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長篠・設楽原合戦の真実

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/17(月) 18:10:27ID:C+plg2A7
近年、多くの新説が提唱されている長篠合戦のスレッドです。
0752人間七七四年2008/10/05(日) 18:31:09ID:OCtGdIDq
ヨーロッパでは銃が出現すると、それまでの全身覆う甲冑が姿消し、兵士の装備は軽装化
され戦術も機動性に特化されるようになった、中世の銃でも厚さ2〜3ミリの鉄板は貫通
するパワーがあり重く動きにくい甲冑は防御の役にたたなくなったためだ、当時の銃の
命中精度の低さも軍隊の機動性重視に一役買った。
0753人間七七四年2008/10/05(日) 19:17:10ID:AgitqBGo
>>747
その話がどこまで信用できるかわからん。つーか有効射程なんてどうやって算出するんだ?、
現代の火縄銃だと30メートルで止まった野球のボールに当てる程度の事はできる。
現代の火縄銃は江戸時代製だけどべつに構造に大差はない。

>>749
さすがに20メートルで当たれば鎧貫く。
50メートルでお貸し具足を軽く貫通する程度の威力がある。
ちなみに実験した人は50メートル先の具足に当てられる程度の腕があったわけだが。
0754人間七七四年2008/10/05(日) 21:11:23ID:+GaLf3dz
運動場でもあるまいし50メートル走るのに58秒とかないだろう。
全力でも軽く20秒くらいかかるんちやうんいかいな。

つーか同時の戦場の地形てのは・・・。
ワーテルローやクルスクみたいな麦畑じゃないだろ。
泥田がせいぜいだと思うけど。
0755人間七七四年2008/10/05(日) 23:56:19ID:gyow1aC5
>>527>>532>>535
そうなんだよ。教科書や大河ドラマなど、大勢の人が知る「長篠の戦い」ってそんなもんなんだよな。
教科書なんかでは、兵数の差については何も書いてないし、大河ドラマとかでは、
武田方がただ馬で突っ込んできて、鉄砲で馬鹿みたいに撃たれてるだけなんだよな。
でも、これらなんかは永久に変更されなそうだよな。
酷いのになると、長篠の戦いを信長対信玄なんて間違えてる本やテレビもあるんだよな。

>>526
しかも設楽ケ原は凸凹で、騎馬には不向きな場所って事もあるかな。
もちろん武田も全軍騎馬隊じゃないだろうがね。
0756人間七七四年2008/10/06(月) 03:31:16ID:0E4ZZEJM
>>753
おいら 13mって距離はけっこう真実味あるかも、と思うよ。

当時の一丁あたりの携行弾薬数ってそう多くないと思うのよ。
もっと銃が主役だった朝鮮の役の金海城に用意された弾は銃一丁あたり23発なので、
二昔前の当時もそれ以上は持って行かなかったかと。まぁ硝石は輸入品だし高いものだしねぇ。

で、こういう前提条件では、種子島の有効射程云々よりも、
”鉄砲撃ちの勲功がわかる”距離で使われたと見る方が実情にあってるのじゃないかな。
この戦いじゃないけど、鉄砲の狙撃で武将を倒した功名の記録はあるしね。

となると、兜首を狙える状況ってのは、相手が突撃してきたとき、が一番だよね。
で、有効射程50mも先からバンザイ突撃する軍法は、銃装備もしていた武田軍では考えにくいんじゃないかな。
となると必然匍匐?前進で近寄ってから20m以内からの突撃、だったんじゃないかなぁ。
(これは旧陸軍のバンザイ突撃の距離だけど…)

となると、銃が使える距離もそれくらいに限定されてしまうと思う。
なので当時の銃術の本も至近距離での話しか書かれてないんだと思うよ。
0757人間七七四年2008/10/06(月) 05:21:22ID:UoCZ5aZk
>>756
俺も携帯弾薬数ってのは精々30かと思う。
武田や北条の軍制では結構な弾薬数が義務づけられてるけど、それはそれなりの地位の武士に対してだ。
部下もいない鉄砲足軽がそれほどの数を持ち歩けはしないと思う。

ただ、20メートル以下だと一発しか放てない。
雑兵物語を読んでると単発なイメージはわかないなぁ。
鉄砲よりも劣る矢戦だってもっと遠くから行われる。
矢の携帯数だってそんなに多いものじゃないのに。矢もそれなりに高価だ。

それに銃の発展で兜首の死傷率が上がったってのは聞かないのが難点か。
匍匐前進っぽいのもあんまり聞かない。ぶっちゃけ、とんでもなく重い(20kg以上はあるはず)三間の槍をもって匍匐前進は辛い。
この辺事実ならもっと資料が残っててしかるべきだろうにね。
0758人間七七四年2008/10/06(月) 05:41:13ID:KH8owlA6
>>726
短絡的なのは君のオツムだw
満足に論旨さえ纏められない落ちこぼれ君だから致し方無いといえばそれまでだが。
そんな論旨不明瞭な稚拙な文章、社会では即却下。
ま、毎日暇を持て余している君なら当然といえば当然だかなw

0759人間七七四年2008/10/06(月) 09:05:38ID:IVM3/dhy
エアがンではBB弾というプラスチックの弾を飛ばすが、
弾が球形のため、銃身が曲がっていたり弾が歪んでいたりすると、
弾道が「変化球」になり、右や左への弓なり弾道となってしまう。

こうなると、遠方の時点でまだまだ弾玉の速度があって殺傷能力があっても、
有効射程は、手前の時点の弓なり弾道になる以前の直進弾道の時だけとなり、
狙って当たる有効射程は50mくらいか。

撃って飛んでいく弾が、射手から見えることがあるが(見えないことが多い)、
変化球となって弾道が曲がりだすと、50mで的に10センチ以内で収まっても、
100m先では100センチぐらいは散らばってしまう。

そもそも、目で狙うだけでも、10m先の直径1センチの黒点に
ずっと狙い続けるなんて、なかなかできることじゃないぞ。

しかも立ったままで、5キロぐらいある重たい銃をかまえて狙うとなるとな。
0760人間七七四年2008/10/06(月) 09:35:19ID:IVM3/dhy
10m先の直径1センチは、
50m先で直径5センチ、
100m先で直径10センチ、になりますです。

100m先で人間の上半身タテヨコ50センチを狙うとなると、
銃の性能の都合もあって、当たるか当たらないか半信半疑の気分で撃つだろうな。
0761人間七七四年2008/10/06(月) 12:11:23ID:t0OTtd2R
島津あたりの鉄砲の打ち方は相手の目がはっきりと見えるぐらいまで近づいたら撃てじゃなかった?
0762人間七七四年2008/10/06(月) 13:13:28ID:7x9W24i9
>>747
なるほど、野球のフォークボールと同じ原理ですね。
回転がないと空気抵抗の影響である地点を境に速度が極端に落ち弾も落ちる、と。
現在の素材と違って砲身内に撃つ度にわずかなひずみが生じるからカーブやシュートする軌道もありえますね。
弾も現在のように完全に規格化されてないから一発一発微妙に大きさや形が違うだろうし、
撃つ度に少しズレが出るのが当然だと思います。
0763人間七七四年2008/10/06(月) 13:39:15ID:qbFElcfi
狙って「ある一点」を撃つ、というよりも「面」を撃つ兵器だったんじゃないかな
最低でも10人単位くらいがまとまって上級指揮者の示す方向におよそで筒先を合わせる
で、撃つ
狙って撃つわけじゃないので照準合わせもない
これなら実質的な有効射程距離は伸びる
たまたまその方向にいた撃たれる側にしてみれば被弾しようがしまいが轟音ともに弾が
殺到してくるイメージになる
0764人間七七四年2008/10/06(月) 14:46:11ID:IVM3/dhy
10人単位くらいがまとまって撃つとするなら、
各自がバラバラに発射でき次第うつよりも、
一斉に同時に撃った方が命中させやすくなる。

なぜなのか説明するのはやや難しいな。
こう言い出すと、3段うち説が虚構に思えなくなってくるので困る。
0765人間七七四年2008/10/06(月) 18:54:21ID:YNxqUHCg
多段撃ち自体は当時のごくありふれた戦術の一つだろ。
0766人間七七四年2008/10/06(月) 19:40:55ID:PvN8JYKe
つーか、銃の癖もつかめないまま撃つほどの初めて撃つ銃の話なのか?
そりゃ、銃身もゆがんでるさ。その歪みも何度か練習するうちにうちにつかめてくるものだよ。

でも100mはさすがに確信をもって撃てる人はいないだろうなぁ。
鎧を貫く意味からいっても50mが有効射程だとは思う。
殺傷能力自体はあるだろうけどね。

ttp://www.日本の武器兵器.jp/hinawajyu/iryoku/index.htm

>>763
西洋の使い方はそれで正解なんだが、日本にはその記録がない。
記録にあるのは個々人の狙撃だね。
雑兵物語の弓足軽の話なんだが、「鉄砲と同時ではなく鉄砲が弾薬を込めている合間に放ちなさい」
という記述があるから、間断なく放たれているのが当時の人の理想的な状況だったのかね?
0767人間七七四年2008/10/06(月) 19:44:51ID:nO+MGHGo
たったいまキンジパでやってたぞナガシノの。
接近してから打ってたぞ
柵につっこんできても柵が二重で突破できないと
馬場が嘆いていた
0768人間七七四年2008/10/06(月) 19:57:27ID:nO+MGHGo
さらに柵があるって知っていながら突撃してった
理由はカツヨリ曰く武田騎馬軍団は最強じゃ!逃げたら名折れじゃ!だから。
馬場や他は逃げようって進言したけど聞かなかったカツヨリ。
で、結局馬場もやけっぱちで信玄さんのためにどうのこうのいって突撃してしんじゃった。

見るまではどうして突撃したのか、バカなやつだなーと思ってたけど
当時の武士の心理を考えればそうなるのもやむなしと思う。
哀れというかむなしさの残る話だった
0769人間七七四年2008/10/06(月) 20:20:37ID:IVM3/dhy
ttp://www.日本の武器兵器.jp/hinawajyu/iryoku/
オイラのPCではうまくアクセスできなかったので、ぐぐってみたら下記URL

ttp://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/hinawajyu/iryoku/
0770人間七七四年2008/10/06(月) 20:45:25ID:IVM3/dhy
>>766
初めて撃つ銃の話じゃないよ。
銃身が曲がっていて弾道が一定の方向に曲がるというなら、まだわかりやすい。

エアガンでは機関銃のように連射できるものがあって、銃を三脚に固定して撃っても、
弾幕がまさに「ラッパ状」に末広がりで弾道が散らばるものがある。

銃身内部がまっすぐでも、球形の弾丸にヘンな回転がかかっているため、
変化球になっている証拠であり、弾と銃身のすき間がきついとなりやすい。
(ふつうの銃は、ライフリングのため弾と銃身のすき間はきつい)
ゆるいと、銃口からコロコロと弾丸が転がってしまうけどな。

エアーソフトガンメーカーの一例
ttp://www.tokyo-marui.co.jp/products/
0771人間七七四年2008/10/08(水) 19:57:54ID:WxqACmyq
火縄銃の射程よりも、さらに集弾率を高めようとするなら、
大砲による大口径化でなく、銃でいえば、
弾を球形でなく、いわゆる砲弾型にして、銃身にライフリングをきざんで
強制的に回転運動させなければならない。
(てるてる坊主型の弾という案もあるが、さほど命中率がよくない。)

当時の日本の工作技術では難問。なにしろネジ1本でさえも、大まかに
形をととのえた後、ネジの回転溝はヤスリでいちいち仕上げたそうだから。
0772人間七七四年2008/10/08(水) 20:37:34ID:SY3Gov73
>>770
まあ、狙って当たる射程50mってのは同意だからいいんだ。
でも、遠くからも撃ってるのは撃ってるようだ。威嚇程度だろうが。

13mってのがどうだろう?って話なだけ。
間近くおつつめたらば、左右へ分て、鑓の勝負を始むべしとあるから、
あんまり近くで撃つと槍を取る暇がないっていう事情もある。
0773人間七七四年2008/10/08(水) 20:53:46ID:lualHdoh
鉄砲足軽が槍もって勝負ではなく、槍隊に道を明けるじゃ?
0774人間七七四年2008/10/08(水) 21:06:35ID:EjhBBVNL
>>773
ごめん。読み間違えた。
0775人間七七四年2008/10/08(水) 21:34:55ID:WxqACmyq
遠くからも確かに撃ってる。威嚇だろうね。

東大寺の金剛力士像に、火縄銃の弾が当たっていたことが、
分解修理のときに判明して、数年前、新聞記事になったことがある。

本体の木への鉛玉の突き刺さり具合と、穴の角度では、ななめ上方から当たっていることから、
数百メートル先から撃たれたと判明。

金剛力士像は大型とはいえ、威嚇用として寺院内に撃ち込んだのだろう。

13mってのは、何かの誤りだろう。近すぎるな。
0776人間七七四年2008/10/08(水) 21:45:02ID:WxqACmyq
13m説は>>747から。
0777人間七七四年2008/10/08(水) 21:59:12ID:XQ3UKTGB
鉄炮の条件や具足の条件で効果が変わるから今ひとつ不明ですが、
最低30メートル射撃でも充分に効果があると思います。


0778人間七七四年2008/10/10(金) 21:06:20ID:KH4KTkRx
「弓道」でググってきた。

近的場
射位(射手)から的までの距離が28m、通常は直径が一尺二寸(36cm)の的を
置く。的場には矢が痛まないよう土が斜めに盛ってあり、これを安土(あづち)
という。中学校〜大学、公設道場から私設道場まで殆どの弓道場がこれで、
通常の稽古は近的道場で行う。

弓の「近的場」でさえ28mなのだから、鉄砲はそれよりも有効射程が長いだろうから、
30メートルということはないだろう。動く対象なら、30メートルでも当たらないかもしれないが。
0779人間七七四年2008/10/10(金) 23:10:20ID:50368HPF
>>775
いちお13m以内(4、5歩)くらいで射撃→切り込みは、関ヶ原の島津軍がやってる(>>630
数十年後のことだけど、”敵の突撃の勢いを銃撃で止めて切り込む”戦況だから、
武田軍が守備体制の織田徳川軍に突撃した長篠と状況は似てるんじゃないかと。

ただ、兜首は武田軍突撃時よりも、その後の追撃戦(銃が使われにくい)であげられてるから、
有効射程(50m程度)の銃撃で突撃を撃ち挫だいた可能性も大きいとは思う。
ただこれは、武田軍の突撃がどうだか、で決まると思うし、そういうのは軍法の問題だと思うけど、
それを引き継いだはずの徳川軍には敵の柵から100m以上もの離れたところからバンザイ突撃した例がないので…

おいら的には、他の戦のようにススキや小山に隠れて柵に接近して、30mくらいから歓声を上げて突撃したんじゃないかなぁ、と勝手に思ってる。
これなら↑の、13mくらいで指揮官狙撃→傷ついた指揮官を担いで退却で、
守備側は一回くらいしか射撃の機会はないけど、一日に20発も使わずに種子島の威力は十分発揮されたと思う。


あと近代でいう”弱装弾”の問題もあって、種子島の威力が今の均一に生産されたガンパウダーほどなかったと思う。
ナポレオン戦争の時代でも、英仏両方で配給される火薬の質は一定でなかったし、
米墨戦争ではメキシコ側の火薬の質が悪くて射程がのびなかったし、
昔の黒色火薬の質はあまり当てにならないのよ。
当時の日本では補給品に硝石硫黄などがあるので、現地調合だとしたら質はもっとひどかったと思うな。

大阪の役では、小田切所左衛門の額に弾が当たったけど、すぐ取り出し、
「この鎧は信玄公のお手にあったもの」といった(常山紀談)なんて普通の鎧兜で銃弾防げた話もあるから、
実際にはかなり威力が低い射撃も多かった、と思えるし。
0780人間七七四年2008/10/10(金) 23:22:02ID:KH4KTkRx
関ヶ原の島津軍は、退却しながらの戦闘で、引き付けて撃ったんだろう。

姉川の戦い直前で、浅井軍の追撃を、秀吉は鉄砲隊を順繰りに退却させて
殿をつとめている。
(一隊が射撃したら味方を追いこして退却し弾ごめして待ち、
前線の隊が帰ってきたら、また味方を追いこして、かわりばんこに繰り返す)

でも、こんな走りながらの退却戦は、へとへとに疲れそうだ。

長篠の千挺ずつ入れ代わりながらの3段撃ちは、
実際にやると疲れてしまって実現できないという説(実験結果?)があるそうだが、
退却戦で射撃しているのだから、実際にはできるんじゃねえの?
0781人間七七四年2008/10/11(土) 00:04:18ID:4V5Rfh5p
三段撃ちというのはゴロのよい喩えではないかな?
とにかく間断なく撃っていたというのが真相だと思う。
ガダルカナルの一木支隊みたいに、想像を絶する連続攻撃で武田が兵力を
すり減らし、弱体化したところを柵からでて追撃したのではないか。
0782人間七七四年2008/10/11(土) 02:44:46ID:1dKBKvir
>>799
そういや最上義光の兜は銃撃うけてベコってなってたな。当然戦死しなかったし。
鎧はともかく兜はなかなか貫けるもんじゃない。
ただ、実際狙って兜にあてるより体に当てるほうがたやすいから
ケースとしては鎧の方が多いだろうね。

別に100メートル先からバンザイ突撃をしてたと主張するつもりはないさ。
ただ100メートル先から敵に狙われずに身を隠して行軍することができるのか?と思っただけだ。
鉄砲側も100メートル先の敵が近づいてくるのに指をくわえてみているのはありえない。
威力で言えば100メートル程度でも装甲が薄いところや生身なら十分殺傷能力を持つ。
一人の人間相手ならなかなか当たらないだろうが一応敵は大勢だ。命中率は多少ましになる。
(とは言っても低いだろうが)効果はあると思う。

あの重い鎧を着て重い槍をもつ。前に言ってた匍匐前進は無理だ。重すぎてまともに動けない。
今度は行軍が遅くなりすぎて何発も弾を撃たれる。控えめに言っても50メートルでも止まっている的の場合は
それなりの命中率を持つ。何発も撃たれれば当たる者も多いだろう。少し身をかがめるのが精々か。
遮蔽物があればそれを利用するのは当たり前かと思う。武田も利用できたのなら30メートルと言わず、
柵のすぐそこまで利用したかっただろう。だが、戦場の地形がそんなに身を隠すのに適していたのだろうか。
寡聞にしてきかない。陣地も小高い見晴らしのいいところに作るものだし。
竹束を盾にするとかならありかな。
0783人間七七四年2008/10/11(土) 15:28:59ID:v0i1NZYS
>>799
それはどうかなあ
勝頼が凡将だったら長篠の後あれだけ保たないんじゃないかと思うんだが
0784人間七七四年2008/10/11(土) 18:59:13ID:jVgvdVzf
>>799さんには
勝頼を貶める発言をお願いしますね。
0785人間七七四年2008/10/11(土) 19:33:17ID:CDEM4BE8
射撃係一人に対して弾込め係何人かを一組にして連射したんだよ
0786人間七七四年2008/10/13(月) 01:32:34ID:3J01dwtq
>>317
結局、信玄が生きてないと無理ってことでしょ
勝頼は家の問題で自滅したと捉えるべき
信玄存命なら家の問題もなく
その力を存分に発揮して上洛を果たしたってことw

長篠も翼包囲の布陣で戦ったのに
中央の穴山武田信廉が敵前逃亡で総崩れ
信玄がいたならこんな醜態は起きないw
っていうか
退路の拠点、鳶ノ巣山砦が織田方に落とされてて
武田が戦闘を起こしたのも織田徳川を攻撃して
後を慕わせないようにするためだけの行動
鳶ノ巣山砦が無事だったら、速やかに撤退できた。

退路を断たれて、仕方なく突撃したって見方もある
まー勝頼の凡ミスw
信玄ならこんな醜態は晒さないw
0787人間七七四年2008/10/13(月) 01:34:52ID:O6CGKa4f
VIPかとおもた
0788人間七七四年2008/10/14(火) 19:19:53ID:DyNRf4Yr
ちがう。
自信を持って、勝てる、と「重臣一同」が一致したうえで、
攻撃したのだ。
勝頼一人だけが独断で決めたことではない。
0789人間七七四年2008/10/14(火) 21:29:11ID:F/SnSVXh
信玄って病死なのかなあ。病死するにはタイミングが悪すぎる。
健康が悪かったら無理しない。
やっぱり鉄砲に撃たれて死んだんだと推測する。
病死にすれば家臣も安心(↓に比べればの話ね) 
鉄砲で死んだとなるとみんな落ち込むだろう。
たぶん本陣にいたところを忍者によって殺された
特殊部隊はつかまって口封じされた。
3年は黙っていようというのは信玄の遺言ではなく重臣の会合での話し
これで筋がとおる。

そして勝つよりは
わしは鉄砲などでは倒れはせんと
意地になったのではないか。
みんなは(鉄砲の恐ろしさを知ってて)撤退したかったけど
勝つよりは聞かなかった。
0790人間七七四年2008/10/14(火) 21:48:31ID:h8k/ZRpK
>>家臣団との確執から意地になったのかもしれない、ということは想像できる。
が・・鉄砲などでは倒れはせんと いうのは違うかな
0791人間七七四年2008/10/14(火) 23:11:59ID:n9jx+adz
>>789
>そして勝つよりは
わしは鉄砲などでは倒れはせんと
意地になったのではないか。
みんなは(鉄砲の恐ろしさを知ってて)撤退したかったけど
勝つよりは聞かなかった。

長篠の時には、重臣の意見を退けて
勝頼の意見が通るほどの権力が
勝頼には無かった。

ただし勝頼が後方の長坂にあてた手紙に
「今回の戦いを危ぶむ者も居るが」
とあるので、全員賛成では無かったのは事実だろう。

そしてそれが馬防柵が完成してから突撃という
自体になったのだと、当方は推定している。
0792人間七七四年2008/10/14(火) 23:41:17ID:Eoj5ZPh4
勝頼と武田重臣連中の考えについて第4次川中島の上杉をまねしたという解釈もある

実際設楽原で対峙する両軍の主力は織田徳川2万余で武田1万余だから、
わざと鷲ノ巣砦を織田徳川別動隊に占拠させてその間本隊に突撃するという戦法なら
第4次川中島を経験した馬場などの重臣がとりそうな戦術

結果は一門衆の敵前逃亡で敗退したけど、もし中央支え切れたら成功の可能性は高かったと思う

あと、当時鉄砲の威力はそれほど高くなく、別動隊への割り振りもあるから両軍の鉄砲の数は2.5〜
3対1程度
設楽原の地形と当時の天候を考えれば鉄砲が勝敗を決するような要素ではなかったと思う
0793人間七七四年2008/10/15(水) 01:09:11ID:ALYtiIBN
>>792
自分も織田徳川3万8000と武田勝頼軍1万5000
というのはどうも解せない
貴方が言うように例えば織田徳川2万3000で武田1万3000で
別働隊5000が鷲ノ巣砦から武田軍の後方に回ろうとしていたなら
織田徳川1万8000対武田1万3000
このくらいの兵力差なら例え織田徳川軍が陣城を築こうが勝機を見いだせたかもしれない。

勝算有りと判断し合戦に突入→一門衆等が命令を聞かず形勢不利に→一門衆が勝手に退却→大被害
こういう流れだと思うんだけど
倍以上の兵相手にどうやって勝算有りと判断するんだと
兵力に関する確かな資料はないし
実際はこんなもんじゃなかったのかな
0794人間七七四年2008/10/15(水) 04:03:23ID:XKsq/MwG
>>793
実際、長期戦だったんでしょ
織田の兵はいったん国に帰ったりもしてたみたい
結局、武田の退却戦で
攻めてる状態ならさすがに一門衆も敵前逃亡みたいなことはしないでしょ
中央部隊が崩れたから
左右の馬場真田内藤山県隊は取り残されて敗退した感じ
なにげに織田の損害もデカイわけだが
長期に渡り小競り合いをしてた感はあるな
あとからの増援で3万の大軍になったかもね
0795人間七七四年2008/10/15(水) 19:30:52ID:19FVs4pP
勝頼は相当な数の鉄砲を集めていたという話があった。
そして、長篠城攻めでは大量の鉄砲が使われた痕跡があった。
〜〜ここまで事実〜〜

〜〜以下妄想〜〜
しかし、織田と武田では得られる火薬の量が違いすぎる。
設楽が原では、既に武田の火薬は尽きていて
鉄砲にたいして鉄砲で当たることができず、長距離戦ができなかった。

とか考えてみた。
0796人間七七四年2008/10/15(水) 19:36:30ID:SN2/BJQ+
長距離戦と言うか、長篠の戦で織田信長連合軍が陣地を要害化していたのが正しいとすれば、
武田軍は擬似要塞戦を行ったわけで、その場合当時の要塞戦の基本である
「優勢な火力の援護による攻撃」を行うことが出来なかった、ってことでしょ。
0797人間七七四年2008/10/15(水) 19:40:27ID:7BUAeJo3
>>795
つまり織田=米軍、武田=旧日本軍ってことか
0798人間七七四年2008/10/15(水) 20:30:22ID:nZrgZb9z
今の時代の拳銃だって近距離でしか使い物にならん
命中精度の低い火縄の有効射程が13mというのもそう不思議ではない
0799人間七七四年2008/10/15(水) 20:57:38ID:vY6bKSqQ
拳銃と同一視するなら50Mじゃん
0800人間七七四年2008/10/15(水) 21:23:38ID:aiHY28mz
なんだ火縄の射程が13mというのは結局ほとんどガセなのか。
島津なんとかって記述ですべてを語ってたみたいだけど実際は3〜50m
ってそこらの火縄のHPとかには載ってるからおかしいとは思ったんだ。
もちろん用法にもよるけど威嚇とか足止めだったら結構離れたところからでも
有効だったんだろな。
いくらなんでも火縄構えてるとこにつっこむ兵隊さんもいないだろうし。

この前初めて実弾撃ったんだが片手でも結構当たったから不思議だった。
もちろん両手でガチガチになって20発ぐらい撃ってからだったけどね。
暴発しちゃった、ではすまんもんね、やっぱり。
0801人間七七四年2008/10/15(水) 21:29:47ID:SN2/BJQ+
つーか、鉄砲の射程も、つかう火薬の量とか銃の種類でずいぶん変わってくるわけだが。
0802人間七七四年2008/10/15(水) 22:02:13ID:QsjQPPCZ
>>795
>しかし、織田と武田では得られる火薬の量が違いすぎる。
設楽が原では、既に武田の火薬は尽きていて
鉄砲にたいして鉄砲で当たることができず、長距離戦ができなかった。

これは同意だね。
火薬の原料は硝石。その硝石は輸入に頼っていたから
堺を押さえていた信長と、山国の武田では火薬量が
全然違ったと思う。

0803人間七七四年2008/10/15(水) 22:13:09ID:vY6bKSqQ
>>800
外国の観光地で撃ったなら火薬半分の弱装弾だから扱いやすいよ
一般愛好家相手や軍管理のとこだったら基本通常弾

拳銃でも弓でも動いてる的に一撃必中目指すなら12m弱とはよく耳にするから
そういう記述を勘違いしたんじゃないかな
有効射程がそんなに短ければ松本城の城壁の銃眼とか飾りにもならん
0804人間七七四年2008/10/15(水) 22:13:57ID:iaCbZZkR
商人は、カネさえ払ってくれれば、
敵国にも売りますよ。

堺〜駿河は、そこそこ舟の往来はあったので(江戸以北はなし)、
駿河をおさえていた武田は、輸入可能。
0805人間七七四年2008/10/15(水) 22:15:54ID:SN2/BJQ+
武田は遠江と駿河の国境地帯で、商人からせっせと鉄砲丸薬買い捲っているな。
0806人間七七四年2008/10/15(水) 22:47:10ID:QsjQPPCZ
硝石が売れると堺の商人が儲かる。
それはすなわち信長の税収が上がる事を意味する。

勝頼が硝石を買えば買うほど信長が肥える仕組み。
0807人間七七四年2008/10/15(水) 22:54:01ID:Y1t+MnoW
福島正則が宇喜多の鉄砲隊(+半陣地化)に万歳突撃を敢行して四度攻め掛かり最後には壊滅しました。

小勢で防御体制に入っている大軍に攻撃を仕掛ける行為がいかに危険か。
お互い攻勢に出てれば勝頼にも勝機はあるかもね
0808人間七七四年2008/10/15(水) 23:01:38ID:TdQGh6uM
>>807
長篠の時の軍編成と唐入り後の軍編成を一緒に考えてる時点で大間違い
0809人間七七四年2008/10/15(水) 23:18:48ID:aiHY28mz
>>803
へ〜、1発7ドル、なんてのにもチャレンジしたが、名前忘れた、あれも火薬
抜いてあるのかな。結構両手でズドンときたわ。

火薬量とか硝煙の話は詳しい輸入ルートとか解明されてるみたいよ。
単純に山国だから量が少ない、というものではなかったろうね。
火縄購入した時点で弾だってちゃんと買ったろうし。
0810人間七七四年2008/10/16(木) 00:57:11ID:wmeNIXby
>>803
確かに12mでも狙って当てるには結構距離あるからなー

>>809
軍板いけばその辺は結構詳しい
素人が撃つと肩が外れる拳銃とかあるらしいし
0811人間七七四年2008/10/16(木) 03:18:25ID:LGcYoEb1
種子島の有効射程は50mくらい、ってのは誰も反対してないのでは。
「12m」というのは”当時の戦術上使用された距離”の話じゃないかね?


>>808
江戸時代の鉄砲書でも、種子島は弓の代わりに使われただけ、のようだけど、
どこがどう変わったのか、kwsk

>>809
織田方が、多量に弾薬を消費した、って記録はないのよね。
鉄砲部隊も現地編成で、合戦前からそのために弾薬を用意した記録はない。
で、戦闘時間考えると「矢継ぎ早に撃つ」ほどの弾薬量を持ってたようには見えないのよねぇ…

つか、”遠隔兵器で敵を混乱→突撃”という攻撃の仕方だったなら種子島の出番は少なかったはず。
だから攻撃をかけた武田側に鉄砲の活躍がないのは当たり前、な気はするけど…
0812人間七七四年2008/10/16(木) 18:43:29ID:NrQbvpCt
12、13mってのは動いている目標に当てられて仕留められる可能性の高い距離だろ
そりゃ火縄でも甲冑着ている相手を致死できる距離なら50mは当然あってしかるべきだが
最大限効果を発揮できる距離は12mほどということ
0813人間七七四年2008/10/16(木) 19:34:51ID:Gd/J0sNy
最大限効果を発揮できる距離はその理屈なら13mは遠い。
槍が届かないギリギリの距離でしょ。
弓のがましだな。二回は射れる。
0814人間七七四年2008/10/16(木) 19:36:02ID:Gd/J0sNy
本当に13mなら
0815人間七七四年2008/10/16(木) 19:44:08ID:dLDagyRr
ら抜き言葉
0816人間七七四年2008/10/16(木) 22:42:29ID:Yww7hX7S
>>806
別に堺だけが入手の方法じゃないと思うが。
0817人間七七四年2008/10/16(木) 22:49:04ID:rdDMY5wc
北条と里見が合戦した時、双方の鉄砲とも江戸浅草製だった、って記録が残ってるな。
0818人間七七四年2008/10/16(木) 23:11:35ID:vpBZVlng
カタパルト投入&雨降り待ちで武田方大勝利
0819人間七七四年2008/10/16(木) 23:23:50ID:RIh2zeMA
殺傷率が低いだけで負傷させるだけなら距離なくてもいいんじゃない?

必殺の武器にはならなくても戦闘不能、負傷による戦意喪失効果が上がれば十分。
0820人間七七四年2008/10/16(木) 23:25:09ID:eLp9kSOi
それと音だわな。
無音の時代にあれだけの音がすれば馬も暴れて実際
制御は難しかったろうな。
0821人間七七四年2008/10/16(木) 23:31:01ID:rdDMY5wc
軍馬は火薬音に慣れさせてるっつーの。

当時の人も馬鹿じゃ無いんだから。
0822人間七七四年2008/10/16(木) 23:39:38ID:XI9htx9s
>>816
堺と駿河なら火薬の値段は大分違うと思う。
輸送コスト、中間マージン考えて。
0823人間七七四年2008/10/17(金) 00:00:32ID:wPeudD9M
>>822
自国生産できるんだけど。
0824人間七七四年2008/10/17(金) 00:10:20ID:ZLmxs6dY
効率が悪い
0825人間七七四年2008/10/17(金) 00:12:03ID:nTNjyVAR
規模の大きくなった戦国後期の合戦に使うほどの大量の火薬を作るためには、やはりどうしても
輸入硝石に頼らざるを得ない。
0826人間七七四年2008/10/17(金) 04:37:27ID:qC197AVh
>>819
当時の”戦”は首とってなんぼ、の世界だったので、撃退するだけの個人の勲功にならない戦はどーなんだろ? 

>>823
硝石の国内生産技術確立は江戸に入ってからだと思ったけど??

>>825
大量消費、つっても、後の欧州のような一斉発射での制圧、って使われ方はしてないから、そう多くはないかと。
0827人間七七四年2008/10/17(金) 19:50:12ID:tMu7KA1X
鉄砲が野戦で活躍したなんて創作でしょw
こんな隙だらけの武器が展開が絶えず変わる野戦で使い物になるわけがない
結局、対攻城戦、籠城戦で使うのが主流だな
0828人間七七四年2008/10/17(金) 19:52:30ID:nTNjyVAR
戦法ってものが何のためにあるのか理解しろよ
0829人間七七四年2008/10/17(金) 22:10:56ID:4+36FdE7
朝鮮の役の頃には一斉射撃があつたんじゃね。
0830人間七七四年2008/10/18(土) 08:24:55ID:QyUMQREV?2BP(500)
記録にもあるね。
日本の鉄砲に、朝鮮軍が手も足も出ない。
朝鮮側の鉄砲は届かない当たらないと大変だったみたい。
野戦でも鉄砲は有効活用されてるよ。
0831人間七七四年2008/10/18(土) 08:48:44ID:QyUMQREV?2BP(500)
あと硝石購入に関しては倭寇経由が有力。
五箇山に関しては戦国期から生産されてた説があるけど
言われてるやり方だと、時間がかかりすぎる上に少量しかできないので
効率が悪いとか。
0832人間七七四年2008/10/18(土) 08:52:42ID:LcuY1Oa7
>>830
話は変わるけど、朝鮮の役といえば初期に日本の鉄砲が大活躍したが、
明の正規軍が到着すると中国のフランキを始め中国の大口径火器に苦戦したそうだ

その経験から朝鮮から帰った大名がこぞって大口径火器を買い漁ってた
0833人間七七四年2008/10/18(土) 10:09:18ID:WNELhYpA
>>832
一番、注目したのは渡海していない家康だけどね
0834人間七七四年2008/10/18(土) 10:20:41ID:fgpTngI3
家康は大砲を使った戦術を、朝鮮役前から行ってたらしいしね。
本多忠勝も砲兵隊長みたいなことしていた記録もある。

家康の江戸城には、秀吉の大阪城と違って、すでに大砲対策が施されていそうな。
0835人間七七四年2008/10/19(日) 18:36:16ID:qy2so+4J
そりゃ、野戦と違って、
城にたてこもっている敵(朝鮮の場合は日本軍)に対しては、
大砲を打ち込めば断然有利。
0836人間七七四年2008/10/19(日) 18:39:16ID:8k0VVW+b?2BP(500)
>>832
明軍の大火器に苦戦したのは聞くね。
でもそこらへんは調べてないから詳しくわからないー
0837人間七七四年2008/10/19(日) 19:57:09ID:qy2so+4J
五稜郭に立て籠った幕府軍に対しては、
官軍が港から大砲を打ち込んだ。

ろう城している幕府軍は、城内で右往左往。何日か後には降伏。
0838人間七七四年2008/10/20(月) 11:00:48ID:cGFY7LWK
>>837
逆に明では城に篭りながら大砲を用いて後金の軍勢を散々に打ちのめした
地上戦であれほど強かったヌルハチも大砲の傷で死んだから
大砲ありとなしでは勝負にならん
同時期の欧州でも大砲の数の性能が勝負を決することになったし
0839人間七七四年2008/10/20(月) 11:09:49ID:atgcrood
つーか、この時代は要塞戦でも野戦でも、より優勢な火力を集中できたほうが勝つ。
0840人間七七四年2008/10/20(月) 12:03:34ID:rAiY9eUc
>>839
どの時代でもそうじゃね?
0841人間七七四年2008/10/20(月) 12:18:25ID:atgcrood
>>840
要塞戦の場合、銃や大砲への対策をなされた、日本で言えば関ヶ原後に建築された名古屋城や熊本城など、
ヨーロッパで言えばイタリア式要塞などでは、それが技術的に克服されるまでは、その限りではない。

要塞と火力はいたちごっこだね。
0842人間七七四年2008/10/20(月) 13:00:55ID:rAiY9eUc
>>841
まあ、たしかに要塞戦あるいは攻城戦と限定されれば、攻め手より貧弱な火力でも勝てることはあるわなあ。
しかし、野戦ではそうはいかんのじゃね?
0843人間七七四年2008/10/20(月) 13:08:29ID:u5h8gvzF
集中させても機動力で後方引っかき回されたらわからんけどね
日露でも奉天のときの火力はあっちのほうが上じゃなかったっけ
0844人間七七四年2008/10/20(月) 13:10:53ID:atgcrood
>>842
野戦でも長大な塹壕を作ることで陣地を擬似要塞化して火力を克服する方法があるね。
戦車や航空機による突破が可能になるまで、これは有効だった。

小牧長久手なんて、あの当時の代表的な塹壕戦といっていいんじゃないかな?
0845人間七七四年2008/10/20(月) 13:13:21ID:rAiY9eUc
>>843,844
結局、それらは火力の集中を乱された例になるんじゃね?
ちょっと単純化しすぎた捕らえ方かな?
0846人間七七四年2008/10/20(月) 13:16:33ID:u5h8gvzF
そりゃ真っ正面から火力陣地に突っ込んで勝てたらすごいけどさ
0847人間七七四年2008/10/20(月) 13:22:10ID:ayVQonBJ
>>845
野戦において機動力で大軍が寡兵に翻弄されるというのは、
戦略的な意味で火力を集中させることはできたが、戦術的な意味では出来なかった、ってとこでいいんでね?
0848人間七七四年2008/10/20(月) 13:22:54ID:atgcrood
ヨーロッパじゃ結構遅くまで、装甲騎兵による突撃があったっぽいけどね。
確かアメリカ独立戦争でも、銃隊への騎兵突撃があったような。
0849人間七七四年2008/10/20(月) 15:26:26ID:3aLMVbi4
…あくまでこのスレでは”長篠の戦い”に限定すべきだとも思うけどねぇ。
そして当時”銃火力”が戦術上重要な意味を持ったかは、とてもとても疑問だと思う。

つか、野戦で”銃火力の集中”が問題になったのは、銃兵が攻撃をも担う、歩兵が全員銃兵になってからでは?
長篠の時代は、銃兵と槍兵が混在してるし、その後の朝鮮の役でも”銃撃→突撃”が一般的だったけど、
これは、武田軍の”遠距離武器で敵を混乱→突撃”を世襲してるだけだと思うけど。
つまり弓石つぶて投げ槍の代わりに銃が使われてるだけにしか見えないような。

ちなみに朝鮮の役では「銃がすっごく便利だよ、もっと送れ!」なんて手紙が残ってるよ。
ということは長篠以降十数年たっても、”銃の良さ”を使った戦術が日本各地に広まってなかったことになる。

このような状況で、野戦での銃火力がどうのこうの、火力集中がナニだ、とかいう議論は時代に合ってないと思うな。
戦力を”兵数X火力”と規定したのはシュリーフェンだったかと思うけど、
マスケット兵が主力になった30年戦争より昔に銃火力の話は、ちょっと違和感あるな。

あと、歩兵で敵軍正面を拘束し騎兵を迂回して包囲する、てのはカンナエ以来の古典的戦術だし、
もちろんソレは”銃”の存在無くても成立してるよ。
0850人間七七四年2008/10/20(月) 15:47:29ID:atgcrood
「大量の火砲による援護」こそ、織田系の行き着いたこの当時の戦術の到達点だよ。
攻める時も守る時も、火砲によって敵を牽制する事こそが基本。

家康が長篠城に、城兵500に対し鉄砲200丁という、驚異的な装備率で篭城させたのも
この火力の牽制力を念頭に置いたため。設楽が原の前に、長篠城の攻防においても武田軍は、
火力の前に屈したと言っていい。
0851人間七七四年2008/10/20(月) 15:59:26ID:ayVQonBJ
日本中の武将にその認識があったかどうかはともかくとして、少なくとも信長・家康のラインは気が付いていただろうね。
特に信長は役立てただけじゃなく、本願寺攻めなんかでは自分がその被害を受ける側に回っているし。
信長に格別の先見性を仮定しなくとも、他の武将に先駆けてそういう考えに至ったことはそうおかしくないと思う。
0852人間七七四年2008/10/20(月) 17:07:35ID:q58QSPjr
長篠城って、いきなり本丸まで攻め寄せるほどの圧倒的な攻勢だったのに落とさなかったのは、
単に織田軍呼び寄せるためにわざと落とさなかったってだけだろ。
本気で落とす気なら、あそこまで行ってればあれだけの時間あったんだし落ちてるよ。
織田軍来るのなんか分かってるんだから、腹背に敵受ければ不利なのは常識中の常識だし、
城を落とす気で落とせてないなら、落ちるかどうかはともかくもっと必死な攻撃を仕掛けてる。
懐手で時間潰すような態度はありえないな。
前回高天神城の時は、さっさと落としちゃったもんだから、戦い避けてモタモタ進軍してた織田軍が
これ幸いと途中から帰っちゃったからな。
1回会戦して、敵に痛撃与えたり天下に武田の武勇示して戦略的に有利な流れ作ろうとするのは
至極当然。
あのまま合戦しないでいたら織田はますます膨張するだけだし。
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