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戦国時代のトリビア

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/01(火) 13:46:39ID:LOnCX40D
戦国時代に関するトリビアを言っていきましょう。
0202人間七七四年2008/03/29(土) 16:51:05ID:+7AmbPtu
コウで変換したんだろ。
0203人間七七四年2008/04/03(木) 20:22:23ID:qpg664Qc
普通にノブタカで変換したほうが早くね?
0204人間七七四年2008/04/20(日) 02:27:45ID:xKivTTCT
よく戦国武将が〜升の酒を呑んだって文献が在るが昔の日本酒はアルコール度数がビールと同じく5l程度だったので大量に呑めた。
0205人間七七四年2008/04/20(日) 13:51:44ID:RFGIVSaJ
酒にもイロイロある
てかアルコール度数5%でも何升も飲むとか異常だろ
肝機能が相当優れてたのかね?
0206人間七七四年2008/04/20(日) 14:43:05ID:TNPsFdDg
別に日本酒一升くらいオレでも呑める。
次の日を気にしなければだが。
0207人間七七四年2008/04/20(日) 17:35:54ID:RFGIVSaJ
それじゃダメだろw
日本酒は飲みやすいからバンバンのめてしまうが、それだけに飲みすぎてしまいやすいな…
0208人間七七四年2008/04/22(火) 14:06:05ID:5vnjQ2wl
・・・・う〜ん、1から全部見たけど、
>>151 の岡部云々が、というのは関係ないというのが最近の説。
0209人間七七四年2008/04/23(水) 07:29:15ID:Qt41RUrs
肝付良兼に嫁いだ伊東義祐の娘の名前は「高城」
0210人間七七四年2008/04/30(水) 05:25:57ID:PUpSQfXm
日本で誕生日に祝うのを定例化したのは信長ってのは本当?
ナイフとスプーンを信長が愛用していたのは聞いた事あるんだが…
ってここは質問スレじゃないな
0211人間七七四年2008/05/04(日) 20:02:25ID:3fIx8aSz
まぁ、松永がクリスマス休戦してるぐらいだからあるんじゃね?
0212人間七七四年2008/05/05(月) 05:17:51ID:/cEu6dJh
でも松永はキリシタン大嫌いだからな。どちらかというと三好三人衆から持ちかけた気がする
0213人間七七四年2008/05/05(月) 08:57:51ID:LlocksCD
>>176
家康かっこいいw
0214人間七七四年2008/05/05(月) 15:01:14ID:XsmjzxWY
スネ夫やイヤミ、999号の車掌さんの声でおなじみの肝属兼太は、



大隅地方、島津と激戦を繰り広げた戦国武将、肝属氏の嫡流嫡子。
0215人間七七四年2008/05/06(火) 07:11:51ID:3a5PV+wR
>>176
家康に糞の話題はタブーだったんだろうな
0216人間七七四年2008/05/15(木) 21:44:31ID:naph/gXi
>陣中で使用するトイレ

戦国の脱糞公に対して失礼だよなw
神君だったらその場でちびるっつ〜のww
0217人間七七四年2008/05/15(木) 22:52:10ID:I97Qu4Kd
信玄も厠の逸話持ってたな
謙信は言うまでもない
0218人間七七四年2008/06/23(月) 23:07:57ID:1BGQrYxZ
戦国後期から始まった城の天主の建造。
後にも先にもこの天主で実際に生活した城主は安土城の信長だけ。
0219人間七七四年2008/06/23(月) 23:18:56ID:uP+Yco+e
>>188
中馬だったかな。
殿様は最後の最後は切腹するんだから食わんで良い、
守る俺たちが食う、という理屈。
0220人間七七四年2008/06/24(火) 02:27:36ID:8j1gvnxZ
>>210
ナイフとスプーン使って16世紀の日本で何食うの?
味噌汁?タクアン?
0221人間七七四年2008/06/24(火) 02:30:05ID:o9t/Q1oZ
鶏肉や獣肉もたまには食うからそれじゃないかな。

ところで>>219に書いた話は、関ヶ原からの撤退時の話ね。
0222人間七七四年2008/06/25(水) 12:33:04ID:scTxwdL+
糞の話が・・そのついでに

加藤清正は厠に入ると一刻以上出てこなかった

ひどい「ぢ」だった
0223人間七七四年2008/06/25(水) 17:29:11ID:dYxDoz1U
>>196-198
0224人間七七四年2008/06/26(木) 04:13:36ID:wxgvvpFJ
超綺麗好きで高下駄はかないとトイレ行けなかったんでしょ?>加藤
0225人間七七四年2008/06/26(木) 22:02:30ID:EyVhpYDv
毒針で穴だらけになった饅頭を、それと知りつつ食べた清正公。
朝鮮の王子に神様として崇められたりしたな。

熊本のもんはwe love清正だ。

細川?何すかそれ?
ヽ(´ー`)ノ
清正公にお預かりしますとお参りして藩主になった人たちだろ。
0226人間七七四年2008/06/27(金) 02:12:22ID:W8WfjajX
セロリ清正
0227人間七七四年2008/06/27(金) 02:46:25ID:slnpkwQm
従ってカルタゴは滅びなければならない。
0228人間七七四年2008/06/27(金) 06:04:56ID:ZR9fonLg
熊本県民の話題にも上がらぬ宇土の小西哀れ・・・
熊本城の重要史跡の宇土櫓は小西の宇土城のものなのに・・・
よくわからん基準で斬られたし
(石田と安国寺は精軍首脳だから仕方ないとして小西は別に中心でもないし
宇喜多みたいに激闘してるわけでもないしむしろやる気なかったというのに)
朝鮮だって講和にがんっばったのは宗と小西なのに
一方は清正公と神になり小西は墓すら残っていない・・・
0229人間七七四年2008/06/27(金) 11:43:00ID:slfENPHj
>>225
毒針で穴だらけ饅頭の話もうすこし詳しく聞きたい。お願いします
0230人間七七四年2008/06/27(金) 12:28:32ID:RJNaq1Vn
・加藤清正は城に精通していたが、関が原合戦の際
 主力を欠いた小西行景(行長の弟)の守る宇土城を落とせなかった

・しゃぼん玉の名付け親は石田三成

・戦国時代では合戦のとき基本的に馬から降りて戦っていた
0231人間七七四年2008/06/27(金) 12:29:17ID:TE5BNDAs
第1ヒント:Google
第2ヒント:毒まんじゅう wikipedia
0232冬広2008/06/27(金) 13:40:38ID:NkNOCKW3
戦国時代に







火縄銃を使って自殺した武将がいる
0233人間七七四年2008/06/27(金) 15:21:34ID:3eoIqqks
>>232
どうやって?
0234人間七七四年2008/06/27(金) 16:11:42ID:V2hHka87
俺は





















































包茎
02352322008/06/27(金) 17:24:13ID:KrqzIiLY
池田和泉守。
荒木村重の家来で、頭をぶち抜いて自害したんだと。
勇気あるのか、チキンなのかよくわからん武将だなw
0236人間七七四年2008/06/28(土) 11:34:53ID:xUUOVraW
伊達政宗は、健康のため、
規則正しく1日3回、朝昼晩




タバコを吸っていたwwwwww。
0237人間七七四年2008/06/28(土) 11:49:50ID:xUUOVraW
もう2つ

明智光秀は、山崎の合戦の直前、
緊張のあまり、チマキを竹の皮ごと口に入れ
噛み切れないのにも気がつかなかった。


国宝「洛中洛外図」は
信長から謙信に送られたもの。
手取川の合戦以外は、そうとうに親密な関係にあった。

〜おまけ〜
上杉家(謙信時代)の収入源の中で
大きな割合を占めるのは、

港、関所、産物(塩、米など)に付けた

「取引税」

0238人間七七四年2008/06/28(土) 13:44:02ID:tDC6r//j
少なくとも光秀のは創作
しかもそれは本能寺の変の直前であり
皮ごと食ったのもてんぱってたからではなく
はやる気を抑えるためとされている
0239人間七七四年2008/06/28(土) 14:18:47ID:TjSqqWD4
>>234

どんだけぇどんだけぇ
0240人間七七四年2008/06/28(土) 23:21:15ID:l4tiYESM
赤揃えで有名な山県昌景は身長130くらいしかなかった。

戦国でもかなり低い。

0241人間七七四年2008/06/29(日) 00:39:59ID:RzneC1j3
>>240
小学生かよw
でもそんくらいじゃ当時の馬との相性抜群じゃん、
やっぱ武田の騎馬隊はあったかな?
0242人間七七四年2008/06/29(日) 01:39:40ID:/V1y/yZ8
>>241
なかったと主張してるひともいるな。
論文よんだことないが・・・

俺としては、馬で単騎突っ込み大量の銃弾浴びてて落馬、死んだあとも采配を口にくわえたままだった。というエピソードが好きだった。

赤揃えは、後に井伊や真田も影響受けてるから、小さくても戦闘力高いオヤジだった。

0243人間七七四年2008/06/29(日) 11:57:29ID:wl/ZpQFb
フロイスが本国に送った手紙に
「日本では戦う時には馬を下りる。
 日本の馬はほとんどがポニーで、体高120〜130cmほどしかない」
と書かれている。
実際、戦場外れに「馬溜り」というものがあってそこに集められていた。

国産馬は山県昌景にはちょうどピッタリのサイズ。
0244人間七七四年2008/06/29(日) 12:59:11ID:3yHL5f50
>>243
念の為突っ込んでおくと
フロイスは、馬上戦闘の技術と習慣が無い西国武将しか見たことが無い上、
体長120〜130のポニーは一般的な西洋騎士の騎馬と同レベル。
西洋騎士はあの程度の馬でプレートメイルランス突撃できてる。
山県なんて余裕だったはず。
0245人間七七四年2008/06/29(日) 13:35:21ID:wl/ZpQFb
西洋のランスナイトの実態は分からないが、
武田騎馬隊を検証する番組で、体高(ちなみに肩の高さ)125cm前後のポニー数頭集めて
155cmの男性に35kgの錘をつけて走らせたら、100〜150mでどの馬も
動かなくなってしまった。
騎馬突撃はムリだったんじゃないか?
という結論だったと記憶している。
当時西洋の馬は平均150cmだったと思うが
0246人間七七四年2008/06/29(日) 14:02:31ID:KNZvB1x3
>>245
> 武田騎馬隊を検証する番組で、体高(ちなみに肩の高さ)125cm前後のポニー数頭集めて
> 155cmの男性に35kgの錘をつけて走らせたら、100〜150mでどの馬も
> 動かなくなってしまった。

当たり前だ。どんな種類でも訓練を受けていない馬がいきなりそんなことが出来るか。
きちんと戦闘用の調教を受けて初めて軍馬になる。
0247人間七七四年2008/06/29(日) 18:29:24ID:BbE5m3rn
至極真っ当な意見だな
0248人間七七四年2008/06/29(日) 19:31:53ID:6dA/Uc6K
人間も訓練しなくちゃ役に立たないしな
犬だって訓練しないと警察犬にもなれない
殺し合いの場に突撃させられる馬なんて尚の事だな
0249人間七七四年2008/06/29(日) 20:10:45ID:bJuciW3a
そもそも、そのサイズの馬がダメなら「モンゴル帝国なんか存在しなかった」と言い切れるw
0250人間七七四年2008/06/29(日) 20:54:46ID:aY486I4b
馬の体高とは…
馬の肩の高さ

以外に知らない人が居たりして驚く
0251人間七七四年2008/06/30(月) 18:21:30ID:rsJ7r96b
俺のサイズは









馬並み
0252人間七七四年2008/06/30(月) 18:45:52ID:8lwhKIVn
比叡山焼き討ちで5000〜10000人を粛清した信長。

その感想を「誠に気を散じ候」(スゲーすっきりした)と手紙に書く。

どんだけだよ・・・
0253人間七七四年2008/06/30(月) 20:23:03ID:QPU7RMLp
Qさまだと、長篠の戦で武田家が滅亡したことになっている
0254人間七七四年2008/07/07(月) 21:35:19ID:VJLWsssR
箱 -はこ- の女の子                              ではない。
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org22663.jpg

ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org22665.jpg
はい全く似せられませんでした。
0255人間七七四年2008/07/07(月) 21:36:15ID:VJLWsssR
誤爆ったw スマン
0256人間七七四年2008/07/08(火) 01:37:48ID:8FLJWusa
|∀・) ・・・ ニヤニヤ

|彡サッ
0257人間七七四年2008/07/08(火) 14:36:28ID:gkEsei8Z
|∀・) ・・・ ニヤニヤ

|彡サッ
0258人間七七四年2008/07/08(火) 14:48:10ID:+YbUeYI+
騎馬隊で有名な武田軍であるが




全兵力における騎馬の割合は北条軍の方が多かった。

各家の着到状の比較で

0259人間七七四年2008/07/14(月) 10:51:04ID:5QkDK6uy
越後の竜
甲斐の虎
でもって、北条氏康は相模の獅子っていうらしいよ。

覇王伝の武将ファイルに載ってた。

一般的かどうか知らん。
0260人間七七四年2008/07/14(月) 20:54:31ID:JRyxy9rI
まあ、あれだ。
バルバロッサ作戦当時の、ドイツ軍の戦車は三千輛程だったのに、ソ連は実は一万輛以上持ってたってのと、一緒だ。
0261人間七七四年2008/07/15(火) 02:38:05ID:AlKY6CLr
大阪の陣の開戦理由の一つとして上げられ、一般に、徳川によるこじつけ、とされる
「国家安康」「君臣豊楽」


実際は、撰文者である文英清韓が、まさに幕府が問題視した内容そのままに、意図的に織り込んだもの。
清韓自身が弁明書で証言していたりする(『摂戦実録』)
0262人間七七四年2008/07/19(土) 15:51:34ID:ZaVGU0xd
>>261
それ、その二つがでかでかと書かれた鐘を想像してたら何百字もびっちり彫り込まれた
文章のうちのたった八文字で噴いた覚えがある
0263人間七七四年2008/08/27(水) 19:24:24ID:sLDt5gGA
あげるぞー
みんなトリビアだすんだ!

戦国時代の農民は、搾取されてるイメージがあるが、実は超狂暴な存在。

農閑期にはいくさにアルバイト的にかかわり、敵国の住人を殺戮しまわった。

落武者狩りの凄まじさ
自軍からはぐれた武将が、農家を見つけ水と食べ物を貰う、よくありそうな話だが、実際はありえないらしい。

戦国時代の農民は決してカワイソウナ存在ではなかった。
0264人間七七四年2008/08/28(木) 21:03:50ID:+uoBmmQt
>>263
まあ、たくましく生きなきゃいけない時代だしな。
上に立つ大名も選んだとも言われている。

>>258みないのでいいなら、長篠の合戦時、実は信長より家康の方が鉄砲を
持っていた。
0265人間七七四年2008/08/28(木) 22:38:21ID:G4pZJsX6
そういえば信長の軍は他の戦国大名と比べても、銃の保持率が突出して高い、って訳じゃなかったんだよな。
長篠伝説のせいで変なイメージだけ一人歩きしてるけど。
0266人間七七四年2008/08/31(日) 02:17:02ID:3jDrzr8R
その長篠伝説は誰が創ったんだろうか。
当時から宣伝して、敵を威嚇してたのか・・・
それとも江戸時代か近現代の歴史学者か・・・
疑問は尽きないぜ。
0267人間七七四年2008/08/31(日) 07:29:36ID:g2CmWx2u
銃の保持率が評価されてるんじゃなくて、
銃を使った巧妙な戦術が評価されてるんじゃないのか?
馬防柵は実際あったでしょ
0268人間七七四年2008/08/31(日) 11:07:01ID:AkpVdDD0
大阪冬の陣の講和条約。内堀を埋めるのもちゃんと条件に入っていた。豊臣が他も別に抗議していない。
0269人間七七四年2008/09/01(月) 04:13:23ID:OqZOmtq7
信長の有名な「天下布武」

じつはこの「天下」の範囲、畿内周辺に限られたものだった。
その証拠に信長、六角や三好を追い払った時点で、「天下静謐」を宣言している。
0270人間七七四年2008/09/01(月) 04:50:27ID:t8ppktj7
>>268
あれ「そうぼり」ってかいてあって
大坂方は「惣堀(外堀のこと)」と解釈して
大阪城の外堀ってほとんど天然の川利用してるし
これはうめられないだろうからいいやっておもったけど
徳川は「総堀(すべての堀)」って解釈できるだろ?ってやって埋めたという
偉大なる神君の知略の勝利って習ったけど違うの?
0271人間七七四年2008/09/01(月) 06:36:43ID:VhzdzqL7
>>267
また織田厨の織田信長を美化させるための説か。

「桶狭間の戦いの今川本隊の場所をなんらかの策略で信長は知ってて突撃したんじゃね?」
とかまえ見たが…本当にウザいな織田厨はw
0272人間七七四年2008/09/01(月) 07:17:54ID:ge1Bfq7l
レス内容に一切触れずに厨認定
しかも別の話題を持ち出してくる始末
0273人間七七四年2008/09/01(月) 10:20:18ID:OqZOmtq7
>>270
最初っから全ての堀を埋めると言う話になってる。
内堀埋めるとき豊臣方も抗議していない、どころか、豊臣方からも工夫出してる。
0274人間七七四年2008/09/01(月) 12:53:04ID:VhzdzqL7
>>272
>>266-267
0275人間七七四年2008/09/01(月) 12:54:47ID:VhzdzqL7
>>272
間違えた
>>265-267
0276人間七七四年2008/09/01(月) 13:03:37ID:WhldsxV8
>>269
ギャハハw
0277人間七七四年2008/09/01(月) 14:05:14ID:m/JZi8Xj
>>273
堀埋めについては、誓約状に書かれてないし、大阪側の資料も無いと思ったけど……

…元ネタはナニかな?
0278人間七七四年2008/09/01(月) 17:27:14ID:FkfVs6Cg
学校の日本史で今だに「長篠の鉄砲○○丁」とか穴埋め問題させるし
こういうのをマメに削除していった方がいいと思うなぁ
イスンシンを笑えなくなる
0279人間七七四年2008/09/01(月) 17:59:16ID:OqZOmtq7
>>277
吉川弘文堂から出てる、笠谷和比古の「関ヶ原合戦と大坂の陣」に書いてあるよ。
0280人間七七四年2008/09/01(月) 22:27:00ID:m/JZi8Xj
>>279
笠谷和比古って、東日流外三郡誌に真作鑑定書出された方ですよね、、、、、

もし本をお持ちなら、その話の根拠になる一次資料書かれているとおもうので、
よければちょっと引用していただけませんか?
0281人間七七四年2008/09/01(月) 22:58:25ID:OqZOmtq7
>>280
ゴメン、今手元に無い。
0282人間七七四年2008/09/01(月) 23:19:00ID:jbnpoTV5
>>267
残念だが、馬防柵は別に鉄砲の為に作ったのではないらしい。
家康が作ったとも言われている。危険地帯にいたのは家康だしね。
つか、勝頼の不可思議な突撃が勝敗の分かれ目で、別に鉄砲で勝ったわけでは
ないんだよね。
信長、家康が攻めていたわけだし、信長の戦術がどうのってわけでもないかと。

と、トレビアスレだったね。
信長の三段構えは有名だが、信長が最初に行ったわけではない。
0283人間七七四年2008/09/02(火) 00:05:52ID:FC1gL2pJ
>>280
小和田哲男ならまだしも
笠谷先生までブラックホールに足つっこまれたのか('A`)
0284人間七七四年2008/09/02(火) 01:50:58ID:Tkbq+lxZ
>>282
信長の三段構えって旧日本軍が応用したって聞いたな
明治陸軍は1発1発装填しないと撃てないからだってさ。

関ヶ原の戦いも研究してたみたいだ。

メッケルていう外人教官は即「イシダサンノカチダヨ」といったらしいが。
0285人間七七四年2008/09/02(火) 09:45:21ID:crBXjLyk
>>282
誰が最初に行ったの?
信長側近の福富平左衛門尉が考案したって言う説もあったりなかったりしたよね
0286人間七七四年2008/09/02(火) 10:54:18ID:6hL/HelI
>>284
> メッケルていう外人教官は即「イシダサンノカチダヨ」といったらしいが。

それ有名な都市伝説。メッケルにもメッケルに学んだ生徒からも、そんな事を言ったと言う証言は
一切存在しない。
0287人間七七四年2008/09/02(火) 12:46:00ID:fk3HB0Ij
第一に、
“長篠の戦いでの織田軍の鉄砲三段構え”など
“戦国最強武田騎馬軍団”と同様にとっくの昔に説破された通説であることについて…





こんな通説を信じてる奴がいるとは驚きだ。
0288人間七七四年2008/09/02(火) 12:49:06ID:6hL/HelI
>>287
武田騎馬軍団は最近またその存在がきちんと認識されているよ。
敵側が武田の騎馬対を恐れていたことも。

半端な知識で人を馬鹿にすると自分に返ってくるぜ?
0289人間七七四年2008/09/02(火) 13:39:09ID:crBXjLyk
まーた武田厨の妄想が始まったか


>>287
それっぽい記述が甫庵が初めだっけか
まあ戦国の一次資料には全くみられないね
0290人間七七四年2008/09/02(火) 17:12:54ID:fk3HB0Ij
>>289
長篠の戦いの織田軍の三段構えを信じてる奴に

「まーた武田厨の妄想が始まったか」
なんて言われたくないけんについて…
0291人間七七四年2008/09/02(火) 17:57:45ID:crBXjLyk
え?だれが信じてるって?
福富のくだりならそういう説を出してきてるやつもいたなあっていう記憶を辿っただけだけど
しかも「まーた〜」は直前の>288に向けていったんだよ

まあ色々誤解するような書き方してすまん
0292人間七七四年2008/09/02(火) 18:52:45ID:fk3HB0Ij
>>291
勘違いすみません。
我ながら顔真っ赤ですw
0293人間七七四年2008/09/02(火) 22:12:01ID:qB1Bm2gB
>>285
ゴメン。
そう言われるかと思って、資料探したんだけど出てこなかった。
なので、眉唾だと思ったら、信じなくてもいいよ。
ただ、確か西国の方で、西国は鉄砲の扱い方が進んでいたから、なるほどなぁ
と、妙に納得したのを憶えてる。

信長が三段構えを長篠の合戦で使用したっていう記述は確かまだ出てきていな
いよね。
が、信長の凄いところは、
@実際に鉄砲で勝ったわけでは無いが、鉄砲と言う道具を使用した。
A武田に勝った。
この二つの既成事実で、あの恐怖の武田騎馬隊(個人的にはまだあったと信用
してないけども)に新技術の鉄砲で勝ったと宣伝しまくり、信長スゲー!と思
わせた事なんじゃないかと思う。

高天神城戦なんかもそうだよね。
0294人間七七四年2008/09/03(水) 00:24:23ID:UvbZ8Gkx
武田って名門ではあるけれども所詮地方大名の一つなのに何故
現在に至るまで人気があるの?
0295人間七七四年2008/09/03(水) 00:56:47ID:ih8VIv8T
>>280
確認したが、こういうこと。

1:細川家と浅野家の、国元に送った書状に「講和条件としての堀埋め立ては内堀まで全て」と、明確に
書かれていること。

2:実際に埋め立ての作業をしていた大名のどんな記録にも、内堀の埋め立てに関しての、豊臣家からの
抗議があったと言う記録がないこと(櫓などの破壊についての抗議の記録は残っているのに)

3:巷説に、抗議する間もなくあっという間に埋め立てられたと言われる内堀の埋め立てだが、
実際この埋め立ては、内堀だけで一ヵ月半かかっており、もしこれが講和条件違反なら、その間に
豊臣家から抗議なり妨害なりが無いとおかしい事。(櫓の破壊ではやっている)

さらにいえば、「徳川による講和違反」という説の根拠になっている大阪の陣覚書などは全て、この時代より後世に
書かれたものであり、一次資料ではない。そして一次資料にはこれを講和違反とするものは一つもない。

よって、大阪城の内堀を埋めたのが徳川の謀略と言うのは後世の創作である。
0296人間七七四年2008/09/03(水) 05:53:19ID:pEdV/L5/
へー勉強になった
>>280ではないが、感謝感謝
0297人間七七四年2008/09/04(木) 01:01:02ID:3ZnXfiI5
>>295
ありがとうございます!

1)は徳川の普請の割り当てだから微妙としても、
2)3)(二の丸の堀を千貫櫓と織田有楽、大野治長の屋敷を壊しでうめた)は確かにそうですよね。

納得しました。
0298人間七七四年2008/09/05(金) 14:48:16ID:pkMeJIpz
戦国のちょっと後の話だが…

承応元年(1652)、近江で、お茶に桑の葉を混ぜて売ると言う食品偽装事件が起こって、茶の価格が下落。
農民が要請して偽装禁止の法律が執行されてたりする。

もう少し時代が下って正徳二年(1717)、今度は特産の柿の偽装事件が発覚。今度も農民側の要請により
これを規制する「柿法度極の事」と言う法律が執行されたりしている。

近世初期になると既に、今の世とあまり変わらないね、と言うお話。
0299人間七七四年2008/09/06(土) 18:14:01ID:y6tdixCV
文禄二年(1594)

原田孫七郎が高山国(台湾)に、入貢を促す使者として渡海。
しかし、台湾の原住民族高砂族は統一した政権を持っておらず、入貢させる相手が見つけられないまま、
孫七郎帰国。
0300人間七七四年2008/09/10(水) 00:08:55ID:q4JQeDWc
毛利元就の謀略により、内通の噂を流され、陶晴賢に殺されたとされる江良房栄。



実は本当に元就と通じていた。
0301人間七七四年2008/09/10(水) 14:42:02ID:q4JQeDWc
江戸期の越前では、まとまらない会議を、「小田原評定」のような形で、朝倉義景から、「義景相談」と言った
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