戦国時代のトリビア
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/01(火) 13:46:39ID:LOnCX40D0220人間七七四年
2008/06/24(火) 02:27:36ID:8j1gvnxZナイフとスプーン使って16世紀の日本で何食うの?
味噌汁?タクアン?
0222人間七七四年
2008/06/25(水) 12:33:04ID:scTxwdL+加藤清正は厠に入ると一刻以上出てこなかった
ひどい「ぢ」だった
0224人間七七四年
2008/06/26(木) 04:13:36ID:wxgvvpFJ0225人間七七四年
2008/06/26(木) 22:02:30ID:EyVhpYDv朝鮮の王子に神様として崇められたりしたな。
熊本のもんはwe love清正だ。
細川?何すかそれ?
ヽ(´ー`)ノ
清正公にお預かりしますとお参りして藩主になった人たちだろ。
0226人間七七四年
2008/06/27(金) 02:12:22ID:W8WfjajX0227人間七七四年
2008/06/27(金) 02:46:25ID:slnpkwQm0228人間七七四年
2008/06/27(金) 06:04:56ID:ZR9fonLg熊本城の重要史跡の宇土櫓は小西の宇土城のものなのに・・・
よくわからん基準で斬られたし
(石田と安国寺は精軍首脳だから仕方ないとして小西は別に中心でもないし
宇喜多みたいに激闘してるわけでもないしむしろやる気なかったというのに)
朝鮮だって講和にがんっばったのは宗と小西なのに
一方は清正公と神になり小西は墓すら残っていない・・・
0229人間七七四年
2008/06/27(金) 11:43:00ID:slfENPHj毒針で穴だらけ饅頭の話もうすこし詳しく聞きたい。お願いします
0230人間七七四年
2008/06/27(金) 12:28:32ID:RJNaq1Vn主力を欠いた小西行景(行長の弟)の守る宇土城を落とせなかった
・しゃぼん玉の名付け親は石田三成
・戦国時代では合戦のとき基本的に馬から降りて戦っていた
0231人間七七四年
2008/06/27(金) 12:29:17ID:TE5BNDAs第2ヒント:毒まんじゅう wikipedia
0232冬広
2008/06/27(金) 13:40:38ID:NkNOCKW3火縄銃を使って自殺した武将がいる
0234人間七七四年
2008/06/27(金) 16:11:42ID:V2hHka87包茎
0235232
2008/06/27(金) 17:24:13ID:KrqzIiLY荒木村重の家来で、頭をぶち抜いて自害したんだと。
勇気あるのか、チキンなのかよくわからん武将だなw
0236人間七七四年
2008/06/28(土) 11:34:53ID:xUUOVraW規則正しく1日3回、朝昼晩
タバコを吸っていたwwwwww。
0237人間七七四年
2008/06/28(土) 11:49:50ID:xUUOVraW明智光秀は、山崎の合戦の直前、
緊張のあまり、チマキを竹の皮ごと口に入れ
噛み切れないのにも気がつかなかった。
国宝「洛中洛外図」は
信長から謙信に送られたもの。
手取川の合戦以外は、そうとうに親密な関係にあった。
〜おまけ〜
上杉家(謙信時代)の収入源の中で
大きな割合を占めるのは、
港、関所、産物(塩、米など)に付けた
「取引税」
0238人間七七四年
2008/06/28(土) 13:44:02ID:tDC6r//jしかもそれは本能寺の変の直前であり
皮ごと食ったのもてんぱってたからではなく
はやる気を抑えるためとされている
0239人間七七四年
2008/06/28(土) 14:18:47ID:TjSqqWD4どんだけぇどんだけぇ
0240人間七七四年
2008/06/28(土) 23:21:15ID:l4tiYESM戦国でもかなり低い。
0242人間七七四年
2008/06/29(日) 01:39:40ID:/V1y/yZ8なかったと主張してるひともいるな。
論文よんだことないが・・・
俺としては、馬で単騎突っ込み大量の銃弾浴びてて落馬、死んだあとも采配を口にくわえたままだった。というエピソードが好きだった。
赤揃えは、後に井伊や真田も影響受けてるから、小さくても戦闘力高いオヤジだった。
0243人間七七四年
2008/06/29(日) 11:57:29ID:wl/ZpQFb「日本では戦う時には馬を下りる。
日本の馬はほとんどがポニーで、体高120〜130cmほどしかない」
と書かれている。
実際、戦場外れに「馬溜り」というものがあってそこに集められていた。
国産馬は山県昌景にはちょうどピッタリのサイズ。
0244人間七七四年
2008/06/29(日) 12:59:11ID:3yHL5f50念の為突っ込んでおくと
フロイスは、馬上戦闘の技術と習慣が無い西国武将しか見たことが無い上、
体長120〜130のポニーは一般的な西洋騎士の騎馬と同レベル。
西洋騎士はあの程度の馬でプレートメイルランス突撃できてる。
山県なんて余裕だったはず。
0245人間七七四年
2008/06/29(日) 13:35:21ID:wl/ZpQFb武田騎馬隊を検証する番組で、体高(ちなみに肩の高さ)125cm前後のポニー数頭集めて
155cmの男性に35kgの錘をつけて走らせたら、100〜150mでどの馬も
動かなくなってしまった。
騎馬突撃はムリだったんじゃないか?
という結論だったと記憶している。
当時西洋の馬は平均150cmだったと思うが
0246人間七七四年
2008/06/29(日) 14:02:31ID:KNZvB1x3> 武田騎馬隊を検証する番組で、体高(ちなみに肩の高さ)125cm前後のポニー数頭集めて
> 155cmの男性に35kgの錘をつけて走らせたら、100〜150mでどの馬も
> 動かなくなってしまった。
当たり前だ。どんな種類でも訓練を受けていない馬がいきなりそんなことが出来るか。
きちんと戦闘用の調教を受けて初めて軍馬になる。
0247人間七七四年
2008/06/29(日) 18:29:24ID:BbE5m3rn0248人間七七四年
2008/06/29(日) 19:31:53ID:6dA/Uc6K犬だって訓練しないと警察犬にもなれない
殺し合いの場に突撃させられる馬なんて尚の事だな
0249人間七七四年
2008/06/29(日) 20:10:45ID:bJuciW3a0250人間七七四年
2008/06/29(日) 20:54:46ID:aY486I4b馬の肩の高さ
以外に知らない人が居たりして驚く
0251人間七七四年
2008/06/30(月) 18:21:30ID:rsJ7r96b馬並み
0252人間七七四年
2008/06/30(月) 18:45:52ID:8lwhKIVnその感想を「誠に気を散じ候」(スゲーすっきりした)と手紙に書く。
どんだけだよ・・・
0253人間七七四年
2008/06/30(月) 20:23:03ID:QPU7RMLp0254人間七七四年
2008/07/07(月) 21:35:19ID:VJLWsssRttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org22663.jpg
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org22665.jpg
はい全く似せられませんでした。
0255人間七七四年
2008/07/07(月) 21:36:15ID:VJLWsssR0256人間七七四年
2008/07/08(火) 01:37:48ID:8FLJWusa|彡サッ
0257人間七七四年
2008/07/08(火) 14:36:28ID:gkEsei8Z|彡サッ
0258人間七七四年
2008/07/08(火) 14:48:10ID:+YbUeYI+全兵力における騎馬の割合は北条軍の方が多かった。
各家の着到状の比較で
0259人間七七四年
2008/07/14(月) 10:51:04ID:5QkDK6uy甲斐の虎
でもって、北条氏康は相模の獅子っていうらしいよ。
覇王伝の武将ファイルに載ってた。
一般的かどうか知らん。
0260人間七七四年
2008/07/14(月) 20:54:31ID:JRyxy9rIバルバロッサ作戦当時の、ドイツ軍の戦車は三千輛程だったのに、ソ連は実は一万輛以上持ってたってのと、一緒だ。
0261人間七七四年
2008/07/15(火) 02:38:05ID:AlKY6CLr「国家安康」「君臣豊楽」
実際は、撰文者である文英清韓が、まさに幕府が問題視した内容そのままに、意図的に織り込んだもの。
清韓自身が弁明書で証言していたりする(『摂戦実録』)
0262人間七七四年
2008/07/19(土) 15:51:34ID:ZaVGU0xdそれ、その二つがでかでかと書かれた鐘を想像してたら何百字もびっちり彫り込まれた
文章のうちのたった八文字で噴いた覚えがある
0263人間七七四年
2008/08/27(水) 19:24:24ID:sLDt5gGAみんなトリビアだすんだ!
戦国時代の農民は、搾取されてるイメージがあるが、実は超狂暴な存在。
農閑期にはいくさにアルバイト的にかかわり、敵国の住人を殺戮しまわった。
落武者狩りの凄まじさ
自軍からはぐれた武将が、農家を見つけ水と食べ物を貰う、よくありそうな話だが、実際はありえないらしい。
戦国時代の農民は決してカワイソウナ存在ではなかった。
0264人間七七四年
2008/08/28(木) 21:03:50ID:+uoBmmQtまあ、たくましく生きなきゃいけない時代だしな。
上に立つ大名も選んだとも言われている。
>>258みないのでいいなら、長篠の合戦時、実は信長より家康の方が鉄砲を
持っていた。
0265人間七七四年
2008/08/28(木) 22:38:21ID:G4pZJsX6長篠伝説のせいで変なイメージだけ一人歩きしてるけど。
0266人間七七四年
2008/08/31(日) 02:17:02ID:3jDrzr8R当時から宣伝して、敵を威嚇してたのか・・・
それとも江戸時代か近現代の歴史学者か・・・
疑問は尽きないぜ。
0267人間七七四年
2008/08/31(日) 07:29:36ID:g2CmWx2u銃を使った巧妙な戦術が評価されてるんじゃないのか?
馬防柵は実際あったでしょ
0268人間七七四年
2008/08/31(日) 11:07:01ID:AkpVdDD00269人間七七四年
2008/09/01(月) 04:13:23ID:OqZOmtq7じつはこの「天下」の範囲、畿内周辺に限られたものだった。
その証拠に信長、六角や三好を追い払った時点で、「天下静謐」を宣言している。
0270人間七七四年
2008/09/01(月) 04:50:27ID:t8ppktj7あれ「そうぼり」ってかいてあって
大坂方は「惣堀(外堀のこと)」と解釈して
大阪城の外堀ってほとんど天然の川利用してるし
これはうめられないだろうからいいやっておもったけど
徳川は「総堀(すべての堀)」って解釈できるだろ?ってやって埋めたという
偉大なる神君の知略の勝利って習ったけど違うの?
0271人間七七四年
2008/09/01(月) 06:36:43ID:VhzdzqL7また織田厨の織田信長を美化させるための説か。
「桶狭間の戦いの今川本隊の場所をなんらかの策略で信長は知ってて突撃したんじゃね?」
とかまえ見たが…本当にウザいな織田厨はw
0272人間七七四年
2008/09/01(月) 07:17:54ID:ge1Bfq7lしかも別の話題を持ち出してくる始末
0273人間七七四年
2008/09/01(月) 10:20:18ID:OqZOmtq7最初っから全ての堀を埋めると言う話になってる。
内堀埋めるとき豊臣方も抗議していない、どころか、豊臣方からも工夫出してる。
0278人間七七四年
2008/09/01(月) 17:27:14ID:FkfVs6Cgこういうのをマメに削除していった方がいいと思うなぁ
イスンシンを笑えなくなる
0280人間七七四年
2008/09/01(月) 22:27:00ID:m/JZi8Xj笠谷和比古って、東日流外三郡誌に真作鑑定書出された方ですよね、、、、、
もし本をお持ちなら、その話の根拠になる一次資料書かれているとおもうので、
よければちょっと引用していただけませんか?
0282人間七七四年
2008/09/01(月) 23:19:00ID:jbnpoTV5残念だが、馬防柵は別に鉄砲の為に作ったのではないらしい。
家康が作ったとも言われている。危険地帯にいたのは家康だしね。
つか、勝頼の不可思議な突撃が勝敗の分かれ目で、別に鉄砲で勝ったわけでは
ないんだよね。
信長、家康が攻めていたわけだし、信長の戦術がどうのってわけでもないかと。
と、トレビアスレだったね。
信長の三段構えは有名だが、信長が最初に行ったわけではない。
0284人間七七四年
2008/09/02(火) 01:50:58ID:Tkbq+lxZ信長の三段構えって旧日本軍が応用したって聞いたな
明治陸軍は1発1発装填しないと撃てないからだってさ。
関ヶ原の戦いも研究してたみたいだ。
メッケルていう外人教官は即「イシダサンノカチダヨ」といったらしいが。
0286人間七七四年
2008/09/02(火) 10:54:18ID:6hL/HelI> メッケルていう外人教官は即「イシダサンノカチダヨ」といったらしいが。
それ有名な都市伝説。メッケルにもメッケルに学んだ生徒からも、そんな事を言ったと言う証言は
一切存在しない。
0287人間七七四年
2008/09/02(火) 12:46:00ID:fk3HB0Ij“長篠の戦いでの織田軍の鉄砲三段構え”など
“戦国最強武田騎馬軍団”と同様にとっくの昔に説破された通説であることについて…
こんな通説を信じてる奴がいるとは驚きだ。
0288人間七七四年
2008/09/02(火) 12:49:06ID:6hL/HelI武田騎馬軍団は最近またその存在がきちんと認識されているよ。
敵側が武田の騎馬対を恐れていたことも。
半端な知識で人を馬鹿にすると自分に返ってくるぜ?
0289人間七七四年
2008/09/02(火) 13:39:09ID:crBXjLyk>>287
それっぽい記述が甫庵が初めだっけか
まあ戦国の一次資料には全くみられないね
0290人間七七四年
2008/09/02(火) 17:12:54ID:fk3HB0Ij長篠の戦いの織田軍の三段構えを信じてる奴に
「まーた武田厨の妄想が始まったか」
なんて言われたくないけんについて…
0291人間七七四年
2008/09/02(火) 17:57:45ID:crBXjLyk福富のくだりならそういう説を出してきてるやつもいたなあっていう記憶を辿っただけだけど
しかも「まーた〜」は直前の>288に向けていったんだよ
まあ色々誤解するような書き方してすまん
0293人間七七四年
2008/09/02(火) 22:12:01ID:qB1Bm2gBゴメン。
そう言われるかと思って、資料探したんだけど出てこなかった。
なので、眉唾だと思ったら、信じなくてもいいよ。
ただ、確か西国の方で、西国は鉄砲の扱い方が進んでいたから、なるほどなぁ
と、妙に納得したのを憶えてる。
信長が三段構えを長篠の合戦で使用したっていう記述は確かまだ出てきていな
いよね。
が、信長の凄いところは、
@実際に鉄砲で勝ったわけでは無いが、鉄砲と言う道具を使用した。
A武田に勝った。
この二つの既成事実で、あの恐怖の武田騎馬隊(個人的にはまだあったと信用
してないけども)に新技術の鉄砲で勝ったと宣伝しまくり、信長スゲー!と思
わせた事なんじゃないかと思う。
高天神城戦なんかもそうだよね。
0294人間七七四年
2008/09/03(水) 00:24:23ID:UvbZ8Gkx現在に至るまで人気があるの?
0295人間七七四年
2008/09/03(水) 00:56:47ID:ih8VIv8T確認したが、こういうこと。
1:細川家と浅野家の、国元に送った書状に「講和条件としての堀埋め立ては内堀まで全て」と、明確に
書かれていること。
2:実際に埋め立ての作業をしていた大名のどんな記録にも、内堀の埋め立てに関しての、豊臣家からの
抗議があったと言う記録がないこと(櫓などの破壊についての抗議の記録は残っているのに)
3:巷説に、抗議する間もなくあっという間に埋め立てられたと言われる内堀の埋め立てだが、
実際この埋め立ては、内堀だけで一ヵ月半かかっており、もしこれが講和条件違反なら、その間に
豊臣家から抗議なり妨害なりが無いとおかしい事。(櫓の破壊ではやっている)
さらにいえば、「徳川による講和違反」という説の根拠になっている大阪の陣覚書などは全て、この時代より後世に
書かれたものであり、一次資料ではない。そして一次資料にはこれを講和違反とするものは一つもない。
よって、大阪城の内堀を埋めたのが徳川の謀略と言うのは後世の創作である。
0297人間七七四年
2008/09/04(木) 01:01:02ID:3ZnXfiI5ありがとうございます!
1)は徳川の普請の割り当てだから微妙としても、
2)3)(二の丸の堀を千貫櫓と織田有楽、大野治長の屋敷を壊しでうめた)は確かにそうですよね。
納得しました。
0298人間七七四年
2008/09/05(金) 14:48:16ID:pkMeJIpz承応元年(1652)、近江で、お茶に桑の葉を混ぜて売ると言う食品偽装事件が起こって、茶の価格が下落。
農民が要請して偽装禁止の法律が執行されてたりする。
もう少し時代が下って正徳二年(1717)、今度は特産の柿の偽装事件が発覚。今度も農民側の要請により
これを規制する「柿法度極の事」と言う法律が執行されたりしている。
近世初期になると既に、今の世とあまり変わらないね、と言うお話。
0299人間七七四年
2008/09/06(土) 18:14:01ID:y6tdixCV原田孫七郎が高山国(台湾)に、入貢を促す使者として渡海。
しかし、台湾の原住民族高砂族は統一した政権を持っておらず、入貢させる相手が見つけられないまま、
孫七郎帰国。
0300人間七七四年
2008/09/10(水) 00:08:55ID:q4JQeDWc実は本当に元就と通じていた。
0301人間七七四年
2008/09/10(水) 14:42:02ID:q4JQeDWc0302人間七七四年
2008/09/10(水) 19:15:30ID:q4JQeDWc0303人間七七四年
2008/09/18(木) 18:26:24ID:c1LMZO2f実は信長の前に、足利義教と細川政元もやっている。
京の治安維持上必要があった場合、比叡山などの宗教勢力を攻める事は、
室町幕府の権能の一つとして、認められていたものらしい。
アレを信長の無神論とか政教分離とかにつなげるのは、完全な過大評価であろう。
ついでに信長は、幕府の官職に付かずに天下をコントロールしようとした事など、細川政元の施策を
真似していた節がある。
0304人間七七四年
2008/09/19(金) 11:27:39ID:3vafLjj0実は、「木曽川のほとり」と言う意味の地名。しかも信長以前から呼ばれていた。
0305人間七七四年
2008/09/19(金) 13:30:45ID:0bCN2BLk大坂城で、秀吉が家康と酒宴を行なった時。
秀吉は上機嫌で「この城は誰にも落とせん」と言った。
家康「では殿下でも無理ですか?」
秀吉「わしならすぐ落とせる」
家康「ほう!それはどのようにして?」
秀吉「それはな、・・・・・・・・」
堀を全部生めて丸裸にするのはこの時の話から。
家康は後に大坂の陣に関して「太閤こそ我が師匠だ」と語った。
0307人間七七四年
2008/09/19(金) 19:12:18ID:LcchtUUa0308人間七七四年
2008/09/20(土) 03:13:10ID:xYIlr4zwこの逸話を「藩翰譜」の中で紹介したのは新井白石だが、白石自身このエピソードの最後に、
「本当かねえ?」と書き、真偽を疑っている。
0309人間七七四年
2008/09/21(日) 13:57:36ID:HOt3yzBh当時の一豊の知行は400石=今の金に換算して年収4000万円。
へそくりは約100万円。
事実は貧乏で買えないのではなく、将達の中に混じっても目立つための小道具に苦慮していた一豊に、
ちよがへそくりをプラスして南蛮の時計を買ってあげた。
一豊は馬揃えの日、首から時計を提げて、信長の目を引いた。
0310人間七七四年
2008/09/21(日) 18:58:57ID:yTZbQhDs部下の給与もそこから払うわけだから貧乏ではあったんじゃないの?
0311人間七七四年
2008/09/24(水) 23:10:19ID:5JRZ2Tfl司馬さんが書いちゃったから、この国では事実になるw
0312人間七七四年
2008/09/24(水) 23:13:08ID:mFo7btwR0313人間七七四年
2008/09/24(水) 23:14:58ID:WMcx9BM6一度でいいから、どういう生徒の出ていたどういう授業で発言されたのか、という一次資料を見てみたいものだ。
0314人間七七四年
2008/09/25(木) 20:41:12ID:/nlXNSI8江戸時代は、諸外国から見れば、軍事ミャンマー政府状態(天皇軟禁)
0315人間七七四年
2008/09/26(金) 13:22:19ID:FsAMc6Sm包茎だった
0316人間七七四年
2008/09/26(金) 13:24:02ID:FsAMc6Sm包茎だった
0317人間七七四年
2008/09/26(金) 14:39:50ID:QnRZPqm617歳から戦場で戦い、57歳までの間に40数度の闘いに出て居る。
槍も刀も貸し出し品は一切手にせず、鎌一つで戦ったと記録に有る。鎌一つで一度の戦で7人を殺したとも言われてる。
あまりの残虐性と強さのため武将達から「首切り茂吉」と言われていた。
高禄で召し抱えたいと申し出た織田信長を前に、あさりと断り、年貢を免除して貰いたいと願い出た。
自分の申し出を断られ激怒した信長は斬りかかるも、茂吉は信長相手に蹴りを入れて倒して「やるならやんぞ!!」と
怒鳴りあげたと言われている。
その後信長の領地で唯一年貢を免除された男として首切り茂吉は有名である。
かの秀吉も茂吉を召し抱えようとするも「秋だし狩ろうかな」と言われて引き下がったと言われている。
なぜ茂吉が首切り茂吉と言われるか、その自宅には今まで倒した男達の首が置かれており、その数は500を超えていたと言う。
一体人知れずこの男はどれだけの戦功をあげていたのだろうかと織田家中では伝説的な農民であった。
40数度の戦に出て、生き延びた首切り茂吉。有名ではないがまさに最強であり多数の戦をした男である。
57歳の時、ついに茂吉は関ヶ原にて可児才蔵との激戦の末、首を打たれたと言う。
0318人間七七四年
2008/09/26(金) 16:35:55ID:tfyYMlnqこの名前は、ポルトガル語のムジーカ、つまりミュージックから取った。
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