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長篠・設楽原合戦の真実

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/17(月) 18:10:27ID:C+plg2A7
近年、多くの新説が提唱されている長篠合戦のスレッドです。
0793人間七七四年2008/10/15(水) 01:09:11ID:ALYtiIBN
>>792
自分も織田徳川3万8000と武田勝頼軍1万5000
というのはどうも解せない
貴方が言うように例えば織田徳川2万3000で武田1万3000で
別働隊5000が鷲ノ巣砦から武田軍の後方に回ろうとしていたなら
織田徳川1万8000対武田1万3000
このくらいの兵力差なら例え織田徳川軍が陣城を築こうが勝機を見いだせたかもしれない。

勝算有りと判断し合戦に突入→一門衆等が命令を聞かず形勢不利に→一門衆が勝手に退却→大被害
こういう流れだと思うんだけど
倍以上の兵相手にどうやって勝算有りと判断するんだと
兵力に関する確かな資料はないし
実際はこんなもんじゃなかったのかな
0794人間七七四年2008/10/15(水) 04:03:23ID:XKsq/MwG
>>793
実際、長期戦だったんでしょ
織田の兵はいったん国に帰ったりもしてたみたい
結局、武田の退却戦で
攻めてる状態ならさすがに一門衆も敵前逃亡みたいなことはしないでしょ
中央部隊が崩れたから
左右の馬場真田内藤山県隊は取り残されて敗退した感じ
なにげに織田の損害もデカイわけだが
長期に渡り小競り合いをしてた感はあるな
あとからの増援で3万の大軍になったかもね
0795人間七七四年2008/10/15(水) 19:30:52ID:19FVs4pP
勝頼は相当な数の鉄砲を集めていたという話があった。
そして、長篠城攻めでは大量の鉄砲が使われた痕跡があった。
〜〜ここまで事実〜〜

〜〜以下妄想〜〜
しかし、織田と武田では得られる火薬の量が違いすぎる。
設楽が原では、既に武田の火薬は尽きていて
鉄砲にたいして鉄砲で当たることができず、長距離戦ができなかった。

とか考えてみた。
0796人間七七四年2008/10/15(水) 19:36:30ID:SN2/BJQ+
長距離戦と言うか、長篠の戦で織田信長連合軍が陣地を要害化していたのが正しいとすれば、
武田軍は擬似要塞戦を行ったわけで、その場合当時の要塞戦の基本である
「優勢な火力の援護による攻撃」を行うことが出来なかった、ってことでしょ。
0797人間七七四年2008/10/15(水) 19:40:27ID:7BUAeJo3
>>795
つまり織田=米軍、武田=旧日本軍ってことか
0798人間七七四年2008/10/15(水) 20:30:22ID:nZrgZb9z
今の時代の拳銃だって近距離でしか使い物にならん
命中精度の低い火縄の有効射程が13mというのもそう不思議ではない
0799人間七七四年2008/10/15(水) 20:57:38ID:vY6bKSqQ
拳銃と同一視するなら50Mじゃん
0800人間七七四年2008/10/15(水) 21:23:38ID:aiHY28mz
なんだ火縄の射程が13mというのは結局ほとんどガセなのか。
島津なんとかって記述ですべてを語ってたみたいだけど実際は3〜50m
ってそこらの火縄のHPとかには載ってるからおかしいとは思ったんだ。
もちろん用法にもよるけど威嚇とか足止めだったら結構離れたところからでも
有効だったんだろな。
いくらなんでも火縄構えてるとこにつっこむ兵隊さんもいないだろうし。

この前初めて実弾撃ったんだが片手でも結構当たったから不思議だった。
もちろん両手でガチガチになって20発ぐらい撃ってからだったけどね。
暴発しちゃった、ではすまんもんね、やっぱり。
0801人間七七四年2008/10/15(水) 21:29:47ID:SN2/BJQ+
つーか、鉄砲の射程も、つかう火薬の量とか銃の種類でずいぶん変わってくるわけだが。
0802人間七七四年2008/10/15(水) 22:02:13ID:QsjQPPCZ
>>795
>しかし、織田と武田では得られる火薬の量が違いすぎる。
設楽が原では、既に武田の火薬は尽きていて
鉄砲にたいして鉄砲で当たることができず、長距離戦ができなかった。

これは同意だね。
火薬の原料は硝石。その硝石は輸入に頼っていたから
堺を押さえていた信長と、山国の武田では火薬量が
全然違ったと思う。

0803人間七七四年2008/10/15(水) 22:13:09ID:vY6bKSqQ
>>800
外国の観光地で撃ったなら火薬半分の弱装弾だから扱いやすいよ
一般愛好家相手や軍管理のとこだったら基本通常弾

拳銃でも弓でも動いてる的に一撃必中目指すなら12m弱とはよく耳にするから
そういう記述を勘違いしたんじゃないかな
有効射程がそんなに短ければ松本城の城壁の銃眼とか飾りにもならん
0804人間七七四年2008/10/15(水) 22:13:57ID:iaCbZZkR
商人は、カネさえ払ってくれれば、
敵国にも売りますよ。

堺〜駿河は、そこそこ舟の往来はあったので(江戸以北はなし)、
駿河をおさえていた武田は、輸入可能。
0805人間七七四年2008/10/15(水) 22:15:54ID:SN2/BJQ+
武田は遠江と駿河の国境地帯で、商人からせっせと鉄砲丸薬買い捲っているな。
0806人間七七四年2008/10/15(水) 22:47:10ID:QsjQPPCZ
硝石が売れると堺の商人が儲かる。
それはすなわち信長の税収が上がる事を意味する。

勝頼が硝石を買えば買うほど信長が肥える仕組み。
0807人間七七四年2008/10/15(水) 22:54:01ID:Y1t+MnoW
福島正則が宇喜多の鉄砲隊(+半陣地化)に万歳突撃を敢行して四度攻め掛かり最後には壊滅しました。

小勢で防御体制に入っている大軍に攻撃を仕掛ける行為がいかに危険か。
お互い攻勢に出てれば勝頼にも勝機はあるかもね
0808人間七七四年2008/10/15(水) 23:01:38ID:TdQGh6uM
>>807
長篠の時の軍編成と唐入り後の軍編成を一緒に考えてる時点で大間違い
0809人間七七四年2008/10/15(水) 23:18:48ID:aiHY28mz
>>803
へ〜、1発7ドル、なんてのにもチャレンジしたが、名前忘れた、あれも火薬
抜いてあるのかな。結構両手でズドンときたわ。

火薬量とか硝煙の話は詳しい輸入ルートとか解明されてるみたいよ。
単純に山国だから量が少ない、というものではなかったろうね。
火縄購入した時点で弾だってちゃんと買ったろうし。
0810人間七七四年2008/10/16(木) 00:57:11ID:wmeNIXby
>>803
確かに12mでも狙って当てるには結構距離あるからなー

>>809
軍板いけばその辺は結構詳しい
素人が撃つと肩が外れる拳銃とかあるらしいし
0811人間七七四年2008/10/16(木) 03:18:25ID:LGcYoEb1
種子島の有効射程は50mくらい、ってのは誰も反対してないのでは。
「12m」というのは”当時の戦術上使用された距離”の話じゃないかね?


>>808
江戸時代の鉄砲書でも、種子島は弓の代わりに使われただけ、のようだけど、
どこがどう変わったのか、kwsk

>>809
織田方が、多量に弾薬を消費した、って記録はないのよね。
鉄砲部隊も現地編成で、合戦前からそのために弾薬を用意した記録はない。
で、戦闘時間考えると「矢継ぎ早に撃つ」ほどの弾薬量を持ってたようには見えないのよねぇ…

つか、”遠隔兵器で敵を混乱→突撃”という攻撃の仕方だったなら種子島の出番は少なかったはず。
だから攻撃をかけた武田側に鉄砲の活躍がないのは当たり前、な気はするけど…
0812人間七七四年2008/10/16(木) 18:43:29ID:NrQbvpCt
12、13mってのは動いている目標に当てられて仕留められる可能性の高い距離だろ
そりゃ火縄でも甲冑着ている相手を致死できる距離なら50mは当然あってしかるべきだが
最大限効果を発揮できる距離は12mほどということ
0813人間七七四年2008/10/16(木) 19:34:51ID:Gd/J0sNy
最大限効果を発揮できる距離はその理屈なら13mは遠い。
槍が届かないギリギリの距離でしょ。
弓のがましだな。二回は射れる。
0814人間七七四年2008/10/16(木) 19:36:02ID:Gd/J0sNy
本当に13mなら
0815人間七七四年2008/10/16(木) 19:44:08ID:dLDagyRr
ら抜き言葉
0816人間七七四年2008/10/16(木) 22:42:29ID:Yww7hX7S
>>806
別に堺だけが入手の方法じゃないと思うが。
0817人間七七四年2008/10/16(木) 22:49:04ID:rdDMY5wc
北条と里見が合戦した時、双方の鉄砲とも江戸浅草製だった、って記録が残ってるな。
0818人間七七四年2008/10/16(木) 23:11:35ID:vpBZVlng
カタパルト投入&雨降り待ちで武田方大勝利
0819人間七七四年2008/10/16(木) 23:23:50ID:RIh2zeMA
殺傷率が低いだけで負傷させるだけなら距離なくてもいいんじゃない?

必殺の武器にはならなくても戦闘不能、負傷による戦意喪失効果が上がれば十分。
0820人間七七四年2008/10/16(木) 23:25:09ID:eLp9kSOi
それと音だわな。
無音の時代にあれだけの音がすれば馬も暴れて実際
制御は難しかったろうな。
0821人間七七四年2008/10/16(木) 23:31:01ID:rdDMY5wc
軍馬は火薬音に慣れさせてるっつーの。

当時の人も馬鹿じゃ無いんだから。
0822人間七七四年2008/10/16(木) 23:39:38ID:XI9htx9s
>>816
堺と駿河なら火薬の値段は大分違うと思う。
輸送コスト、中間マージン考えて。
0823人間七七四年2008/10/17(金) 00:00:32ID:wPeudD9M
>>822
自国生産できるんだけど。
0824人間七七四年2008/10/17(金) 00:10:20ID:ZLmxs6dY
効率が悪い
0825人間七七四年2008/10/17(金) 00:12:03ID:nTNjyVAR
規模の大きくなった戦国後期の合戦に使うほどの大量の火薬を作るためには、やはりどうしても
輸入硝石に頼らざるを得ない。
0826人間七七四年2008/10/17(金) 04:37:27ID:qC197AVh
>>819
当時の”戦”は首とってなんぼ、の世界だったので、撃退するだけの個人の勲功にならない戦はどーなんだろ? 

>>823
硝石の国内生産技術確立は江戸に入ってからだと思ったけど??

>>825
大量消費、つっても、後の欧州のような一斉発射での制圧、って使われ方はしてないから、そう多くはないかと。
0827人間七七四年2008/10/17(金) 19:50:12ID:tMu7KA1X
鉄砲が野戦で活躍したなんて創作でしょw
こんな隙だらけの武器が展開が絶えず変わる野戦で使い物になるわけがない
結局、対攻城戦、籠城戦で使うのが主流だな
0828人間七七四年2008/10/17(金) 19:52:30ID:nTNjyVAR
戦法ってものが何のためにあるのか理解しろよ
0829人間七七四年2008/10/17(金) 22:10:56ID:4+36FdE7
朝鮮の役の頃には一斉射撃があつたんじゃね。
0830人間七七四年2008/10/18(土) 08:24:55ID:QyUMQREV?2BP(500)
記録にもあるね。
日本の鉄砲に、朝鮮軍が手も足も出ない。
朝鮮側の鉄砲は届かない当たらないと大変だったみたい。
野戦でも鉄砲は有効活用されてるよ。
0831人間七七四年2008/10/18(土) 08:48:44ID:QyUMQREV?2BP(500)
あと硝石購入に関しては倭寇経由が有力。
五箇山に関しては戦国期から生産されてた説があるけど
言われてるやり方だと、時間がかかりすぎる上に少量しかできないので
効率が悪いとか。
0832人間七七四年2008/10/18(土) 08:52:42ID:LcuY1Oa7
>>830
話は変わるけど、朝鮮の役といえば初期に日本の鉄砲が大活躍したが、
明の正規軍が到着すると中国のフランキを始め中国の大口径火器に苦戦したそうだ

その経験から朝鮮から帰った大名がこぞって大口径火器を買い漁ってた
0833人間七七四年2008/10/18(土) 10:09:18ID:WNELhYpA
>>832
一番、注目したのは渡海していない家康だけどね
0834人間七七四年2008/10/18(土) 10:20:41ID:fgpTngI3
家康は大砲を使った戦術を、朝鮮役前から行ってたらしいしね。
本多忠勝も砲兵隊長みたいなことしていた記録もある。

家康の江戸城には、秀吉の大阪城と違って、すでに大砲対策が施されていそうな。
0835人間七七四年2008/10/19(日) 18:36:16ID:qy2so+4J
そりゃ、野戦と違って、
城にたてこもっている敵(朝鮮の場合は日本軍)に対しては、
大砲を打ち込めば断然有利。
0836人間七七四年2008/10/19(日) 18:39:16ID:8k0VVW+b?2BP(500)
>>832
明軍の大火器に苦戦したのは聞くね。
でもそこらへんは調べてないから詳しくわからないー
0837人間七七四年2008/10/19(日) 19:57:09ID:qy2so+4J
五稜郭に立て籠った幕府軍に対しては、
官軍が港から大砲を打ち込んだ。

ろう城している幕府軍は、城内で右往左往。何日か後には降伏。
0838人間七七四年2008/10/20(月) 11:00:48ID:cGFY7LWK
>>837
逆に明では城に篭りながら大砲を用いて後金の軍勢を散々に打ちのめした
地上戦であれほど強かったヌルハチも大砲の傷で死んだから
大砲ありとなしでは勝負にならん
同時期の欧州でも大砲の数の性能が勝負を決することになったし
0839人間七七四年2008/10/20(月) 11:09:49ID:atgcrood
つーか、この時代は要塞戦でも野戦でも、より優勢な火力を集中できたほうが勝つ。
0840人間七七四年2008/10/20(月) 12:03:34ID:rAiY9eUc
>>839
どの時代でもそうじゃね?
0841人間七七四年2008/10/20(月) 12:18:25ID:atgcrood
>>840
要塞戦の場合、銃や大砲への対策をなされた、日本で言えば関ヶ原後に建築された名古屋城や熊本城など、
ヨーロッパで言えばイタリア式要塞などでは、それが技術的に克服されるまでは、その限りではない。

要塞と火力はいたちごっこだね。
0842人間七七四年2008/10/20(月) 13:00:55ID:rAiY9eUc
>>841
まあ、たしかに要塞戦あるいは攻城戦と限定されれば、攻め手より貧弱な火力でも勝てることはあるわなあ。
しかし、野戦ではそうはいかんのじゃね?
0843人間七七四年2008/10/20(月) 13:08:29ID:u5h8gvzF
集中させても機動力で後方引っかき回されたらわからんけどね
日露でも奉天のときの火力はあっちのほうが上じゃなかったっけ
0844人間七七四年2008/10/20(月) 13:10:53ID:atgcrood
>>842
野戦でも長大な塹壕を作ることで陣地を擬似要塞化して火力を克服する方法があるね。
戦車や航空機による突破が可能になるまで、これは有効だった。

小牧長久手なんて、あの当時の代表的な塹壕戦といっていいんじゃないかな?
0845人間七七四年2008/10/20(月) 13:13:21ID:rAiY9eUc
>>843,844
結局、それらは火力の集中を乱された例になるんじゃね?
ちょっと単純化しすぎた捕らえ方かな?
0846人間七七四年2008/10/20(月) 13:16:33ID:u5h8gvzF
そりゃ真っ正面から火力陣地に突っ込んで勝てたらすごいけどさ
0847人間七七四年2008/10/20(月) 13:22:10ID:ayVQonBJ
>>845
野戦において機動力で大軍が寡兵に翻弄されるというのは、
戦略的な意味で火力を集中させることはできたが、戦術的な意味では出来なかった、ってとこでいいんでね?
0848人間七七四年2008/10/20(月) 13:22:54ID:atgcrood
ヨーロッパじゃ結構遅くまで、装甲騎兵による突撃があったっぽいけどね。
確かアメリカ独立戦争でも、銃隊への騎兵突撃があったような。
0849人間七七四年2008/10/20(月) 15:26:26ID:3aLMVbi4
…あくまでこのスレでは”長篠の戦い”に限定すべきだとも思うけどねぇ。
そして当時”銃火力”が戦術上重要な意味を持ったかは、とてもとても疑問だと思う。

つか、野戦で”銃火力の集中”が問題になったのは、銃兵が攻撃をも担う、歩兵が全員銃兵になってからでは?
長篠の時代は、銃兵と槍兵が混在してるし、その後の朝鮮の役でも”銃撃→突撃”が一般的だったけど、
これは、武田軍の”遠距離武器で敵を混乱→突撃”を世襲してるだけだと思うけど。
つまり弓石つぶて投げ槍の代わりに銃が使われてるだけにしか見えないような。

ちなみに朝鮮の役では「銃がすっごく便利だよ、もっと送れ!」なんて手紙が残ってるよ。
ということは長篠以降十数年たっても、”銃の良さ”を使った戦術が日本各地に広まってなかったことになる。

このような状況で、野戦での銃火力がどうのこうの、火力集中がナニだ、とかいう議論は時代に合ってないと思うな。
戦力を”兵数X火力”と規定したのはシュリーフェンだったかと思うけど、
マスケット兵が主力になった30年戦争より昔に銃火力の話は、ちょっと違和感あるな。

あと、歩兵で敵軍正面を拘束し騎兵を迂回して包囲する、てのはカンナエ以来の古典的戦術だし、
もちろんソレは”銃”の存在無くても成立してるよ。
0850人間七七四年2008/10/20(月) 15:47:29ID:atgcrood
「大量の火砲による援護」こそ、織田系の行き着いたこの当時の戦術の到達点だよ。
攻める時も守る時も、火砲によって敵を牽制する事こそが基本。

家康が長篠城に、城兵500に対し鉄砲200丁という、驚異的な装備率で篭城させたのも
この火力の牽制力を念頭に置いたため。設楽が原の前に、長篠城の攻防においても武田軍は、
火力の前に屈したと言っていい。
0851人間七七四年2008/10/20(月) 15:59:26ID:ayVQonBJ
日本中の武将にその認識があったかどうかはともかくとして、少なくとも信長・家康のラインは気が付いていただろうね。
特に信長は役立てただけじゃなく、本願寺攻めなんかでは自分がその被害を受ける側に回っているし。
信長に格別の先見性を仮定しなくとも、他の武将に先駆けてそういう考えに至ったことはそうおかしくないと思う。
0852人間七七四年2008/10/20(月) 17:07:35ID:q58QSPjr
長篠城って、いきなり本丸まで攻め寄せるほどの圧倒的な攻勢だったのに落とさなかったのは、
単に織田軍呼び寄せるためにわざと落とさなかったってだけだろ。
本気で落とす気なら、あそこまで行ってればあれだけの時間あったんだし落ちてるよ。
織田軍来るのなんか分かってるんだから、腹背に敵受ければ不利なのは常識中の常識だし、
城を落とす気で落とせてないなら、落ちるかどうかはともかくもっと必死な攻撃を仕掛けてる。
懐手で時間潰すような態度はありえないな。
前回高天神城の時は、さっさと落としちゃったもんだから、戦い避けてモタモタ進軍してた織田軍が
これ幸いと途中から帰っちゃったからな。
1回会戦して、敵に痛撃与えたり天下に武田の武勇示して戦略的に有利な流れ作ろうとするのは
至極当然。
あのまま合戦しないでいたら織田はますます膨張するだけだし。
0853人間七七四年2008/10/20(月) 17:36:11ID:FxBWFkPA
本気で落とすつもりだったが、武田を裏切った城主だったので、
調略ができず、戦いが長引いてしまった。

二の丸まで攻めており、また、川の合流点V字状の先端にある城だったから、
城主は和ぼくも逃亡もできない状態になっており、
死に物狂いの抵抗となった模様。
0854人間七七四年2008/10/20(月) 17:52:11ID:atgcrood
長篠城は豊川、宇連川の合流地点にある城であり、さらに徳川の改修により、四つの曲輪と、
外堀、中堀、内堀の三重の堀をそなえ、開けている側も、内堀から主郭まで95メートルほど間を空けた、
なだらかなスロープになっており、侵入者を容易に発見、狙撃できる構造だった。

これは優勢な敵の進入速度を低下させ、要害の側に火力の援護がある限り、容易に
攻略を許さない築城となっている。

少なくとも、「いつでも落とせた」なんて城ではないことは確かだ。
0855人間七七四年2008/10/20(月) 20:00:35ID:yqTbgFCZ
>>854

織田・徳川連合軍が設楽原合に付いたときは、
長篠城は本丸のみが残る状態で食料庫も落とされていた。

あと一息で、落とせる状態だった。
0856人間七七四年2008/10/20(月) 20:04:09ID:atgcrood
>>855
しかし援軍が来るまで持ったのだから、城としての機能は十二分に果たしたといえる。
0857人間七七四年2008/10/20(月) 20:11:09ID:3aLMVbi4
>>850
”野戦”と”攻城戦”を混同してるよ、それ。

当時の銃射撃は移動を伴わなかったことはもちろん、銃兵自体単一で偏されてない上に攻撃兵種じゃなかったのに、
野戦で”火力集中”を重要視するのは無意味じゃ?
0858人間七七四年2008/10/20(月) 20:41:54ID:FxBWFkPA
まあ、城を包囲しているときの鉄砲「隊」は、
雨避けのため、わざわざ細長い小屋を作ってもらって、その中で鉄砲構えて
迎撃態勢をとっているくらいだからな。小屋があれば雨天でも撃てるわけだ。
この場合は、火力集中ともいえる。
馬と鉄砲、管理職は小屋をあてがわれ、その他大勢は野良で寝起き。

包囲の軍は、ただ野営していたのではなく、小屋を作って包囲しているわけで、
信長公記に、銃や弓に優れたいる者を集めた迂回別働隊が、
長篠城を救援したときに「武田の小屋々、焼き上げ…」とあるので、。
包囲は長期を予定した本腰のもの。
0859人間七七四年2008/10/20(月) 20:48:00ID:atgcrood
>>857
「野戦」をどの規模で見るかにもよるかと。
0860人間七七四年2008/10/20(月) 20:48:26ID:Ha9rb78t
>>852
>単に織田軍呼び寄せるためにわざと落とさなかったってだけだろ。
それじゃ降服勧告をはねつけて殺された鳥居は?

そもそも織田の主力をおびき寄せて決戦するのに準備が足りなさすぎる
前の年の高天神攻めでは二万以上の軍を投入したのに
長篠に半分強の一万余しか動員しなかった
長篠を餌に織田本隊をおびき寄せて決戦のつもりなら二万はあってもおかしくない
0861人間七七四年2008/10/21(火) 01:35:26ID:G52eTRQ7
織田の主力を呼び寄せて〜という割には、鳥居の扱いや、その情報によって
初めて織田軍が岡崎まできていることを知ったりと、対応がおかしい。
0862人間七七四年2008/10/21(火) 04:21:47ID:XVR8Sqyc
小屋がなくても雨でも鉄砲撃てるよ
0863人間七七四年2008/10/21(火) 06:11:59ID:sdgu+jXn
>>860
実際、長篠で負けてからも、大して間をおかずに上野やらに出兵してるしな。
8000程度だったっていう説が事実だと思う。
当然、織田との決戦を狙っていたなんてこたぁないと思われ。
0864人間七七四年2008/10/22(水) 00:24:22ID:0ulbs/gV
>>863
徳川が来たら叩くか、戦を避けられたなら長篠城を落として
どっちにしろ徳川の武名を貶めて、遠江や三河攻略を
やりやすくする目的だったのに、予想外の織田本隊まで
来てしまって慌てたとか?
0865人間七七四年2008/10/22(水) 00:26:33ID:2+5A9/D8
>>864
後世の視点で当時を見すぎだな。
単純にあのあたりは徳川と武田で取ったり取られたりだったんだから、
その一環以外の何者でもない。
0866人間七七四年2008/10/22(水) 00:30:28ID:0nxEmKcE
>>864
単純に奥平に裏切られてムカついただけだろう
奥三河への出口を確保する意味もあるけどね
0867人間七七四年2008/10/22(水) 00:36:13ID:vWZvL7R8
ムカついたじゃなくて、裏切りへの引き締め、見せしめくらい言ってやれw
0868人間七七四年2008/10/22(水) 00:38:23ID:2+5A9/D8
むしろ家康のほうが、長篠城に奥平を入れて勝頼を誘った、と考えたほうがいい。
0869人間七七四年2008/10/22(水) 00:51:51ID:Sc5479pA
>>864 >>865
ただ勝頼は長篠以前の1574年9月には
家康の居城浜松周辺で放火、略奪をし
久野、掛川といった徳川の主要地の城を押し詰めるなど
徳川軍主力を誘い出す、もしくはその威信を貶めようとする行動はしている。
このことを北条に説明した書状があるが、この中で勝頼は
「こちらが出馬した所、徳川は浜松に立てこもったので、
その周辺の屋敷はひとつも残らず焼き打ちにし、稲も悉く刈り取ってやった。
久野や掛川などの敵城も押し詰め、佐夜群築地に普請を行い、人数も入れて帰陣した。」
と得意げに書いている。これらの戦果は大きな宣伝材料になるという事だ。
実際家康は城を出なかったが威信を傷つけられた事、援軍にこない織田への不信などがあったらしく
長篠では家康や徳川家臣団は「今度助けてもらえなかったら武田に寝返ろう。」と言うくらい追い詰められてる。
勝頼も可能ならば家康を引っ張り出して叩き潰すか、もしだめでもその威信を貶めて
領土拡大につなげようとするプランがあったのは否定できない。
織田が出てきたらどうする気だったのかは知らんが。
0870人間七七四年2008/10/22(水) 00:52:00ID:0nxEmKcE
>>852
亀レスだが、長篠城の攻防と高天神城の攻防について調べた方がいいよ
武田が長篠を包囲したのは5月8日、13日信長が岐阜から出発して18日設楽原に着陣

高天神の方は5月13日包囲されて、落城したのは6月17日
高天神がさっさと落とされたじゃなく二万の大軍に対して1か月も粘った上の落城
その経験からか、長篠攻め時も織田本隊は来ないだろうと思ったら
たった10日で信長が来ちゃった(知ったのは5月16日)
それでも決戦に臨んだのだからよほど自信があったんだろうな
0871人間七七四年2008/10/22(水) 00:52:59ID:Sc5479pA
>>868
>>869的な当時の状況でそれはないと思われる。
0872人間七七四年2008/10/22(水) 01:45:14ID:Sc5479pA
時系列でいうなら、徳川は
堅城といわれた高天神城が1574年6月に攻略され、
9月には>>869の憂き目にあった。
信玄以来徳川は領土を蹂躙され続け、家康主力が敗走や敵前逃亡する事も数回、
堅城と言われた高天神城は攻略され、ついに主城浜松周辺が蹂躙された。
しかもこの間信長自身、もしくは大軍での織田の援軍は一度も来ておらず
徳川単独では城が攻められても後詰もできない状態。
「今度だめだったら武田に寝返ろう」という発言からも
徳川の威信と忍耐は限界に来ていたのではないだろうか。
0873人間七七四年2008/10/22(水) 21:05:15ID:WZfnL+NF
高天神城のときは、織田軍は出動している。
しかし、チンタラ移動したので、移動している間に高天神城は落城してしまった。

落城してしまったので、引き返していったが、この帰った織田軍は
長島に向かい、大虐殺のうえで長島を全面占領している。
0874人間七七四年2008/10/22(水) 23:52:45ID:+AIG1Zqe
武田がもうちょい徳川と綿密に同盟模索していれば、もっと早く裏切ってたりしたのかな
0875人間七七四年2008/10/22(水) 23:55:34ID:2+5A9/D8
>>874
基本的なところで利害対立してるから、どっちかが屈服する形じゃなければ共存は無理だったかと。
0876人間七七四年2008/10/22(水) 23:58:13ID:+AIG1Zqe
>>875
基本的なところっていうと??
駿河・遠江の分割を穏便にやって、その後の武田の進撃は木曽路から美濃に、徳川は後方の憂いなく尾張にって、
絶望的に無理な理由って、何かあったかな。
0877人間七七四年2008/10/23(木) 00:04:27ID:evLeLL7M
武田が欲張り過ぎたからだろう
0878人間七七四年2008/10/23(木) 10:36:49ID:lQdvfI/2
>>848
第二次世界大戦時ポーランドに侵攻したナチスドイツの機械化師団にたいして
ポーランド軍は騎馬隊を主力に挑んだが一蹴された。
独ソ戦開始直後までソ連軍にはかなりの数の騎馬隊がいたと言われている。
第一次世界大戦の主戦場だった西ヨーロッパに比べ第一次世界大戦の洗礼を
あまり受けていない東ヨーロッパはかなり後まで騎馬隊が主力だったみたい。
0879人間七七四年2008/10/23(木) 11:43:36ID:DlAti9pg
>>878
ポーランドとソ連は1920年代の戦争経験で騎兵隊を増強したんだろう
第二次大戦の開戦当時では戦車を機動兵力として考えてるのはドイツだけだったから
別におかしくない
イギリスもフランスも日本も戦車は歩兵を補助するための移動要塞として考えてたし
0880人間七七四年2008/10/23(木) 18:30:08ID:HvzxRhYw
銃の性能アップとともに(日清・日露戦争のころ)、
横に細長い陣地を構築して、銃を持った歩兵が立て籠るようになると、
馬や敵兵による陣地突破は「不可能」になってしまう。

攻めは最大の防御、とかの言葉はつい30年くらい前までよく言われていたが
実態はそんなことはなく、守る側が絶対有利、となってしまう。
湾岸戦争のころから、ようやく、攻める側は守る側の3倍の兵力が必要、と言われだした。

0881人間七七四年2008/10/23(木) 18:33:09ID:vJwwlfMI
攻撃は最大の防御ってそういう意味じゃないだろw
0882人間七七四年2008/10/23(木) 18:44:44ID:DlAti9pg
>>880
>馬や敵兵による陣地突破は「不可能」になってしまう。
知ったか乙
0883人間七七四年2008/10/23(木) 19:03:19ID:HvzxRhYw
ふん、日清戦争の現地報告書を引用したんだよ。

平壌から出撃した騎馬の蒙古兵は、数時間で全員殺害された。

日清戦争時にはすでに騎馬突撃は全くの無力。
0884人間七七四年2008/10/23(木) 19:13:23ID:FSeXdtg4
攻撃は最大の防御:攻撃側は何時何処を攻撃すると言う意味で常に主導権を持っている
守る方は何時何処を攻撃されるか分らない状態で備えなければならない
こーゆー事、現在の軍隊でも基本的な考え方です
0885人間七七四年2008/10/23(木) 19:48:44ID:DlAti9pg
>>883
正しくは歩兵の援護なしの騎馬突撃は無力
こんなの日清戦争まで待たなくても、ナポレオン戦争以前から知られてる
第一次世界大戦の西部戦線で塹壕戦が泥沼化した理由は野戦工事ではなく、
鉄道によって大量輸送
鉄道インフラが発達してなかった東部戦線では泥沼な塹壕戦がなく、
騎兵部隊の機動力も発揮できた
攻撃こそ最大の防御についても同じだけど、もう少し詳しく調べたらわかることを
かじりかけて知ったかぶりするからボロが出る
0886人間七七四年2008/10/23(木) 20:35:01ID:HvzxRhYw
はあ?。

…まあ、わかったよ。>>885の言うことは正しい。
0887人間七七四年2008/10/23(木) 20:45:36ID:vJwwlfMI
これぞ捨て台詞
0888人間七七四年2008/10/23(木) 21:49:55ID:tIxk5uJY
機関銃の配置方法って知っているかい?
陣地の側方に置くんだぜ?

・・・・・・・・・・



こう撃つよりも

・・・・・・・・・・ ←

こう撃つ方が効果アンベ。
0889人間七七四年2008/10/23(木) 23:50:26ID:WKD7L1KT
>>855
すぐ落ちずに
そこまで良く持ちこたえてたと言うことではないの
0890人間七七四年2008/10/24(金) 10:41:43ID:Lk2RKcAj
戦史上最後の組織的騎兵突撃をしたのはWWUの帝国陸軍
そして最後の成功例でもある。と聞いたことがある
0891人間七七四年2008/10/24(金) 11:04:47ID:h6k95Dc3
中東戦争でアラブ騎兵がイスラエル相手にやってなかったっけ?
0892人間七七四年2008/10/24(金) 12:11:20ID:8e3HMouI
馬に乗って戦うのは不便、ってこった。
単に移動の乗り物として便利。
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