戦国時代のトリビア
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/01(火) 13:46:39ID:LOnCX40D0282人間七七四年
2008/09/01(月) 23:19:00ID:jbnpoTV5残念だが、馬防柵は別に鉄砲の為に作ったのではないらしい。
家康が作ったとも言われている。危険地帯にいたのは家康だしね。
つか、勝頼の不可思議な突撃が勝敗の分かれ目で、別に鉄砲で勝ったわけでは
ないんだよね。
信長、家康が攻めていたわけだし、信長の戦術がどうのってわけでもないかと。
と、トレビアスレだったね。
信長の三段構えは有名だが、信長が最初に行ったわけではない。
0284人間七七四年
2008/09/02(火) 01:50:58ID:Tkbq+lxZ信長の三段構えって旧日本軍が応用したって聞いたな
明治陸軍は1発1発装填しないと撃てないからだってさ。
関ヶ原の戦いも研究してたみたいだ。
メッケルていう外人教官は即「イシダサンノカチダヨ」といったらしいが。
0286人間七七四年
2008/09/02(火) 10:54:18ID:6hL/HelI> メッケルていう外人教官は即「イシダサンノカチダヨ」といったらしいが。
それ有名な都市伝説。メッケルにもメッケルに学んだ生徒からも、そんな事を言ったと言う証言は
一切存在しない。
0287人間七七四年
2008/09/02(火) 12:46:00ID:fk3HB0Ij“長篠の戦いでの織田軍の鉄砲三段構え”など
“戦国最強武田騎馬軍団”と同様にとっくの昔に説破された通説であることについて…
こんな通説を信じてる奴がいるとは驚きだ。
0288人間七七四年
2008/09/02(火) 12:49:06ID:6hL/HelI武田騎馬軍団は最近またその存在がきちんと認識されているよ。
敵側が武田の騎馬対を恐れていたことも。
半端な知識で人を馬鹿にすると自分に返ってくるぜ?
0289人間七七四年
2008/09/02(火) 13:39:09ID:crBXjLyk>>287
それっぽい記述が甫庵が初めだっけか
まあ戦国の一次資料には全くみられないね
0290人間七七四年
2008/09/02(火) 17:12:54ID:fk3HB0Ij長篠の戦いの織田軍の三段構えを信じてる奴に
「まーた武田厨の妄想が始まったか」
なんて言われたくないけんについて…
0291人間七七四年
2008/09/02(火) 17:57:45ID:crBXjLyk福富のくだりならそういう説を出してきてるやつもいたなあっていう記憶を辿っただけだけど
しかも「まーた〜」は直前の>288に向けていったんだよ
まあ色々誤解するような書き方してすまん
0293人間七七四年
2008/09/02(火) 22:12:01ID:qB1Bm2gBゴメン。
そう言われるかと思って、資料探したんだけど出てこなかった。
なので、眉唾だと思ったら、信じなくてもいいよ。
ただ、確か西国の方で、西国は鉄砲の扱い方が進んでいたから、なるほどなぁ
と、妙に納得したのを憶えてる。
信長が三段構えを長篠の合戦で使用したっていう記述は確かまだ出てきていな
いよね。
が、信長の凄いところは、
@実際に鉄砲で勝ったわけでは無いが、鉄砲と言う道具を使用した。
A武田に勝った。
この二つの既成事実で、あの恐怖の武田騎馬隊(個人的にはまだあったと信用
してないけども)に新技術の鉄砲で勝ったと宣伝しまくり、信長スゲー!と思
わせた事なんじゃないかと思う。
高天神城戦なんかもそうだよね。
0294人間七七四年
2008/09/03(水) 00:24:23ID:UvbZ8Gkx現在に至るまで人気があるの?
0295人間七七四年
2008/09/03(水) 00:56:47ID:ih8VIv8T確認したが、こういうこと。
1:細川家と浅野家の、国元に送った書状に「講和条件としての堀埋め立ては内堀まで全て」と、明確に
書かれていること。
2:実際に埋め立ての作業をしていた大名のどんな記録にも、内堀の埋め立てに関しての、豊臣家からの
抗議があったと言う記録がないこと(櫓などの破壊についての抗議の記録は残っているのに)
3:巷説に、抗議する間もなくあっという間に埋め立てられたと言われる内堀の埋め立てだが、
実際この埋め立ては、内堀だけで一ヵ月半かかっており、もしこれが講和条件違反なら、その間に
豊臣家から抗議なり妨害なりが無いとおかしい事。(櫓の破壊ではやっている)
さらにいえば、「徳川による講和違反」という説の根拠になっている大阪の陣覚書などは全て、この時代より後世に
書かれたものであり、一次資料ではない。そして一次資料にはこれを講和違反とするものは一つもない。
よって、大阪城の内堀を埋めたのが徳川の謀略と言うのは後世の創作である。
0297人間七七四年
2008/09/04(木) 01:01:02ID:3ZnXfiI5ありがとうございます!
1)は徳川の普請の割り当てだから微妙としても、
2)3)(二の丸の堀を千貫櫓と織田有楽、大野治長の屋敷を壊しでうめた)は確かにそうですよね。
納得しました。
0298人間七七四年
2008/09/05(金) 14:48:16ID:pkMeJIpz承応元年(1652)、近江で、お茶に桑の葉を混ぜて売ると言う食品偽装事件が起こって、茶の価格が下落。
農民が要請して偽装禁止の法律が執行されてたりする。
もう少し時代が下って正徳二年(1717)、今度は特産の柿の偽装事件が発覚。今度も農民側の要請により
これを規制する「柿法度極の事」と言う法律が執行されたりしている。
近世初期になると既に、今の世とあまり変わらないね、と言うお話。
0299人間七七四年
2008/09/06(土) 18:14:01ID:y6tdixCV原田孫七郎が高山国(台湾)に、入貢を促す使者として渡海。
しかし、台湾の原住民族高砂族は統一した政権を持っておらず、入貢させる相手が見つけられないまま、
孫七郎帰国。
0300人間七七四年
2008/09/10(水) 00:08:55ID:q4JQeDWc実は本当に元就と通じていた。
0301人間七七四年
2008/09/10(水) 14:42:02ID:q4JQeDWc0302人間七七四年
2008/09/10(水) 19:15:30ID:q4JQeDWc0303人間七七四年
2008/09/18(木) 18:26:24ID:c1LMZO2f実は信長の前に、足利義教と細川政元もやっている。
京の治安維持上必要があった場合、比叡山などの宗教勢力を攻める事は、
室町幕府の権能の一つとして、認められていたものらしい。
アレを信長の無神論とか政教分離とかにつなげるのは、完全な過大評価であろう。
ついでに信長は、幕府の官職に付かずに天下をコントロールしようとした事など、細川政元の施策を
真似していた節がある。
0304人間七七四年
2008/09/19(金) 11:27:39ID:3vafLjj0実は、「木曽川のほとり」と言う意味の地名。しかも信長以前から呼ばれていた。
0305人間七七四年
2008/09/19(金) 13:30:45ID:0bCN2BLk大坂城で、秀吉が家康と酒宴を行なった時。
秀吉は上機嫌で「この城は誰にも落とせん」と言った。
家康「では殿下でも無理ですか?」
秀吉「わしならすぐ落とせる」
家康「ほう!それはどのようにして?」
秀吉「それはな、・・・・・・・・」
堀を全部生めて丸裸にするのはこの時の話から。
家康は後に大坂の陣に関して「太閤こそ我が師匠だ」と語った。
0307人間七七四年
2008/09/19(金) 19:12:18ID:LcchtUUa0308人間七七四年
2008/09/20(土) 03:13:10ID:xYIlr4zwこの逸話を「藩翰譜」の中で紹介したのは新井白石だが、白石自身このエピソードの最後に、
「本当かねえ?」と書き、真偽を疑っている。
0309人間七七四年
2008/09/21(日) 13:57:36ID:HOt3yzBh当時の一豊の知行は400石=今の金に換算して年収4000万円。
へそくりは約100万円。
事実は貧乏で買えないのではなく、将達の中に混じっても目立つための小道具に苦慮していた一豊に、
ちよがへそくりをプラスして南蛮の時計を買ってあげた。
一豊は馬揃えの日、首から時計を提げて、信長の目を引いた。
0310人間七七四年
2008/09/21(日) 18:58:57ID:yTZbQhDs部下の給与もそこから払うわけだから貧乏ではあったんじゃないの?
0311人間七七四年
2008/09/24(水) 23:10:19ID:5JRZ2Tfl司馬さんが書いちゃったから、この国では事実になるw
0312人間七七四年
2008/09/24(水) 23:13:08ID:mFo7btwR0313人間七七四年
2008/09/24(水) 23:14:58ID:WMcx9BM6一度でいいから、どういう生徒の出ていたどういう授業で発言されたのか、という一次資料を見てみたいものだ。
0314人間七七四年
2008/09/25(木) 20:41:12ID:/nlXNSI8江戸時代は、諸外国から見れば、軍事ミャンマー政府状態(天皇軟禁)
0315人間七七四年
2008/09/26(金) 13:22:19ID:FsAMc6Sm包茎だった
0316人間七七四年
2008/09/26(金) 13:24:02ID:FsAMc6Sm包茎だった
0317人間七七四年
2008/09/26(金) 14:39:50ID:QnRZPqm617歳から戦場で戦い、57歳までの間に40数度の闘いに出て居る。
槍も刀も貸し出し品は一切手にせず、鎌一つで戦ったと記録に有る。鎌一つで一度の戦で7人を殺したとも言われてる。
あまりの残虐性と強さのため武将達から「首切り茂吉」と言われていた。
高禄で召し抱えたいと申し出た織田信長を前に、あさりと断り、年貢を免除して貰いたいと願い出た。
自分の申し出を断られ激怒した信長は斬りかかるも、茂吉は信長相手に蹴りを入れて倒して「やるならやんぞ!!」と
怒鳴りあげたと言われている。
その後信長の領地で唯一年貢を免除された男として首切り茂吉は有名である。
かの秀吉も茂吉を召し抱えようとするも「秋だし狩ろうかな」と言われて引き下がったと言われている。
なぜ茂吉が首切り茂吉と言われるか、その自宅には今まで倒した男達の首が置かれており、その数は500を超えていたと言う。
一体人知れずこの男はどれだけの戦功をあげていたのだろうかと織田家中では伝説的な農民であった。
40数度の戦に出て、生き延びた首切り茂吉。有名ではないがまさに最強であり多数の戦をした男である。
57歳の時、ついに茂吉は関ヶ原にて可児才蔵との激戦の末、首を打たれたと言う。
0318人間七七四年
2008/09/26(金) 16:35:55ID:tfyYMlnqこの名前は、ポルトガル語のムジーカ、つまりミュージックから取った。
0321人間七七四年
2008/09/29(月) 14:08:47ID:OA4fSxC20322人間七七四年
2008/09/29(月) 14:23:25ID:N4IOjbb5形や大きさに、用途に応じた30以上の種類があった。
0323人間七七四年
2008/10/28(火) 01:12:14ID:j+Fdfr9L・応仁の乱の原因は日野富子の策謀
・素浪人北条早雲
・桶狭間は奇襲
・長篠の鉄砲三段撃ち
・本能寺陰謀論
・賤ヶ岳の敗因は佐久間
・三成が家康の下に逃げ込んだ
・方広寺鐘銘事件は無理やりの難癖
・大阪城内堀埋め立ては徳川の陰謀
こんなところか?
0324人間七七四年
2008/10/29(水) 00:01:36ID:6wvsxPQ0伊勢新九郎であることも今川の奥さんと親類だったのも
昔から知られてたから
道三二人いた説のほうが最近じゃない?
でもこれだと今まで知られてた道三は
親父の築いたものを馬鹿やって潰しただけの男になってしまいロマンがないよねぇ
ロマンで歴史語っちゃいかんのだろうけど。
徒手空拳から成りあがった奴は戦国時代でもいないってのも厳しい現実だよね
ある程度の生まれ持った門地や血筋やバックアップは絶対必要ってことも
秀吉も農民としては金持ちの名士の出だったし
幕末の伊藤山縣ぐらいか例外は
0325人間七七四年
2008/10/29(水) 00:03:44ID:H31Aixsz実は家臣に取り立てた相撲取りは全員、もともと武士身分だったそうで。
0326人間七七四年
2008/10/29(水) 00:37:03ID:iNt5L/oF相撲部屋とかあると?W
0327人間七七四年
2008/10/29(水) 00:37:35ID:+axsXlWx有名な話かな?
0328人間七七四年
2008/10/29(水) 00:41:02ID:H31Aixszそうじゃなくて、侍身分以外の、農民やその他の階層の力士は、活躍しても取り立てられることはなかった、
ってこと。
0330人間七七四年
2008/10/29(水) 01:24:55ID:iNt5L/oF罵っぽく「W」連発して悪かった
スマン○コ
0331人間七七四年
2008/10/29(水) 02:52:01ID:IjlGWXpnにちゃんで俺以外のこんなに素直な奴を見たのは久々だ
つかスレチだが現代の脂肪と脂肪のぶつかり合いよりこの頃の引き締まった筋肉質の農民力士同士の取り組みの方が面白そうだよな。
ウルフはかっこよかったな〜
0332人間七七四年
2008/10/29(水) 10:42:00ID:93Me3ljE秀吉子飼いはまた別だろうが。
0334人間七七四年
2008/10/29(水) 13:56:15ID:H31Aixsz同じフロイスの
> 堺の代官になった彼の伴侶は佐吉殿(石田三成)と称する関白殿の家臣であり、関白の暴政を
> 快しとしないジョウチン(小西立佐)の大敵でもあり、キリシタンの敵でもあって、嫉妬深く、野心家で
> 傲慢であり、その他においても悪徳に満ちた人物である。
この三成評はあまり知られてないな。
0335人間七七四年
2008/10/29(水) 15:23:40ID:6wvsxPQ0堀尾さんは稲葉山城功略戦で秀吉を裏口に案内した
地元の猟師の息子という根も葉もない説を
中学の頃習ったよ。学校で。
0336人間七七四年
2008/10/29(水) 21:25:26ID:82CUTaU60337人間七七四年
2008/10/29(水) 23:56:03ID:yZceESOWわかりやす過ぎですフロイスさん
0338人間七七四年
2008/10/29(水) 23:59:13ID:H31Aixsz> 老三ヶ(頼照)殿の息子マンショ(頼連)は、はじめ伊予の国で、関白の甥にあたる
> きわめて残忍な性格の男(福島正則)とともにいた。この男は、ごく些細な理由でマンショを朝鮮で
> 殺そうとしたことがある。そのため彼はこの男の許から身を引き、アゴスチイノ津の守殿に仕え、
> 剃髪して彼とともに日本に帰った。その妻子は伊予国に残っており、かの残忍な男は、
> もとより彼らを皆殺しにするように命じていたから、マンショは密かに伊予に赴き、夜分、
> 気づかれることなく妻子を乗船させ、無事に連れ戻すことが出来た。暴君の家来たちは、
> ただちにマンショの後を追ったがマンショらは巧みに敵の目をくらまし身を隠したので、
> 発見されずにすんだ。
0339人間七七四年
2008/10/31(金) 05:25:57ID:QJ0M1bYYならば下克上で有名組で本当に一代で成り上がったのは松永弾正だけか
ますますあいつすげーんだなってかんじだ
0340人間七七四年
2008/10/31(金) 05:48:18ID:QdonOa9T0341人間七七四年
2008/10/31(金) 13:39:55ID:fwKJ0yIrちょww
0342人間七七四年
2008/10/31(金) 14:36:33ID:WV+DuLbCTUEEEEEEwwwww
0343人間七七四年
2008/11/02(日) 03:11:55ID:CYRNpuug福島隊とぶつかったということは宇喜多にでも所属してたのかな?
0344人間七七四年
2008/11/03(月) 01:01:32ID:RKVg9yMB藤堂家に仕官していた旧石田三成家臣磯野右近の子供
しかもその磯野行尚(盛次討ちとった人)は
関ヶ原で三成が落ちるときに塩野、渡辺らとともに
最後までつき従い三成が解散命令出すまでずっと一緒にいた人物
大坂の陣は因縁対決が多い
長曾我部と十河が九州の時のように馬並べてたたかって両家とも完全滅亡したり
0345人間七七四年
2009/02/24(火) 17:48:54ID:aKDk8bFV0346人間七七四年
2009/02/24(火) 23:36:25ID:8Kgw3bad0347人間七七四年
2009/02/26(木) 21:19:02ID:/wbqq33+0348人間七七四年
2009/02/26(木) 21:50:19ID:p5D4oixu0349人間七七四年
2009/02/28(土) 19:51:02ID:KquK5l2K実際に射撃するときは下馬して射撃した(98へェ確実)
0350人間七七四年
2009/02/28(土) 20:08:12ID:dydYZe/Y0351人間七七四年
2009/02/28(土) 22:19:57ID:d7ysMX0X0352人間七七四年
2009/03/01(日) 11:51:58ID:BqpFSaFa本当に?
鉄砲を輸出してたのかな。
オスマンなら遠くの日本より、ヨーロッパの方が早く調達できそうだけど、
敵対関係にあったから貿易できなかったとか?
0353人間七七四年
2009/03/01(日) 14:18:35ID:phNOPWOT広島には「風呂」という家がある。
なんでも鷹狩に出た殿様に風呂を馳走した礼として拝領したそうだ。
殿様は毛利元就だったか輝元だったか、記憶が定かでない。
ちなみに俺の同級生の風呂君は嘉門達夫の付き人をしていた。今は広島ローカルで歌手をしている。
0355人間七七四年
2009/05/31(日) 00:08:11ID:ySZNdEfF0357人間七七四年
2009/07/22(水) 07:42:35ID:dtK6YOJI30年戦争のことなら、宗教内の対立ではないぞ。
ブルボン家 vs ハプスブルク家という文脈で見るべき。
なんせ、カトリックを信仰していたブルボン家のフランス王国は新教側で参戦して
ハプスブルク家の皇帝軍と対峙したわけで。
0358人間七七四年
2009/07/23(木) 05:19:20ID:8JGMJkyqそれが戦争の長期化、規模の拡大で徐々に他の要素が加わっただけで。
0359人間七七四年
2009/09/11(金) 16:21:29ID:LxcdL1H50360人間七七四年
2009/09/12(土) 11:17:16ID:G5fEj6RR0361人間七七四年
2009/09/22(火) 21:02:28ID:VV4oDUr7亀だが。
印章においては
その三家が入れ替わっている
(武田氏の龍印・上杉氏の獅子印・北条氏の虎印)
0362人間七七四年
2009/09/23(水) 00:42:08ID:z+XPqpoe0363人間七七四年
2009/09/24(木) 00:21:23ID:3pDvVTx6毘沙門天の旗や飯縄権現の兜もあるんだしおかしくはないとは思うが
0364人間七七四年
2009/11/13(金) 01:41:32ID:UYTLGV5/基本的にみんなが顔を合わせる、と言うことが無く、何か懸案があった場合、書状や書類が
関係者の間をめぐって、なんとなく方向性が決まる、という方式だった。
0365人間七七四年
2009/11/29(日) 08:20:02ID:QoN/MMV50366人間七七四年
2009/11/30(月) 03:04:58ID:6pwbTB9pや重臣達を集めた衆議があったんだよな。不思議だ。
0367人間七七四年
2009/12/02(水) 23:53:29ID:gEOmb4v10368人間七七四年
2009/12/17(木) 16:43:42ID:p5JiIjIq欧州から帰国途中のフィリピンで、オランダとの戦争準備に追われていた現地総督の要請により
イスパニア艦隊に売却編入、使節団長の支倉常長らは別の船で帰国した。
その後のバウティスタ号の消息は不明。
後のフィリピンでのオランダとの海戦にイスパニア艦隊が敗れたことから
バウティスタ号も撃沈された可能性は高い。
0369人間七七四年
2009/12/17(木) 17:04:01ID:p5JiIjIq毛利家に臣従した因島村上氏のほうは関が原の戦の後も毛利家に仕え、
長州の船手組(海上警備や海路の参勤交代の担い手)となった。
いっぽう、来島村上氏のほうは豊臣秀吉に臣従して一時は独立大名となるも
徳川幕府の時代になると山奥の豊後玖珠郡(現・大分県玖珠町と九重町)に転封、
完全に海から遠ざけられてしまった。
0370人間七七四年
2009/12/17(木) 17:17:43ID:p5JiIjIqその後も長島一向一揆、三次三人衆、朝倉義景などとの同盟や保護のもと
信長に執拗な抵抗を続けたが、信長に攻められた浅井長政を支援するため
朝倉義景と共に参戦した一乗谷城の戦いで戦死。
彼を討ち取ったのは氏家卜全の長男直昌だといわれる。
0372人間七七四年
2009/12/20(日) 07:18:00ID:DaOt8adZ徳川方にいた本家への配慮だといわれる。
0373人間七七四年
2010/02/20(土) 13:27:16ID:YLM7jZvg江戸時代の打ち壊しのような悪徳者を狙う同情の余地があるものだったが
土一揆は単に略奪したいから金持ちを狙うだけの同情の余地が無いものだった。
金利が安い良心的な寺社でも狙われるので
そういったものから守るために寺社は堀や石垣などで防御していた。
有事の際は地方領主が寺社を城がわりに利用したので寺社はもっとも血なまぐさい場所だった。
0374人間七七四年
2010/02/24(水) 04:31:42ID:drpOKt5v平安時代から武士の戦術は、集団で敵を取り囲み、大量の矢を射掛けて相手を針坊主に
して殲滅するのが基本。
当然元寇の時もこれをやり、元の軍隊は上陸拠点を作ることすら出来ないほど
武士の戦術に翻弄された。
0375人間七七四年
2010/02/25(木) 17:14:58ID:0gRvz+Ak戦国大名の島津氏と直接血縁関係はない。
彼の先祖の井上惣兵衛が、秀吉から島津義弘に与えられた領地に住んでいた時に
領地検分の世話をした功績として島津姓と島津家紋を貰ったのが始まりとされる。
(関が原の戦で敗れ、撤退中の島津義弘を援助した際の褒美の説も有る)
0376人間七七四年
2010/02/27(土) 16:20:49ID:wHinKBLb同時代的にはただ単に「一揆」もしくは「土一揆」としか呼んでいないこと。
0377人間七七四年
2010/02/28(日) 01:37:41ID:PKi4YTnt0378人間七七四年
2010/04/15(木) 17:44:52ID:lMY6nLDS0379人間七七四年
2010/07/14(水) 17:14:24ID:cvsDNaOhそれぞれ九戸の乱で活躍した南部家臣、東朝政、南盛義、北秀愛に嫁いでいる。
南部の家臣に、西という一族もちゃんといたようだが、
活躍しなかったのか、すでに断続していたのか…痛恨のグランドスラム失敗である。
0380人間七七四年
2010/08/14(土) 04:15:57ID:07eMyMEn■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています