【上杉】手取川合戦【織田】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 02:37:37ID:P6BVucuIhttp://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1149761323/l50
前々スレ
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1141658067/
合戦の真否や規模について、引き続き検証していきましょう。
合戦を伝えるとされる謙信の書状[歴代古案89・越佐史料5-397=抜粋]
当陣之模様無心元候間、内々以飛脚可申候処、此表仕置執紛令延引候、
如啓先書ニ、当月十五、遊佐美濃守守年来以奏者之好令忠信、彼之讒輪ヘ
当手可引入由申候間、何蕨も不入愚入乗移、一日も不抱候、七尾城主ニ候
長対馬一類一族百余人討捕、実城乗取、其外温井備中・三宅備後・内藤王・
平以下身命計相扶、七尾存分之尽ニ入事ニ、同十七、号末森与地モ入手ニ、
是者 賀・能之間之地ニ候間、源五殿、斎藤龍置、当国一変ニ申付候処ニ、
是を信長一向ニ不知、十八、賀州湊川迄取越、数万騎陣取候所ニ、両越・能之諸軍勢
為先勢差遣、謙信事も直馬候処ニ、信長、謙信後詰迄聞届候哉、当月二十三夜中ニ令敗北候処ニ、
乗押付、千余人討捕、残者共悉河ヘ追籠候ケル、折節洪水張故、無瀬、人馬不残押流候、(後略)
天正五年九月二十九日
0002名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 02:41:58ID:P6BVucuIこちらの合戦の状況を知りたいとのことで、内々に使者を寄越されましたが、
こちらは戦が長引いています。先に使わした書状(9月15日付の北条高広父子宛)
のとおり、今月十五日に遊佐美濃守の年来の忠義もあって、わが軍を城内に引き入れる
ことに成功し、わずか一日で七尾城を制圧し、城主の長対馬ら一族百余人を討取り、
本丸を占拠しました。温井備中、三宅備後、内藤ら畠山家臣の命は助けました。七尾城
が手に入りましたので、十七日に末森城を攻めてここも入手しました。末森城は加賀と
能登の国境にある城です。源五殿(山浦国清)と斎藤龍(朝信)をここに置き、能登を
わが分国に変えることを申し付けましたが、信長は一向にこれを知らない様子で、
十八日に加賀湊川(手取川)まで来ました。数万騎の軍勢が陣取っているところに、
越後・越中・能登の諸軍勢を先陣として差し向け、私も馬に乗って出撃したところ、
信長も私の後詰を知ったらしい。二十三日の夜中に敗走しているところを追撃し、
千人余を討取り、残る者たちはことごとく川へ追い込みました。ちょうど洪水で川は
水かさが高く、立っている浅瀬もないので、人馬が押し流され何も残らない有様でした。
(このあと、信長は意外に弱かったよ。この分なら上洛も簡単だよ。二十六日に七尾城の普請を
はじめたが、ここから眺める七尾湾の風景は素晴らしいよ。などとつづく)
天正五年九月二十九日
※文中の9月15日付の書状にも、加賀で織田勢が敗北した記述がある。
0003名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 03:46:43ID:BlNgUoa20004名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 04:39:20ID:zb2GuJkF0005名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 06:37:58ID:P6BVucuI>織田勢の人数は諸説ある。
>「数万騎陣取候」(謙信書状)
>「兵四万八千に」(北越軍記・武田三代軍記・日本外史)
>柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、斎藤新五、氏家直通、
>安藤守就、稲葉一鉄、不破光治、前田利家、佐々成政、原長頼、
>金森長近および若狭衆
>こいつらは、何人動員できるのだ?
>そのメンバーで、単独で一万の軍勢を持てたのは柴田と羽柴のみ。丹羽、滝川は
>当時はまだ遊撃軍。前田や佐々はもともと柴田軍としてカウント。
>そしてこの時期の信長と信忠は北陸には軍を出していない。
>最大限見積もっても三万超えるかってところかね。羽柴軍離脱後はさらに激減。
※上杉軍は書状原文(関東衆は不参加)から考えて
>両越・能之諸軍勢
越後・越中・能登の合計で2万5千〜3万程度?
0006名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 06:46:34ID:uQoYMef+手取川以北と以南で勢力を分け合ったまま
本当にあったか怪しい合戦だけど、あったとしても意義が薄い
謙信が織田軍に勝った!という宣伝効果ぐらいしか(それも信長本人に勝ったわけではない。信長がいたという誤伝があるようだが…)
0007名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 06:54:59ID:P6BVucuI・織田信長にとっては、(柴田の)加賀侵攻が天正8年まで(3年)遅れる。
・松永久秀が謙信再上洛を見越して信貴山蜂起。
・織田軍では、秀吉が無断離脱(以後の謀反を誘発した説・秋山駿氏)
・越中魚津城陥落は天正10年6月(本能寺の変の翌日)で、結果的に織田軍は越後国境に近づけず。
こんなところか?
0008名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 09:44:51ID:r1AJijJjその後の織田軍の侵攻速度に、大きな差がある。
謙信死亡−本能寺の変までの期間で、
織田軍が越後まで侵攻できなかったので、
手取川合戦は戦略的には大きな意義があったと考えられる。
0009名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 11:04:35ID:UODMP0h+0010名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 16:26:55ID:qbmmhAekなぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が、「歴代古案」に収録されている
謙信の書状ただ1つだけなのだ。
完璧に正確な記事を記載している「信長公記」(秀吉の北陸戦線離脱と
信長の激怒に関しては記述有り)をはじめ、当時の北陸の書状や記事に
全くと言っていいほど手取川合戦の記述がないのである。
(後世(主に江戸時代)に書かれた講談的な戦記物には記載満載だがw)
と言うことは恐らく、手取川で謙信軍と柴田勝家軍との間に大規模な合戦など
無かったと思われる。
もし手取川で小規模ながら戦闘が有ったとしても・・・考えられるのは
勝家・謙信両軍共に物見部隊(偵察)などが手取川で小競り合いを
繰り返していたかもしれない…という推測が妥当と言えるだろう。
手取川合戦は我々が想像する程、大規模な合戦ではなく実情は
手取川合戦など無かったか・・・有ったとしても小部隊による局地的な
戦闘であると見たほうがいい
0011名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 17:17:09ID:P6BVucuI歴史家も大規模な合戦とは認定してないよ。
漏れも敗走(撤退)中を追撃と、史料どおりにしか考えてないし。
かりに数万単位でガチに当たってたら柴田軍は壊滅だろ、謙信相手に野戦なんて。
0012名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 17:52:58ID:ZFpZfhYo一人も戦死者ないし溺死者が特定できないっていうのもな
それにまともに交戦したのなら、謙信敗北してたんじゃないかね
後の織田・上杉軍の戦闘経過を見ると、両軍の戦力差は歴然
月岡野の戦いなんかじゃそれこそ手取川で謙信が主張する以上の打撃を上杉軍は受けてしまっているわけで
0013名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 17:55:28ID:dqABQyneの狂歌が詠まれるくらいなので、余ほど一方的な状態であったと思われる。
あくまで七尾城救援が目的であったために、七尾落城で目標を失ったことで合戦対象が
自軍に向けられると錬磨された大軍の柴田軍といえども
北陸の隘路で謙信と戦うという不利な状況が恐怖心を掻き立てることになったと思われる。
撤退と決まったことで全軍浮き足立ち、勝手に敗走軍と化したのが本当のところだろう。
せいぜい上杉先鋒が撤退する柴田軍を突いた程度の合戦で、戦死者のほとんどは
増水した手取川に追い落とされた?自ら飛び込んだ?
という、およそ合戦とは言い難いものだったに違いない。
みなさん一致、ということで・・・
0014名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 18:26:21ID:UODMP0h+上杉「織田と戦ったら勝てた。楽勝!」
織田「行軍していたら何か上杉軍が襲い掛かってきて痛い目にあった」
そんなもんだったんじゃないかな。
少なくとも織田はあれを合戦と意識していなかったと見るべき。
もしくは合戦と認めなかった。
ただの略奪や追撃や虐殺にしか見えないことなら、
わざわざ史書に「合戦」とは誰も書かない。
0015名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 18:39:48ID:P6BVucuIその時期の越後は内戦状態だからね、ちょうど信長自害後の安土(城将逃走)や
甲信地域(織田勢敗走)と同じ状態のところに攻め入ったわけで。それでも天正6年
から足掛け5年かけても柴田は越中を完全制圧できてない。
0016名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 21:21:55ID:QfO76FZG具体的に野戦で謙信が確実に史料からあったと分かる合戦で見事な指揮を見せたことってあるの?
信長の桶狭間とか、元就の厳島とかに匹敵する武功ってあったっけ?
川中島は善戦したけど結局追い払われてるわけで
単に野戦する機会が少なかったから負けが少なかっただけじゃないの?
上杉謙信の戦歴、とかいうの載せてるファンサイトだと、攻め倦めて撤退とかも無理矢理引き分け扱いにして不敗とかほざいてるが(笑
0017名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 21:50:19ID:P6BVucuIほかに武田軍の大将クラス(両角豊後・典厩信繁・油川彦三郎・初鹿野源五郎・三枝新十郎ら)
の戦死が確実だから、永禄4年の川中島戦術的勝利は歴史家も認めるところだな。
第一次では荒砥城(川中島のはるか南)を制圧し、深志(松本)方面に進出。
第二次合戦は犀川の緒戦で勝利し、信濃諸将の本領復帰と旭城の破却を条件に、
今川義元の調停で和議(戦略的にも勝利)だな。小さな野戦でいえば家督相続前の越後内戦や武田に通じた
大熊朝秀を破った駒返合戦などもあるが、仰るとおり攻城戦が大半で野戦は少ない。
といっても、関東の諸城(小田原城など例外はある)が戦わずして開城したのは史実だし、このスレで問題の
信長が謙信(信玄にもだが)に洛中の情勢を報告したり、贈答品を贈って誼を通じている
史実から、軍記書に「軍神」と称されたのも根拠があるんじゃないか。漏れは
「軍神」なんて宇佐美文書の創作だと考えているが。
で、手取川合戦で織田方に有利な史料(傍証でもいい)はあったのか??
一次史料を否定するなら、それなりの傍証が必要だぞ(笑
謙信書状以外にも、謙信の越中・能登・加賀平定を傍証する一次史料があるの、知ってるか?
0018名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 22:04:31ID:UODMP0h+自分の嫡男を死なせてまで矛先を変えざるを得なくなった武田家も決して勝者じゃないよな。
スレ違いですまんが。
0019名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 22:06:17ID:FLYp3Vo1・武田に北信濃を奪われ、頼りにしてきた豪族を裏切った上杉は論外
・関東を散々荒らしまくりながら、結局土地を取れなかった上杉は論外
・一時の感情で味方に暴行し、離反された上杉は論外
・小学生でも見抜けるような捏造武勇伝ばかりの上杉は論外
・下野の小豪族佐野家の城を10度攻め、一度も落とせなかった上杉は論外
・関東豪族を裏切ってまで北条と同盟したのに、その後北条にも同盟破棄された上杉は論外
・家臣に反乱を起こされまくった統率力が無い上杉は論外
・後継者の事を何も考えず便所で死亡し、勝手に自滅した上杉は論外
・勢力的に明らかに格下の神保に苦戦しまくった上杉は論外
・織田家に嫉妬し、手取川の戦いを捏造した上杉は論外
・伊達家に対するコンプレックスで松川の戦いを捏造した上杉は論外
・自ら起こした関ヶ原で負け組みになった上杉は論外
・幕末、何も見せ場がなかった上杉は論外
・容姿がキモ過ぎる上杉は論外
http://www.valley.ne.jp/~rinsenji/kenshin.jpg
・肖像画まで捏造した上杉は論外
・大量の基地外信者を生んでしまった上杉は論外
【vsスレ荒らし・上杉信者の特徴】
・根拠もなしに上杉謙信最強と言う
・歴史初心者に上杉家最強と吹き込む
・紛れも無い捏造の松川を事実と言い張る
・上杉を擁護するために平気で捏造をする
・自作自演での印象操作が得意
・たいして知識が無いのに、歴史に詳しいフリをする
・なぜか伊達家の話題を振ってくる
・突っ込んだ質問をされると即逃走
・人格攻撃、コピペが得意
・どこ行っても嫌われ者
・上杉は○○だからダメと言われる→そんなことは無い、とただ単に全否定するだけ
・一度書き込み出すと連続で書き込む(でも時間は絶対に被らない)
0020名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 03:21:02ID:2fBaJZY4月岡野は元より、菱脇や天神山でも上杉勢は織田家に敗退
川中島で戦術的に点数稼いだからって、大敵を撃滅したり大将首すら奪った元就やら信長やら島津家やらより謙信が上とは到底思えないな
0021名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 05:57:20ID:NlC5ZOep謙信死後のことだろ。
謙信がいるかいないかで、上杉軍が勝ったり負けたりするのは、
むしろ謙信の力がいかに大きかったかの証拠だろ。
0022名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 10:36:12ID:uzDp78mQべつに思うとか思わないとかはどうでもいいよ。
手取川で織田が壊走した史実の精度が知りたいのであって。
それに、信長死後の織田軍の崩壊ぶり(森の遁走・河尻の頓死・滝川の敗走)
をみると、平素からの織田勢の弱さも傍証されるわけで、その直前まで越中魚津城
で玉砕するまで戦った謙信「手飼之者」は強兵だと「思う」がね。
0023名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 11:32:24ID:xEAR3bVE玉砕したら敗北しようが強兵って何て旧日本軍的なw
ってこれは過大評価スレ行きの話題か
0024名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 11:41:55ID:AqOCro4y「伝説」ほどは「たいした事ない」よ。
0025名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 14:20:59ID:uzDp78mQ前々スレの上杉方の「勝利宣言」より
929 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/21(金) 15:37:11
次スレ立てるまでもなく、決定だな。
軍神上杉謙信が織田勢を撃破した手取川の合戦は、定説どおり史実だったと。
「公記」の記述にしたがうなら、手取川を越えた勝家傘下の織田勢は
ほうぼうに火を放ちながら富樫(金沢)まで進軍。ここで七尾城陥落を知り、
撤退を決断するも謙信に追撃される。夜間、手取川を渡河中を急襲され、
少なくとも1000名以内の兵が討ち取られ、あるいは追い込まれて川に流された。
命からがら逃れた織田勢は、手取川の南10キロにある御幸塚の城砦を普請し、
周囲の田畑から作物を運び入れて篭城体勢に入った。さいわいにも謙信の渡河追撃が
なかったので、10月はじめには城代を配置して帰国。
これに対する具体的な反論なし。
0026名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 16:31:01ID:I8eSUGcp実際の戦績において最終的に敗退した川中島の善戦ぐらいしか「凄さを示す戦い」が出てこないから言われてしまったのでは
何かもっと戦績は無いわけ?
0027名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 17:14:22ID:uzDp78mQ裏づけ史料はないが「関八州古戦録」に、
北条氏政(3万)に包囲された唐沢山城(佐野昌綱)救援にわずか40騎で
赴き、その夜叉羅刹ぶりを恐れた北条軍が手出しをできないまま謙信の入城を
許す。というのがある。当然、その後越後・関東連合軍が北条軍を退散させ、
小田原まで追撃。もう少しのところで北条軍は壊滅するところだった。
こんな武勇伝ならゴロゴロしてるよ。手取川合戦では、越前まで攻め込んだことに
なってるしね。まぁ、謀反や留守中に狙われた以外は越後侵犯をいっさいゆるして
ないってところは、評価に値するんじゃないの。
0028名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 17:24:52ID:XqFgHSRC信州、関州、加州に攻め入って、
川中島では信玄に肉薄し副将信繁を討ち取って、
小田原城を囲んでは頼朝以来の名門鎌倉八幡で関東管領就任式を挙行して、
はては手取川では織田軍を蹴散らした、
酒と戦さにゃ強いが、義理には弱い、謙信公。
↑こんだけで、だいぶ凄いと思うぞ。
なおかつ、死んだ段階で軍資金たっぷり。
0029名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/23(日) 00:04:50ID:9hO6NVKT0030名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/23(日) 00:28:44ID:6M5/n2PE0031名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/23(日) 00:29:15ID:6M5/n2PE0032名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/23(日) 22:51:14ID:qXBv8ewg0033名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/23(日) 22:55:29ID:bNSFF24jだいじょうぶ、議論の軸心は保存済み。
前々スレも。
0034名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/24(月) 21:06:46ID:mBikeDG8公記って信長公記だよね
0035名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/24(月) 21:51:52ID:w+eZpwYzそうだよ、「信長公記」(天正五年・柴田勝家北国に相働くの事)
「湊川越、阿多賀、富樫ニ放火シ」(安宅や富樫に放火し)の段。
訳書はいろいろと多いが、勝家配下の織田勢が右往左往しながら富樫(現金沢市)
まで行軍し、謙信配下の越中・加賀(一向宗)勢に追い払われて手取川を撤退していたところ、
謙信が越後・能登勢を率いて追撃して1000を殲滅。残りは河に流されたという顛末だ。
京都で松永久秀の子息が惨殺される光景を描写していた太田牛一が伝聞でも書けなかった織田の惨敗
反論があれば、よろしこ。www
0036名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/24(月) 22:21:50ID:mBikeDG8おけーわかった
織田はハナから撤退なのに急に上杉が突いてきたのね
わずか50にも満たず決着着くとは…あとどうするんだ
手取フィッシュランドでも語るか
0037名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/24(月) 22:26:36ID:w+eZpwYz悪いが、織田が逃げ腰のところを謙信が突いた説、すでに2スレを消費しての決着だ。
爾後、御希望の質問には過去スレの議論から詳細に(双方の主張を含めて)返答しまつ。
これにて、一件落着? スマソ・・・orz
0038名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/24(月) 22:58:22ID:yFUEQgOh0039名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/24(月) 23:30:27ID:xQtdbURa上杉が強いんじゃなくて、一向一揆が強いってことでは……
0040名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/24(月) 23:52:49ID:w+eZpwYzま、その時期には一向宗の加賀・越中の諸武将も謙信の配下だからね。
越中諸将のほかに瑞泉寺・勝輿寺門下の衆徒も、謙信の「苗字尽し」(関東動員令)にあるし。
その(関東動員令・別に仁科文書)意味では、謙信にとって信長は「単なる敗軍」
と思えたらしいようだな・・・。
0041名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/25(火) 00:40:04ID:GdQnTttDまともにやり合ってもないのに…(´・ω・`)
0042名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/25(火) 00:44:22ID:aG5gTzYhおまいの質問は、よくワカラソ。
具体性がない弱点は、おそらく自分でもわかるとおり、衆目にも明白だな。
0043名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/25(火) 11:33:45ID:MeVK8EdA0044名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/26(水) 12:07:38ID:YtRj3opD大群で押し寄せれば、城攻めをあきらめて帰るだろうと。
・・・・で、結論が出てスレ終了、でいいのかな?
0045名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/29(土) 18:27:23ID:A0Wf4kf50046名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/30(日) 03:26:12ID:T6fzJVFl0047名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/30(日) 05:10:32ID:IQJOqUpC0048名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/30(日) 13:23:14ID:rN8VYGy/不意打ちなのに織田軍惨敗って…なんかカワイソス…じゃね?
0049名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/30(日) 15:12:46ID:z2p2mEmu上杉兵「うるせぇ、氏ねや!」
織田兵「もう七尾城取ったんだろ? 尾張でいんじゃね?」
上杉兵「ばぁろー! これから合戦じゃ」
織田兵「うぎゃあ・・・」
上杉兵「よぇえなぁー、織田って。ゲラ輪ロス!」
0050名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/30(日) 16:53:48ID:rGt9onkZ織田方の名ある人物は誰も死んでないんだけどね。
0051あぼーん
NGNG0052名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/01(火) 01:29:40ID:8vAdF/Ru川に流されて、名前も残らなかった織田の将兵。あまりにもカワイソす・・・。
「信長公記」の著者も、奮戦の様子を書いてくれなかったし・・・。
0053名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 09:53:58ID:lSjrF6Auそう考えるよりは
合戦自体が小規模なものだったか、
死んだのは雑兵程度だったと考えるべきだが。
名ある人物が死んだのなら、必ず記録が残るだろうが。
0054名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 17:21:55ID:PfMFNI4j上杉氏の例でも、永禄9年の臼井城の戦いでは、北条氏の複数の史料(書状)
に「輝虎(謙信)が数千の死者を出して敗退」とあるが、死者の氏名はない。
長尾景長の書状に「昼夜を問わず攻めているので、落城は必至」とあるから
合戦そのものは確実な史実で、上杉方が関東の武士に発給した感状も残ってる。
名のある人物が死ななかった(記録にない)からといって、この時の上杉の大敗を
疑問視する史学者がいないのと同様に、手取り川での織田氏の敗戦も否定できない。
それが文献史学の原則だよ。
0055名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/06(日) 22:09:38ID:Gt45L8KH桶狭間の義元も休憩中に襲われたのに「桶狭間の戦い」だから、奇襲戦ってことじゃない?
0056名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/07(月) 15:54:33ID:HAxga73mつか、津本は謙信もマンセーしてるからか。
どっちつかずの無節操・・・・。
0057名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/07(月) 17:45:13ID:AQuMu8tW休憩中に襲われた云々も今では古い説なんですよ……
最近の信長関連本を探すかネットでちょっと調べてみて
0058名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/14(月) 22:07:37ID:ukjteF6D夜間戦闘だったからか??
0059名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/14(月) 22:13:18ID:Ol0ZDqpQ殴られただけで手を出さなかったからケンカしてないよってかい?w
0060名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 20:07:39ID:EA2gFxtv背後から追撃されたらそりゃ相手の方が兵力が少なくとも負ける。
明治の軍人だったかな。
「戦いで一番高揚するのは一方的な追撃戦。だって殺し放題」
というようなことを言っていたなあ。
0061名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 23:49:02ID:C/9wh//x謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
0062名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 18:39:49ID:a5+9kJmjプッ
0063名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/26(土) 11:10:58ID:rOCNlbYJなら「背水の陣」(韓信)だな。
決戦を覚悟で背水の陣を敷いたが、惨敗しちゃったってところか。
0064名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/27(日) 01:28:53ID:9+OPXtlh0065名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/27(日) 19:44:12ID:2rG170yz0066名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/28(月) 03:45:48ID:We+BJ+Tnただ、負けた織田に大打撃を与えたほどの戦というわけでは無かった
て感じじゃないか?
0067名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/28(月) 04:27:18ID:WcHHX9ti戦闘の勝ち負けは、そのまま戦争の勝ち負けではない。
むしろ、謙信急死後の後継者争いの余波とはいえ、
その後、能登、越中を簡単に失い、失地回復が出来なかった点について、焦点を当てるべき。
上杉の外征における「戦争」の弱さと、
織田系武将のしたたかさが浮き彫りになる。
はっきり言って、織田勢にとって、多少兵士の損害が多くても、それを率いる将が逃げおおせれば、
その撤退戦は成功なのである。仮に「戦闘」で大敗しようとも。
なぜなら、大将さえ生きていればすぐにでも新たな兵を動員して勝つまで再戦を繰り返し、
一度勝てばその勝利の戦果を最大限に得るから、それまでに「戦闘」でいくら敗れようと、
最後に勝てばオーライなわけである。
0068名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/28(月) 10:44:04ID:xQtnz3+e0069名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/28(月) 13:24:38ID:Ej0MUoZD>その後、能登、越中を簡単に失い、
越中・能登・加賀(手取川以東)平定が天正5年9月。
柴田勝家の加賀侵攻は天正8年、越中魚津城は天正10年6月(本能寺の変)
まで陥落せず。が史実なんだが。つまり、上杉が真っ二つに割れ、越後が内戦状態にもかかわらず、
織田(嫡流)は北陸から上杉を駆逐できないまま滅んだ。
>最後に勝てばオーライなわけである
織田嫡流は最後に滅び、上杉嫡流が現在も存続。
0070名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/28(月) 15:04:39ID:We+BJ+Tn謙信死後のゴタゴタはかなり長引いているし、その流れの中で新発田重家の謀反など
越後はガタガタの状態なのを考慮して、支配して間もない能登、加賀を制圧はさほど
難しくなかったのは事実。ただ、すんなりどちらかへの家督継承が成功したとしたら、
そんなに簡単に能登などは取れなかったのでは?
0071名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 00:55:06ID:d6aa5yNZあなた、かなり意図的に事象を省いているでしょう。
越後国内が二つに割れた内乱はかなり短期に終結しているのだが。
その後の余波というか残党の掃討や新たな新発田氏の反乱などはあるが、これは
景勝の戦後処理の問題。
で、魚津城が落ちたのは言うとおり天正10年だが、能登は長連龍が、越中は神保
氏張が織田勢力として戦い、天正8年には能登全域、越中の東部を除いた地域が織田
領となっている。その後富山城が越中の豪族に奪われるという失態もあったが。
問題は、この織田の動きに景勝が全く動いていないということ。
ああそれと、天正6年の月岡野の戦いについても少し調べたほうがいいと思うぞ。
0072名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 11:56:36ID:9ZD8HHQm>越後国内が二つに割れた内乱はかなり短期に終結しているのだが。
御館の乱=天正6年3月に勃発〜天正7年3月(上杉景虎自害)〜天正8年7月中郡の栖吉長尾衆を鎮圧
足掛け3年以上にわたって内戦が続いていたということだ。
>その後の余波というか残党の掃討や新たな新発田氏の反乱などはあるが、
>これは景勝の戦後処理の問題。
新発田重家の謀反は天正9年4月(上杉年譜・新潟県史武田勝頼条書)。
これは御館の乱の戦後処理ではなく、織田信長による調略。
>織田の動きに景勝が全く動いていないということ。
越中方面は河田長親(信長が内応を誘うも拒否)と鯵沢長実・須田満親らだから、
景勝が出馬する必要はないだろ。上記のとおり、越後が内戦状態なわけだし。
0073名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 00:44:07ID:spRtfdZf松永の謀反なんて七尾のあとだし、長島もケリが付いてたのに。
やっぱ、謙信が怖かったのかな?
0074名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 01:51:11ID:5BOAnJfp0075名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 11:12:38ID:zZxFxAf8重要性緊急性に応じて自らの出馬を決める。
むしろ陣頭にたたないことが珍しい。
だから謙信が怖いとか怖くないとかは関係なく、自ら出馬する段階ではない、という現状認識だったんだろ。
0076名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 01:04:24ID:WrS5o/Uq0077名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 01:58:30ID:0P58QTXg0078名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 07:05:11ID:ZPaQmUcO権大僧正=毘沙門天の生まれ変わり
にゃ敵わんというか、恐れて逃げるだろうよ。
0079名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 07:55:01ID:ure+XZU7第六天=欲界の最上層。
毘沙門天=欲界の最下層。
じゃなかったか?
0080名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 14:55:24ID:1DVMi62y毘沙門天=多聞天(北方の軍神・商いの神様)
0081名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 21:24:45ID:K8uxeLa2そうだけど第六天の方が天界より上位。
0082名無しさん
2006/09/07(木) 16:07:40ID:GbDHCq7i0083名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 17:43:40ID:ow8GsgEhおまえらはいつまで意地を張るのか。
0084名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 17:54:31ID:EZ1ZwZX30085名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 18:26:57ID:Ja8wjwXL織田家の加賀平定はなかなか進んでいなかったから、深入りすれば敵地で戦うことになる。
上杉の戦略は一向一揆に織田の進出を阻止させている間に北条を潰す。
織田包囲網ができていたように、上杉包囲網も続いていたしね。
0086名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 14:14:57ID:W7VyeiaZ0087名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 15:54:48ID:fvqOEcBw「公記」には、作物を刈り取って御坊塚城に籠城したとある。
籠城してるんだから、支配下とはいえんだろうな。
いっぽう、上杉系の書状・軍令状には「能登・加賀・越前の過半がわが手に入った」
とある。「越前の過半」はさすがに一向宗徒がいるということだろうが。
0088名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 23:56:02ID:tbxFWo/T篭城してるから支配下でないって意味がわからん。敵地で篭城なんて全滅降服
ルートじゃないか。
0089名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 19:36:14ID:/XzPKDhGじゃあ、かりに支配下だったとして、
なんで作物を刈り取って篭城なんてするんだろう?
やっぱ、支配下じゃねんじゃね??
0090名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 07:20:34ID:zco9H/DP0091名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 04:12:52ID:qBkRrOY70092名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 20:42:27ID:VfsVT/U/0093名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 16:37:16ID:L2+tHf1p刈るというのはやっているぞ。
0094名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 01:13:37ID:vg0wp76c謙信の主力がいったん帰国したから、すぐには攻め立てられないだろうが、
織田としては籠城(作物を刈り取る)することで、一向宗の攻囲に耐えようとしたんじゃねいか?
0095名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 15:28:45ID:DjAdYhotすくなくとも、小田川が互角以上に戦ったとか、合戦事態がなかったとか、それこそ、もっと根拠のない話である。
だが、こうも思うのだ。
上杉側は、にもかかわらず、最終的には北陸への影響力を失い、
柴田に代表される小田勢に押し込まれることになった。
手取川で上杉勢が大勝したと言えば言うほど、
その後に織田勢に北陸戦線のイニシアチブをとられたこととのコントラストが
明確に浮かび上がってしまうのだ。
上杉の領国支配がずさんではなかったのか?
領土的野心が無いのではなく、合戦に強くても領土を維持するだけの統治能力に欠けていたのではないか?
結果、関東でも信州でも戦線はどんどん後退し、
そして、越中や能登への影響力もごく短期間で失われたのは、そこに原因があるのではないか、と。
手取川は、まさに、「あだ花」ではなかったか?
0097名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 19:19:01ID:tNp3ahGi謙信死後の御館の乱は
本能寺後の甲信越方面織田軍団の崩壊に比べるとわかりやすい。
森が川中島四郡から遁走し、甲斐の川尻は頓死、滝川も北条に一蹴され、
命からがら尾張に逃げ帰る。越中の柴田も戦わずに壊走。
それに比べて、上杉勢はじょじょに後退しているものの、
謙信死後4年間にわたって越中の拠点を維持。統治の問題じゃないだろ。
純粋に軍事的な後退。
0098名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 21:19:07ID:eXoaSYDF本能寺後の東国情勢についてはそれこそ統治の問題ではないだろう。
なにせ統治を始めて半年もたっていない。
0099名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 21:23:28ID:tNp3ahGi御館の乱で越後に引き上げてるのに、なんで柴田は天正8年まで
加賀に攻め込めてないのかが疑問。
0100名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 21:54:00ID:cQ9A339Z0101名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 12:28:26ID:5Xpe+Cod一軍の司令官としては無能。
統治能力はあったがな。
0102名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 18:39:46ID:FA2CxOw6しかし約一世紀もの間、一揆もちの国だった加賀で、そうした手段がどれほど可能だっただろうか。
0103名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 18:40:23ID:FA2CxOw6冗談ですよね?w
0104名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 00:57:27ID:UOER+anH確執はどうだったのかね? 通説では、上杉との矢面に立たされそうになった
秀吉が必死こいて逃げる口実に喧嘩を吹っかけた?
0105名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 14:18:51ID:6sAgBD3P織田軍団の中でも最大の兵力と与力を与えられて、謙信存命中は手も足もでず
謙信死後、加賀平定、能登、越中に侵攻。
信長の仇討ちを格下の秀吉に先取りされた挙句、時勢を読めず秀吉と対立し
好き勝手に秀吉に調略されるにまかせた上、劣勢のまま退陣し、配下部将の掌握もできず、
秀吉に惨敗した。
0106名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 14:58:57ID:c57bEk8O0107名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 21:00:14ID:OoLz4hx0謙信死後も織田は上杉に太刀打ちできなかった可能性がありそうやね。
0108名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 22:42:26ID:UOER+anH太刀打ちできないどころか・・・、上杉文書にある謙信と勝頼の密約(義昭御内書)、
景虎に関東管領職を禅譲して北条と再同盟(井上鋭雄説)なら、関東甲信越の大軍勢で
畿内を蹂躙(織田滅亡・足利幕府再興)もありえたんじゃね? その構想を六角堯定が
画策していた説も最近では有力だし。
0109名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 22:55:53ID:OoLz4hx0信玄も謙信もみんな信長に都合のいい時に死んでるよなあ。
弟や北畠氏の事もあるし、妄想が止まらないよ。
0110名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 23:00:24ID:UOER+anH残念ながら、史料なし。本能寺の変(信長虐殺計画)の明智文書(天正10年6月・景勝宛)
ぐらいの信憑性があれば、けっこう面白いんだが。
0111名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 23:15:47ID:0DNj/DiM謙信存命中に手や足をだしたら馬鹿でしょ。
北陸がどれだけむずかしいかわかるのか。
クソ小説秀吉厨がw
0112名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 23:50:33ID:lUSDEgDJ0113名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/19(火) 00:18:01ID:UTj5ceTl一級史料とされる「信長公記」も、しょせんは二次史料(編纂軍記書)www
一次史料を優先が文献史学の原則、つ・・・。
>>110
『覚上公御書集』に残されている河隅忠清書状ね?
「須田相模守方より食使うの者罷り越し、才覚申す分は、明智の所より魚津まで吏者
指し越し、御当方無二の御馳走申し上ぐべき由、申す事候と承り候、実儀候はば、定て須
田方より直ニ吏ヲ上げ申さるべき候……」
訳文「須田満親から来た召使の者が言うには、明智光秀から魚津まで使者が来て、
上杉家においても最大限の協力をするべきだとのことです。
これが本当のことなら、須田から直に使者を送るようにさせましょう」
この書状が6月2日付けだから、光秀が5月中旬には上杉方に使者を
発したというのがミソ。魚津城が本能寺の翌日まで持ちこたえたのも
光秀からの「信長を殺すんで、そちらもよろしこ」があったからとされる
一次史料、とされている。この史料をそう考えると、柴田勝家のモタモタぶりが
情けないねぇ。勝家の北陸でのモタモタが信長暗殺計画を成就させたともいえる
わけで。けっきょく、織田の北陸平定戦が信長の首を絞めたともいえる。
スレタイにもどれば、手取り川合戦こそが織田滅亡の引き金?
0114名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/19(火) 11:11:47ID:IewiWHsh北陸出兵が信長、特に柴田にとっては仇になったんだろうかね。
ナポレオンのロシア侵攻とかと一緒。
0115名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/27(金) 19:31:56ID:3zfcY4wY0116名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/28(土) 01:10:00ID:mvavdkBg六角尭定って、六角義弼(義治)のことでおk?
0117名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/28(土) 20:16:07ID:9heZ0DXthttp://blog.sasakitoru.com/200504/article_20.html/
0118名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/29(日) 01:52:41ID:Y7FS8kaW本体は無事だったてことじゃないの?
その後大幅な組織改正とか聞かないし。
0119名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/30(月) 13:26:00ID:Wf0rgn1c一揆衆>>>>>>>(超えられない壁)>>>>>>>上杉
0120名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/30(月) 14:34:45ID:JZA5M6+o0121名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/31(火) 23:41:51ID:G3pyAW78このスレの傾向だけど、あまりにも片方への贔屓が強すぎるよ。
そんな風に言うなら謙信だって、戦闘で強くても戦略的には大した得もとれず、
ものすごい大軍を率いたにも関わらず北条を落とせず、戦争で勝ったのに領地をえられない無駄な戦をしたり、
礼儀しらずの勘違いで変な恨みを買って離反されたり、
アル中で、子作りしないから跡継ぎ争いの火種を生み、人身売買しまくりで、
織田と戦うという滅茶苦茶大きな決断しときながら本格的にやりあう前に死亡し、
それを結果的に配下達に丸投げしちう形になっちゃって、結局駄目駄目な結果に、という酷い大名だぞ。
0122名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/01(水) 00:58:25ID:zMbHA9wqそれを結果的に配下達に丸投げしちう形になっちゃって、結局駄目駄目な結果に、という酷い大名だぞ。
ここだけ丸々信玄坊主に使えるなw
0123名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/02(木) 18:40:28ID:0rwBEyZ0んー、君が言ってる事の大半が後世の作り話しなんだけどね。
あと2chで流れたデマも信じてるみたいね。
0124名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/02(木) 20:55:57ID:eQSahnPEつか時勢が読めないっていうけど家臣にでもなれば良かったのか?
0125名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/04(土) 10:19:17ID:8hOfkyaR0126名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/05(日) 19:56:58ID:32rd6/QK子ども作ってないのも北条を落とせなかったのも、織田と戦いはじめてから死んだのも全部事実だろうが。
何が大半だよボケ。
0127名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 18:47:07ID:cBMp40nx白山市在住なのだが、古戦場なんてのは聞いた事ない
0128名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 09:28:54ID:5HQXZSHT煽りではなく純粋に聞きたいんだが>>121は
どの辺りが正確ではないの?
一方向から見てはいるがあながち間違ってない様に見えるから
事実なら確かに俺は毒されてるな。
純粋に聞きたい。
0129名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/13(月) 16:27:00ID:1ROV4T/8とりあえず大した意味のある戦ではなかったんだろう。
0130名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/26(日) 23:50:37ID:Ptcu6E/K指し越し、御当方無二の御馳走申し上ぐべき由、申す事候と承り候、実儀候はば、定て須
田方より直ニ吏ヲ上げ申さるべき候……」
訳文「須田満親から来た召使の者が言うには、明智光秀から魚津まで使者が来て、
上杉家においても最大限の協力をするべきだとのことです。
これが本当のことなら、須田から直に使者を送るようにさせましょう」
この書状が6月2日付けだから、光秀が5月中旬には上杉方に使者を
発したというのがミソ。魚津城が本能寺の翌日まで持ちこたえたのも
光秀からの「信長を殺すんで、そちらもよろしこ」があったからとされる
一次史料、とされている。この史料をそう考えると、柴田勝家のモタモタぶりが
情けないねぇ。勝家の北陸でのモタモタが信長暗殺計画を成就させたともいえる
わけで。けっきょく、織田の北陸平定戦が信長の首を絞めたともいえる。
スレタイにもどれば、手取り川合戦こそが織田滅亡の引き金?
0131名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/26(日) 23:54:41ID:BZbDRH0I0132名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 08:14:06ID:eOrrJm/X怪しい「一時史料」だなあ。
そんなの信じられるのが信じられない。
>>114
あほ?
滅ぼされる寸前の上杉が言うことではない。
0133名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 10:57:15ID:gRXjzfCA0134名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 18:01:56ID:YKFRDS84とか真剣にぬかす馬鹿な知り合いの話ぐらい、苦しい。
0135名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 19:03:24ID:gRXjzfCA0136名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/28(火) 08:06:05ID:3ID/kmlaを証明した戦い。
でもそれだけ。
せめて信長か秀吉が参加してればもっと、
意義があったかもしれないが。
0137名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/28(火) 10:07:41ID:JzRLfsZe上杉は北条に勝てず北条は秀吉にやられて徳川も外交政策で従って徳川も秀吉も信長の手中にあったわけだから、
信長>秀吉>家康>氏康>謙信>勝家という具合になってしまふ…
それぞれの間にはまだ色んな奴が入るだろうけど。
0138名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/28(火) 11:13:08ID:elrOHo140139名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/28(火) 22:59:58ID:XRa0HH2Xそれは光秀によって、だろ
その理由を無理に上杉にもっていくことはない。
風が吹けば桶屋が儲かる、ばりだぞ。
0140名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/28(火) 23:35:46ID:0GGlsz+0手間取っている間に、織田信長謀殺の大包囲網が出来てたわけだ。
で、バカ殿は見事に殺されたわけだ。
織田宗家滅亡の最大の戦犯は、手取川で上杉に負けた柴田だと思うがね。
0141名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/29(水) 01:07:00ID:T/zVdOuM0142名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/29(水) 23:11:37ID:Pd72nhg+戦術的にも織田の大敗だけど戦略的にも信長の失敗だったよ
謙信と矛を交えるなら、中国四国をほったらかして、
織田全軍を上げて戦うくらいでないと勝負にならん
0143名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/29(水) 23:12:49ID:Pd72nhg+まあこんなもんだな
0144名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/30(木) 02:59:25ID:BYijFrKK羽柴秀吉が参加していたのを知らんの?途中帰国したのは秀吉の身勝手。
0145名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/30(木) 21:00:29ID:fIG6Ilry0146名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/01(金) 00:53:00ID:QWlKuhQV0147名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/01(金) 01:25:15ID:OgAWWtQA信長は謙信を恐れてた
0148名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/01(金) 08:49:18ID:XFUfBj8d川中島の戦
三方が原の戦
小牧長久手の戦
山崎の戦
本能寺の変
0149名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/01(金) 14:25:35ID:jELfkXpM最後の出陣準備も近年は関東へのものだったという説が有力。
0150名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/01(金) 15:08:18ID:Sxp2Y6D80151名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/01(金) 21:44:18ID:QWlKuhQV0152名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/01(金) 22:08:36ID:D3bsaJHf0153名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/01(金) 22:55:00ID:O7USoIne0154名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/02(土) 19:47:41ID:GNtz8EHD謙信は信長から贈り物をもらってどんな反応をしたのか分かりますか?
0155名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/02(土) 20:45:57ID:uOmbFO5k0156名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/02(土) 20:48:39ID:VZvV2mmB「上杉本洛中洛外図屏風の謎を読む」(黒田日出男、岩波新書)には、
「管領(謙信)大いに喜び、返書を…」と「謙信御書集」の平文(原史料ではない)
にあるらしい。「上杉年譜」では、これが天正二年の記述。能登攻めが天正四年〜
だから、まだ両者の関係が良好だった時期だな。
ちなみに、同図屏風は足利義輝が描かせたものを、信長が本来の受け取り手
である謙信に贈ったとするのが真相だろう。将軍府の陣幕に六角氏の家紋が見えるし。
0157名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/02(土) 22:28:12ID:IBlE60fZ0158名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/03(日) 11:35:45ID:cfym9ixa準備が整うまでわざわざ敵を増やしたい奴はいないだろ
それも名の通った戦歴豊かな上杉家なら尚の事
オレはどちらかと言えば織田よりだが否定する意味が解らん
0159名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/03(日) 16:46:56ID:v4sFCL/F0160名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/03(日) 17:31:29ID:boN5ubuv自分も信玄謙信に対して恐れがあっと思うが、それは勝つための準備が整っていない
時期に敵対することになる状況を恐れていたのだと思う。
ところが信者は信玄謙信の存在自体を恐れていたように語る。
0161名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/03(日) 17:58:00ID:v4sFCL/F圧倒的な国力差があっても生前戦うことは常に避けてきたからね。
実際それほどの戦上手だったということさ。
0162名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/04(月) 01:36:10ID:onKAPp/k時間の浪費を恐れただけでは?
0163名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/04(月) 11:56:00ID:of0BQeDI手ごわい相手にファイトを燃やすような真似はしない。
だからと言って能力が
信玄、謙信>信長というわけじゃない。
実際、この二人が死ぬと武田は一蹴、上杉も風前の灯火に追い込んでるんだから
信長の戦略は間違いじゃなかった。
0164名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/04(月) 22:53:18ID:oRi3oFb20165名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/05(火) 00:22:42ID:soQwj1j4人身売買の好きな外道は。
0166名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/05(火) 00:49:14ID:C6O0kJPS0167名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/05(火) 01:33:09ID:h6sgvWKG大名家として、なくなったんだ!
0168名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/05(火) 13:32:04ID:soQwj1j4すげー痛い軍神だなwww
0169名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/05(火) 17:52:44ID:8L2g9IJaわかりやすい
0170名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/05(火) 18:42:13ID:WB1DIGZs織田VS上杉 というより
秀吉VS柴田の因縁として語られることが多いね。
さすがに柴田の一人相撲みたいな書き方は可哀想だが。
0171名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/05(火) 19:37:17ID:acoCFAUH身近な人間に殺される=馬鹿じゃないよ。
そんなこと言ったら世界史に残るあの大英雄、カエサルですら馬鹿になってしまう。
0172名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/05(火) 21:11:31ID:MXgo7RkJ秀吉、謙信厨の両方から堕されすぎ。
0173名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/06(水) 05:10:15ID:4KH8RKWZ0174名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/07(木) 00:16:54ID:3OK8rcTQ0175名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/07(木) 00:31:14ID:OMaXVyTY結果がすべてだわw
謙信>>>>>>>>>>>>>信長
0176名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/07(木) 17:35:24ID:02tiUKbI痛すぎるだろ。
0177名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/23(土) 12:00:18ID:isKwvucu一方の上杉氏も米沢に残り大広間、国主格である。またともに分家が高家
0178名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/10(水) 14:50:58ID:xXs8Gy6Lなにも精強の越後勢とあんな北陸の隘路で合戦する必要はない。
謙信南下の知らせにウロった信長の判断ミス。
せめて越前平野辺りで大聖寺城と連携して布陣すればよかったのに。
実際、合戦という程をほどこしていなかったと思われるが
死者のほとんどが手取川に追い落とされてということで織田軍が上杉軍に
いかにビビっていたかがよくわかる。
0179名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/10(水) 19:05:57ID:NWkoGM7aじゃあ、それまでの激烈な対立は何だったのだろう?
もっと早く和解するなりとりこむなりしていれば、信玄・信長
とももっと早く上手く戦えたのに、と君臣ともに茫然としたのでは。
0180名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/10(水) 22:11:03ID:5THs/JtZ本願寺とは本誓寺(義叔父の高梨政頼が大旦那)を通じて、永禄初期に和睦してるよ。
二度にわたる上洛も一向宗との約定が成立していたから。
ただし、越中を争う神保や椎名が一向宗と一味して互いに争闘し、武田とも結ぶ情勢になって越中平定は泥沼化。
天正二年に本願寺から謙信に対して和睦の申し出があるも、越中の一向宗徒は勝手に上杉方の国人を攻撃。
天正四年になって、対織田戦で攻守同盟が成立。越中の一向宗が敵対したという意味では、
武田信玄(顕如の義兄)の画策が大きかったというべきだろうな。信玄の勧めで、
対上杉戦で北条氏康も早雲いらいの一向宗禁止を撤廃したわけだし。
0181名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/11(木) 19:21:41ID:Afp3d2Vg結局周囲の情勢じゃないの? 父は一向宗にやられてるわけだし、割拠し
とる頃の対立は自然。信長の一人勝ちが見えてくると結束する。
信玄だって口利いてやる。仮に信玄が生きて、信長が死んで、大きな敵が
なくなればまだゴチャゴチャし出すんだよw
0182名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/11(木) 20:17:34ID:mKkmRqtXおまえが史料にもあたらずに講談小説のたぐいを鵜呑みにしているのはよくわかった
0183人間七七四年
2007/02/16(金) 12:40:00ID:g/3UfUlo0184人間七七四年
2007/02/17(土) 23:25:32ID:nHulX1pe川中島とならんで越軍の神出鬼没性の証左。
だが同盟軍との整合性を求められると陰っちゃう。
0185人間七七四年
2007/02/19(月) 22:26:04ID:CVxDWKvK0186人間七七四年
2007/02/22(木) 16:27:48ID:sgfrWoctあんまり聞かないからごく小規模な戦いで上杉が圧倒したってだけじゃなねーの
0187人間七七四年
2007/02/23(金) 22:35:08ID:6q6noqvQ0188人間七七四年
2007/02/23(金) 23:40:24ID:9t7DjJAN織田軍の油断だろう。
加賀という敵地(織田家の力があまり及んでいない地域)に進軍しながら、油断していた。
0189人間七七四年
2007/02/24(土) 00:11:18ID:iNZ50QKX油断も糞もない
織田方も上杉方も条件は一緒だ
情報戦で遅れを取った織田方が負けだ
それと源平の戦いで富士川の合戦というものがある
これも戦闘はほとんど行われなかったが歴史書では合戦扱いになっている
0190人間七七四年
2007/02/24(土) 23:04:10ID:ZOxVy3Vy当時の加賀一向宗は謙信の味方をしていた。これだけで諜報活動に差が生じるのは当然。
0191人間七七四年
2007/02/25(日) 00:42:27ID:G3O8TM/Cいくら撤退中の最中で不意打ちを喰らったとはいえいろんの事を想定して撤退していれば無様な負けはなかったろう。
例えば三方ヶ原の戦いでの武田軍が良い例。
家康がスルーしようが仕掛けてこようがどっちに動こうとも臨機応変に動ける様にしていた信玄は大将たる器だよ。
それと比較すると柴田勝家は凡将といわざるを得ない。
一部の言い伝えでは手取川の合戦に信長自身も参戦していてあまりの恐ろしさに戦線から逃亡したともいわれてるな。
もっともこの戦いに信長がいたというのは現時点では可能性が低いけどな。
0192人間七七四年
2007/02/25(日) 08:47:45ID:oqn5kRe80193人間七七四年
2007/02/25(日) 12:13:25ID:pR/8xnu6いくら撤収したからとって、上杉に追撃される可能性ぐらい大将なら考えるもんだが。
0194人間七七四年
2007/02/25(日) 12:21:56ID:b5M2R37u上杉と戦ったのだって先行した威力偵察とみていいだろうな
0195人間七七四年
2007/02/25(日) 12:36:17ID:pR/8xnu6能登七尾城を囲む上杉軍と戦うためだろ
0196人間七七四年
2007/02/25(日) 13:04:49ID:BQV8pfzB0197人間七七四年
2007/02/25(日) 13:45:53ID:x2vlVUppって程度だと思うよ
織田家が畿内を磐石にさえすれば、その後はどうにでもなる。
この辺は武田家も似たような感じかもね。ただ信玄の方が現実的な人間だったようなので衝突が早まった。
0198人間七七四年
2007/03/20(火) 01:34:31ID:aptWC7Qi0199人間七七四年
2007/03/20(火) 01:35:12ID:aptWC7Qi0200人間七七四年
2007/03/20(火) 10:10:44ID:haOlA0/8信長が姿拝むだけで逃げ出したのはいたしかたないな
0201人間七七四年
2007/03/20(火) 12:26:14ID:NFylGjF+0202人間七七四年
2007/03/20(火) 17:23:04ID:SLFDVjsa上杉軍が撤退する織田軍の尻尾掴んだ。
(細かい数はともかくとして)織田方に被害が出た。
一方で織田武将は特に死ぬことも無かった。
結局、上杉厨が謙信マンセーしたり、織田厨が必死に誤魔化すような重要な戦いじゃない
地味〜な局地戦じゃん
0203人間七七四年
2007/03/20(火) 23:01:52ID:5yzTu1rE>長柄槍・・・長さは3間(約5.4m)の物が主流だが、織田家では3間半(約6.3m)上杉家や北条家では2間半
> (約45.m)の長槍を使っている。
> 兵の弱い家ほど接近戦を嫌い、柄を長くした槍を使っているようだ。
0204仙台藩百姓
2007/03/20(火) 23:22:51ID:ZGaCtJbo0205人間七七四年
2007/03/20(火) 23:32:12ID:LxJ2/IT9謙信恐るべし
〜上杉謙信 信長が恐れた戦略家〜(仮)
平成19年4月4日 (水) 22:00〜22:43 総合
武田信玄の宿敵である上杉謙信が、武田を完膚なきまでに叩いた織田軍に鉄槌を食らわせる。
その時歴史は動いていないが、上杉謙信が織田信長の大軍を一蹴した手取川の戦いをお送りします。
0206人間七七四年
2007/03/21(水) 13:22:35ID:0cNXK5WH誇大広告だな
謙信公マンセェー、織田厨歯軋りな内容になりそう
0207人間七七四年
2007/03/21(水) 13:28:11ID:wjTkuJLN0208人間七七四年
2007/03/28(水) 02:55:54ID:WEv+OQ2j0209人間七七四年
2007/03/28(水) 08:55:43ID:ATpCnh9W常識的に考えて…
0212人間七七四年
2007/03/28(水) 11:28:32ID:vo5n6uvdでも、織田は逃げたなー。唄まで作られて
ただ、織田の逃げっぷりの良さは判断的にはすばらしい。
金ヶ崎の退き陣がかぶる。
ガチにやってたら織田方大敗北、織田家自身を危うくしただろうな。
織田にとっては結果オーライだよ。
0213人間七七四年
2007/03/28(水) 11:31:40ID:9KjD8PYU武田と一緒にしてもらっては困る
0214人間七七四年
2007/03/28(水) 12:41:52ID:s2s7ZkrY織田家の同盟国である能登一国が陥落したという意味では大きいのでは。
北陸の織田戦線は大きく後退した。
0215人間七七四年
2007/03/28(水) 14:06:05ID:WEv+OQ2j信長は伊達をつうじて本庄を謀反させることに失敗したし、
ぎゃくに秀吉が無断で戦線離脱。畿内も松永謀反で相当な窮地だったし。
0216人間七七四年
2007/03/28(水) 14:56:54ID:9KjD8PYU0217人間七七四年
2007/03/29(木) 00:19:52ID:wCT1CkNIやっぱり手取川の戦いだ♪
NHKその時歴史が動いた
謙信恐るべし
〜上杉謙信 信長が恐れた戦略家〜(仮)
平成19年4月4日 (水) 22:00〜22:43 総合
0218人間七七四年
2007/03/29(木) 01:56:03ID:wCT1CkNI第283回
謙信 恐るべし
放送日 平成19年4月4日 (水) 22:00〜22:43 総合
番 組 内 容
越後の龍・上杉謙信。生涯70回以上の合戦でほとんど負けたことがない戦の天才である。
しかし、謙信の戦は決して私欲からではなかった。彼は、戦国乱世の秩序回復を本気で志し、
助けを求められば労を惜しまず駆けつけた。その一方で、争いをなくすために国を豊かにしようと
特産品の開発に力を注ぎ、越後を経済大国に押し上げた。この謙信を恐れたのが織田信長だった。
信長が謙信に贈った「洛中洛外図屏風」。近年の研究で、この中に足利将軍邸に向かう謙信の姿が描かれていることが判明した。
そこには、必死に謙信に媚びを売る信長の心が透けて見える。
しかし信長の勢力が大きくなるにつれて、両者の関係は崩れていく。
謙信は信長と対立する足利義昭や毛利氏から「反織田同盟」の盟主となる。
そして加賀・手取川で最初で最後の頂上決戦を繰り広げる。
謙信は、この戦いで信長自慢の鉄砲隊を完全に封じ込め、
織田軍の精鋭部隊を完膚無きまでに打ち破り、信長を窮地に追いつめた。
ところが謙信は その直後に死去。歴史は再び信長を中心に回り始める。
信長が恐れた武将、上杉謙信の知られざる実像に迫る。
0219人間七七四年
2007/03/29(木) 07:43:31ID:kImeMk1P>謙信の戦は決して私欲からではなかった
・・・
0220人間七七四年
2007/03/29(木) 08:45:53ID:xzTDDpuy0221人間七七四年
2007/03/29(木) 12:15:28ID:P9Q/d/Oc>謙信の戦は決して私欲からではなかった
この辺はさすがにキモすぎるw
謙信は有能な領主ではあるけど、農繁期狙って略奪まがいの出兵を繰り返してる
ごく戦国大名らしい大名じゃん
0222人間七七四年
2007/03/29(木) 12:19:37ID:P9Q/d/Oc>謙信は、この戦いで信長自慢の鉄砲隊を完全に封じ込め、
>織田軍の精鋭部隊を完膚無きまでに打ち破り、信長を窮地に追いつめた。
手取川のあの書状からここまで想像(妄想)できるNHKは天才w
0223人間七七四年
2007/03/29(木) 23:35:45ID:TTHxGTxi0224人間七七四年
2007/03/30(金) 00:21:37ID:SFTAZPgZタイトルがタイトルだから仕方ないか
何年か前は天皇がアンパン食った日を
歴史が動いたとかホザいていたし
0225人間七七四年
2007/03/30(金) 02:29:37ID:sBqJ+J2P0226人間七七四年
2007/03/30(金) 02:39:03ID:7JWmlivPおまいら悔しかったら>>1の原文を平文に直訳してみろやww
わかったふうな口を利いて、できんかったら笑いものやぞww
知ったかがこのスレに出入りするのは、おおよそ10年早いな(爆
一次史料による手取川合戦の顛末は、本朝公共放送が承認するとおり、
国民的合意じゃ。と、挑発してみる。
0228人間七七四年
2007/03/30(金) 09:27:47ID:/jhH7SP40230人間七七四年
2007/03/31(土) 05:02:31ID:888cD4WY謙信儲 恐るべし
放送日 平成19年4月4日 (水) 22:00〜22:43 総合
番 組 内 容
越後の龍・上杉謙信。何度も関東に出兵しながら何の成果も残せてないある意味天才である。
略奪と人身売買が得意な彼は、戦国乱世に託けて他国を蹂躙することを本気で志す、
その一方で、家臣に反乱を起こされまくり越後の国力を消耗させた。この謙信を恐れたのが織田信長だった(笑)
政治力の無さから一向一揆を起こされまくり、鎮圧虐殺に忙殺され跡取りも指名せずに
便所で死んだ謙信。そこには先見性の無さが透けて見える。
謙信は信長と対立する足利義昭や毛利氏から「反織田同盟」の盟主となる(盟主・・・?)
そして加賀・手取川で最初で最後の頂上決戦(笑)を繰り広げる。
謙信は、この戦いで信長自慢の鉄砲隊(笑)を完全に封じ込め、
織田軍の精鋭部隊(笑)を完膚無きまでに打ち破り、信長を窮地(笑)に追いつめた。
ところが謙信は その直後にアル中で死去。歴史は再び信長を中心に回り始める。
捏造軍神、上杉謙信の知られざる実像に迫る。
0231人間七七四年
2007/04/02(月) 01:28:12ID:rIPTrRVX0232人間七七四年
2007/04/02(月) 04:09:40ID:NQ8Bfx9A昨日、近所の手取り川行ったんです。手取り川。
そしたらなんか上杉勢がめちゃくちゃいっぱいで退却できないんです。
で、よく見たらなんか垂れ幕下がってて、毘とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、七尾城陥落如きで普段来てない手取り川に来てんじゃねーよ、ボケが。
七尾城陥落だよ、七尾城陥落。
なんか郎党連れとかもいるし。一族総出で手取り川か。おめでてーな。
よーしそれがし織田勢討ち取っちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、能登やるから手取り川から出てけと。
手取り川ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
流されてる奴といつ喧嘩が始まってもおかしくない、
溺れるか討たれるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。
で、やっと渡れたかと思ったら、岸の奴が、千人余討ち取り、とか言ってんのよ。
あのな、千人余討ち取りなんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔してなにが、千人余討ち取りで、だよ。
貴様はほんとに千人余討ち取ったのかと問いたい。問い詰めたい。小一時間問い詰めたい。
貴様、千人余討ち取りって言いたいだけちゃうんかと。
渡河退却通の俺から言わせてもらえば今、渡河退却通の間での流行はやっぱり、
洪水、これだね。洪水で流されてアボン。これが通の逃げ方。
でもこれをやると次からアンチにマークされるとゆう危険が伴う、諸刃の刃。
素人にはお勧めできない。まあ貴様らド素人は、関東で略奪でもしてなさいってことだよ。
おやすみ
0233人間七七四年
2007/04/02(月) 04:42:30ID:CdZU39oX信玄 病死
元就 病死
家康 病死
秀吉 病死
信長 横死 うそ?名将だよね?んな間抜けな死に方してないよね?え、ほんと?
0234人間七七四年
2007/04/02(月) 04:50:21ID:GI1vy/ur0236人間七七四年
2007/04/02(月) 09:35:58ID:v6Vbz1ir数頼みの織田なんかこんなもん。今まで運がよかっただけ。
信長の最後が全てを物語っている。
0237人間七七四年
2007/04/02(月) 09:47:26ID:IJpONR9a0238人間七七四年
2007/04/02(月) 12:03:19ID:eITK05dA長連龍が安土城へ行って、援軍を求めたのが発端。
信長は承諾して、柴田・丹羽・滝川・羽柴などの大軍を差し向けた。
織田軍は、能登七尾城目指して加賀へ入った。
加賀は当時、織田家にとって敵地。喧嘩を仕掛けたのは織田軍。
0240人間七七四年
2007/04/03(火) 02:41:28ID:DsPWwLYEby北条厨
0241人間七七四年
2007/04/03(火) 04:05:37ID:7P1y0uUv誰とはいわないけど、自業自得の横死は恥ずかしいよw
0242人間七七四年
2007/04/03(火) 10:49:50ID:dCQ00/uv0243人間七七四年
2007/04/03(火) 11:24:15ID:TeS/sIER0245人間七七四年
2007/04/03(火) 19:36:37ID:zufrLwAv0246人間七七四年
2007/04/03(火) 20:28:31ID:HpTYXJiw0247人間七七四年
2007/04/04(水) 14:07:25ID:zRpBF6z7信長が謙信に戦略的な敗北をしたことの方が100倍重要
戦略が糞とか言われ続けた謙信の唯一の完璧な戦略的勝利なのに、
謙信信者共はあんまりここには触れないのは何でなんだぜ?
信者的にも謙信=戦略が糞でFAって感じで、戦略は諦めて戦術に縋ってるから視えないのか?
0248人間七七四年
2007/04/04(水) 14:58:13ID:W2MhxHir疫病等が重なりたまたまはやく落ちたため、救援軍を迎え撃ったまで。
救援が間に合えば普通に国境まで引いただろう。
別段戦略というほどのことではない。
その場々臨機応変に対応するのが戦上手といわれる所以なのだよ。
そこが魅力でもあるので敢えてツッコマないのだ。
0249人間七七四年
2007/04/04(水) 16:54:18ID:83Rr1V0r0250人間七七四年
2007/04/04(水) 18:23:46ID:hyZkIUALいや、信長を恐れさせた戦略というのだから。
謙信の最後の遠征計画は関東だから、三郎景虎の関東管領就任式を
北条氏の了解のもとに行ない。謙信が上杉景虎・北条氏政・武田勝頼・上杉景勝らを率いて
東海道を上洛する大戦略があった。とかいう大法螺をNHKにやって欲しいと思っている。
この大戦略なら、信長もマジで降伏したんじゃね?
0251人間七七四年
2007/04/04(水) 22:09:11ID:/ifQRxvu0252人間七七四年
2007/04/04(水) 22:40:02ID:AbpEdJBr0253人間七七四年
2007/04/04(水) 22:51:09ID:gECBru9lNHK「その時歴史が動いた」を見てファンになった。
謙信は男としてカッコよすぎる!
0254人間七七四年
2007/04/04(水) 22:51:39ID:jthtH1vP信長も降参ですか。
戦だけといわれていたがきちんと政策もうまかった。
惜しい男を無くしたね。
0255人間七七四年
2007/04/04(水) 22:57:40ID:Q4FuvTlm謙信:第三次信長包囲網の要、織田軍に完勝、足利援護の上洛前脳卒中死
慶事も慶事が立て続けに起こる信長の悪運、家康も顔負け
0256人間七七四年
2007/04/04(水) 23:03:37ID:SPeGJ+0/0257人間七七四年
2007/04/04(水) 23:16:59ID:poip27Jo西軍の勝利だったろう
関東に南下して家康の本隊と決戦
戦力比 10万対2万ぐらいでも勝ちそう
0258人間七七四年
2007/04/05(木) 00:06:11ID:pZEuMIBm一次包囲網って何でしたっけ?
0259人間七七四年
2007/04/05(木) 00:38:09ID:fCYGFk2q>>255ではないが、浅井の裏切り(金ヶ崎=小豆袋)のことじゃないかな?
>みのもんたが司会やっていた特番では、
>信長が暗殺したと定義付けしていたけどな >>256
あの番組でも、信長は弱すぎて謙信に勝てない説(杉山光男氏)だったな。
0260人間七七四年
2007/04/05(木) 01:03:14ID:O5/cv9VR三好三人衆−朝倉−顕如に浅井を加えたものでは?(1570年のいわゆる江濃越一和の和睦で終了)
0262人間七七四年
2007/04/05(木) 04:48:16ID:/PgKzunl私利私欲のために塩を武田に売ったり人身売買をやってたじゃんw
0263人間七七四年
2007/04/05(木) 09:18:05ID:00ZFgxJ00264人間七七四年
2007/04/05(木) 09:26:53ID:cEPCuyNRおまいの考え方だと歴史上の人物はもとより現代の人間も全て捏造になるわけだが。
多かれ少なかれどんな人物も良い方でも悪い方でも誇張されるもの。
0265人間七七四年
2007/04/05(木) 09:44:15ID:QPJKQHUJ越後、越中あわせても100万石届かんだろうに
0266人間七七四年
2007/04/05(木) 09:45:23ID:00ZFgxJ00267人間七七四年
2007/04/05(木) 09:55:30ID:aQA79n5u文を送ったのって史実?
昨日のNHK特集でやってたけど
0268人間七七四年
2007/04/05(木) 10:00:30ID:tA0O9y/h当時の動員能力は多く見積もっても3万まででしょう。
意見いろいろあると思いますけど。
0269人間七七四年
2007/04/05(木) 10:01:26ID:OkA8Nj6fあまり信用しないように。
前の川中島のも酷かった。
0270人間七七四年
2007/04/05(木) 10:33:25ID:fCYGFk2q天正6年の苗字尽に83将(寺社含む)の名前。
越後・出羽・越中・能登・加賀・西上野
これに関東勢の常陸(佐竹)と上総(里見)らを加えれば、楽に6万。
永禄3年関東幕注文の250将11万5千の実績を考えれば妥当だろう。
0271人間七七四年
2007/04/05(木) 11:28:12ID:v2QoplX/ゲスト誰よ?
0272人間七七四年
2007/04/05(木) 12:03:20ID:tA0O9y/h上杉家軍役張なんかとは性質が違うし、イコール西上軍の動員数にはとうていならない。
合戦時の可能動員数は、越後、越中、出羽・上野の一部、能登の降兵
程度で構成が適切に思う。当然、それぞれ留守も置かないといけないし。
関東諸将からの援軍は状況下無理だろう。
そうするとやっぱり3万程度だったのではと推測する。
0273人間七七四年
2007/04/05(木) 15:04:53ID:mUvJHfTR0274人間七七四年
2007/04/05(木) 16:49:14ID:rmo64oUF0275人間七七四年
2007/04/05(木) 17:45:03ID:kIBf89yuttp://game11.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1162691028/l50
0276人間七七四年
2007/04/05(木) 19:09:36ID:lmP9M7b4天下をつかみかけてたのもわかる。
0277人間七七四年
2007/04/05(木) 21:21:05ID:00ZFgxJ0しかも命知らずの強兵。
0278人間七七四年
2007/04/05(木) 21:30:55ID:BS2MqfvJ兵站は上杉が請け負うの?
6万の兵を動かせるだけの財力あるかな
0279人間七七四年
2007/04/05(木) 21:51:43ID:nY0NhABxなんかあげたりはするかしんないけど。
0280人間七七四年
2007/04/05(木) 22:54:24ID:0Ync8jpc戦略が糞なんじゃないよ。他人の領地を奪うという意識がなかったから、戦略的成功
という概念そのものがなかった。人助けの発想だから、信玄・氏康の2正面を相手に
闘ってたわけだしな。領地や天下うんぬんが問題なら信玄・氏康どっちかと上手くやっときゃ、
領土なんてウナギ昇りだったと思うよ。
対信長戦では、相手が巨大すぎたんで、謙信も始めて他国を領國化するという発想を
持ったんだろう。
0281人間七七四年
2007/04/05(木) 23:32:21ID:fCYGFk2q「経済力でも軍事力でも信長は謙信にかなわない」(NHK)つぅレベルなんだから
問題なしじゃまいか?
>他人の領地を奪うという意識がなかったから
もともと関東管領は、関東諸大名・関東諸武将の庇護者(調停役)だね。
信長の横暴(将軍家を蔑ろに)に憤った謙信が本気で領地を拡大(信長に対抗)した
のが天正4年〜5年の二年間。越中平定、能登併呑、加賀制圧。あまりにも凄すぎじゃまいか。
0282人間七七四年
2007/04/05(木) 23:35:49ID:4S2TnRTv財力はあったと思うよ。
上杉謙信は、かなりの蓄財上手で死後春日山城には、
小判で27000両も蓄えられていたからね。
0283人間七七四年
2007/04/05(木) 23:45:29ID:+QOVvCsR0284人間七七四年
2007/04/06(金) 00:08:00ID:mZXFdI5+0285人間七七四年
2007/04/06(金) 00:14:54ID:SkxpgOuX0286人間七七四年
2007/04/06(金) 02:19:29ID:nqW4RvDXでも関東で潰しあいすぎて時間を無駄にして結局三者とも馬鹿を見たね。
0287人間七七四年
2007/04/06(金) 05:25:18ID:VWvWrHtt内政も天才的だし、外交も巧かった
問題は、信仰心による部分であって
0288人間七七四年
2007/04/06(金) 06:39:15ID:VWvWrHtt謙信の残した遺産の内、銭27,140両
(1570年代で、銭1両=現在価値12万円=米3石=金1枚=銀2枚=黄金0.1枚)
27,140両=32億5680万円=8万1420石=金2262枚=銀4523枚=黄金227枚
くらいの蓄えがあったことになる。
(この時代の1万石辺りの最大動員数は、250人前後(予備役含む))
(他国への戦争で動員する場合は、1万石辺り80人前後で概算される)
謙信時代の最大石高を100万石〜120万石として、動員数8000〜9600人(最大2万5千人〜3万人)程度
一向宗や周辺豪族の強力を取り付ければ、
NHKみたいに上洛で6万人くらい動員しててもおかしくはない
0289人間七七四年
2007/04/06(金) 06:45:22ID:VWvWrHtt上杉軍の軍費の多くは、”通商から上納される利益で賄(まかな)われていた”というから、
上方との海運通商で100万石相当の利益が有ったんだろう
0290人間七七四年
2007/04/06(金) 10:20:46ID:KrTDhX4g相越同盟が軌道に乗らなかった(関東上杉領の返還など)のは、甲越和与(義昭御内書による)
があったからだとされるのが最新の研究。やはり謙信の「義」だったようだ。
0291人間七七四年
2007/04/06(金) 18:47:55ID:6CFlfevh0292人間七七四年
2007/04/07(土) 23:58:56ID:JA3EGiU9話だけでなく石川県内から当時の書状とか見つかってんだわ
あと前田家の史料も鍵を握る
前田家は皆がご存知の通り織田家の家臣だが江戸時代に入ると上杉家との婚姻関係等を持つようになる
そのため一方的な織田家贔屓な史料を残す様な事はしていない
領内の長尾上杉家縁の寺や神社の庇護もしている
その前田家や家臣筋の家から当時の史料が続々と発見されている
ひとつは鑑定が済み手取川の合戦があった事を裏付けた
他は現在鑑定中のはず
0293人間七七四年
2007/04/08(日) 01:03:51ID:X23wFEc60294人間七七四年
2007/04/08(日) 02:52:31ID:8jXaeCLT0295人間七七四年
2007/04/08(日) 06:30:35ID:w5pFaQy10296人間七七四年
2007/04/08(日) 08:52:16ID:3sBOG6tR本能寺の変がなくてもつぶされてたのかな。
0297人間七七四年
2007/04/08(日) 09:48:47ID:9lCgB69U謙信6万なら、信長は最低60万人は集めないと戦えないよ。
0298人間七七四年
2007/04/08(日) 11:19:37ID:PGj+YdHT関東地方での北条の動きに気を取られて、
それ以上織田領への侵攻が出来なかったんだよな。
結局北陸に縛られっぱなしの、戦略眼がグダグダのお方でございます。
0300人間七七四年
2007/04/08(日) 20:37:58ID:NCUXxQ+Q各勢力が婚姻や怨恨で利害関係が複雑に絡んでるから敵を一つに絞るとか無理。
敵が大軍で来ようと指揮者のカリスマ性や用兵。さらに戦地の環境如何で充分互角以上の戦い方ができる。
長期に渡り負けない戦い方をしつつ相手の撤退を待ち追撃すれば大軍ほど大打撃を受けるのは常識。
ゲーム脳の頭では理解できないだろうがな。
0301人間七七四年
2007/04/08(日) 20:59:50ID:dBGfHFM9去年だか一昨年だか忘れたが石川県内の民家から信長から七尾城の畠山氏の重臣で織田派だった長氏に宛てた援軍要請に答える書状が発見されて、
それが本物と鑑定されたのがあった。
それまで手取川の合戦そのものが上杉家の記録にしかなく胡散臭く眉唾物だったわけだが、
この書状の発見で手取川の合戦の信憑性が一気に上がったようだ。
0302人間七七四年
2007/04/08(日) 22:19:14ID:kW2LX/jQそれが本物と鑑定されたのがあった。
から
>それまで手取川の合戦そのものが上杉家の記録にしかなく胡散臭く眉唾物だったわけだが、
この書状の発見で手取川の合戦の信憑性が一気に上がったようだ。
この結論に至るには相当の飛躍が必要だろう。
0303人間七七四年
2007/04/08(日) 23:33:06ID:w5pFaQy10304人間七七四年
2007/04/08(日) 23:45:29ID:e21PlKPU信長亡き後、前田家に仕官して後に重臣クラスまで昇進。
畠山氏の元家臣の多くも前田家に仕える。
0305人間七七四年
2007/04/09(月) 00:51:58ID:7K9S1nYC有名だけどな。
0306人間七七四年
2007/04/09(月) 02:55:19ID:+6Jfi93h0307人間七七四年
2007/04/09(月) 04:40:21ID:T45bGTSz0309人間七七四年
2007/04/09(月) 20:09:33ID:mcrp1Wo9謙信=信玄>家康>秀吉>光秀>信長
川中島の戦
三方が原の戦
小牧長久手の戦
山崎の戦
本能寺の変
で決まりで。
後は大局観や戦略的な能力の話なわけだが…
跡目を決めずに内乱を引き起こして、上杉家の影響力を低下させた謙信と
一番美味しい所を食べ損ねて部下に裏切られて殺された信長ならどっちもどっちって感じがする。
それに信長の死後の織田家の瓦解と何だかかんだで関が原まで影響力を持ち続けた上杉家では
後者の方が全然マシだろ。
寿命や生まれた時期、場所もそれぞれだが…運も実力のうちって言うなら結果的に生き残った上杉家の勝ち。
0310人間七七四年
2007/04/09(月) 20:16:25ID:qZq9O0se0311人間七七四年
2007/04/09(月) 21:27:51ID:+Q4cQM5Q0312人間七七四年
2007/04/09(月) 21:37:05ID:mcrp1Wo9戦闘マニアの謙信や旧体制から脱出出来なかった武田家は確かに
天下取るのは無理っぽい。
でも陰謀か個人的恨みか分からんが本能寺を成立させる時点で、自分の危機管理も出来ない
信長でも結局無理だった。
信長が謙信や信玄よりも影響力が有ったのは結局寿命の違いだけで、
最後は自分の家の嫡流さへ維持出来なかったのは歴史的な事実。
秀吉は確かに精神面では信長の後継者だろうが、
赤の他人の天下取りのトスでしかなかったって事になる。
だから馬鹿度でも信長の方が上w
天下と言う最高の美女にプレゼントやらデートやらでやっと初エッチするって時に
愛撫までして、結局最後は秀吉に取られたって…ギャグだぜ。
まぁだから歴史に名も残るわけだが。
0313人間七七四年
2007/04/09(月) 21:53:02ID:9yRDLT/0とか稀少大名。領土を守るor機会があればちょっとだけ広げることが
命題の大名が大半。天下取りレース的に捉えることがそもそも間違いw
日本史上、全国をまとめるようなヤツは記す価値があるというだけ。
謙信は戦馬鹿だが、自領を守り幕府を助けることに生き甲斐を感じて
るんだから、信長や秀吉の戦略とは違って当たり前。目的が違う。
0314人間七七四年
2007/04/09(月) 22:07:19ID:Cxj+YigV0315人間七七四年
2007/04/09(月) 23:00:54ID:bQ92CK0h0316人間七七四年
2007/04/09(月) 23:54:41ID:cW7oeC7P信長 絶対王制
謙信 貴族院制
どっちが良かったんじゃろうか。
0317人間七七四年
2007/04/10(火) 02:44:24ID:UdiqP4zv0318人間七七四年
2007/04/10(火) 12:43:22ID:M8K31Qaf謙信が天下を取れたかとかの是非以前、そういう固定概念自体に問題がある
佐幕を乱世終結の道と考えた謙信信玄の側が病に倒れ、
対して倒幕側の信長が偶然に時代に勝利しただけの話
0319人間七七四年
2007/04/10(火) 20:22:50ID:32ihcS5R0320312
2007/04/10(火) 22:52:47ID:xw/A50C7>>319
俺は信長を信玄や謙信以上に優れてるとは思わないが
地理的、時期的条件で有利だったとはいえ、戦国時代を終わらせる
大きなキッカケを使った思想と能力は他のどの大名も実現はおろか
発想さえ有ったのか疑わしいほど凄い事だと思う。
結果論よりも意図的と言うか元々の性分で倒幕後、乱世の覇者の思想は上洛する
時には確かに有ったと思う。
信玄、謙信は能力が有っても発想が決定的に欠けてる。
でもそれが劣ってると言うわけでもない。
信長も結局旧体制の象徴として光秀に本能寺で殺されるから結局
最後は旧体制に負けたっていう考え方も成り立つと思う。
秀吉は晩年は狂ってたが、天下を取るまでは信長以上に凄かったしな。
信長が生きてて、上手く天下統一が出来たかも妖しい。
0322人間七七四年
2007/04/11(水) 00:27:37ID:FMa7uw42謙信「みんな自分に与えられた領土の治安を守って経済を発展させるよう努力しようぜ。
悪いことしてる奴がいたら出張って成敗してやるから」
信長「おらおらー領土広げろや、天下じゃ天下じゃー」
信長「謙信つええwとりあえず謙信は東国を俺は西をおさめようぜ」
謙信「はあ?意味ワカンネ。無断で勝手に領土とか広げんなよ」
0323人間七七四年
2007/04/11(水) 04:40:12ID:g305Xbto0325人間七七四年
2007/04/11(水) 18:27:04ID:kRMUluZM信長は早い段階から天下を意識してたのは伺えるし
明確なビジョンがあったのもわかる
それに比べると信玄も謙信も結局反信長でしか過ぎなかった
とはいえ謙信の生き様は美しくて
NHKで加来さんも言ってたが男として惹かれるものがあるよ
関係ないけど蒼天航路の作者に信長主人公の戦国モノの漫画描いてほしいな
0326人間七七四年
2007/04/11(水) 22:42:40ID:B4BwGw2H>各勢力が婚姻や怨恨で利害関係が複雑に絡んでるから敵を一つに絞るとか無理。
多方面に配慮が出来尚且対処しうる能力こそ戦略家に要求されます。
その状況下にありながら一方面に長期遠征が出来るのは上々です。
ただ、謙信公はそこまで戦略が器用なお方ではございません。
0327人間七七四年
2007/04/11(水) 23:41:51ID:eSYf5oK4>畠山氏
今まで信玄だと思われてた肖像画は実は能登の畠山氏だという事が証明されてきたらしいね。
0328人間七七四年
2007/04/12(木) 00:02:45ID:mbZ2epHf信憑性のあるアノ信長肖像画に何で誰も従わないんだろう
再現するなら、実は段田安則とかが適任なんだろうに
0329人間七七四年
2007/04/12(木) 01:20:25ID:BsaUzv9V戦が多少強いだけの朝倉義景w
0330人間七七四年
2007/04/12(木) 01:43:13ID:355im4kYでも今さらあのイメージを覆すのも大変だよなあ。銅像とかもあれをベースに
作っちゃってるし。でも信玄はあの世で ちょwww俺こんな顔じゃねーよwww
とか思ってるんだろうか。
0331人間七七四年
2007/04/12(木) 02:15:33ID:K4cZcQ/x0332人間七七四年
2007/04/12(木) 07:02:57ID:nDEXoab1>信長「謙信つええw
0333人間七七四年
2007/04/12(木) 07:19:09ID:jFodY9cA本物の肖像画は水野晴郎ソックリだもんな
0334人間七七四年
2007/04/12(木) 09:46:25ID:yfi3xwoy0335人間七七四年
2007/04/12(木) 13:12:18ID:GhwB06Mz逆に信玄とする根拠が無いのにね。
長谷川等伯自体、信玄と接点無いらしいし。
0336人間七七四年
2007/04/12(木) 14:41:53ID:GZ1yK7PT名家血統大好き人間の定信が尊卑文脈なんかと一緒に過去の偉人の
肖像画の整理を命じたんだけど、これが結論先にありきでイメージに
沿った絵を選んだかしてメチャクチャなモノになった。
足利直義→源頼朝、高師直→足利尊氏といったトンデモ認定はほとんど
こいつがやったことらしい。
0337人間七七四年
2007/04/12(木) 14:56:34ID:GhwB06Mzなーるほど。アリガト
0338人間七七四年
2007/04/12(木) 16:07:57ID:a/6eq7Gj0339人間七七四年
2007/04/12(木) 16:24:05ID:rtiKiw6t0340人間七七四年
2007/04/12(木) 20:35:22ID:jFodY9cA高師直→足利尊氏は知らなかった。TVでただの武士と紹介されてるのは見たけど。
アリガト
0341人間七七四年
2007/04/12(木) 23:36:27ID:qyttSw1u平重盛→足利尊氏
の新説通りだと直義のほうがどう見ても男前なのが違和感あるんだよなあ。
本当にそうだったとしても尊氏のほうをもっと書くだろうと思う。
根拠はあるんだろうけどなんか支持できない。
0342人間七七四年
2007/04/12(木) 23:37:57ID:qyttSw1u本当にそうだったとしても尊氏のほうをもっと男前に書くだろうと思う。
の間違い
0343人間七七四年
2007/04/13(金) 00:44:35ID:k+NlxEtn0344人間七七四年
2007/04/13(金) 09:41:05ID:sPSCwdB9西郷隆盛の肖像画も本人のものではない
0345人間七七四年
2007/04/13(金) 09:44:08ID:sPSCwdB9本物は宣教師が描いた信長の肖像画だけ(実在する)
http://fukashigimusic.web.infoseek.co.jp/daki_photo.html
このページ面白いよ
0346人間七七四年
2007/04/13(金) 14:00:13ID:5E9K4Jii0347人間七七四年
2007/04/13(金) 19:25:20ID:CdOPRv1Jつ、19世紀にイエズス会関連の史料(実物は消失したが、写本が残存)を
編集したときに描かれた肖像画(お手本は40数点ある日本の肖像画=教科書に載ってるやつ)ww
0348人間七七四年
2007/04/13(金) 20:40:15ID:fw+q1YmZあの顔と行為のギャップに敵味方も度肝を抜かれたんだろ
0349人間七七四年
2007/04/13(金) 21:49:29ID:hcJYypUAhttp://www.ikedaya.com/ikedatown/castlepre/k.html
0350人間七七四年
2007/04/13(金) 21:59:47ID:o2xL70ph0351人間七七四年
2007/04/14(土) 22:42:23ID:HbYC5za7似てるけど、もっと細身にした感じだよ。
0352人間七七四年
2007/04/15(日) 14:49:52ID:sAEQ0Zkx正法眼蔵随聞記とかで直義の人格者ぶり、署名で政治家としての
自信ぶりとか昔から刷り込まれてたから、あのご立派な頼朝像が
実は直義だったと聞いても納得がいった。
逆に尊氏は目先の利益につられる品性卑しい人間というイメージが
あったので、ああこんなものだろう、っていう。いまだってトップの
政治家や財界人なんて人間のクズみたいな外見の奴はいくらでもいる
わけで、画家がいちいち美化しようにも限界がある
オレはむしろ武田信玄がホントに水野晴郎閣下だったことに衝撃を受けた
0353人間七七四年
2007/04/15(日) 18:52:18ID:3B9Twp5X0354人間七七四年
2007/04/15(日) 19:05:08ID:sAEQ0Zkx「一般に信玄の画像と思われていた絵」の話になってたんだな。
0355人間七七四年
2007/04/15(日) 21:41:01ID:zCL3auKy随分尊氏を貶めてるけど俺はもっとカリスマのある人物だったと思ってる。
そうじゃなきゃ天皇、義貞、正成つまり自分以外全部敵に回して勝てないだろと思う。
後醍醐親政が武士にとって受け入れがたいものだったんだろうけど尊氏にそれだけ
魅力というか能力があったから武士が見方したと思ってる。あの重盛像からは
カリスマや覇気を全く感じない。あんな人物が天下取れたとは思えない。
さらに親説では3枚目の藤原光能が義詮だそうだが、全然似てないよね。
俺はあれ見たときまず公家だと思った。武士っぽくない。と、ここまで書いて思ったが
松平定信も見た目でそう思って旧説通り決めたのかもしれない、とも思う。
でも新説はやはり違和感がある。
0356人間七七四年
2007/04/15(日) 21:46:38ID:fJz5Axsdttp://www.interq.or.jp/pure/miyatate/
0357人間七七四年
2007/04/15(日) 23:02:36ID:DvmYA1bMマジならこれは痛いよね
0359人間七七四年
2007/04/16(月) 04:34:01ID:7UVJdzE10360人間七七四年
2007/04/16(月) 11:58:11ID:TglTjtgy後世の人に歴代自民党党首とか幹事長の報道写真並べて
見せたら同じ感想をもたれると思ふ
0362人間七七四年
2007/04/16(月) 21:58:22ID:9tB1pGOuどんどんスレ違いになってしまうが
義詮に関しては提唱者はあの光能像が
等持院の義詮像に似てるというのが
根拠だったはずだが?
見比べると確かに似てる。
0363人間七七四年
2007/04/17(火) 00:15:46ID:6qDutDC4>>362
光能像だけどさ、あれが実が重盛ってことはないか?でぷっとした重盛像と
似てるとも言える。頼朝の木造と肖像は似てないが、それを言ったら尊氏の木造と
重盛像も似てない。権力者を本物よりかっこよく書くことはあってもかっこ悪く書くことなど
考えずらいから(明の皇帝みたいに嫌われてたわけもないと思うので)
尊氏が木造に近い顔してたとしたら重盛像は尊氏とは思えない。
0364人間七七四年
2007/04/17(火) 00:20:08ID:6qDutDC4ちなみに似てないというのは、重盛像が尊氏、光能像が義詮だとしたら
親子なのに全然似てない、という意味です。
0365人間七七四年
2007/04/17(火) 11:48:09ID:LLyLQalg0366人間七七四年
2007/04/17(火) 11:54:20ID:v3pzZsBF正しい作成時期や作者などはわかっているんだろうか。
0367人間七七四年
2007/04/20(金) 17:30:12ID:lk9zIw3v戦国時代の武将をあつかった武者絵は江戸期に量産されるけれども、
江戸期には記録マニアが写しや控えを取っていることが多くて、その
普及度から描かれた時代がおおよそ特定できているし、絵の構図や
意匠の元ネタ、真似された系譜などからも時代順が見て取れる。
武田信玄が唐のかしらのかぶとをかぶって赤い袈裟を着た姿が、実は
江戸期に入ってのものだったとかいったこともかなり正確に分かって
いるし、もう画家はある程度ステータスのある職業だったので、長谷川
等伯のように印や署名で書いた時代を特定できるものもある。
かえすがえすも松平定信が余計なことをして混乱させてくれたことが…
0368人間七七四年
2007/05/27(日) 12:04:05ID:N7926Zja0369人間七七四年
2007/05/28(月) 00:51:55ID:M6KdPDhw戦国時代ではありません。移動お願いします。
http://academy6.2ch.net/history/
0370人間七七四年
2007/06/03(日) 19:24:22ID:d0JSb9njばーか
0371人間七七四年
2007/06/13(水) 07:25:08ID:4+lc/Crp歴史的資料って謙信の手紙だけだよね
0372人間七七四年
2007/06/14(木) 17:49:03ID:fiTv0AJZもしそんな大敗だったら信長の性格からして柴田ら主な信長の家臣はただじゃす
まんだろ
敵前逃亡という最大の戦犯の秀吉も謹慎あたりじゃすまないと思うがね
0373人間七七四年
2007/06/17(日) 17:11:19ID:wy4nCHvs0374人間七七四年
2007/06/19(火) 10:40:18ID:idN/OQNj織田方が戦わずに兵を引いたにしちゃ手取川から越前までは常識で見ても引き過ぎ。
手取川から越前国境まで50km弱の距離がある。
自然に考えれば戦闘があって敗れて退いたという見方が自然。
作戦で引いたとしたとしても明らかに引き過ぎで逆に織田方の総指揮をしていたといわれる柴田勝家の指揮官としての才能が疑われる。
0375人間七七四年
2007/06/19(火) 12:30:42ID:1px5Sg/p0376人間七七四年
2007/06/21(木) 12:16:06ID:kJLQ/ciy加賀と越前国境の地形を知らないな。
退いて陣を新たに張りなおすなら国境の丘陵地帯がベスト。
加賀平野が一望できるため相手の動きが手に取るようにわかる。
そこに陣を張れなかったという事は戦に破れて加賀を追い出されたか織田方の総大将がボンクラだったかのどっちかだ。
0377人間七七四年
2007/07/23(月) 11:06:47ID:Jf9GXAvyだから元々が七尾城の後詰だから引いたんだろ
関が原みたいな野戦で決着つけようと出陣したわけじゃないし
0378人間七七四年
2007/07/23(月) 23:00:41ID:cnS0zqgx0379人間七七四年
2007/07/28(土) 23:10:40ID:GkppWlY6謙信は手取川を越えずにそのまま反転して七尾城に帰還してる。
0380人間七七四年
2007/08/05(日) 20:53:12ID:JSOwYyJd手取川行った事あるけど古戦場らしきものは見つからなかった
0381人間七七四年
2007/08/08(水) 22:41:01ID:SsbrNJ33北陸の戦線が後退してしまった。
0382人間七七四年
2007/08/10(金) 21:15:20ID:28RdloZu柴田勝家の手紙など新しい資料も出てきており、かなり信憑性が高くなっている。
状況証拠的に見ても手取り川の戦い直後に信長が謙信の御機嫌取りともとれる書状
を出している事からも織田と上杉の間に物理的衝突があり織田側にダーメージが
あったと推測され。
>ていうか、信長びいきのにわか歴史家、作家がろくすっぽ調べず手取り川の戦いは
上杉方の捏造と言てる例も少なくない。最近出たPHP出版の信長本でも信長公記にまったく
出てないので信憑性なしとかおもいっきり書いてあったし。
0383人間七七四年
2007/08/10(金) 21:19:21ID:nnYNliflその能登の豪族の日記やら、京の公家やらの日記、勝家の手紙などの資料の内容
教えてよ。 謙信への機嫌とりの書状の内容は?
0384人間七七四年
2007/08/17(金) 20:25:34ID:TbxaoWMVあ、言っとくけど俺は戦いはあったと思う
0385人間七七四年
2007/08/18(土) 01:22:44ID:LAZU2mL5謙信はそのまま帰途についたが家臣は国境沿いの大聖寺城まで占拠している。
その記録は大聖寺藩前田家の菩提寺実性院等にある。
ちなみに大聖寺藩初代と二代目藩主の正室は米沢藩上杉家の娘(上杉景勝の孫娘)である。
>>383
前田家に残っている。
信長に助けを求めにいった長氏と家臣はその後前田家に仕えたからな。
どこの資料館かは忘れたが金沢市内の歴史博物館等に展示してあるはずだ。
前田家は織田家の家臣でありながら領内の上杉家縁の寺や神社を保護し続けていた。
大聖寺藩と米沢藩の繋がりもあっての事だろうが、どちらかの肩を持つ様な扱いはしていない。
0386人間七七四年
2007/08/18(土) 08:23:40ID:InZxuq6s金沢の資料館いかないと見れないのか・・・
誰か謙信本でまとめてくんないかな。
0387人間七七四年
2007/08/19(日) 09:01:16ID:HZ5puWqq手取り川がなかったとかにされたら、漫画しか本を読まない馬鹿が一気に押し寄せるだろうな。
0390人間七七四年
2007/08/22(水) 10:49:26ID:/CxBTjTr0391人間七七四年
2007/08/22(水) 10:59:41ID:1zC0eixj派閥抗争。
信長の生前から織田家家臣団の結束は非常にガタガタだった。それを信長の強権が
なんとかまとめていた感じ。
秀吉の離脱は「柴田とは派閥が違うんだから一緒には出来ない」って事だ。
0392人間七七四年
2007/08/22(水) 11:16:04ID:/CxBTjTrありがとうございます。
ただ、下手をすれば敗戦要因とされ、謹慎どころではなく、改易・追放・死罪になる
可能性もあったわけですし、特に癇癪持ちの信長相手にそこまでの
リスクを背負ってまで離脱するメリットがあったのかと・・・
0393人間七七四年
2007/08/22(水) 11:55:43ID:1zC0eixjまあ離脱自体、講談や小説で言われるような突然の命令違反であったかどうか、って言うのは
議論の余地はあるけどね。
0394人間七七四年
2007/08/22(水) 14:27:39ID:/CxBTjTrそうですね。
結局、大規模な戦闘があったのか、七尾落城を受けて帰陣中に殿あたりに接触があった程度なのかでは
事の重要性が全く違ってきますしね。
合理的な信長が衝突の無意味さと危険さから早期撤退主張した秀吉の意を理解していたとしたら
体裁程度の謹慎もうなづけます。仮に秀吉がおとなしく勝家と陣を同じくしていたら
それこそ大規模な戦闘になっていたかもしれず、
織田勢大軍といえど北陸の隘路では精強な上杉勢の餌食になっていたかもしれず、
結果オーライということでしょうか?
この視点から見ると、おおよそ戦闘なんて呼べるほどのものではなかったのかと
推察できます。地方史から接触程度はあったようですけど。
ほとんどは講談の域ですね。
0395人間七七四年
2007/08/22(水) 14:49:43ID:TLF7lQoX推察っていうのは資料などの情報を元にするもんじゃないの?
貴方はまず自分で推察を勝手に広げ、それを「視点」なんて言い換えてるけど
はっきり言って憶測から憶測を産み出してるようにしか見えない
「地方史から〜あったようです」と言うのであれば
その地方史(上にある前田家資料か)とやらを確認した上で、
「推測」ってされるもんじゃないの?
ただレスをチラ見した後に出した結論なんて
あまり意味が無い
0396人間七七四年
2007/08/22(水) 15:13:14ID:Yyd1docU0397人間七七四年
2007/08/22(水) 15:27:08ID:/CxBTjTrなんかくだらないツッコミする人ですね。
あなた的に言うなら推察より考察でしょ。
学会の論文発表じゃないんだから。
そういうの揚げ足取りっていうんですよ。
もともと一級資料もなく、信憑性の怪しい事象故に
講談の域での話と断っているのに、
そんなこといったら話も何もおわってしまうでしょ。
秀吉離脱という視点から考える事自体、おかしいですか?
どうせならそっちの方向で突っこんでほしかったですね。
空気読んでくださいよ。
0398人間七七四年
2007/08/22(水) 18:17:20ID:s1/N2AO+秀吉が勝家と陣を同じくしてなくても大規模な戦闘になっていたかもしれず。
秀吉が離脱したとしても他の諸隊は進軍、大きな被害を出していたかもしれず。
実際、北陸の隘路で精強な一向宗らの餌食になっていたかもしれず。
要するに秀吉離脱って話が講談の域を出ないならその後の事象なんて何とでもこじつけられる。
戦闘と呼べるほどの物が有ったのか、無かったのか?を明らかにする資料には到底なり得ない。
>>385のような「激しい戦闘はあった」とする、地方に残された資料を精査&照合。
それと「接触程度だった」とする論拠と比較検討をするなら兎も角。
秀吉離脱って話から合戦の規模を推し量るのは無理。
0399人間七七四年
2007/08/22(水) 18:52:02ID:FvtMOFXU素直だから。
0400人間七七四年
2007/08/22(水) 19:10:31ID:qSMA4LSJ0401人間七七四年
2007/08/22(水) 19:22:13ID:FwLzzaDr出てこないことから、この戦いは講談咄の域を出ない。
ただし、間抜けな足軽、雑兵、葉武者などが川に落ちて溺死した可能性は
ある。
0402人間七七四年
2007/08/22(水) 19:26:56ID:07dDtiT4第四次川中島でも上杉方の武将は誰も死んでない
でも兵は3500近く死んだ
0403人間七七四年
2007/08/22(水) 19:35:49ID:07dDtiT4それとも編纂した二次資料の書き写しなんだろうか?
彼って相手が退いたケースは「戦えず残念だ」って他の書状(対信玄、対氏政)に書いてるし
0405人間七七四年
2007/08/23(木) 01:04:47ID:ZO+tdYPXどっちも短期間で撤兵して今度は加賀に大軍送ってこっちもすぐ撤退。
一向宗攻略が大詰めを迎えて大忙しって感じか。
もうこの時点じゃ上杉なんてものの数に入ってないと思うよ。
同じ年に僅か7万石の雑賀相手には信長自ら織田の遠征可能な兵力ほぼ全軍で出撃、
一方上杉相手には家臣団に適当に相手させとくって扱いだし。
0406人間七七四年
2007/08/23(木) 01:56:52ID:/3Bc/SJH単なる派閥で片付けられることではない。
派閥構想があるから織田家の結束がガタガタだというのなら、その程度武田にも
上杉にも毛利にも北条にもある。しかしそれでも命令違反で戦線離脱なんてのは
滅多にない重大事だった。少なくとも、派閥だけで説明できることではないよ。
ついでに付け加えると、手取川当時の織田家における派閥を考えるのなら、柴田
に並ぶかあるいは上回る重臣は佐久間であって、その頃の羽柴閥なんて比べれば
弱小。
0408人間七七四年
2007/08/23(木) 11:13:58ID:HNzF5OqT信長が謙信と本気で決戦する気は無かったってことじゃね?
あくまで七尾の後詰めというか、牽制的派兵であって
七尾が落城したら意味無くなるし。
そのへんは上の方のレスでも言われてたけど
上杉は北条に適当に相手させて封じ込めとけばよい相手で
敢えて決戦するメリットって無いでしょ。
0409人間七七四年
2007/08/23(木) 11:42:20ID:lXhjPC4j0410人間七七四年
2007/08/23(木) 13:26:11ID:QL2WP4lF松永が反乱起こしても許したり、説得しようとしたり
荒木に対してもそう
つか手取川の後に大聖寺城近辺まで侵攻を許していたら、粛清してる余裕なんてない
謙信は加賀の一部というより、ほぼ大半を掌握してるっぽいし
よって越前一乗谷が風前の灯
第二次木津川口の戦は一年後だから石山本願寺も健在って状況
さらに松永も謀反を起こすわ、かなり追い詰められてる
0411人間七七四年
2007/08/23(木) 13:53:12ID:rSVAwO/H0412人間七七四年
2007/08/23(木) 14:12:37ID:i4FOZNtC手取川で謙信が勝って謙信なら織田を倒せると思ったから松永は
裏切ったといえる。やはり手取川の合戦はあったともうよ9
0413人間七七四年
2007/08/23(木) 16:20:06ID:1noFv/+6まあその秀吉も天下があらかた平らげば、林や佐久間よろしくこの命令違反をほじくりかえされて
織田家から放逐されただろうな。
0414人間七七四年
2007/08/23(木) 18:58:09ID:EbI4KU6A羽柴家は実質織田のもの
放逐するとは思えんよ
0415人間七七四年
2007/08/23(木) 19:04:36ID:1noFv/+6秀勝に強制的に羽柴家を継がせた上で隠居させ、更に圧力をかけて放逐、位の事は信長はするだろ。
信雄を送りこんだ畠山家みたいに。
0416人間七七四年
2007/08/23(木) 19:06:03ID:1noFv/+6何でこんな間違いを。
0417人間七七四年
2007/08/23(木) 19:52:33ID:nSMl8uqE秀吉一代で成り上がった羽柴という家にブランドは無い。
0418人間七七四年
2007/08/23(木) 22:06:40ID:3G2gmC5T雑賀攻めは失敗。どうみても。
紀州は織田領にならず。
0419人間七七四年
2007/08/25(土) 18:17:03ID:x0vC6rKB0420人間七七四年
2007/09/06(木) 06:18:48ID:UWLaI8EHその通りだろう。
当時の武将は2ちゃんの我々が思うほど馬鹿ではない。
松永は以前三好から織田に鞍替えした男だ。
その男が今度は織田から上杉に鞍替えしたわけだ。
当時の状況では上杉有利の判断が妥当だったのではないか。
0421人間七七四年
2007/09/06(木) 13:20:02ID:wxl3mCm2上杉の強力さがわかる。
0422人間七七四年
2007/09/07(金) 03:35:47ID:dyi7kJ37飛ぶ長軍のオールスター勢揃いじゃん。
0423人間七七四年
2007/09/08(土) 09:35:03ID:WS5imT9yだから「勝ちを取る」という考えがあった。
内容よりは、その勝敗による宣伝効果が重要だったのでは。
上杉氏は結構宣伝上手だという印象があるが、どうでしょうか?
いずれにせよ、この合戦は世間に宣伝されたのは事実でしょう。
そして、反信長方は勢いづいた。
織田家の家臣も動揺した。
内心裏切りを考えた武将もいたでしょう。
謙信の小田原攻めの時の、あの勢いと謙信ブ−ムが今再び来る。
信長自身も考えたに違いないと思います。
0424人間七七四年
2007/09/10(月) 08:21:52ID:pmpa2jSE小田原まで攻め込むのは難しくはないだろうが、落とすのは難しいだろう。
今度こそは奪った城をがっちりと保持しなければ意味がない。
織田が加賀で巻き返してくる前に片付ける必要があるが、どうだろうか。
追いつめた後、和睦か?
そして武田も含めて盟約を結ぶ。
越前侵攻時には、武田・北条からもわずかで良いから援兵を得られれば成功だが。
0425人間七七四年
2007/09/12(水) 03:43:03ID:XutpQ8fM上杉は織田に蚊ほどの打撃も与えてないだろ。
結局上洛以降でまともに織田軍に被害を与えたのは浅井朝倉と一向宗だけ。
0426人間七七四年
2007/09/12(水) 03:50:50ID:QCvO5GEZ三方原も入れていいんじゃね?
あの時期の徳川なんて、小さく見積もっても織田の従属で、織田の援軍にも大きな被害出てるし。
0427人間七七四年
2007/09/12(水) 05:49:29ID:5qzvpvAH小田原まで取る必要ないな
唐沢山と金山〜小山まで保持出来れば
北条は(上杉も)この両城を力攻めで落とせなかった
東上野&下野南部〜祇園城から北条を駆逐
利根川北部を固める事が出来れば充分
あの頃だと宇都宮、佐野、佐竹、里見らは協力を惜しまなかったろうし
0428人間七七四年
2007/09/12(水) 09:19:05ID:N1rouPJq信長バカはは自分がバカなのをさらして快感??
0429人間七七四年
2007/09/12(水) 09:20:38ID:QCvO5GEZ信長はむしろキライな方だが、信玄や謙信が最強とはおもわん。
0430人間七七四年
2007/09/12(水) 11:15:35ID:6eukbONC0431人間七七四年
2007/09/12(水) 14:25:03ID:mrjpmYGk0432人間七七四年
2007/09/12(水) 17:48:55ID:CeDo316Pこれは既に謙信最強で一致してるよね。
外交や謀略を含めれば信玄も浮上するけどね。
信長最強というのは、総合的国力の話だよね。
0433人間七七四年
2007/09/12(水) 18:31:20ID:dsmSrYYr0435人間七七四年
2007/09/12(水) 18:41:32ID:MEIaCJYa0436人間七七四年
2007/09/13(木) 06:11:53ID:L49PPat/0437人間七七四年
2007/09/13(木) 07:21:32ID:FmFLCxum0438人間七七四年
2007/09/13(木) 07:43:00ID:oo4V3pfk0439人間七七四年
2007/09/13(木) 10:48:43ID:/cw/vn5Y0440人間七七四年
2007/09/13(木) 10:52:08ID:wHXyS/oy0441人間七七四年
2007/09/13(木) 14:52:30ID:oF7HzdGaお前の頭じゃ意味がわからんか?
0442人間七七四年
2007/09/13(木) 22:13:41ID:L49PPat/そりゃ、総合的に優れてるのが良いんだろうが、とりあえず、最も必要な才能は?
おれは まず、戦が強くなけりゃって、思うのだが。
政治、謀略、戦術、戦略
これらに優先順位をつけるとしたらどうだろう。
0443人間七七四年
2007/09/13(木) 22:23:37ID:Te1I/2z9戦術は家来に強いのがいれば何とかなるでしょ。
今川とか大友みたいに。
2に戦略かな。
戦う相手や同盟する相手を誤ったら、取り戻すのは難しいからね。
3に戦術か。当然自分自信が強いのに越したことはない。
その分、政治や戦略にも幅が出るし、成功しやすいからね。
特別強ければ、謙信みたいに戦術のみで押していけるが(笑)
正攻法でダメなら謀略と言うことで、4に謀略。
0444人間七七四年
2007/09/13(木) 22:40:23ID:lwKrkEBk大名クラスに限っていえば、個人的には 政治>戦略>謀略≧戦術
戦で目的を達成するよりは、謀略調略で事が済むのならそのほうが安上がり。
0445人間七七四年
2007/09/14(金) 15:27:08ID:Wk/hPb6g戦術>戦略>謀略>政治
まず戦闘教義を確立させて、戦術的に負けない軍政を確立させる。
そこから、戦略が派生する。 その戦略に従って謀の重要性が生まれ、その戦略に
合わせて内政を充実させる。
たいていの軍事学の本では、こんな感じだな。
まず第一に戦闘教義を確立させることが大切なんだと。
0446人間七七四年
2007/09/14(金) 22:47:12ID:MFGSWgU20447人間七七四年
2007/09/15(土) 12:05:56ID:AJLXSoVF0448人間七七四年
2007/09/15(土) 13:02:40ID:gp3ONqwt一番大事なのは運だな
1:まず生まれる前に親が支配体制を整えておく事
2:周囲を山河に阻まれてる国だと碌に侵攻も出来ない
3:家督を継いだ時点で敵勢力が2つ以上肥大化してない事
4:合戦時に大将首を挙げるような強兵が自軍に居るのも運
0449人間七七四年
2007/09/15(土) 21:50:21ID:R119wwjs元就の場合
1:親は安芸の一国人に過ぎない
2:そもそも本拠地が山の中
3:周囲は自分より大きい敵だらけ、家督を継ぐ前に安芸の元守護武田を破る
4:元就以前は小競り合いに終始し家臣を粛清した位の実績しか無し
0451人間七七四年
2007/09/21(金) 01:31:24ID:+51sOuNM当時の記録にも両者は最強との認識が日本中に轟いていたのだそうだ。
ま、それに対する氏康も有名だったのだろう。
0452人間七七四年
2007/09/26(水) 08:35:40ID:ucFfLDxR0453人間七七四年
2007/10/10(水) 20:22:04ID:CyLPGmtSそれを支える経済力も、まとまりのない越後をある程度掌握してたのも、
全部、謙信自身の能力なんだよな。
もし尾張に生まれてたら、、。
0454人間七七四年
2007/11/26(月) 00:12:02ID:qok/eTJl0455人間七七四年
2007/12/06(木) 06:18:38ID:sr9zbCEc0456人間七七四年
2007/12/06(木) 06:26:40ID:OsmY5eLx信長ボコボコにされたらしいね
0457人間七七四年
2008/01/04(金) 13:44:25ID:Y4gDSmcz0458人間七七四年
2008/01/05(土) 01:58:18ID:5RPQuE0G0459人間七七四年
2008/01/05(土) 02:07:49ID:sV4Gojxr0460人間七七四年
2008/01/05(土) 02:20:10ID:yttjFwa1詳細を知ってる方が居たら教えて欲しいです
0461人間七七四年
2008/01/05(土) 12:57:32ID:Kc9ArXpjあるある詐欺ですか
0462人間七七四年
2008/01/05(土) 13:46:11ID:O4nnpmUa0464人間七七四年
2008/01/05(土) 22:06:22ID:a0fUK0LBこんなところに書き写したりは出来ないかもね。
矢田さんみたいな謙信専門の権威ある学者が正面から調べてみてくれないかなあ。
でもあの人、藤木の胡散臭い関東略奪遠征説にのせられたり、
江戸期の文献に潔癖だったりと、意外に浅慮なところがあるから、
手取川も「江戸期に作られた虚像」のスタンスでまとめに調べる気がない可能性もあるね。
0465人間七七四年
2008/01/06(日) 00:12:00ID:m/qxRNOO矢田俊文は「政虎一世中忘失すべからず候」の中でも
謙信自身が出陣する二、三日前に手取川で織田軍を破った〜
といった内容を書いてるから
>手取川も「江戸期に作られた虚像」のスタンスでまとめに調べる気がない可能性もあるね。
これはないと思うよ
>>1-2の書状は一次史料だし
この書状内容を真っ向から否定できる史料も無いという状況
よって筑波大の池教授が絡んだ「上杉氏年表」などにも手取川は記載されている
金沢出身の池田教授が関わった「上杉謙信大事典」の手取川項の記述
これは>>1-2の「歴代古案」に加え、「加能古文書」をソースにしているから
この板で語られていた大聖寺藩に残された手取川の史料〜とは
「加能古文書」に含まれる史料なのかも
0467人間七七四年
2008/01/06(日) 03:11:41ID:H/jfbd5h0468人間七七四年
2008/01/06(日) 12:13:32ID:h1wFRN3x0469人間七七四年
2008/01/06(日) 14:13:10ID:+c+a0+vSちょっと歴史を勉強してる人なら
証拠の書状なんて出せないことくらいわかりそうなもんだが
さすがに一次資料を所有してるなんて思ってないだろ?
0470人間七七四年
2008/01/06(日) 15:48:43ID:h1wFRN3xそれはお前の脳内のまず結果ありきからくる妄想。
こういうものは即発表とかありえない。誰にも突っ込まれんように慎重に研究し検討して本なり論文なり執筆活動したりしてんだろう。
0471人間七七四年
2008/01/12(土) 17:15:12ID:wpFGS+/E原本は一切公表しないであるある言ってる偽書w
0472人間七七四年
2008/01/12(土) 17:27:10ID:K39TObo00473人間七七四年
2008/01/27(日) 23:43:13ID:h1uWKtj3ゆとりは遊ぶ板間違えんなよw
0474人間七七四年
2008/02/15(金) 18:25:01ID:bkok2sXC0475人間七七四年
2008/02/15(金) 18:29:55ID:qfxLTzEpオマケに国宝、洛中洛外図を寄贈するという物的証拠まであるわけだし
0476人間七七四年
2008/02/15(金) 18:32:07ID:LW69VcFD武田や北条同時に相手して戦術だけで打開してた謙信からしたら、余裕すぎただろな。
信玄の西上も徳川あたりは何もできずにチャンコロ状態だし。
つくずく運がいいと織田や徳川くんは。
0477人間七七四年
2008/02/15(金) 18:32:19ID:cT1lZ6lt謙信が加賀〜越前状勢を楽観視してる件
三方ガ原の信玄のように織田を無視して雪解け関東出陣しようとする舐めくさった行動をしようとした件
0478人間七七四年
2008/02/15(金) 18:44:57ID:qfxLTzEp手取川で織田を軽く一蹴した謙信は
関東に引き返して北条を完全に封じ込める予定だったんだろ?
では、何故、同じ時期に松永久秀は謀反を起こしたのだろう?
両者には何か意思疎通があって久秀の謀反に繋がったと思っていたのだが
そうではなく
単純に、手取川の戦いで余りにも上杉軍が強すぎて
あっ!こりゃ、信長滅ぼされるわwと
久秀が勝手に見切り発車しただけなのだろうか?
そこんとこが今一、わからない
0479人間七七四年
2008/02/15(金) 18:55:26ID:LW69VcFD関東遠征と称してるが、動員台帳八十人の武将見ると北陸方面の武将のが比較的多い。
また出陣日の3月15日に別所長治が反旗を翻してるし、ほぼ関東遠征ってのは
ブラフじゃないかと思うけどね。 毛利輝元挟撃書状とかもあるしね。
ってことは松永とも連携してて不思議ではないと思うが。
0480人間七七四年
2008/02/15(金) 19:01:55ID:cT1lZ6lt北条は謙信に使いを出していよいよ上洛戦と聞いたので1万くらい援軍に派遣するよって言ってきて必死に織田攻めを勧めてたようだがw
0481人間七七四年
2008/02/15(金) 19:24:14ID:CxheJWEjただ思想?的に謙信と松永が組むかな。
0482人間七七四年
2008/02/15(金) 19:49:26ID:twSbMn09謙信もやはり戦国大名なのでそこら辺はシビアに利害を見ているはず。
現に武田との抗争でも、「信濃を抜かれたら越後の安泰が脅かされる」と
言っている書状がある
0483人間七七四年
2008/02/15(金) 21:09:57ID:qfxLTzEp天下人の秀吉や家康もすごいとは思うが
信長に比べたら、やっぱり格落ちの感が否めないし
その信長を持ってしても信玄と謙信の両英雄には全く歯が立たない
にも関わらず、その両雄が、ずっとライバルとしてしのぎを削りあっていた
戦国ってのは浪漫だよな
0484人間七七四年
2008/02/15(金) 21:19:18ID:cT1lZ6lt祖父を敗死に追い込んだ命知らずの一向衆に背後を襲われ
一筋縄ではいかない曲者揚北衆ども。
おれが当主だったら即死だわ…
0486人間七七四年
2008/02/16(土) 07:53:30ID:4TRLSTOu横からごめんな。
そりゃ、信長より松永の方が格段に扱いやすいだろう。
信長はなんだかんだいっても賢い、松永は単純。
0487人間七七四年
2008/02/16(土) 21:12:03ID:Z4bcS9nU0488人間七七四年
2008/02/17(日) 01:44:36ID:19Uui91kその場合徳川がどうなるかだな。
0489人間七七四年
2008/02/17(日) 10:54:37ID:uDh8EoCk0490人間七七四年
2008/02/17(日) 11:16:15ID:LELvLkPeじゃあ、大規模な戦はあったんですか?w戦の規模の議論と結果(織田の退却)は別物。規模、つまりは過程の如何がどうだろうと織田が撤退したことは当然変わらない。
手取川の議論を眺める度に思うのは、(恐らく上杉ファンなんだろうが)大規模戦の否定が上杉が勝利したことの否定だと勝手に解釈して脊髄反射しすぎ。
0491人間七七四年
2008/02/17(日) 15:40:37ID:L3VuMeiYそういう大幅な勢力ラインの後退はほぼ軍事決戦の結果に起因する。
0492人間七七四年
2008/02/17(日) 18:30:33ID:bq1AB5JY0493人間七七四年
2008/02/17(日) 20:57:39ID:cUbASx4K普通に考えてさ
二つの異なる勢力が同じ地域に領土を拡大させようと臨戦態勢になってる状態で
一方の勢力が理由もなく撤退することの方が不自然だよね?
理由もなく撤退したということを説明する方が遥かに難しいと思うんだけど・・w
そして同じ時期に、示し合わせたかのように味方勢力の裏切りまで出てるようなら
それは完全に、物理的な被害があり、それを理由に撤退した結果
味方勢力の離反に繋がった。と、考えるのが甚だ妥当だと思うよ。
何も難しいことじゃない。
手取川で織田方は大きく撤退することを余儀なくされるほどの大損害を被ったということだよ
その結果、あざとい松永は逸早く織田を裏切った。
これが結論だよ
0494人間七七四年
2008/02/17(日) 21:10:06ID:cUbASx4K後に天下人になった三傑も
敏感な秀吉は即座に危険を感じ、軍法を犯してまで戦線離脱
その親分の信長は即座に国宝を寄贈。完全屈服の姿勢を示す
家康も三方ヶ原で同じように信玄相手に辛酸を舐める
やはり謙信と信玄
この両雄は凄まじかったということだな。
勿論、この三傑が若く成長過程だったという側面も大きいけど
もし仮に、信玄が東国。謙信が西国。こんな状態だったら・・
天下分け目の関ヶ原はこの両名によって決せられてただろうな
0495人間七七四年
2008/02/17(日) 22:31:38ID:1H+upNC10496人間七七四年
2008/02/17(日) 23:10:41ID:vZibDhYr信長大敗した以外に考えられないわな。
つか敗北してないのに一国を敵側に譲った事例が戦国期に他にあるの?
前例があるなら出してみてよw
0497人間七七四年
2008/02/17(日) 23:19:40ID:1H+upNC10498人間七七四年
2008/02/17(日) 23:33:16ID:vZibDhYr0499人間七七四年
2008/02/17(日) 23:40:50ID:1H+upNC10501人間七七四年
2008/02/18(月) 09:45:39ID:SSylM64F一国っつっても一国まるごとの一単位じゃねーだろw
信野暮じゃねーんだからw
一国支配してても自家寄りの国人衆もいれば、他家に近い立場の国人衆もいるだろ
0502人間七七四年
2008/02/18(月) 09:48:15ID:SSylM64Fで、大損害の割に武将が討ち死した記録がないからおかしいんだろ。
戦死者は足軽と中間・小者だけだったのか?w
0503人間七七四年
2008/02/18(月) 12:33:41ID:JkN6UL6G一国より国人がどうだとかもうムリヤリ理由をこじつけて屁理屈の世界だな。
まさにゆとりのぬるま湯ゲーム脳で幼稚に駄々をこねてケチ入れてるだけのわからずやw
0504人間七七四年
2008/02/18(月) 12:42:33ID:jsGSrrHP興奮しすぎ
0505人間七七四年
2008/02/18(月) 13:04:09ID:MyrgNGKc「おめでとう御座います」の返事が来る頃には勝家に追い払われていたなんて事もあるね
文章や言葉に問題があるんじゃないかとも思ったりする
0506人間七七四年
2008/02/18(月) 13:06:50ID:SSylM64Fそりゃ小競り合いなら武将が死なない戦もあるだろうが、
>>502は>大損害を被ったって言ってる人へのレスなんだが。
手取川は小競り合いだったって言いたいなら、それには俺は同意するよw
そうじゃなくて、大規模な軍事衝突によって大損害を被ったのに指揮官や武将が
戦死しなかった戦がいくらでもあるって言うなら具体例を挙げてくれよw
0507人間七七四年
2008/02/18(月) 15:31:25ID:/y+XG7VQ数々の敵を打ち破ってきた織田、徳川連合も信玄の前では赤子同然だった
その信玄と川中島で寡兵ながら互角以上の戦いをしたホモ
糞漏らしの戦い以降さらに増長した信長と真っ向から対峙して簡単に支配を広げてしまったホモ
ホモ死後までそれを黙って見ることしか出来なかった信長
戦闘がなかったとしたら戦わずしてホモの威風に屈して撤退したわけだから余計性質が悪い
あった、無かった、いずれにしても面子は丸潰れ結果松永が動き出した
0508人間七七四年
2008/02/18(月) 15:43:07ID:L/HAP4qe最初から信長は負けるの分ってて逃げ腰だったんだと思うよ
でも日頃から、武士たるもの、どんなに劣勢でも一度は野戦に出て戦えと
家臣団に説教してる手前、引くに引けない面子もあったんだろうね
でも向かわせたのは家臣団だけというw
で、軽く戦って恥をかく前に撤退させる予定が、いきなりの奇襲
これで織田軍総崩れになっちゃたんだろうね
ただし、最初から逃げるつもりだったから武将の討ち死には何とか免れた。と
しかし余りにも情けないので、記述等は一切なくした・・
こんな感じでしょ
0509人間七七四年
2008/02/18(月) 19:33:40ID:u919jZC10510人間七七四年
2008/02/18(月) 19:44:13ID:MyrgNGKc0511人間七七四年
2008/02/19(火) 01:42:48ID:6Mrvek8Z敵地(となりうる場所)での合戦を避けて撤退したとかならありそうかな
加賀・能登に織田方の味方になるような有力国人が居ないなら
一時撤退ってのも正しい戦略だと思うぞ
戦国時代の国人なんて日和見も良いところだしね
以上、何の資料にも基づかない妄想でしたw
0512人間七七四年
2008/02/19(火) 01:49:25ID:W/44v0jrそれならむしろ織田軍の武威を見せ付けて
織田支持者を引き止めるために余計に一戦して見せなければ越前まで
ドミノ崩しのように離反が加速するだろよ・・・
0513人間七七四年
2008/02/19(火) 02:16:45ID:OVGtqvYZ本当に地域の国人・地侍連中の動向だけで進退を決めようと考えてたのなら
先に根回しを徹底して、はじめて臨戦態勢に臨むはずだよね
先に臨戦態勢に入っておいて、その日和見な国人たちがつかないからという理由で
撤退なんかしたら、それこそ他の国人も、なし崩しに敵についちゃうよ
それこそ、戦が弱い以前に無駄だしバカじゃんw
0514人間七七四年
2008/02/19(火) 03:41:31ID:s2dD6kQDしかし進軍途中で七尾城の陥落を知ったので目的をうしなって撤退。
最初の前提からして史料からかけはなれた妄想で、それ以降は妄想の上に積み重ねた妄想。
0515人間七七四年
2008/02/19(火) 04:19:39ID:OVGtqvYZその後の織田軍の大後退と関係あるのか?
と、みんな論じてんだよ。理解できてる?
ただ軍を返したなんてこと、誰も語ってない
手取川の戦いの直後に
加賀も丸々(ほぼ)、上杉方に支配されてしまったのは事実なんだから
それは織田方が七尾城救援の目的を失って撤退したとは事情が違うんじゃないか?
ということ
0516人間七七四年
2008/02/19(火) 05:17:31ID:148Dauh6冬になって謙信撤退。
翌春からまた包囲→七尾城が織田に救援要求するも信長ビビって救援せず。
いよいよ落城寸前でついに長続連が一族皆殺しされる決意をして息子一人を七尾から脱出させ長連竜が信長に直談判してやむを得ず織田軍出陣。
しかし七尾陥落まじかなのに進軍速度は遅く明らかに「謙信恐い…早く七尾落城しろ」と思ってたような士気の低さに秀吉はヤベェと感じ取り離脱。
手取川を渡った頃に七尾落城!の報を聞き「ラッキー軍神と闘う前に撤退する名分ができた♪ゆっくり進軍してきて良かったぜ。」
大軍が進軍方向をいきなり変更するのは難儀だけど今回はいつでも逃走する準備ができてるから早く危険地帯から逃げようぜ。
大雨で道はぬかるみ河川は氾濫してっから今日は謙信来ないからゆっくり帰ろうや♪
戦機を知る謙信は急追命令「大雨で信長自慢の鉄砲隊が使えないでやんのwww」
そして柴田軍は偉い人から渡河していき残された兵達は手取川でおぼれましたとさ。
0517人間七七四年
2008/02/19(火) 09:28:00ID:yKwuKjmbどの程度まで正確に状況を把握してたやら。
七尾陥落を聞いて軍を返したのをこれ幸いと「勝った勝った」って誇大広告してただけだろ。
0518人間七七四年
2008/02/19(火) 09:32:49ID:yKwuKjmb0519人間七七四年
2008/02/19(火) 09:52:34ID:M+usVnWC0520人間七七四年
2008/02/19(火) 10:49:05ID:qhGXcU1C謙信は寿命で49歳で死んだ。
信長は謀反で49歳で死んだ。
似てるんだよ、このふたり。
0521人間七七四年
2008/02/19(火) 13:37:20ID:Dw9d/HgB0522人間七七四年
2008/02/19(火) 13:46:50ID:148Dauh6前線に信長が出てたなんて一言も書いてないだろアホがw
>>519
つか戦があったら必ず武将が死ぬなんて法則があるのか?スゲェなお前の脳内妄想w
0523人間七七四年
2008/02/19(火) 13:58:28ID:g5xc3ABiただ、死傷はともかく大軍が慌ただしく逃げ帰ったから「織田敗北」という印象を周辺勢力に与えてしまって離反を促した。
って感じじゃない?
0524人間七七四年
2008/02/19(火) 14:45:55ID:148Dauh6加賀の地に踏み止どまり野戦築城して馬防柵と鉄砲隊で陣地を固めるだろう。
各隊を小高い山や丘に配置し砦を築いたりすれば積雪までのあいだ勝てないまでも負けない体制は作れるのにみすみす加賀を手放すなんて有り得ないんだが。
補給に関しても旧朝倉領を領国化してるわけだし。
上杉は安定補給となると上越春日山からになるから不利だから
織田軍は遊軍で背後にまわって補給線分断する兵力的余裕すらある。
0525人間七七四年
2008/02/19(火) 14:50:42ID:148Dauh6日本海貿易通商破壊をすれば上杉経済は破綻するし海上を利用した補給も期待できなくなる。しかしそれに織田軍は失敗した。
0526人間七七四年
2008/02/19(火) 15:51:49ID:W/44v0jr織田厨も
あきらめろってこった。
0528人間七七四年
2008/02/19(火) 16:57:13ID:g5xc3ABi撤退戦とは言え上杉にしっぽを叩かれたから、織田敗退という噂が広まれば加賀は一気に敵地になってもおかしくない。
それなら安全な越前に戻って戦線を再構築する方が無難だろう。
主力が温存されていれば上杉が引いた後加賀一国ぐらい取り戻せる。
0529人間七七四年
2008/02/19(火) 16:58:39ID:OVGtqvYZ結局、織田方が一気に前線を退いて勢力を後退させたというしか事実は残ってないのにね
0530人間七七四年
2008/02/19(火) 17:52:38ID:W/44v0jr織田が負けてないと主張するのはもはや基地外。
弟の信行を支持して信長に謀反した柴田は追放される林や佐久間、安藤より無能。
それだけの失態でも格下げも切腹もないのは信長自らが作戦総指揮して敗北したからだろw
0531人間七七四年
2008/02/19(火) 19:00:59ID:s2dD6kQD能登も加賀も織田領ではない。
加賀南部は手取川以降もかわらず織田領。
ちなみに手取川のあと謙信が越前まで侵攻したというのは嘘。事実は三日後には
七尾城にもどっている。越前や加賀南部の一向衆は謙信についたが、彼らが実際に
謙信サイドとして何をやったかというと、まったく形跡なし。
0532人間七七四年
2008/02/19(火) 19:55:55ID:148Dauh6家臣団を統率して防衛を固めたところで
長氏がいくら救援を頼んでも織田の支援がまったくなく、だんだん畠山内の求心力と発言力が低下していったがなw
だが上杉にビビって救援放置してた織田が悪いわな。
0533人間七七四年
2008/02/20(水) 00:58:04ID:1CclAA+N地元では信長が逃走したと唄われている。
>>1
ここに写された希少な謙信公の書状でも勝ったと書かれてる。
明らかに織田軍大敗だろwww
信長公記に載ってないから・大将に討ち死にいないのが不思議とか屁理屈言ってんなよwww
0534人間七七四年
2008/02/20(水) 10:51:25ID:vK2Ts94d越前との国境を接している大聖寺城まで上杉方が占領した記録は残ってる。
つまりこの戦直後は加賀全体が上杉領となってるわけね。
謙信は大聖寺まで占領した事に「深追いし過ぎた。信玄公ならば6分の勝ちでよしとして引き上げただろう。信玄公と比べるとこういうところが私の欠点である。」と上杉家の史料にある。
織田方はというと最前線の丸岡城に柴田勝家の甥勝豊を置き、勝家本体は北ノ庄城にあって二段構えで上杉軍の南下に備えていたと地元の記録に残っている。
0535人間七七四年
2008/02/20(水) 22:45:58ID:YM7+jfkq0536人間七七四年
2008/02/20(水) 22:56:26ID:O6f9NGt90537人間七七四年
2008/02/21(木) 01:01:34ID:XtZ+GKWl血気に逸った越後深追い組かは明確ではないが丸岡城まで迫ったと言う記録もある。
0538人間七七四年
2008/02/21(木) 02:02:41ID:GfQBKWXR駿河制圧したけど徳川、北条が敵に周ったら危機を察知して兵を退いたわけだし、
合戦を交えず軍隊が退くってのは別にありえない話じゃないんじゃないの?
0539人間七七四年
2008/02/21(木) 02:13:00ID:XtZ+GKWl織田軍も挟撃されたのか?
上杉水軍に敗退し織田軍背後に上杉軍が上陸し挟撃とかそーいう話なら同意。
0540人間七七四年
2008/02/21(木) 02:22:07ID:GfQBKWXR実際上でも挙がってるけど、加賀なんて織田の領国とは程遠い状態だし。
0541人間七七四年
2008/02/21(木) 02:51:10ID:XtZ+GKWlそもそも織田軍は長篠の戦い並みに大軍じゃねーか。状勢不穏でも踏みつぶす事はワケねーだろ。
だいたい不穏だったので逃げてきましたなんて報告したら信長激怒だろ柴田追放だなw
この程度の不穏で撤退なら旧朝倉領からも撤退だし
のちの苛烈な武田領支配だって無理だったろう。
0542人間七七四年
2008/02/21(木) 02:54:21ID:EasfvWop織田軍に後方連絡線は存在しないのか。
0543人間七七四年
2008/02/21(木) 03:18:50ID:GfQBKWXRそれはID:XtZ+GKWlの判断と勝家の判断が違ったんじゃない?w
踏み潰すなんてそんなに簡単なもんじゃないと思うし、ほら、謙信って戦うまいみたいだし。
>だいたい不穏だったので逃げてきましたなんて報告したら信長激怒だろ
会戦仕掛けて大敗しても信長激怒してたと思うんだが。
>この程度の不穏で撤退なら旧朝倉領からも撤退だし
どこを比較して加賀と越前の不穏が同等と判断できたの?
越前は加賀と違って織田本国と近いし信長に一回“根斬り”されてるし。
おれ議論嫌いだからあんまり続けたくたくないんだけどこれはどうすればいいんだろう。
無知だし聞いて見ただけだから何時でもごめんなさいって言う準備はできてるよ。
0545人間七七四年
2008/02/21(木) 08:50:30ID:dYdeXfUMそんでも負けは負け
くやしいのうw 信長厨
0546人間七七四年
2008/02/21(木) 10:11:00ID:EasfvWop>踏み潰すなんてそんなに簡単なもんじゃないと思うし、ほら、謙信って戦うまいみたいだし
勝頼も戦上手だったぞ。長篠は大軍が万全な態勢で待ち構えたから勝った。
手取川のときでも上杉が向かってくる情報が入ってるし、
布陣して待ち構えることが出来たんだろう?
>会戦仕掛けて大敗しても信長激怒してたと思うんだが。
信長主導の作戦なら怒れないだろう。
0547人間七七四年
2008/02/21(木) 10:40:27ID:GfQBKWXR>手取川のときでも上杉が向かってくる情報が入ってるし、
>布陣して待ち構えることが出来たんだろう?
出来なかったから退いたんじゃない?
>信長主導の作戦なら怒れないだろう。
じゃあ信長主導で退いたから勝家大丈夫だったんじゃなくて?w
0548人間七七四年
2008/02/21(木) 10:41:36ID:T7eGwFkmされにパニくって河で溺死&殲滅されたのが真実だろう
0549人間七七四年
2008/02/21(木) 10:44:44ID:EasfvWop> 出来なかったから退いたんじゃない?
なぜ?
後詰を含めて5万以上の大軍だぞ。
それも七尾城救援という上杉との対決を予想しての動員なのに?
>じゃあ信長主導で退いたから勝家大丈夫だったんじゃなくて?w
?
参加武将の顔触れを見ればわかるが、作戦自体信長が指揮を取ってたから
勝家は関係ないだろう。意味不明。
0550人間七七四年
2008/02/21(木) 11:12:13ID:3fc2NnVB?
0551人間七七四年
2008/02/21(木) 11:20:01ID:GfQBKWXR>長篠は大軍が万全な態勢で待ち構えたから勝った。
>後詰を含めて5万以上の大軍だぞ。
万全な態勢で待ち構えられなかったから退いたんじゃないの、ってこと。
>参加武将の顔触れを見ればわかるが、作戦自体信長が指揮を取ってたから
参加武将の顔ぶれで信長が指揮してたというのは無理のある話じゃない?
>勝家は関係ないだろう。意味不明。
>だいたい不穏だったので逃げてきましたなんて報告したら信長激怒だろ柴田追放だなw
>この程度の不穏で撤退なら旧朝倉領からも撤退だし
っていう流れがあったのでこれ知ってるのかなぁということで。
でももうめんどくさいからごめんなさいですよ俺は。
0552人間七七四年
2008/02/21(木) 11:20:36ID:T7eGwFkm強気を助け弱気をくじくヘタレ織田軍は命からがら逃げましたとさ
0553人間七七四年
2008/02/21(木) 11:56:16ID:EasfvWop> 万全な態勢で待ち構えられなかったから退いたんじゃないの、ってこと。
相手をはるかに上回る兵力、能登は織田の新しい占領地だから踏み止まらなければひっくり返る、
上杉は七尾城落城直後だから本隊がすぐ来るのは無理だというのに?
> 参加武将の顔ぶれで信長が指揮してたというのは無理のある話じゃない?
柴田に羽柴や丹羽、滝川を指揮する権限はあったのか?
この連中は柴田の与力ではなく信長直属の武将だぞ。
> っていう流れがあったのでこれ知ってるのかなぁということで。
柴田が怒られない理由について「信長の作戦指導だから怒られないだろう」
とレスしたのに意味不明な返答をしたのはキミじゃねえ?
0554人間七七四年
2008/02/21(木) 13:25:23ID:3aJcy7wnだいたい信長指導なら勝手に帰った秀吉何なのさ
だいたい能登は占領地でも何でもなく、ただ信長寄りの勢力があっただけで尼子を見ての通りわざわざ助けに行く程の義理はない
0555人間七七四年
2008/02/21(木) 13:28:53ID:06Zmaxgv間に合わなかったので撤退。別に不思議なことはないね。ただその情報が入るのが遅くて、撤退が
間に合わず謙信に殿軍が補足されてしまっただけで。
それから撤退で殿軍に被害が出るのは当然のことで、そんなことで処分なんて普通はない。秀吉の
金ヶ崎退陣だって、自分の手勢の半分を失ったとされる。それでも本隊をほぼ無傷で撤退させたと
いう事で叱られるどころか賞賛されている。謙信の手紙をみても、被害が出たのは殿軍で、本隊は
そう傷がなく敵国から撤収を成功させたのなら、信長だって叱る理由はないだろう。
それから織田軍五万って講談の創作。実数は秀吉を入れて三万以上?秀吉離脱後は三万未満という
ところかね。信長が不参加なのは朝廷・公家の史料で確認できる。この部分だけでも、謙信も認識
にはかなり事実と異なる部分が含まれていることが証明できる。
0556人間七七四年
2008/02/21(木) 13:38:10ID:hGOEm6KAこの連中は柴田の与力ではなく信長直属の武将だぞ。
当然あるよ
信長が居ないと直属武将が複数いて命令系統が一本化されていないとでも言うの?
0557人間七七四年
2008/02/21(木) 13:42:52ID:sIaTjjwN0558人間七七四年
2008/02/21(木) 13:55:18ID:6Z2PsGrNゲームやりすぎたじゃないの?
0559人間七七四年
2008/02/21(木) 14:02:32ID:hGOEm6KA軍を動かすというのは合流するまでの事 言うまでも無いだろ
0560人間七七四年
2008/02/21(木) 14:27:16ID:U7xP/mNy0561人間七七四年
2008/02/21(木) 14:32:49ID:3fc2NnVB手取川自体はどうでもいい戦いだが。
0562人間七七四年
2008/02/21(木) 15:31:12ID:rFuQAEh2ま、謙信は越後の一大名で終わったんですけどねwww
0563人間七七四年
2008/02/21(木) 15:34:00ID:3gHcrmku上杉・織田退却かー、俺らも関東行くから、じゃっ、そういう事で!
講談・話のネタに使えるな!
てな、事なんじゃない?その後の情勢から織田の判断は当たりだったけどな
0564人間七七四年
2008/02/21(木) 15:43:09ID:beBKpJy4徳川圧勝だな
0566人間七七四年
2008/02/21(木) 16:00:08ID:cTrhIPw4江戸時代
織田家:天童藩2万石→1万8千石
上杉家:米沢藩30万石→15万石→18万9千石→14万9千石
0568人間七七四年
2008/02/21(木) 21:39:38ID:XtZ+GKWl0570人間七七四年
2008/02/22(金) 08:20:07ID:9vwB/sa70571人間七七四年
2008/02/22(金) 09:12:41ID:leJiZDV4報いを待てよ羽柴ハゲ吉…とか言って切腹だしなw
0572人間七七四年
2008/02/22(金) 10:30:58ID:b1duNsGY0573人間七七四年
2008/02/22(金) 13:58:18ID:leJiZDV40574人間七七四年
2008/02/22(金) 14:00:46ID:JsbjnK5O薩長に簒奪された徳川も底辺だな
0575人間七七四年
2008/02/22(金) 15:47:35ID:leJiZDV40576人間七七四年
2008/02/22(金) 15:59:35ID:i+1bjOqPくやしいのうwwwww
0577人間七七四年
2008/02/22(金) 16:16:25ID:5w1at36Q信長-スケーター
家康-HNKアナ→フリー
島津-シラネ
0578人間七七四年
2008/02/22(金) 18:16:25ID:leJiZDV4なんで悔しいのかさっぱり理解できん。要説明を求む。
0579人間七七四年
2008/02/22(金) 18:22:46ID:Rq8g3x3Iそれか誤爆
0581人間七七四年
2008/02/23(土) 23:13:19ID:6FAHk5bz0582人間七七四年
2008/02/23(土) 23:26:10ID:orFF2XAq0583人間七七四年
2008/02/23(土) 23:43:43ID:qLYw8Lj7ハァ?血筋は続いてんだろーが バカか?
0584人間七七四年
2008/02/24(日) 01:45:00ID:Ed/gBt580585人間七七四年
2008/02/24(日) 01:46:26ID:Ed/gBt580586人間七七四年
2008/02/24(日) 01:47:46ID:tM5Q9TUV0587人間七七四年
2008/02/24(日) 04:03:14ID:0A8cSgmW0588人間七七四年
2008/02/24(日) 04:31:29ID:5ZsLQCGZウンコまみれでみっともない死体を晒す軍神(笑)より、どこかに生きて居ると思わせて死んだ方がかっこいいだろ、よっぽど軍神ぽい
0589人間七七四年
2008/02/24(日) 05:05:51ID:0A8cSgmW可哀相に…これが織田厨のキモさと言うものか…
0590人間七七四年
2008/02/24(日) 05:59:11ID:5ZsLQCGZ秀吉が中川清秀に宛てた手紙に信長は生きていると書いたのは有名な話しだが、誰も思ってないなら何でこんな手紙出したの?
0592人間七七四年
2008/02/24(日) 09:48:41ID:xrRGfRJU当時の本能寺の地下には火薬が大量に貯蔵されていた記録があり、
本能寺の変の火災が普通の火災と違って大音量を伴った火災だったとの当時の記録がある。
つまり火薬に引火して大爆発したとの説が今では有力。
この説ならば信長の体は爆発と共に肉片と化しているので遺骨が見付からなくて当たり前。
0594人間七七四年
2008/02/24(日) 10:34:02ID:0A8cSgmW秀吉が自分が少しでも有利になるならとやってただけ。
もし本当に生存してるなら信長自筆の手紙なり、近侍の蘭丸などが使いするなりして確実性が増す方法をとると思うだろ。
西へは京を支配してる光秀に通行を遮断されてるのに秀吉の元に信長がワープするわけねーだろ。
東は安土は燃え蒲生が退去し信長の生存が確認できず。
北は丹波の光秀勢力圏。
さて事実上どう考えても信長生存を期待できる証拠・要因はまったくないのに中川が楽観してアホみたいに信じたとでも?
0595人間七七四年
2008/02/25(月) 08:39:31ID:c8lEnkbt厠に貯蔵されていた火薬に引火して爆発したんだよ。
断末魔の叫びは「あべしっ」
0596人間七七四年
2008/02/25(月) 12:26:55ID:QnV4TKtC有力かどうかは知らんが普通の火災ではなかったみたいだぞ
本能寺の変を見ていた当時の京の人間の証言が書かれた書状(?)がテレビで紹介されていたな
0597人間七七四年
2008/02/25(月) 12:52:17ID:AwkraBEHソースなり、出典なりわかる?
本能寺の変に関しては斜め読みを含めて数作程度の著作しか読んでないんで偉そうなことは言えんが、大部分は眉唾物なんで。
0598人間七七四年
2008/02/25(月) 15:32:31ID:QnV4TKtC見た番組はこれだったと思う↓
http://blog.goo.ne.jp/ryuukoh/e/3ee54ace6022adc8df3c378b4ee18cd6
この人の説の賛否はともかく京の人等の目撃談が記載された史料がテレビで解説されていたのは記憶している
爆音とともに大きな火の玉になった云々という内容で
その史料をネットで探してるんだが見付からん
詳しく覚えてるエロい人情報を求む
俺ももう少し探してみる
0599人間七七四年
2008/02/25(月) 16:18:27ID:AwkraBEHサンクス、小説か……
内容の是非については置いとくとしても、今現在有力な説となってるとはとても思えん。
0600人間七七四年
2008/02/25(月) 17:35:27ID:iIj8W4g70601人間七七四年
2008/02/26(火) 10:17:57ID:N9ejHYqR0602人間七七四年
2008/02/26(火) 11:53:04ID:EtQP9Fq+0603人間七七四年
2008/02/26(火) 23:14:43ID:Gg2EccoU0604人間七七四年
2008/02/27(水) 16:23:28ID:M77YfEH40605人間七七四年
2008/02/27(水) 20:28:47ID:qTf2+TbH0606人間七七四年
2008/02/27(水) 20:32:59ID:4pyxKZcp0607人間七七四年
2008/02/28(木) 03:30:35ID:RF2uCXjE謙信もそういってるじゃん
上杉勝利だろうけどこの戦いじゃどちらが強いかなんて評価できないと思う
だから上杉厨がマンセーする戦いでもなければ織田厨が言い訳するほどの戦いでもない
0608人間七七四年
2008/02/28(木) 03:59:54ID:4f7DxErn織田軍はビビりまくり決戦を避けようとして
遅々として援軍を出さなかった。
長氏一族が皆殺しされるのを決意して息子だけ逃がした。
そいつが信長に直訴してやむなく織田軍は進軍したが
早く落城しろとばかりに遅々とした進軍をしてるうちに七尾が陥落した。
それで上杉と決戦しなくてもよくなり安心し油断してたら猛追され織田軍が崩壊し
能登のみならず加賀まで失うハメになった
0612人間七七四年
2008/02/28(木) 16:12:57ID:9hh/zyDt0613人間七七四年
2008/02/28(木) 17:36:34ID:4f7DxErnつか柴田らは鎧も刀も捨てて必死に逃げたんだろw
0615人間七七四年
2008/02/29(金) 10:03:12ID:C0IPEo67主役武将が全員滅んでるからだろうけど魚津城攻めの祟りだな
0616人間七七四年
2008/02/29(金) 10:32:54ID:AJ35hgxP0617sage
2008/02/29(金) 10:51:01ID:+Wz6nQ9O0618sage
2008/02/29(金) 10:51:33ID:+Wz6nQ9O0619人間七七四年
2008/02/29(金) 11:29:21ID:NYkmkaXp0620人間七七四年
2008/02/29(金) 12:21:17ID:GMBHZmxyそこまでファビョる必要はなかろう。
0621人間七七四年
2008/02/29(金) 13:02:26ID:Y2aimpWD0622人間七七四年
2008/02/29(金) 13:30:37ID:VbvdLVnnまさしく
0623人間七七四年
2008/02/29(金) 13:33:47ID:RdcLxUw50624人間七七四年
2008/02/29(金) 14:11:46ID:M0wBTivm0625人間七七四年
2008/02/29(金) 14:16:56ID:tGCM27O3増水河川に飛び込むって、どんだけ集団ヒステリーだよ。
0626人間七七四年
2008/02/29(金) 15:06:56ID:+VVzq4uT0627人間七七四年
2008/02/29(金) 18:17:41ID:wyXBJRY4織田厨がqあwせdrftgyふじこlp
0628人間七七四年
2008/02/29(金) 20:00:58ID:f5blpp6T加賀はもともと織田のものではない。正確には南二郡は支配していて、手取川(があったとされる時期)以降も
織田が支配していた。
ついでに言うと、能登も別に親織田ってほどでもなかったんだよな。豪族達が能登守護畠山氏を傀儡化して
支配していたら、上杉が畠山氏を旗印に攻め込んできた。豪族達からすれば、上杉に対抗できそうな勢力は
近隣にはもう織田しか残っていない、ので援軍を要請。しかし織田を頼って抗戦するよりも上杉に臣従した
ほうがいいと判断した豪族達の中の遊佐氏や温井氏が、抗戦派の長氏を皆殺しにして降服開城。
0629人間七七四年
2008/02/29(金) 21:09:44ID:sFRNopmrそもそももっとも権力を握ってたのが長氏だ。
それに従ってたんだよ温井や遊佐は。
だから基本姿勢は織田方。
ただそれぞれに温井が一向衆派で遊佐が上杉派だったが衆議で敗退したから上杉に抵抗してるわけ。
織田がビビって救助に援軍をずっと出さなかったから落城確定的になり長氏は一族滅亡を覚悟して息子1人を城から逃がし織田方へ最後の援軍要請した。
結局、織田の緩慢な進軍に七尾城方は見捨てられたと判断し失脚した長氏を切るという方向につながった。
七尾落城は謙信と闘う事にビビった信長が見捨てたからこそ後ろ盾を失った長氏が七尾城内での支持を失った事にある。
七尾城は落城前年にも包囲されたりしたが織田は援軍出してないしな。明らかに謙信とは戦いたくないオーラ出てるぞ。
0631人間七七四年
2008/02/29(金) 22:13:30ID:9Dn1dQqcもし本当に援軍出し渋ってたとしてもまだまだ敵が多いからあんま相手にしたくないと思ってたぐらいだろ
国力差から考えて
0632人間七七四年
2008/02/29(金) 22:23:05ID:f5blpp6Tその長氏が織田政権と接触、交流交渉していた形跡は?
息子一人を織田方へ派遣する以前の援軍要請をしたという記録は?
0633人間七七四年
2008/02/29(金) 22:34:35ID:Y2aimpWD・謙信が七尾城攻めに進発したのは天正四年の何月?
・長連龍が信長に救援の使者を送ったのはどの時点?
・使者を送る以前の織田家と能登畠山家との関係は?
・北陸における織田家の勢力図は?
・謙信が七尾城に攻め入ってから翌年勝家らが救援に向かうまでの織田家の戦いは?
この辺はどうなってるの?
過去レスにあるかなあ?
0634人間七七四年
2008/02/29(金) 23:36:20ID:Y2aimpWD天正二年正月 越前に一揆がおこり、越前守護代前波播磨守は自害。越前は一揆持ちの国へ。
同年七月 長島攻略、翌々月に平定。
天正三年五月 長篠の合戦。
同年八月 越前の一向一揆に対して本格的に乗り出し平定。
同年九月 越前国のうち八郡を勝家に与える。
同年十一月 信長、信忠に家督を譲る。
天正四年正月 安土城造営開始。
同年四月 前月に本願寺との戦いで原田直政が戦死。翌月、信長自ら出陣し天王寺で散々に撃ち破る。
同年十一月 信長、内大臣に昇進。
天正五年二月 雑賀攻略。
同年八月 勝家を七尾城救援に派遣。同月、松永久秀謀反。
同年十月 信忠を総大将とした軍勢が松永謀反を平定。
同年十一月 秀吉、播磨の上月城を攻略。
信長公記からだけの一方的なものだが、これ見てると七尾城にかかずりあってる余裕はそうはない感じだな。
遠くの脅威よりも近くの脅威。
北陸の情勢にしても越前を再度平定してから二年くらい。勝家の手腕をどう見るか。
0635人間七七四年
2008/02/29(金) 23:38:46ID:Y2aimpWD0636人間七七四年
2008/02/29(金) 23:45:21ID:HVMxubc50637人間七七四年
2008/03/01(土) 00:09:08ID:PJX+m2lQ0638人間七七四年
2008/03/01(土) 00:47:24ID:WpOxqVPf前段階は大幅に省いて
・弘治の内乱(1555〜1560)
守護権力の支配を取り戻そうとした畠山義綱と、下克上を狙った温井氏・三宅氏による内乱。
義綱側には長氏、遊佐氏らがついて勝利。温井氏は追放。
その後義綱は長氏、遊佐氏らの権限を削って支配体制を強めようとする。それに反発した長氏、
遊佐氏、八代氏らによって永禄九年(1566)義綱が追放される。その後能登は重臣達によって
義綱の息子義慶が擁立され、傀儡のもと重臣連による合議へ。義綱は国外から奪回を試みる。
永禄十一年(1568)、越中神保氏や越後の謙信に援助を受けた義綱が能登に侵攻。一方の義慶側
では加賀一向宗(本願寺)と武田の支援が。これも上杉武田戦争の一環になる。結果は義綱の
敗北。能登は義慶政権で固まる。つまりこの時点では能登は親武田というか親本願寺というか。
しかし能登は日本海交通の要衝であり、この地の勢力と敵対することは日本海交易で富をなした
謙信にとっては非常に痛い。ので、義綱とは切って、温井氏と結んで義慶政権と修好する。義綱は
後に信長を頼る。が、ほとんど相手にされなかった模様。
(温井氏は義綱の侵攻のとき、反義綱から義慶について国内復帰。さらに温井氏はもともと前代から
越後長尾氏と結びつきがあった)
その後は上杉派の温井氏、本願寺派の遊佐氏+長氏で対立するが、本願寺と上杉が反織田で結びつくと
能登でも温井氏と遊佐氏が結び、長氏と対立。
おそらく、長氏が織田氏に近づいたとしたらこの頃からだと思われるが、記録上ではその形跡が確認できない。
この間に政治的混乱が続いたようで、畠山氏では義慶が暗殺され、正体不明の義隆も殺され、最終的に
その息子春王丸が家督を継ぐ。その春王丸を抑えた長氏が一応能登における主権を握った模様。
一方の謙信は温井氏を後援して能登を押えようと画策。しかし反上杉の長氏が政権を握ったことから、
最終的に義綱の弟を旗印に天正四年から五年の能登侵攻へと。長続連は弟を信長の元に派遣。
記録上確認できる長氏および能登と信長との接触はこれがほぼ始めて。
0639人間七七四年
2008/03/01(土) 01:27:52ID:UQagGl2Iじゃあ毛利家も元親君も無視ですかそうですか
0640人間七七四年
2008/03/01(土) 09:34:05ID:Vz+frmNm信長公記は柴田らが軽視されてるのは有名。
0641人間七七四年
2008/03/01(土) 10:17:08ID:2F0Xq/XY0642人間七七四年
2008/03/01(土) 10:17:36ID:Vz+frmNm畠山義綱に総貞が殺された後にやっと遊佐氏は復帰できた→温井失脚
温井景隆は一向衆の元に逃亡していたが義綱が追放された後に長氏が帰参を斡旋してくれたので復帰できた→畠山失脚
鎌倉時代より能登に地盤を固めていた国人の長氏はまったく失脚してないし遊佐氏を許した当主義網を追放し温井氏の帰参まで斡旋した。
つまり能登を実効支配してる織田派の長氏が実権を握ってるんだよ。
0643人間七七四年
2008/03/01(土) 10:21:51ID:EZFXpzEdそれだけでなく手取川まで軍を進めていた織田軍が越前まで兵を引いた事も説明できない。
兵を引くにしても大聖寺までだろ。
そこまで捨てていく理由が見付からない。
この地形を知っている奴ならばわかると思うが大聖寺には大聖寺城があるのと見晴らしの利く小高い山がいくつもある。
つまりこの辺りに陣を張っていれば加賀南部の平野部が一望出来る上に上杉軍や一向一揆軍の動きが手に取る様にわかる。
戦闘場所に持ち込むにしても待ち伏せして戦うには大変都合の良い場所だ。
この場所を放棄した理由としては上杉軍に追い出されてとしか考えがつかない。
闘わずこの場所を放棄したとしたなら織田軍は能力のない武将ばかりだったという事になる。
0644人間七七四年
2008/03/01(土) 10:35:11ID:Vz+frmNmそれに長氏が七尾落城寸前になっていきなり織田派に変心したとでもいうのかね〜?
それぞれに後ろ盾が必要で畠山七人衆は互いにクーデターの機会を探り牽制し合ってるのに。
グズグズしてる間に七人衆の他の誰かが織田派になって巻き返しを謀っちゃうよ。
なんで長氏が前々から織田派じゃないなら最大勢力織田に他の七人衆は近付かないのかね〜?
0645人間七七四年
2008/03/01(土) 10:42:51ID:Vz+frmNmその二人に関しては織田軍優勢だったからだろ。
それでも中国戦線で秀吉が大幅後退した記述は消されてなかったっけ?
0646人間七七四年
2008/03/01(土) 11:14:37ID:OwcvjEyuWikiによると手取川の戦いは旧暦の天正5年9月23日(今の暦だと11月3日)。
信長公記によると松永久秀の謀反は同年8月17日。
時系列が逆じゃない?
どっちかが間違ってるの?
>>642
> つまり能登を実効支配してる織田派の長氏が実権を握ってるんだよ。
織田派っていうがいつから織田と誼を通じてたの?
どれくらい取り込まれていたの?
>>643
> 兵を引くにしても大聖寺までだろ。
以下、「信長公記」より抜粋。
「(天正五年十月一日)一方、北国の加賀方面へ派遣された軍勢は、国じゅうの耕作物をすべてなぎ捨て、御幸塚にとりでを堅固にしつらえ、
佐久間玄蕃允を置き、大聖寺にもとりでの普請を申しつけ、いずれも柴田修理亮の部下を入れて置かれた」
「十月三日、北国へ派遣の諸部隊が帰陣した」
もともと加賀以北は明確な勢力圏内になかったようだし、大聖寺以北の御幸塚に佐久間盛政が入ってる。
言ってること変じゃないか?
「信長公記」の記述が間違ってるのか?それともオレが誤読してるの?
0647人間七七四年
2008/03/01(土) 11:28:04ID:EZFXpzEd大聖寺藩前田家の菩提寺実性院の情報では大聖寺城まで上杉軍に抑えられたという。
ただし謙信自身は手取川の合戦後能登方面に戻っていったという。
織田の史料では織田が有利に上杉の史料では当然上杉に有利に書かれるわけで個人的には信憑性は低く参考程度にしかならない。
やっぱ現場に行かないと冷静な分析はできないと思う。
0648人間七七四年
2008/03/01(土) 11:32:27ID:qkMBSySm今の暦だと11月3日
あのぅ?
北陸だと豪雨が伴うほどの時期が11月なんですか?降雪時期ではないので?
0649人間七七四年
2008/03/01(土) 11:53:25ID:OwcvjEyu寺の史料だからといって信憑性が保障されてるわけではないからねえ。
だからその史料は疑わしい、信長公記の方が信用できるとは言うわけではないけど。
織田勢が大聖寺とか御幸塚に拠点を持っていたとしても、加賀南部を完全に支配下に置いていたわけではなかった。
大聖寺あたりでも一揆つながりで上杉に通じて織田勢に抵抗してるものがあったんじゃない?
>>648
別に冬にだって雨は降るだろ?
時代による気温の変化はよく知らんけど、11月3日に豪雨があっても不思議ではないと思うが変か?
0650人間七七四年
2008/03/01(土) 12:41:37ID:ihsTHlsC0651人間七七四年
2008/03/01(土) 12:59:15ID:qkMBSySm決戦するならもっと早い時期だし、手取川が氾濫してたのなら今の暦で9月中旬〜10月上旬の台風時期に決戦あったんじゃねーかと考えるのが自然かなと。
そもそも謙信は幼児の畠山春王丸に統治能力なく内紛が続いて混乱の極みだった能登の治安回復のために上条政繁こと畠山義則を能登国主にして治安回復を図ろうとしてたんだし。
0652人間七七四年
2008/03/01(土) 13:03:10ID:qkMBSySm謙信が豪雪で撤退補給路が切れる前に撤退することを正面衝突を避けることを願ってたことになるんじゃないかと。つまり信長は謙信怖さに長氏を見捨てたって事。
0653人間七七四年
2008/03/01(土) 13:28:56ID:OwcvjEyu単純に勝家は御幸塚と大聖寺に抑えを置いといたが、数日後に南下してきた上杉軍に追っ払われたというのもありかもね。
>>651
> いやね、能登・越中・越後は豪雪地方だから今の暦で11月って・・・その時期まで謙信が能登でトロトロしてるとは思えないんだよね。
> 決戦するならもっと早い時期だし、手取川が氾濫してたのなら今の暦で9月中旬〜10月上旬の台風時期に決戦あったんじゃねーかと考えるのが自然かなと。
そんな思い込みで言われても……
「信長公記」では柴田の進発が8月8日で越前帰陣が10月3日となってるんだから、それが違うと言うなら根拠を挙げてみてよ。
ちなみにwikiソースだが、長続連が織田家に救援の使者を送ったのは春王丸の死去(8/7)後、七尾城の落城は9月15日。
>>652
単純に加賀以北が織田の勢力下になかっただけだろ?
だから北上開始から手取川まで2ヶ月を要し、撤退後、大聖寺や御幸塚に抑えを置き越前に帰陣してると考えるのが自然。
どうも結論「信長は謙信にビビって重い腰をなかなか上げようとしてなかった」ありきで語ってないか?
0654人間七七四年
2008/03/01(土) 15:52:49ID:OwcvjEyu謙信 「続連のヤロウ、舐めたことしやがって!討伐したる!」
→七尾城攻め。(この時点では上杉と畠山の問題。織田は無関係)
続連 「篭城続けてるけど病が蔓延し始めちったなあ……。春王丸もおっ死んじまったしヤベ……。そうだ!信長に泣きつこう!」
信長 「ふうむ。上手くいけば北陸の勢力圏を能登まで広げられるかもしれんな。勝家、行ってこい!」
勝家 「ラジャー。とはいえ加賀の抵抗勢力を打ち倒して行かんと……ちょ!秀吉!勝手に帰るな!」
続光 「続連のヤロウ、勝手なことばかりやりやがって。今こそ目にもの見せてやる!」
→七尾城落城
勝家 「え?七尾城、落ちたの?しゃあない、越前に帰るか……。上様のお叱りが怖いなあ……」
謙信 「信長のヤロウ、関係ないのに兵を出してきやがって。よし、目に物見せてくれる」
勝家 「ちょ!オレ、撤退中なのに!空気読め、謙信!」
→手取川の戦い
勝家 「やれやれ、ひどい目にあった。オレ、越前に帰るから、盛政、加賀のことはよろしくな」(→「ちょ!盛政!加賀南部を守りきれなかったのかよ!」)
謙信 「どうだ信長、思い知ったか!さて目的を果たしたから帰ろうっと」
信長 「勝家、使えんヤツめ。ま、これから冬だし謙信もこれ以上進軍しないだろう。松永の方を先に済まそ。北陸方面はしばらくほっとこう」
なんとなくこんな流れだったんじゃないかという気がする。
0656人間七七四年
2008/03/01(土) 18:27:47ID:PJX+m2lQ0657人間七七四年
2008/03/01(土) 22:00:35ID:UQagGl2I0658人間七七四年
2008/03/01(土) 22:00:50ID:UQagGl2I0659人間七七四年
2008/03/01(土) 22:05:40ID:LqbhMfWd0660人間七七四年
2008/03/02(日) 00:43:33ID:XrrzwVUF>数日後に南下してきた上杉軍に追っ払われたというのもありかもね
いや、謙信は手取川があったとされる日の三日後には七尾城に帰還。その後越後へ
帰国しているんですよ。で、書状を信じるのなら関東出陣の大動員を発した後に、
翌三月に死亡。
可能性としては、織田軍が越前に引き上げたのを見て加賀南部の支配下にある豪族
たちから、反織田の活動に立ち上がり上杉に誼を通じた者が(どれほどかは不明だが)
出てきたというところでしょうか。
ただ、御幸塚や大聖寺が落ちたという記録はないので、加賀南部の支配は揺らいだが
重点の確保は果したのではないでしょうか。さすがに、大聖寺なんて重要拠点が失わ
れたのなら、その記録が無いのはおかしいですから。
0661人間七七四年
2008/03/02(日) 09:41:41ID:NmHISoOy謙信に養子出してる北条も上洛を目指すなら兵1万を援軍に出すって言ってるしな。
北条の援軍が半分でもあれば越前踏みつぶすのはワケないなw
一向衆・旧朝倉・旧武田の反乱と協調したらその年の間中に軽く敦賀まで行けるでしょう。
0663人間七七四年
2008/03/02(日) 12:35:34ID:zGt+ihHZ0664人間七七四年
2008/03/02(日) 16:11:24ID:XRSr86WT謙信様に北近江を奪われるのを想定した信長クンは
ビビッて安土城の築城を急がせますたwww
0665人間七七四年
2008/03/02(日) 16:21:39ID:8T75q0K+信長は、武田の方ばかり見ている謙信の気を引こうとしたんだよ
戦国大名どうしの愛の駆け引き
0666人間七七四年
2008/03/02(日) 17:44:07ID:7T7nWh+Tまたちょっと「信長公記」を読んでたんだが、謙信が越前に向かってきたら飛騨ルートで後ろつかれないか?
謙信死後のことだけど、手取川の翌年に斎藤新五郎が越中へ攻め入って今和泉の河田長親を月岡野で散々に撃ち破ってるみたいだし。
まあ謙信生きてたらまた違うのかもしれんが、そう簡単に行くのかねえ?
0667人間七七四年
2008/03/03(月) 06:05:48ID:3cf+185l信長は家臣光秀に襲撃され殺された事になっている
謙信は家臣柿崎の亡霊に殺された事になっている
どっちもどっちだにゃ
665カレンダーちょっとだけ狂ってるなり
0668人間七七四年
2008/03/03(月) 06:06:44ID:3cf+185l0669人間七七四年
2008/03/03(月) 10:16:27ID:gsW6yHs20670人間七七四年
2008/03/03(月) 12:12:17ID:E95YTVHO飛騨と越中の国境は谷が深く大軍勢を進めるには不向き。
江戸時代でも国境に橋はなく今でいうところのロープウェイを使って人や荷物を運んでいた。
仮に橋を作ってかけたとしても軍勢が押し寄せる情報を掴んだら即橋を破却すれば大軍勢の進軍を止める事が簡単にできる。
>>667
柿崎景家は寿命で亡くなってるよ。
謙信に謀反を疑われて殺されたというのはデタラメ。
子孫は景勝に従って米沢についていっている。
0671人間七七四年
2008/03/03(月) 12:44:01ID:yJW+h/P+0672人間七七四年
2008/03/03(月) 12:50:53ID:UB+jQ1zcもちろん万を越えるような大軍ではなかっただろうが、当時の彼の地位からして
三千〜五千くらいの兵は連れて行っただろう。
謙信が全軍を率いて越前になだれ込んだときに、越中で最大五千の軍が出現
して本国との連絡を絶ったらそれで上杉軍は終わりだわな。
0673人間七七四年
2008/03/03(月) 13:15:28ID:E95YTVHO>して本国との連絡を絶ったらそれで上杉軍は終わりだわな。
これはないと思う。
当時の越後の経済を支えていたのは海運業。
上杉=海というイメージは世間一般にはあまり知られていないが当時の東国の日本海側の海運は謙信によって掌握されていたといっても過言ではない。
仮に飛騨から越中に織田方の軍勢が押し寄せて連絡を絶つ事が出来ても謙信と主要な家臣団は船によって越後に戻る事はひじょうに簡単。
そこで春日山にいる予備部隊を率いて再び越中に潜入すれば越中になだれ込んだ織田方が逆に挟み撃ちにあう。
0674人間七七四年
2008/03/03(月) 14:09:51ID:g2f9S+Vj> 仮に飛騨から越中に織田方の軍勢が押し寄せて連絡を絶つ事が出来ても謙信と主要な家臣団は船によって越後に戻る事はひじょうに簡単。
美味しい各個撃破の的になる。
まあ実際のところ、どれも、つまり、
・謙信が来ればあっさり越前落ちることも、
・越中に中入りされて上杉軍が二進も三進も行かなくなることも、
・海路で幾人かの将だけが越後に戻り、遠征軍と予備軍で織田軍の中入り部隊を挟撃撃破することも、
・逆に越前に残された上杉軍を撃破することも、
口で言うほど簡単とは思えないけどね。
一番可能性高いのは、攻めてきた上杉軍に対して柴田が篭城しその間に織田の援軍が北上、
その後は、
・両軍の間にどういった条件になるかは不明だが和睦、
・一定の武威を示したとして上杉軍が撤退、
・篭城してる柴田と救援の織田軍がなんとか上杉軍を撃退、
のどれかじゃないかな?
上杉軍の勝利という図もないとは言えないが、短期間での一戦して勝利→越前占領というのはちょっと難しいんじゃないか?
関係ないけど、手取川での織田側の損害は>>2によると1000余人(その後、川へ追い込まれて云々の人数は不明?)。
一方、斎藤新五朗が川田長親軍と月岡野で一戦して取った首360。
0675人間七七四年
2008/03/03(月) 14:15:12ID:yJW+h/P+0676人間七七四年
2008/03/03(月) 14:20:58ID:g2f9S+Vjなにが、「でも」だかわからないが、加賀はもともと織田の勢力下に置かれた節がみえないから失ったというのはどうだろう?
もちろん、織田になびいてる層もあったろうけど。
0677人間七七四年
2008/03/03(月) 14:22:44ID:3cf+185l越中は武田も梃入れしてる場所だし三つ巴で誰一人まともに使いこなせない気がする
>673その上杉水軍の押さえとして造船職人丹羽氏を日本海側へ移したと思ってるのだが
実際の所知らないけど
0678人間七七四年
2008/03/03(月) 14:33:03ID:yJW+h/P+手取川以前では加賀南部が織田領のはずだけど?
北部の一向一揆勢をまだ完全に制圧したわけじゃないけど織田の勢力圏内。
もし加賀は織田の勢力範囲でなければ七尾城の救援などハナっから実行されない。
辿り着くまで途中にある丸々一国分の敵対勢力を排除しなければいけないような後詰め戦はそもそも無理。
0679人間七七四年
2008/03/03(月) 15:16:55ID:g2f9S+Vj七尾城に救援に向かった柴田軍は各所に火を放ちながら進軍してなかったか?
加賀が織田の勢力下になかったと見るべきだと思うがどうかな?
火を放ってたのは手取川以北だけだっけ?
0680人間七七四年
2008/03/03(月) 15:26:19ID:g2f9S+Vjけどその前に「八月八日、柴田修理亮を総大将として、北国へ軍勢を派遣された。滝川左近将監、羽柴筑前守(以下中略)が加賀へ乱入する」とあるから、
加賀が織田家の勢力下にあったと言えるのかな?精々攻略・調略中といったところじゃないかな?
まあ、当たれるような史料を他に持ってないんで(しかも原文じゃないしw)偉そうなこと言えないけど。
0681人間七七四年
2008/03/03(月) 19:01:09ID:g2f9S+Vj大聖寺あたりを拠点としてたが、結局加賀を平定できず翌年の天正四年に召還され、勝家に加賀のことも任されたって感じらしい。
0682人間七七四年
2008/03/04(火) 01:38:45ID:pbFTJOdv隣国加賀に逃げ込んだ(若林らはその後も加賀で織田軍と戦い続ける)のを追って加賀に
侵入。南部二郡を占領した。
加賀は梁田に任せたが、攻撃どころか防御にせいいっぱいで、援軍派遣されることも。
結局梁田は更迭され、改めて柴田に加賀征服の任務が下された。
織田支配下の加賀南部でも、本願寺について反抗する豪族達はいただろうな。
正直、加賀を織田の勢力圏内とするのはかなり無理があると思う。
0683人間七七四年
2008/03/04(火) 09:11:31ID:WOwu7Jk9やや織田寄りのオレから見ても、織田軍が上杉軍を、ならともかく、勝家が謙信を撃ち破るというのはちょっと想像できんなあw
0684人間七七四年
2008/03/04(火) 09:28:06ID:Zan/WIA+ただ糞塗れで衛生上大変な事になっていた様なので長続きしないわな
0685人間七七四年
2008/03/04(火) 10:51:50ID:JcJ55n8Zまだただの城だった小田原城も10万を号する兵力で結局落とせない。
というかやっぱり越後に本拠地をおいて、
関東、機内にむけて長期に戦線を構築するってのはかなり無理があるよなあ。
0686人間七七四年
2008/03/04(火) 11:52:12ID:Zan/WIA+これは謙信だけの話しでは無いが、その土地を治める者の器量が小さい為に荒れている事を忘れているんだ
謙信存命の頃ならばまだ名声高く多少機能したかもしれないが、特に越の国西部は一向宗を生み育てた土地柄だし
維持し続けるのは難しいと思う
謙信の城攻め能力が低いとはまったく思ってないけどね。
0687人間七七四年
2008/03/04(火) 11:53:41ID:a4DqzNdT0689人間七七四年
2008/03/04(火) 12:50:24ID:znAL3Sco0690人間七七四年
2008/03/04(火) 21:24:06ID:tVAgGtO00691人間七七四年
2008/03/04(火) 23:51:16ID:jAErVKHj0692人間七七四年
2008/03/04(火) 23:56:08ID:tVAgGtO00693人間七七四年
2008/03/05(水) 00:02:37ID:VIDn3e35そもそも信長が屏風をおくった時期って、まだ上杉と同盟関係にある頃じゃなかったか?
武田家関連のスレでもあったなー。信長が信玄に贈り物をしたことを持ち出して
「信長は信玄を恐れてビビってたんだ!だから必死にプレゼントして阿っていたのさpgr!」
とかって。
で、その後に信玄から信長へも丁重なプレゼントがあったことや、信玄の信長への謙った
手紙とか出されて姿消してたが。
0694人間七七四年
2008/03/05(水) 00:29:15ID:zOT1gUP2三方ヶ原で討ち取った平手の首 丁重に岐阜の信へプレゼントしてあげたし
0695人間七七四年
2008/03/05(水) 01:13:19ID:r2duh+3R0696人間七七四年
2008/03/05(水) 03:08:01ID:KCkKfPCpビクビクです
0697人間七七四年
2008/03/05(水) 10:28:39ID:iXMPWWyeそりゃ判断材料が歴代古案の書状しかないしな。
よく出される狂歌は北越軍記から?あの狂歌の出典が知りたいんだが誰か知ってる人いないかな。
0698人間七七四年
2008/03/05(水) 11:01:06ID:pikJhdao救援の依頼が来たからってホイホイと援軍を出すほど険悪化してたの?
それとも大して険悪化はしてなかったが上杉の西進に脅威を感じたので援軍を出すことにしたのかな?
0699人間七七四年
2008/03/05(水) 11:12:47ID:Yd+MTQzf俺の娘と婚約してくれないか?武田との仲俺が取り仕切ってあげよか?などなど
0701人間七七四年
2008/03/05(水) 12:12:50ID:Yd+MTQzfそだね信長から謙信宛だす
0703人間七七四年
2008/03/05(水) 13:08:40ID:Yd+MTQzf佐々成政関係文章に書かれてた記憶があるよ
2,3日頂ければ調べてきますが
0705人間七七四年
2008/03/05(水) 14:08:16ID:FiftcpGrすみませんが、念のため資料文書にても
独身の謙信本人との縁組なのか、謙信の養子との縁組なのか
そこのところも資料文書にて確認していただけると有難いです。
0706人間七七四年
2008/03/05(水) 19:40:35ID:VIDn3e35たしか天正四年の二月に本願寺と講和。さらに武田勝頼とも同盟を結んでいる。
この時点で対織田に回ったとみるしかないな。
0707人間七七四年
2008/03/06(木) 11:19:31ID:FGxEs7fV研究者なら慎重になるわな。
都合が悪くなれば「○○厨云々」で通そうとするこの板の住民とは根本的に違うw
0709人間七七四年
2008/03/07(金) 10:31:57ID:u4sEm3H61564〜1569年
使者佐々市衛
而申入候抑御誓談条々忝次第候殊為御養子愚息可被召置旨寔面目之至候
於何時自路次様子可進置候向後弥得御指南可申談候此等之趣御披露可本望候 恐々謹言
十一月七日 織田信長
直江大和守殿
0710人間七七四年
2008/03/07(金) 19:53:55ID:71vMhDPK時期的には信長が美濃攻めを進めて、東美濃で武田とぶつかりそうになったころから、
上洛して伊勢畿内を押さえ始めたころか。
0711人間七七四年
2008/03/07(金) 23:19:27ID:PnZB0tVH想像するとコーフンしちゃう
0713705
2008/03/08(土) 14:51:14ID:8s6+BEoX信長と謙信の間で書状だけでやり取りがあった養子のことだったんですね。
未発掘の情報かと思いワクワクしてましたが、短い夢でした。
とにかくにもご確認いただきありがとうございました。
0714人間七七四年
2008/03/08(土) 17:17:38ID:GZ/tWY400715人間七七四年
2008/03/08(土) 18:26:44ID:EXqFdNOfしかし年代なぜそんなに幅広いんだろ?
織田ー上杉でやり取りされた手紙もっと教えてほしい
0716人間七七四年
2008/03/08(土) 19:06:34ID:ZA5Fyrwd> 殊に愚息をご養子と為し召し置かれるべき旨まことに面目至りしそうろう。
という理解でいいのかな?
>>715
長男って信忠?それはないだろうと思う。
織田信雄 元亀元年(1570)北畠養嗣子
織田信孝 永禄11年(1568)神戸養子
この二人のうちどっちか、じゃないかなあ?
他の子かもしれんし。
0717人間七七四年
2008/03/09(日) 00:54:07ID:RxK1lKLp0718人間七七四年
2008/03/10(月) 01:07:34ID:uMHjeS24という夢を見た」
0719人間七七四年
2008/03/12(水) 17:28:07ID:KRuUP3wf0720人間七七四年
2008/03/12(水) 21:41:41ID:Om5g9x0Hそれとも長坂坡の劉備よろしく完全に撤退中のところに追撃を喰らったの?
0721人間七七四年
2008/03/12(水) 23:58:35ID:YB0BPNUn0722人間七七四年
2008/03/13(木) 12:37:31ID:qyBuoVGI0723人間七七四年
2008/03/14(金) 10:16:40ID:lDoUSNmb0724人間七七四年
2008/03/14(金) 19:30:13ID:xn+c1A9O0726人間七七四年
2008/03/17(月) 00:16:18ID:UVuZhg/4織田にとってはいくつかある敗戦のうちの単なる一つ。
0727人間七七四年
2008/03/19(水) 07:41:59ID:EBe7KZIp0728人間七七四年
2008/03/19(水) 08:31:17ID:9gHyvrDH伊勢長島の何度かにわたる合戦や石山合戦なんかもそうじゃないか?
しかも被害はこっちの方が大きい。
石山合戦なんかは手取川の直前のことで、戦死した原田直政の一族は所領を召し上げられたり散々な目にあってる。
手取川で敗れた柴田、勝手に帰陣した羽柴はずいぶん優遇されてるなw
0729人間七七四年
2008/03/19(水) 09:52:21ID:Ks3l6Nehたしかに柴田、羽柴に対するものとは矛盾する部分はある。
他の矛盾点から言って、個人的には手取川合戦自体は信用してない。
0730人間七七四年
2008/03/20(木) 09:58:26ID:Aq17tgbIおんなに矛盾はしてないと思う。小競り合いかもしくは小規模合戦で被害を最小限に留め
無事に撤退した柴田はむしろ良し。軍律違反の秀吉は表面的には何らかの懲罰、しかし
内心は「流石猿じゃ」てな評価というのが妥当なんじゃね。
0731人間七七四年
2008/03/21(金) 19:05:19ID:SBRyOoBMまぁ、結局お咎めなしだったから、何かあったんだろうけど。
0732人間七七四年
2008/03/24(月) 08:10:41ID:b89dmn/8上杉が加賀全土ってのはややオーバー
0733人間七七四年
2008/03/25(火) 14:34:11ID:uV5s77dQ上杉に届いた手紙は残ってても逆がちょっと・・・
信長謙信間での手紙のやり取りは平和な関係最中なので礼式に則った物だと思う
その後の織田家臣から景勝宛てに出された手紙は、交戦中だけあってなかなかリアル
0735人間七七四年
2008/03/27(木) 12:28:57ID:gO/RFalv例外な存在
0736人間七七四年
2008/03/30(日) 10:37:00ID:SIla7p8A0737人間七七四年
2008/03/31(月) 13:44:33ID:IevzwlAa0738人間七七四年
2008/04/09(水) 04:24:04ID:PrfClOR+0739人間七七四年
2008/04/09(水) 07:49:58ID:g6y9QaTd信長が一番謙信の実力をよくわかってたんじゃないかな。
0740人間七七四年
2008/04/10(木) 16:47:00ID:1ZsIjn8nやっぱり一番恐れてたのは本願寺(一向一揆)だろうな。
0741人間七七四年
2008/04/10(木) 19:19:01ID:7gAqKxyT0742人間七七四年
2008/04/11(金) 12:14:50ID:G6URiazc信玄も謙信も100万石クラスの大大名という評価なら問題ないが、戦国最強とか言うには実績が足りない。
だから当時最強だった織田が、信長が恐れてたって事にして箔を付けたいんだろ。
信長が誰を恐れてたかは知らないが、一番の危機だったのが対今川で、その次が対浅井朝倉じゃない?
0743人間七七四年
2008/04/12(土) 16:48:32ID:UJf4wkFo当時、誰も石高なんてしらねーんだし動員兵力だって正確にわからん。
大兵力だと逆に崩壊もしやすく
よく統率された寡兵は崩壊しにくい
これは将器に関わる部分だが噂レベルの風聞で兵は怖気づいて崩壊なんてことも多々あるし当時としてはこの両者の評判はかなり高かった。
京でも両者の上洛にはかなりの期待感があったくらい。
0744人間七七四年
2008/04/12(土) 22:54:59ID:FMEcLP/y織田派の奴は当時の国力から考えて包囲網がない限り(又はあっても)謙信玄は敵になり得ないと思うだろうし、
武田上杉派の人から見れば外交関係だの能力だのを持ち出して信長は謙信玄を恐れてたと言うだろうし
0745人間七七四年
2008/04/14(月) 20:25:54ID:GRWcbA1V謙信が上洛狙った場合は旧朝倉家臣や一向衆が蜂起。
一方の越後や甲斐などは安全圏なんだから攻撃的防御を繰り返していれば本国は安泰。
兵力差あっても小牧長久手以上の戦いは成立するだろ
0746人間七七四年
2008/05/03(土) 17:05:15ID:VKstGsKc毛利・吉川の動向も考えないと信長の苦境が分からないだろう
実際謙信は吉川と連絡を取り合ってた訳だし
毛利・吉川・別所・荒木・雑賀の動き〜を鑑みれば、
謙信が越前を窺う足掛かりにもなる手取川は重要な戦だろう
その越前も仁科文書によれば、相当な勢力が謙信側に付いたとの事
この包囲網はかなり厳しい
0747人間七七四年
2008/05/03(土) 17:18:39ID:/uAaA/hR0748人間七七四年
2008/05/03(土) 17:24:58ID:lFK2mRlC0749人間七七四年
2008/05/03(土) 17:36:41ID:+QIgt/ZB信長が誰かを恐れるなんてありえないだろ。
戦績において戦国最強。寡兵でどんな大軍でも撃破出来る統率力があるのに
講談の脚色だけで過剰評価されてる東国の謙信だの信玄だのが何が出来るんだ?
仮に北陸を上杉、中山道あたりを武田が同時進行しても
余裕を持って対処できるほどの国力差がある。
0750人間七七四年
2008/05/03(土) 20:56:44ID:G/mWJ0Zz0751人間七七四年
2008/05/03(土) 21:00:38ID:IMaO7XWV上洛出来たのにな・・
もったいないというか、運命は悪戯だよな
0752人間七七四年
2008/05/05(月) 02:11:17ID:W/L+d3jn>>信長が誰かを恐れるなんてありえないだろ。
>>戦績において戦国最強。寡兵でどんな大軍でも撃破出来る統率力があるのに
道三助けに行って斉藤義龍の大軍にぼろ負けしたり
森部で勝った勢いに乗って14条に布陣する斉藤勢に攻撃しかけて突き崩され
一族も討ち死にして退却したり
伊勢長島に痛い目にあわされたりしてる信長なのに・・・。
釣りで言ってるんですよね?お願いだからそうだといってください。
0753人間七七四年
2008/05/17(土) 09:02:57ID:f7t7v9270754人間七七四年
2008/05/18(日) 16:58:12ID:PMA5aUCz信頼性ゼロじゃんwwwwwww
0755人間七七四年
2008/05/24(土) 18:50:39ID:cIRnXPQ0志賀の陣とか信玄の挙兵に呼応した義昭の挙兵とか本願寺の抵抗とかさ。
そんで少し経って立場を強くなると一方的に和議を無視して奇襲してばっかの卑怯者。
0756人間七七四年
2008/05/25(日) 09:48:53ID:Fjl/qqa4馬鹿みたいに油断して外様にぶっ殺されたマヌケのどこが戦国最強なんだ。
0757人間七七四年
2008/05/25(日) 12:04:56ID:HGmhtqnw>>10
『なぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が、「歴代古案」に収録されている
謙信の書状ただ1つだけなのだ。』
って大嘘だったのな
北徴遺文に織田軍への夜襲が成功した感状が有ると
wikiに書いてあったよ
『当時の北陸の書状や記事に
全くと言っていいほど手取川合戦の記述がないのである。 』
だからこれも大嘘
上の感状=書状は北陸の一向宗、頼廉が書いた物だしね
どうりで大学教授の歴史家 池享や矢田俊文それに井上鋭夫までが
大規模な戦闘を認めてる訳だ
『完璧に正確な記事を記載している「信長公記」』
これもおかしな話で
福井県史だと手取川合戦の後、越前一向一揆が再起したと
柴田勝家も相当手を焼いた筈・・・なのに
信長公記では一切記載なし
まして勝家という織田家筆頭家老の動向が二年近くも 消える
これでは「信長公記が完璧に正確だ」とは到底言えまい
0758人間七七四年
2008/05/25(日) 12:20:26ID:/QslVbme毛利相手に羽柴軍が惨敗したこともすっ飛ばしているからなw
0759人間七七四年
2008/05/25(日) 12:34:23ID:cgl7mVB90760人間七七四年
2008/05/25(日) 13:16:31ID:/QslVbme三十年以上も昔に事実として明白になっていたのだな。
根拠の浅い信長公記絶対論者が今更それを否定して
謙信を過小評価させようとしていたとは情けないな。
関東略奪遠征説といい、手取川といい、汚い手で
謙信の実績に泥を塗ろうとする奴が後を絶たないな。
0761人間七七四年
2008/05/25(日) 14:25:14ID:kvc81bbV上杉は強くないだろ。
戦はど下手。むしろ
経済政策や外交で拡大した家
0762人間七七四年
2008/05/25(日) 14:43:27ID:pVJnUNHf0763人間七七四年
2008/05/25(日) 14:54:12ID:cgl7mVB9戦がド下手なら今川・武田・北条の三国同盟と揚北衆と謙信の祖父が殺された加賀越中一向衆のフルボッコで速攻滅亡してたと思うが…
0764人間七七四年
2008/05/25(日) 16:48:43ID:JtO5aIZatp://c.2ch.net/test/-/nanminhis/1210524233/25
0765人間七七四年
2008/05/25(日) 17:57:11ID:kvc81bbV敵は毒蛙と思って逃げる
謙信の余りのど派手なパフォーマンスで
他大名は強いと錯覚しただけ
0766人間七七四年
2008/05/25(日) 18:00:33ID:JtO5aIZa0767人間七七四年
2008/05/26(月) 06:50:21ID:CnP6Whgp戦も政の一つだしね
戦の中でも取り返しがつかない失策という物がある
敵地深く攻め込むのは良いが、そこで討ち取られてしまったり
自国の足許を鑑みず、戦に次ぐ戦で大赤字
結果として豪族達から見離されてしまったり
あと絶対に失ってはならない重臣を討ち取られてしまうのも駄目
例えば武田信玄における典厩信繁の重要さは
伊達政宗にとっての伊達成実 北条氏康にとっての北条綱成
上杉謙信にとっての直江実綱 毛利元就にとっての小早川隆景、吉川元長
豊臣秀吉にとっての豊臣秀長 島津義久にとっての島津義弘らに相当する
その戦国大名にとって一国以上にも値する人物を討死にさせてしまう・・・
これほどド下手な戦は無い
0768人間七七四年
2008/05/26(月) 18:45:17ID:YCI8cEiF0769人間七七四年
2008/05/27(火) 00:47:07ID:xA6vJt1x0770人間七七四年
2008/05/27(火) 01:22:02ID:tC3WmC6w新発田は諸角を討ち取ってるし・・・偶然じゃないよな
他にも信玄の側に居そうな一門がゴロゴロ討ち取られてる
望月とか油川とか初鹿野とか
諸角だって信虎時代から奮戦してきた武田の生き字引
武田にとっては今川の雪斎、北条の幻庵にも匹敵する重鎮
0771人間七七四年
2008/05/27(火) 01:29:25ID:uMhKXJusこれにひきかえ織田は逃げることばかり考えていたのか。
金ヶ崎でも手取川でも誰も死んでない。
情けないが、賢い。
だからあんだけ敗戦を繰り返しても、がっちり拡張路線を貫けたんだね。
こんな恥ずかしい政権は早々に潰れてよかったよ。
もし日本統一できても、国民は道徳も勇気もない小狡い民族になっていただろうから。
0772人間七七四年
2008/05/27(火) 02:10:40ID:IPSBSxG90773人間七七四年
2008/05/27(火) 02:58:42ID:xA6vJt1xこれ
金ヶ崎
情けない
だからあん
こんな恥ずか
もし日本統一で
0774人間七七四年
2008/05/27(火) 10:15:47ID:u6/OO1Riなかった合戦をネタにどうこう言えんし
0775人間七七四年
2008/05/27(火) 11:31:55ID:2OAVoPssじゃあ上杉も断固戦闘姿勢崩さずに豊臣と運命共にすれば良かったのにね
しかしあれだな
上杉厨も武田にゴマするようになったらお終いだな
落ちるとこまで落ちたな
0776人間七七四年
2008/05/27(火) 13:02:47ID:G2n8qCyG勝てる可能性がない時に戦わない勇気
蛮勇や匹夫の勇は上杉家にはありません。
0777人間七七四年
2008/05/27(火) 14:02:50ID:RGvuCj6P0778人間七七四年
2008/05/27(火) 15:03:55ID:2OAVoPssまぁ…長いもんには巻かれろって事だよ
大坂じゃ随分と頑張ってくれたもんな
な?
0779人間七七四年
2008/05/27(火) 15:10:31ID:G2n8qCyGこれは義将として名高い立花宗茂なんかも同じ。
0780人間七七四年
2008/05/27(火) 15:37:02ID:2OAVoPssそぅそぅ同じ
上杉もみんなと同じ
上杉は何も特別なんかじゃないってこと
0781人間七七四年
2008/05/27(火) 15:54:44ID:G2n8qCyGそして家康も「この義理堅さはいざとなったら信用できる。味方にしたい」と一目置いて伊達牽制の任を与えて米沢に残したわけだ。
味方なのに100万石のお墨付きの詐術に騙され利用されたあげくにたった2万石の隠居料の捨てぶちしか貰えなかった信用ゼロの伊達とは違うな。
0782人間七七四年
2008/05/27(火) 16:05:42ID:2OAVoPss小学校の時のクラスメートを思い出した
太ってる事を指摘されると「○○のほうがデブだもん」
勉強ができない事を指摘されると「△△のほうがバカだもん」
そんな彼の自慢は親戚の叔父さんが社長との事
0783人間七七四年
2008/05/27(火) 16:17:04ID:G2n8qCyGお前が低脳なのはわかったよ
0784人間七七四年
2008/05/27(火) 16:26:11ID:2OAVoPss分かってくれてありがとう
0785人間七七四年
2008/05/27(火) 16:26:30ID:IPSBSxG90786人間七七四年
2008/05/27(火) 19:44:35ID:877n48Vf<<戦国時代>>板は6/4日出陣
http://2ch.gepper.net/tour/t2/a9.html
詳しくは選対スレへ
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211037643/
0787人間七七四年
2008/06/10(火) 20:32:18ID:8aAh7Twd儒教精神を説くの?江戸期の朱子学を持ち出して伊達厨って最強のバカなの?最大のアホなの?最悪の低脳なの?
0788人間七七四年
2008/06/11(水) 09:01:07ID:it9GZRT40789人間七七四年
2008/06/11(水) 18:52:11ID:nMSf9oQM0790人間七七四年
2008/06/11(水) 20:05:04ID:IsUEIMCr@七尾城の攻略。
A加賀の民衆が織田軍の進軍を妨害し上杉軍に協力。
B織田軍の内部抗争。(柴田と羽柴の確執)
0791人間七七四年
2008/06/11(水) 22:57:24ID:t/WZD6YNって話どっかで聞いた、両者の反りが合わなかったの道理。
0792人間七七四年
2008/06/12(木) 07:00:18ID:dBYXF2ey> 手取川合戦で上杉軍が勝利した理由
手取川だけに絞れば織田軍は退却中で戦闘意欲がなかったのが一番大きな理由だろ。
0793人間七七四年
2008/06/12(木) 08:30:10ID:Dau0HmbO0795人間七七四年
2008/06/12(木) 17:37:48ID:rdxSqt12隠密性と機動力が、織田のそれを凌駕していたということだな。
0796人間七七四年
2008/06/12(木) 19:21:45ID:Kga432+f0797人間七七四年
2008/06/13(金) 23:28:41ID:Xp80ZBza0798人間七七四年
2008/06/15(日) 14:00:14ID:Mf8ykyPU0799人間七七四年
2008/06/15(日) 14:12:05ID:hVImLT7w勝敗の分かれ目はどちらがより謀略に長けているかどうかかな。
0801人間七七四年
2008/06/15(日) 15:51:37ID:VOmd02/Z自軍を指揮すら出来ない無様さ
勝家がこんなザマなので、陣代を急に押し付けられた氏家ト全とその部下達は虐殺された
柴田軍はほうほうの体で大壊走
越前一向一揆でも一門の柴田義宣を討ち取られてる
加賀&越中一向一揆と戦った謙信は終始敵を圧倒
関東から謙信が新庄城に着陣すると、一向宗の戦線は半年で崩壊
加賀一向宗が派遣した大将・杉浦壱岐を富山城から遁走させ
それを追った上杉軍はさらに神通川以西へと侵攻開始
この間、上杉家の重臣・豪族は誰一人討ち取られてない
0802人間七七四年
2008/06/15(日) 16:11:07ID:hVImLT7w偏った主観はやめておいた方がいいよ。
謙信が都合の悪いことは隠蔽し、
勝家だけ卑下するのはいかがなものかと?
もっと公平に書いた方が議論もできるがその内容では無理だ。
0803人間七七四年
2008/06/15(日) 16:17:26ID:snqfAHyk一向衆との戦いは概ね間違ってないように思うけど…
0804人間七七四年
2008/06/15(日) 16:31:19ID:hVImLT7wじゃあこう書けば分かるかな?
合戦の内容ではなく謙信の良いところばかりしか書かないのは何故?
謙信の良いところを書くなら勝家の良いところも書け。
勝家の悪いところを書くなら謙信の悪いところも書け。
公平さを欠いたレスには何の魅力を感じないということ。
0805人間七七四年
2008/06/15(日) 16:37:21ID:snqfAHyk反論があるなら
お前が書けばいいじゃないか。
おかしくないからおかしくないと書いたんだ。
何も具体的内容を書かずにおかしいと主張する方がおかしい。
0806人間七七四年
2008/06/15(日) 16:49:29ID:hVImLT7w具体的も何も公平さに欠けると言っているだけですが。
大勝した謙信の合戦と敗退した勝家の合戦を比べるのは偏っていないとでも君は言うのかい?
何を熱くなっている?
レス>>801は君ではないでしょう?
不毛な戦いはやめてくれ。
0807人間七七四年
2008/06/15(日) 16:57:56ID:snqfAHykつまり越中戦線について無知で具体例もあげられないが
織田厨だから感情で不公平だと言ってるだけなんだろ?
0808人間七七四年
2008/06/15(日) 17:04:20ID:hVImLT7w君と議論する気は無いよ。
勿論、荒らしの仲間になるつもりもない。
別に織田厨でも上杉厨でもないしな。
荒らしたいなら一人で荒れて下さい。
0809人間七七四年
2008/06/15(日) 17:08:18ID:zFrx5hdT結局はひいき合戦になって荒れるから。
どちらも強さの実態や戦術戦略への思想など、完全にわからないんだから、
比較などできるはずがない。
あえて勝家を擁護するなら、信長の犬として言われるままに動かなければいけないし、
与力は彼の家来ではなく、その行動選択肢や動員能力は狭められるため、謙信と戦うには圧倒的に不利だろう。
0810人間七七四年
2008/06/15(日) 17:30:05ID:Y/mcTta0越前はともかく長島は勝家というより織田軍全体の問題の気もするがな
0811人間七七四年
2008/06/15(日) 18:11:26ID:mF2LFvVX逃げやがった後か。ツマンネ
0813人間七七四年
2008/06/15(日) 19:10:08ID:XSnauA8J0814人間七七四年
2008/06/15(日) 21:36:41ID:VOmd02/Zそれじゃ
>>801に匹敵する「謙信が都合の悪いこと」を挙げてみたら?
まず
@ 御大将である謙信自身 or 筆頭家老が重傷を負う
A そのせいで采配を振るえない
B 部下に采を投げ出した結果、その部下は戦死
C だけに留まらず、兵も多く殺され、全軍崩壊
D 一揆衆に一門を討ち取られる
きちんと史料名も提示してくれ
ちなみに>>801は信長公記と大野郡誌
0815人間七七四年
2008/06/15(日) 23:38:26ID:hVImLT7w何か勘違いしているみたいだが合戦の内容について否定しているつもりはないよ。
むしろその通りだろう。
私が言っていることは勝家の功績を無視して謙信の勝ち戦だけ書いても無意味ということ。
そこに不公正さを感じただけ。
勝家の勝ち戦を知らないわけでもないだろうに。(本気で知らないというならその時は謝るよ)
君が書いた謙信のことは既に知っていますから別に書かなくてもいいよ。
0816人間七七四年
2008/06/16(月) 01:02:33ID:06NTIZ3Bそれが織田にとっては帰ってる最中にちょっとやられた、程度のもので、
謙信にとっては大勝・戦のつもりだった、というお互いやや都合よく誇張、解釈した、というのが一番ありそうだ
しかし陰謀論をとるなら後に天下人となった秀吉が、自分の敗戦、もしくは内輪もめのみっともなさを隠すために
あえて信長公記に詳しく書かなかった、とも考えられるかもね
信長にとっては遠くでなにやってんだあいつら・・という感じだったろう
0817人間七七四年
2008/06/16(月) 02:53:50ID:MeRaPcrP上杉だけでなく、本願寺が加賀の国人へ宛てた感状まで残ってるから
両軍の衝突は疑いようが無いと思うけどね
死者数も歴代古案の書状内容が示す通り、相当多かったように感じる
手取川の後、柴田の縁戚が越前一向宗に討たれるが、
これは供の者を手取川で数多く失い、柴田軍そのものが損耗していた結果では
一族を討たれるにしては、あまりにもタイミングが合い過ぎてるし
それまでの柴田軍にしてはあっけない
信長があれだけの陣容を七尾城へ派遣したという意図は
能登における織田勢力(長一族)の保持
出来れば能登で謙信を食い止めたい、最悪加賀へは入国させたくない、って証拠だよね
その防衛ラインは大きく後退して
しかも手取川の合戦によって、謙信に加賀一向宗を取り込まれ、これを被官化され、
加賀南部も大荒れ、越前北庄にまで迫る勢いを謙信に与えてしまった
それに播磨戦線で活躍するメンバーと手取川のメンバーは相当被ってる
再び謙信が加賀に現れる事を思えば「遠くでなにやってんだあいつら」どころじゃない
中国征伐が崩壊しかねない状況に信長は負い込まれてる
0818人間七七四年
2008/06/16(月) 05:52:21ID:ymLn/Tsbきた油断の結果だと思うがね。
おそらく柴田の縁戚が死んだのは事実なんだろうが、それをもって越前が荒れたとも言えない。
それほど大規模な蜂起だったのならもっと記録に残るだろうし、当然、そんな規模の一揆を
鎮圧するのならやはりその軍事活動は記録に残るだろう。それがないってのは、それこそ
一城の問題でしかないってことだろう。呼応して蜂起して他の城を攻撃したなんて記録もない
しな。
>能登における織田勢力(長一族)の保持
能登における織田勢力なんて当時はない。長一族から救援を請われるまでは。
>加賀南部も大荒れ、越前北庄にまで迫る勢いを謙信に与えてしまった
これも一次資料では確認できない。
そりゃ一部が背いたとかいう記録はあるが、それだけで全体がそうだったなんて看做すことも
できない。
ついでにいうと手取川の織田軍は当時としては主力でもなんでもない。参加者がのちみな一国
以上を差配する大大名に成長するので後世から見ると誤解してしまうが、当時はみな精々数郡
程度の所領しかもたない。勝家ですら越前八郡。
その勝家も、軍団序列で言ったら信長、信忠、佐久間に次ぐ四番手。
「織田のオールスターを破った軍神謙信!」なんて、後世の誤認と誤解から生じた講談の話。
そもそも播磨戦線に入った信忠軍には、たしかに手取川参加者も入っているが、それは信忠軍の
一部の話で。これも、一部だけを取り上げてさも全体がそうなように言っているよな。
0819人間七七四年
2008/06/16(月) 08:46:19ID:2s7aFOHT勝家や秀吉以上の精鋭なのかい。
0820人間七七四年
2008/06/16(月) 13:06:19ID:dHFkq6vz0821人間七七四年
2008/06/16(月) 13:50:41ID:hpkQh2eS特に稲葉一鉄
美濃三人衆は信忠付きだったそうだけど
同時に信長の直臣でもあったらしい
一鉄が挙げた戦果を考慮すると、
稲葉自身の兵プラス、信長=信忠の兵も与えられてたんじゃないかなぁ
信長は謙信死去を知ると、すぐさま飛騨口から越中へ斎藤新五を送ってる
斎藤新五の石高じゃこれほどの軍事行動は不可能
やっぱ信長=信忠直属の兵を分け与えられていたとしか思えない
0822人間七七四年
2008/06/16(月) 22:50:14ID:ih9e/gYj壊滅していからそんな大規模の反抗は出来なかったのかもね。
でも 残党が蠢動できるくらい織田はやられたんじゃないかな?
0823人間七七四年
2008/06/16(月) 23:44:30ID:3GMBuyJR0824人間七七四年
2008/06/17(火) 02:37:10ID:WJx76FWx>加賀南部も大荒れ、越前北庄にまで迫る勢いを謙信に与えてしまった
そんな好条件でも加賀南部に手をつけない謙信って愚将ですね。
君の説明ではこういう解釈になりますがこれでいいの?
0826人間七七四年
2008/06/17(火) 03:30:57ID:WJx76FWx少しは捻って欲しかったな。
0827人間七七四年
2008/06/17(火) 04:42:53ID:TGKTrFJZ能登の仕置きが終わったら12月で雪が心配だから。
0828人間七七四年
2008/06/17(火) 05:44:07ID:rlXS4XLa「柴田義宣が敗死したのは油断していたからだ」
なんて主張は、あまりにも根拠が無さ過ぎる
前後に傍証出来そうな事実関係すらない
一次にも二次にも軍記物からも参考に出来る物が無い、ただの作り話
「油断」の理由に挙げられているのが
「越前一向一揆はすでに壊滅しているという認識」を窺わせる史料なんてどこにある?
ただ単に空想に空想を重ねてるだけ
手取川合戦の約一月後に展開された、この上野郡の反抗は
翌天正6年の春まで柴田軍は鎮圧できない
本庄繁長の乱を髣髴とさせる大きな抵抗だよね(繁長は一門衆など討ち取ってないけど)
仮に同年3月に謙信が死なず、末森城〜松任城に置かれた上杉勢力の動き次第では
さらに長引いていた可能性だって充分、考えられる
まして越前九頭龍川一帯には依然として一向一揆衆が蟠踞していた
これを柴田が制圧出来たのは天正七年(手取川合戦は天正5年九月)
>軍事活動は記録に残るだろう。それがないってのは
柴田にとって都合が悪いって事だよ
それに大きな事柄であっても、記録や史料が残されて無いなんて、この時代山ほど有る
残された史料が全てだとは思われて無い
0829人間七七四年
2008/06/17(火) 05:46:16ID:rlXS4XLa>能登における織田勢力なんて当時はない。長一族から救援を請われるまでは。
謙信が再び七尾攻めに来襲し、長連竜が城を脱け出して安土へ救援要請に赴くが、
それ以前から長綱連は弟・連竜に信長への言上を勤めさせている
この時点で間違いなく織田勢力
七尾城攻防戦を説明してる本も大抵は、この頃の長氏を親信長派・織田派と表現してる
これが織田勢力でないなら永禄〜元亀年間の簗田・太田らも上杉勢力とは呼べないのか?
んなバカな
この長氏が何の後ろ盾も無く、いきなり強大な上杉氏に反抗するのは不自然過ぎるので
以前から長氏と織田家は連絡を取り合っていたのではないか
と考える歴史家まで居る
>これも一次資料では確認できない。
信長公記は二次史料だけど、それには加賀南部に放火する柴田軍が書かれてる
天正五年の手取川合戦時には加賀南部を中心に〜加賀北部にかけて放火
天正七年にも加賀南部を広範囲(本折〜小松〜安宅)に放火、さらに刈田狼藉
天正八年も相変わらず加賀南部の同地域に放火
自領に放火しまくる柴田は、この加賀南部を掌握出来てない
領主と一揆衆とが反目し合う一帯を、大荒れと言わずして、何だと言うのか
刈田狼藉という行為が持つ意味からも
それを行わねばならない対象が、加賀南部一帯に広く存在していたという証拠
その対象〜つまり織田軍にとっての敵対勢力だが、彼らが手取川合戦と無縁だとは思えない
0830人間七七四年
2008/06/17(火) 05:48:02ID:rlXS4XLa>当時はみな精々数郡程度の所領しかもたない。
国は数郡で構成されてるから
北近江三郡、北勢五郡、越前、若狭、佐和山周辺これだけでも100万石
実高は100万石を越えてる
さらに西美濃三人衆が居る事からも、信長の決意の程が知れるだろう
この七尾城後詰めに派遣された諸将〜柴田、丹羽、滝川、羽柴、稲葉、安藤らだが
彼らを超える武功を挙げた武将は極一部だし、
重要な戦歴を経た武将も、織田家臣団では非常に限られてくる
中でも丹羽は、前年天正四年には安土城総奉行を任されている人物
それまでも織田家の重鎮として限られた出来事に、殆ど登場している(蘭奢待切り取りなど)
柴田・佐久間と共に織田家の中枢を担っていた存在
信長が彼らを主力として扱っているのは紛れも無い事実
>>827
そうかね
加賀南部〜越前が天正7〜8年まで不安定&荒れてる状態だから、兵を休ませる余裕は有っただろ
越後を発してから七尾城&その支城群>末森城>手取川と長期間戦が続いて、将兵も疲れていた筈
攻略して間も無い能登支配の確立(分国法の制定、家臣の配置)や
手取川合戦の結果、新たに得た家臣団〜所謂加賀衆らの掌握など
地元の協力が得られる加賀南部の制圧以前に
謙信が果たすべき政務は幾らでも有ったという、それだけの話
0831人間七七四年
2008/06/17(火) 06:19:50ID:ba7tlqjl0832人間七七四年
2008/06/17(火) 12:41:10ID:uyrbcNC/>柴田にとって都合が悪いって事だよ
それも都合のいい空想じゃないの?織田家関連の史料だけが世に残るわけでもないのに。
>>829
現状に残されている史料を見ると、長氏は武田家と誼を通じている。つまり長氏は、武田
および本願寺の後ろ盾をもって、能登国内で上杉およびその与党と抗争していた。
それが長篠の敗戦によって武田の勢力が北陸でも後退し、結果武田の援助がなくなった長氏の
支配力が衰えて能登国内に騒乱が始まる。ここに天正四年から上杉による能登侵攻が開始。
さらに本願寺が上杉と結んだことで、加賀能登の一向一揆も上杉よりになり、すべての後ろ
盾を失ったが長氏がようやく天正五年八月になってから、初めて信長に使者をだし、服属の
替わりの援軍を要請することになった。
>>830
信長の決意がどうこうといっているんじゃない。参加者のメンバーとその所領から推測される
軍勢の規模を考えると、当時の織田家のオールスターなんてとてもいえない、といっている。
>北近江三郡、北勢五郡、越前、若狭、佐和山周辺これだけでも100万石
ところで当時の織田家の領土が、これ以外にどれほどあったかご存知ですか?
領域でいったら精々が五分の一。それが織田家主力軍、オールスターなんですか?
ついでに、丹羽は織田家の重要人物ですが、軍事的にはほとんど中枢に関わったことのない
人物です。政権の重要人物必ずしも軍事でも重要とはなりませんよ。
0833人間七七四年
2008/06/17(火) 13:41:41ID:ssujtoUYhttp://c.2ch.net/test/-/nanminhis/1210524233/i
0834人間七七四年
2008/06/17(火) 15:49:03ID:ba7tlqjl> >北近江三郡、北勢五郡、越前、若狭、佐和山周辺これだけでも100万石
> ところで当時の織田家の領土が、これ以外にどれほどあったかご存知ですか?
すると織田の主力だけじゃなくて全軍を投入すべきだったと?
それとも四面楚歌の織田家にはあれ以上投入する余裕があったということですか?
北陸方面の柴田に、別方面長官となる羽柴や丹羽がついてて主力じゃないなら何なのかと。
丹羽は軍事的に中枢にないといっても後に四国担当となってないです?
政治的に重要ならなおのこと与力に加える意気込みが感じられません?
柴田羽柴に至っては織田が他国を切り取る頃から、織田家が崩壊してもその勢力を分け合って抗争したトップでしょう。
> さらに本願寺が上杉と結んだことで、加賀能登の一向一揆も上杉よりになり、すべての後ろ
> 盾を失ったが長氏がようやく天正五年八月になってから、初めて信長に使者をだし、服属の
> 替わりの援軍を要請することになった。
それまで上杉が近づくことを指を加えてみていたほど行き当たりばったりだったら、七尾も安土も無能揃い。
両者とも戦う前から上杉に負けている。手取川合戦が追撃戦からはじまったのも納得となりますね。
逃げ足の早い織田さんですから、金ヶ崎の時みたいに将は死ななかったようですが。
0835人間七七四年
2008/06/17(火) 15:50:11ID:ba7tlqjl訂正。
> 柴田羽柴に至っては織田が他国を切り取る頃から、
柴田羽柴に至っては織田が他国を切り取る頃から活躍し続けて、
0836人間七七四年
2008/06/17(火) 17:43:14ID:ssujtoUY初めて信長に使者をだし←こういうのって違和感あるのよ。
絶対的に無理がある。
長氏はボンクラ揃いか?w
0837人間七七四年
2008/06/17(火) 20:40:23ID:uyrbcNC/後の地位、で説明されてもまったく意味がない。その当時の地位で論じてくれ。
羽柴も丹羽も後には方面軍へと成長するが、手取川当時の所領と軍規模は一武将
レベル。たしかに数ある武将達の中ではトップクラスなものたちではあるが、それ
でも最高を独占ってわけでもない。
柴田も同じ。当時の信長家臣のトップは佐久間。その他にも短期間だが三カ国の
差配を委ねられた原田や所領面ではもっとも早く一国一識支配を信長から任された
荒木など、柴田を一時期でも抜いた武将はいる。柴田が家臣トップと看做される
ようになるのは、佐久間追放以降。
>それまで上杉が近づくことを指を加えてみていたほど行き当たりばったりだったら、七尾も安土も無能揃い
& >>836
当時織田は上杉とはなるべく敵対しないよう気を配っていた。同盟も正式にはまだ
破られていなかった。そして北陸軍の敵はあくまで加賀一向一揆だった。
まあ謙信もすでに本願寺や武田と結んでいるので、あとはいつどこで開戦するかの
秒読み状態だったが。
そして、能登の長氏はあくまで長年武田と結んできた勢力だった。言い換えれば織田
とは直接敵対しなくとも、敵対する陣営の勢力だった。
こういった背景を無視して語られても。
0838人間七七四年
2008/06/17(火) 20:56:47ID:uyrbcNC/当時の織田家の領域
三河の一部、尾張、美濃、伊勢、志摩、近江、大和、摂津の大部分、河内、和泉、
山城、越前、若狭。(丹波の国境沿い、加賀南部、播磨は扱いが不明なので除く)
太閤検地での石高、約450万1千
手取川参加武将と所領(羽柴を除く)
柴田勝家、府中三人衆(前田、佐々、不破)、武藤舜秀:越前一国
丹羽長秀:若狭一国(近江の所領は不明。柴田の前例に鑑みれば、収公済みか?)
滝川一益:伊勢五郡
西美濃三人衆:西美濃数郡
滝川や美濃三人衆がどれほどか不明だが、それぞれを四割、二割で計算すると、
合計石高94万石ほど。
0839人間七七四年
2008/06/17(火) 21:49:49ID:AH3vYHB3信長は信玄戦の援軍に出した時の失態を忘れていなかったし。
肝心なときに逃げ崩れを招きかねない二軍選手が、
惰性で家中最高位にいたとしか判断できない。
丹羽は政治担当と言うが地位だけの佐久間もさして変わらないだろ。
後の序列は参考にならないと言うが、
ではなぜ彼らは手取で失態を見せたのに、
佐久間と違って追放もされず、方面軍を担当出来るようになったのか。
普通に考えれば長年その実力を認められて来たわけだろ。
それとも信長はボンクラばかり集めて、
勇名高い謙信に更なる伝説を与えたかったとか、
三文小説や蒼天航路みたいな話になるのか?
0840人間七七四年
2008/06/17(火) 22:10:11ID:ZTcCuTBy佐久間は原田亡き後の本願寺相手の総指揮官だぞ、おい
信玄戦の援軍云々は折檻状の事だと思うが言いがかりだろ。同じ立場の滝川はどうなる
他の十八箇条もかなり難癖付けてると思われる部分が多いぞ
逃げ崩れとか言ってるが「退き佐久間」の異名をどう考える
丹羽は近江以降の軍事行動では四国攻めの副官まで方面軍は持たずに援軍で出てるだけ
馬揃えや安土築城などに手腕を発揮してる
荒木や原田が去った後、一種の方面軍とも言える本願寺攻めを担当した事実を無視しておいて
佐久間を地位だけの盆暗などとはよく言えた物だな
明智だって丹波で敗退してるし、羽柴は戦線放棄してる
普通に考えれば羽柴は手取で負けた柴田その他の連中より罪が重いが方面軍を指揮してる
これについてはどう考えるのだ?
0841人間七七四年
2008/06/17(火) 22:31:00ID:dd+P79ib史料名わすれたけど信盛追放直前の序列は一番勝家で信盛五番目くらいだったと記憶。
七副将とか八画九爪とか名称があって書かれている順番が身分順らしい
本能寺前の書だす
0842人間七七四年
2008/06/17(火) 22:58:55ID:AH3vYHB3後世から見る客観的な佐久間の評価じゃなくて、
当時の信長の評価ね。
折檻状にある通り、実力を買われていなかったと目され、
そういう人物が一人いないだけで、
手取川部隊は主力じゃないと主張するのはムリがあると言いたいんだよ。
0843人間七七四年
2008/06/17(火) 23:06:37ID:AH3vYHB3手取川で大きな被害があったとする以外に適当な理由がない。
それを、信長は本気じゃなかったとか主力じゃないなどとする理由に、
佐久間や信忠が不在と言うんじゃ話にならない。
織田がどれだけの石高を持っていたか詳細に書いてくれているが、
それで何が言いたいのかもわからない。
0844人間七七四年
2008/06/17(火) 23:20:00ID:ZTcCuTByいや、だから・・・
信玄相手で失態を犯したと本気で思ってるのなら、何でそのまま本願寺攻めを任せたのかと
五年後に塙(原田)直正が死亡した時に総指揮官にするはずがなかろうと思うがな
結局解任されるわけだけど手取川の三年後の話だしな
さすがに佐久間が居ないから主力じゃないってのは俺もどうかと思うが
それはむしろ佐久間が畿内で一向宗の本拠を相手していたからだろうに
そこから主力じゃない〜と持って行くのは違うだろ、と
>>834の言う「動員可能な主力」って表現が正しいんだろうと思う
方々に睨みの効くそれなりの人物を派遣して、その上朝廷との折衝や政治にも人員を割いてるわけだから
柴田や西美濃衆、羽柴を派遣してるってのは相当頑張って集めた兵力じゃないかな
0845人間七七四年
2008/06/17(火) 23:26:30ID:uyrbcNC/言っていませんよ。
ただ、「織田軍のオールスター」などでは決して無い、と言っているんです。
手取川の勝利で謙信は信長をこてんぱんにした、とか謙信からしたら織田なんて
たいしたことない、なんて主張に対しての反論としてあげました。
0846人間七七四年
2008/06/17(火) 23:30:04ID:AH3vYHB3少し佐久間を馬鹿にし過ぎた。
反省はしてる。
せっかく集めた兵なのに羽柴は離脱して、
それでもお咎めなく中国筋を任せられるんだから、
信長の人事方針はわからんけどw
0847人間七七四年
2008/06/17(火) 23:37:57ID:ZTcCuTBy俺もちょっと熱くなった。スマンかった
反省する
それにしても、あれだけ兵力集めて何故あっさり後退したんだろうか
小競り合い程度なら被害が大きかったとも思えないんだがな
どこかで夜襲があったとか聞いた記憶もあるんだがイマイチはっきりしない
0848人間七七四年
2008/06/18(水) 02:19:45ID:WHj9IHp0柴田勝家、佐々、前田、不破、原、金森、丹羽、滝川、西美濃衆、武藤、斎藤など
信貴山合戦従軍リスト
織田信忠、佐久間信盛、丹羽、滝川、羽柴、明智、細川、筒井など
蜂屋、河尻、池田、荒木、若江衆、三好らの従軍は不明。
0849人間七七四年
2008/06/18(水) 06:44:02ID:B7oYZA9i> それにしても、あれだけ兵力集めて何故あっさり後退したんだろうか
・七尾城が開城したこと。
・北上はしたものの加賀は相変わらず敵地。
この状況であえて戦うのはあまり得策とは思えない。
0850人間七七四年
2008/06/18(水) 09:09:16ID:kYVSipFu0851人間七七四年
2008/06/18(水) 09:56:53ID:dSxww367信貴山に羽柴は参加してたっけ?
>>850
七尾城を救うために戦うつもりだったが、救援が間に合わなかったのなら、戦う意味がない。
七尾城が健在なら上杉軍と戦って撃退すればいいだけの話だが、七尾城が陥落して敵のもの
になってしまっていては、上杉軍を撃退するだけではすまされない。まず城を攻撃して落とし、
さらに周辺地域を平定し、畠山氏だから長氏だかによる再支配が安定するまで活動を続ける
必要が生じる。
ただ戦うためだけの作戦と、平定まで考えた作戦では軍からして異なってくる。
柴田軍にそれをやれっていうほうがよほど無茶で、国費と時間と兵の無駄だ。
0852人間七七四年
2008/06/18(水) 12:38:38ID:ZXez6TPX気合い入れて買い物行ったら売り切れでした
折角来たんだしって言って欲しくもない物買いますか?
時間と交通費無駄になったけど変なの買って後悔したくないから他所行くわ
が合理的な思考だから何らおかしくない
0853人間七七四年
2008/06/18(水) 12:55:27ID:6Kw3OuE+負けてないなら戦線を維持するべきで過度に大幅な後退は有り得ない。
これは天下布武路線の他の織田戦線に前例がない後退劇で異例としか思えない。
しかも編成を考えたら決戦志向の軍だよね。これでうまくいったら信長もやってくるような編成。
信長の戦争感でも不利であっても負けてもいいから一度は戦えってかねがね発言してるし。
0854人間七七四年
2008/06/18(水) 17:02:15ID:z3mEX5vZ後にも先にもなかったね。
0855人間七七四年
2008/06/18(水) 18:14:50ID:fu8mvJ6t長氏だっていろいろな方面に外交チャンネルが昔からあっただろうし
信長との外交チャンネルは奥羽の大名だってあったんだから
河内畠山氏に連なる外交として七尾城が落城寸前になるまで
織田との外交がなかったなんて常識的におかしい。
0857人間七七四年
2008/06/18(水) 19:00:19ID:fu8mvJ6t今まで挨拶もしてなかったのに一方的に要求するのは
不躾で失礼だと思うが落城寸前になったから
謙信にやられそうだからすぐ援軍出せ→信長「はい!わかりました。柴田や丹羽や秀吉を出します」の方がおかしい。
0858人間七七四年
2008/06/18(水) 19:15:46ID:BFYLfC/3各地から集め加賀まで引っ張って来た兵力をそのまま帰すのはあまりにも無駄が大きすぎると思うが
七尾が落ちた事で後詰めの意味こそ失ったが、それと戦線の維持とはまた別問題
むしろ落ちたからこそ国境の守備を整えてから退くべきではないのか
理想は加賀北部の制圧だろうが、最低でも大聖寺周辺で軍事行動が在るべきだと思うんだが
>>852
大規模な兵力を集めそのまま後退する事と莫大な戦費や物資の無駄が生じる
合理性で言ったらそのまま帰るという選択はかなり厳しい
おまけに下手すれば「上杉と戦うのが怖く、臆病風に吹かれた」という風聞まで起きかねない
実際のとこ夜襲で輜重隊でも襲われたか何かで後退せざるを得なくなったんじゃないかと思う
いくらなんでも不自然すぎる
0859人間七七四年
2008/06/18(水) 19:25:39ID:fu8mvJ6t引かないと面目に関わるだろ。
評判とかあるし
それを一目散に逃げたように見える行軍するかねぇ?
0860人間七七四年
2008/06/18(水) 19:30:59ID:WHj9IHp0>それにしても、あれだけ兵力集めて何故あっさり後退したんだろうか
信長の指示が最初から出ていたのでは?
七尾城救援が間に合わない場合は撤収とか。
この軍事行動は七尾城の後詰が目的ですからね。
それにいつまでも加賀に丹羽、滝川、西美濃衆、武藤、斎藤を置いておくわけにもいかないし。
0861人間七七四年
2008/06/18(水) 19:51:37ID:fu8mvJ6t0863人間七七四年
2008/06/18(水) 20:59:05ID:ZXez6TPX歴史が証明しているように、どっかの龍虎みたいに泥沼で駒と時間を無駄にすることこそ非合理的
財政面でいうなら動員の無駄で済ませるか動員+維持の無駄まで支払うか
どっちが損が少ないかなんて馬鹿でも解る
先物で破産する人間の思考だな
0864人間七七四年
2008/06/18(水) 21:37:07ID:z3mEX5vZ古今東西の抗争は全て無駄だからいいんだが、
この手合いは天下取りのみ例外で有意義な戦争行為と見なしてるからね。
0865人間七七四年
2008/06/18(水) 21:48:35ID:BFYLfC/3なるほど。戦線を後退させることによって生じる不利益より維持費の方が高くつくと
何も上杉に攻めかかれば良かったなんて言ってるわけでもないのにな
加賀がどういう場所かわかって言ってるのか?
先物と違って兵士や地侍、百姓は人間なんだよ
一戦もせずに逃げ帰ると士気や支持に影響が出ることもわからんのか馬鹿者
0867人間七七四年
2008/06/18(水) 22:18:02ID:z3mEX5vZみんな厭戦気分だったのかもね。
北陸担当外の与力は一揆相手の凄惨な虐殺を伴う軍事活動に加わりたくなく、
「あーあー、終わった」と勝手に解散。
これを見た信長もさすがに一番抜けの羽柴を叱れなくなったとw
0868人間七七四年
2008/06/18(水) 23:05:11ID:ZfsPUFr3それまでの功績が立派なんで我慢してくれたけど
次に秀吉が播磨でポカしてたら追放か、殺されてるだろう
信長が怠慢を理由に家臣を誅殺してる例は結構ある
秀吉もその空気を読んで播磨で功績を挙げ、周囲から賞賛され
信長も満足して「もう休んでいいよ」と表面上許しても
秀吉は「まだ大した働きはしてません」と、さらに活動を継続してる
この一連の言動は、手取川での離脱を取り戻そうという意図が秀吉に有った
(逆を言えばそれだけ織田家内部で白眼視される行為だった)
と見られている
0869人間七七四年
2008/06/19(木) 00:11:24ID:K0Sb7lqs加賀のことなら、ほぼ現状維持は保っているんだが。
0870人間七七四年
2008/06/19(木) 01:02:23ID:OJut3c8f七尾が信長に使者を送ったのは天正五年八月の援軍要請が最初
なんて言ってる人が上に居るけど
遅くとも天正五年五月上旬に七尾は安土へ長連龍を送ってる
能登畠山氏を専門的に研究してるサイトだと
『越後上杉氏(及び長尾氏)と懇意にしていた遊佐派に
家中の主導権を握られると思った長続連は上杉に反して織田家を結ぶわけであるが、
それが結果として1576(天正4)年からの上杉謙信の能登侵攻を招いたと言える。』
という見方をしてるが
これだと天正四年十一月以前には信長と結んでる事になる
まぁ実際、この天正四年の時点で長続連は織田勢力として謙信を阻んでいる
信長は信長直属軍内では別格扱いの稲葉一鉄を派遣したり
さらに織田家が拡大する上で、抜群の軍功を挙げてきたスター武将ばかりを選出
所謂、織田オールスター軍団を差し向けてるけどね
しかし加賀南部と七尾城の間には、厄介な加賀北部(金沢御堂〜松任城〜末森城)が有る
この上杉&加賀一向宗の地域を織田領にしつつ、飛び地の七尾城という織田勢力を維持したかった
柴田勝家も松任城を2〜3日中に攻めたい、という書状を残してる、が
その松任城にまで謙信が来たので大慌て〜手痛い追撃を食らったのが手取川の戦い
七尾の後詰めは勿論、加賀北部の攻略どころじゃなかった
0871人間七七四年
2008/06/19(木) 01:59:27ID:K0Sb7lqsたぶん同じサイトのことだとおもうんだが。
>家中の主導権を握られると思った長続連は上杉に反して織田家を結ぶわけであるが
この部分ってソースのない推測じゃないか。
0872人間七七四年
2008/06/19(木) 02:26:16ID:NR3U/eS0滝川は別とすれば単純に越前とその隣接地から動員したといった印象を受けるが
あと9月23日に手取川があったとされるが、10月10日には丹羽が松永攻めを行っているし
大敗したとするなら丹羽元気だな、まあ手取川で殿じゃ無かっただけかもしれないが
>>839
>ではなぜ彼らは手取で失態を見せたのに、
>佐久間と違って追放もされず、方面軍を担当出来るようになったのか。
これって手取川が失態じゃなかっただけじゃ?って突っ込まれたらどうするんだ?
>>841
それは江戸時代の話じゃ?
>>851
羽柴も参加している
>>858
御幸塚に城築いたり大聖寺固めたりしていたと思うが
0874人間七七四年
2008/06/19(木) 03:05:34ID:NR3U/eS0それだったら佐久間も追放出来なくならないか?
また滝川はその件について攻められていないのだから
責任を負うのは大将格のみってことかもしれんし、全員を追放とはならないんじゃ、
もっとも後で柴田も追放する気だったかもしれないが
0875人間七七四年
2008/06/19(木) 07:23:46ID:UfjN+pEt0877人間七七四年
2008/06/19(木) 13:34:31ID:CJxERSEi佐久間折檻状はさ
失態を犯したら取り返せ
俺がお前に与えただけの成果を見せろ
取り返せそうにないなら相談に来い
つまらない言い訳をするな、取り繕うな
って内容だから
失態を犯した後、すぐ名誉挽回した秀吉や滝川や柴田が不問にされたのは当然かと
信長の武将は皆(特に秀吉や柴田)同僚と自分の功績を比較したり、信長からの評価を気にしてるようだけど
佐久間だけ家老としての立場が長いせいかイマイチ危機感が無いっぽい
0878人間七七四年
2008/06/23(月) 19:01:44ID:xr3cwi6l手取川は名前の由来といい、謙信の手紙にもある通り
かなり流れが激しい
そうなると渡河点も限られてくる
織田軍撤退の順序は
1 稲葉など美濃衆率いる信長&信忠直属軍(信長の直属を傷付ける訳にはいかない)
2 丹羽(原田が排除された後、重臣では一、二を争う)
3 滝川(本領の伊勢から加勢に来てくれた)
4 柴田勝家(北陸を任せられていた「殿様」)
5 柴田の与力&柴田一門
北陸方面軍が真っ先に逃げるなんて有り得ないし
殿は柴田一門が引き受けたんだろ
手取川夜襲で殿を務め、何とか越前に帰国したものの
越前一向一揆によって柴田義宣が討死
0879人間七七四年
2008/06/24(火) 07:26:22ID:jQ5KISYd0880人間七七四年
2008/06/24(火) 12:42:25ID:HnhFlg0bそもそも上杉は騎馬隊を先に走らせているのは分っている訳です
織田は上杉騎馬隊の接近も知らずに川を渡っている途中だった可能性もあります
0882人間七七四年
2008/06/24(火) 22:32:35ID:sj9a1dkT0883人間七七四年
2008/06/25(水) 09:19:24ID:6xO+29P3はっきり覚えてないけど50騎だか200騎先に走らせ手取川で足軽が追いついたとか
俺は信じてないが資料あるならとレスしてみたw
俺の中ではこの50-200が会敵したんだと
0884人間七七四年
2008/06/25(水) 21:52:19ID:RP6sv+Dg0885人間七七四年
2008/06/26(木) 17:36:28ID:S5Y9a8X30886人間七七四年
2008/07/06(日) 06:48:00ID:NaUJZWt1軍事目的は七尾城後詰め以外に加賀掌握もあって
8月10日の文書では勝家に加賀一国を与えるけど
今味方になるなら本領は永遠に安堵するよってのもがあるよ。
0887人間七七四年
2008/07/30(水) 10:45:28ID:Z4aFNOz90888人間七七四年
2008/08/08(金) 06:23:40ID:SUYzhSOr「織田信長どんな大名より凄い」
を唱える馬鹿。
例:
一つの教室で(戦国板)
一人のいじめられっこがいる(織田厨)
その子は自分より下の子達(徳川厨、豊臣厨、武田厨)をいじめて
自己満足してる。
0890人間七七四年
2008/08/24(日) 08:28:55ID:MeYrCvlXA 脳内ソースを持ち出し. ┃C 逃げる時は論破された時
根拠の無いことをわめく ┃
∧_∧..... ┃ │ | │彡
<#`Д´>O上杉は最強i ┃ │ .i|○ │彡<手ごわいニダ
Oー、 //|すごいニダ!. ┃ │ | │
ビリビリ\ (;;V;;)/ ┃ │ └― ┘
━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━
B ムキになって自演!! ┃D 事実に対して都合のいい仮定を持ち出す
((((( )))))) ┃ + ∧_∧ .. ' ,:'.
| | ┃ ,:'.< `∀´> ,:'
∧__∧ 从_从人__....┃+ , ..⊂ つ +
∩<#`Д´>'') フザケヤガッテ┃ ' ,:'ノ つ ノ + 。 , .. . +
ヾ ノ WW⌒⌒Y ┃ レ レ 〜 幸せ回路作動中 〜
━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━
0892人間七七四年
2008/08/24(日) 15:59:25ID:yrCDerfk0893人間七七四年
2008/08/25(月) 19:37:27ID:Gne/e0RY相変わらず信長公記を引き合いに出してきて金ヶ崎の戦いや伊勢長島の一向一揆
の敗北は記されてるのに手取り川の戦いは記されてないので信憑性が・・・とか
お決まりのやつ。
金ヶ崎の戦いや伊勢長島の一向一揆の敗北が記されいるのは後の信長と家臣団の
残酷な報復を正当化するためでは、いくら戦国時代とはいえ浅井、朝倉、一向衆におこなつた仕打ちは異常だ、
三方ヶ原での徳川軍ともどもの敗北も後の武田勝頼の悲惨な最期があったらばこそ記されいるのでは。
もし本能寺の変がおこらず上杉家が滅亡、景勝が長政や義影みたいな最期をとげていたら手取り川の戦いも信長公記に記されいたかも。
0894人間七七四年
2008/08/25(月) 19:48:06ID:YfkvLf2S0895人間七七四年
2008/08/26(火) 00:27:09ID:n4OPU6Rw桶狭間のあった年を間違えている、
こんなに粗ばかりな信長公記を、
信長の全てを記した完全無欠の史料と考えている奴がいるからね。
0896人間七七四年
2008/08/26(火) 21:12:22ID:GmtKbS3iしてるのは信長公記のせいでは?
0897人間七七四年
2008/08/27(水) 04:15:56ID:R340ftAh確定してない
0898人間七七四年
2008/08/27(水) 10:30:42ID:Mk5JOaAJ心の師、司馬遼太郎が信長公記とは違う田楽狭派なのは面白い。
0899人間七七四年
2008/08/27(水) 10:53:38ID:X8gBihOP今は甫庵信長記説よりは信長公記の桶狭間山の記述の方が信憑性あるけど。
0900人間七七四年
2008/08/27(水) 11:32:17ID:Rr3cPi3f太田は池田本とかで金もらって記録をねじ曲げたりしてるし。
信長ではなく丹羽の右筆だから全てを知る立場じゃないとも
0901人間七七四年
2008/08/27(水) 22:11:56ID:R340ftAh初期のほうは当事者じゃないから信用出来ないとされてるだけじゃ?
0902人間七七四年
2008/08/28(木) 04:13:23ID:O/sOkD9k0903人間七七四年
2008/08/28(木) 17:39:31ID:Ey/10SXf0904人間七七四年
2008/08/28(木) 17:47:58ID:zALySr8Z0905人間七七四年
2008/08/29(金) 09:42:37ID:jBBH8HqR頭の悪い子は鵜呑みにするだろうけど、それはそれでいいんじゃない?
0906人間七七四年
2008/08/29(金) 19:37:07ID:5l854sSQ0907人間七七四年
2008/09/21(日) 00:48:05ID:C3i4mO8Q現在の手取川なら橋を良く渡るが流れは急じゃない
ゆったりとしたものだ
0908人間七七四年
2008/09/21(日) 06:00:12ID:jThRUH7a0909人間七七四年
2008/09/21(日) 07:14:25ID:egqxY83nWWUじゃ相手側の損害記録と照らし合わせると実際の戦果と全然違うんだよな。
どうも上杉が一方的に勝ちを宣言してるだけにしか見えない。
0910人間七七四年
2008/09/21(日) 07:18:00ID:jThRUH7a0911人間七七四年
2008/09/21(日) 08:13:15ID:JLvDoWloでは源平の富士川の合戦も源氏が一方的に勝ちを宣言してるだけなんだ。
倶利伽羅の合戦も平氏が牛に驚いただけで負けじゃないわけね。
ふ〜ん、そうですか。
0912人間七七四年
2008/09/21(日) 08:44:10ID:Q7unGpxq敵に千人以上の被害を与え、河へ追い込みをかけたら、
洪水で織田の人馬が多数流れ、「織田は弱いと思った」
といっているね。
この書状は真実だろうけれど、後世に誇張されてそれがあまりに一方的な内容にされたので、
手取川合戦はなかったなどという奇説が生じたのだろう。
たぶん、数千程度の軍隊が追撃をかけただけの話だろう。
追撃を仕掛けられた織田が失態をおかしただけであって、
大軍同士が鎧袖一触で勝敗を決したというものではないと思う。
しかし逃げ足の織田に追撃をかけ、戦線を後退させた謙信の手腕は一流。
0913人間七七四年
2008/09/21(日) 12:50:50ID:29MQBNMO七尾城から手取川までの進軍スピードは凄いと思うけど。
0914人間七七四年
2008/09/21(日) 14:51:58ID:HKBTec9k魚津城や一向宗の虐殺で民の恨みを買ってそれも出来なかったのだろうけど。
0915人間七七四年
2008/09/21(日) 17:32:47ID:egqxY83nそれだけ勝った勝ったなんて言ってる側の主張なんて当てにならないということ。
日本軍だけじゃないんだよ過大戦果発表。
0916人間七七四年
2008/09/21(日) 17:47:29ID:GRrPbcCS0917人間七七四年
2008/09/21(日) 18:36:40ID:fOeC8Xfoもっと正確に言うと、首級1000溺れ死ぬもの数知れずて書いてある
当時の戦闘で1000人の戦死者と言ったら相当規模の戦闘があったと思われる、
武田、織田両軍5万人以上が戦った長篠の戦いですら
織田軍の戦死者は最大で1500人て言われてるんだから。
近代兵器登場以前の数千程度の戦闘で戦死者が1000人もでるなんてありえない。
まっ謙信の書状を100パーセント信じた場合だけど。
0918人間七七四年
2008/09/21(日) 20:14:45ID:jThRUH7a織田だろうが、武田だろうが、みんな信用0だろ。
0919人間七七四年
2008/09/21(日) 20:33:20ID:g2NEcPlp0920人間七七四年
2008/09/21(日) 20:50:49ID:kTdvUPsx逃げたら川が洪水で今度は【溺死】
?(`〜´;)?
現代の裁判でそんな書状を証拠として出したら敗訴確実だお
手取り川でっち上げ確定だお
…お?
0921人間七七四年
2008/09/21(日) 21:39:40ID:GRrPbcCS0922人間七七四年
2008/09/21(日) 21:40:07ID:egqxY83n軍事の方にも興味持ってもらえればわかるが
元軍人の書記、回想、証言なんて事実と違うのばっかだよ。日本に限らず。
0923人間七七四年
2008/09/21(日) 21:46:31ID:z8uVXCmy0924人間七七四年
2008/09/21(日) 22:14:44ID:uHrCzPnu武田は別にホラもはったりもないと思うが。
織田のはったりや過大宣言は最高だな。
奴の書状によるなら姉川で浅井朝倉は全滅してる。
0926人間七七四年
2008/09/22(月) 12:40:20ID:RMvEtJsS0927人間七七四年
2008/09/22(月) 12:42:48ID:r9C0OOf5それとも3歳の子供から死にぞこないの老人まで動員したのか。
0928人間七七四年
2008/09/22(月) 23:52:09ID:BdPD0qDd当時の駿河・遠江・三河・尾張の一部ってどれだけ人がいたんだよ。
それとも3歳の子供から死にぞこないの老人まで動員したのか。
0929人間七七四年
2008/09/23(火) 00:59:57ID:WR8+iyIJ戦いの全体や大局をみる事のできない一兵卒や将兵が、目の前で起きた事を書いたり、前線の混乱から情報が錯綜したり、
判断ミスに気付いていない、索敵などで誤情報を入手している、威力偵察から過少や過大評価をしていたりと
ワザと間違えてるわけではない場合がほとんど。
戦争末期の台湾沖航空戦で大本営が空母多数撃沈発表も、練度が低いパイロットと誤判断戦果報告を真に受けたものだ。
また東京裁判で事実と違うものに捏造されたものや、
戦国時代と違い、新聞などマスメディアや政府主導の情報戦略も確立している。
戦国時代と第二次大戦を同列に扱うのは乱暴過ぎる。
また一次資料である自筆の古文書は第一級資料であり、それを否定するには、それと同等かそれ以上の一次資料による否定が必要不可欠である。
0930人間七七四年
2008/09/23(火) 02:46:29ID:FWgkhv+iいや、正確な情報の把握がしづらい時代だからこそ、
嘘や誇張が有効となる。
ゆえに戦果を過大に伝えるのが中世・近世の慣習と化してしまった。
ただ、誇張はともかく、味方までに後からすぐわかる嘘はつかないだろう。
内部からの信頼を落とすわけだから、利より害が大きいからね。
0931人間七七四年
2008/09/23(火) 07:42:03ID:hUSJEdiM0932人間七七四年
2008/09/23(火) 08:19:21ID:WR8+iyIJ1人の将に世話係が数人いたとも、非戦闘員もかなりの数が軍隊の世話の為に付属していたとも言われてる。
兵力については、それを含めているのか、含めてないのか全国に残る各地の書状からは判断できないだけ。
また地元の協力者などもいたろう。
軍の大敗で置き去りにされた者も多いだろう。
0933人間七七四年
2008/09/23(火) 08:33:55ID:S+6vd7k70935人間七七四年
2008/09/24(水) 00:16:43ID:3IVsPRNj0936人間七七四年
2008/09/24(水) 00:17:16ID:95ZxPwkYかりに臨時に農民を徴発したり米以外の産業が発達して石高にくらべて財政に余裕が
あったとしても、戦国時代の兵員数にはかなりの誇張があるのは間違いない。
0937人間七七四年
2008/09/24(水) 07:16:05ID:YUQyPeW+そういうのを加算すればぜんぜん誇張してないんだが。
知らないなら書くなよ素人がw
0938人間七七四年
2008/09/24(水) 09:05:08ID:aK7zyTBW「謙信と事を構えたことは我一生の不覚」 (遺書)
北条氏康
「出来ることなら謙信に全てを譲りたい」 (死期が近づいた時)
織田信長
「猿よ これで終わりかもしれぬ」 (勝家から手取り川の敗戦報告を聞いた後)
黒田官兵衛「謙信公と事を構えるなんぞ お命いくつあっても足りませぬぞ」
(手取り川の戦で黒田が秀吉に・・・結局、秀吉は戦線離脱)
0939人間七七四年
2008/09/24(水) 11:10:56ID:B8D0whxe川に阻まれて世話係も討ち取られた。
溺死し岸にうちあげられた者も首級にされ報告された。
越前の怨念もあって草刈り場となった。
というわけか。
0940人間七七四年
2008/09/24(水) 12:09:05ID:Tlb5/99h行きは川を渡れて、帰りはなぜか同じ川に阻まれるのか〜
謙信も話作るならもっと矛盾無いように作ればいいのにね
0941人間七七四年
2008/09/24(水) 12:20:20ID:q3dRhCP50943人間七七四年
2008/09/24(水) 16:27:08ID:YUQyPeW+後ろから急いで逃げてくる兵に押されるだけでどうなると思う?
しかも撤退中は豪雨だったはず。
0944人間七七四年
2008/09/24(水) 16:32:30ID:7+p3CXUq…とかどっかで読んだり聞いたりしたが、
何が根拠なのかはよく分からん。
0945人間七七四年
2008/09/24(水) 16:50:58ID:Tlb5/99h新潟の大学ででも実験してみて下さい
必死になって実証してみて下さい
0946人間七七四年
2008/09/24(水) 17:19:42ID:/j8bFkb+行きは特に何も無かったから、普通に船を並べて橋の代わりにして渡った。
帰りは荒れてたから、本当なら静まるまで待ってから渡りたかったけど、
追撃を受けていてそうも言ってられないから、無理やり渡って多数の溺死者を出した。
っていうか、言われなきゃ分からないの?状況を想像する頭が無いの?馬鹿なの?
0947人間七七四年
2008/09/24(水) 17:35:39ID:/95WF1Vz0948人間七七四年
2008/09/24(水) 17:39:40ID:Tlb5/99h凄い川だな
いきなり荒れるのか
それとも柴田はそんな長い事背水の状態で野営してたのか
水かさは増える一方なのに何してたんだろな?
0950人間七七四年
2008/09/24(水) 18:49:27ID:gtch2lZk0951946
2008/09/24(水) 19:20:30ID:s95cHBq9すまん、アンカミスです。>>945向けのレスね。
>>948
川なんてその場で降った雨じゃなく、上流で降った雨が集まって時間差で水量が増すんだから
短時間で水量が増えることはままある。
柴田に関しては日中渡り終えて進軍→七尾城陥落の報を受け撤退→追いつかれて川に追い落とされる
って流れであって、上杉が来るまで川の前でボーっと突っ立ってたわけじゃないだろ。
まあそれ以前に柴田は直前まで七尾城陥落の報を受けておらず、
上杉軍は七尾城に張り付いてると思い込んでいるんだから
背水の状態であっても撤退や戦闘状態になることを想定していないだろうけども。
0952人間七七四年
2008/09/24(水) 19:47:14ID:kljVX6DEあとは増水した手取川に織田兵が雪崩て自壊したと解釈できるね。
もともと逃げ遅れた殿軍のうち、
更に低身の連中が殺されたということじゃなかろうか。
0953人間七七四年
2008/09/24(水) 19:57:48ID:B8D0whxe織田軍のそれまでの右往左往ぶりは、豪雨による索敵の困難によるため、とすれば帰りは当然こと増水が懸念される。
0954人間七七四年
2008/09/24(水) 20:25:44ID:YUQyPeW+情報戦ですでに敗北していた織田流兵略の限界
戦地での気象予報すらできない織田は豪雨で鉄砲も使えず、軍律を役に立たずに恐慌敗走。
この神速機動と破壊力を見た国人達…能登だけでなく、一気に加賀まで上杉に服属。
0955人間七七四年
2008/09/24(水) 20:45:09ID:kljVX6DE小競り合いでも被害を与えれば勝利は勝利。
誇大に吹聴する口実を得るのと、
言い触らされるのとでは全く違う。
0956人間七七四年
2008/09/24(水) 20:45:20ID:Tlb5/99h何かいっぱい伸びてるけどさ、何千人も死んでて大将首があがってない戦なんて他に例も無く、そんな世にも珍しい戦を語るのが謙信一人って事実は未来永劫変わらないんだから
0957人間七七四年
2008/09/24(水) 20:48:10ID:Tlb5/99hあと川中島は創作だから
0958人間七七四年
2008/09/24(水) 20:53:41ID:37EqHYbz0959人間七七四年
2008/09/24(水) 21:16:14ID:lSBkZIwq大将の信玄までが傷を負ったのはガチ史実ですが。
討ち死に面子を見たら明らかに戦闘では武田フルボッコですありがとうございます。
0960人間七七四年
2008/09/24(水) 21:32:57ID:Tlb5/99hフルボッコは分かるけどキツツキ戦法?(笑)とかは創作で実際の所は良く分かってないんだから情報戦ウンヌンとは言えないでしょどういたしまして
ごちそうさま
こんにちは
0961人間七七四年
2008/09/24(水) 21:57:39ID:kljVX6DE強さで定評のある武田がフルボッコにされたのは、
何か情報戦に類するものがあると考えるのが妥当でしょ。
0962人間七七四年
2008/09/24(水) 21:58:05ID:lSBkZIwq謙信は武田ボッコボコにしてやったから目的は達した、
くらいしか言ってなければ
武田が上杉にボコられたのは両軍の死者の面子を見れば嘘ではない。
一緒くたにしてんなよ。
0963人間七七四年
2008/09/24(水) 22:08:27ID:Tlb5/99h情報戦があったかもしれないし、ただ単に霧に隠れて撤退しようとしたら武田本隊の横っちょに当たっただけかもしれないし、詳しい資料が無いんだから何とも言えんわ
アレは情報戦だと言いたい気持ちは分かるけどね
0964人間七七四年
2008/09/24(水) 22:35:26ID:sn5js3tz当時の資料である妙法寺記に武田が横入れ(側面攻撃)をしたとしっかり書いてあるんだが。
そして上杉側も武将が何人も死に謙信自身も乱戦の中で太刀を抜いて戦わざるを得ない状況に陥った。
これは謙信びいきの近衛の当時の手紙にある。
そして武田が北信濃に踏みとどまったばかりか野尻や市川に上杉の残党が逃げこもったのを見届けているんだが。
武田もやることはやってんのよ。それくらいの大乱戦。
0965人間七七四年
2008/09/24(水) 22:42:58ID:95ZxPwkYはぁ?低い身分の武士1人に身の回り世話係り3人とも言われてるし・・・
江戸時代の下級武士の給与は三十表二人扶持で現在の価値で年収200万程度
そんな低所得で世話係り3人も雇えるのか、それとも戦国時代は下級武士でも
高給とりだったとか世話係りはボランティアだったとでも言うのかよ。
素人はお前だ、しったかすんな。
0966人間七七四年
2008/09/24(水) 23:11:36ID:kljVX6DE同情しているわけじゃないから、
不覚にもそういう状況に陥ったのではなく、
自ら望んでやったと解釈していいと思う。
つまり、一騎打ちはないにしても、優勢下で上杉軍の旗本が突撃した可能性が高い。
そして旗本がわざわざ積極的に交戦するのは、
それに見合う相手に肉迫したと言うことだろう。
そのような中で本陣を守りきり、上杉の南進を食い止めた武田は凄い。
織田はトンズラして川に流されたが。
0967人間七七四年
2008/09/24(水) 23:39:54ID:sn5js3tz比類がなく、天下の名誉と申せましょう。」
これが近衛の書状の該当部分だけど、自ら望んでやった場合ってわざわざ「予期しない事態だったけど」
なんて書くんだろうか。
上杉側の軍記にさえ謙信が乱戦の中で義信隊の不意の攻撃を受けて
太刀を抜いて自ら切り抜けた様子がある。
0968人間七七四年
2008/09/25(木) 01:17:52ID:klbuwu5g太刀打ちは実際敵に切り掛かる訳じゃない太刀を使っての指揮も指すんだが。
何より上杉方の討ち死に武将は荷駄隊とか揚北の一族の中の若武者くらいで
総大将が怪我するわ一門や重臣クラスが死んでる武田とは
明らかに被害レベルが違う。
0970人間七七四年
2008/09/25(木) 04:47:44ID:/pcahBonアホ過ぎだろ。
一族郎党やそこで代々仕えた百姓などから選抜された人間が付いていくんだよ。
人数が増えるのは、身のまわりの世話役や、馬の世話役や、食事、故郷との伝令役、討ち取られた場合に首や遺品を持ち帰る役など、いろいろ必要人数がいるんだ。
江戸の平和な時代の武士とはわけが違う。
謙信の近衛への手紙は
謙信が自分自身も太刀を持って暴れ回ってやりましたよ!と書いているようにしか思えないだろ。
信玄も謙信を「あんな勇敢な男は他にいない」と言ってるくらいだしな。
謙信自身が鉄砲の弾に自分は当たらないと思い込んでいたらしいし。
0971人間七七四年
2008/09/25(木) 05:02:57ID:/pcahBon場合によっては甲冑着たままのトイレ世話役もいたりする。
出征中の疲労した武士が食事の調理をしたりと1人で何でもこなしていたと思ってんのかw
0972人間七七四年
2008/09/25(木) 07:44:33ID:klbuwu5g川中島では幹部クラスがはっきり死んじゃってる以上言い訳さえできないもんなw
0973人間七七四年
2008/09/25(木) 18:30:35ID:1Yl6ehl9信濃の一豪族でしかない村上義清に二度も敗北したり、13歳まで寺にいて
ろくすっぽ軍事のことも教わってない謙信にKO寸前までやられたり
完勝したの格下の家康相手に戦た三方ヶ原ぐらい、
信玄にとって領土を広げる方法は謀略や策略、政治であって
戦はその後の確認手段でしかないんだろうな。
0974人間七七四年
2008/09/25(木) 18:57:44ID:WR0uyydl0975人間七七四年
2008/09/25(木) 19:36:30ID:lMqfE+HM最終的には北信濃を支配したのは信玄なんだよ
これの一体どこが敗北なんだ?
0976人間七七四年
2008/09/25(木) 19:48:06ID:klbuwu5g所詮信濃を戦で取ったところで上杉が雪で動けない冬の間に
また戻した信濃衆が武田に追い出されるのは目に見えてるしな。
信玄さえ死ななきゃ勝ちという絶対有利に持ち込んでる辺り
100%勝てる状況を作ってから戦いを始める信玄は確かに政治家として一流だな。
逆に上杉はなんとしても決戦で信玄ぶち殺せなきゃ勝ちはなかったと。
圧倒的に有利な自軍より兵数さえ少ない敵にボコられまくる大被害蒙ってるから
戦上手かというとアレだが。
0977人間七七四年
2008/09/25(木) 20:21:42ID:/pcahBon謙信自身は武田を懲らしめる程度の意識で領土欲ないし。
0978人間七七四年
2008/09/25(木) 20:22:05ID:wKoOTSrb昔はそうとう大きな川だったらしいが今じゃちっちゃいよ
0979人間七七四年
2008/09/26(金) 08:18:49ID:IC7qyeuL0980人間七七四年
2008/09/26(金) 09:07:57ID:FJc2lnDO三方ヶ原は信玄の西上作戦(と言っていいかどうかはわからんが)の一局面の戦いにすぎんだろうに……
西上作戦自体は頓挫したから家康の勝ちと言っていいとおもうが、三方ヶ原自体は家康の負けだろ。
0981人間七七四年
2008/09/26(金) 10:49:52ID:EndoMifa0982人間七七四年
2008/09/26(金) 11:00:14ID:Ua74Qjlz謙信は別に信濃を領有したい訳じゃないし戦自体は信玄は謙信にフルボッコ。
上杉と戦うより義元が死んだ今川攻めた方が楽と考え反転w
0983人間七七四年
2008/09/26(金) 14:24:11ID:XKyMHkuY0984人間七七四年
2008/09/26(金) 16:07:32ID:TrWcECFmそのために息子義信を殺し武田家滅亡の原因を作らせ、
勝頼死亡後も生き残った今川義真の勝ちてことになるな。
0985人間七七四年
2008/09/26(金) 16:10:27ID:TrWcECFm0986人間七七四年
2008/09/26(金) 16:16:57ID:6Wo9Qfd2みんな武田に勝ってるじゃん
織田だけじゃないんだ
0987人間七七四年
2008/09/26(金) 22:31:35ID:vT4RxY5Sほんとだよな。
武田に織田、両方勝ったの上杉だけだぜ
0989人間七七四年
2008/09/26(金) 23:58:38ID:sAaYEux0川中島第4回の後武田は北信濃の明確な確保に成功する。
これによって構築された防衛網の前に謙信は第5回川中島では
ほとんど何もできなかった。どちらが作戦目的を達したかは明白。
三方ヶ原の時は家康は一方的に領土をとられ取り返せるのはずっと後。
全然基準が違うな。
0990人間七七四年
2008/09/27(土) 00:03:08ID:u4wOCCFM0991人間七七四年
2008/09/27(土) 00:09:54ID:2d68chWV上杉さん攻めてこないでねと和与してもらいたがった武田さんが申しております
0992人間七七四年
2008/09/27(土) 00:25:04ID:e714tdxL信玄の戦争目的は大戦略的に見ると北の海にでること。
謙信に戦争目的を阻害され、急遽南下せざるおえなくなったのは明らか。
信玄自ら謙信と戦ったのは間違いだったと言ってるしな。
謙信にとっては武田など単なる片手間だけどな。
あと第五回川中島で謙信が信濃制圧を狙った形跡などないな。
4回川中島でズタボロにされて悔しくってちょっかいだしたら、謙信公が動き出したんで
慌てて逃げ帰っただけ。
0993人間七七四年
2008/09/27(土) 00:32:39ID:LqC3xV14との緩衝地帯にしたかったと思われ。信濃侵略が目的の信玄とまったく戦略の
ベクトルが違うのに勝ち負けを論じるのはナンセンス。北前船の主要な港があった
能登えの侵攻は上杉の死活問題に関わってくるので前の二つのようになあなあにできなかった。
0994人間七七四年
2008/09/27(土) 06:46:39ID:y0g+B+300995人間七七四年
2008/09/27(土) 06:48:07ID:y0g+B+300996人間七七四年
2008/09/27(土) 06:49:17ID:y0g+B+300997人間七七四年
2008/09/27(土) 06:52:00ID:y0g+B+300998人間七七四年
2008/09/27(土) 06:52:49ID:y0g+B+300999人間七七四年
2008/09/27(土) 06:53:41ID:y0g+B+301000人間七七四年
2008/09/27(土) 06:54:44ID:y0g+B+30',ヽ、
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