長篠・設楽原合戦の真実
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:10:27ID:C+plg2A70503人間七七四年
2008/08/27(水) 20:36:33ID:XI13VxQXこれなら、武田軍は勝てる。(戦術も大事だが。)
同じ例として、秀吉の北条攻めを挙げてみる。
このときの北条氏は、なんと240万石もある大大名だった。
1万石あたり300人の兵の割り当てとすると、北条氏の動員は7万人くらい
あったことになる。
これを撃ち破るとなると、3倍の人数があれば大丈夫のようだが、
となると、秀吉は、20万人もの軍勢を集めざるを得なかった。
0504人間七七四年
2008/08/27(水) 21:18:46ID:rmC25BHZ信玄なら雨が降るまで我慢するか長篠合戦のような状況にしないと思う
0506人間七七四年
2008/08/27(水) 22:04:02ID:IL3/i7Zzやっぱそうだよな。
0507人間七七四年
2008/08/27(水) 22:06:18ID:IL3/i7Zzまあ、あんな状況にはならないだろうね。
0508人間七七四年
2008/08/27(水) 22:43:15ID:gc83/njG鳶ノ巣山砦が健在かってだけしょw
武田が戦闘を起こしたのも織田徳川を攻撃して
後を慕わせないようにするためだけの行動
鳶ノ巣山砦が無事だったら、戦闘もしないで撤退できた。
結局、武田は戦闘する気は全くなく顔見せ程度の威嚇のつもりが
退路を断たれて、仕方なく突撃したってとこでしょw
まー勝頼の凡ミスだわなw
0509人間七七四年
2008/08/27(水) 22:45:02ID:qnO6SRGGと言ってるくらいだしな。
0511人間七七四年
2008/08/27(水) 23:40:55ID:XI13VxQX長篠戦のときは、鳳来寺あたりに兵糧を集積したのだろうか。
0512人間七七四年
2008/08/28(木) 00:12:08ID:zvFFuXnp武田の騎馬隊は存在したのはした
実際、騎馬隊の使い道は
戦況が決した時に
宣伝で赤備え隊などの騎馬隊が戦場を
駆け回り敗残兵に恐怖を与えた宣伝活動w
武田が実際強かったのが
長槍部隊で
騎馬が有名になったのは
武田領内は荷駄などの通路を整備していて
馬などを利用した兵の移動が素早かった
武田の真の強さは
相手より先に戦場に到着して出鼻を撃つ
スピードにあったわけ
0513人間七七四年
2008/08/28(木) 00:16:54ID:1ohVG6su0515人間七七四年
2008/08/28(木) 06:06:05ID:Z8mEnaw60516人間七七四年
2008/08/28(木) 21:27:27ID:uNE73QvB勝頼=のび太
信長=ジャイアン
家康=スネ夫
信玄=ドラえもん
謙信=出来杉
0518人間七七四年
2008/08/29(金) 14:47:04ID:LZQYPXp20519人間七七四年
2008/08/29(金) 18:57:55ID:Ch1B1tQc0520人間七七四年
2008/08/29(金) 19:26:24ID:NyKvyZ/Dどっかに詳しいのがあったような気がするんだが。
0521人間七七四年
2008/09/01(月) 19:34:20ID:ieytH+bIおもしろすぎるよ。
キャンペーンの三方ヶ原から後半を猿のようにやりまくる。
http://www.4gamer.net/games/001/G000112/
0522人間七七四年
2008/09/02(火) 20:13:02ID:99erH2PXじゃあなんで武田は滅んだんでちゅか?
0524人間七七四年
2008/09/02(火) 20:33:15ID:0HeIGcsH武田武将の死地は敗走時に追撃された場と考えられるし
徳川方の記録は勝者の言い分と考えられるし
手取り川の正否には突っ込んでないし
まぁ…バラエティだわな
0525人間七七四年
2008/09/02(火) 20:47:28ID:fk3HB0Ij何を今更…
この戦国板じゃとっくの昔に説破された通説じゃん
0526人間七七四年
2008/09/02(火) 20:50:09ID:BncCW7GV0527人間七七四年
2008/09/02(火) 20:51:55ID:Tb5QYDpQ0528人間七七四年
2008/09/02(火) 20:57:01ID:fk3HB0Ijただの無知な“アンチ武田”
0529人間七七四年
2008/09/02(火) 21:00:35ID:dYJZ3ePk武田軍は小規模な戦に主だった武将をたくさん連れてきて
ことごとく討ち取られたようですねwwwww
0530人間七七四年
2008/09/02(火) 21:04:37ID:Ch+KJT3/日本では馬の去勢という技術がなかったため非常に獰猛で、諸外国の騎馬隊のように編成できなかった。後に大陸に進出した旧日本軍の騎兵隊の馬を見たヨーロッパの兵士は、「日本人は馬の姿をした猛獣に乗っている」と言って驚いたそうな。
0531人間七七四年
2008/09/02(火) 21:07:50ID:fk3HB0Ijよし、ソースをくれ
0532人間七七四年
2008/09/02(火) 21:07:59ID:dYJZ3ePk0534人間七七四年
2008/09/02(火) 21:20:21ID:fk3HB0Ij今仕事が終わって電車のなかだ、TV見られなかった。
0535人間七七四年
2008/09/02(火) 21:24:09ID:gYxMzwUCモンゴルの馬は、足の運びが側対歩だったか、上下運動が
少ないので乗りやすいらしい。
0537人間七七四年
2008/09/02(火) 21:30:19ID:dYJZ3ePk適当にまとめると、
戦場跡に鉄砲の弾がほとんど落ちてないから鉄砲隊ない
馬が小型で遅いから騎馬隊なかった
武将の碑はたくさんあるけど馬防柵から離れていた
総死者数は1000程度
…こんな感じだったかな
0538人間七七四年
2008/09/02(火) 21:30:52ID:Ch+KJT3/0539人間七七四年
2008/09/02(火) 21:30:56ID:3Nd+Yy+55〜7万人で篭城されたら、力攻めで落とすのは無理だろ?
損害が大きすぎて、兵がビビッてしまう。
0540人間七七四年
2008/09/02(火) 21:36:43ID:Ch+KJT3/武田の被害は追撃戦によるものが殆どっていうのが定説だから柵から離れてていいと思うんだけど…
まあ、誤った定説だと鉄砲で撃たれてるのにひたすら柵に向かって突撃して全滅したみたいな話になってるから、それを基に考えたら無かったといえなくもなくない。
0542人間七七四年
2008/09/03(水) 00:11:27ID:4RODxGjJ0543人間七七四年
2008/09/03(水) 00:20:52ID:4RODxGjJただ人間よりは速い
0544人間七七四年
2008/09/03(水) 00:29:36ID:UvbZ8Gkx0545人間七七四年
2008/09/03(水) 02:51:57ID:2YaS6ttQ0546人間七七四年
2008/09/03(水) 02:53:25ID:ih8VIv8T0547人間七七四年
2008/09/03(水) 03:35:45ID:mydHe51k何かの本で読んだが、信長は、佐久間信盛に勝頼あての内応の手紙を書かせている。
勝頼は、手紙の中に信長の陣がどこにあるか書いていた為、佐久間が信長陣をつけば勝てると思った。
ただ信長の謀略だった訳だが、親族衆が戦線を離脱せず攻めまくっていれば勝てたはず
0548人間七七四年
2008/09/03(水) 08:01:20ID:EYCsXTkdまず馬防柵って名前が後世の創作だし。それに柵がピックアップされるけど、実際は土塁とセットで陣地としていたわけで、隊騎馬隊目的ってわけではない。
あと日本人は西洋の騎兵隊のように戦場では馬に乗らなかったってのはルイス・フロイスも書き残してる。
0549人間七七四年
2008/09/03(水) 08:18:22ID:qiVz7eOa“売国人”が多いなwww
0550人間七七四年
2008/09/03(水) 08:29:51ID:PLjT7mHv0551人間七七四年
2008/09/03(水) 09:11:24ID:NbMVFSrW行ったことがある人間なら分かると思うけど、
あの辺は、見晴らしの良い野戦が出来る場所ではない。
川や渓や谷や森がくねくねと入り込んでいて、
要所要所に砦や陣地を作ってゲリラ戦をやるのが打って付けの場所だ。
その事実を大前提に考えた場合、長篠の戦いは、全く別の側面が見えてくる。
0553人間七七四年
2008/09/03(水) 11:52:10ID:PLjT7mHvそんな馬鹿な(笑)
0554人間七七四年
2008/09/03(水) 12:07:32ID:ih8VIv8Tあのさあ、それに加えてフロイスはほとんど限定された戦場しか見てないし、それに言っておくが
日本人は馬上戦闘は、源平の時代からやっている。
もうちょっと歴史勉強しろよ。
0555人間七七四年
2008/09/03(水) 12:42:33ID:PLjT7mHv馬上戦と騎馬隊は違うがな。
そもそも源平の頃なんて指揮官である武士階級しか馬に乗ってないんだから、そいつらが集まって部隊になって最前線に突っ込むわけないじゃん。だれが自軍の足軽を指揮するんだよ。
カッコいい騎馬隊なきゃ嫌だーっていう歴史漫画好きや歴史ゲームマニアに勉強しろとか言われるとか(笑)
0556人間七七四年
2008/09/03(水) 12:45:00ID:ih8VIv8T> そもそも源平の頃なんて指揮官である武士階級しか馬に乗ってないんだから、
あほか。「指揮官である武士階級」ってどんな存在だよ?
武士は基本的に戦闘員だ。
0557人間七七四年
2008/09/03(水) 12:57:25ID:PLjT7mHv0559人間七七四年
2008/09/03(水) 13:10:45ID:u0WAgajV勝者は田中
0560人間七七四年
2008/09/03(水) 13:18:57ID:nxRZD6LV0561人間七七四年
2008/09/03(水) 19:55:54ID:2YaS6ttQ0562☆中山鹿之助☆ ◆.Ooo.qq.q.
2008/09/03(水) 23:00:38ID:8hP1YL52なんとかミステリーに釣られるのも良いのですがぁ〜・・・
そろそろ本題に戻しませんかぁ〜wwwwwwwwww
0563人間七七四年
2008/09/03(水) 23:00:56ID:PLKSILcQ0564人間七七四年
2008/09/03(水) 23:02:13ID:PLKSILcQ0565人間七七四年
2008/09/04(木) 02:44:02ID:Fzs/ng3xで、織田徳川が対戦車砲、地雷、ライフルをそれぞれ用意して迎え撃つ。
敵を甘く見た武田戦車部隊が織田徳川の塹壕に突撃。
しかし、対戦車装備を揃えた敵に惨敗。多くの優秀な士官や戦車兵を失った
というのが近代版長篠の戦い。
0566人間七七四年
2008/09/04(木) 14:32:42ID:/iwON+Nqもっと慌てふためくかと思った
0567通説には疑問があるでござる
2008/09/04(木) 21:34:14ID:8w9YdAf6通説には間違いが多いでござる。
勝頼が重臣の反対を押し切って決戦し、多くの重臣が絶望して突進し討ち死にしたとか。
酒井忠次が鳶の巣砦を落として退路を断って決戦を強いたことが勝因とか。
梅雨が明けて、鉄砲をフルに使いこなさせた武田の失敗とか信長の強運とか。
長篠城を落とすことは重要ではなく、織田との決戦を武田が求めていたことは、
行動から明らかで、ただ城を落としたいなら、地形の有利な鳶の巣砦でこもっていれば、
織田側には手を出せなかった。兵糧では敵地の武田よりも織田が有利にしても、
あの周囲に敵を抱えていた時代、織田側の方に異変の起こる可能性も高かった。
設楽原に来たということは武田が決戦する気満々でいたということ。
鳶の巣砦陥落は、主力が決戦で負ければ何の意味もない局地戦にすぎず、勝敗とは関係ない。
決戦なのだから、機動のできる梅雨明けを待って動いたのは当然。
本当のこの戦の本質は別のところにあるでござる。
武田がハンニバルのカンナエの戦いを狙ったのに対して、織田側はユリウスカエサルの
ファルサルスの戦いを再現したのでござる。
カンナエの戦いは、兵数が少ないカルタゴ軍がその代わりに両翼に騎兵を配置し、ローマ軍に中央は押し捲らせたものです。
ウィキより「ローマ軍の中央戦列は、ほとんどカルタゴ軍中央を突破しかけていたが、戦列両翼はカルタゴ歩兵が優勢であり、
その方面のローマ軍は前進することができなかった。この時点で、ローマ軍中央はV字になりつつあった。そこへ両翼のローマ
軍騎兵を壊走させたカルタゴ軍騎兵が後方を攻撃した。後方を付かれたローマ軍はパニック状態に陥って密集したために、
中央の兵は押しつぶされて圧死した。(中略)完全に包囲されたローマ軍は、逃げることができずに殲滅されることとなった
(中略)この戦から、特に包囲戦の有効性が強調されるが、ローマの敗因は、包囲されたことによりパニック状態になり、
組織的で有効な対応ができなかったことにある。もし、ローマ歩兵が包囲側の攻撃に耐え、そのまま前進し包囲網を突破し
左右に展開出来たならば、逆に寡少なカルタゴ軍を包囲できたことになり、全く違った結果となっていたと考えられる。」
これをやった名将がいたのでござる。ローマの天下統一を目指したカエサルのファルサルスにござる。
0568通説には疑問があるでござる
2008/09/04(木) 21:38:24ID:8w9YdAf6「元老院派軍左翼のラビエヌスは騎兵を率いて突撃し、カエサル軍の騎兵を撃退して第4戦列とぶつかった。
このときカエサルは自軍の投槍兵に、騎兵に対してはピルム(槍)を投げるのではなく直接突き刺すように命じていた。
この攻撃によって元老院派軍の騎兵は押し戻された。第4戦列はそのまま前進して元老院派軍に側面攻撃をかけ、
さらにカエサルは予備の第3戦列を前線に投入した。2方向からの攻撃を受けて、ポンペイウスは敗北」した。
「勝因は歩兵の効果的運用により騎兵の動きを封じ込め、その長所である機動性と運動性を封殺したカエサルの作戦に求めることが出来る。」
武田側は長槍や多種混合ではあるが、両翼に精鋭を送り込み突破を狙うのは必定。
カエサルの槍衾での騎兵封じ込めに対して、我が方は何が代わりになるか。
鉄砲多段撃ちと馬防柵と火線の集中による敵将の射殺にござる。
鉄砲は如何に強力といえど、玉込めに時間がかかるので、それ単独では決戦兵器
とはなりませんが、簡単な柵でも手間取っているところで、ひきつけて打てば効果が大きい。
いくら武田が戦上手とはいえ、本願寺戦でただの柵と鉄砲に苦しんだわれらに一日の長があります。
集中的に火力を使用して敵指揮官を殺してしまえば封建時代の戦いは勝負が付きます。
指揮を執る目立つ武将を血祭りにあげる。戦は次のステージに進みました。
それ以外にあれほど多くの武将の死を説明できません。
通説の過ちのひとつに親類衆に裏切りがあった、勝頼が家中を掌握しておらず、戦線離脱された
というのがありますが、これも天目山の裏切りなどを前に持ってきた過ちで中央部が苦戦することは武田の計算の内で、
誤算があったのは本願寺との戦いから鉄砲の効果的使用を学んだ織田軍の両翼を抜けなかったことにあります。
鉄砲による集団的な銃撃戦・殲滅戦に対応できなかったのです。
カエサルの戦いを再現するためには、両翼の秀吉殿とわれら明智の働き次第です。
カエサルは後一歩のところで天下統一前に死にましたが、信長殿は大丈夫でしょう。
私がついておりますから。
って私は長篠にはいっておらず、島津を接待していて、だから日向守という名になっているので
ござるが。それは愛嬌にござる。
0569人間七七四年
2008/09/04(木) 22:59:14ID:bKMlY1rUところで、日本の戦国史の通説が覆されまくっている昨今、
ハンニバルだのカエサルだのの通説って信用していいものなの?
0571人間七七四年
2008/09/04(木) 23:30:20ID:3ZnXfiI5古代ローマ時代の有名な戦いは、むちゃくちゃ「軍事関係者」が研究してるから、ちょっと日本のとは話が違うかも。
例えばカサエルのガリア戦記はナポレオンも研究論文出してるし、
カンナエなんて第一次世界大戦前から士官学校で最初に習うくらい。
0572人間七七四年
2008/09/04(木) 23:35:03ID:0uavHQTo日本の戦国史もそうだが、古代ローマの出来事も、昨今の考古学研究の進歩で、だいぶ様相が変わっているよ。
0573人間七七四年
2008/09/05(金) 01:30:56ID:WrqY6Nvw0575人間七七四年
2008/09/05(金) 19:58:15ID:6ABbnWtx俺は考古学ほど信用できないものはないと思ってるんだがな
あんなの科学ですらないだろ
科学が進歩する度に犯罪も進歩するみたいに
考古学も犯罪と似たようなもんじゃね?
これからどんどん旧説がぬりかえられつづけていく希ガスよ
0577人間七七四年
2008/09/05(金) 20:34:30ID:IOf/Yd29軍事関係者って歴史は素人だから、研究の前提は通説によるわけなんだがw
0578人間七七四年
2008/09/06(土) 00:39:44ID:cQRSlW7tカエサル軍とガリア解放軍の決戦であるアレシア攻防戦の通説である
カエサル軍6、7万対ガリア軍34万というのを
地形や戦況の推移から見てありえない、と分析し
カエサル軍とガリア軍のアレシア城兵+救援軍をほぼ等しい、と結論してるな。
軍事の天才といわれた男だけになかなかシビアな分析だ。
0580人間七七四年
2008/09/06(土) 01:53:08ID:lOed7RdL甲斐信濃みたいな山谷多い土地では戦車は使いにくくないか?
かといって低湿地帯や川の多い日本の平野部でも運用は困難
とマジレスしてみる
0581人間七七四年
2008/09/06(土) 02:01:21ID:v1XjulGx苦労したらしいからな。
0582人間七七四年
2008/09/06(土) 02:18:44ID:y6tdixCV0583人間七七四年
2008/09/07(日) 03:12:54ID:hSnZ3xLz霜が解けただけで20pも泥に埋まる土は日本にはない。
真冬になると燃料や油も全部凍るので不凍液がないと
戦車どころか銃一発も撃てない。
だから歩兵はつねに銃を懐で暖めながら行軍した。
それでも凍ったらスコップで殴りあって戦ったとある。
0584人間七七四年
2008/09/07(日) 09:00:38ID:wintIGnD三方ヶ原の武田ってことは単純に考えて、長篠の勝頼にプラスして、
信玄が総大将、勝頼時代よりまとまった家臣団、兵力一万強多い。
確かに見ものだけど、信玄、信長の両者ともに回避して決戦には至らなそうだな。
>>516
のび太は義昭公の方がしっくりこんか?
0586人間七七四年
2008/09/09(火) 15:11:41ID:oIgI/cTc実際に滅亡の引き金になったのは高天神城の落城だよなあ。
長篠の戦を過大視するのは、徳川史観ならぬ、織田史観のような気がする。
0587人間七七四年
2008/09/09(火) 15:27:46ID:7WXC6l7/0588人間七七四年
2008/09/09(火) 15:27:52ID:8Tdn44Hu”味方を取り込まれる”時点で武田勢力が見限られてた、と見る方がいいんじゃない?
少なくとも”豪族の取り込み”が徳川優勢になったのは長篠以降の話だから、
なんらかのturning pointではあったと思うよ。
まぁ長篠以降、遠江に興味を持っていたのが徳川だけで、織田も武田も無関心だっただけかもしれないけど…
0589人間七七四年
2008/09/10(水) 07:21:33ID:oycDrvRz周囲は徳川が包囲しており、年貢がとれる領地を支配したわけではない。
この高天神の城には、武田軍の全領地から歴々の士が大勢入っていたが、
兵糧攻めで苦しんだあげく(周囲から米がとれないことに関係あり)、
勝頼の後詰めがなく(兵糧の補給もない)、
結局、ほぼ全員殺害されてしまい、勝頼は「面目」を失った、とある。
0590人間七七四年
2008/09/10(水) 21:17:31ID:rwAKpgZ7信長の鉄砲隊なんかなかった
長篠の戦いなんか無かった
せいぜい小競り合いの武田の犠牲1.000人程度
だってお、確かに歴史を繋げればそう判断せざるえないわな。
0591人間七七四年
2008/09/10(水) 21:27:46ID:PG0awQ1y騎馬隊なんて戦場ではハンデにこそなれ得する事はひとつもない。
0592人間七七四年
2008/09/10(水) 21:29:11ID:PubdSl+u>せいぜい小競り合いの武田の犠牲1.000人程度
だったら武田の名だたる武将の多くが戦死せんわな。
対して織田徳川連合軍の重臣での戦死者はゼロ。
結果が全てを物語っとるがな。
0593人間七七四年
2008/09/10(水) 21:46:45ID:xXBBWG1aその後は高天神まで見殺しにするほど
威勢も衰えていたわけだしな。
0594人間七七四年
2008/09/10(水) 22:05:50ID:oycDrvRzでも、例外が3人だけいて、指揮するために許可されていたためだが、
他が乗馬を禁止されていたために、この三人はとてもよく目立った、と
信長公記にある。
この場合の馬は、指揮台代わりだな。
0595人間七七四年
2008/09/11(木) 00:55:15ID:skoiz/AM0596人間七七四年
2008/09/11(木) 00:56:28ID:qwcl/Om80597人間七七四年
2008/09/11(木) 00:58:10ID:qwcl/Om8日本人は日本馬に乗って、平将門の時代から騎馬戦している。
戦国時代に限ってそれがなかった、などと考えるほうがおかしい。
0598人間七七四年
2008/09/11(木) 02:46:17ID:mPCBcdEU長篠合戦屏風図が江戸時代に描かれたものだから、鉄砲隊も騎馬武者も
全部ウソだと決め付けるのはおかしい。
江戸時代と戦国時代の馬体に大差が無かったはずで、
戦国時代に騎馬武者が存在しないのなら、屏風が描かれた江戸時代の人々が
必ず騎馬武者はウソだと指摘するはず。
ただし騎馬武者のみで編制された騎馬突撃隊の存在は疑問
織田鉄砲隊の3000挺は信長公記の記述に改ざんのあとがあるというが、
改ざんか訂正かは印刷機の無い時代で判断できないと思う。
また織田方が徳川方に500挺を貸した記述があり
仮に織田方の鉄砲が千挺程度だった場合、半分の兵器を貸すとは
到底思えず やはり2000挺以上の鉄砲が織田方にあったと思う。
3段撃ちは疑問が多いが 装填された銃を取り替えながら発射した記述は
信長公記の今川との合戦の中にある。
発見された銃弾の数がごく少ないことも、合戦後回収されたり年月が経過し
土砂に埋もれたり、流されたりと説明はつく。
まとめれば 武田方の死者数が異常に多いこと、騎馬突撃隊
鉄砲3段撃ちなど疑問は多いが
長篠の戦いで鉄砲が大量に使われたこと
騎馬武者が存在したことは事実でしょう。
0600人間七七四年
2008/09/11(木) 13:55:39ID:1S7l8Vk/等など色々あるけど、やっぱ倍くらいの兵力差じゃないの?
本とかによっては、あたかも3000人の銃士が15000人の騎馬武者(全軍が騎馬武者)に勝ったような言い方をしてる酷いのもあるんだよな。
0601人間七七四年
2008/09/11(木) 17:38:04ID:pDzrhcic長篠の戦いは谷間で行われたのだから、稲刈り後にワラを燃やすがごとく霞んで
その中で、「いくさ場をとったりとられたりした」という一進一退の戦いが
行われたみたいだよ。
武田の本陣から見れば、前方にモウモウと煙りがたって、その中でバンバンと
猛烈な銃声があって、柵の前で押し合いへしあいの戦いが行われているらしいことが
見えたわけだから、そんな状況とあらば、
我も突っ込めと、次から次へと突撃したと思われる。
0602人間七七四年
2008/09/11(木) 21:10:56ID:Jv8kTHer大笑いですね
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています