>>305
上で言ってるように武田が最初に考えていた決戦と
鳶の巣攻略後の決戦は意味が異なるって言ってるのだが。
前者では上に挙げたような何らかの手段で戦う積りで
後者では包囲を防ぐためにも一刻も早く連合軍を蹴散らすかして
長篠から離脱するための戦いをする決意をしたということ。

>それとも、武田軍は当初は決戦のつもりはなく様子見で小当たりしていた程度だったが、鳶巣陥落を知って急遽
>決戦に切り替えたと?
決戦をする積りではあったがそれは武田に有利な状態での話しで
武田側は21日早朝の時点では正面からぶつかる積りは無く、鳶巣が攻略されて急遽
決戦に切り替えたというか戦わざるを得なくなった、と自分は考える。


話しは変わるが長篠は西から
連合軍の陣地、連吾川、武田陣地、五反田川、有海原、寒狭川、長篠
となっているわけだが
『信長公記』だと18日滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀が有海原に進出して寒狭川を
隔てて武田と対陣、で武田も有海原に進出、
その後20日夜となって連子川で対陣していることになっているが、
武田は滝川らを蹴散らしたのかどうか?
ただ20日付けの長坂や三浦への書状だと、連合軍を押し詰めて、
相手はどうすることも出来なくなっている
とかなっていて、織田の先手を打ち破ってこの調子で戦っていれば勝てると考えたのか?

でも織田側は牛一が寒狭川を渡らなきゃ良かったのにとか
20日付け細川宛書状でこの機会に殲滅するようなことを書いているから
上手く誘き出されたと見るべきか