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長篠・設楽原合戦の真実

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/17(月) 18:10:27ID:C+plg2A7
近年、多くの新説が提唱されている長篠合戦のスレッドです。
0427人間七七四年2008/08/11(月) 22:29:58ID:ewA72rmA
>>425
あまり大きくはないが全体図
ttp://www13.plala.or.jp/naito/nagasinokassennbyoubu.jpeg
0428人間七七四年2008/08/11(月) 22:47:10ID:bLc6eZQ4
>>424
ありがと。
でも内藤って四天王だの信玄の副将だのいわれてるのに
地味な信廉の与力扱いで、やっぱり単独の将として名前がでてこないのかい。

ただそのサイトいまだに勝頼が重臣の意見を無視して無謀な突撃命令を出したとか書いてるのが・・・
0429人間七七四年2008/08/12(火) 10:36:42ID:OfOtI8Cm
>>426
わしもよくそういうこと考える。
兵糧はどうやって運んだのだろう、とか。
ま、前触れがいて、その街道で準備させたのだろうけどそれにしても
寝るところ、米たく鍋、そういうのも含めて大変だったろうな。

で、1日に六合支給って聞いたことあるけど、ちょっと多すぎる気がする。
ほんであまりたくさん配ると、酒にしてしまう、とかあってまとめては
配れなかったらしい。
これは秀吉の大返しあたりの史料だったかな。
0430人間七七四年2008/08/12(火) 17:10:31ID:Bt9Mzm65
>>429

うん。俺たちに刷り込まれてる戦国時代のイメージは映画やドラマ、漫画や小説、ゲームなんかがベースになってて、なかなかそこから抜け出せないところがあると思う。

もっとリアルにいろんな検証が必要だよね。


大量に用意出来て、尚且つ水を含まない状態なら質量が小さいという点でも、この時代には米以外に無かった。ほかにも最低限度の塩分が必要だから塩や味噌などの支給はあった。
現代人の感覚だと六合は多いけど、それ以外に無い時代だからね。

信長の兵農分離なんて言うけど、実際は戦闘を専門とする者の数が多少多かった程度の話。
その内実は他の大名と同じで農家の長男以下だとか流れ者、要するに食いつめ者の集まりですよ。米くらいたらふく配らないと実戦では逃げてしまう(笑)

それにしても三万で一日27トン。馬は高価で曳かせるにも限界があるよね。そうするとほとんど人力ですよ。大八車みたいなのを曳いても歩きでは一日に進める距離なんかたかが知れてるし。

対陣が何日も続けば野宿って訳にもいかない。雨風を防ぐ陣屋も作らないと。実際それ専門の大工も大量に参陣している。

そうすると、三万の兵が活動するには同じ数ぐらいの後方支援がないと無理だし、その三万の内訳も大半が物流を仕事とする「中間さん」じゃないと外征なんて成り立たない。
0431人間七七四年2008/08/12(火) 18:31:00ID:/prcwaau
>>430
日清戦争や日露戦争の輜重隊がどういったシステムで動いていたか、
という部分がヒントになると思う。
確かに興味のあることだから手を付けよう付けようと重いながら結局なにもしてない情けなさ。

ちなみに日清戦争では、輜重に朝鮮人を雇って逃げ出されたという記録があるw
0432人間七七四年2008/08/12(火) 19:57:27ID:kKXnBpI5
人間が米俵かついで運ぶ、ってか。当時の一俵は60kgらしいが、
田んぼの中のコンバインから、袋に入れた30kgの籾を農道の軽トラックまで
運ぶだけでも、すんごい疲れる。
ちなみに、日清戦争や大平洋戦争などで歩兵がかついだ荷物は30kgくらい。
それ以上重いと、ぶっ倒れる兵士が多くなる。というか、人間の体重は60kgくらい
あるから、倒れた兵士は運ぶことができず、その場に放置みたいになってしまう。
(後で回復すれば、追い付くこともできるかもしれないが…)

さて、米俵は馬で運べば、馬の背に左右に一俵ずつ下げて、一度に二俵運ぶことができた。
その馬の図が何かに載ってた。背が折れんばかりにUの字になってたけどな。

馬一頭で、約100kg運ぶことができたと計算すると、10頭で1トン。
100頭で10トン。1000頭なら100トンで3日分くらいの兵糧が運べる。

街道に大量の馬が延々と進む様子は、「これが武田の騎馬隊」と印象付けるだろう。

馬以外では、米みたいな重いものは、舟で運ぶのが一般的だが、
武田の領土には海がなかったし。(あとで駿河を獲得したが)
甲斐や、諏訪から出発するとなると、馬で荷物運びがメインだったろう。
と、たぶん、武田の騎馬隊は実在して、たぶん兵糧運びがメインだったんじゃないかと
推測中。
0433人間七七四年2008/08/12(火) 20:09:21ID:kKXnBpI5
江戸時代の大名行列や、嫁入り行列の図を見ると、
大八車みたいなのは、でてこない。少しはあったとは思うが、メインは
人力で運んでいる。

さすがに米俵は運んでいないが、木箱みたいなのに入れて運んでる。

佐川急便の会社マークみたいに、棒に箱をつけて背中で運んでたり、
長持(ながもち)といって、長い箱に長い棒が付いていて、前後の2人でかついでたり。
(これは駕篭に少し似てるが、荷物専用箱)
兜入れというランドセルみたいなのもあって、兜を入れるだけでなく、お土産とかも
入れたりしたそうだ(江戸時代の話)。
0434人間七七四年2008/08/12(火) 20:14:51ID:Bt9Mzm65
>>432

当時の馬はとても高価。侍格のみが乗馬して移動手段に使用したぐらいだから、兵站にそれだけ使えたかは微妙だよね。

どちらにしても馬の餌も必要になるから、27トン+α。

調達に関しては経済スレで前に話が出たが、現地商人から調達するケースも多かったようだ。当時の商人は想像以上に中立・独立性があった。

それにしても米価は鰻昇りだっただろう。もはや一大イベントだよな。
0435人間七七四年2008/08/12(火) 20:49:42ID:MAB6wsLa
馬と言えば、秀吉の関東征伐の時に、東海道から関東の馬の飼料になる豆の値段が高騰して、
従軍している侍たちは非常に困ったそうな。

良くあの戦を、秀吉の輸送力と物量の勝利などと言う事があるが、実態は秀吉軍ですら、兵糧も含めて
かなり苦しかったらしい。
0436人間七七四年2008/08/12(火) 21:31:19ID:kKXnBpI5
一騎、二騎とかの、騎馬武者用の軍用馬は、とっても高価。
今でいえば、一千万円ぐらいもしたようだ。超高級外車なみ。

でも、駄馬とよばれる荷物運び用の馬は、そんなに高価ではない。
ふだんは農耕用の馬として使う。

大平洋戦争中でも、大量の農耕馬が、軍馬用として農家から徴兵(徴馬?)された。
このような馬は騎兵用には使っていないんじゃないかと思う。単なる物資輸送用。
0437人間七七四年2008/08/14(木) 05:03:06ID:tEEj1QUt
農家から軍馬を集めたときは、こんな様子。大平洋戦争だが。
ttp://www5.ocn.ne.jp/%7Ekurodaaf/sub3.htm
もっとも、戦国時代では、
農閑期で銀シャリ毎日支給&旅行のお祭り騒ぎの一大イベントで
出かけたのかもしれないが。
0438人間七七四年2008/08/15(金) 20:54:45ID:cEyZeH9s
屏風図の信長本陣に、ダビデの星を背中につけた連中が、信長のすぐそばにいるね。
呪術師らしい。
0439人間七七四年2008/08/15(金) 21:43:53ID:RncaQwV5
なんにせよ信心深い時代だから僧侶は必ず同行してるよね。あと太鼓叩いたりする楽隊も必須(笑)

食い物はジャンジャン届くわ、大工がカンカン陣屋を組んでるわ、坊主や宣教師までうろうろしてるわでお祭り騒ぎだな。イメージとしては(笑)
0440人間七七四年2008/08/17(日) 05:43:40ID:rDsbTN2N
長篠日記から、武田方武将の動きを引用しているサイト
http://www3.ocn.ne.jp/~zeon/sengoku/nagasino.htm
・信長は柵外へ一キロほど前進、「大筒」を撃たせて挑発

・馬場隊700は、佐久間隊6000に殺到し、叫び声をあげた
・佐久間は柵前まで戻る

・山県隊1500は徳川隊6000に攻勢、徳川隊は柵内へ(山県隊が一番乗り)
・山県は柵の迂回突破を図るが大久保忠世、忠佐兄弟に阻止され銃撃で戦死

・武田信廉は記載なし、地味に動いたらしい

・小幡隊は馬で柵前まで駆けつけて下馬し、柵の引き倒しを狙う。銃撃で失敗

・馬場隊700は2手に別れゆっくり前進、佐久間隊は柵内に逃げて射撃
・馬場隊の先陣死亡、真田兄弟が入れ替わりに攻めて柵を破るが討ち死に

・佐久間隊が劣勢と見た信長が、滝川隊と羽柴隊に横槍を命じ、武田軍崩れる
・ここまでで織田と徳川の連合も大きな損害

真偽はともかく細かくて面白い
0441人間七七四年2008/08/17(日) 06:27:02ID:wb/jczIY
>>440
昨今の史学の特徴として歴史の平坦化、
(大勝だった戦は僅勝に、凡将だった武将は並将に、意義のあった事業はそうでもなく)
のようなものが行われてる中で、長篠の合戦なんかも、
「3段撃ちはなかった」をはじめとして「接戦だった」だの色々な説が生まれてきて、
この文章もある意味でそれを目的としているんだけど、これを読む限り、
・合戦前に前線で細かく指示を飛ばす信長
・的確な判断で横槍を入れさせ敵を敗走させる信長
・過去の失敗や損害を新たに活かす信長
俺の中で逆に信長の評価が上がってしまったんだけどこれは筆者の意図することなんだろうか。
0442通説には疑問がある2008/08/17(日) 14:06:06ID:xg7tBg5c
長篠の合戦にはいくつか疑問点がある。
織田徳川軍の来援に対して長篠城の攻囲から、主力を割いたのか。割いて対峙しながら、すぐさま攻撃をしかけなかったのか。
そのあげくに長篠城は酒井忠次の別働隊によって解放されてしまう。
又、鉄砲の効く梅雨明けまで決戦を待ったのか。陣地を作られるまえに夜襲をしかけなかったのか。
通説によると、織田来援に不利を悟った部将が撤退を求めたのに、武田勝頼が決戦を強いた結果、あの大敗を喫したと。
しかし、この通説には疑問がある。
信玄死後も武田軍の脅威は去っておらず、前年には直接織田領を侵犯され明智城を失っている。高天神城では織田が決戦を避けて手放した。
徳川に侘びを入れて金を送ったことからも織田が武田を避けていたことは証明される。
この段階で武田側に織田を恐れる理由はなかった。武田としては織田に戦う気があるか否かがむしろ問題だった。
織田がかけつけても、ただ陣を構えるだけで、陥落まで、見捨てるかもしれなかった。
武田としては両面構えで主力が対峙し決戦となれば望むところ。長篠城が落ちれば後詰が役に立たないことで、
三河、遠江の徳川支配が瓦解し、織田の威信も地に落ちる。それでも良かった。
0443通説には疑問がある2008/08/17(日) 14:10:18ID:xg7tBg5c
それまで、鉄砲は部隊にばらばらに配置され、弓に替わる遠戦兵器として、重きをなしていたが、それだけでは決戦においては勝敗は決まらなかった。
敵を隊列を崩し、その崩れたところを槍でけちらすといったあくまで補助兵器にすぎなかった。
信長公記には鉄砲千丁を選抜して備えたとある。織田徳川軍はおそらく二、三千丁の鉄砲があったと想定されるがそれを各部隊に漫然とおかず、
特別に千丁抜き出して武田軍の攻勢点に集中的に活用したと思われる。

武田側からみて予想に反して、一方では陣作りに励みながらも長篠城解放に織田徳川は動いた。
また、信長公記によると織田側から足軽が盛んに挑発をして戦いを求めた。
織田徳川の戦意ははっきりしており、それは武田には望むところだった。急ごしらえとは言え、陣地を突破するには手間がかかる。
しかし、両翼の陣地を崩してしまえば、織田徳川を包囲殲滅するまたとない機会が与えられた。
長篠城解放に兵を割いてくれたことは織田徳川側で兵を分散してくれたまたとない機会だった。

通説とは違い、長篠の合戦とは、織田徳川を撃破する為に武田が望んだ決戦である。その為には梅雨が明けることが必要だった。
又、それを打ち破る為に鉄砲を決戦兵器として集団的に集中使用する史上初の(決戦兵器という意味での)銃撃戦である。

0444人間七七四年2008/08/18(月) 14:20:32ID:l1O5M577
>>441
> 昨今の史学の特徴として歴史の平坦化、
> (大勝だった戦は僅勝に、凡将だった武将は並将に、意義のあった事業はそうでもなく)

それは手法や目的じゃなくて単なる結果だろ。
勝者敗者の区別無く公平に歴史を叙述することが目的で、その手段として科学的分析や詳細な資料批判が行われている。
そしてその結果として、今まで大げさになりがちだった歴史観が修正されているだけ。
0445人間七七四年2008/08/18(月) 16:15:25ID:Vml1kB9L
>>444
大勝や凡将っていう対象は歴史学者の白羽の矢に立ち易い傾向はあると思うぜ。
0446人間七七四年2008/08/19(火) 01:56:38ID:zqsrw3Fp
まぁ歴史観と言うのはその時代の政治情勢に左右されるからな。
戦前は秀吉の朝鮮行きが過剰に賛美されたのに戦後は過剰に貶されるみたいに。

そういう政治的な偏りを是正しようってのが今の流れだろ。
0447人間七七四年2008/08/19(火) 11:54:19ID:OiOqgQ0e
だもんで、大げさになりがちなのを修正することが、平坦化、ということだと思うが。

これには、出るくいは打つ、という目的や、日本人の偉業や英雄は認めたくない、またはもっとすごくて
「個人の努力は認めたくない」つまり「法隆寺を作ったのは大工さん」的な「思想」を
ものすご〜く感じるぞ。

わしら爺はそのあたりの戦後60年の流れを感じるから、政治的な偏りに加えて
単に史学会のいやらしさをも感じる。
そういう中にいる人は絶対に認めないだろうけど、外にいるとよくわかることもある。
0448人間七七四年2008/08/19(火) 13:48:38ID:zqsrw3Fp
>>447
歴史と言うのは様々な事象が互いに影響しあって生まれるもの。
より詳細に資料を読み解いていけばその事象にかかわる人間の数が増えていき、
相対的に一人一人の比重が軽くなるってだけの話だろ。

いわば野球を監督だけで語るのが今までの歴史観で、
選手一人一人からフロントの動きまで網羅的に語るおかげで監督の役割が相対的に小さくなるのが今の歴史観だ。
0449人間七七四年2008/08/19(火) 16:01:25ID:6r2jlXd9
それがね、おかしくなる元じゃないか。
つまり、イチローがヒット打ったのは、裏方さん、トレーナー、広報、用具係
果てはバット、スパイク、そういうのものまで研究して、個人の能力、努力が
おざなりになっていくんだよね。
こういうのは、縦割り学会の弊害、細分化しすぎた研究の弊害、でいわば
「盲人象に触る」になっていく。

いくらフロントの動きをさぐっても、現実にその場でサイン出すのは監督だし
行動するのは選手。

あくまで、視点、の話であって、是非、善悪、じゃないから
そこはよろしくな。

いろんな裏方さんががんばってのはすごいと思うし、イチローだって
感謝してる。ただそれを、視点の中心にまで持ってきたり、裏方さんの力で
ヒット打てた、みたいな解釈すると全体の理解がいかしくなる、という話な。
0450人間七七四年2008/08/19(火) 18:03:08ID:GoGiYtV0
今の再検証の風潮は、信長の功績を誹謗するものでもないと思うけどなぁ。
単純に”神格化”されていたものが、”人間”信長になってきただけで。それゆえ凄みもましてると思うよ。

戦術的(戦死者の数etc..)にどうであれ、戦略的に見たら、
武田軍の野戦軍を壊滅し、徳川領にかかってた軍事的圧力をなくして、
以後逆に徳川軍だけで侵攻できる状況にしたことこそが長篠合戦の最大の結果だと思う。
0451人間七七四年2008/08/19(火) 18:37:02ID:6XW+0XXh
徳川側から見たら、主戦はこっち、みたいな言い方をしてるけど、このあたりはどうなんだろう。
もちろん公記なんかは徳川は助勢、みたいな感じなんだけどね。

再検証とまでは言わないけど、信長が戦の達人みたいな言い方にもちょっと
疑問があるので、徳川の言い分もよく理解できる気がする。
0452人間七七四年2008/08/19(火) 21:35:52ID:IzxYphxU
馬防柵への突撃および銃撃で大損害を出したのは、長篠以前の戦いで、
織田軍がすでに経験してるよ。
それは、大阪の石山本願寺への攻撃。

1万の軍勢と、「数千丁の鉄砲」で武装された本願寺に総攻撃をかけたのだが、
棒で柵を作っただけの防衛線が、どうしても突破できない。
突撃を繰り返し、馬防柵の前で死体の山を築く織田軍。
ついには攻めの総大将まで鉄砲に撃たれて死んでしまう。
0453人間七七四年2008/08/19(火) 21:40:38ID:IzxYphxU
>>451
大須賀記というのがあるよ。

藤本正行氏の文庫本に、その要点が載ってる。
長篠屏風の解説なども詳しく載っていて、内容的にも一級。
0454人間七七四年2008/08/19(火) 21:57:28ID:zqsrw3Fp
三段撃ちとかの小手先の技術じゃなくいて、
戦略的な行動で勝ちを得たってことだしな。

>>449
でもイチローがいくら打ってもマリナーズは勝てないし。
0455人間七七四年2008/08/19(火) 22:00:11ID:VrReevNi
>>453
さんきゅ。
藤本の文庫本ってなんだろ、さがしてみるね。

確か戦闘自体は織田徳川軍の勝ちだけど、勝頼の首は取れなかったのだよね。
このあたりも、徳川側は批評してなかったかな。
姉川もだけど、信長はどうもこういう勝ち方が甘いと言うか、言われてるほど
きっちり勝ちきってない戦いが多い感じもする。
スレチになっちゃうかな。
0456人間七七四年2008/08/19(火) 22:12:06ID:IzxYphxU
信長の戦争『信長公記』に見る戦国軍事学
講談社学術文庫藤本正行(著者)文庫
定価 ¥1,050

>>440
そのサイト、読んでみたけど、長篠日記も含めて
かなり怪しげ。
0457人間七七四年2008/08/19(火) 22:19:20ID:o3KKjd72
>>455
何いっているんだ、十分大きな、きっちり勝ちきった戦いだよ。

あなたは敵の総大将(大名レベル)を討ち取らないと勝利と看做さないんですか?
そんな基準で言ったら戦国時代でも片手の指で数えるくらいしかなくなるし、
信長だけでなく信玄謙信含めてみんな「きっちり勝ちきってない、勝ち方が甘い」
となるよ。
0458人間七七四年2008/08/19(火) 22:28:23ID:x33jcvmS
>>457
大名自らが戦のさなかに討たれるなんてそうめったにあることじゃないからな。
今川義元や竜造寺隆信など、数えるほどしかないのに、でないと勝ちでないという定義は
無茶ですよね
0459人間七七四年2008/08/19(火) 23:22:28ID:VrReevNi
>>456
あ、新書と間違えてた。ありがと。

>>457
ちゅうか、どちらも追撃すれば敵将の首が取れるぐらいだったでしょう。
実際に家康は、追撃を主張、したのに、信長がもういい、みたいな感じじゃなかったかな。
戦国と言うぐらいで、大将の首逃したらそっから逆転されるかもしれない、家康なんかは
それを知ってたから豊家を完全に滅ぼした。
そういう意味からの、勝ち方が甘い、勝ちきってない、という表現であって
別に信長の評価を下げようとしてる意味合いはまったくない。

>>458
勝ちじゃない、とは言ってませんよ。
勝ちは勝ち、圧勝なんだけど、そこから敵を完全に滅ぼすまでに
さらに何年もかかってるでしょう。
「実質首取らなくても無力化してるからいい」という論もよくきくけど、
やっぱり先に言ったように、そういうところから何が起きるのかわからないのが
戦国時代。
信玄や謙信たちと違って、家康との連合軍で圧勝、なのに追撃を中途半端に
すませ敵将の首を取らなかった、こういうのを表現したわけね。
家康なんか関が原できっちり追撃して三成やエケイやらつかまえてるからね。
こういうとこも家康は、先人から学んでるな、と思うし。

繰り返すけど、信長の悪口とか評価を下げる、という意味ではないからね。
他の武将からみたら、はるかに強力な武将、なんだけど、秀吉、家康ほどの
エグさが薄いというかね。
ま、やる時は長島とか叡山攻撃とかやってるだけに余計に気になったりして。


0460人間七七四年2008/08/19(火) 23:25:48ID:ynfdUvki
姉川の戦いは織田徳川軍の圧勝→引き分け

義に厚く争いを憎む上杉謙信→戦いが大好きな欲深い男

計算済みだった桶狭間の戦い→偶然の産物

無能の北条氏政、武田勝頼→名将

確かにずいぶん変わってきたよな
0461人間七七四年2008/08/19(火) 23:49:15ID:o3KKjd72
>>459
長篠における武田側の使者は、ほとんどが追撃戦で討ち取られている。
信長は「これ以上の追撃は無用」と切り上げたのであって、実際勝頼は安全圏まで
逃げ切って、深追いした織田徳川の側では逆撃をくらった部隊もあった。

別に信長は追撃を控えたわけでも、勝頼を故意に逃がしたわけでもない。
この場合は追撃を振り切った勝頼と、抑えた武田の殿を褒めるべき。
0462人間七七四年2008/08/19(火) 23:57:44ID:FD5fnWhH
>>459
>ちゅうか、どちらも追撃すれば敵将の首が取れるぐらいだったでしょう。
なんだろう、>>459怖い。
0463人間七七四年2008/08/19(火) 23:58:22ID:ynfdUvki
関ヶ原のそれとは全く意味が違う
関ヶ原のときは西軍以外に敵はいないが長篠の戦いは武田以外にも敵はいる
潰すときに一気に潰すのが信長のやりかただったじゃん
浅井朝倉も泳がしといて、時が来たら一気に壊滅させてる
壊滅のときは浅井朝倉も織田の調略でぼろぼろだったよね
晩年の武田もそうだったし、上杉も信長が生きてたら新発田らの働きで滅んでたろうし

0464人間七七四年2008/08/20(水) 01:06:40ID:pJLMRYZs
>>463 一瞬考えちゃったわ!なんで柴田だけあて字なんだよ。新潟に新発田ってもあるからそっちかと思った!
0465人間七七四年2008/08/20(水) 08:41:03ID:ApmiKMho
どっちでも合ってるし
0466人間七七四年2008/08/20(水) 10:24:44ID:j3VvnwfR
長篠に関しては461が正解だが、浅井朝倉を泳がせた、というのはかなり
無理がある。
家康が追撃を主張と言うのもこっちで、途中までは追撃したのだったかな。
0467人間七七四年2008/08/20(水) 19:26:00ID:n8bCzDI2
追撃しまくっただろうが。だけど小谷城内に逃げ込まれてしまった。
この峻険な山城を、追撃して落とせってか!?。

損害でるのは確実だから、だから包囲していったん終わり、じゃん。

力づくで攻め落とさなくても、同様に峻険な山城の横山城は、
降伏して開城しているし。

長篠の戦いでも、織田は大軍で追撃してるよ。そして、川岸で2000人ほど
討ち取っているが、武田のしんがり武将が名・采配をふるって勝頼を逃がしたので
その時点で長篠の1日は終わってしまった。

殿(しんがり)武将の名は、馬場民部。長篠の屏風図で、一番右上にいて、
ヤリで突き殺されている様子が書かれている。
0468人間七七四年2008/08/20(水) 19:31:12ID:n8bCzDI2
一番右上じゃねーや。その左側だ。
0469人間七七四年2008/08/21(木) 16:18:19ID:vazDu/l9
長篠屏風って、そこまで事実を忠実に再現している、というのが
今の定説なのか。ふーむ。
0470人間七七四年2008/08/21(木) 18:30:42ID:y7Jo2K8T
教科書に載っている長篠屏風って、
元は家臣に伝わっていた屏風図を、
それを江戸末期になってから徳川家が写したもの。

信長公記を元に書いたのかと思ったら、馬場民部の討ち死場所は信長公記に
載って無いのに、屏風には書かれている。←甲陽軍鑑を元にしたのかもしれないが。

家康の本陣は、小高い丘の上にあったが(図では背景の都合で丘の下に書いてある)
丘は、実際には古墳。他の独立丘の丸山?も描かれてたりで、
独自かつ正確な情報がかなり含まれているから、無視はできない。
ひと昔前は、馬防柵の前に徳川軍が出て撃っているから不自然、と指摘されていたが、
今では、徳川軍が柵の前に出たことは正確ダと言うことが判明している。(織田軍は出なかった)
0471人間七七四年2008/08/21(木) 22:33:39ID:Z+XjAer6
元の家臣のはどうなったんだろうね。
江戸期に書かれたのはやっぱり、徳川主戦、の立場で書かれてるから
そのあたりの事実関係を、屏風から判断する、のはどうなんだろう、と思って。
0472人間七七四年2008/08/21(木) 22:44:05ID:MVglYZez
>>441
> ・的確な判断で横槍を入れさせ敵を敗走させる信長
いや、戦争の数が多い分負け戦もそれなりにあるから一部で変なイメージあるけど、
信長は普通に戦つよいぞ。特に敵の隙を見つけた時に一気に勝負を決めるのが。
刀根坂辺りからの一連の朝倉壊滅戦なんてその代表的なものだろ。
気が短いイメージあるけど、鳴くまで待とうホトトギスは家康より信長の方がよっぽどあってると思う。
若い頃の家康の方がよっぽど短慮だし血の気が多い。

>>440
> ・武田信廉は記載なし、地味に動いたらしい
ワロタ。結局逍遙軒は空気ですか。
0473人間七七四年2008/08/21(木) 22:46:29ID:nA3clidC
>>472
ついでに言うと「鳴かぬなら殺してしまえ」は、秀吉だよなあ。
0474人間七七四年2008/08/21(木) 22:50:00ID:/KtPKSoJ
じゃあ信長は、
鳴かぬなら 気分で決める ホトトギス
0475人間七七四年2008/08/21(木) 22:54:18ID:bOn7HFQT
連合軍も被害は甚大だったらしいけど名のある将ってあまり死んでないよね
0476人間七七四年2008/08/21(木) 22:57:24ID:bhbXIBB1
>>475
前線に出てないからだろ。
0477人間七七四年2008/08/21(木) 23:03:17ID:leG80vg9
松平家忠の親父が死んでるな
0478人間七七四年2008/08/21(木) 23:08:10ID:bOn7HFQT
その松平って砦を攻めたときに死んだんだっけか

武田側だけ侍大将級が死んで連合軍にはほとんどいないんじゃ
五分の戦いって言われてもどうもいまいちピンと来ない
0479人間七七四年2008/08/21(木) 23:30:05ID:y7Jo2K8T
逍遙軒は役立たずかといえば、信玄の肖像画書いてるからな。
0480人間七七四年2008/08/21(木) 23:34:58ID:Z+XjAer6
わっはっは、確かに、殺してしまえ、は秀吉だな。
それを上司にすりかえたのがさすがのテクニックか。

信長で笑うのが、稲生の戦い。
なにせ「大音声」で勝ったって、これ、どうして研究家はつっこまないのかな。

勝った戦いをあとから見たら強くて当然。
長篠はどうしても、家康主戦、で判断したいところがある。
信長は姉川に続いて、ラッキ、だったような。
0481人間七七四年2008/08/21(木) 23:37:26ID:M9fpViAU
数で負けてた武田軍は、根性見せて頑張ったな。
開戦前から士気も数も負けてて
(実際問題敗北したが)
そんなんでも総大将を戦線から離脱させた。
その結果多くの武田家家臣を失ってしまったが、それは当然のことであり
何の問題もない。
あのボロボロの敗走状態で総大将を離脱させたのだから、武田家家臣団が優秀なのはたしか。
0482人間七七四年2008/08/21(木) 23:47:53ID:UK4XRMxg
>>480
つっこむほどの明確な根拠もないからでしょ。
それに、大音声だけで勝った、敵が逃げ出したなんて書かれてもいないし。
0483人間七七四年2008/08/22(金) 01:15:38ID:ty0WMJiJ
>482
そだったっけ?
数で半数以下なのに、しかもヤバいとこで「大音声」したら、敵が迫力に
おののいて敗走、したんじゃなかったっけ。

ま、研究家がつっこまないのは、首巻自体が「ヤバい」ということであえて
スルーしてるんだろうが。
文献主義、というのは大変だな。
0484人間七七四年2008/08/22(金) 01:50:14ID:Qmhrys27
三河で一向一揆が起こったとき家康が出陣したら一揆側に家来が居て戦わずに逃げたっていう話がある
これと同じだね、主君は討てない
やる気満々だったのは林美作と信勝のみじゃね?
0485人間七七四年2008/08/22(金) 06:41:47ID:qD1T7Gb3
>>484
諸葛亮没後、魏延は諸葛亮の遺命に従わず楊儀らと対立するが、王平が魏延の軍勢を一喝すると魏延の軍勢は離散してしまった。
これと同じだろうね。
非は自分たちの大将にありという認識を兵卒が持っていた。ために戦意を喪失してしまった。
こんなところだろう。突っ込むようなところではないと思う。
0486人間七七四年2008/08/22(金) 17:26:49ID:ty0WMJiJ
う〜ん、家康の一向一揆とはちょっと事情が違うような。
信行が反抗した時点で家臣とかその下の一般兵も
家内での争いと言う認識は十分にある。

それと少なくとも700人ずつが戦っている最中に少々の大声出したって
末端まで聞こえるわけはない。信長は大声だったとは言うけど。

大体、そこでビビって逃げたって待ってるのは報復とか
何があるかわからない。
一般兵から見たら主君はあくまで信行だし、それを裏切って戦意喪失もなかろう。

つっこむ、というのは「大音声」自体であって、そんなのが勝因というのも
不思議とは思うけどね。
黄門様の印籠みたいなのは、平和な世だからありうるわけで、戦の最中に
「非は信行にあり」と大音声したって「はぁ?」というのが普通だろうけど。
ましてや不利なほうがね。
ま、スレチだから、細かい話はやめておこうか。
0487人間七七四年2008/08/22(金) 18:46:41ID:fihMCOyT
よくわからんけど戦意喪失とはいかなくとも、相手の士気を多少はくじいて
味方の士気を一気に鼓舞して上げたくらいの効果はあったってことでいいんじゃないの?
少数の兵士同士が戦ってたらどうしても気合の入ってる方が勝つだろうし。
(でも確か信勝勢が兵数的には圧倒的に有利だったはず)。

あと一般兵は後継者争いだからこそまだ織田信勝が主君という実感はないかもよ。
一応林家とか柴田家の家人だから流されてたら
いつの間にか信長と敵対しちゃってるよオイオイ、これでいいのかよ、って感じで戦ったたかも。

本題に戻って、
名のある大将が一人も死んでない時点で、織田軍の被害が数千てのはあやしいよなぁ、さすがに。
0488人間七七四年2008/08/22(金) 19:29:21ID:ty0WMJiJ
いろんな戦があるけど、戦死者何人とかいうのは確定できないだろうね。
受験用の歴史勉強だと、そういう数字とかにこだわるのはわかるんだが
なんか、歴史が暗記科目になってしまってるようで、ちょっと残念ではある。
0489人間七七四年2008/08/22(金) 19:36:37ID:Ttg9AFiX
戦死者の確定できる戦なんて、現代にいたってすら存在しないしね。
すべて「推定」の世界。
0490人間七七四年2008/08/22(金) 20:01:20ID:AFLWwaQP
つーか長篠なんて
鳶ノ巣山砦が健在かってだけしょw
武田が戦闘を起こしたのも織田徳川を攻撃して
後を慕わせないようにするためだけの行動
鳶ノ巣山砦が無事だったら、戦闘もしないで撤退できた。
結局、武田は戦闘する気は全くなく顔見せ程度の威嚇のつもりが
退路を断たれて、仕方なく突撃したってとこでしょw
まー勝頼の凡ミスだわなw

0491人間七七四年2008/08/22(金) 20:02:16ID:ty0WMJiJ
そそ、ちょっとスレチで悪いが、桶狭間の今川軍は
どのくらいだったと思う?
2万人もいなかったんじゃないかと思うんだが。
0492人間七七四年2008/08/22(金) 22:51:02ID:011dBCGc
そのスレはこちらへ。
桶狭間の合戦の真実について その2
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1207682585/l50
0493人間七七四年2008/08/22(金) 23:13:53ID:ty0WMJiJ
さんきゅ。
0494人間七七四年2008/08/26(火) 22:55:20ID:yHwl+O7j
漫画のセンゴクはどの説(ネタ)で来るか楽しみだな
0495人間七七四年2008/08/27(水) 07:25:11ID:XI13VxQX
センゴクの内容は、ちとヘンテコな傾向があるのであてにならんな。

高天神城が武田軍にとられたときの描写では、信長の軍勢が来ないからといって、
徳川の使者は、織田の城内!で「武田軍側に寝返ってもいいのですな?」という
意味のセリフを連呼してるし。

陣幕の武田菱は、花菱でなく、どでかい四角の菱だし。
0496人間七七四年2008/08/27(水) 16:10:44ID:WxjRIwdj
マンガにつっこんでどないすんねん。
0497人間七七四年2008/08/27(水) 17:55:30ID:XI13VxQX
騎馬隊がいるかいないかについてだけど、
長篠の屏風はひとまず置いといて、
小牧長久手の屏風図では、騎馬武者がたーくさん描かれている。
騎乗したまま、戦いまくっている。
0498人間七七四年2008/08/27(水) 18:11:45ID:VvhdqxeB
長篠での家康の軍令書に「武田の騎馬隊に気をつけろ」ってのがあるわけだが。
0499人間七七四年2008/08/27(水) 19:14:04ID:wAjgNOe4
そりゃいたでしょ
ドラマほど占める率は大きくないだけで
0500人間七七四年2008/08/27(水) 19:48:50ID:gc83/njG
でも武田の最強部隊は
長やり隊
騎馬は荷物運び用
0501人間七七四年2008/08/27(水) 20:01:58ID:XI13VxQX
兵の訓練だけど、実戦を積まなきゃ強くなれんのさ。

実戦の経験というのは効果大。

まあ、消防団の訓練で例えるというのもナンだが、実際の火災出動などで
10数年も本番の出動をやっていると、やり方がわかってくる。
入って1、2年の隊員は人数として揃っていても、実際の現場では何も
わからんわな。
0502人間七七四年2008/08/27(水) 20:10:49ID:IL3/i7Zz
籠城軍のような陣容で、3倍近い敵に突撃したら、いくら強いと言われてる軍でも勝てる訳ないよな。

長篠の織田・徳川軍 対 三方ケ原の武田軍(信玄が居る)が戦ったら勝敗が想像つかんな。
これじゃあ、なんかどっちも仕掛けなそうだけどな。
0503人間七七四年2008/08/27(水) 20:36:33ID:XI13VxQX
徳川軍1万だから、武田軍は3万くらい用意する必要があった。
これなら、武田軍は勝てる。(戦術も大事だが。)

同じ例として、秀吉の北条攻めを挙げてみる。
このときの北条氏は、なんと240万石もある大大名だった。
1万石あたり300人の兵の割り当てとすると、北条氏の動員は7万人くらい
あったことになる。
これを撃ち破るとなると、3倍の人数があれば大丈夫のようだが、
となると、秀吉は、20万人もの軍勢を集めざるを得なかった。
0504人間七七四年2008/08/27(水) 21:18:46ID:rmC25BHZ
>>502
信玄なら雨が降るまで我慢するか長篠合戦のような状況にしないと思う
0505人間七七四年2008/08/27(水) 21:36:26ID:VvhdqxeB
>>504
信玄なら織田が岐阜を出たと言う情報をつかんだ瞬間に、とっとと帰国しただろうな。
0506人間七七四年2008/08/27(水) 22:04:02ID:IL3/i7Zz
>>504
やっぱそうだよな。
0507人間七七四年2008/08/27(水) 22:06:18ID:IL3/i7Zz
>>505
まあ、あんな状況にはならないだろうね。
0508人間七七四年2008/08/27(水) 22:43:15ID:gc83/njG
つーか長篠なんて
鳶ノ巣山砦が健在かってだけしょw
武田が戦闘を起こしたのも織田徳川を攻撃して
後を慕わせないようにするためだけの行動
鳶ノ巣山砦が無事だったら、戦闘もしないで撤退できた。
結局、武田は戦闘する気は全くなく顔見せ程度の威嚇のつもりが
退路を断たれて、仕方なく突撃したってとこでしょw
まー勝頼の凡ミスだわなw
0509人間七七四年2008/08/27(水) 22:45:02ID:qnO6SRGG
信玄は「将たるもの50を過ぎたら、負けぬように工夫して戦に挑むべき」
と言ってるくらいだしな。
0510人間七七四年2008/08/27(水) 23:33:12ID:eDwfx3rZ
>>500
荷駄と馬上は別けて考えろよ
0511人間七七四年2008/08/27(水) 23:40:55ID:XI13VxQX
そりゃ、荷駄は重い荷物を運んでいるのだから、とても戦えないわな。

長篠戦のときは、鳳来寺あたりに兵糧を集積したのだろうか。
0512人間七七四年2008/08/28(木) 00:12:08ID:zvFFuXnp
>>510
武田の騎馬隊は存在したのはした
実際、騎馬隊の使い道は
戦況が決した時に
宣伝で赤備え隊などの騎馬隊が戦場を
駆け回り敗残兵に恐怖を与えた宣伝活動w
武田が実際強かったのが
長槍部隊で
騎馬が有名になったのは
武田領内は荷駄などの通路を整備していて
馬などを利用した兵の移動が素早かった
武田の真の強さは
相手より先に戦場に到着して出鼻を撃つ
スピードにあったわけ
0513人間七七四年2008/08/28(木) 00:16:54ID:1ohVG6su
誰の説?
0514人間七七四年2008/08/28(木) 00:25:38ID:G4pZJsX6
>>512の脳内のみで主流の説だろうな。
0515人間七七四年2008/08/28(木) 06:06:05ID:Z8mEnaw6
ローマ人の物語が混じった甲斐の国だなww
0516人間七七四年2008/08/28(木) 21:27:27ID:uNE73QvB
勝頼ファンと勝頼自身にはちょっと悪いが、俺の脳内ではドラえもん風だとこう見えた。

勝頼=のび太
信長=ジャイアン
家康=スネ夫

信玄=ドラえもん
謙信=出来杉
0517人間七七四年2008/08/29(金) 07:42:05ID:L4wAT09r
>>516
おお、おもしれーな。
0518人間七七四年2008/08/29(金) 14:47:04ID:LZQYPXp2
実はこの戦いでの鉄砲の数は、徳川の部隊のほうが織田より多かったりする。
0519人間七七四年2008/08/29(金) 18:57:55ID:Ch1B1tQc
本当?。ざっとでいいから、どのくらいだろう?。
0520人間七七四年2008/08/29(金) 19:26:24ID:NyKvyZ/D
公記と実紀では違ってたんだったかな。
どっかに詳しいのがあったような気がするんだが。
0521人間七七四年2008/09/01(月) 19:34:20ID:ieytH+bI
武田信玄のゲームはこれで決まり。
おもしろすぎるよ。
キャンペーンの三方ヶ原から後半を猿のようにやりまくる。

http://www.4gamer.net/games/001/G000112/
0522人間七七四年2008/09/02(火) 20:13:02ID:99erH2PX
日本ミステリーでは武田騎馬部隊も織田鉄砲部隊も無かったらしいですwwwwwwwwwwww


じゃあなんで武田は滅んだんでちゅか?
0523人間七七四年2008/09/02(火) 20:22:57ID:6hL/HelI
>>522
バラエティに反応しても
0524人間七七四年2008/09/02(火) 20:33:15ID:0HeIGcsH
玉はリサイクルとして考えられるし
武田武将の死地は敗走時に追撃された場と考えられるし
徳川方の記録は勝者の言い分と考えられるし
手取り川の正否には突っ込んでないし

まぁ…バラエティだわな
0525人間七七四年2008/09/02(火) 20:47:28ID:fk3HB0Ij
>>522
何を今更…





この戦国板じゃとっくの昔に説破された通説じゃん
0526人間七七四年2008/09/02(火) 20:50:09ID:BncCW7GV
ポニー厨わんさか
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