戦国時代のトリビア
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/01(火) 13:46:39ID:LOnCX40D0177人間七七四年
2007/08/06(月) 23:01:13ID:odp+jxZb身長:190cm、体重:160kgの、贅肉ボブサップだった。
(かまぼこ大好きっ子で、その体格から馬にも乗れず刀も脇の肉がジャマで振れなかったとか)
0178人間七七四年
2007/08/07(火) 02:33:03ID:4Er9vHGm伊達政宗の子孫である
0179人間七七四年
2007/09/08(土) 17:31:57ID:tb4/au3A0180人間七七四年
2007/10/09(火) 22:14:38ID:TtmNCgL/0181人間七七四年
2007/10/10(水) 15:07:02ID:oGz26LwK0182人間七七四年
2007/10/24(水) 00:32:23ID:olxgSGeyいなかった
0183人間七七四年
2007/10/24(水) 00:33:12ID:AJTjMvEt0184人間七七四年
2007/10/24(水) 17:08:58ID:6egYcRS5石田三成の子孫。
三成の曾々孫あたりが、徳川家光の側室のお振の方。
そのお振の方の娘が尾張の二代藩主に嫁いで三人ぐらい男子つくってる。
その男子の家系が宗春まで続いてる。
0185人間七七四年
2008/03/02(日) 22:36:41ID:1feLO3ae0186人間七七四年
2008/03/10(月) 14:58:48ID:20xA8Yqm0187ちゅ
2008/03/10(月) 15:57:31ID:JdQvM4H2天然痘にかかっていた
0188人間七七四年
2008/03/10(月) 16:51:45ID:PvZXHJUjどゆこと?
0189人間七七四年
2008/03/13(木) 10:47:27ID:r+LZEtb9=在日チョン
0190人間七七四年
2008/03/13(木) 14:16:38ID:lM4zEBjM自分の息子に自分の父親の名をつけた
0191人間七七四年
2008/03/24(月) 22:05:11ID:bbzwMt2S信長が死んだとき、息子の信秀はまだ12歳だから元服前じゃないの?
0192人間七七四年
2008/03/25(火) 15:50:20ID:WlQCmdDe0193人間七七四年
2008/03/25(火) 19:41:10ID:C0emtpmw氏康の祖父は早雲であるが、その妹である北川殿が今川氏親を産み、氏親の3男として義元が生まれたため。
0194人間七七四年
2008/03/25(火) 23:15:57ID:oVcLz95x有名だけど対になる話なので。一応補足すれば伊達政宗とめごを名付けたのは同じ人。
0195人間七七四年
2008/03/26(水) 23:44:33ID:nhuyoo54羽柴秀頼と毛利秀頼(後者が豊臣姓を拝領したため)
0196人間七七四年
2008/03/27(木) 10:32:37ID:+eKqKjD8信長の息子は信忠では?
0198人間七七四年
2008/03/27(木) 14:34:29ID:I/yvtilZ0199人間七七四年
2008/03/27(木) 15:25:01ID:AedZ0sYX0200人間七七四年
2008/03/27(木) 16:04:36ID:AedZ0sYX0202人間七七四年
2008/03/29(土) 16:51:05ID:+7AmbPtu0203人間七七四年
2008/04/03(木) 20:22:23ID:qpg664Qc0204人間七七四年
2008/04/20(日) 02:27:45ID:xKivTTCT0205人間七七四年
2008/04/20(日) 13:51:44ID:RFGIVSaJてかアルコール度数5%でも何升も飲むとか異常だろ
肝機能が相当優れてたのかね?
0206人間七七四年
2008/04/20(日) 14:43:05ID:TNPsFdDg次の日を気にしなければだが。
0207人間七七四年
2008/04/20(日) 17:35:54ID:RFGIVSaJ日本酒は飲みやすいからバンバンのめてしまうが、それだけに飲みすぎてしまいやすいな…
0209人間七七四年
2008/04/23(水) 07:29:15ID:Qt41RUrs0210人間七七四年
2008/04/30(水) 05:25:57ID:PUpSQfXmナイフとスプーンを信長が愛用していたのは聞いた事あるんだが…
ってここは質問スレじゃないな
0211人間七七四年
2008/05/04(日) 20:02:25ID:3fIx8aSz0212人間七七四年
2008/05/05(月) 05:17:51ID:/cEu6dJh0214人間七七四年
2008/05/05(月) 15:01:14ID:XsmjzxWY大隅地方、島津と激戦を繰り広げた戦国武将、肝属氏の嫡流嫡子。
0216人間七七四年
2008/05/15(木) 21:44:31ID:naph/gXi戦国の脱糞公に対して失礼だよなw
神君だったらその場でちびるっつ〜のww
0217人間七七四年
2008/05/15(木) 22:52:10ID:I97Qu4Kd謙信は言うまでもない
0218人間七七四年
2008/06/23(月) 23:07:57ID:1BGQrYxZ後にも先にもこの天主で実際に生活した城主は安土城の信長だけ。
0220人間七七四年
2008/06/24(火) 02:27:36ID:8j1gvnxZナイフとスプーン使って16世紀の日本で何食うの?
味噌汁?タクアン?
0222人間七七四年
2008/06/25(水) 12:33:04ID:scTxwdL+加藤清正は厠に入ると一刻以上出てこなかった
ひどい「ぢ」だった
0224人間七七四年
2008/06/26(木) 04:13:36ID:wxgvvpFJ0225人間七七四年
2008/06/26(木) 22:02:30ID:EyVhpYDv朝鮮の王子に神様として崇められたりしたな。
熊本のもんはwe love清正だ。
細川?何すかそれ?
ヽ(´ー`)ノ
清正公にお預かりしますとお参りして藩主になった人たちだろ。
0226人間七七四年
2008/06/27(金) 02:12:22ID:W8WfjajX0227人間七七四年
2008/06/27(金) 02:46:25ID:slnpkwQm0228人間七七四年
2008/06/27(金) 06:04:56ID:ZR9fonLg熊本城の重要史跡の宇土櫓は小西の宇土城のものなのに・・・
よくわからん基準で斬られたし
(石田と安国寺は精軍首脳だから仕方ないとして小西は別に中心でもないし
宇喜多みたいに激闘してるわけでもないしむしろやる気なかったというのに)
朝鮮だって講和にがんっばったのは宗と小西なのに
一方は清正公と神になり小西は墓すら残っていない・・・
0229人間七七四年
2008/06/27(金) 11:43:00ID:slfENPHj毒針で穴だらけ饅頭の話もうすこし詳しく聞きたい。お願いします
0230人間七七四年
2008/06/27(金) 12:28:32ID:RJNaq1Vn主力を欠いた小西行景(行長の弟)の守る宇土城を落とせなかった
・しゃぼん玉の名付け親は石田三成
・戦国時代では合戦のとき基本的に馬から降りて戦っていた
0231人間七七四年
2008/06/27(金) 12:29:17ID:TE5BNDAs第2ヒント:毒まんじゅう wikipedia
0232冬広
2008/06/27(金) 13:40:38ID:NkNOCKW3火縄銃を使って自殺した武将がいる
0234人間七七四年
2008/06/27(金) 16:11:42ID:V2hHka87包茎
0235232
2008/06/27(金) 17:24:13ID:KrqzIiLY荒木村重の家来で、頭をぶち抜いて自害したんだと。
勇気あるのか、チキンなのかよくわからん武将だなw
0236人間七七四年
2008/06/28(土) 11:34:53ID:xUUOVraW規則正しく1日3回、朝昼晩
タバコを吸っていたwwwwww。
0237人間七七四年
2008/06/28(土) 11:49:50ID:xUUOVraW明智光秀は、山崎の合戦の直前、
緊張のあまり、チマキを竹の皮ごと口に入れ
噛み切れないのにも気がつかなかった。
国宝「洛中洛外図」は
信長から謙信に送られたもの。
手取川の合戦以外は、そうとうに親密な関係にあった。
〜おまけ〜
上杉家(謙信時代)の収入源の中で
大きな割合を占めるのは、
港、関所、産物(塩、米など)に付けた
「取引税」
0238人間七七四年
2008/06/28(土) 13:44:02ID:tDC6r//jしかもそれは本能寺の変の直前であり
皮ごと食ったのもてんぱってたからではなく
はやる気を抑えるためとされている
0239人間七七四年
2008/06/28(土) 14:18:47ID:TjSqqWD4どんだけぇどんだけぇ
0240人間七七四年
2008/06/28(土) 23:21:15ID:l4tiYESM戦国でもかなり低い。
0242人間七七四年
2008/06/29(日) 01:39:40ID:/V1y/yZ8なかったと主張してるひともいるな。
論文よんだことないが・・・
俺としては、馬で単騎突っ込み大量の銃弾浴びてて落馬、死んだあとも采配を口にくわえたままだった。というエピソードが好きだった。
赤揃えは、後に井伊や真田も影響受けてるから、小さくても戦闘力高いオヤジだった。
0243人間七七四年
2008/06/29(日) 11:57:29ID:wl/ZpQFb「日本では戦う時には馬を下りる。
日本の馬はほとんどがポニーで、体高120〜130cmほどしかない」
と書かれている。
実際、戦場外れに「馬溜り」というものがあってそこに集められていた。
国産馬は山県昌景にはちょうどピッタリのサイズ。
0244人間七七四年
2008/06/29(日) 12:59:11ID:3yHL5f50念の為突っ込んでおくと
フロイスは、馬上戦闘の技術と習慣が無い西国武将しか見たことが無い上、
体長120〜130のポニーは一般的な西洋騎士の騎馬と同レベル。
西洋騎士はあの程度の馬でプレートメイルランス突撃できてる。
山県なんて余裕だったはず。
0245人間七七四年
2008/06/29(日) 13:35:21ID:wl/ZpQFb武田騎馬隊を検証する番組で、体高(ちなみに肩の高さ)125cm前後のポニー数頭集めて
155cmの男性に35kgの錘をつけて走らせたら、100〜150mでどの馬も
動かなくなってしまった。
騎馬突撃はムリだったんじゃないか?
という結論だったと記憶している。
当時西洋の馬は平均150cmだったと思うが
0246人間七七四年
2008/06/29(日) 14:02:31ID:KNZvB1x3> 武田騎馬隊を検証する番組で、体高(ちなみに肩の高さ)125cm前後のポニー数頭集めて
> 155cmの男性に35kgの錘をつけて走らせたら、100〜150mでどの馬も
> 動かなくなってしまった。
当たり前だ。どんな種類でも訓練を受けていない馬がいきなりそんなことが出来るか。
きちんと戦闘用の調教を受けて初めて軍馬になる。
0247人間七七四年
2008/06/29(日) 18:29:24ID:BbE5m3rn0248人間七七四年
2008/06/29(日) 19:31:53ID:6dA/Uc6K犬だって訓練しないと警察犬にもなれない
殺し合いの場に突撃させられる馬なんて尚の事だな
0249人間七七四年
2008/06/29(日) 20:10:45ID:bJuciW3a0250人間七七四年
2008/06/29(日) 20:54:46ID:aY486I4b馬の肩の高さ
以外に知らない人が居たりして驚く
0251人間七七四年
2008/06/30(月) 18:21:30ID:rsJ7r96b馬並み
0252人間七七四年
2008/06/30(月) 18:45:52ID:8lwhKIVnその感想を「誠に気を散じ候」(スゲーすっきりした)と手紙に書く。
どんだけだよ・・・
0253人間七七四年
2008/06/30(月) 20:23:03ID:QPU7RMLp0254人間七七四年
2008/07/07(月) 21:35:19ID:VJLWsssRttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org22663.jpg
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org22665.jpg
はい全く似せられませんでした。
0255人間七七四年
2008/07/07(月) 21:36:15ID:VJLWsssR0256人間七七四年
2008/07/08(火) 01:37:48ID:8FLJWusa|彡サッ
0257人間七七四年
2008/07/08(火) 14:36:28ID:gkEsei8Z|彡サッ
0258人間七七四年
2008/07/08(火) 14:48:10ID:+YbUeYI+全兵力における騎馬の割合は北条軍の方が多かった。
各家の着到状の比較で
0259人間七七四年
2008/07/14(月) 10:51:04ID:5QkDK6uy甲斐の虎
でもって、北条氏康は相模の獅子っていうらしいよ。
覇王伝の武将ファイルに載ってた。
一般的かどうか知らん。
0260人間七七四年
2008/07/14(月) 20:54:31ID:JRyxy9rIバルバロッサ作戦当時の、ドイツ軍の戦車は三千輛程だったのに、ソ連は実は一万輛以上持ってたってのと、一緒だ。
0261人間七七四年
2008/07/15(火) 02:38:05ID:AlKY6CLr「国家安康」「君臣豊楽」
実際は、撰文者である文英清韓が、まさに幕府が問題視した内容そのままに、意図的に織り込んだもの。
清韓自身が弁明書で証言していたりする(『摂戦実録』)
0262人間七七四年
2008/07/19(土) 15:51:34ID:ZaVGU0xdそれ、その二つがでかでかと書かれた鐘を想像してたら何百字もびっちり彫り込まれた
文章のうちのたった八文字で噴いた覚えがある
0263人間七七四年
2008/08/27(水) 19:24:24ID:sLDt5gGAみんなトリビアだすんだ!
戦国時代の農民は、搾取されてるイメージがあるが、実は超狂暴な存在。
農閑期にはいくさにアルバイト的にかかわり、敵国の住人を殺戮しまわった。
落武者狩りの凄まじさ
自軍からはぐれた武将が、農家を見つけ水と食べ物を貰う、よくありそうな話だが、実際はありえないらしい。
戦国時代の農民は決してカワイソウナ存在ではなかった。
0264人間七七四年
2008/08/28(木) 21:03:50ID:+uoBmmQtまあ、たくましく生きなきゃいけない時代だしな。
上に立つ大名も選んだとも言われている。
>>258みないのでいいなら、長篠の合戦時、実は信長より家康の方が鉄砲を
持っていた。
0265人間七七四年
2008/08/28(木) 22:38:21ID:G4pZJsX6長篠伝説のせいで変なイメージだけ一人歩きしてるけど。
0266人間七七四年
2008/08/31(日) 02:17:02ID:3jDrzr8R当時から宣伝して、敵を威嚇してたのか・・・
それとも江戸時代か近現代の歴史学者か・・・
疑問は尽きないぜ。
0267人間七七四年
2008/08/31(日) 07:29:36ID:g2CmWx2u銃を使った巧妙な戦術が評価されてるんじゃないのか?
馬防柵は実際あったでしょ
0268人間七七四年
2008/08/31(日) 11:07:01ID:AkpVdDD00269人間七七四年
2008/09/01(月) 04:13:23ID:OqZOmtq7じつはこの「天下」の範囲、畿内周辺に限られたものだった。
その証拠に信長、六角や三好を追い払った時点で、「天下静謐」を宣言している。
0270人間七七四年
2008/09/01(月) 04:50:27ID:t8ppktj7あれ「そうぼり」ってかいてあって
大坂方は「惣堀(外堀のこと)」と解釈して
大阪城の外堀ってほとんど天然の川利用してるし
これはうめられないだろうからいいやっておもったけど
徳川は「総堀(すべての堀)」って解釈できるだろ?ってやって埋めたという
偉大なる神君の知略の勝利って習ったけど違うの?
0271人間七七四年
2008/09/01(月) 06:36:43ID:VhzdzqL7また織田厨の織田信長を美化させるための説か。
「桶狭間の戦いの今川本隊の場所をなんらかの策略で信長は知ってて突撃したんじゃね?」
とかまえ見たが…本当にウザいな織田厨はw
0272人間七七四年
2008/09/01(月) 07:17:54ID:ge1Bfq7lしかも別の話題を持ち出してくる始末
0273人間七七四年
2008/09/01(月) 10:20:18ID:OqZOmtq7最初っから全ての堀を埋めると言う話になってる。
内堀埋めるとき豊臣方も抗議していない、どころか、豊臣方からも工夫出してる。
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