治では労役免除、城下町整備などの
産業振興策を行ったことで領民から名君と崇められ、彼を称える祭りや石碑まで作られた。
0469人間七七四年2011/05/02(月) 19:50:29.81ID:zH2j5gDA
>>467
へえー パクリじゃん信玄
0470人間七七四年2011/05/04(水) 15:26:28.49ID:gBvp670o
>>442
ワロタw
0471人間七七四年2011/06/09(木) 17:38:29.46ID:prjOB1D2
秀吉の造った黄金の茶室は大阪夏の陣で燃えてしまったが
金の茶釜だけは焼け跡から掘り出された
0472人間七七四年2011/06/15(水) 15:56:15.30ID:TFhOoI4D
関ヶ原の戦いは天皇が関与してない戦いで日本史上最大規模
この記録は今もやぶられていない
0473人間七七四年2011/06/15(水) 16:01:05.27ID:hKufVc6C
何を持って最大規模と言っているのか全く謎だが、合戦規模なら大阪冬夏の陣の方が上だろ
0474人間七七四年2011/07/22(金) 15:16:28.75ID:VU2gQ9yQ
小田原北条氏の家紋の三つ鱗は
鎌倉幕府執権を代々つとめていた北条氏のものより
高さを少し低めに作っている。
0475人間七七四年2011/07/22(金) 15:58:28.28ID:VU2gQ9yQ
江と結婚した豊臣秀勝は秀吉から丹波亀山の十万石をもらったが
それでは足りないと不平を言ったために秀吉の怒りを買い、所領を一時没収された
0476人間七七四年2011/07/22(金) 20:51:41.56ID:CC7OjXHI
関ヶ原で敗れた武将が今の宮城に逃れ、日本三景の松島を開いたんだと。
0477人間七七四年2011/07/24(日) 13:39:38.27ID:tol+mz+B
大友宗麟はカボチャを栽培させていた。
0478人間七七四年2011/07/25(月) 06:37:13.68ID:Qp6I+pgd
豊臣秀次の名前の読みは「ひでつぎ」
「太閤さま軍記のうち」より。
0479人間七七四年2011/07/27(水) 18:51:21.91ID:IUg9pvcb
>>478
!!?
マジか!
0480人間七七四年2011/07/27(水) 19:26:14.88ID:BH09dtBe
諱はめったに呼ばれることはないので、秀次が「ひでつぐ」でも「ひでつぎ」でも、「しゅうじ」でも
特に問題はない。
0481人間七七四年2011/07/28(木) 00:30:24.53ID:1xicTOBL
そういうもんなのか・・・
0482人間七七四年2011/07/28(木) 00:43:21.55ID:XZIyubjB
その手のやつなら「織田信雄」の諱の読みは「のぶかつ」も「のぶお」もどちらも正しい。
前者は武家読み、後者は公家読み。
0483人間七七四年2011/07/28(木) 00:46:41.52ID:7SkkWpoR
土岐頼芸みたいにルビでも振ってあるその当時の記録でもあればいいのだが、

信長を「上総介」とか、秀吉の「藤吉郎」「筑前守」家康の「三河殿」「内府殿」とかの名称の方が
書物的にはよくみられる表記。
0484人間七七四年2011/07/28(木) 05:45:54.50ID:3fV2yRXw
>>483
ついでながら苗字と感銘の最初の一文字とって
羽柴筑前なら「羽筑」みたいな書き方をしていた
0485人間七七四年2011/07/29(金) 08:12:40.91ID:TuDaoMTU
>>473
どう見ても関ヶ原だろ
0486人間七七四年2011/07/29(金) 08:23:27.98ID:TuDaoMTU
足利義昭は信長横死後、手を叩いて喜んだが、同日涙したと言う
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