トップページsengoku
505コメント146KB

戦国時代のトリビア

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/01(火) 13:46:39ID:LOnCX40D
戦国時代に関するトリビアを言っていきましょう。
0281人間七七四年2008/09/01(月) 22:58:25ID:OqZOmtq7
>>280
ゴメン、今手元に無い。
0282人間七七四年2008/09/01(月) 23:19:00ID:jbnpoTV5
>>267
残念だが、馬防柵は別に鉄砲の為に作ったのではないらしい。
家康が作ったとも言われている。危険地帯にいたのは家康だしね。
つか、勝頼の不可思議な突撃が勝敗の分かれ目で、別に鉄砲で勝ったわけでは
ないんだよね。
信長、家康が攻めていたわけだし、信長の戦術がどうのってわけでもないかと。

と、トレビアスレだったね。
信長の三段構えは有名だが、信長が最初に行ったわけではない。
0283人間七七四年2008/09/02(火) 00:05:52ID:FC1gL2pJ
>>280
小和田哲男ならまだしも
笠谷先生までブラックホールに足つっこまれたのか('A`)
0284人間七七四年2008/09/02(火) 01:50:58ID:Tkbq+lxZ
>>282
信長の三段構えって旧日本軍が応用したって聞いたな
明治陸軍は1発1発装填しないと撃てないからだってさ。

関ヶ原の戦いも研究してたみたいだ。

メッケルていう外人教官は即「イシダサンノカチダヨ」といったらしいが。
0285人間七七四年2008/09/02(火) 09:45:21ID:crBXjLyk
>>282
誰が最初に行ったの?
信長側近の福富平左衛門尉が考案したって言う説もあったりなかったりしたよね
0286人間七七四年2008/09/02(火) 10:54:18ID:6hL/HelI
>>284
> メッケルていう外人教官は即「イシダサンノカチダヨ」といったらしいが。

それ有名な都市伝説。メッケルにもメッケルに学んだ生徒からも、そんな事を言ったと言う証言は
一切存在しない。
0287人間七七四年2008/09/02(火) 12:46:00ID:fk3HB0Ij
第一に、
“長篠の戦いでの織田軍の鉄砲三段構え”など
“戦国最強武田騎馬軍団”と同様にとっくの昔に説破された通説であることについて…





こんな通説を信じてる奴がいるとは驚きだ。
0288人間七七四年2008/09/02(火) 12:49:06ID:6hL/HelI
>>287
武田騎馬軍団は最近またその存在がきちんと認識されているよ。
敵側が武田の騎馬対を恐れていたことも。

半端な知識で人を馬鹿にすると自分に返ってくるぜ?
0289人間七七四年2008/09/02(火) 13:39:09ID:crBXjLyk
まーた武田厨の妄想が始まったか


>>287
それっぽい記述が甫庵が初めだっけか
まあ戦国の一次資料には全くみられないね
0290人間七七四年2008/09/02(火) 17:12:54ID:fk3HB0Ij
>>289
長篠の戦いの織田軍の三段構えを信じてる奴に

「まーた武田厨の妄想が始まったか」
なんて言われたくないけんについて…
0291人間七七四年2008/09/02(火) 17:57:45ID:crBXjLyk
え?だれが信じてるって?
福富のくだりならそういう説を出してきてるやつもいたなあっていう記憶を辿っただけだけど
しかも「まーた〜」は直前の>288に向けていったんだよ

まあ色々誤解するような書き方してすまん
0292人間七七四年2008/09/02(火) 18:52:45ID:fk3HB0Ij
>>291
勘違いすみません。
我ながら顔真っ赤ですw
0293人間七七四年2008/09/02(火) 22:12:01ID:qB1Bm2gB
>>285
ゴメン。
そう言われるかと思って、資料探したんだけど出てこなかった。
なので、眉唾だと思ったら、信じなくてもいいよ。
ただ、確か西国の方で、西国は鉄砲の扱い方が進んでいたから、なるほどなぁ
と、妙に納得したのを憶えてる。

信長が三段構えを長篠の合戦で使用したっていう記述は確かまだ出てきていな
いよね。
が、信長の凄いところは、
@実際に鉄砲で勝ったわけでは無いが、鉄砲と言う道具を使用した。
A武田に勝った。
この二つの既成事実で、あの恐怖の武田騎馬隊(個人的にはまだあったと信用
してないけども)に新技術の鉄砲で勝ったと宣伝しまくり、信長スゲー!と思
わせた事なんじゃないかと思う。

高天神城戦なんかもそうだよね。
0294人間七七四年2008/09/03(水) 00:24:23ID:UvbZ8Gkx
武田って名門ではあるけれども所詮地方大名の一つなのに何故
現在に至るまで人気があるの?
0295人間七七四年2008/09/03(水) 00:56:47ID:ih8VIv8T
>>280
確認したが、こういうこと。

1:細川家と浅野家の、国元に送った書状に「講和条件としての堀埋め立ては内堀まで全て」と、明確に
書かれていること。

2:実際に埋め立ての作業をしていた大名のどんな記録にも、内堀の埋め立てに関しての、豊臣家からの
抗議があったと言う記録がないこと(櫓などの破壊についての抗議の記録は残っているのに)

3:巷説に、抗議する間もなくあっという間に埋め立てられたと言われる内堀の埋め立てだが、
実際この埋め立ては、内堀だけで一ヵ月半かかっており、もしこれが講和条件違反なら、その間に
豊臣家から抗議なり妨害なりが無いとおかしい事。(櫓の破壊ではやっている)

さらにいえば、「徳川による講和違反」という説の根拠になっている大阪の陣覚書などは全て、この時代より後世に
書かれたものであり、一次資料ではない。そして一次資料にはこれを講和違反とするものは一つもない。

よって、大阪城の内堀を埋めたのが徳川の謀略と言うのは後世の創作である。
0296人間七七四年2008/09/03(水) 05:53:19ID:pEdV/L5/
へー勉強になった
>>280ではないが、感謝感謝
0297人間七七四年2008/09/04(木) 01:01:02ID:3ZnXfiI5
>>295
ありがとうございます!

1)は徳川の普請の割り当てだから微妙としても、
2)3)(二の丸の堀を千貫櫓と織田有楽、大野治長の屋敷を壊しでうめた)は確かにそうですよね。

納得しました。
0298人間七七四年2008/09/05(金) 14:48:16ID:pkMeJIpz
戦国のちょっと後の話だが…

承応元年(1652)、近江で、お茶に桑の葉を混ぜて売ると言う食品偽装事件が起こって、茶の価格が下落。
農民が要請して偽装禁止の法律が執行されてたりする。

もう少し時代が下って正徳二年(1717)、今度は特産の柿の偽装事件が発覚。今度も農民側の要請により
これを規制する「柿法度極の事」と言う法律が執行されたりしている。

近世初期になると既に、今の世とあまり変わらないね、と言うお話。
0299人間七七四年2008/09/06(土) 18:14:01ID:y6tdixCV
文禄二年(1594)

原田孫七郎が高山国(台湾)に、入貢を促す使者として渡海。
しかし、台湾の原住民族高砂族は統一した政権を持っておらず、入貢させる相手が見つけられないまま、
孫七郎帰国。
0300人間七七四年2008/09/10(水) 00:08:55ID:q4JQeDWc
毛利元就の謀略により、内通の噂を流され、陶晴賢に殺されたとされる江良房栄。



実は本当に元就と通じていた。
0301人間七七四年2008/09/10(水) 14:42:02ID:q4JQeDWc
江戸期の越前では、まとまらない会議を、「小田原評定」のような形で、朝倉義景から、「義景相談」と言った
0302人間七七四年2008/09/10(水) 19:15:30ID:q4JQeDWc
永禄十二年、フロイスが信長にバナナを献上。これが日本で最も古いバナナの記録。
0303人間七七四年2008/09/18(木) 18:26:24ID:c1LMZO2f
信長がやったことで有名な比叡山焼き討ち

実は信長の前に、足利義教と細川政元もやっている。

京の治安維持上必要があった場合、比叡山などの宗教勢力を攻める事は、
室町幕府の権能の一つとして、認められていたものらしい。
アレを信長の無神論とか政教分離とかにつなげるのは、完全な過大評価であろう。

ついでに信長は、幕府の官職に付かずに天下をコントロールしようとした事など、細川政元の施策を
真似していた節がある。
0304人間七七四年2008/09/19(金) 11:27:39ID:3vafLjj0
通説に、古代中国、周の故事に習い、信長が天下統一の意思を込めて命名したと言われる『岐阜』






実は、「木曽川のほとり」と言う意味の地名。しかも信長以前から呼ばれていた。
0305人間七七四年2008/09/19(金) 13:30:45ID:0bCN2BLk
大坂城の堀埋めの話。

大坂城で、秀吉が家康と酒宴を行なった時。
秀吉は上機嫌で「この城は誰にも落とせん」と言った。
家康「では殿下でも無理ですか?」
秀吉「わしならすぐ落とせる」
家康「ほう!それはどのようにして?」
秀吉「それはな、・・・・・・・・」
堀を全部生めて丸裸にするのはこの時の話から。

家康は後に大坂の陣に関して「太閤こそ我が師匠だ」と語った。
0306人間七七四年2008/09/19(金) 13:47:07ID:3vafLjj0
>>305
それ講談話
0307人間七七四年2008/09/19(金) 19:12:18ID:LcchtUUa
島津は、鉄砲を武将クラスが持ち、馬上から発射する戦法をとっていた。
0308人間七七四年2008/09/20(土) 03:13:10ID:xYIlr4zw
有名な、山内一豊の妻の、名馬をへそくりで買ったという美談




この逸話を「藩翰譜」の中で紹介したのは新井白石だが、白石自身このエピソードの最後に、
「本当かねえ?」と書き、真偽を疑っている。
0309人間七七四年2008/09/21(日) 13:57:36ID:HOt3yzBh
>>308
当時の一豊の知行は400石=今の金に換算して年収4000万円。
へそくりは約100万円。

事実は貧乏で買えないのではなく、将達の中に混じっても目立つための小道具に苦慮していた一豊に、
ちよがへそくりをプラスして南蛮の時計を買ってあげた。
一豊は馬揃えの日、首から時計を提げて、信長の目を引いた。
0310人間七七四年2008/09/21(日) 18:58:57ID:yTZbQhDs
でも武士の知行って本人丸取りじゃなくて
部下の給与もそこから払うわけだから貧乏ではあったんじゃないの?
0311人間七七四年2008/09/24(水) 23:10:19ID:5JRZ2Tfl
>>286
司馬さんが書いちゃったから、この国では事実になるw
0312人間七七四年2008/09/24(水) 23:13:08ID:mFo7btwR
ウィキにも乗ってるんだよね
0313人間七七四年2008/09/24(水) 23:14:58ID:WMcx9BM6
>>312
一度でいいから、どういう生徒の出ていたどういう授業で発言されたのか、という一次資料を見てみたいものだ。
0314人間七七四年2008/09/25(木) 20:41:12ID:/nlXNSI8
戦国時代は、諸外国から見れば、無政府ソマリア状態(政府や国主はあるが、あって無きが如く)
江戸時代は、諸外国から見れば、軍事ミャンマー政府状態(天皇軟禁)
0315人間七七四年2008/09/26(金) 13:22:19ID:FsAMc6Sm
織田信長は















包茎だった
0316人間七七四年2008/09/26(金) 13:24:02ID:FsAMc6Sm
淀君は
















包茎だった
0317人間七七四年2008/09/26(金) 14:39:50ID:QnRZPqm6
戦国最強は首切り茂吉と言う農民だったらしい。
17歳から戦場で戦い、57歳までの間に40数度の闘いに出て居る。
槍も刀も貸し出し品は一切手にせず、鎌一つで戦ったと記録に有る。鎌一つで一度の戦で7人を殺したとも言われてる。
あまりの残虐性と強さのため武将達から「首切り茂吉」と言われていた。
高禄で召し抱えたいと申し出た織田信長を前に、あさりと断り、年貢を免除して貰いたいと願い出た。
自分の申し出を断られ激怒した信長は斬りかかるも、茂吉は信長相手に蹴りを入れて倒して「やるならやんぞ!!」と
怒鳴りあげたと言われている。
その後信長の領地で唯一年貢を免除された男として首切り茂吉は有名である。
かの秀吉も茂吉を召し抱えようとするも「秋だし狩ろうかな」と言われて引き下がったと言われている。
なぜ茂吉が首切り茂吉と言われるか、その自宅には今まで倒した男達の首が置かれており、その数は500を超えていたと言う。
一体人知れずこの男はどれだけの戦功をあげていたのだろうかと織田家中では伝説的な農民であった。
40数度の戦に出て、生き延びた首切り茂吉。有名ではないがまさに最強であり多数の戦をした男である。
57歳の時、ついに茂吉は関ヶ原にて可児才蔵との激戦の末、首を打たれたと言う。
0318人間七七四年2008/09/26(金) 16:35:55ID:tfyYMlnq
大友宗麟が、日向攻略の本拠地として作った町、無鹿。



この名前は、ポルトガル語のムジーカ、つまりミュージックから取った。
0319人間七七四年2008/09/27(土) 23:12:07ID:K6+YvsiR
>>317
>秋だし狩ろうかな
どこのホラー映画だよw
0320人間七七四年2008/09/28(日) 17:54:02ID:qNjTxpRl
>>317
>ついに茂吉は関ヶ原にて可児才蔵との激戦の末、首を打たれたと言う。

じゃあ可児才蔵が最強じゃねーか
0321人間七七四年2008/09/29(月) 14:08:47ID:OA4fSxC2
鎌で刀や槍とやり合えるものかな
0322人間七七四年2008/09/29(月) 14:23:25ID:N4IOjbb5
戦国時代の鉄砲の弾丸。



形や大きさに、用途に応じた30以上の種類があった。
0323人間七七四年2008/10/28(火) 01:12:14ID:j+Fdfr9L
戦国時代の最近否定された説

・応仁の乱の原因は日野富子の策謀
・素浪人北条早雲
・桶狭間は奇襲
・長篠の鉄砲三段撃ち
・本能寺陰謀論
・賤ヶ岳の敗因は佐久間
・三成が家康の下に逃げ込んだ
・方広寺鐘銘事件は無理やりの難癖
・大阪城内堀埋め立ては徳川の陰謀

こんなところか?
0324人間七七四年2008/10/29(水) 00:01:36ID:6wvsxPQ0
早雲素浪人説ははなからなかったっぽくないか?
伊勢新九郎であることも今川の奥さんと親類だったのも
昔から知られてたから
道三二人いた説のほうが最近じゃない?
でもこれだと今まで知られてた道三は
親父の築いたものを馬鹿やって潰しただけの男になってしまいロマンがないよねぇ
ロマンで歴史語っちゃいかんのだろうけど。

徒手空拳から成りあがった奴は戦国時代でもいないってのも厳しい現実だよね
ある程度の生まれ持った門地や血筋やバックアップは絶対必要ってことも
秀吉も農民としては金持ちの名士の出だったし
幕末の伊藤山縣ぐらいか例外は
0325人間七七四年2008/10/29(水) 00:03:44ID:H31Aixsz
信長が相撲好きで、相撲大会で活躍した人間に褒美を与えたり取り立てたりしたけど、
実は家臣に取り立てた相撲取りは全員、もともと武士身分だったそうで。
0326人間七七四年2008/10/29(水) 00:37:03ID:iNt5L/oF
相撲取りだと思ってたの?W
相撲部屋とかあると?W
0327人間七七四年2008/10/29(水) 00:37:35ID:+axsXlWx
日本人が使ってた鉄砲は、戦闘用でなく狩猟用の鳥銃だった。しかも保有量は世界一

有名な話かな?
0328人間七七四年2008/10/29(水) 00:41:02ID:H31Aixsz
>>326
そうじゃなくて、侍身分以外の、農民やその他の階層の力士は、活躍しても取り立てられることはなかった、
ってこと。
0329人間七七四年2008/10/29(水) 00:43:01ID:yZceESOW
>>328
酔狂だけでやってたわけじゃないと

>>327
違います
0330人間七七四年2008/10/29(水) 01:24:55ID:iNt5L/oF
>>328なるほど
罵っぽく「W」連発して悪かった
スマン○コ
0331人間七七四年2008/10/29(水) 02:52:01ID:IjlGWXpn
>>330
にちゃんで俺以外のこんなに素直な奴を見たのは久々だ

つかスレチだが現代の脂肪と脂肪のぶつかり合いよりこの頃の引き締まった筋肉質の農民力士同士の取り組みの方が面白そうだよな。
ウルフはかっこよかったな〜
0332人間七七四年2008/10/29(水) 10:42:00ID:93Me3ljE
あまりに身分不相応な出世の仕方をしたって逸話は大抵江戸時代の創作だな。
秀吉子飼いはまた別だろうが。
0333人間七七四年2008/10/29(水) 11:47:04ID:82CUTaU6
>>323
上杉謙信男性説
0334人間七七四年2008/10/29(水) 13:56:15ID:H31Aixsz
そういえば明智光秀が野心家の奸臣ってフロイスの評論は、結構広まってるけど、
同じフロイスの

> 堺の代官になった彼の伴侶は佐吉殿(石田三成)と称する関白殿の家臣であり、関白の暴政を
> 快しとしないジョウチン(小西立佐)の大敵でもあり、キリシタンの敵でもあって、嫉妬深く、野心家で
> 傲慢であり、その他においても悪徳に満ちた人物である。

この三成評はあまり知られてないな。
0335人間七七四年2008/10/29(水) 15:23:40ID:6wvsxPQ0
>>332
堀尾さんは稲葉山城功略戦で秀吉を裏口に案内した
地元の猟師の息子という根も葉もない説を
中学の頃習ったよ。学校で。
0336人間七七四年2008/10/29(水) 21:25:26ID:82CUTaU6
どう考えてもそれはフロイスの私情入りまくり
0337人間七七四年2008/10/29(水) 23:56:03ID:yZceESOW
キリスト教に好意的なら聖人君主、批判的なら愚人鬼畜
わかりやす過ぎですフロイスさん
0338人間七七四年2008/10/29(水) 23:59:13ID:H31Aixsz
キリスト教に好意的なのにこんな人もいるぞ



> 老三ヶ(頼照)殿の息子マンショ(頼連)は、はじめ伊予の国で、関白の甥にあたる
> きわめて残忍な性格の男(福島正則)とともにいた。この男は、ごく些細な理由でマンショを朝鮮で
> 殺そうとしたことがある。そのため彼はこの男の許から身を引き、アゴスチイノ津の守殿に仕え、
> 剃髪して彼とともに日本に帰った。その妻子は伊予国に残っており、かの残忍な男は、
> もとより彼らを皆殺しにするように命じていたから、マンショは密かに伊予に赴き、夜分、
> 気づかれることなく妻子を乗船させ、無事に連れ戻すことが出来た。暴君の家来たちは、
> ただちにマンショの後を追ったがマンショらは巧みに敵の目をくらまし身を隠したので、
> 発見されずにすんだ。
0339人間七七四年2008/10/31(金) 05:25:57ID:QJ0M1bYY
>>324
ならば下克上で有名組で本当に一代で成り上がったのは松永弾正だけか
ますますあいつすげーんだなってかんじだ
0340人間七七四年2008/10/31(金) 05:48:18ID:QdonOa9T
一代の成り上がりレベルだと、松永は秀吉や三成とは越えられない壁があるな。
0341人間七七四年2008/10/31(金) 13:39:55ID:fwKJ0yIr
>>320
ちょww
0342人間七七四年2008/10/31(金) 14:36:33ID:WV+DuLbC
>>317
TUEEEEEEwwwww
0343人間七七四年2008/11/02(日) 03:11:55ID:CYRNpuug
57歳なら可児のほうが関ヶ原当時は10歳ぐらい若いな
福島隊とぶつかったということは宇喜多にでも所属してたのかな?
0344人間七七四年2008/11/03(月) 01:01:32ID:RKVg9yMB
五奉行増田長盛の子増田盛次を討ちとったのは
藤堂家に仕官していた旧石田三成家臣磯野右近の子供
しかもその磯野行尚(盛次討ちとった人)は
関ヶ原で三成が落ちるときに塩野、渡辺らとともに
最後までつき従い三成が解散命令出すまでずっと一緒にいた人物
大坂の陣は因縁対決が多い
長曾我部と十河が九州の時のように馬並べてたたかって両家とも完全滅亡したり
0345人間七七四年2009/02/24(火) 17:48:54ID:aKDk8bFV
戦国時代の日本はオスマン帝国に武器を輸出していたほどの軍需産業国家
0346人間七七四年2009/02/24(火) 23:36:25ID:8Kgw3bad
亀井琉球守これ矩の旧姓は『湯』(漢字変換不可)
0347人間七七四年2009/02/26(木) 21:19:02ID:/wbqq33+
真田十勇士の源流は、尼子十勇士。
0348人間七七四年2009/02/26(木) 21:50:19ID:p5D4oixu
横浜に住んでた頃、「湯」って名前の友人がいました。
0349人間七七四年2009/02/28(土) 19:51:02ID:KquK5l2K
伊達正宗の騎馬鉄砲隊は






実際に射撃するときは下馬して射撃した(98へェ確実)
0350人間七七四年2009/02/28(土) 20:08:12ID:dydYZe/Y
大阪の陣で馬上からぶっ放してた記録があるがな
0351人間七七四年2009/02/28(土) 22:19:57ID:d7ysMX0X
市ね短パン
0352人間七七四年2009/03/01(日) 11:51:58ID:BqpFSaFa
>>345
本当に?
鉄砲を輸出してたのかな。
オスマンなら遠くの日本より、ヨーロッパの方が早く調達できそうだけど、
敵対関係にあったから貿易できなかったとか?
0353人間七七四年2009/03/01(日) 14:18:35ID:phNOPWOT
>>346,348
広島には「風呂」という家がある。
なんでも鷹狩に出た殿様に風呂を馳走した礼として拝領したそうだ。
殿様は毛利元就だったか輝元だったか、記憶が定かでない。

ちなみに俺の同級生の風呂君は嘉門達夫の付き人をしていた。今は広島ローカルで歌手をしている。
0354人間七七四年2009/03/07(土) 13:26:53ID:omYHB63H
>>320
ネタにマジレスカコワルイ
0355人間七七四年2009/05/31(日) 00:08:11ID:ySZNdEfF
保守
0356人間七七四年2009/07/22(水) 07:17:26ID:bScwBlEY
>>352
宗教内の対立(カvsプ)からフランスとオスマンが同盟を組んで帝国を攻めたこともあるよ
0357人間七七四年2009/07/22(水) 07:42:35ID:dtK6YOJI
>>356
30年戦争のことなら、宗教内の対立ではないぞ。
ブルボン家 vs ハプスブルク家という文脈で見るべき。
なんせ、カトリックを信仰していたブルボン家のフランス王国は新教側で参戦して
ハプスブルク家の皇帝軍と対峙したわけで。
0358人間七七四年2009/07/23(木) 05:19:20ID:8JGMJkyq
しかし30年戦争のそもそもの発端も本質も宗教対立だろ。
それが戦争の長期化、規模の拡大で徐々に他の要素が加わっただけで。
0359人間七七四年2009/09/11(金) 16:21:29ID:LxcdL1H5
30年戦争はほとんど皇帝と諸侯の戦争な気もする
0360人間七七四年2009/09/12(土) 11:17:16ID:G5fEj6RR
発端はともかく本質は、集権化を目指す皇帝とそれに反対する諸王、諸侯との戦争だな。
0361人間七七四年2009/09/22(火) 21:02:28ID:VV4oDUr7
>>259

亀だが。

印章においては












その三家が入れ替わっている

(武田氏の龍印・上杉氏の獅子印・北条氏の虎印)
0362人間七七四年2009/09/23(水) 00:42:08ID:z+XPqpoe
謙信の旗印に「龍」字旗があった気が
0363人間七七四年2009/09/24(木) 00:21:23ID:3pDvVTx6
旗印の龍が不動明王を表しているってのは本当なんだろうかね?
毘沙門天の旗や飯縄権現の兜もあるんだしおかしくはないとは思うが
0364人間七七四年2009/11/13(金) 01:41:32ID:UYTLGV5/
室町幕府には、「会議」が存在しなかった。

基本的にみんなが顔を合わせる、と言うことが無く、何か懸案があった場合、書状や書類が
関係者の間をめぐって、なんとなく方向性が決まる、という方式だった。
0365人間七七四年2009/11/29(日) 08:20:02ID:QoN/MMV5
何でもメールで物事を済ますみたいだな。
0366人間七七四年2009/11/30(月) 03:04:58ID:6pwbTB9p
同じ室町時代なのに、鎌倉府のほうには月二回だかの、鎌倉公方以下、関東管領
や重臣達を集めた衆議があったんだよな。不思議だ。
0367人間七七四年2009/12/02(水) 23:53:29ID:gEOmb4v1
まあ昔からフォッサマグナの西と東で文化が全然異なるからな。
0368人間七七四年2009/12/17(木) 16:43:42ID:p5JiIjIq
伊達政宗が建造させた日本初の国産西洋型軍艦サン・ファン・バウティスタ号は
欧州から帰国途中のフィリピンで、オランダとの戦争準備に追われていた現地総督の要請により
イスパニア艦隊に売却編入、使節団長の支倉常長らは別の船で帰国した。

その後のバウティスタ号の消息は不明。
後のフィリピンでのオランダとの海戦にイスパニア艦隊が敗れたことから
バウティスタ号も撃沈された可能性は高い。
0369人間七七四年2009/12/17(木) 17:04:01ID:p5JiIjIq
戦国時代に瀬戸内海を荒らしまわった海賊・村上水軍のうち
毛利家に臣従した因島村上氏のほうは関が原の戦の後も毛利家に仕え、
長州の船手組(海上警備や海路の参勤交代の担い手)となった。

いっぽう、来島村上氏のほうは豊臣秀吉に臣従して一時は独立大名となるも
徳川幕府の時代になると山奥の豊後玖珠郡(現・大分県玖珠町と九重町)に転封、
完全に海から遠ざけられてしまった。
0370人間七七四年2009/12/17(木) 17:17:43ID:p5JiIjIq
稲葉山城を失い美濃を追放された斎藤龍興は
その後も長島一向一揆、三次三人衆、朝倉義景などとの同盟や保護のもと
信長に執拗な抵抗を続けたが、信長に攻められた浅井長政を支援するため
朝倉義景と共に参戦した一乗谷城の戦いで戦死。
彼を討ち取ったのは氏家卜全の長男直昌だといわれる。
0371人間七七四年2009/12/18(金) 16:22:41ID:6hc6ZMdT
>>369
来島氏は、山の中に池を造って、そこで昔を偲んでお船遊びをした。
0372人間七七四年2009/12/20(日) 07:18:00ID:DaOt8adZ
真田幸村の大阪の陣での家紋は六連銭ではなく、赤地に金線。
徳川方にいた本家への配慮だといわれる。
0373人間七七四年2010/02/20(土) 13:27:16ID:YLM7jZvg
このころの寺社は集めた金でお金を貸していた(祠堂銭)のでしばしば一揆の標的にされた。
江戸時代の打ち壊しのような悪徳者を狙う同情の余地があるものだったが
土一揆は単に略奪したいから金持ちを狙うだけの同情の余地が無いものだった。
金利が安い良心的な寺社でも狙われるので
そういったものから守るために寺社は堀や石垣などで防御していた。
有事の際は地方領主が寺社を城がわりに利用したので寺社はもっとも血なまぐさい場所だった。
0374人間七七四年2010/02/24(水) 04:31:42ID:drpOKt5v
武士の誕生から、一騎打ちは極めて稀で特殊な状況でのみ行われた。

平安時代から武士の戦術は、集団で敵を取り囲み、大量の矢を射掛けて相手を針坊主に
して殲滅するのが基本。
当然元寇の時もこれをやり、元の軍隊は上陸拠点を作ることすら出来ないほど
武士の戦術に翻弄された。
0375人間七七四年2010/02/25(木) 17:14:58ID:0gRvz+Ak
ノーベル化学賞で有名になった島津製作所の創業者・島津源三は、
戦国大名の島津氏と直接血縁関係はない。

彼の先祖の井上惣兵衛が、秀吉から島津義弘に与えられた領地に住んでいた時に
領地検分の世話をした功績として島津姓と島津家紋を貰ったのが始まりとされる。
(関が原の戦で敗れ、撤退中の島津義弘を援助した際の褒美の説も有る)
0376人間七七四年2010/02/27(土) 16:20:49ID:wHinKBLb
「一向一揆」と言う言葉は江戸期、しかも18世紀になってから作られた言葉だと言う事。
同時代的にはただ単に「一揆」もしくは「土一揆」としか呼んでいないこと。
0377人間七七四年2010/02/28(日) 01:37:41ID:PKi4YTnt
秀吉が信長死後の覇権を争っていた天正十一年頃、「自分は本願寺門徒だ」と公称していたこと。
0378人間七七四年2010/04/15(木) 17:44:52ID:lMY6nLDS
八王子城を作った技術者達が、築城前に安土城の視察を行っていたこと。
0379人間七七四年2010/07/14(水) 17:14:24ID:cvsDNaOh
奥州北部の戦国大名、南部晴政の娘達は






それぞれ九戸の乱で活躍した南部家臣、東朝政、南盛義、北秀愛に嫁いでいる。
南部の家臣に、西という一族もちゃんといたようだが、
活躍しなかったのか、すでに断続していたのか…痛恨のグランドスラム失敗である。
0380人間七七四年2010/08/14(土) 04:15:57ID:07eMyMEn
良スレ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています