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戦国時代のトリビア

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/01(火) 13:46:39ID:LOnCX40D
戦国時代に関するトリビアを言っていきましょう。
0331人間七七四年2008/10/29(水) 02:52:01ID:IjlGWXpn
>>330
にちゃんで俺以外のこんなに素直な奴を見たのは久々だ

つかスレチだが現代の脂肪と脂肪のぶつかり合いよりこの頃の引き締まった筋肉質の農民力士同士の取り組みの方が面白そうだよな。
ウルフはかっこよかったな〜
0332人間七七四年2008/10/29(水) 10:42:00ID:93Me3ljE
あまりに身分不相応な出世の仕方をしたって逸話は大抵江戸時代の創作だな。
秀吉子飼いはまた別だろうが。
0333人間七七四年2008/10/29(水) 11:47:04ID:82CUTaU6
>>323
上杉謙信男性説
0334人間七七四年2008/10/29(水) 13:56:15ID:H31Aixsz
そういえば明智光秀が野心家の奸臣ってフロイスの評論は、結構広まってるけど、
同じフロイスの

> 堺の代官になった彼の伴侶は佐吉殿(石田三成)と称する関白殿の家臣であり、関白の暴政を
> 快しとしないジョウチン(小西立佐)の大敵でもあり、キリシタンの敵でもあって、嫉妬深く、野心家で
> 傲慢であり、その他においても悪徳に満ちた人物である。

この三成評はあまり知られてないな。
0335人間七七四年2008/10/29(水) 15:23:40ID:6wvsxPQ0
>>332
堀尾さんは稲葉山城功略戦で秀吉を裏口に案内した
地元の猟師の息子という根も葉もない説を
中学の頃習ったよ。学校で。
0336人間七七四年2008/10/29(水) 21:25:26ID:82CUTaU6
どう考えてもそれはフロイスの私情入りまくり
0337人間七七四年2008/10/29(水) 23:56:03ID:yZceESOW
キリスト教に好意的なら聖人君主、批判的なら愚人鬼畜
わかりやす過ぎですフロイスさん
0338人間七七四年2008/10/29(水) 23:59:13ID:H31Aixsz
キリスト教に好意的なのにこんな人もいるぞ



> 老三ヶ(頼照)殿の息子マンショ(頼連)は、はじめ伊予の国で、関白の甥にあたる
> きわめて残忍な性格の男(福島正則)とともにいた。この男は、ごく些細な理由でマンショを朝鮮で
> 殺そうとしたことがある。そのため彼はこの男の許から身を引き、アゴスチイノ津の守殿に仕え、
> 剃髪して彼とともに日本に帰った。その妻子は伊予国に残っており、かの残忍な男は、
> もとより彼らを皆殺しにするように命じていたから、マンショは密かに伊予に赴き、夜分、
> 気づかれることなく妻子を乗船させ、無事に連れ戻すことが出来た。暴君の家来たちは、
> ただちにマンショの後を追ったがマンショらは巧みに敵の目をくらまし身を隠したので、
> 発見されずにすんだ。
0339人間七七四年2008/10/31(金) 05:25:57ID:QJ0M1bYY
>>324
ならば下克上で有名組で本当に一代で成り上がったのは松永弾正だけか
ますますあいつすげーんだなってかんじだ
0340人間七七四年2008/10/31(金) 05:48:18ID:QdonOa9T
一代の成り上がりレベルだと、松永は秀吉や三成とは越えられない壁があるな。
0341人間七七四年2008/10/31(金) 13:39:55ID:fwKJ0yIr
>>320
ちょww
0342人間七七四年2008/10/31(金) 14:36:33ID:WV+DuLbC
>>317
TUEEEEEEwwwww
0343人間七七四年2008/11/02(日) 03:11:55ID:CYRNpuug
57歳なら可児のほうが関ヶ原当時は10歳ぐらい若いな
福島隊とぶつかったということは宇喜多にでも所属してたのかな?
0344人間七七四年2008/11/03(月) 01:01:32ID:RKVg9yMB
五奉行増田長盛の子増田盛次を討ちとったのは
藤堂家に仕官していた旧石田三成家臣磯野右近の子供
しかもその磯野行尚(盛次討ちとった人)は
関ヶ原で三成が落ちるときに塩野、渡辺らとともに
最後までつき従い三成が解散命令出すまでずっと一緒にいた人物
大坂の陣は因縁対決が多い
長曾我部と十河が九州の時のように馬並べてたたかって両家とも完全滅亡したり
0345人間七七四年2009/02/24(火) 17:48:54ID:aKDk8bFV
戦国時代の日本はオスマン帝国に武器を輸出していたほどの軍需産業国家
0346人間七七四年2009/02/24(火) 23:36:25ID:8Kgw3bad
亀井琉球守これ矩の旧姓は『湯』(漢字変換不可)
0347人間七七四年2009/02/26(木) 21:19:02ID:/wbqq33+
真田十勇士の源流は、尼子十勇士。
0348人間七七四年2009/02/26(木) 21:50:19ID:p5D4oixu
横浜に住んでた頃、「湯」って名前の友人がいました。
0349人間七七四年2009/02/28(土) 19:51:02ID:KquK5l2K
伊達正宗の騎馬鉄砲隊は






実際に射撃するときは下馬して射撃した(98へェ確実)
0350人間七七四年2009/02/28(土) 20:08:12ID:dydYZe/Y
大阪の陣で馬上からぶっ放してた記録があるがな
0351人間七七四年2009/02/28(土) 22:19:57ID:d7ysMX0X
市ね短パン
0352人間七七四年2009/03/01(日) 11:51:58ID:BqpFSaFa
>>345
本当に?
鉄砲を輸出してたのかな。
オスマンなら遠くの日本より、ヨーロッパの方が早く調達できそうだけど、
敵対関係にあったから貿易できなかったとか?
0353人間七七四年2009/03/01(日) 14:18:35ID:phNOPWOT
>>346,348
広島には「風呂」という家がある。
なんでも鷹狩に出た殿様に風呂を馳走した礼として拝領したそうだ。
殿様は毛利元就だったか輝元だったか、記憶が定かでない。

ちなみに俺の同級生の風呂君は嘉門達夫の付き人をしていた。今は広島ローカルで歌手をしている。
0354人間七七四年2009/03/07(土) 13:26:53ID:omYHB63H
>>320
ネタにマジレスカコワルイ
0355人間七七四年2009/05/31(日) 00:08:11ID:ySZNdEfF
保守
0356人間七七四年2009/07/22(水) 07:17:26ID:bScwBlEY
>>352
宗教内の対立(カvsプ)からフランスとオスマンが同盟を組んで帝国を攻めたこともあるよ
0357人間七七四年2009/07/22(水) 07:42:35ID:dtK6YOJI
>>356
30年戦争のことなら、宗教内の対立ではないぞ。
ブルボン家 vs ハプスブルク家という文脈で見るべき。
なんせ、カトリックを信仰していたブルボン家のフランス王国は新教側で参戦して
ハプスブルク家の皇帝軍と対峙したわけで。
0358人間七七四年2009/07/23(木) 05:19:20ID:8JGMJkyq
しかし30年戦争のそもそもの発端も本質も宗教対立だろ。
それが戦争の長期化、規模の拡大で徐々に他の要素が加わっただけで。
0359人間七七四年2009/09/11(金) 16:21:29ID:LxcdL1H5
30年戦争はほとんど皇帝と諸侯の戦争な気もする
0360人間七七四年2009/09/12(土) 11:17:16ID:G5fEj6RR
発端はともかく本質は、集権化を目指す皇帝とそれに反対する諸王、諸侯との戦争だな。
0361人間七七四年2009/09/22(火) 21:02:28ID:VV4oDUr7
>>259

亀だが。

印章においては












その三家が入れ替わっている

(武田氏の龍印・上杉氏の獅子印・北条氏の虎印)
0362人間七七四年2009/09/23(水) 00:42:08ID:z+XPqpoe
謙信の旗印に「龍」字旗があった気が
0363人間七七四年2009/09/24(木) 00:21:23ID:3pDvVTx6
旗印の龍が不動明王を表しているってのは本当なんだろうかね?
毘沙門天の旗や飯縄権現の兜もあるんだしおかしくはないとは思うが
0364人間七七四年2009/11/13(金) 01:41:32ID:UYTLGV5/
室町幕府には、「会議」が存在しなかった。

基本的にみんなが顔を合わせる、と言うことが無く、何か懸案があった場合、書状や書類が
関係者の間をめぐって、なんとなく方向性が決まる、という方式だった。
0365人間七七四年2009/11/29(日) 08:20:02ID:QoN/MMV5
何でもメールで物事を済ますみたいだな。
0366人間七七四年2009/11/30(月) 03:04:58ID:6pwbTB9p
同じ室町時代なのに、鎌倉府のほうには月二回だかの、鎌倉公方以下、関東管領
や重臣達を集めた衆議があったんだよな。不思議だ。
0367人間七七四年2009/12/02(水) 23:53:29ID:gEOmb4v1
まあ昔からフォッサマグナの西と東で文化が全然異なるからな。
0368人間七七四年2009/12/17(木) 16:43:42ID:p5JiIjIq
伊達政宗が建造させた日本初の国産西洋型軍艦サン・ファン・バウティスタ号は
欧州から帰国途中のフィリピンで、オランダとの戦争準備に追われていた現地総督の要請により
イスパニア艦隊に売却編入、使節団長の支倉常長らは別の船で帰国した。

その後のバウティスタ号の消息は不明。
後のフィリピンでのオランダとの海戦にイスパニア艦隊が敗れたことから
バウティスタ号も撃沈された可能性は高い。
0369人間七七四年2009/12/17(木) 17:04:01ID:p5JiIjIq
戦国時代に瀬戸内海を荒らしまわった海賊・村上水軍のうち
毛利家に臣従した因島村上氏のほうは関が原の戦の後も毛利家に仕え、
長州の船手組(海上警備や海路の参勤交代の担い手)となった。

いっぽう、来島村上氏のほうは豊臣秀吉に臣従して一時は独立大名となるも
徳川幕府の時代になると山奥の豊後玖珠郡(現・大分県玖珠町と九重町)に転封、
完全に海から遠ざけられてしまった。
0370人間七七四年2009/12/17(木) 17:17:43ID:p5JiIjIq
稲葉山城を失い美濃を追放された斎藤龍興は
その後も長島一向一揆、三次三人衆、朝倉義景などとの同盟や保護のもと
信長に執拗な抵抗を続けたが、信長に攻められた浅井長政を支援するため
朝倉義景と共に参戦した一乗谷城の戦いで戦死。
彼を討ち取ったのは氏家卜全の長男直昌だといわれる。
0371人間七七四年2009/12/18(金) 16:22:41ID:6hc6ZMdT
>>369
来島氏は、山の中に池を造って、そこで昔を偲んでお船遊びをした。
0372人間七七四年2009/12/20(日) 07:18:00ID:DaOt8adZ
真田幸村の大阪の陣での家紋は六連銭ではなく、赤地に金線。
徳川方にいた本家への配慮だといわれる。
0373人間七七四年2010/02/20(土) 13:27:16ID:YLM7jZvg
このころの寺社は集めた金でお金を貸していた(祠堂銭)のでしばしば一揆の標的にされた。
江戸時代の打ち壊しのような悪徳者を狙う同情の余地があるものだったが
土一揆は単に略奪したいから金持ちを狙うだけの同情の余地が無いものだった。
金利が安い良心的な寺社でも狙われるので
そういったものから守るために寺社は堀や石垣などで防御していた。
有事の際は地方領主が寺社を城がわりに利用したので寺社はもっとも血なまぐさい場所だった。
0374人間七七四年2010/02/24(水) 04:31:42ID:drpOKt5v
武士の誕生から、一騎打ちは極めて稀で特殊な状況でのみ行われた。

平安時代から武士の戦術は、集団で敵を取り囲み、大量の矢を射掛けて相手を針坊主に
して殲滅するのが基本。
当然元寇の時もこれをやり、元の軍隊は上陸拠点を作ることすら出来ないほど
武士の戦術に翻弄された。
0375人間七七四年2010/02/25(木) 17:14:58ID:0gRvz+Ak
ノーベル化学賞で有名になった島津製作所の創業者・島津源三は、
戦国大名の島津氏と直接血縁関係はない。

彼の先祖の井上惣兵衛が、秀吉から島津義弘に与えられた領地に住んでいた時に
領地検分の世話をした功績として島津姓と島津家紋を貰ったのが始まりとされる。
(関が原の戦で敗れ、撤退中の島津義弘を援助した際の褒美の説も有る)
0376人間七七四年2010/02/27(土) 16:20:49ID:wHinKBLb
「一向一揆」と言う言葉は江戸期、しかも18世紀になってから作られた言葉だと言う事。
同時代的にはただ単に「一揆」もしくは「土一揆」としか呼んでいないこと。
0377人間七七四年2010/02/28(日) 01:37:41ID:PKi4YTnt
秀吉が信長死後の覇権を争っていた天正十一年頃、「自分は本願寺門徒だ」と公称していたこと。
0378人間七七四年2010/04/15(木) 17:44:52ID:lMY6nLDS
八王子城を作った技術者達が、築城前に安土城の視察を行っていたこと。
0379人間七七四年2010/07/14(水) 17:14:24ID:cvsDNaOh
奥州北部の戦国大名、南部晴政の娘達は






それぞれ九戸の乱で活躍した南部家臣、東朝政、南盛義、北秀愛に嫁いでいる。
南部の家臣に、西という一族もちゃんといたようだが、
活躍しなかったのか、すでに断続していたのか…痛恨のグランドスラム失敗である。
0380人間七七四年2010/08/14(土) 04:15:57ID:07eMyMEn
良スレ
0381人間七七四年2010/09/05(日) 10:32:05ID:xJsw7iAz
保全
0382人間七七四年2011/01/24(月) 11:09:29ID:SCVr6VIM
八重洲の地名の由来にもなったヤン・ヨーステンは
オランダに帰ろうとしたが、ジャワでの帰国手続がはかどらず帰国を断念。
いったん日本に戻る途中のインドシナで船が難破して溺死した
0383人間七七四年2011/01/24(月) 11:17:55ID:jlstUjQg
伊達政宗はスペイン人だった
0384人間七七四年2011/01/26(水) 13:04:54ID:FbS7BEvy
ザビエルとロヨラはバスク人だった
0385人間七七四年2011/01/27(木) 09:35:02ID:psRMjVs8
戦国時代の馬の体系はポニーやモウコノウマみたいな寸詰まりで、蹄鉄使用は幕末以降。
まぁこれは有名か
0386人間七七四年2011/01/27(木) 11:18:07ID:I9P1dmMH
>>385
蹄鉄と馬の運動に関係はないこと
0387人間七七四年2011/01/27(木) 17:37:50ID:psRMjVs8
>>386
えっ?蹄鉄付けないとヒヅメが減って長距離を歩けなくなるんじゃないの?
それで幕末までは馬に草鞋を履かせてたとか何とか。

山中鹿之助の息子は武士をやめたあと酒造業でお金持ちになり、
のちの鴻池財閥のもとになった。
0388人間七七四年2011/01/27(木) 17:49:06ID:I9P1dmMH
蹄鉄に関しては年来、生理学的な視点から検討されてきた。
野生馬と、遊牧などの自然環境で飼育された馬はそもそも蹄など必要としないことが分かっている。
しかし長年の馬小屋での飼育方法と蹄鉄の伝統は、これらの見解によっても容易に変化するものではない。
これらの研究で特に大きな影響があったのはジェイム・ジャクソン、およびヒルトラド・シュトラッサー博士である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B9%84%E9%89%84#.E8.B9.84.E9.89.84.E3.81.AB.E9.96.A2.E3.81.99.E3.82.8B.E6.96.B0.E3.81.9F.E3.81.AA.E8.A6.8B.E8.A7.A3


家畜の馬が蹄鉄を必要とするほど蹄が弱くなる原因に
湿気やアンモニアに蹄が晒され続けることが挙げられますが
武士の厩は床を板敷にし、頻繁に掃除を行うことで馬の足元を清潔に保ち
蹄が劣化することを防いでいます。

当時の厩は馬の目の前で各々が寛ぎながら歓談する、ちょっとしたサロンでした
ttp://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/rekisi/naiyou/gadan/naoki/naoki.htm
ttp://longlife.city.hikone.shiga.jp/museum/past/theme/0801/24.html
0389人間七七四年2011/01/27(木) 19:34:02ID:jIIRKYdP
戦国時代の主力兵器は槍だった 刀は使うと痛むので使わなかった
0390人間七七四年2011/01/27(木) 21:22:26ID:H2QejCCF
>>389
それも不正確だな。つーか、痛むのがやだから使わないわけじゃねーよ。単純に野戦では槍より役に立たないからだ。
主兵装は弓・鉄砲・投石だな、死傷者の原因から考えると。
0391人間七七四年2011/01/27(木) 22:50:21ID:AdE/I6zM
>>389
日本の記録でも宣教師の記録でも、最初は弓鉄砲での打ち合い、もう少し近づくと
槍でのせめぎ合い、最後は刀での接近戦、となっている。


戦場で使わないものをわざわざ持っていくような馬鹿じゃないよ武士は。
お前と違ってな。
0392人間七七四年2011/01/28(金) 01:59:19ID:uD/DQhxQ
最近真偽を疑われている信玄と謙信の一騎打ちは史実
03932011/01/28(金) 03:27:19ID:MQeZR5nj
神社から兵を良く借りた。信長が桶狭間の時に熱田神宮に寄ったのもこのため。
信仰心とは関係無い。
0394人間七七四年2011/01/28(金) 10:47:19ID:7HtiIcBP
戦国時代といえば下克上だが、京都から遠く離れた東北・九州などでは
もともと鎌倉時代から大きな勢力基盤があった守護・守護代からの名門大名が
近隣の中小勢力を吸収、征服してさらに大きくなったケースがほとんど。
0395人間七七四年2011/01/30(日) 18:29:27ID:BCpK/3+q
そういえば島津や伊達は鎌倉時代にすでにあった勢力だな。
しまも両家とも源頼朝がらみだし。
0396人間七七四年2011/01/31(月) 01:30:08ID:oHjmFWAp
>>390
鈴木信者が湧いて出た…
0397人間七七四年2011/02/02(水) 02:39:09ID:hrtJK/S5
元々の史料が城攻め時のヤツで自陣生還者の傷の原因しか統計してないからね
そりゃ投石が最強になるわな
火攻めで落ちた城の籠城データだけ出して
戦国時代で一番活躍した武器は火である
とか言うくらい恥ずかしい事なんだけど
騙されてる人は意外と多いんだよな
0398人間七七四年2011/02/04(金) 18:59:15ID:4NexGgh4
>>393
まぁ当時の村の神主や僧といったら当地の顔役兼インテリだろうしな。
今でも途上国の村の神父とか呪術師なんかそうだし

陶晴賢は大内義隆を討った後、甥の大内義長を名目上の後継者に立てていたが、
厳島の戦いで陶晴賢が毛利軍に敗れるとその翌々年に毛利軍に城を包囲され
義長は自害。大内氏はここに滅亡した。
0399人間七七四年2011/02/08(火) 22:22:55ID:npHsdNCx
リーフデ号のもともとの船名は、エラスムス号
0400人間七七四年2011/02/08(火) 22:52:12ID:+8NS0k3d
馬場六太夫という人物の両親は秋山信友と女城主おつやの方
0401人間七七四年2011/02/08(火) 23:31:14ID:npHsdNCx
桶狭間で今川義元を討ち取った毛利新助は、
その後信長の精鋭部隊の黒母衣衆、旗本と昇進。
本能寺の変では織田信忠とともに二条城で奮戦の末、戦死した。

いっぽう、義元を討ちそこねた服部小平太のほうは、信長死後
秀吉の精鋭部隊の黄母衣衆になり、養子秀次の家来となるも
秀次失脚で連座、切腹させられた。
0402人間七七四年2011/02/09(水) 00:16:25ID:X0mxwbZ7
鬼武蔵として恐れられた森長可は
弟蘭丸を本能寺の変で討ち取った安田作兵衛を
「武功は武功」と周囲の反対を押し切って召抱えた。
0403人間七七四年2011/02/09(水) 00:34:53ID:X0mxwbZ7
松永久秀は三次三人衆と戦争中に
クリスマス休戦を戦国時代で初めて提案した。
また彼は初めて火薬による自爆で最期を遂げた戦国武将でもある。
0404人間七七四年2011/02/10(木) 21:34:43ID:T7u6S46E
>>400
信長が開城条件の約束破って岩村城の兵士や領民を虐殺した理由は
単なる騙し討ちではなく
秋山と女城主の子供(馬場六太夫)が見つからなかった腹いせらしいな

いくら問い詰めても拷問しても逆さ磔しても秋山夫婦は子供の居場所を絶対に言わなかったらしい
0405人間七七四年2011/02/16(水) 19:02:37ID:vyNUD493
今川義元は


























0406人間七七四年2011/03/02(水) 22:27:32.57ID:d4it1fyc
イエズス会は、現在も存続している。
会員数は約2万人。現存するカトリック系男子修道会では二番目に多い。

現在の総長をつとめているアドルフォ・ニコラス神父は、
上智大で教鞭をとっていたことがある。
0407人間七七四年2011/03/02(水) 23:02:50.24ID:d4it1fyc
安土城は、山崎の戦いでの本丸・天守閣焼失後も
残った二の丸が織田家の居城としてしばらく利用されていた。

だが豊臣秀吉の養子秀次が安土城の近くの領地をもらうことになると
安土城の残った資材は城下町ごと秀次の新しい居城・八幡山城建築に使うため
移されたといわれる。
0408人間七七四年2011/03/03(木) 16:40:14.76ID:UiuwrDla
京都内外の名称「洛中・洛外」の由来は、
嵯峨天皇の代に平安京の西(左京)を長安、東(右京)を洛陽と
それぞれ命名したが、京都の発展が東に集中したため
京都を洛陽で表すのが人々の間に定着していったことから。
0409人間七七四年2011/03/04(金) 10:49:40.53ID:vMdDrRUd
黒人奴隷から信長の家来に召抱えられた弥助はモザンビーク人だった
0410人間七七四年2011/03/04(金) 11:45:50.29ID:DaM4afsh
斎藤道三の通称『美濃の蝮』は、「徳川家康」などで有名な作家、山岡荘八の創作
0411人間七七四年2011/03/04(金) 23:34:28.70ID:c0MwiiIo
江戸時代、犬猿の仲だった南部と津軽は
実は一度も本格的な合戦をしたことはない。
0412人間七七四年2011/03/04(金) 23:58:42.50ID:d+SImIuJ
屁 屁 屁
0413人間七七四年2011/03/05(土) 00:22:11.91ID:6myydj1e
柳生宗矩は沢庵和尚から喫煙を控えるようにたしなめられていた。
だがそのかいなく彼は肺ガンで亡くなった。
0414人間七七四年2011/03/05(土) 07:09:22.92ID:Ayop0wMx
>>409
誰でも知ってる
0415人間七七四年2011/03/05(土) 11:59:35.49ID:6myydj1e
大砲を初めて戦争に使った戦国武将は、大友宗麟
0416人間七七四年2011/03/05(土) 12:18:40.34ID:6myydj1e
信長の上洛を途中で邪魔した六角氏の家紋は四角
0417人間七七四年2011/03/05(土) 12:58:01.92ID:lIeExuBn
凍み豆腐を開発して戦場に持参させたのは、伊達政宗
0418人間七七四年2011/03/07(月) 00:00:24.80ID:fmvCqN/S
200年以上絶交していた伊達家と浅野家だか意外なところで接触している。

松の廊下事件で浅野内匠頭を取り押さえたのは吉田藩主伊達村豊(政宗曾孫、当時宗春)
浅野内匠頭があずけられ、切腹したのは一関藩主田村建顕(同じく政宗曾孫)邸。
0419人間七七四年2011/03/07(月) 00:20:08.69ID:H/Q67qc/
松永久秀は戦国三大梟雄の一人として有名だが
彼の孫は俳人、ひ孫は朱子学者としてそれぞれ名を成し
またその道の優れた弟子を多く育成、輩出した。
0420人間七七四年2011/03/07(月) 14:04:11.25ID:r+QG450U
>>176
それで、糞たれたのか!! なるほど。
0421人間七七四年2011/03/07(月) 17:54:02.13ID:/H1Ur1l4
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」は
苦労人らしい徳川家康の遺訓として扱われるが
実際は徳川光圀の言葉
このように、家康の美談などは神君として奉られた後世の創作が多い
0422人間七七四年2011/03/07(月) 21:11:00.40ID:TaAwYFBO
>>421
> このように、家康の美談などは神君として奉られた後世の創作が多い

そもそもそれは美談かよ?


あと家康が天婦羅に当たって死んだという話。
あれは後世、江戸城で火災の危険があるため揚げ物を禁止したとき、
その理由として「揚げ物は徳川家に祟る。昔神君が天婦羅に当たって死んだので」とやった
つくり話。
0423人間七七四年2011/03/08(火) 00:23:30.55ID:wL1O2bfp
将軍義輝暗殺後、足利義栄が将軍の座に就けられたが、
彼は松永久秀と三好三人衆の権力抗争や義昭を奉じた信長上洛により
将軍職にあるにもかかわらず本拠地の京に来られずに一生を終えた

ちなみに日本史上、在職中に本拠地に来れなかった将軍は
足利義栄以外では徳川慶喜(江戸)だけ
0424人間七七四年2011/03/08(火) 02:07:40.75ID:2PREDeTX
徳川家康=神君
幕府が作った創作話

本当は権力のためなら何でもする極悪非道な強欲な人間
0425人間七七四年2011/03/08(火) 02:08:58.68ID:f/OsFQRc
>>424
はいはいここは病院じゃないから
0426人間七七四年2011/03/08(火) 02:37:24.35ID:2PREDeTX
父が犯した数々の戦争犠牲者の霊を祈祷するために
豊臣秀頼が普請した神社仏閣の膨大な費用を個人財産で支払い。
その支払われた費用の一部に税金を掛け、建設業者から巻き上げ
豊臣氏を滅ぼすための鉄砲の弾(鉛)の購入費用にあてたのは家康。

現代にも通じる政治のカラクリ
0427人間七七四年2011/03/08(火) 07:22:26.69ID:pv7bOLQI
>>426
「戦争犠牲者の追悼」?
普通に豊臣の繁栄を願ってじゃないのか?
0428人間七七四年2011/03/08(火) 10:56:54.22ID:DY233kST
豊臣家くらい自分たちのことしか考えない家も珍しいからな
0429人間七七四年2011/03/08(火) 13:08:00.54ID:wL1O2bfp
聚楽第の跡地には、いまハローワークが建っている

>>428
農民上がりだから他の戦国武将のような信頼できる家臣団が無くて
いきおい身内びいきになるのは仕方ないオモ。
秀吉が苦心して作りあげた家臣団も彼の死後の関ヶ原の戦いでは
石田三成以外ほとんどが家康についちゃったし
0430人間七七四年2011/03/09(水) 05:15:13.03ID:QlS2zua5
一応言っとくがあの時点では家康も豊家の家臣
つまり内輪揉めであるからお互いに自分こそ正当な豊臣家臣団と思ってるから福島、加藤等は裏切ってるとか微塵も感じてない
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