>>816
上杉だけでなく、本願寺が加賀の国人へ宛てた感状まで残ってるから
両軍の衝突は疑いようが無いと思うけどね

死者数も歴代古案の書状内容が示す通り、相当多かったように感じる
手取川の後、柴田の縁戚が越前一向宗に討たれるが、
これは供の者を手取川で数多く失い、柴田軍そのものが損耗していた結果では
一族を討たれるにしては、あまりにもタイミングが合い過ぎてるし
それまでの柴田軍にしてはあっけない

信長があれだけの陣容を七尾城へ派遣したという意図は
能登における織田勢力(長一族)の保持
出来れば能登で謙信を食い止めたい、最悪加賀へは入国させたくない、って証拠だよね

その防衛ラインは大きく後退して
しかも手取川の合戦によって、謙信に加賀一向宗を取り込まれ、これを被官化され、
加賀南部も大荒れ、越前北庄にまで迫る勢いを謙信に与えてしまった

それに播磨戦線で活躍するメンバーと手取川のメンバーは相当被ってる
再び謙信が加賀に現れる事を思えば「遠くでなにやってんだあいつら」どころじゃない
中国征伐が崩壊しかねない状況に信長は負い込まれてる