【上杉】手取川合戦【織田】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 02:37:37ID:P6BVucuIhttp://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1149761323/l50
前々スレ
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1141658067/
合戦の真否や規模について、引き続き検証していきましょう。
合戦を伝えるとされる謙信の書状[歴代古案89・越佐史料5-397=抜粋]
当陣之模様無心元候間、内々以飛脚可申候処、此表仕置執紛令延引候、
如啓先書ニ、当月十五、遊佐美濃守守年来以奏者之好令忠信、彼之讒輪ヘ
当手可引入由申候間、何蕨も不入愚入乗移、一日も不抱候、七尾城主ニ候
長対馬一類一族百余人討捕、実城乗取、其外温井備中・三宅備後・内藤王・
平以下身命計相扶、七尾存分之尽ニ入事ニ、同十七、号末森与地モ入手ニ、
是者 賀・能之間之地ニ候間、源五殿、斎藤龍置、当国一変ニ申付候処ニ、
是を信長一向ニ不知、十八、賀州湊川迄取越、数万騎陣取候所ニ、両越・能之諸軍勢
為先勢差遣、謙信事も直馬候処ニ、信長、謙信後詰迄聞届候哉、当月二十三夜中ニ令敗北候処ニ、
乗押付、千余人討捕、残者共悉河ヘ追籠候ケル、折節洪水張故、無瀬、人馬不残押流候、(後略)
天正五年九月二十九日
0021名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 05:57:20ID:NlC5ZOep謙信死後のことだろ。
謙信がいるかいないかで、上杉軍が勝ったり負けたりするのは、
むしろ謙信の力がいかに大きかったかの証拠だろ。
0022名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 10:36:12ID:uzDp78mQべつに思うとか思わないとかはどうでもいいよ。
手取川で織田が壊走した史実の精度が知りたいのであって。
それに、信長死後の織田軍の崩壊ぶり(森の遁走・河尻の頓死・滝川の敗走)
をみると、平素からの織田勢の弱さも傍証されるわけで、その直前まで越中魚津城
で玉砕するまで戦った謙信「手飼之者」は強兵だと「思う」がね。
0023名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 11:32:24ID:xEAR3bVE玉砕したら敗北しようが強兵って何て旧日本軍的なw
ってこれは過大評価スレ行きの話題か
0024名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 11:41:55ID:AqOCro4y「伝説」ほどは「たいした事ない」よ。
0025名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 14:20:59ID:uzDp78mQ前々スレの上杉方の「勝利宣言」より
929 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/21(金) 15:37:11
次スレ立てるまでもなく、決定だな。
軍神上杉謙信が織田勢を撃破した手取川の合戦は、定説どおり史実だったと。
「公記」の記述にしたがうなら、手取川を越えた勝家傘下の織田勢は
ほうぼうに火を放ちながら富樫(金沢)まで進軍。ここで七尾城陥落を知り、
撤退を決断するも謙信に追撃される。夜間、手取川を渡河中を急襲され、
少なくとも1000名以内の兵が討ち取られ、あるいは追い込まれて川に流された。
命からがら逃れた織田勢は、手取川の南10キロにある御幸塚の城砦を普請し、
周囲の田畑から作物を運び入れて篭城体勢に入った。さいわいにも謙信の渡河追撃が
なかったので、10月はじめには城代を配置して帰国。
これに対する具体的な反論なし。
0026名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 16:31:01ID:I8eSUGcp実際の戦績において最終的に敗退した川中島の善戦ぐらいしか「凄さを示す戦い」が出てこないから言われてしまったのでは
何かもっと戦績は無いわけ?
0027名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 17:14:22ID:uzDp78mQ裏づけ史料はないが「関八州古戦録」に、
北条氏政(3万)に包囲された唐沢山城(佐野昌綱)救援にわずか40騎で
赴き、その夜叉羅刹ぶりを恐れた北条軍が手出しをできないまま謙信の入城を
許す。というのがある。当然、その後越後・関東連合軍が北条軍を退散させ、
小田原まで追撃。もう少しのところで北条軍は壊滅するところだった。
こんな武勇伝ならゴロゴロしてるよ。手取川合戦では、越前まで攻め込んだことに
なってるしね。まぁ、謀反や留守中に狙われた以外は越後侵犯をいっさいゆるして
ないってところは、評価に値するんじゃないの。
0028名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 17:24:52ID:XqFgHSRC信州、関州、加州に攻め入って、
川中島では信玄に肉薄し副将信繁を討ち取って、
小田原城を囲んでは頼朝以来の名門鎌倉八幡で関東管領就任式を挙行して、
はては手取川では織田軍を蹴散らした、
酒と戦さにゃ強いが、義理には弱い、謙信公。
↑こんだけで、だいぶ凄いと思うぞ。
なおかつ、死んだ段階で軍資金たっぷり。
0029名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/23(日) 00:04:50ID:9hO6NVKT0030名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/23(日) 00:28:44ID:6M5/n2PE0031名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/23(日) 00:29:15ID:6M5/n2PE0032名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/23(日) 22:51:14ID:qXBv8ewg0033名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/23(日) 22:55:29ID:bNSFF24jだいじょうぶ、議論の軸心は保存済み。
前々スレも。
0034名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/24(月) 21:06:46ID:mBikeDG8公記って信長公記だよね
0035名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/24(月) 21:51:52ID:w+eZpwYzそうだよ、「信長公記」(天正五年・柴田勝家北国に相働くの事)
「湊川越、阿多賀、富樫ニ放火シ」(安宅や富樫に放火し)の段。
訳書はいろいろと多いが、勝家配下の織田勢が右往左往しながら富樫(現金沢市)
まで行軍し、謙信配下の越中・加賀(一向宗)勢に追い払われて手取川を撤退していたところ、
謙信が越後・能登勢を率いて追撃して1000を殲滅。残りは河に流されたという顛末だ。
京都で松永久秀の子息が惨殺される光景を描写していた太田牛一が伝聞でも書けなかった織田の惨敗
反論があれば、よろしこ。www
0036名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/24(月) 22:21:50ID:mBikeDG8おけーわかった
織田はハナから撤退なのに急に上杉が突いてきたのね
わずか50にも満たず決着着くとは…あとどうするんだ
手取フィッシュランドでも語るか
0037名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/24(月) 22:26:36ID:w+eZpwYz悪いが、織田が逃げ腰のところを謙信が突いた説、すでに2スレを消費しての決着だ。
爾後、御希望の質問には過去スレの議論から詳細に(双方の主張を含めて)返答しまつ。
これにて、一件落着? スマソ・・・orz
0038名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/24(月) 22:58:22ID:yFUEQgOh0039名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/24(月) 23:30:27ID:xQtdbURa上杉が強いんじゃなくて、一向一揆が強いってことでは……
0040名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/24(月) 23:52:49ID:w+eZpwYzま、その時期には一向宗の加賀・越中の諸武将も謙信の配下だからね。
越中諸将のほかに瑞泉寺・勝輿寺門下の衆徒も、謙信の「苗字尽し」(関東動員令)にあるし。
その(関東動員令・別に仁科文書)意味では、謙信にとって信長は「単なる敗軍」
と思えたらしいようだな・・・。
0041名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/25(火) 00:40:04ID:GdQnTttDまともにやり合ってもないのに…(´・ω・`)
0042名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/25(火) 00:44:22ID:aG5gTzYhおまいの質問は、よくワカラソ。
具体性がない弱点は、おそらく自分でもわかるとおり、衆目にも明白だな。
0043名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/25(火) 11:33:45ID:MeVK8EdA0044名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/26(水) 12:07:38ID:YtRj3opD大群で押し寄せれば、城攻めをあきらめて帰るだろうと。
・・・・で、結論が出てスレ終了、でいいのかな?
0045名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/29(土) 18:27:23ID:A0Wf4kf50046名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/30(日) 03:26:12ID:T6fzJVFl0047名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/30(日) 05:10:32ID:IQJOqUpC0048名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/30(日) 13:23:14ID:rN8VYGy/不意打ちなのに織田軍惨敗って…なんかカワイソス…じゃね?
0049名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/30(日) 15:12:46ID:z2p2mEmu上杉兵「うるせぇ、氏ねや!」
織田兵「もう七尾城取ったんだろ? 尾張でいんじゃね?」
上杉兵「ばぁろー! これから合戦じゃ」
織田兵「うぎゃあ・・・」
上杉兵「よぇえなぁー、織田って。ゲラ輪ロス!」
0050名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/30(日) 16:53:48ID:rGt9onkZ織田方の名ある人物は誰も死んでないんだけどね。
0051あぼーん
NGNG0052名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/01(火) 01:29:40ID:8vAdF/Ru川に流されて、名前も残らなかった織田の将兵。あまりにもカワイソす・・・。
「信長公記」の著者も、奮戦の様子を書いてくれなかったし・・・。
0053名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 09:53:58ID:lSjrF6Auそう考えるよりは
合戦自体が小規模なものだったか、
死んだのは雑兵程度だったと考えるべきだが。
名ある人物が死んだのなら、必ず記録が残るだろうが。
0054名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 17:21:55ID:PfMFNI4j上杉氏の例でも、永禄9年の臼井城の戦いでは、北条氏の複数の史料(書状)
に「輝虎(謙信)が数千の死者を出して敗退」とあるが、死者の氏名はない。
長尾景長の書状に「昼夜を問わず攻めているので、落城は必至」とあるから
合戦そのものは確実な史実で、上杉方が関東の武士に発給した感状も残ってる。
名のある人物が死ななかった(記録にない)からといって、この時の上杉の大敗を
疑問視する史学者がいないのと同様に、手取り川での織田氏の敗戦も否定できない。
それが文献史学の原則だよ。
0055名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/06(日) 22:09:38ID:Gt45L8KH桶狭間の義元も休憩中に襲われたのに「桶狭間の戦い」だから、奇襲戦ってことじゃない?
0056名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/07(月) 15:54:33ID:HAxga73mつか、津本は謙信もマンセーしてるからか。
どっちつかずの無節操・・・・。
0057名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/07(月) 17:45:13ID:AQuMu8tW休憩中に襲われた云々も今では古い説なんですよ……
最近の信長関連本を探すかネットでちょっと調べてみて
0058名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/14(月) 22:07:37ID:ukjteF6D夜間戦闘だったからか??
0059名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/14(月) 22:13:18ID:Ol0ZDqpQ殴られただけで手を出さなかったからケンカしてないよってかい?w
0060名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 20:07:39ID:EA2gFxtv背後から追撃されたらそりゃ相手の方が兵力が少なくとも負ける。
明治の軍人だったかな。
「戦いで一番高揚するのは一方的な追撃戦。だって殺し放題」
というようなことを言っていたなあ。
0061名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 23:49:02ID:C/9wh//x謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
0062名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 18:39:49ID:a5+9kJmjプッ
0063名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/26(土) 11:10:58ID:rOCNlbYJなら「背水の陣」(韓信)だな。
決戦を覚悟で背水の陣を敷いたが、惨敗しちゃったってところか。
0064名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/27(日) 01:28:53ID:9+OPXtlh0065名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/27(日) 19:44:12ID:2rG170yz0066名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/28(月) 03:45:48ID:We+BJ+Tnただ、負けた織田に大打撃を与えたほどの戦というわけでは無かった
て感じじゃないか?
0067名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/28(月) 04:27:18ID:WcHHX9ti戦闘の勝ち負けは、そのまま戦争の勝ち負けではない。
むしろ、謙信急死後の後継者争いの余波とはいえ、
その後、能登、越中を簡単に失い、失地回復が出来なかった点について、焦点を当てるべき。
上杉の外征における「戦争」の弱さと、
織田系武将のしたたかさが浮き彫りになる。
はっきり言って、織田勢にとって、多少兵士の損害が多くても、それを率いる将が逃げおおせれば、
その撤退戦は成功なのである。仮に「戦闘」で大敗しようとも。
なぜなら、大将さえ生きていればすぐにでも新たな兵を動員して勝つまで再戦を繰り返し、
一度勝てばその勝利の戦果を最大限に得るから、それまでに「戦闘」でいくら敗れようと、
最後に勝てばオーライなわけである。
0068名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/28(月) 10:44:04ID:xQtnz3+e0069名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/28(月) 13:24:38ID:Ej0MUoZD>その後、能登、越中を簡単に失い、
越中・能登・加賀(手取川以東)平定が天正5年9月。
柴田勝家の加賀侵攻は天正8年、越中魚津城は天正10年6月(本能寺の変)
まで陥落せず。が史実なんだが。つまり、上杉が真っ二つに割れ、越後が内戦状態にもかかわらず、
織田(嫡流)は北陸から上杉を駆逐できないまま滅んだ。
>最後に勝てばオーライなわけである
織田嫡流は最後に滅び、上杉嫡流が現在も存続。
0070名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/28(月) 15:04:39ID:We+BJ+Tn謙信死後のゴタゴタはかなり長引いているし、その流れの中で新発田重家の謀反など
越後はガタガタの状態なのを考慮して、支配して間もない能登、加賀を制圧はさほど
難しくなかったのは事実。ただ、すんなりどちらかへの家督継承が成功したとしたら、
そんなに簡単に能登などは取れなかったのでは?
0071名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 00:55:06ID:d6aa5yNZあなた、かなり意図的に事象を省いているでしょう。
越後国内が二つに割れた内乱はかなり短期に終結しているのだが。
その後の余波というか残党の掃討や新たな新発田氏の反乱などはあるが、これは
景勝の戦後処理の問題。
で、魚津城が落ちたのは言うとおり天正10年だが、能登は長連龍が、越中は神保
氏張が織田勢力として戦い、天正8年には能登全域、越中の東部を除いた地域が織田
領となっている。その後富山城が越中の豪族に奪われるという失態もあったが。
問題は、この織田の動きに景勝が全く動いていないということ。
ああそれと、天正6年の月岡野の戦いについても少し調べたほうがいいと思うぞ。
0072名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 11:56:36ID:9ZD8HHQm>越後国内が二つに割れた内乱はかなり短期に終結しているのだが。
御館の乱=天正6年3月に勃発〜天正7年3月(上杉景虎自害)〜天正8年7月中郡の栖吉長尾衆を鎮圧
足掛け3年以上にわたって内戦が続いていたということだ。
>その後の余波というか残党の掃討や新たな新発田氏の反乱などはあるが、
>これは景勝の戦後処理の問題。
新発田重家の謀反は天正9年4月(上杉年譜・新潟県史武田勝頼条書)。
これは御館の乱の戦後処理ではなく、織田信長による調略。
>織田の動きに景勝が全く動いていないということ。
越中方面は河田長親(信長が内応を誘うも拒否)と鯵沢長実・須田満親らだから、
景勝が出馬する必要はないだろ。上記のとおり、越後が内戦状態なわけだし。
0073名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 00:44:07ID:spRtfdZf松永の謀反なんて七尾のあとだし、長島もケリが付いてたのに。
やっぱ、謙信が怖かったのかな?
0074名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 01:51:11ID:5BOAnJfp0075名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 11:12:38ID:zZxFxAf8重要性緊急性に応じて自らの出馬を決める。
むしろ陣頭にたたないことが珍しい。
だから謙信が怖いとか怖くないとかは関係なく、自ら出馬する段階ではない、という現状認識だったんだろ。
0076名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 01:04:24ID:WrS5o/Uq0077名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 01:58:30ID:0P58QTXg0078名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 07:05:11ID:ZPaQmUcO権大僧正=毘沙門天の生まれ変わり
にゃ敵わんというか、恐れて逃げるだろうよ。
0079名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 07:55:01ID:ure+XZU7第六天=欲界の最上層。
毘沙門天=欲界の最下層。
じゃなかったか?
0080名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 14:55:24ID:1DVMi62y毘沙門天=多聞天(北方の軍神・商いの神様)
0081名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 21:24:45ID:K8uxeLa2そうだけど第六天の方が天界より上位。
0082名無しさん
2006/09/07(木) 16:07:40ID:GbDHCq7i0083名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 17:43:40ID:ow8GsgEhおまえらはいつまで意地を張るのか。
0084名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 17:54:31ID:EZ1ZwZX30085名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 18:26:57ID:Ja8wjwXL織田家の加賀平定はなかなか進んでいなかったから、深入りすれば敵地で戦うことになる。
上杉の戦略は一向一揆に織田の進出を阻止させている間に北条を潰す。
織田包囲網ができていたように、上杉包囲網も続いていたしね。
0086名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 14:14:57ID:W7VyeiaZ0087名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 15:54:48ID:fvqOEcBw「公記」には、作物を刈り取って御坊塚城に籠城したとある。
籠城してるんだから、支配下とはいえんだろうな。
いっぽう、上杉系の書状・軍令状には「能登・加賀・越前の過半がわが手に入った」
とある。「越前の過半」はさすがに一向宗徒がいるということだろうが。
0088名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 23:56:02ID:tbxFWo/T篭城してるから支配下でないって意味がわからん。敵地で篭城なんて全滅降服
ルートじゃないか。
0089名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 19:36:14ID:/XzPKDhGじゃあ、かりに支配下だったとして、
なんで作物を刈り取って篭城なんてするんだろう?
やっぱ、支配下じゃねんじゃね??
0090名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 07:20:34ID:zco9H/DP0091名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 04:12:52ID:qBkRrOY70092名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 20:42:27ID:VfsVT/U/0093名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 16:37:16ID:L2+tHf1p刈るというのはやっているぞ。
0094名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 01:13:37ID:vg0wp76c謙信の主力がいったん帰国したから、すぐには攻め立てられないだろうが、
織田としては籠城(作物を刈り取る)することで、一向宗の攻囲に耐えようとしたんじゃねいか?
0095名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 15:28:45ID:DjAdYhotすくなくとも、小田川が互角以上に戦ったとか、合戦事態がなかったとか、それこそ、もっと根拠のない話である。
だが、こうも思うのだ。
上杉側は、にもかかわらず、最終的には北陸への影響力を失い、
柴田に代表される小田勢に押し込まれることになった。
手取川で上杉勢が大勝したと言えば言うほど、
その後に織田勢に北陸戦線のイニシアチブをとられたこととのコントラストが
明確に浮かび上がってしまうのだ。
上杉の領国支配がずさんではなかったのか?
領土的野心が無いのではなく、合戦に強くても領土を維持するだけの統治能力に欠けていたのではないか?
結果、関東でも信州でも戦線はどんどん後退し、
そして、越中や能登への影響力もごく短期間で失われたのは、そこに原因があるのではないか、と。
手取川は、まさに、「あだ花」ではなかったか?
0097名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 19:19:01ID:tNp3ahGi謙信死後の御館の乱は
本能寺後の甲信越方面織田軍団の崩壊に比べるとわかりやすい。
森が川中島四郡から遁走し、甲斐の川尻は頓死、滝川も北条に一蹴され、
命からがら尾張に逃げ帰る。越中の柴田も戦わずに壊走。
それに比べて、上杉勢はじょじょに後退しているものの、
謙信死後4年間にわたって越中の拠点を維持。統治の問題じゃないだろ。
純粋に軍事的な後退。
0098名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 21:19:07ID:eXoaSYDF本能寺後の東国情勢についてはそれこそ統治の問題ではないだろう。
なにせ統治を始めて半年もたっていない。
0099名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 21:23:28ID:tNp3ahGi御館の乱で越後に引き上げてるのに、なんで柴田は天正8年まで
加賀に攻め込めてないのかが疑問。
0100名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 21:54:00ID:cQ9A339Z0101名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 12:28:26ID:5Xpe+Cod一軍の司令官としては無能。
統治能力はあったがな。
0102名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 18:39:46ID:FA2CxOw6しかし約一世紀もの間、一揆もちの国だった加賀で、そうした手段がどれほど可能だっただろうか。
0103名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 18:40:23ID:FA2CxOw6冗談ですよね?w
0104名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 00:57:27ID:UOER+anH確執はどうだったのかね? 通説では、上杉との矢面に立たされそうになった
秀吉が必死こいて逃げる口実に喧嘩を吹っかけた?
0105名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 14:18:51ID:6sAgBD3P織田軍団の中でも最大の兵力と与力を与えられて、謙信存命中は手も足もでず
謙信死後、加賀平定、能登、越中に侵攻。
信長の仇討ちを格下の秀吉に先取りされた挙句、時勢を読めず秀吉と対立し
好き勝手に秀吉に調略されるにまかせた上、劣勢のまま退陣し、配下部将の掌握もできず、
秀吉に惨敗した。
0106名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 14:58:57ID:c57bEk8O0107名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 21:00:14ID:OoLz4hx0謙信死後も織田は上杉に太刀打ちできなかった可能性がありそうやね。
0108名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 22:42:26ID:UOER+anH太刀打ちできないどころか・・・、上杉文書にある謙信と勝頼の密約(義昭御内書)、
景虎に関東管領職を禅譲して北条と再同盟(井上鋭雄説)なら、関東甲信越の大軍勢で
畿内を蹂躙(織田滅亡・足利幕府再興)もありえたんじゃね? その構想を六角堯定が
画策していた説も最近では有力だし。
0109名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 22:55:53ID:OoLz4hx0信玄も謙信もみんな信長に都合のいい時に死んでるよなあ。
弟や北畠氏の事もあるし、妄想が止まらないよ。
0110名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 23:00:24ID:UOER+anH残念ながら、史料なし。本能寺の変(信長虐殺計画)の明智文書(天正10年6月・景勝宛)
ぐらいの信憑性があれば、けっこう面白いんだが。
0111名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 23:15:47ID:0DNj/DiM謙信存命中に手や足をだしたら馬鹿でしょ。
北陸がどれだけむずかしいかわかるのか。
クソ小説秀吉厨がw
0112名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 23:50:33ID:lUSDEgDJ0113名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/19(火) 00:18:01ID:UTj5ceTl一級史料とされる「信長公記」も、しょせんは二次史料(編纂軍記書)www
一次史料を優先が文献史学の原則、つ・・・。
>>110
『覚上公御書集』に残されている河隅忠清書状ね?
「須田相模守方より食使うの者罷り越し、才覚申す分は、明智の所より魚津まで吏者
指し越し、御当方無二の御馳走申し上ぐべき由、申す事候と承り候、実儀候はば、定て須
田方より直ニ吏ヲ上げ申さるべき候……」
訳文「須田満親から来た召使の者が言うには、明智光秀から魚津まで使者が来て、
上杉家においても最大限の協力をするべきだとのことです。
これが本当のことなら、須田から直に使者を送るようにさせましょう」
この書状が6月2日付けだから、光秀が5月中旬には上杉方に使者を
発したというのがミソ。魚津城が本能寺の翌日まで持ちこたえたのも
光秀からの「信長を殺すんで、そちらもよろしこ」があったからとされる
一次史料、とされている。この史料をそう考えると、柴田勝家のモタモタぶりが
情けないねぇ。勝家の北陸でのモタモタが信長暗殺計画を成就させたともいえる
わけで。けっきょく、織田の北陸平定戦が信長の首を絞めたともいえる。
スレタイにもどれば、手取り川合戦こそが織田滅亡の引き金?
0114名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/19(火) 11:11:47ID:IewiWHsh北陸出兵が信長、特に柴田にとっては仇になったんだろうかね。
ナポレオンのロシア侵攻とかと一緒。
0115名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/27(金) 19:31:56ID:3zfcY4wY0116名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/28(土) 01:10:00ID:mvavdkBg六角尭定って、六角義弼(義治)のことでおk?
0117名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/28(土) 20:16:07ID:9heZ0DXthttp://blog.sasakitoru.com/200504/article_20.html/
0118名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/29(日) 01:52:41ID:Y7FS8kaW本体は無事だったてことじゃないの?
その後大幅な組織改正とか聞かないし。
0119名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/30(月) 13:26:00ID:Wf0rgn1c一揆衆>>>>>>>(超えられない壁)>>>>>>>上杉
0120名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/30(月) 14:34:45ID:JZA5M6+o■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています