信玄最後の戦「三方ヶ原の戦い」
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 06:13:10ID:V43UXblr0095人間七七四年
2007/03/10(土) 23:06:22ID:Cho3MqRs信玄の三方が原も、同じ目的であったのじゃないかと推測する
つまり本当は家康ばかりでなく信長も誘ったんだろうが
信長は出てこなかったのじゃないのかな…
0096人間七七四年
2007/03/11(日) 01:25:24ID:6bGTOvxQいや
単に織田との決戦を希求するだけってんなら 中仙道ルートで直接美濃を襲えば良いわけで。
信玄が望んでいたのは、あくまでも織田・徳川の各個撃破。
織田勢主力の行動が制限されている間に、徳川を屈服させちまおうというのが狙いだろ。
もし徳川領に侵攻し織田勢をおびき出して云々なんて考えていたとしたら、
その場合信玄は己の考えを後悔したに違いないよ
信長が出てくるとしたら、武田勢に確実に勝てるだけの数−おそらく濃尾で総動員かけて、軽く4万はそろえてくるだろうからな
また、そんだけの数を三河に投入しても大丈夫な戦略的情勢にならん限り、信長は三河の後詰には赴かんだろうよ
0098人間七七四年
2007/03/11(日) 01:38:27ID:gxa9Qvfz普通は篭城だろう
そしてどこかの城を囲んで織田と徳川が出てくるのを待つ
つまり長篠の戦と同じ作戦を取るつもりじゃなかったのかな
その軍師(真田?)がまんま長篠の戦の指揮も執った
0099人間七七四年
2007/03/11(日) 01:45:26ID:6bGTOvxQアレは、単に城攻めて落としきれず 何かの理由で撤収もできずに後詰決戦に持ち込まれてボロ負けしたってだけの話
もしも、本当に誘い出し図ってたとするなら、1万5千なんて中途半端な数で出てくるわけがない
その程度の数で織田徳川合同軍と決戦して勝てると思ってたとしたら、そりゃ作戦立てた奴が無能としか言いようがない
0100人間七七四年
2007/03/11(日) 01:54:46ID:gxa9Qvfzんなことはないだろう、ふつう、一ヶ月も落せないなんてことはないぞ、きっと
それに長篠城を見張る砦を三つも作ってる
0101人間七七四年
2007/03/11(日) 02:05:27ID:gxa9Qvfz奥平某、きっとそれ以後の歴史に燦然たる名前を成しただろうぜ
0102人間七七四年
2007/03/11(日) 02:11:42ID:6bGTOvxQいやまぁ、別にわざと落とさず誘いかけてたっつーのを強いて否定するつもりはないけどな
もしそうなら武田家臣団は揃いも揃って無謀系の無能揃いとしか言いようがなくなるだけで
なお、真田幸隆は長篠時既に死んでるし三方ヶ原には参陣してねぇ。
0103人間七七四年
2007/03/11(日) 02:25:09ID:6bGTOvxQ1575(天正3)年5月
6・7日 武田勝頼、吉田城(豊橋市)に追って小ぜりあい。
8日 武田勝頼(1万5千)が長篠城(奥平貞昌5百)を囲み攻撃開始。
10日 大手門付近で戦闘、城兵が門外へ突出。
11日 豊川対岸の武田軍、筏で野牛郭を攻撃。城兵も多数死傷するが撃退。
12日 武田軍、本丸西隅に横穴を掘り侵入、城兵は逆襲して退ける。
13日 武田軍は瓢郭を攻撃。夜、瓢の兵は本丸に引き上げ。大手門方面に武田軍が建てた望楼を城兵が銃撃で破壊。
14日 武田軍の総攻撃を城兵が死守。鳥居強右衛門が奥平貞昌の命を受けて脱出。
15日 鳥居強右衛門が岡崎に到着し家康に言上。織田信長も岡崎に到着。
16日 鳥居強右衛門は武田軍に捕われ、城中へ援軍到来を告げて磔にされる。
18日 織田・徳川軍、設楽原に到着し、陣地を構築。
19日 武田軍は軍議。勝頼は諸将の諫言を容れず、設楽原の敵陣攻撃を決定。
20日 武田本隊は城の包囲を解き設楽原へ。徳川軍酒井隊が鳶が巣方面へ。
21日 設楽原で激突。勝頼は多くの将士を失い残兵に守られて敗走。
(長篠城址史跡保存館パンフレットより)
っつーかだ。防戦期間は実質一週間程度だろう。一ヶ月なんてどっから出てきた?
>102
で 立役者たる奥平信昌のその後
信の字は長篠における戦功を信長に祝されて与えられたもの
家康の長女を娶る
徳川の関東移封時には上野に3万石を与えられる(家中で十指に入る厚遇)
後年に初代京都所司代 美濃小幡に10万石を領する堂々たる大名にまで出世
0104人間七七四年
2007/03/11(日) 02:26:30ID:gxa9Qvfzだとすると生殺しにして援軍の要請をさせて、それを撃つのが目的だと判る
幸隆は死んでいるのか、でも長男次男は長篠の戦で討ち死にしているから
どちらかが軍師役じゃなかったのかなぁ…それ以外に誰かいる? 勘助はいないしw
0105人間七七四年
2007/03/11(日) 02:36:37ID:gxa9Qvfzで合戦が五月二十一日、ちょうどひと月
0106人間七七四年
2007/03/11(日) 02:43:38ID:gxa9Qvfz家康をつついているんだろう
0107人間七七四年
2007/03/11(日) 23:36:11ID:fjcwpMCU0108人間七七四年
2007/03/24(土) 11:41:52ID:L/VeG+Sbそれが本当なら明智城のときも高天神城の時も、
信長の援軍が来る前に城を落したりしていないと思いますが。
0109人間七七四年
2007/04/02(月) 06:36:54ID:NTb8cj6/信長自身が切り捨てたとも言われてる、形だけの出陣で、
打って変わって幾内とかには、そのまま猛烈に進撃してるしな。
0110人間七七四年
2007/04/02(月) 06:50:18ID:NTb8cj6/高天神城側の降伏を拒否して、武田本体釣りだそうとしてる。
その時は、武田本体は来たけど、対陣しただけで退却したな。
兵数では武田が倍近くいたにもかかわらず。
それで高天神城兵は打って出て玉砕、山県遺臣は全滅。
0111人間七七四年
2007/05/06(日) 17:44:04ID:ASY6ZRTh0112人間七七四年
2007/05/07(月) 20:34:10ID:vrJei3i4北条からも援軍を得ていたようです。
これに対して、織田信長は好機と思っていたようです。
尾張、美濃まで深く誘い込んで、補給路を遮断し、武田軍を殲滅する計画を立てていたようです。
摂津に三好、近江に浅井朝倉がいる現状では、必然的に大軍を東海に差し向けることはできません。
当時、織田家が恥も外聞もかなぐり捨てて、伊勢も尾張も近江も捨てる気になれば、美濃に六万から七万の兵を集ることが可能であったようです。
徳川が壊滅させられることがあっても、絶対に織田信長は武田に勝つ自信があったようです。
信長は武田がかなり無理をして進軍していると推測していたようです。
尾張、美濃で織田軍と戦うのに、遠々江や三河の徳川と本気で武田が戦うはずがないと信長は考えていたようです。
そのため、徳川家康に対して、「絶対に城から出るな。」「武田は絶対に家康のいる城を攻めない」と指示を出していたようです。
それでも、徳川家康には、信長の意図が理解できず、
「織田が援軍を出してくれないなら、武田に寝返る。」とまで言って援軍を要請したようです。
これに対して、織田は、精鋭水野軍を主力として、佐久間信盛、滝川一益、平手汎秀、水野信元が派遣されたようです。
援軍の中では、水野信元が織田信長の説明する戦略の意図をもっとも理解しており、
徳川家康に対して、再三にわたり、篭城すること、決して武田には攻めかからないことを約束させます。
しかし、血気盛んな徳川の兵は城を抜け出し、何度も進軍中の武田軍にちょっかいをかけたので、
ついに一言坂で武田軍と徳川軍が小競り合いを起してしまいます。
徳川方は枯野に放火して、かろうじて逃げ延びますが、この戦いに激怒した水野信元は徳川家康を叱責したようです。
0113人間七七四年
2007/05/07(月) 20:35:43ID:vrJei3i4その動きを見た水野信元は、益々、武田が徳川軍を無視して進軍すると見て、再度、家康に対して、部下に対して、武田軍を挑発しないよう、厳命します。
徳川家康はこれを承諾し、家来に対して、弓矢や鉄砲を射掛けないよう命令を下します。
しかし、これに納得しない徳川の家臣たちは、哨戒、偵察と言っては度々浜松城を抜け出し、武田の隊列に石を投げたようです。
この時の徳川の兵は主に三河衆であったようです。
武田側は徳川の石投げを無視して行軍していたようですが、何度か、徳川方の投げた石が武田の兵に当り、それを見て徳川方がはしゃぐので、
武田の兵も怒り、徳川方に石を投げ返したようです。
そして、しだいに石投げが激化し武田方が弓を射掛けてきたようです。
これが徳川の兵に当り、死亡したので、徳川方が激昂し、鉄砲を撃ったようです。
そうして、上官の命令なしに、またもや、偶発的に戦いが始まってしまいます。
しかし、今回は、徳川の将たちは水野信元に叱責されたことが面白くなかったのか、撤退命令を出さず、次第に戦いが拡大していきます。
「何をやっているのか!たわけが!」その報を聞いた水野信元は怒鳴ります。
それに大して徳川の将たちが「仮にも一軍の将に対してたわけとは何事か!」と刀を抜いて詰め寄ります。
そこに徳川家康が割って入り、徳川の将をなだめます。
そして、水野信元に対して
「このわしが自ら出陣して、兵を引かせますゆえ、なにとぞ、与力賜わりませ。」と水野信元に協力を要請します。
これに対して、水野信元は渋々承諾します。
0114人間七七四年
2007/05/07(月) 20:37:41ID:vrJei3i4徳川本隊が出てきたのをみた武田信玄は部隊に反転を命じ、一気に徳川本隊に突撃し、乱戦になります。
前衛での徳川と武田が乱戦になったのを見て、水野信元はため息をつき、
奇麗に隊列を組んで、整然と撤退し、戦わずして浜松城に引き返してしまいます。
主力の水野軍が撤退するのを見て、佐久間信盛は立ち止まって撤退していく水野軍を見ます。
そして、徳川とともに突撃していく平手汎秀を見ます。
そして、また水野軍を見ます。
水野軍はどんどん小さくなっていきます。
「どないしますんや、水野、逃げてやんすで!」
滝川一益が佐久間信盛に近づいてきて怒鳴る。
佐久間信盛が硬直しているのをみて、滝川一益は平手汎秀に続いた。
しかし、すぐに徳川の前衛が崩れて逃げ出したので、滝川、平手も撤退を開始。
しかし、平手は後頭部に矢が刺さって馬から落馬し、佐久間信盛の前のほうで絶命した。
佐久間信盛はそれをみて「ああああああ、ああ」と声を上げて、馬に乗って撤退を開始した。
それを見て佐久間の兵たちも、「逃げろー!」と声を上げてラバラバに逃げ出した。
途中、逃げる佐久間に向かってくる武者たちがいる。
「佐久間殿、ここは我らに任せ、お逃げなさいませ!」
その武者たちに一目して、「任せた!」と叫び、佐久間信盛は逃げた。
この武者たちこそ、桶狭間の戦いで一番乗りした、長谷川橋介、 佐脇藤八、山口飛騨守、加藤弥三郎であった。
彼らは槍を振りかざして突撃してくる武田の軍勢の中に土煙とともに消えていった。
0115人間七七四年
2007/05/07(月) 20:40:14ID:vrJei3i4そういって家康は城の中に入っていった。
「なんとなされるぞ、この様は。」
先に帰っていた水野信元がそう詰問するが、家康はそれを無視して、「たいげ」独り言を言って水野の前を通り過ぎた。
「へぼいの」水野が吐きすてるように言うと、家康は立ち止まり、水野を睨むが、
そのまま無言で奥の部屋に入っていき、土まみれ、鎧を着たまま布団にもぐりこんだ。
しかし、眠れないのか、絵師を呼び、椅子に腰掛け、自分の絵を絵師に描かせた。
その間中、家康は歯を食いしばり、ずっと貧乏ゆすりをしていたようだ。
少し気分がおちついたのか、「腹がへった。」と言って湯づけを食べて、服を着替えてそのまま布団に入って寝てしまった。
その間にも、水野信元は大量の松明にを浜松城の窓ごしにかかげ、その窓からわざと大量の鉄砲を突き出し、
武田側から、城に大量の鉄砲があることを誇示した。
武田側の哨戒は、先に水野軍が整列して撤退しているのを見ていて、武田信玄に対して
「徳川本隊は戦わずして、整列して城に帰りました。」と報告した。
この情報と、浜松城から見える大量の鉄砲の銃口の情報の報告を総合的に考えて、
武田信玄は、これが徳川家康の罠と考え、これ以上、浜松城を攻めなかった。
というより、織田信長が以前より言っていたとおり、武田はここで兵力を消耗するつもりはなかった。
予定通りの行動だった。
0116人間七七四年
2007/05/12(土) 09:53:15ID:5vb7x5KD0117人間七七四年
2007/05/23(水) 16:34:54ID:IumdsKz9それが伝統なのだよ
0118人間七七四年
2007/05/25(金) 23:51:37ID:FAbnQfZt0119人間七七四年
2007/05/26(土) 00:02:42ID:Z39ZH6cI伊勢、近江、尾張を捨ててどうやって美濃に6〜7万もの戦力を
集めるんだよ。
0120人間七七四年
2007/05/26(土) 00:13:55ID:iDucg7P60121人間七七四年
2007/05/26(土) 01:33:21ID:E3VCitC+[家康は信長の意図が理解できず]理解してたが自国領を敵に平然と通られる事は武士として最もはずべき行為、として出陣したのだが。まぁたてまえだろうが
【伊勢、近江、尾張を捨てて6万の兵を用意可能】どうやって?
【血気盛んな徳川軍の兵がたびたびちょっかい】出陣命令を出したのは家康の狸なんだが
【徳川勢が武田勢に石を投げ込む】逆なんだが
などなど
間違い多すぎて指摘すりのも疲れる
0122人間七七四年
2007/05/26(土) 11:47:03ID:XM1LGUlz信玄もそれを知っていて素通りするフリを見せたのじゃないの?
0123人間七七四年
2007/05/26(土) 12:03:39ID:iDucg7P60124人間七七四年
2007/05/26(土) 14:06:14ID:S5Vq0hHe0125人間七七四年
2007/05/26(土) 15:00:45ID:iDucg7P61573年3月15日、馬場700にて岐阜侵攻。
織田10000を敗る。
このとき信長は「後ろも見ずに岐阜に逃げ帰った。(甲陽軍鑑)」
甲陽軍鑑にこんな記述あったか?
0126人間七七四年
2007/05/26(土) 16:16:59ID:iDucg7P60127人間七七四年
2007/06/01(金) 18:28:16ID:4CFT9qZe0128人間七七四年
2007/06/16(土) 07:08:05ID:ceyGl30Q三方ヶ原古戦場までは帰りの電車の都合で行けなかったが
大久保忠世らが野営する武田勢に夜襲を仕掛けて崖したに多数の武田兵を
突き落としたと言われる犀ヶ崖古戦場には行けた。少々道に迷いながら
歩いていたら偶然たどり着いたんだが。ボコボコにされた徳川勢意地の一撃と
いうところか。敷地内には本多忠真(忠勝の叔父)、数十メートル離れた場所には
夏目吉信の討ち死にの碑などもある。それにしても浜松城まで近い。
1qあるかどうかというところだろう。そんな至近距離まで攻め込まれた訳だ。
長文失礼。
0129人間七七四年
2007/06/16(土) 22:08:29ID:ITWL+Rm30130人間七七四年
2007/07/27(金) 22:34:04ID:gaBdwZLyhttp://puka-world.com/php/upload/puka/img-box/1184981314875.jpg
銭取跡
http://puka-world.com/php/upload/puka/img-box/1185542227069.jpg
0131人間七七四年
2007/07/27(金) 22:46:36ID:peXGqDX9これひどすぎwww
嘘しかない笑
0132名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 03:54:27ID:SBmA3qZe0133人間七七四年
2007/07/31(火) 00:35:31ID:oTVfJoBZ戦国時代って結構近距離で争っているからねー
それと同じころ浅井は小谷城から1キロあるかないかのところに
砦築かれていたりするし
0134人間七七四年
2007/08/08(水) 19:35:51ID:acOVxLCi0135人間七七四年
2007/09/08(土) 22:20:38ID:tb4/au3A0136人間七七四年
2007/10/29(月) 17:23:35ID:4/EO4VP90137人間七七四年
2008/02/19(火) 18:42:55ID:7vOCSaJG0138人間七七四年
2008/02/19(火) 19:51:18ID:1OhyKB/1m9(^ω^)きんもーっ☆
0139人間七七四年
2008/02/19(火) 21:51:58ID:/BXHgq3h0140人間七七四年
2008/02/19(火) 22:24:55ID:+CNuAHcx0141人間七七四年
2008/03/24(月) 03:13:37ID:FMk3TVsV0142人間七七四年
2008/03/25(火) 21:56:31ID:fX/McUpW0143人間七七四年
2008/03/25(火) 21:57:36ID:fX/McUpW0144人間七七四年
2008/03/25(火) 22:07:15ID:msm9xHnv家康は元祖スカトロマニアだからね
0145人間七七四年
2008/03/26(水) 02:07:08ID:x80i5cJP■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています