長篠・設楽原合戦の真実
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:10:27ID:C+plg2A7五箇山に関しては戦国期から生産されてた説があるけど
言われてるやり方だと、時間がかかりすぎる上に少量しかできないので
効率が悪いとか。
0832人間七七四年
2008/10/18(土) 08:52:42ID:LcuY1Oa7話は変わるけど、朝鮮の役といえば初期に日本の鉄砲が大活躍したが、
明の正規軍が到着すると中国のフランキを始め中国の大口径火器に苦戦したそうだ
その経験から朝鮮から帰った大名がこぞって大口径火器を買い漁ってた
0834人間七七四年
2008/10/18(土) 10:20:41ID:fgpTngI3本多忠勝も砲兵隊長みたいなことしていた記録もある。
家康の江戸城には、秀吉の大阪城と違って、すでに大砲対策が施されていそうな。
0835人間七七四年
2008/10/19(日) 18:36:16ID:qy2so+4J城にたてこもっている敵(朝鮮の場合は日本軍)に対しては、
大砲を打ち込めば断然有利。
明軍の大火器に苦戦したのは聞くね。
でもそこらへんは調べてないから詳しくわからないー
0837人間七七四年
2008/10/19(日) 19:57:09ID:qy2so+4J官軍が港から大砲を打ち込んだ。
ろう城している幕府軍は、城内で右往左往。何日か後には降伏。
0838人間七七四年
2008/10/20(月) 11:00:48ID:cGFY7LWK逆に明では城に篭りながら大砲を用いて後金の軍勢を散々に打ちのめした
地上戦であれほど強かったヌルハチも大砲の傷で死んだから
大砲ありとなしでは勝負にならん
同時期の欧州でも大砲の数の性能が勝負を決することになったし
0839人間七七四年
2008/10/20(月) 11:09:49ID:atgcrood0841人間七七四年
2008/10/20(月) 12:18:25ID:atgcrood要塞戦の場合、銃や大砲への対策をなされた、日本で言えば関ヶ原後に建築された名古屋城や熊本城など、
ヨーロッパで言えばイタリア式要塞などでは、それが技術的に克服されるまでは、その限りではない。
要塞と火力はいたちごっこだね。
0842人間七七四年
2008/10/20(月) 13:00:55ID:rAiY9eUcまあ、たしかに要塞戦あるいは攻城戦と限定されれば、攻め手より貧弱な火力でも勝てることはあるわなあ。
しかし、野戦ではそうはいかんのじゃね?
0843人間七七四年
2008/10/20(月) 13:08:29ID:u5h8gvzF日露でも奉天のときの火力はあっちのほうが上じゃなかったっけ
0844人間七七四年
2008/10/20(月) 13:10:53ID:atgcrood野戦でも長大な塹壕を作ることで陣地を擬似要塞化して火力を克服する方法があるね。
戦車や航空機による突破が可能になるまで、これは有効だった。
小牧長久手なんて、あの当時の代表的な塹壕戦といっていいんじゃないかな?
0846人間七七四年
2008/10/20(月) 13:16:33ID:u5h8gvzF0847人間七七四年
2008/10/20(月) 13:22:10ID:ayVQonBJ野戦において機動力で大軍が寡兵に翻弄されるというのは、
戦略的な意味で火力を集中させることはできたが、戦術的な意味では出来なかった、ってとこでいいんでね?
0848人間七七四年
2008/10/20(月) 13:22:54ID:atgcrood確かアメリカ独立戦争でも、銃隊への騎兵突撃があったような。
0849人間七七四年
2008/10/20(月) 15:26:26ID:3aLMVbi4そして当時”銃火力”が戦術上重要な意味を持ったかは、とてもとても疑問だと思う。
つか、野戦で”銃火力の集中”が問題になったのは、銃兵が攻撃をも担う、歩兵が全員銃兵になってからでは?
長篠の時代は、銃兵と槍兵が混在してるし、その後の朝鮮の役でも”銃撃→突撃”が一般的だったけど、
これは、武田軍の”遠距離武器で敵を混乱→突撃”を世襲してるだけだと思うけど。
つまり弓石つぶて投げ槍の代わりに銃が使われてるだけにしか見えないような。
ちなみに朝鮮の役では「銃がすっごく便利だよ、もっと送れ!」なんて手紙が残ってるよ。
ということは長篠以降十数年たっても、”銃の良さ”を使った戦術が日本各地に広まってなかったことになる。
このような状況で、野戦での銃火力がどうのこうの、火力集中がナニだ、とかいう議論は時代に合ってないと思うな。
戦力を”兵数X火力”と規定したのはシュリーフェンだったかと思うけど、
マスケット兵が主力になった30年戦争より昔に銃火力の話は、ちょっと違和感あるな。
あと、歩兵で敵軍正面を拘束し騎兵を迂回して包囲する、てのはカンナエ以来の古典的戦術だし、
もちろんソレは”銃”の存在無くても成立してるよ。
0850人間七七四年
2008/10/20(月) 15:47:29ID:atgcrood攻める時も守る時も、火砲によって敵を牽制する事こそが基本。
家康が長篠城に、城兵500に対し鉄砲200丁という、驚異的な装備率で篭城させたのも
この火力の牽制力を念頭に置いたため。設楽が原の前に、長篠城の攻防においても武田軍は、
火力の前に屈したと言っていい。
0851人間七七四年
2008/10/20(月) 15:59:26ID:ayVQonBJ特に信長は役立てただけじゃなく、本願寺攻めなんかでは自分がその被害を受ける側に回っているし。
信長に格別の先見性を仮定しなくとも、他の武将に先駆けてそういう考えに至ったことはそうおかしくないと思う。
0852人間七七四年
2008/10/20(月) 17:07:35ID:q58QSPjr単に織田軍呼び寄せるためにわざと落とさなかったってだけだろ。
本気で落とす気なら、あそこまで行ってればあれだけの時間あったんだし落ちてるよ。
織田軍来るのなんか分かってるんだから、腹背に敵受ければ不利なのは常識中の常識だし、
城を落とす気で落とせてないなら、落ちるかどうかはともかくもっと必死な攻撃を仕掛けてる。
懐手で時間潰すような態度はありえないな。
前回高天神城の時は、さっさと落としちゃったもんだから、戦い避けてモタモタ進軍してた織田軍が
これ幸いと途中から帰っちゃったからな。
1回会戦して、敵に痛撃与えたり天下に武田の武勇示して戦略的に有利な流れ作ろうとするのは
至極当然。
あのまま合戦しないでいたら織田はますます膨張するだけだし。
0853人間七七四年
2008/10/20(月) 17:36:11ID:FxBWFkPA調略ができず、戦いが長引いてしまった。
二の丸まで攻めており、また、川の合流点V字状の先端にある城だったから、
城主は和ぼくも逃亡もできない状態になっており、
死に物狂いの抵抗となった模様。
0854人間七七四年
2008/10/20(月) 17:52:11ID:atgcrood外堀、中堀、内堀の三重の堀をそなえ、開けている側も、内堀から主郭まで95メートルほど間を空けた、
なだらかなスロープになっており、侵入者を容易に発見、狙撃できる構造だった。
これは優勢な敵の進入速度を低下させ、要害の側に火力の援護がある限り、容易に
攻略を許さない築城となっている。
少なくとも、「いつでも落とせた」なんて城ではないことは確かだ。
0855人間七七四年
2008/10/20(月) 20:00:35ID:yqTbgFCZ織田・徳川連合軍が設楽原合に付いたときは、
長篠城は本丸のみが残る状態で食料庫も落とされていた。
あと一息で、落とせる状態だった。
0857人間七七四年
2008/10/20(月) 20:11:09ID:3aLMVbi4”野戦”と”攻城戦”を混同してるよ、それ。
当時の銃射撃は移動を伴わなかったことはもちろん、銃兵自体単一で偏されてない上に攻撃兵種じゃなかったのに、
野戦で”火力集中”を重要視するのは無意味じゃ?
0858人間七七四年
2008/10/20(月) 20:41:54ID:FxBWFkPA雨避けのため、わざわざ細長い小屋を作ってもらって、その中で鉄砲構えて
迎撃態勢をとっているくらいだからな。小屋があれば雨天でも撃てるわけだ。
この場合は、火力集中ともいえる。
馬と鉄砲、管理職は小屋をあてがわれ、その他大勢は野良で寝起き。
包囲の軍は、ただ野営していたのではなく、小屋を作って包囲しているわけで、
信長公記に、銃や弓に優れたいる者を集めた迂回別働隊が、
長篠城を救援したときに「武田の小屋々、焼き上げ…」とあるので、。
包囲は長期を予定した本腰のもの。
0860人間七七四年
2008/10/20(月) 20:48:26ID:Ha9rb78t>単に織田軍呼び寄せるためにわざと落とさなかったってだけだろ。
それじゃ降服勧告をはねつけて殺された鳥居は?
そもそも織田の主力をおびき寄せて決戦するのに準備が足りなさすぎる
前の年の高天神攻めでは二万以上の軍を投入したのに
長篠に半分強の一万余しか動員しなかった
長篠を餌に織田本隊をおびき寄せて決戦のつもりなら二万はあってもおかしくない
0861人間七七四年
2008/10/21(火) 01:35:26ID:G52eTRQ7初めて織田軍が岡崎まできていることを知ったりと、対応がおかしい。
0862人間七七四年
2008/10/21(火) 04:21:47ID:XVR8Sqyc0863人間七七四年
2008/10/21(火) 06:11:59ID:sdgu+jXn実際、長篠で負けてからも、大して間をおかずに上野やらに出兵してるしな。
8000程度だったっていう説が事実だと思う。
当然、織田との決戦を狙っていたなんてこたぁないと思われ。
0864人間七七四年
2008/10/22(水) 00:24:22ID:0ulbs/gV徳川が来たら叩くか、戦を避けられたなら長篠城を落として
どっちにしろ徳川の武名を貶めて、遠江や三河攻略を
やりやすくする目的だったのに、予想外の織田本隊まで
来てしまって慌てたとか?
0865人間七七四年
2008/10/22(水) 00:26:33ID:2+5A9/D8後世の視点で当時を見すぎだな。
単純にあのあたりは徳川と武田で取ったり取られたりだったんだから、
その一環以外の何者でもない。
0867人間七七四年
2008/10/22(水) 00:36:13ID:vWZvL7R80868人間七七四年
2008/10/22(水) 00:38:23ID:2+5A9/D80869人間七七四年
2008/10/22(水) 00:51:51ID:Sc5479pAただ勝頼は長篠以前の1574年9月には
家康の居城浜松周辺で放火、略奪をし
久野、掛川といった徳川の主要地の城を押し詰めるなど
徳川軍主力を誘い出す、もしくはその威信を貶めようとする行動はしている。
このことを北条に説明した書状があるが、この中で勝頼は
「こちらが出馬した所、徳川は浜松に立てこもったので、
その周辺の屋敷はひとつも残らず焼き打ちにし、稲も悉く刈り取ってやった。
久野や掛川などの敵城も押し詰め、佐夜群築地に普請を行い、人数も入れて帰陣した。」
と得意げに書いている。これらの戦果は大きな宣伝材料になるという事だ。
実際家康は城を出なかったが威信を傷つけられた事、援軍にこない織田への不信などがあったらしく
長篠では家康や徳川家臣団は「今度助けてもらえなかったら武田に寝返ろう。」と言うくらい追い詰められてる。
勝頼も可能ならば家康を引っ張り出して叩き潰すか、もしだめでもその威信を貶めて
領土拡大につなげようとするプランがあったのは否定できない。
織田が出てきたらどうする気だったのかは知らんが。
0870人間七七四年
2008/10/22(水) 00:52:00ID:0nxEmKcE亀レスだが、長篠城の攻防と高天神城の攻防について調べた方がいいよ
武田が長篠を包囲したのは5月8日、13日信長が岐阜から出発して18日設楽原に着陣
高天神の方は5月13日包囲されて、落城したのは6月17日
高天神がさっさと落とされたじゃなく二万の大軍に対して1か月も粘った上の落城
その経験からか、長篠攻め時も織田本隊は来ないだろうと思ったら
たった10日で信長が来ちゃった(知ったのは5月16日)
それでも決戦に臨んだのだからよほど自信があったんだろうな
0872人間七七四年
2008/10/22(水) 01:45:14ID:Sc5479pA堅城といわれた高天神城が1574年6月に攻略され、
9月には>>869の憂き目にあった。
信玄以来徳川は領土を蹂躙され続け、家康主力が敗走や敵前逃亡する事も数回、
堅城と言われた高天神城は攻略され、ついに主城浜松周辺が蹂躙された。
しかもこの間信長自身、もしくは大軍での織田の援軍は一度も来ておらず
徳川単独では城が攻められても後詰もできない状態。
「今度だめだったら武田に寝返ろう」という発言からも
徳川の威信と忍耐は限界に来ていたのではないだろうか。
0873人間七七四年
2008/10/22(水) 21:05:15ID:WZfnL+NFしかし、チンタラ移動したので、移動している間に高天神城は落城してしまった。
落城してしまったので、引き返していったが、この帰った織田軍は
長島に向かい、大虐殺のうえで長島を全面占領している。
0874人間七七四年
2008/10/22(水) 23:52:45ID:+AIG1Zqe0876人間七七四年
2008/10/22(水) 23:58:13ID:+AIG1Zqe基本的なところっていうと??
駿河・遠江の分割を穏便にやって、その後の武田の進撃は木曽路から美濃に、徳川は後方の憂いなく尾張にって、
絶望的に無理な理由って、何かあったかな。
0877人間七七四年
2008/10/23(木) 00:04:27ID:evLeLL7M0878人間七七四年
2008/10/23(木) 10:36:49ID:lQdvfI/2第二次世界大戦時ポーランドに侵攻したナチスドイツの機械化師団にたいして
ポーランド軍は騎馬隊を主力に挑んだが一蹴された。
独ソ戦開始直後までソ連軍にはかなりの数の騎馬隊がいたと言われている。
第一次世界大戦の主戦場だった西ヨーロッパに比べ第一次世界大戦の洗礼を
あまり受けていない東ヨーロッパはかなり後まで騎馬隊が主力だったみたい。
0879人間七七四年
2008/10/23(木) 11:43:36ID:DlAti9pgポーランドとソ連は1920年代の戦争経験で騎兵隊を増強したんだろう
第二次大戦の開戦当時では戦車を機動兵力として考えてるのはドイツだけだったから
別におかしくない
イギリスもフランスも日本も戦車は歩兵を補助するための移動要塞として考えてたし
0880人間七七四年
2008/10/23(木) 18:30:08ID:HvzxRhYw横に細長い陣地を構築して、銃を持った歩兵が立て籠るようになると、
馬や敵兵による陣地突破は「不可能」になってしまう。
攻めは最大の防御、とかの言葉はつい30年くらい前までよく言われていたが
実態はそんなことはなく、守る側が絶対有利、となってしまう。
湾岸戦争のころから、ようやく、攻める側は守る側の3倍の兵力が必要、と言われだした。
0881人間七七四年
2008/10/23(木) 18:33:09ID:vJwwlfMI0883人間七七四年
2008/10/23(木) 19:03:19ID:HvzxRhYw平壌から出撃した騎馬の蒙古兵は、数時間で全員殺害された。
日清戦争時にはすでに騎馬突撃は全くの無力。
0884人間七七四年
2008/10/23(木) 19:13:23ID:FSeXdtg4守る方は何時何処を攻撃されるか分らない状態で備えなければならない
こーゆー事、現在の軍隊でも基本的な考え方です
0885人間七七四年
2008/10/23(木) 19:48:44ID:DlAti9pg正しくは歩兵の援護なしの騎馬突撃は無力
こんなの日清戦争まで待たなくても、ナポレオン戦争以前から知られてる
第一次世界大戦の西部戦線で塹壕戦が泥沼化した理由は野戦工事ではなく、
鉄道によって大量輸送
鉄道インフラが発達してなかった東部戦線では泥沼な塹壕戦がなく、
騎兵部隊の機動力も発揮できた
攻撃こそ最大の防御についても同じだけど、もう少し詳しく調べたらわかることを
かじりかけて知ったかぶりするからボロが出る
0887人間七七四年
2008/10/23(木) 20:45:36ID:vJwwlfMI0888人間七七四年
2008/10/23(木) 21:49:55ID:tIxk5uJY陣地の側方に置くんだぜ?
・・・・・・・・・・
↑
こう撃つよりも
・・・・・・・・・・ ←
こう撃つ方が効果アンベ。
0890人間七七四年
2008/10/24(金) 10:41:43ID:Lk2RKcAjそして最後の成功例でもある。と聞いたことがある
0891人間七七四年
2008/10/24(金) 11:04:47ID:h6k95Dc30892人間七七四年
2008/10/24(金) 12:11:20ID:8e3HMouI単に移動の乗り物として便利。
0893人間七七四年
2008/10/24(金) 12:16:26ID:uK0CzgWo0894駿河朝比奈氏
2008/10/24(金) 12:49:26ID:dv+CPBC/0895駿河朝比奈氏
2008/10/24(金) 12:50:33ID:dv+CPBC/0896人間七七四年
2008/10/24(金) 17:30:33ID:h6k95Dc3足軽の歩兵突撃をやったとしか読めないな。
0897人間七七四年
2008/10/24(金) 18:20:08ID:z5I6INbs陣城と柵、兵力差の前に、武田軍が長篠城の囲みを解いて撤退して
くれれば・・・と思っていたら主力決戦になっちゃった。
結果論で言えば・・・
火力による漸減作戦で兵力差をさらに広げ、続いて歩兵による白兵戦で
けっこうな損害を出しながらも何とか武田軍を三河から追い払ったと。
そんな戦いですよね。
0898人間七七四年
2008/10/24(金) 20:58:48ID:qW9XCl0Xたんなる僻地の移動手段か儀仗兵でしょ。
軍隊じゃないけどアメリカじゃ騎馬警察が普通に取り締まりやってるけど。
0899人間七七四年
2008/10/24(金) 21:06:19ID:3qx2TUKm兵力差が持久戦によって効果的になったのが一番の決め手。
兵力数は説がいろいろあるけど、共通してるのが
織田徳川連合軍が武田の2から2、5倍。
武田兵は戦国最強との説もあるけど、織田も兵農分離で
強力になってきていたから数の差が勝敗の分かれ目。
合戦当日朝は霧で織田の実数が把握できず、攻めたとの説も。
0900人間七七四年
2008/10/24(金) 21:51:59ID:1qAAvz2l0901人間七七四年
2008/10/24(金) 22:34:45ID:VRXUErylというか、無いと考える方が無理
0902人間七七四年
2008/10/25(土) 22:42:25ID:eu2y//0+これじゃ誰が采配とっても織田方が勝つ。
0903人間七七四年
2008/10/25(土) 22:51:57ID:FRg7Wfm70904人間七七四年
2008/10/26(日) 01:19:34ID:btz18kHOそりゃ、こんだけ少数だと、背後の砦落とされたら、そうそう逃げられないが……
そういう意味では、勝頼は生きて逃れただけで、ラッキーだったな。
0905人間七七四年
2008/10/26(日) 01:55:33ID:U2TrgXD/3000しかいないのに20000の織田軍に会戦を挑む大将もいなければ、それに諫言しない家臣もいねーよw
0906人間七七四年
2008/10/26(日) 01:57:40ID:qswYHBAqぶっちゃけ織田徳川軍の全体を把握できなかっただけだろ。>武田
ただでさえ見通しが悪い場所なんだから。設楽が原は。
0907人間七七四年
2008/10/26(日) 06:01:39ID:seRYqA+Mあんな所で何万もの軍隊が合戦するとか無理だろ
本当はたぶん数百人で殴り合いとかだったと思うよ
0908人間七七四年
2008/10/26(日) 11:27:09ID:ahefraww0909人間七七四年
2008/10/26(日) 11:30:51ID:ahefrawwさすがに自軍が3千しかいなかったら、二万近い敵軍の数をどんなに誤認しても
自分たちより多数である事には気づくだろw
0910人間七七四年
2008/10/26(日) 12:03:42ID:qswYHBAq自分達より多数と把握しても、その差が突破できないほどではない、って認識の間違いを犯すことは
充分考えられるでしょ。
0911人間七七四年
2008/10/26(日) 12:06:38ID:ahefrawwいや、柵とか堀とか土塁とか用意して守り固めてる自分たちより多数の敵が
突破できないほどでない、っていうのはなあ。
0912人間七七四年
2008/10/26(日) 12:07:09ID:Kqy6fXBZ0913人間七七四年
2008/10/26(日) 12:21:30ID:0tzAxyG90914人間七七四年
2008/10/26(日) 12:33:53ID:btz18kHO最低でも5000、おそらく8000程度はいたんじゃないかねぇ。
3000じゃ、織田が来なくても、徳川が援軍に来るだけでやばい。
兵力にるいては
合戦直前に長坂光堅が、信長が出てきたけど大丈夫??
という内容の手紙を勝頼に送ってる。
長島一向一揆の鎮圧など外線戦力が、次々と撃破されてる状態で
近畿一帯を収めた信長の動員兵力位は、簡単に推測できたと思う。
牧野文斎氏が柵を作り、兵を伏せて寡兵に見せたという説を
言っているけど、さすがに無理があるような気がする。
0916人間七七四年
2008/10/26(日) 13:44:45ID:WnNbfjym武田が一番気にしていた援軍の織田がどのくらいの規模で来るのかは
はるかに前の段階で尾張からの街道で当然偵察をしているはずなのでおおよそ判っていたと思う
0917人間七七四年
2008/10/26(日) 15:12:24ID:seRYqA+M着陣するまで関東から尾張に行軍してきた事すら分からなかったのが現実。
資金人材の規模等それらと比較にもならない武田がなんで兵数まで把握出来たなんて思えるのか不思議だ。
0918人間七七四年
2008/10/26(日) 15:18:16ID:tkeIaB3O0919人間七七四年
2008/10/26(日) 16:57:57ID:seRYqA+M0920人間七七四年
2008/10/26(日) 17:46:32ID:DJ1zVD4C0921人間七七四年
2008/10/26(日) 19:35:06ID:DHhOHKcw問題は長篠城包囲した武田軍15000のなかから設楽原にどれだけさいたかだろう。
どうして決戦におよんだのかは、武田軍の指揮系統に大きな欠陥があって決戦回避を選択
できなかったと言うのが事の真相では。
もともと信玄の時代から家臣団の中に幾つか派閥ありそのほかにも旧諏訪派や旧今川派=義信派
信濃派など野合集団だったのを信玄のカリスマ一つでコントロールしていたものが、信玄が死に
制御不能に近い状態に陥っていたため敵との兵力差を冷静に判断できなくなっていたのでは。
0923人間七七四年
2008/10/26(日) 21:12:07ID:ehPlmQsR織田徳川の数多すぎw
当時の織田は大阪の本願寺を包囲中だし、一向一揆にとられた越前にも
備えなければいけないから兵力の半分は動かせない
さらに武田の兵力は徳川からの情報でわかってるはずだから
信濃に余力を残してることを知ってて美濃に兵を残しておかないと
武田に美濃攻められて退路断たれる可能性すらある
あれこれ差し引くと信長が長篠に連れて行ったのはせいぜい2万強で
徳川と合わせて3万弱程度で鷲ノ巣砦への別動隊を割いたら2万5千前後
1万5千の武田にとって主導権さえ握ればどうにかなるとみてもおかしくない
0924人間七七四年
2008/10/26(日) 22:06:52ID:Y4ZHCGNq空荷回送中の小荷駄の補給部隊とか長篠城包囲とか鳶の巣あたりの配置兵力引いたら
多くて8000位じゃまいか・・。
0925人間七七四年
2008/10/26(日) 22:09:03ID:yGKfVUBv0926人間七七四年
2008/10/26(日) 22:26:16ID:Kqy6fXBZどうも勝頼は、織田、徳川が戦意がないように見て滝沢河を渡ったっぽいよ。
前に書いた奴で悪いが
甲陽軍鏡記述
さすが大身の信長も、わかき勝頼公をふかみ、出かねられたるとハ、合戦過テ後五十日のうちにきこへたり。
決戦前夜、勝頼書状。戦の安否を心配する甲州の長坂光堅宛
然者長篠之地取詰候之所、信長家康為後詰雖出張候、無指儀及對陣候、敵失行之術、一段逼迫之躰候之条、無二彼陣へ乗り懸、 云々
同日、信長書状、細川藤孝宛
長篠との間三里余候、敵之備雖為節所、十八日押詰鉄砲放候、通路も不可合期候、却而擒候、此節根切眼前候
信長と勝頼の世間の評判と、合戦時の心情がよく分かる。
0929人間七七四年
2008/10/26(日) 22:51:23ID:Kqy6fXBZ0930人間七七四年
2008/10/26(日) 22:58:11ID:yGKfVUBv18日信長本陣は最初は長篠から三里と12キロ離れた地点に布陣
その際、窪地や設楽原の後方の山々に信長信忠信雄らの本隊は武田側から見えないようにして陣を張って
そして同じく18日、羽柴滝川丹羽ら(+家康?)が川や丘を越えて有海原(長篠から2〜3キロ)まで進出
そこに布陣して馬防柵を築く
それに対し勝頼は長篠から離れ川を渡って有海原へ進出
その後信長公記ではいきなり20日になっていて、しかも勝頼は有海原を越えて設楽原まで進出
ということは武田は少なくとも織田の羽柴滝川丹羽らが有海原に築いた馬防柵を破ったかして、
設楽原まで進出したと、
織田軍が撤退したのか武田に破られたのかは判らないが。
織田は主兵力を隠蔽
馬防柵の陣形といっても有海原のはたいしたことなかった
このことも織田の戦闘力を軽視して勝つ可能性があると勘違いした一因ではないかと思う。
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。