長篠・設楽原合戦の真実
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:10:27ID:C+plg2A70714人間七七四年
2008/10/01(水) 23:27:04ID:hX+dw49T0715人間七七四年
2008/10/01(水) 23:34:14ID:ZG9GXCc9鎧武者を倒すのは無理。
総大将原田のそんな近くまで敵の狙撃手が来てたのなら
それこそ負け戦。普通は総大将の周囲数十メートルには味方がいる。
0716人間七七四年
2008/10/01(水) 23:37:09ID:1Nr9mGrF最上が狙撃されたのも負けてるときじゃなかったと思うがちょっと忘れた。
0717人間七七四年
2008/10/01(水) 23:39:21ID:1Nr9mGrF0718人間七七四年
2008/10/01(水) 23:43:21ID:hX+dw49T0720人間七七四年
2008/10/02(木) 01:42:41ID:veHF/PkJ0721人間七七四年
2008/10/02(木) 03:08:46ID:6+CartsJまぁおもしろいかも、と思ったけど、後が悪かったよなぁ……
0722人間七七四年
2008/10/02(木) 03:32:20ID:/AWMGwV40723人間七七四年
2008/10/02(木) 09:00:21ID:wV4dsjNc0724人間七七四年
2008/10/02(木) 10:13:04ID:DjoRosWZ0725人間七七四年
2008/10/02(木) 10:20:18ID:qNfGFwcP0726人間七七四年
2008/10/02(木) 23:54:10ID:q3UvS78B実際はもっとぐちゃぐちゃした闘いで数の上でも圧倒的有利な織田徳川軍が最終的に勝った
というのが妥当だろう。もちろん鉄砲を多く所有していたのが有利に働いたのは間違いない
だろうが。
0727人間七七四年
2008/10/03(金) 00:19:15ID:pFcz+0GQ変な解釈になるんだよな。
0728人間七七四年
2008/10/03(金) 00:25:06ID:o6PIVuey徳川軍なんて武田滅亡後に武田の軍制に改編してるしw
0729人間七七四年
2008/10/03(金) 00:25:50ID:qD8JZBNx0730人間七七四年
2008/10/03(金) 00:29:58ID:pFcz+0GQいやあ、長篠で、武田の軍制が時代遅れだと証明されていたとすれば、
織田と一緒に戦ってた徳川が武田軍制を採用するわけないでしょ?
0731人間七七四年
2008/10/03(金) 01:02:28ID:QnEVw2c20732人間七七四年
2008/10/03(金) 01:29:16ID:xT2DZ629ドラマや漫画なんかももう少しリアリティを追求してもらいたいものだ
あと、無知で傍若無人で威勢だけはいい武田勝頼像もなんとかしてもらいたい
0733人間七七四年
2008/10/03(金) 01:43:44ID:oAu8s5no0734人間七七四年
2008/10/03(金) 01:48:01ID:MmmQgDdP0736人間七七四年
2008/10/03(金) 01:58:36ID:pFcz+0GQ勿論、自軍をそう言う状況にいたらしめた戦略眼への批判はあってしかるべきだけど、戦術のレベルでは
充分優秀だったといって良いと思う。
0737人間七七四年
2008/10/03(金) 02:01:46ID:QnEVw2c2信長の野望でも結構強いしw
0739人間七七四年
2008/10/04(土) 00:47:52ID:eSMEcOJdその理由がいかにもこじつけ臭くてなるほどと思えなかった。
0740人間七七四年
2008/10/04(土) 00:50:55ID:KMMByJPC家康はどうも、勝頼個人の能力より、武田軍の組織的な強さのほうを評価していたようだ。
0741人間七七四年
2008/10/04(土) 21:17:49ID:sv3x3Pci俺は似た上司複数に仕えたので良くわかった(結構いると思う、本人からすれば強いリーダー演じてんだろうけど)
星野仙一タイプだったのかね、勝頼は
0742人間七七四年
2008/10/04(土) 22:33:43ID:GOoGUBlh肥大する信長に対抗しなくてはならないこと。もともと四男ということで、家臣になめられてたの
ではないだろうか、勝頼が残した文章が妙に強気なのも勝頼中心に家臣がまとまってない証拠
だと思う。その状況を覆すには戦に勝つことが一番で長篠までのこのこ信長がやってきたことは
勝頼にとって千載一遇のチャンスだったと思う。
長篠でもし勝頼が勝てたなら…信長勢力は後退し家臣団も勝頼中心にまとまり、歴史は変わってたの
かな、と
勝頼が背水の陣で決戦を挑んだのも解らないでもないのだ…
0743人間七七四年
2008/10/05(日) 06:01:21ID:73E+CH3z明智城合戦や高天神城合戦では武田軍が勝利を収めているが。
伊勢長島一向一揆が壊滅したのは痛いけど。
0744人間七七四年
2008/10/05(日) 09:04:08ID:aRi+1Luj0745人間七七四年
2008/10/05(日) 09:35:13ID:G9lT1SAO0746人間七七四年
2008/10/05(日) 12:17:24ID:SBpW96vj0747人間七七四年
2008/10/05(日) 12:55:37ID:K3ZYuSmO当時の弾は現在の⊃型と違って不完全な○型で空気抵抗が大きく照準も合わない。
また、当時の火縄銃の分析でもバレル内に螺旋が刻まれてなく、弾に回転が加わらないので
弾の安定性、直進性もかなり低かったことが証明されている。
これらから推定される流体物理学上の有効射程距離は13m。
毎秒5mの速さで進軍されたとすると三段撃ちでも次弾発射まで7.8秒しか猶予時間がない。
敵がボルト並の速さだと猶予時間は4.1秒。柵だけじゃどうにもならんね。
やはり火縄銃以外のプラスアルファ部分が勝利に大きく貢献したと考えられる。
0748人間七七四年
2008/10/05(日) 12:59:44ID:vdhvkYCB0749人間七七四年
2008/10/05(日) 13:07:52ID:K3ZYuSmO当たったとしても「うぐっ!弾当たったじゃねえか!痛えーな、この野郎!」となる可能性が高い。
0750人間七七四年
2008/10/05(日) 13:51:29ID:73E+CH3z0752人間七七四年
2008/10/05(日) 18:31:09ID:OCtGdIDqされ戦術も機動性に特化されるようになった、中世の銃でも厚さ2〜3ミリの鉄板は貫通
するパワーがあり重く動きにくい甲冑は防御の役にたたなくなったためだ、当時の銃の
命中精度の低さも軍隊の機動性重視に一役買った。
0753人間七七四年
2008/10/05(日) 19:17:10ID:AgitqBGoその話がどこまで信用できるかわからん。つーか有効射程なんてどうやって算出するんだ?、
現代の火縄銃だと30メートルで止まった野球のボールに当てる程度の事はできる。
現代の火縄銃は江戸時代製だけどべつに構造に大差はない。
>>749
さすがに20メートルで当たれば鎧貫く。
50メートルでお貸し具足を軽く貫通する程度の威力がある。
ちなみに実験した人は50メートル先の具足に当てられる程度の腕があったわけだが。
0754人間七七四年
2008/10/05(日) 21:11:23ID:+GaLf3dz全力でも軽く20秒くらいかかるんちやうんいかいな。
つーか同時の戦場の地形てのは・・・。
ワーテルローやクルスクみたいな麦畑じゃないだろ。
泥田がせいぜいだと思うけど。
0755人間七七四年
2008/10/05(日) 23:56:19ID:gyow1aC5そうなんだよ。教科書や大河ドラマなど、大勢の人が知る「長篠の戦い」ってそんなもんなんだよな。
教科書なんかでは、兵数の差については何も書いてないし、大河ドラマとかでは、
武田方がただ馬で突っ込んできて、鉄砲で馬鹿みたいに撃たれてるだけなんだよな。
でも、これらなんかは永久に変更されなそうだよな。
酷いのになると、長篠の戦いを信長対信玄なんて間違えてる本やテレビもあるんだよな。
>>526
しかも設楽ケ原は凸凹で、騎馬には不向きな場所って事もあるかな。
もちろん武田も全軍騎馬隊じゃないだろうがね。
0756人間七七四年
2008/10/06(月) 03:31:16ID:0E4ZZEJMおいら 13mって距離はけっこう真実味あるかも、と思うよ。
当時の一丁あたりの携行弾薬数ってそう多くないと思うのよ。
もっと銃が主役だった朝鮮の役の金海城に用意された弾は銃一丁あたり23発なので、
二昔前の当時もそれ以上は持って行かなかったかと。まぁ硝石は輸入品だし高いものだしねぇ。
で、こういう前提条件では、種子島の有効射程云々よりも、
”鉄砲撃ちの勲功がわかる”距離で使われたと見る方が実情にあってるのじゃないかな。
この戦いじゃないけど、鉄砲の狙撃で武将を倒した功名の記録はあるしね。
となると、兜首を狙える状況ってのは、相手が突撃してきたとき、が一番だよね。
で、有効射程50mも先からバンザイ突撃する軍法は、銃装備もしていた武田軍では考えにくいんじゃないかな。
となると必然匍匐?前進で近寄ってから20m以内からの突撃、だったんじゃないかなぁ。
(これは旧陸軍のバンザイ突撃の距離だけど…)
となると、銃が使える距離もそれくらいに限定されてしまうと思う。
なので当時の銃術の本も至近距離での話しか書かれてないんだと思うよ。
0757人間七七四年
2008/10/06(月) 05:21:22ID:UoCZ5aZk俺も携帯弾薬数ってのは精々30かと思う。
武田や北条の軍制では結構な弾薬数が義務づけられてるけど、それはそれなりの地位の武士に対してだ。
部下もいない鉄砲足軽がそれほどの数を持ち歩けはしないと思う。
ただ、20メートル以下だと一発しか放てない。
雑兵物語を読んでると単発なイメージはわかないなぁ。
鉄砲よりも劣る矢戦だってもっと遠くから行われる。
矢の携帯数だってそんなに多いものじゃないのに。矢もそれなりに高価だ。
それに銃の発展で兜首の死傷率が上がったってのは聞かないのが難点か。
匍匐前進っぽいのもあんまり聞かない。ぶっちゃけ、とんでもなく重い(20kg以上はあるはず)三間の槍をもって匍匐前進は辛い。
この辺事実ならもっと資料が残っててしかるべきだろうにね。
0758人間七七四年
2008/10/06(月) 05:41:13ID:KH8owlA6短絡的なのは君のオツムだw
満足に論旨さえ纏められない落ちこぼれ君だから致し方無いといえばそれまでだが。
そんな論旨不明瞭な稚拙な文章、社会では即却下。
ま、毎日暇を持て余している君なら当然といえば当然だかなw
0759人間七七四年
2008/10/06(月) 09:05:38ID:IVM3/dhy弾が球形のため、銃身が曲がっていたり弾が歪んでいたりすると、
弾道が「変化球」になり、右や左への弓なり弾道となってしまう。
こうなると、遠方の時点でまだまだ弾玉の速度があって殺傷能力があっても、
有効射程は、手前の時点の弓なり弾道になる以前の直進弾道の時だけとなり、
狙って当たる有効射程は50mくらいか。
撃って飛んでいく弾が、射手から見えることがあるが(見えないことが多い)、
変化球となって弾道が曲がりだすと、50mで的に10センチ以内で収まっても、
100m先では100センチぐらいは散らばってしまう。
そもそも、目で狙うだけでも、10m先の直径1センチの黒点に
ずっと狙い続けるなんて、なかなかできることじゃないぞ。
しかも立ったままで、5キロぐらいある重たい銃をかまえて狙うとなるとな。
0760人間七七四年
2008/10/06(月) 09:35:19ID:IVM3/dhy50m先で直径5センチ、
100m先で直径10センチ、になりますです。
100m先で人間の上半身タテヨコ50センチを狙うとなると、
銃の性能の都合もあって、当たるか当たらないか半信半疑の気分で撃つだろうな。
0761人間七七四年
2008/10/06(月) 12:11:23ID:t0OTtd2R0762人間七七四年
2008/10/06(月) 13:13:28ID:7x9W24i9なるほど、野球のフォークボールと同じ原理ですね。
回転がないと空気抵抗の影響である地点を境に速度が極端に落ち弾も落ちる、と。
現在の素材と違って砲身内に撃つ度にわずかなひずみが生じるからカーブやシュートする軌道もありえますね。
弾も現在のように完全に規格化されてないから一発一発微妙に大きさや形が違うだろうし、
撃つ度に少しズレが出るのが当然だと思います。
0763人間七七四年
2008/10/06(月) 13:39:15ID:qbFElcfi最低でも10人単位くらいがまとまって上級指揮者の示す方向におよそで筒先を合わせる
で、撃つ
狙って撃つわけじゃないので照準合わせもない
これなら実質的な有効射程距離は伸びる
たまたまその方向にいた撃たれる側にしてみれば被弾しようがしまいが轟音ともに弾が
殺到してくるイメージになる
0764人間七七四年
2008/10/06(月) 14:46:11ID:IVM3/dhy各自がバラバラに発射でき次第うつよりも、
一斉に同時に撃った方が命中させやすくなる。
なぜなのか説明するのはやや難しいな。
こう言い出すと、3段うち説が虚構に思えなくなってくるので困る。
0765人間七七四年
2008/10/06(月) 18:54:21ID:YNxqUHCg0766人間七七四年
2008/10/06(月) 19:40:55ID:PvN8JYKeそりゃ、銃身もゆがんでるさ。その歪みも何度か練習するうちにうちにつかめてくるものだよ。
でも100mはさすがに確信をもって撃てる人はいないだろうなぁ。
鎧を貫く意味からいっても50mが有効射程だとは思う。
殺傷能力自体はあるだろうけどね。
ttp://www.日本の武器兵器.jp/hinawajyu/iryoku/index.htm
>>763
西洋の使い方はそれで正解なんだが、日本にはその記録がない。
記録にあるのは個々人の狙撃だね。
雑兵物語の弓足軽の話なんだが、「鉄砲と同時ではなく鉄砲が弾薬を込めている合間に放ちなさい」
という記述があるから、間断なく放たれているのが当時の人の理想的な状況だったのかね?
0767人間七七四年
2008/10/06(月) 19:44:51ID:nO+MGHGo接近してから打ってたぞ
柵につっこんできても柵が二重で突破できないと
馬場が嘆いていた
0768人間七七四年
2008/10/06(月) 19:57:27ID:nO+MGHGo理由はカツヨリ曰く武田騎馬軍団は最強じゃ!逃げたら名折れじゃ!だから。
馬場や他は逃げようって進言したけど聞かなかったカツヨリ。
で、結局馬場もやけっぱちで信玄さんのためにどうのこうのいって突撃してしんじゃった。
見るまではどうして突撃したのか、バカなやつだなーと思ってたけど
当時の武士の心理を考えればそうなるのもやむなしと思う。
哀れというかむなしさの残る話だった
0769人間七七四年
2008/10/06(月) 20:20:37ID:IVM3/dhyオイラのPCではうまくアクセスできなかったので、ぐぐってみたら下記URL
ttp://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/hinawajyu/iryoku/
0770人間七七四年
2008/10/06(月) 20:45:25ID:IVM3/dhy初めて撃つ銃の話じゃないよ。
銃身が曲がっていて弾道が一定の方向に曲がるというなら、まだわかりやすい。
エアガンでは機関銃のように連射できるものがあって、銃を三脚に固定して撃っても、
弾幕がまさに「ラッパ状」に末広がりで弾道が散らばるものがある。
銃身内部がまっすぐでも、球形の弾丸にヘンな回転がかかっているため、
変化球になっている証拠であり、弾と銃身のすき間がきついとなりやすい。
(ふつうの銃は、ライフリングのため弾と銃身のすき間はきつい)
ゆるいと、銃口からコロコロと弾丸が転がってしまうけどな。
エアーソフトガンメーカーの一例
ttp://www.tokyo-marui.co.jp/products/
0771人間七七四年
2008/10/08(水) 19:57:54ID:WxqACmyq大砲による大口径化でなく、銃でいえば、
弾を球形でなく、いわゆる砲弾型にして、銃身にライフリングをきざんで
強制的に回転運動させなければならない。
(てるてる坊主型の弾という案もあるが、さほど命中率がよくない。)
当時の日本の工作技術では難問。なにしろネジ1本でさえも、大まかに
形をととのえた後、ネジの回転溝はヤスリでいちいち仕上げたそうだから。
0772人間七七四年
2008/10/08(水) 20:37:34ID:SY3Gov73まあ、狙って当たる射程50mってのは同意だからいいんだ。
でも、遠くからも撃ってるのは撃ってるようだ。威嚇程度だろうが。
13mってのがどうだろう?って話なだけ。
間近くおつつめたらば、左右へ分て、鑓の勝負を始むべしとあるから、
あんまり近くで撃つと槍を取る暇がないっていう事情もある。
0773人間七七四年
2008/10/08(水) 20:53:46ID:lualHdoh0775人間七七四年
2008/10/08(水) 21:34:55ID:WxqACmyq東大寺の金剛力士像に、火縄銃の弾が当たっていたことが、
分解修理のときに判明して、数年前、新聞記事になったことがある。
本体の木への鉛玉の突き刺さり具合と、穴の角度では、ななめ上方から当たっていることから、
数百メートル先から撃たれたと判明。
金剛力士像は大型とはいえ、威嚇用として寺院内に撃ち込んだのだろう。
13mってのは、何かの誤りだろう。近すぎるな。
0777人間七七四年
2008/10/08(水) 21:59:12ID:XQ3UKTGB最低30メートル射撃でも充分に効果があると思います。
0778人間七七四年
2008/10/10(金) 21:06:20ID:KH4KTkRx近的場
射位(射手)から的までの距離が28m、通常は直径が一尺二寸(36cm)の的を
置く。的場には矢が痛まないよう土が斜めに盛ってあり、これを安土(あづち)
という。中学校〜大学、公設道場から私設道場まで殆どの弓道場がこれで、
通常の稽古は近的道場で行う。
弓の「近的場」でさえ28mなのだから、鉄砲はそれよりも有効射程が長いだろうから、
30メートルということはないだろう。動く対象なら、30メートルでも当たらないかもしれないが。
0779人間七七四年
2008/10/10(金) 23:10:20ID:50368HPFいちお13m以内(4、5歩)くらいで射撃→切り込みは、関ヶ原の島津軍がやってる(>>630)
数十年後のことだけど、”敵の突撃の勢いを銃撃で止めて切り込む”戦況だから、
武田軍が守備体制の織田徳川軍に突撃した長篠と状況は似てるんじゃないかと。
ただ、兜首は武田軍突撃時よりも、その後の追撃戦(銃が使われにくい)であげられてるから、
有効射程(50m程度)の銃撃で突撃を撃ち挫だいた可能性も大きいとは思う。
ただこれは、武田軍の突撃がどうだか、で決まると思うし、そういうのは軍法の問題だと思うけど、
それを引き継いだはずの徳川軍には敵の柵から100m以上もの離れたところからバンザイ突撃した例がないので…
おいら的には、他の戦のようにススキや小山に隠れて柵に接近して、30mくらいから歓声を上げて突撃したんじゃないかなぁ、と勝手に思ってる。
これなら↑の、13mくらいで指揮官狙撃→傷ついた指揮官を担いで退却で、
守備側は一回くらいしか射撃の機会はないけど、一日に20発も使わずに種子島の威力は十分発揮されたと思う。
あと近代でいう”弱装弾”の問題もあって、種子島の威力が今の均一に生産されたガンパウダーほどなかったと思う。
ナポレオン戦争の時代でも、英仏両方で配給される火薬の質は一定でなかったし、
米墨戦争ではメキシコ側の火薬の質が悪くて射程がのびなかったし、
昔の黒色火薬の質はあまり当てにならないのよ。
当時の日本では補給品に硝石硫黄などがあるので、現地調合だとしたら質はもっとひどかったと思うな。
大阪の役では、小田切所左衛門の額に弾が当たったけど、すぐ取り出し、
「この鎧は信玄公のお手にあったもの」といった(常山紀談)なんて普通の鎧兜で銃弾防げた話もあるから、
実際にはかなり威力が低い射撃も多かった、と思えるし。
0780人間七七四年
2008/10/10(金) 23:22:02ID:KH4KTkRx姉川の戦い直前で、浅井軍の追撃を、秀吉は鉄砲隊を順繰りに退却させて
殿をつとめている。
(一隊が射撃したら味方を追いこして退却し弾ごめして待ち、
前線の隊が帰ってきたら、また味方を追いこして、かわりばんこに繰り返す)
でも、こんな走りながらの退却戦は、へとへとに疲れそうだ。
長篠の千挺ずつ入れ代わりながらの3段撃ちは、
実際にやると疲れてしまって実現できないという説(実験結果?)があるそうだが、
退却戦で射撃しているのだから、実際にはできるんじゃねえの?
0781人間七七四年
2008/10/11(土) 00:04:18ID:4V5Rfh5pとにかく間断なく撃っていたというのが真相だと思う。
ガダルカナルの一木支隊みたいに、想像を絶する連続攻撃で武田が兵力を
すり減らし、弱体化したところを柵からでて追撃したのではないか。
0782人間七七四年
2008/10/11(土) 02:44:46ID:1dKBKvirそういや最上義光の兜は銃撃うけてベコってなってたな。当然戦死しなかったし。
鎧はともかく兜はなかなか貫けるもんじゃない。
ただ、実際狙って兜にあてるより体に当てるほうがたやすいから
ケースとしては鎧の方が多いだろうね。
別に100メートル先からバンザイ突撃をしてたと主張するつもりはないさ。
ただ100メートル先から敵に狙われずに身を隠して行軍することができるのか?と思っただけだ。
鉄砲側も100メートル先の敵が近づいてくるのに指をくわえてみているのはありえない。
威力で言えば100メートル程度でも装甲が薄いところや生身なら十分殺傷能力を持つ。
一人の人間相手ならなかなか当たらないだろうが一応敵は大勢だ。命中率は多少ましになる。
(とは言っても低いだろうが)効果はあると思う。
あの重い鎧を着て重い槍をもつ。前に言ってた匍匐前進は無理だ。重すぎてまともに動けない。
今度は行軍が遅くなりすぎて何発も弾を撃たれる。控えめに言っても50メートルでも止まっている的の場合は
それなりの命中率を持つ。何発も撃たれれば当たる者も多いだろう。少し身をかがめるのが精々か。
遮蔽物があればそれを利用するのは当たり前かと思う。武田も利用できたのなら30メートルと言わず、
柵のすぐそこまで利用したかっただろう。だが、戦場の地形がそんなに身を隠すのに適していたのだろうか。
寡聞にしてきかない。陣地も小高い見晴らしのいいところに作るものだし。
竹束を盾にするとかならありかな。
0785人間七七四年
2008/10/11(土) 19:33:17ID:CDEM4BE80786人間七七四年
2008/10/13(月) 01:32:34ID:3J01dwtq結局、信玄が生きてないと無理ってことでしょ
勝頼は家の問題で自滅したと捉えるべき
信玄存命なら家の問題もなく
その力を存分に発揮して上洛を果たしたってことw
長篠も翼包囲の布陣で戦ったのに
中央の穴山武田信廉が敵前逃亡で総崩れ
信玄がいたならこんな醜態は起きないw
っていうか
退路の拠点、鳶ノ巣山砦が織田方に落とされてて
武田が戦闘を起こしたのも織田徳川を攻撃して
後を慕わせないようにするためだけの行動
鳶ノ巣山砦が無事だったら、速やかに撤退できた。
退路を断たれて、仕方なく突撃したって見方もある
まー勝頼の凡ミスw
信玄ならこんな醜態は晒さないw
0787人間七七四年
2008/10/13(月) 01:34:52ID:O6CGKa4f0788人間七七四年
2008/10/14(火) 19:19:53ID:DyNRf4Yr自信を持って、勝てる、と「重臣一同」が一致したうえで、
攻撃したのだ。
勝頼一人だけが独断で決めたことではない。
0789人間七七四年
2008/10/14(火) 21:29:11ID:F/SnSVXh健康が悪かったら無理しない。
やっぱり鉄砲に撃たれて死んだんだと推測する。
病死にすれば家臣も安心(↓に比べればの話ね)
鉄砲で死んだとなるとみんな落ち込むだろう。
たぶん本陣にいたところを忍者によって殺された
特殊部隊はつかまって口封じされた。
3年は黙っていようというのは信玄の遺言ではなく重臣の会合での話し
これで筋がとおる。
そして勝つよりは
わしは鉄砲などでは倒れはせんと
意地になったのではないか。
みんなは(鉄砲の恐ろしさを知ってて)撤退したかったけど
勝つよりは聞かなかった。
0790人間七七四年
2008/10/14(火) 21:48:31ID:h8k/ZRpKが・・鉄砲などでは倒れはせんと いうのは違うかな
0791人間七七四年
2008/10/14(火) 23:11:59ID:n9jx+adz>そして勝つよりは
わしは鉄砲などでは倒れはせんと
意地になったのではないか。
みんなは(鉄砲の恐ろしさを知ってて)撤退したかったけど
勝つよりは聞かなかった。
長篠の時には、重臣の意見を退けて
勝頼の意見が通るほどの権力が
勝頼には無かった。
ただし勝頼が後方の長坂にあてた手紙に
「今回の戦いを危ぶむ者も居るが」
とあるので、全員賛成では無かったのは事実だろう。
そしてそれが馬防柵が完成してから突撃という
自体になったのだと、当方は推定している。
0792人間七七四年
2008/10/14(火) 23:41:17ID:Eoj5ZPh4実際設楽原で対峙する両軍の主力は織田徳川2万余で武田1万余だから、
わざと鷲ノ巣砦を織田徳川別動隊に占拠させてその間本隊に突撃するという戦法なら
第4次川中島を経験した馬場などの重臣がとりそうな戦術
結果は一門衆の敵前逃亡で敗退したけど、もし中央支え切れたら成功の可能性は高かったと思う
あと、当時鉄砲の威力はそれほど高くなく、別動隊への割り振りもあるから両軍の鉄砲の数は2.5〜
3対1程度
設楽原の地形と当時の天候を考えれば鉄砲が勝敗を決するような要素ではなかったと思う
0793人間七七四年
2008/10/15(水) 01:09:11ID:ALYtiIBN自分も織田徳川3万8000と武田勝頼軍1万5000
というのはどうも解せない
貴方が言うように例えば織田徳川2万3000で武田1万3000で
別働隊5000が鷲ノ巣砦から武田軍の後方に回ろうとしていたなら
織田徳川1万8000対武田1万3000
このくらいの兵力差なら例え織田徳川軍が陣城を築こうが勝機を見いだせたかもしれない。
勝算有りと判断し合戦に突入→一門衆等が命令を聞かず形勢不利に→一門衆が勝手に退却→大被害
こういう流れだと思うんだけど
倍以上の兵相手にどうやって勝算有りと判断するんだと
兵力に関する確かな資料はないし
実際はこんなもんじゃなかったのかな
0794人間七七四年
2008/10/15(水) 04:03:23ID:XKsq/MwG実際、長期戦だったんでしょ
織田の兵はいったん国に帰ったりもしてたみたい
結局、武田の退却戦で
攻めてる状態ならさすがに一門衆も敵前逃亡みたいなことはしないでしょ
中央部隊が崩れたから
左右の馬場真田内藤山県隊は取り残されて敗退した感じ
なにげに織田の損害もデカイわけだが
長期に渡り小競り合いをしてた感はあるな
あとからの増援で3万の大軍になったかもね
0795人間七七四年
2008/10/15(水) 19:30:52ID:19FVs4pPそして、長篠城攻めでは大量の鉄砲が使われた痕跡があった。
〜〜ここまで事実〜〜
〜〜以下妄想〜〜
しかし、織田と武田では得られる火薬の量が違いすぎる。
設楽が原では、既に武田の火薬は尽きていて
鉄砲にたいして鉄砲で当たることができず、長距離戦ができなかった。
とか考えてみた。
0796人間七七四年
2008/10/15(水) 19:36:30ID:SN2/BJQ+武田軍は擬似要塞戦を行ったわけで、その場合当時の要塞戦の基本である
「優勢な火力の援護による攻撃」を行うことが出来なかった、ってことでしょ。
0798人間七七四年
2008/10/15(水) 20:30:22ID:nZrgZb9z命中精度の低い火縄の有効射程が13mというのもそう不思議ではない
0799人間七七四年
2008/10/15(水) 20:57:38ID:vY6bKSqQ0800人間七七四年
2008/10/15(水) 21:23:38ID:aiHY28mz島津なんとかって記述ですべてを語ってたみたいだけど実際は3〜50m
ってそこらの火縄のHPとかには載ってるからおかしいとは思ったんだ。
もちろん用法にもよるけど威嚇とか足止めだったら結構離れたところからでも
有効だったんだろな。
いくらなんでも火縄構えてるとこにつっこむ兵隊さんもいないだろうし。
この前初めて実弾撃ったんだが片手でも結構当たったから不思議だった。
もちろん両手でガチガチになって20発ぐらい撃ってからだったけどね。
暴発しちゃった、ではすまんもんね、やっぱり。
0801人間七七四年
2008/10/15(水) 21:29:47ID:SN2/BJQ+0802人間七七四年
2008/10/15(水) 22:02:13ID:QsjQPPCZ>しかし、織田と武田では得られる火薬の量が違いすぎる。
設楽が原では、既に武田の火薬は尽きていて
鉄砲にたいして鉄砲で当たることができず、長距離戦ができなかった。
これは同意だね。
火薬の原料は硝石。その硝石は輸入に頼っていたから
堺を押さえていた信長と、山国の武田では火薬量が
全然違ったと思う。
0803人間七七四年
2008/10/15(水) 22:13:09ID:vY6bKSqQ外国の観光地で撃ったなら火薬半分の弱装弾だから扱いやすいよ
一般愛好家相手や軍管理のとこだったら基本通常弾
拳銃でも弓でも動いてる的に一撃必中目指すなら12m弱とはよく耳にするから
そういう記述を勘違いしたんじゃないかな
有効射程がそんなに短ければ松本城の城壁の銃眼とか飾りにもならん
0804人間七七四年
2008/10/15(水) 22:13:57ID:iaCbZZkR敵国にも売りますよ。
堺〜駿河は、そこそこ舟の往来はあったので(江戸以北はなし)、
駿河をおさえていた武田は、輸入可能。
0805人間七七四年
2008/10/15(水) 22:15:54ID:SN2/BJQ+0806人間七七四年
2008/10/15(水) 22:47:10ID:QsjQPPCZそれはすなわち信長の税収が上がる事を意味する。
勝頼が硝石を買えば買うほど信長が肥える仕組み。
0807人間七七四年
2008/10/15(水) 22:54:01ID:Y1t+MnoW小勢で防御体制に入っている大軍に攻撃を仕掛ける行為がいかに危険か。
お互い攻勢に出てれば勝頼にも勝機はあるかもね
0809人間七七四年
2008/10/15(水) 23:18:48ID:aiHY28mzへ〜、1発7ドル、なんてのにもチャレンジしたが、名前忘れた、あれも火薬
抜いてあるのかな。結構両手でズドンときたわ。
火薬量とか硝煙の話は詳しい輸入ルートとか解明されてるみたいよ。
単純に山国だから量が少ない、というものではなかったろうね。
火縄購入した時点で弾だってちゃんと買ったろうし。
0810人間七七四年
2008/10/16(木) 00:57:11ID:wmeNIXby確かに12mでも狙って当てるには結構距離あるからなー
>>809
軍板いけばその辺は結構詳しい
素人が撃つと肩が外れる拳銃とかあるらしいし
0811人間七七四年
2008/10/16(木) 03:18:25ID:LGcYoEb1「12m」というのは”当時の戦術上使用された距離”の話じゃないかね?
>>808
江戸時代の鉄砲書でも、種子島は弓の代わりに使われただけ、のようだけど、
どこがどう変わったのか、kwsk
>>809
織田方が、多量に弾薬を消費した、って記録はないのよね。
鉄砲部隊も現地編成で、合戦前からそのために弾薬を用意した記録はない。
で、戦闘時間考えると「矢継ぎ早に撃つ」ほどの弾薬量を持ってたようには見えないのよねぇ…
つか、”遠隔兵器で敵を混乱→突撃”という攻撃の仕方だったなら種子島の出番は少なかったはず。
だから攻撃をかけた武田側に鉄砲の活躍がないのは当たり前、な気はするけど…
0812人間七七四年
2008/10/16(木) 18:43:29ID:NrQbvpCtそりゃ火縄でも甲冑着ている相手を致死できる距離なら50mは当然あってしかるべきだが
最大限効果を発揮できる距離は12mほどということ
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