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長篠・設楽原合戦の真実

レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/17(月) 18:10:27ID:C+plg2A7
近年、多くの新説が提唱されている長篠合戦のスレッドです。
0855人間七七四年2008/10/20(月) 20:00:35ID:yqTbgFCZ
>>854

織田・徳川連合軍が設楽原合に付いたときは、
長篠城は本丸のみが残る状態で食料庫も落とされていた。

あと一息で、落とせる状態だった。
0856人間七七四年2008/10/20(月) 20:04:09ID:atgcrood
>>855
しかし援軍が来るまで持ったのだから、城としての機能は十二分に果たしたといえる。
0857人間七七四年2008/10/20(月) 20:11:09ID:3aLMVbi4
>>850
”野戦”と”攻城戦”を混同してるよ、それ。

当時の銃射撃は移動を伴わなかったことはもちろん、銃兵自体単一で偏されてない上に攻撃兵種じゃなかったのに、
野戦で”火力集中”を重要視するのは無意味じゃ?
0858人間七七四年2008/10/20(月) 20:41:54ID:FxBWFkPA
まあ、城を包囲しているときの鉄砲「隊」は、
雨避けのため、わざわざ細長い小屋を作ってもらって、その中で鉄砲構えて
迎撃態勢をとっているくらいだからな。小屋があれば雨天でも撃てるわけだ。
この場合は、火力集中ともいえる。
馬と鉄砲、管理職は小屋をあてがわれ、その他大勢は野良で寝起き。

包囲の軍は、ただ野営していたのではなく、小屋を作って包囲しているわけで、
信長公記に、銃や弓に優れたいる者を集めた迂回別働隊が、
長篠城を救援したときに「武田の小屋々、焼き上げ…」とあるので、。
包囲は長期を予定した本腰のもの。
0859人間七七四年2008/10/20(月) 20:48:00ID:atgcrood
>>857
「野戦」をどの規模で見るかにもよるかと。
0860人間七七四年2008/10/20(月) 20:48:26ID:Ha9rb78t
>>852
>単に織田軍呼び寄せるためにわざと落とさなかったってだけだろ。
それじゃ降服勧告をはねつけて殺された鳥居は?

そもそも織田の主力をおびき寄せて決戦するのに準備が足りなさすぎる
前の年の高天神攻めでは二万以上の軍を投入したのに
長篠に半分強の一万余しか動員しなかった
長篠を餌に織田本隊をおびき寄せて決戦のつもりなら二万はあってもおかしくない
0861人間七七四年2008/10/21(火) 01:35:26ID:G52eTRQ7
織田の主力を呼び寄せて〜という割には、鳥居の扱いや、その情報によって
初めて織田軍が岡崎まできていることを知ったりと、対応がおかしい。
0862人間七七四年2008/10/21(火) 04:21:47ID:XVR8Sqyc
小屋がなくても雨でも鉄砲撃てるよ
0863人間七七四年2008/10/21(火) 06:11:59ID:sdgu+jXn
>>860
実際、長篠で負けてからも、大して間をおかずに上野やらに出兵してるしな。
8000程度だったっていう説が事実だと思う。
当然、織田との決戦を狙っていたなんてこたぁないと思われ。
0864人間七七四年2008/10/22(水) 00:24:22ID:0ulbs/gV
>>863
徳川が来たら叩くか、戦を避けられたなら長篠城を落として
どっちにしろ徳川の武名を貶めて、遠江や三河攻略を
やりやすくする目的だったのに、予想外の織田本隊まで
来てしまって慌てたとか?
0865人間七七四年2008/10/22(水) 00:26:33ID:2+5A9/D8
>>864
後世の視点で当時を見すぎだな。
単純にあのあたりは徳川と武田で取ったり取られたりだったんだから、
その一環以外の何者でもない。
0866人間七七四年2008/10/22(水) 00:30:28ID:0nxEmKcE
>>864
単純に奥平に裏切られてムカついただけだろう
奥三河への出口を確保する意味もあるけどね
0867人間七七四年2008/10/22(水) 00:36:13ID:vWZvL7R8
ムカついたじゃなくて、裏切りへの引き締め、見せしめくらい言ってやれw
0868人間七七四年2008/10/22(水) 00:38:23ID:2+5A9/D8
むしろ家康のほうが、長篠城に奥平を入れて勝頼を誘った、と考えたほうがいい。
0869人間七七四年2008/10/22(水) 00:51:51ID:Sc5479pA
>>864 >>865
ただ勝頼は長篠以前の1574年9月には
家康の居城浜松周辺で放火、略奪をし
久野、掛川といった徳川の主要地の城を押し詰めるなど
徳川軍主力を誘い出す、もしくはその威信を貶めようとする行動はしている。
このことを北条に説明した書状があるが、この中で勝頼は
「こちらが出馬した所、徳川は浜松に立てこもったので、
その周辺の屋敷はひとつも残らず焼き打ちにし、稲も悉く刈り取ってやった。
久野や掛川などの敵城も押し詰め、佐夜群築地に普請を行い、人数も入れて帰陣した。」
と得意げに書いている。これらの戦果は大きな宣伝材料になるという事だ。
実際家康は城を出なかったが威信を傷つけられた事、援軍にこない織田への不信などがあったらしく
長篠では家康や徳川家臣団は「今度助けてもらえなかったら武田に寝返ろう。」と言うくらい追い詰められてる。
勝頼も可能ならば家康を引っ張り出して叩き潰すか、もしだめでもその威信を貶めて
領土拡大につなげようとするプランがあったのは否定できない。
織田が出てきたらどうする気だったのかは知らんが。
0870人間七七四年2008/10/22(水) 00:52:00ID:0nxEmKcE
>>852
亀レスだが、長篠城の攻防と高天神城の攻防について調べた方がいいよ
武田が長篠を包囲したのは5月8日、13日信長が岐阜から出発して18日設楽原に着陣

高天神の方は5月13日包囲されて、落城したのは6月17日
高天神がさっさと落とされたじゃなく二万の大軍に対して1か月も粘った上の落城
その経験からか、長篠攻め時も織田本隊は来ないだろうと思ったら
たった10日で信長が来ちゃった(知ったのは5月16日)
それでも決戦に臨んだのだからよほど自信があったんだろうな
0871人間七七四年2008/10/22(水) 00:52:59ID:Sc5479pA
>>868
>>869的な当時の状況でそれはないと思われる。
0872人間七七四年2008/10/22(水) 01:45:14ID:Sc5479pA
時系列でいうなら、徳川は
堅城といわれた高天神城が1574年6月に攻略され、
9月には>>869の憂き目にあった。
信玄以来徳川は領土を蹂躙され続け、家康主力が敗走や敵前逃亡する事も数回、
堅城と言われた高天神城は攻略され、ついに主城浜松周辺が蹂躙された。
しかもこの間信長自身、もしくは大軍での織田の援軍は一度も来ておらず
徳川単独では城が攻められても後詰もできない状態。
「今度だめだったら武田に寝返ろう」という発言からも
徳川の威信と忍耐は限界に来ていたのではないだろうか。
0873人間七七四年2008/10/22(水) 21:05:15ID:WZfnL+NF
高天神城のときは、織田軍は出動している。
しかし、チンタラ移動したので、移動している間に高天神城は落城してしまった。

落城してしまったので、引き返していったが、この帰った織田軍は
長島に向かい、大虐殺のうえで長島を全面占領している。
0874人間七七四年2008/10/22(水) 23:52:45ID:+AIG1Zqe
武田がもうちょい徳川と綿密に同盟模索していれば、もっと早く裏切ってたりしたのかな
0875人間七七四年2008/10/22(水) 23:55:34ID:2+5A9/D8
>>874
基本的なところで利害対立してるから、どっちかが屈服する形じゃなければ共存は無理だったかと。
0876人間七七四年2008/10/22(水) 23:58:13ID:+AIG1Zqe
>>875
基本的なところっていうと??
駿河・遠江の分割を穏便にやって、その後の武田の進撃は木曽路から美濃に、徳川は後方の憂いなく尾張にって、
絶望的に無理な理由って、何かあったかな。
0877人間七七四年2008/10/23(木) 00:04:27ID:evLeLL7M
武田が欲張り過ぎたからだろう
0878人間七七四年2008/10/23(木) 10:36:49ID:lQdvfI/2
>>848
第二次世界大戦時ポーランドに侵攻したナチスドイツの機械化師団にたいして
ポーランド軍は騎馬隊を主力に挑んだが一蹴された。
独ソ戦開始直後までソ連軍にはかなりの数の騎馬隊がいたと言われている。
第一次世界大戦の主戦場だった西ヨーロッパに比べ第一次世界大戦の洗礼を
あまり受けていない東ヨーロッパはかなり後まで騎馬隊が主力だったみたい。
0879人間七七四年2008/10/23(木) 11:43:36ID:DlAti9pg
>>878
ポーランドとソ連は1920年代の戦争経験で騎兵隊を増強したんだろう
第二次大戦の開戦当時では戦車を機動兵力として考えてるのはドイツだけだったから
別におかしくない
イギリスもフランスも日本も戦車は歩兵を補助するための移動要塞として考えてたし
0880人間七七四年2008/10/23(木) 18:30:08ID:HvzxRhYw
銃の性能アップとともに(日清・日露戦争のころ)、
横に細長い陣地を構築して、銃を持った歩兵が立て籠るようになると、
馬や敵兵による陣地突破は「不可能」になってしまう。

攻めは最大の防御、とかの言葉はつい30年くらい前までよく言われていたが
実態はそんなことはなく、守る側が絶対有利、となってしまう。
湾岸戦争のころから、ようやく、攻める側は守る側の3倍の兵力が必要、と言われだした。

0881人間七七四年2008/10/23(木) 18:33:09ID:vJwwlfMI
攻撃は最大の防御ってそういう意味じゃないだろw
0882人間七七四年2008/10/23(木) 18:44:44ID:DlAti9pg
>>880
>馬や敵兵による陣地突破は「不可能」になってしまう。
知ったか乙
0883人間七七四年2008/10/23(木) 19:03:19ID:HvzxRhYw
ふん、日清戦争の現地報告書を引用したんだよ。

平壌から出撃した騎馬の蒙古兵は、数時間で全員殺害された。

日清戦争時にはすでに騎馬突撃は全くの無力。
0884人間七七四年2008/10/23(木) 19:13:23ID:FSeXdtg4
攻撃は最大の防御:攻撃側は何時何処を攻撃すると言う意味で常に主導権を持っている
守る方は何時何処を攻撃されるか分らない状態で備えなければならない
こーゆー事、現在の軍隊でも基本的な考え方です
0885人間七七四年2008/10/23(木) 19:48:44ID:DlAti9pg
>>883
正しくは歩兵の援護なしの騎馬突撃は無力
こんなの日清戦争まで待たなくても、ナポレオン戦争以前から知られてる
第一次世界大戦の西部戦線で塹壕戦が泥沼化した理由は野戦工事ではなく、
鉄道によって大量輸送
鉄道インフラが発達してなかった東部戦線では泥沼な塹壕戦がなく、
騎兵部隊の機動力も発揮できた
攻撃こそ最大の防御についても同じだけど、もう少し詳しく調べたらわかることを
かじりかけて知ったかぶりするからボロが出る
0886人間七七四年2008/10/23(木) 20:35:01ID:HvzxRhYw
はあ?。

…まあ、わかったよ。>>885の言うことは正しい。
0887人間七七四年2008/10/23(木) 20:45:36ID:vJwwlfMI
これぞ捨て台詞
0888人間七七四年2008/10/23(木) 21:49:55ID:tIxk5uJY
機関銃の配置方法って知っているかい?
陣地の側方に置くんだぜ?

・・・・・・・・・・



こう撃つよりも

・・・・・・・・・・ ←

こう撃つ方が効果アンベ。
0889人間七七四年2008/10/23(木) 23:50:26ID:WKD7L1KT
>>855
すぐ落ちずに
そこまで良く持ちこたえてたと言うことではないの
0890人間七七四年2008/10/24(金) 10:41:43ID:Lk2RKcAj
戦史上最後の組織的騎兵突撃をしたのはWWUの帝国陸軍
そして最後の成功例でもある。と聞いたことがある
0891人間七七四年2008/10/24(金) 11:04:47ID:h6k95Dc3
中東戦争でアラブ騎兵がイスラエル相手にやってなかったっけ?
0892人間七七四年2008/10/24(金) 12:11:20ID:8e3HMouI
馬に乗って戦うのは不便、ってこった。
単に移動の乗り物として便利。
0893人間七七四年2008/10/24(金) 12:16:26ID:uK0CzgWo
いまだに騎兵隊を配備している国もありますがな
0894駿河朝比奈氏2008/10/24(金) 12:49:26ID:dv+CPBC/
(´・ω・`)y ̄~信楽焼をお土産物として買った武将居たんだろうな。
0895駿河朝比奈氏2008/10/24(金) 12:50:33ID:dv+CPBC/
(´・ω・`)ゞ誤爆しちゃった
0896人間七七四年2008/10/24(金) 17:30:33ID:h6k95Dc3
鉄砲記や常山紀談の、この戦いの描写を見ると、織田徳川連合軍は、大量の火力の援護による
足軽の歩兵突撃をやったとしか読めないな。
0897人間七七四年2008/10/24(金) 18:20:08ID:z5I6INbs
>>896
陣城と柵、兵力差の前に、武田軍が長篠城の囲みを解いて撤退して
くれれば・・・と思っていたら主力決戦になっちゃった。

結果論で言えば・・・
火力による漸減作戦で兵力差をさらに広げ、続いて歩兵による白兵戦で
けっこうな損害を出しながらも何とか武田軍を三河から追い払ったと。
そんな戦いですよね。
0898人間七七四年2008/10/24(金) 20:58:48ID:qW9XCl0X
>>893
たんなる僻地の移動手段か儀仗兵でしょ。
軍隊じゃないけどアメリカじゃ騎馬警察が普通に取り締まりやってるけど。
0899人間七七四年2008/10/24(金) 21:06:19ID:3qx2TUKm
実際、鉄砲はそんなに有効ではなかったんではないかな?
兵力差が持久戦によって効果的になったのが一番の決め手。
兵力数は説がいろいろあるけど、共通してるのが
織田徳川連合軍が武田の2から2、5倍。
武田兵は戦国最強との説もあるけど、織田も兵農分離で
強力になってきていたから数の差が勝敗の分かれ目。
合戦当日朝は霧で織田の実数が把握できず、攻めたとの説も。
0900人間七七四年2008/10/24(金) 21:51:59ID:1qAAvz2l
織田は兵農分離なんかしてないって何度も言わせるな。
0901人間七七四年2008/10/24(金) 22:34:45ID:VRXUEryl
兵力差の誤認というのはあるだろうね
というか、無いと考える方が無理
0902人間七七四年2008/10/25(土) 22:42:25ID:eu2y//0+
現地の伝承では武田3000対織田徳川20000というのがほんとのとこらしいね。
これじゃ誰が采配とっても織田方が勝つ。
0903人間七七四年2008/10/25(土) 22:51:57ID:FRg7Wfm7
3000てなんだよ桶狭間レベルじゃん
0904人間七七四年2008/10/26(日) 01:19:34ID:btz18kHO
3000だと、ホントに功城戦だけのつもりだったってことになるな。
そりゃ、こんだけ少数だと、背後の砦落とされたら、そうそう逃げられないが……
そういう意味では、勝頼は生きて逃れただけで、ラッキーだったな。
0905人間七七四年2008/10/26(日) 01:55:33ID:U2TrgXD/
いや、それはそれで勝頼と武田家臣を馬鹿にしすぎだろw
3000しかいないのに20000の織田軍に会戦を挑む大将もいなければ、それに諫言しない家臣もいねーよw
0906人間七七四年2008/10/26(日) 01:57:40ID:qswYHBAq
>>905
ぶっちゃけ織田徳川軍の全体を把握できなかっただけだろ。>武田
ただでさえ見通しが悪い場所なんだから。設楽が原は。
0907人間七七四年2008/10/26(日) 06:01:39ID:seRYqA+M
狭いからな
あんな所で何万もの軍隊が合戦するとか無理だろ
本当はたぶん数百人で殴り合いとかだったと思うよ
0908人間七七四年2008/10/26(日) 11:27:09ID:ahefraww
どんどん規模が小さくなってるw
0909人間七七四年2008/10/26(日) 11:30:51ID:ahefraww
>>906
さすがに自軍が3千しかいなかったら、二万近い敵軍の数をどんなに誤認しても
自分たちより多数である事には気づくだろw
0910人間七七四年2008/10/26(日) 12:03:42ID:qswYHBAq
>>909
自分達より多数と把握しても、その差が突破できないほどではない、って認識の間違いを犯すことは
充分考えられるでしょ。
0911人間七七四年2008/10/26(日) 12:06:38ID:ahefraww
>>910
いや、柵とか堀とか土塁とか用意して守り固めてる自分たちより多数の敵が
突破できないほどでない、っていうのはなあ。
0912人間七七四年2008/10/26(日) 12:07:09ID:Kqy6fXBZ
そこまでバカじゃねえだろ、歴戦の武田軍。
0913人間七七四年2008/10/26(日) 12:21:30ID:0tzAxyG9
いやアホだから歴戦の強者たちがどんどん死んだんだろ
0914人間七七四年2008/10/26(日) 12:33:53ID:btz18kHO
3000だと、流石に将の数が多すぎるんだよな。
最低でも5000、おそらく8000程度はいたんじゃないかねぇ。
3000じゃ、織田が来なくても、徳川が援軍に来るだけでやばい。
0915人間七七四年2008/10/26(日) 12:41:36ID:OuHO2KGk?2BP(500)
このスレホント長命だな。。。
兵力にるいては
合戦直前に長坂光堅が、信長が出てきたけど大丈夫??
という内容の手紙を勝頼に送ってる。
長島一向一揆の鎮圧など外線戦力が、次々と撃破されてる状態で
近畿一帯を収めた信長の動員兵力位は、簡単に推測できたと思う。

牧野文斎氏が柵を作り、兵を伏せて寡兵に見せたという説を
言っているけど、さすがに無理があるような気がする。
0916人間七七四年2008/10/26(日) 13:44:45ID:WnNbfjym
>>906
武田が一番気にしていた援軍の織田がどのくらいの規模で来るのかは
はるかに前の段階で尾張からの街道で当然偵察をしているはずなのでおおよそ判っていたと思う
0917人間七七四年2008/10/26(日) 15:12:24ID:seRYqA+M
それより四半世紀も経って、情報の価値や入手手段のノウハウなんかも当然上がった関ヶ原で、家康が
着陣するまで関東から尾張に行軍してきた事すら分からなかったのが現実。
資金人材の規模等それらと比較にもならない武田がなんで兵数まで把握出来たなんて思えるのか不思議だ。

0918人間七七四年2008/10/26(日) 15:18:16ID:tkeIaB3O
価値が上がったからこそ探査できないという可能性もあるわけで
0919人間七七四年2008/10/26(日) 16:57:57ID:seRYqA+M
それは無茶だろ、隣の家に行きましたって話じゃないんだからさw
0920人間七七四年2008/10/26(日) 17:46:32ID:DJ1zVD4C
3000って秋山が東美濃に侵入した時の兵力程度じゃん。そりゃないわ。
0921人間七七四年2008/10/26(日) 19:35:06ID:DHhOHKcw
通説どおり織田、徳川連合軍35000〜40000 武田軍15000でファイナルアンサーでよくね
問題は長篠城包囲した武田軍15000のなかから設楽原にどれだけさいたかだろう。
どうして決戦におよんだのかは、武田軍の指揮系統に大きな欠陥があって決戦回避を選択
できなかったと言うのが事の真相では。
もともと信玄の時代から家臣団の中に幾つか派閥ありそのほかにも旧諏訪派や旧今川派=義信派
信濃派など野合集団だったのを信玄のカリスマ一つでコントロールしていたものが、信玄が死に
制御不能に近い状態に陥っていたため敵との兵力差を冷静に判断できなくなっていたのでは。

0922人間七七四年2008/10/26(日) 19:54:37ID:OuHO2KGk?2BP(500)
>>917
信長出馬の報は既に長篠はおろか甲斐にまで届いてるよ。
0923人間七七四年2008/10/26(日) 21:12:07ID:ehPlmQsR
>>921
織田徳川の数多すぎw
当時の織田は大阪の本願寺を包囲中だし、一向一揆にとられた越前にも
備えなければいけないから兵力の半分は動かせない
さらに武田の兵力は徳川からの情報でわかってるはずだから
信濃に余力を残してることを知ってて美濃に兵を残しておかないと
武田に美濃攻められて退路断たれる可能性すらある

あれこれ差し引くと信長が長篠に連れて行ったのはせいぜい2万強で
徳川と合わせて3万弱程度で鷲ノ巣砦への別動隊を割いたら2万5千前後
1万5千の武田にとって主導権さえ握ればどうにかなるとみてもおかしくない
0924人間七七四年2008/10/26(日) 22:06:52ID:Y4ZHCGNq
武田の15000のうち正面に投入できたのはどれくらい?
空荷回送中の小荷駄の補給部隊とか長篠城包囲とか鳶の巣あたりの配置兵力引いたら
多くて8000位じゃまいか・・。
0925人間七七四年2008/10/26(日) 22:09:03ID:yGKfVUBv
徳川が織田に対し今度援軍出さなきゃ織田裏切って武田につくって言ったって小説とかじゃよく見るけど、史実なの?
0926人間七七四年2008/10/26(日) 22:26:16ID:Kqy6fXBZ
本当は織田って5万近くいたってことない?
0927人間七七四年2008/10/26(日) 22:33:27ID:qswYHBAq
>>926
無い
0928人間七七四年2008/10/26(日) 22:34:35ID:OuHO2KGk?2BP(500)
>>923
どうも勝頼は、織田、徳川が戦意がないように見て滝沢河を渡ったっぽいよ。
前に書いた奴で悪いが

甲陽軍鏡記述

 さすが大身の信長も、わかき勝頼公をふかみ、出かねられたるとハ、合戦過テ後五十日のうちにきこへたり。

決戦前夜、勝頼書状。戦の安否を心配する甲州の長坂光堅宛

 然者長篠之地取詰候之所、信長家康為後詰雖出張候、無指儀及對陣候、敵失行之術、一段逼迫之躰候之条、無二彼陣へ乗り懸、 云々

同日、信長書状、細川藤孝宛

 長篠との間三里余候、敵之備雖為節所、十八日押詰鉄砲放候、通路も不可合期候、却而擒候、此節根切眼前候

信長と勝頼の世間の評判と、合戦時の心情がよく分かる。
0929人間七七四年2008/10/26(日) 22:51:23ID:Kqy6fXBZ
つうことはまんまとハメられたんだな。
0930人間七七四年2008/10/26(日) 22:58:11ID:yGKfVUBv
信長公記とか見ると
18日信長本陣は最初は長篠から三里と12キロ離れた地点に布陣
その際、窪地や設楽原の後方の山々に信長信忠信雄らの本隊は武田側から見えないようにして陣を張って

そして同じく18日、羽柴滝川丹羽ら(+家康?)が川や丘を越えて有海原(長篠から2〜3キロ)まで進出
そこに布陣して馬防柵を築く

それに対し勝頼は長篠から離れ川を渡って有海原へ進出

その後信長公記ではいきなり20日になっていて、しかも勝頼は有海原を越えて設楽原まで進出

ということは武田は少なくとも織田の羽柴滝川丹羽らが有海原に築いた馬防柵を破ったかして、
設楽原まで進出したと、
織田軍が撤退したのか武田に破られたのかは判らないが。

織田は主兵力を隠蔽
馬防柵の陣形といっても有海原のはたいしたことなかった
このことも織田の戦闘力を軽視して勝つ可能性があると勘違いした一因ではないかと思う。
0931人間七七四年2008/10/26(日) 23:02:36ID:Kqy6fXBZ
ますますもってハメられたんだな。
更に鳶ガスに回り込まれたのか。
0932人間七七四年2008/10/26(日) 23:07:54ID:yGKfVUBv
あと軍隊の兵力、旗の数とかみておおよその実数を推測するとしたら、
細川や筒井らの鉄砲足軽の存在も関係しそう。

後年だが、光秀の軍規によるなら兵力の内訳は、旗1/3槍1/3鉄砲1/6騎馬1/6
兵力の1/3が旗持ちという実戦力としてはどうなのか?で占められている
それを火力の要である、鉄砲足軽だけ抽出してきたのなら、
例えば見た目が15〜6名の部隊でそれだと鉄砲は数名だと判断して突撃したりしたら、
実際には100名の部隊並の火力持っているということになる。
0933人間七七四年2008/10/26(日) 23:16:42ID:yGKfVUBv
>>931
まあ単純に秀吉ら織田の先手勢が柵築いた上で単純に負けたという可能性もあるけど、
織田に好意的に見るなら、織田がわざと兵力分散させて、一部の兵力を本隊から8キロぐらい
離れた地点武田の陣前まで進出、
滝川はともかく、羽柴丹羽は若狭北近江で一応越前一揆への抑えの兵力残している可能性もある、
この3将の兵力と織田本隊との距離、長篠からの距離では、
武田から見れば手を出したくなる相手だったと思う。

で武田は織田の先手勢を追っていったら、何時の間にか長篠から10キロも離れ、
織田本隊が目の前にと、織田によって上手く釣り出されたって見方も出来そう。
0934人間七七四年2008/10/26(日) 23:18:16ID:qswYHBAq
まあ、信長の武田軍への臆病さを考えれば、巧緻な手を打ってて当然だろうな。
0935人間七七四年2008/10/27(月) 00:56:44ID:JwWtNseQ?2BP(500)
実際 長篠日記や甲陽軍艦には武田軍が織田徳川勢を追い散らした事が書かれてる。

んでまた昔書いた奴で悪いけど。

三州長篠之地取詰候処、織田・徳川為後詰打出候条、累年之願望令満足候間、即時ニ乗懸逐一戦、宗者数多打捕、乗其利信長至陣前押寄候処、構陣城籠居候間、入人数之砌、當手之先衆聊失利候

これが戦後家臣の岡修理に送った書状。

勝頼自身が決戦を望んでいた事と、緒戦の勝利を手紙を書いてる。
0936人間七七四年2008/10/27(月) 04:48:53ID:SYjaafB3
しかし斥候出さないの。いくら山陰に隠れても大規模な本隊を隠蔽
しきれるだろうか。深追いにもほどがあるw
まさに猪武者の大軍なわけで、そういう意味では象徴的には
合ってるね。馬柵に突撃して銃撃されて負けたって説も。
0937人間七七四年2008/10/27(月) 08:07:33ID:OA/lhLNX
>>936
確かに斥候を出して無いとは考え難いよね。

特に武田は孫子の兵法を用いていたんだから、敵勢に対して偵察を試みるのは当然。


かなり織田徳川を見くびっていたのかな
0938人間七七四年2008/10/27(月) 13:00:15ID:JwWtNseQ?2BP(500)
斥候だした結果がこれなんじゃない??

敵失行之術、一段逼迫之躰候之条、無二彼陣へ乗り懸
0939人間七七四年2008/10/27(月) 14:02:30ID:7Fmoa1eh
長篠・設楽原の戦を語る上で一番重要なことは、現地に行って見ることである。
これに尽きる。
0940人間七七四年2008/10/27(月) 14:03:25ID:cvKcfSlh
それは全ての戦跡にいえる
0941人間七七四年2008/10/27(月) 15:11:19ID:JwWtNseQ?2BP(500)
そうだね。
行った感想は、狭い。。。
0942人間七七四年2008/10/27(月) 15:22:42ID:6mJkEM6t
アウステルリッツ・クルクスはめっちゃ広かった
0943人間七七四年2008/10/27(月) 16:45:56ID:Lr4m0e7t
川中島だって・・・・
0944人間七七四年2008/10/27(月) 18:31:04ID:iNxztSWd
そうだろ?
長篠狭いだろ?
あんな所で何万も戦うの無理。
物理的に不可能だろ、人間が折り重ならないとそんな人数にならん。
だからあれじゃねえの、本当は騎馬隊じゃなくて騎馬戦。
0945人間七七四年2008/10/27(月) 18:51:46ID:JwWtNseQ?2BP(500)
さながら城攻めの如くして、大将とも悉くてつはうにあたり死ぬ。
乗其利信長至陣前押寄候処、構陣城籠居候間、入人数之砌、當手之先衆聊失利候

個人的には、陣城攻めしてる時に前線指揮官が狙撃されたのが敗因かと思う。
0946人間七七四年2008/10/27(月) 18:54:35ID:wm9Xwmmw
実は合戦前後に病死した武将も戦死者に含めてるんじゃね?
と思いたくなるほどの将の戦死者数だしなw
0947人間七七四年2008/10/27(月) 19:47:19ID:K2dBnH8R
>>944
別に全員が横一列に並んでるわけではないし、関ヶ原の主戦場だって十分狭いぞ
0948人間七七四年2008/10/27(月) 20:06:48ID:Lr4m0e7t
でも戦い後7年で武田家は滅亡したのも史実なんだし長篠・設楽原の戦がそれなりの
規模でかなりの損害が武田軍に有たのは間違いないと思うんだが。
どうしても木曾義昌の裏切りイッパツで400年続いた武田家がアボ〜ンしたとは思えない。
0949人間七七四年2008/10/27(月) 20:59:38ID:ugSDJSgu
>>925
畿内をほぼ制圧したこの時点で武田につくメリットはあまり無い
武田についたら武田より強大な織田相手に攻められるだけ
また家康だってそれぐらいは分かっているはず
交渉材料として武田への寝返りを示唆するには織田との力関係は大きく
戦後落ち着いてからその発言を問題とされて所領を削られかねない程度に徳川は大きい
徳川家中はともかく家康や重臣はそれぐらいの判断はつくはず

よって史実ではないと思う
0950人間七七四年2008/10/27(月) 21:42:30ID:cvKcfSlh
>>948
長篠→高天神城→木曾裏切り

これの一つ一つで武田の楼閣がぼろぼろと崩れていったな。
0951人間七七四年2008/10/27(月) 22:12:02ID:Vuf8W2Y/
木曽の内通
穴山の内通

戦う前から勝負はついていた
0952人間七七四年2008/10/27(月) 22:12:49ID:JwWtNseQ?2BP(500)
勇将一条大夫の活躍を忘れないで下さい。
0953人間七七四年2008/10/27(月) 23:40:44ID:E6D6k5xt
俺も行ったことあるけど、狭いというかお互いの距離が近すぎる感じだった。
0954人間七七四年2008/10/28(火) 00:20:23ID:0n0C8hm6
戊辰戦争時にも長篠・設楽原で小競り合いがあったが500人でも収拾つかなくなって進軍に苦労したしな。
織田武田も実際はもっと少なかったはず。織田3000 VS 武田1000が妥当だろう。
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