戦国時代のトリビア
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/01(火) 13:46:39ID:LOnCX40D0330人間七七四年
2008/10/29(水) 01:24:55ID:iNt5L/oF罵っぽく「W」連発して悪かった
スマン○コ
0331人間七七四年
2008/10/29(水) 02:52:01ID:IjlGWXpnにちゃんで俺以外のこんなに素直な奴を見たのは久々だ
つかスレチだが現代の脂肪と脂肪のぶつかり合いよりこの頃の引き締まった筋肉質の農民力士同士の取り組みの方が面白そうだよな。
ウルフはかっこよかったな〜
0332人間七七四年
2008/10/29(水) 10:42:00ID:93Me3ljE秀吉子飼いはまた別だろうが。
0334人間七七四年
2008/10/29(水) 13:56:15ID:H31Aixsz同じフロイスの
> 堺の代官になった彼の伴侶は佐吉殿(石田三成)と称する関白殿の家臣であり、関白の暴政を
> 快しとしないジョウチン(小西立佐)の大敵でもあり、キリシタンの敵でもあって、嫉妬深く、野心家で
> 傲慢であり、その他においても悪徳に満ちた人物である。
この三成評はあまり知られてないな。
0335人間七七四年
2008/10/29(水) 15:23:40ID:6wvsxPQ0堀尾さんは稲葉山城功略戦で秀吉を裏口に案内した
地元の猟師の息子という根も葉もない説を
中学の頃習ったよ。学校で。
0336人間七七四年
2008/10/29(水) 21:25:26ID:82CUTaU60337人間七七四年
2008/10/29(水) 23:56:03ID:yZceESOWわかりやす過ぎですフロイスさん
0338人間七七四年
2008/10/29(水) 23:59:13ID:H31Aixsz> 老三ヶ(頼照)殿の息子マンショ(頼連)は、はじめ伊予の国で、関白の甥にあたる
> きわめて残忍な性格の男(福島正則)とともにいた。この男は、ごく些細な理由でマンショを朝鮮で
> 殺そうとしたことがある。そのため彼はこの男の許から身を引き、アゴスチイノ津の守殿に仕え、
> 剃髪して彼とともに日本に帰った。その妻子は伊予国に残っており、かの残忍な男は、
> もとより彼らを皆殺しにするように命じていたから、マンショは密かに伊予に赴き、夜分、
> 気づかれることなく妻子を乗船させ、無事に連れ戻すことが出来た。暴君の家来たちは、
> ただちにマンショの後を追ったがマンショらは巧みに敵の目をくらまし身を隠したので、
> 発見されずにすんだ。
0339人間七七四年
2008/10/31(金) 05:25:57ID:QJ0M1bYYならば下克上で有名組で本当に一代で成り上がったのは松永弾正だけか
ますますあいつすげーんだなってかんじだ
0340人間七七四年
2008/10/31(金) 05:48:18ID:QdonOa9T0341人間七七四年
2008/10/31(金) 13:39:55ID:fwKJ0yIrちょww
0342人間七七四年
2008/10/31(金) 14:36:33ID:WV+DuLbCTUEEEEEEwwwww
0343人間七七四年
2008/11/02(日) 03:11:55ID:CYRNpuug福島隊とぶつかったということは宇喜多にでも所属してたのかな?
0344人間七七四年
2008/11/03(月) 01:01:32ID:RKVg9yMB藤堂家に仕官していた旧石田三成家臣磯野右近の子供
しかもその磯野行尚(盛次討ちとった人)は
関ヶ原で三成が落ちるときに塩野、渡辺らとともに
最後までつき従い三成が解散命令出すまでずっと一緒にいた人物
大坂の陣は因縁対決が多い
長曾我部と十河が九州の時のように馬並べてたたかって両家とも完全滅亡したり
0345人間七七四年
2009/02/24(火) 17:48:54ID:aKDk8bFV0346人間七七四年
2009/02/24(火) 23:36:25ID:8Kgw3bad0347人間七七四年
2009/02/26(木) 21:19:02ID:/wbqq33+0348人間七七四年
2009/02/26(木) 21:50:19ID:p5D4oixu0349人間七七四年
2009/02/28(土) 19:51:02ID:KquK5l2K実際に射撃するときは下馬して射撃した(98へェ確実)
0350人間七七四年
2009/02/28(土) 20:08:12ID:dydYZe/Y0351人間七七四年
2009/02/28(土) 22:19:57ID:d7ysMX0X0352人間七七四年
2009/03/01(日) 11:51:58ID:BqpFSaFa本当に?
鉄砲を輸出してたのかな。
オスマンなら遠くの日本より、ヨーロッパの方が早く調達できそうだけど、
敵対関係にあったから貿易できなかったとか?
0353人間七七四年
2009/03/01(日) 14:18:35ID:phNOPWOT広島には「風呂」という家がある。
なんでも鷹狩に出た殿様に風呂を馳走した礼として拝領したそうだ。
殿様は毛利元就だったか輝元だったか、記憶が定かでない。
ちなみに俺の同級生の風呂君は嘉門達夫の付き人をしていた。今は広島ローカルで歌手をしている。
0355人間七七四年
2009/05/31(日) 00:08:11ID:ySZNdEfF0357人間七七四年
2009/07/22(水) 07:42:35ID:dtK6YOJI30年戦争のことなら、宗教内の対立ではないぞ。
ブルボン家 vs ハプスブルク家という文脈で見るべき。
なんせ、カトリックを信仰していたブルボン家のフランス王国は新教側で参戦して
ハプスブルク家の皇帝軍と対峙したわけで。
0358人間七七四年
2009/07/23(木) 05:19:20ID:8JGMJkyqそれが戦争の長期化、規模の拡大で徐々に他の要素が加わっただけで。
0359人間七七四年
2009/09/11(金) 16:21:29ID:LxcdL1H50360人間七七四年
2009/09/12(土) 11:17:16ID:G5fEj6RR0361人間七七四年
2009/09/22(火) 21:02:28ID:VV4oDUr7亀だが。
印章においては
その三家が入れ替わっている
(武田氏の龍印・上杉氏の獅子印・北条氏の虎印)
0362人間七七四年
2009/09/23(水) 00:42:08ID:z+XPqpoe0363人間七七四年
2009/09/24(木) 00:21:23ID:3pDvVTx6毘沙門天の旗や飯縄権現の兜もあるんだしおかしくはないとは思うが
0364人間七七四年
2009/11/13(金) 01:41:32ID:UYTLGV5/基本的にみんなが顔を合わせる、と言うことが無く、何か懸案があった場合、書状や書類が
関係者の間をめぐって、なんとなく方向性が決まる、という方式だった。
0365人間七七四年
2009/11/29(日) 08:20:02ID:QoN/MMV50366人間七七四年
2009/11/30(月) 03:04:58ID:6pwbTB9pや重臣達を集めた衆議があったんだよな。不思議だ。
0367人間七七四年
2009/12/02(水) 23:53:29ID:gEOmb4v10368人間七七四年
2009/12/17(木) 16:43:42ID:p5JiIjIq欧州から帰国途中のフィリピンで、オランダとの戦争準備に追われていた現地総督の要請により
イスパニア艦隊に売却編入、使節団長の支倉常長らは別の船で帰国した。
その後のバウティスタ号の消息は不明。
後のフィリピンでのオランダとの海戦にイスパニア艦隊が敗れたことから
バウティスタ号も撃沈された可能性は高い。
0369人間七七四年
2009/12/17(木) 17:04:01ID:p5JiIjIq毛利家に臣従した因島村上氏のほうは関が原の戦の後も毛利家に仕え、
長州の船手組(海上警備や海路の参勤交代の担い手)となった。
いっぽう、来島村上氏のほうは豊臣秀吉に臣従して一時は独立大名となるも
徳川幕府の時代になると山奥の豊後玖珠郡(現・大分県玖珠町と九重町)に転封、
完全に海から遠ざけられてしまった。
0370人間七七四年
2009/12/17(木) 17:17:43ID:p5JiIjIqその後も長島一向一揆、三次三人衆、朝倉義景などとの同盟や保護のもと
信長に執拗な抵抗を続けたが、信長に攻められた浅井長政を支援するため
朝倉義景と共に参戦した一乗谷城の戦いで戦死。
彼を討ち取ったのは氏家卜全の長男直昌だといわれる。
0372人間七七四年
2009/12/20(日) 07:18:00ID:DaOt8adZ徳川方にいた本家への配慮だといわれる。
0373人間七七四年
2010/02/20(土) 13:27:16ID:YLM7jZvg江戸時代の打ち壊しのような悪徳者を狙う同情の余地があるものだったが
土一揆は単に略奪したいから金持ちを狙うだけの同情の余地が無いものだった。
金利が安い良心的な寺社でも狙われるので
そういったものから守るために寺社は堀や石垣などで防御していた。
有事の際は地方領主が寺社を城がわりに利用したので寺社はもっとも血なまぐさい場所だった。
0374人間七七四年
2010/02/24(水) 04:31:42ID:drpOKt5v平安時代から武士の戦術は、集団で敵を取り囲み、大量の矢を射掛けて相手を針坊主に
して殲滅するのが基本。
当然元寇の時もこれをやり、元の軍隊は上陸拠点を作ることすら出来ないほど
武士の戦術に翻弄された。
0375人間七七四年
2010/02/25(木) 17:14:58ID:0gRvz+Ak戦国大名の島津氏と直接血縁関係はない。
彼の先祖の井上惣兵衛が、秀吉から島津義弘に与えられた領地に住んでいた時に
領地検分の世話をした功績として島津姓と島津家紋を貰ったのが始まりとされる。
(関が原の戦で敗れ、撤退中の島津義弘を援助した際の褒美の説も有る)
0376人間七七四年
2010/02/27(土) 16:20:49ID:wHinKBLb同時代的にはただ単に「一揆」もしくは「土一揆」としか呼んでいないこと。
0377人間七七四年
2010/02/28(日) 01:37:41ID:PKi4YTnt0378人間七七四年
2010/04/15(木) 17:44:52ID:lMY6nLDS0379人間七七四年
2010/07/14(水) 17:14:24ID:cvsDNaOhそれぞれ九戸の乱で活躍した南部家臣、東朝政、南盛義、北秀愛に嫁いでいる。
南部の家臣に、西という一族もちゃんといたようだが、
活躍しなかったのか、すでに断続していたのか…痛恨のグランドスラム失敗である。
0380人間七七四年
2010/08/14(土) 04:15:57ID:07eMyMEn0381人間七七四年
2010/09/05(日) 10:32:05ID:xJsw7iAz0382人間七七四年
2011/01/24(月) 11:09:29ID:SCVr6VIMオランダに帰ろうとしたが、ジャワでの帰国手続がはかどらず帰国を断念。
いったん日本に戻る途中のインドシナで船が難破して溺死した
0383人間七七四年
2011/01/24(月) 11:17:55ID:jlstUjQg0384人間七七四年
2011/01/26(水) 13:04:54ID:FbS7BEvy0385人間七七四年
2011/01/27(木) 09:35:02ID:psRMjVs8まぁこれは有名か
0386人間七七四年
2011/01/27(木) 11:18:07ID:I9P1dmMH蹄鉄と馬の運動に関係はないこと
0387人間七七四年
2011/01/27(木) 17:37:50ID:psRMjVs8えっ?蹄鉄付けないとヒヅメが減って長距離を歩けなくなるんじゃないの?
それで幕末までは馬に草鞋を履かせてたとか何とか。
山中鹿之助の息子は武士をやめたあと酒造業でお金持ちになり、
のちの鴻池財閥のもとになった。
0388人間七七四年
2011/01/27(木) 17:49:06ID:I9P1dmMH野生馬と、遊牧などの自然環境で飼育された馬はそもそも蹄など必要としないことが分かっている。
しかし長年の馬小屋での飼育方法と蹄鉄の伝統は、これらの見解によっても容易に変化するものではない。
これらの研究で特に大きな影響があったのはジェイム・ジャクソン、およびヒルトラド・シュトラッサー博士である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B9%84%E9%89%84#.E8.B9.84.E9.89.84.E3.81.AB.E9.96.A2.E3.81.99.E3.82.8B.E6.96.B0.E3.81.9F.E3.81.AA.E8.A6.8B.E8.A7.A3
家畜の馬が蹄鉄を必要とするほど蹄が弱くなる原因に
湿気やアンモニアに蹄が晒され続けることが挙げられますが
武士の厩は床を板敷にし、頻繁に掃除を行うことで馬の足元を清潔に保ち
蹄が劣化することを防いでいます。
当時の厩は馬の目の前で各々が寛ぎながら歓談する、ちょっとしたサロンでした
ttp://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/rekisi/naiyou/gadan/naoki/naoki.htm
ttp://longlife.city.hikone.shiga.jp/museum/past/theme/0801/24.html
0389人間七七四年
2011/01/27(木) 19:34:02ID:jIIRKYdP0390人間七七四年
2011/01/27(木) 21:22:26ID:H2QejCCFそれも不正確だな。つーか、痛むのがやだから使わないわけじゃねーよ。単純に野戦では槍より役に立たないからだ。
主兵装は弓・鉄砲・投石だな、死傷者の原因から考えると。
0391人間七七四年
2011/01/27(木) 22:50:21ID:AdE/I6zM日本の記録でも宣教師の記録でも、最初は弓鉄砲での打ち合い、もう少し近づくと
槍でのせめぎ合い、最後は刀での接近戦、となっている。
戦場で使わないものをわざわざ持っていくような馬鹿じゃないよ武士は。
お前と違ってな。
0392人間七七四年
2011/01/28(金) 01:59:19ID:uD/DQhxQ0393あ
2011/01/28(金) 03:27:19ID:MQeZR5nj信仰心とは関係無い。
0394人間七七四年
2011/01/28(金) 10:47:19ID:7HtiIcBPもともと鎌倉時代から大きな勢力基盤があった守護・守護代からの名門大名が
近隣の中小勢力を吸収、征服してさらに大きくなったケースがほとんど。
0395人間七七四年
2011/01/30(日) 18:29:27ID:BCpK/3+qしまも両家とも源頼朝がらみだし。
0397人間七七四年
2011/02/02(水) 02:39:09ID:hrtJK/S5そりゃ投石が最強になるわな
火攻めで落ちた城の籠城データだけ出して
戦国時代で一番活躍した武器は火である
とか言うくらい恥ずかしい事なんだけど
騙されてる人は意外と多いんだよな
0398人間七七四年
2011/02/04(金) 18:59:15ID:4NexGgh4まぁ当時の村の神主や僧といったら当地の顔役兼インテリだろうしな。
今でも途上国の村の神父とか呪術師なんかそうだし
陶晴賢は大内義隆を討った後、甥の大内義長を名目上の後継者に立てていたが、
厳島の戦いで陶晴賢が毛利軍に敗れるとその翌々年に毛利軍に城を包囲され
義長は自害。大内氏はここに滅亡した。
0399人間七七四年
2011/02/08(火) 22:22:55ID:npHsdNCx0400人間七七四年
2011/02/08(火) 22:52:12ID:+8NS0k3d0401人間七七四年
2011/02/08(火) 23:31:14ID:npHsdNCxその後信長の精鋭部隊の黒母衣衆、旗本と昇進。
本能寺の変では織田信忠とともに二条城で奮戦の末、戦死した。
いっぽう、義元を討ちそこねた服部小平太のほうは、信長死後
秀吉の精鋭部隊の黄母衣衆になり、養子秀次の家来となるも
秀次失脚で連座、切腹させられた。
0402人間七七四年
2011/02/09(水) 00:16:25ID:X0mxwbZ7弟蘭丸を本能寺の変で討ち取った安田作兵衛を
「武功は武功」と周囲の反対を押し切って召抱えた。
0403人間七七四年
2011/02/09(水) 00:34:53ID:X0mxwbZ7クリスマス休戦を戦国時代で初めて提案した。
また彼は初めて火薬による自爆で最期を遂げた戦国武将でもある。
0404人間七七四年
2011/02/10(木) 21:34:43ID:T7u6S46E信長が開城条件の約束破って岩村城の兵士や領民を虐殺した理由は
単なる騙し討ちではなく
秋山と女城主の子供(馬場六太夫)が見つからなかった腹いせらしいな
いくら問い詰めても拷問しても逆さ磔しても秋山夫婦は子供の居場所を絶対に言わなかったらしい
0405人間七七四年
2011/02/16(水) 19:02:37ID:vyNUD4930406人間七七四年
2011/03/02(水) 22:27:32.57ID:d4it1fyc会員数は約2万人。現存するカトリック系男子修道会では二番目に多い。
現在の総長をつとめているアドルフォ・ニコラス神父は、
上智大で教鞭をとっていたことがある。
0407人間七七四年
2011/03/02(水) 23:02:50.24ID:d4it1fyc残った二の丸が織田家の居城としてしばらく利用されていた。
だが豊臣秀吉の養子秀次が安土城の近くの領地をもらうことになると
安土城の残った資材は城下町ごと秀次の新しい居城・八幡山城建築に使うため
移されたといわれる。
0408人間七七四年
2011/03/03(木) 16:40:14.76ID:UiuwrDla嵯峨天皇の代に平安京の西(左京)を長安、東(右京)を洛陽と
それぞれ命名したが、京都の発展が東に集中したため
京都を洛陽で表すのが人々の間に定着していったことから。
0409人間七七四年
2011/03/04(金) 10:49:40.53ID:vMdDrRUd0410人間七七四年
2011/03/04(金) 11:45:50.29ID:DaM4afsh0411人間七七四年
2011/03/04(金) 23:34:28.70ID:c0MwiiIo実は一度も本格的な合戦をしたことはない。
0412人間七七四年
2011/03/04(金) 23:58:42.50ID:d+SImIuJ0413人間七七四年
2011/03/05(土) 00:22:11.91ID:6myydj1eだがそのかいなく彼は肺ガンで亡くなった。
0415人間七七四年
2011/03/05(土) 11:59:35.49ID:6myydj1e0416人間七七四年
2011/03/05(土) 12:18:40.34ID:6myydj1e0417人間七七四年
2011/03/05(土) 12:58:01.92ID:lIeExuBn0418人間七七四年
2011/03/07(月) 00:00:24.80ID:fmvCqN/S松の廊下事件で浅野内匠頭を取り押さえたのは吉田藩主伊達村豊(政宗曾孫、当時宗春)
浅野内匠頭があずけられ、切腹したのは一関藩主田村建顕(同じく政宗曾孫)邸。
0419人間七七四年
2011/03/07(月) 00:20:08.69ID:H/Q67qc/彼の孫は俳人、ひ孫は朱子学者としてそれぞれ名を成し
またその道の優れた弟子を多く育成、輩出した。
0420人間七七四年
2011/03/07(月) 14:04:11.25ID:r+QG450Uそれで、糞たれたのか!! なるほど。
0421人間七七四年
2011/03/07(月) 17:54:02.13ID:/H1Ur1l4苦労人らしい徳川家康の遺訓として扱われるが
実際は徳川光圀の言葉
このように、家康の美談などは神君として奉られた後世の創作が多い
0422人間七七四年
2011/03/07(月) 21:11:00.40ID:TaAwYFBO> このように、家康の美談などは神君として奉られた後世の創作が多い
そもそもそれは美談かよ?
あと家康が天婦羅に当たって死んだという話。
あれは後世、江戸城で火災の危険があるため揚げ物を禁止したとき、
その理由として「揚げ物は徳川家に祟る。昔神君が天婦羅に当たって死んだので」とやった
つくり話。
0423人間七七四年
2011/03/08(火) 00:23:30.55ID:wL1O2bfp彼は松永久秀と三好三人衆の権力抗争や義昭を奉じた信長上洛により
将軍職にあるにもかかわらず本拠地の京に来られずに一生を終えた
ちなみに日本史上、在職中に本拠地に来れなかった将軍は
足利義栄以外では徳川慶喜(江戸)だけ
0424人間七七四年
2011/03/08(火) 02:07:40.75ID:2PREDeTX幕府が作った創作話
本当は権力のためなら何でもする極悪非道な強欲な人間
0425人間七七四年
2011/03/08(火) 02:08:58.68ID:f/OsFQRcはいはいここは病院じゃないから
0426人間七七四年
2011/03/08(火) 02:37:24.35ID:2PREDeTX豊臣秀頼が普請した神社仏閣の膨大な費用を個人財産で支払い。
その支払われた費用の一部に税金を掛け、建設業者から巻き上げ
豊臣氏を滅ぼすための鉄砲の弾(鉛)の購入費用にあてたのは家康。
現代にも通じる政治のカラクリ
0428人間七七四年
2011/03/08(火) 10:56:54.22ID:DY233kST0429人間七七四年
2011/03/08(火) 13:08:00.54ID:wL1O2bfp>>428
農民上がりだから他の戦国武将のような信頼できる家臣団が無くて
いきおい身内びいきになるのは仕方ないオモ。
秀吉が苦心して作りあげた家臣団も彼の死後の関ヶ原の戦いでは
石田三成以外ほとんどが家康についちゃったし
0430人間七七四年
2011/03/09(水) 05:15:13.03ID:QlS2zua5つまり内輪揉めであるからお互いに自分こそ正当な豊臣家臣団と思ってるから福島、加藤等は裏切ってるとか微塵も感じてない
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