長篠・設楽原合戦の真実
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:10:27ID:C+plg2A70305人間七七四年
2007/09/21(金) 21:48:07ID:aL4BL8Avだから、記録では鳶巣が攻略されたのは(少なくとも勝頼がその事実を知ったのは)決戦が始まってからですよ?
それとも、武田軍は当初は決戦のつもりはなく様子見で小当たりしていた程度だったが、鳶巣陥落を知って急遽
決戦に切り替えたと?
…自分で言っておいてなんですが、この可能性もたしかにありますな。
だとすれば、決戦に誘引した信長の手腕もたいしたものですが。酒井隊の派遣も、武田軍が川を渡ってから、
つまり鳶巣に緊急事態が発生しても援軍を出すのが困難な状況になってからですし。
0306人間七七四年
2007/09/22(土) 00:02:36ID:Zb/tGiK9上で言ってるように武田が最初に考えていた決戦と
鳶の巣攻略後の決戦は意味が異なるって言ってるのだが。
前者では上に挙げたような何らかの手段で戦う積りで
後者では包囲を防ぐためにも一刻も早く連合軍を蹴散らすかして
長篠から離脱するための戦いをする決意をしたということ。
>それとも、武田軍は当初は決戦のつもりはなく様子見で小当たりしていた程度だったが、鳶巣陥落を知って急遽
>決戦に切り替えたと?
決戦をする積りではあったがそれは武田に有利な状態での話しで
武田側は21日早朝の時点では正面からぶつかる積りは無く、鳶巣が攻略されて急遽
決戦に切り替えたというか戦わざるを得なくなった、と自分は考える。
話しは変わるが長篠は西から
連合軍の陣地、連吾川、武田陣地、五反田川、有海原、寒狭川、長篠
となっているわけだが
『信長公記』だと18日滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀が有海原に進出して寒狭川を
隔てて武田と対陣、で武田も有海原に進出、
その後20日夜となって連子川で対陣していることになっているが、
武田は滝川らを蹴散らしたのかどうか?
ただ20日付けの長坂や三浦への書状だと、連合軍を押し詰めて、
相手はどうすることも出来なくなっている
とかなっていて、織田の先手を打ち破ってこの調子で戦っていれば勝てると考えたのか?
でも織田側は牛一が寒狭川を渡らなきゃ良かったのにとか
20日付け細川宛書状でこの機会に殲滅するようなことを書いているから
上手く誘き出されたと見るべきか
0307人間七七四年
2007/09/22(土) 01:15:29ID:FNuHxcVP蹴散らしたと思うよ^^
何度も引用して申し訳ないけど
戦後の勝頼の書状に
三州長篠之地取詰候処、織田・徳川為後詰打出候条、累年之願望令満足候間、
即時ニ乗懸逐一戦、宗者数多打捕、乗其利信長至陣前押寄候処、構陣城籠居候間、入人数之砌、當手之先衆聊失利候
即時ニ乗懸逐一戦、宗者数多打捕、乗其利信長至陣前押寄候処
と緒戦で勝利を収めた事を書いている。
あと、>>304にある長期戦を挑むなら、滝沢川を渡る意味はないと思う。
0308人間七七四年
2007/09/22(土) 01:21:31ID:Zb/tGiK9長篠落城→織田徳川撤退→武田追撃
の流れを狙うとすれば織田徳川の近距離にいないと追撃で大きな被害を与えられない
ってことになるんじゃ
0309人間七七四年
2007/09/22(土) 03:44:55ID:tLEq1Dxh騎乗指揮官と別に、部隊として騎馬隊はあった。
鈴木の本は見てわかるように、荒唐無稽なこじつけだらけ。
騎馬突撃に関しては原則従卒は戦闘に参加しないようだが、
中世欧州の騎士のように従卒が突撃に後続したりしなかったんだろうか?
ここがくわしい
次々と通説を打ち砕く鈴木真哉・藤本正行について 2
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1169131109/l50
0310人間七七四年
2007/09/22(土) 08:04:56ID:75/2Rs5Kいくらなんでも長篠城陥落前から追撃戦の話になるのは無理があるだろ?
仮に長篠城の押さえとして残してきた3000人で長篠城落とせるとも?
あと連合軍にとっても長篠城が陥落したとしても、武田の倍以上の兵力があるのですぐに撤退の話にはならずありとあらゆる手をつかって武田軍を引きずり出して撃滅するだろ。信長にとってもこの機を逃すと苦境から脱出できない思いもあっただろうし。
0311人間七七四年
2007/09/22(土) 08:21:05ID:KrOhLt7Iのか?
戦術家としては1流の勝頼が2倍の敵との決戦を望んだのはなぜ、以前
はお互いが何度も回避しているのに
0312人間七七四年
2007/09/22(土) 12:08:54ID:GIMpAyjg勝ってた可能性ももあるし
被害減で撤退できたかも知れない
0313人間七七四年
2007/09/22(土) 13:19:13ID:+M6pROib遠目じゃ戦闘員と輜重員の識別も難しいし。
そもそもWW2のような現代戦でさえ当時報告された概算敵戦力と
実際の戦力が全然違うというのは良くある話。
制空権を完全に握って存分に航空偵察できた米軍でさえそんなレベル。
当時の武田方も敵が「大軍」であることは認識してただろうが自軍より圧倒的
優位とまで認識していたかどうかは疑わしい。
当時の長期行軍が将兵に強いる体力負荷が馬鹿にならないことを考えれば、
敵に体力を回復する間を与えないことで少々の戦力差なら充分カバーできると
判断しても常識的な戦理の範囲内だろう。
織田方が背後に別の戦線を抱えながら主力をほぼ振り向けてきたというのが
想定外だっただけで。
実際この時の織田方は戦略予備を使い切って西や北から大規模攻勢に出られたら
京を奪われかねない危険な状態だった。
結果的に何も起こらなかったからこの点は無視されてるが。
0314人間七七四年
2007/09/22(土) 14:28:04ID:FNuHxcVP長篠に付け城と僅かばかりの兵を残しているだけだから、明らかに長篠攻略を後回しにしている。
>>309
論破されてないよ^^;未だに議論してる^^;
鈴木さんのは結構、こじつけやら主観も入ってるけど
色々と調査はしてるから、参考にはなる。
>>311
正確には把握していなかったと思うけど
長坂光堅から甲斐国内では信長が出馬した事に対する不安を伝える書状が勝頼に届いてるから
大軍が来たのは分かっていたと思う。
ただ前年に長篠の一向一揆が鎮圧されて畿内の反信長勢力は石山本願寺のみ。
このまま決戦を先延ばしすれば、いずれ「武田征伐」を受ける事が分かってたから
決戦を決意したんじゃない??
>>313
確かに、あの当時は兵力の算出はテキトーだもんね^^
だから未だに、長篠の兵数展開でも議論が行われる^^;
反信長勢力については天正五年の時点で畿内の反信長勢力は殆ど潰されてる。
長篠合戦後、細川家への戦勝報告で、後は石山本願寺のみだからチョロイという手紙を送ってる。(ゴメン^^;原文をメモってたけど紛失^^;)
当時、石山本願寺を信長はかなり侮ってたからね〜^^;
まさか強敵だとは、認識してなかった模様。
0315人間七七四年
2007/09/22(土) 15:04:41ID:tLEq1Dxh議論というか、鈴木はアマチュア史家だから学会からは最初から黙殺されてるし
同じアマからも腫れ物扱いでは・・・
プロレタリアイデオロギーに無理やりこじつけたりするのは勘弁して欲しいよw
白兵主義うんぬんも旧日本軍を叩きたいだけなんじゃないかと。
あの人は、既存の説・〜史観をひっくり返しすような、人の目を引く本を出すのが目的になっちゃってるから。
0316人間七七四年
2007/09/22(土) 15:53:27ID:FNuHxcVP確かに法学部卒だしね〜
ましたや専門家でもない。
旧日本軍云々はよく分からないけど、人の目を引く本を出すのが目的っていうのは納得。
あと好き嫌いや主観が入りすぎてる。
ただ、軍忠状やら何やら、膨大な数の資料を調べて、死傷理由を探ったり
結構参考になることも多いのも事実だと思うよ。
0317人間七七四年
2007/09/22(土) 18:02:14ID:GnVqbiMA主力を反対斜面に隠蔽していれば
連子川を挟んで対陣した時、武田側はそれまでの経験-三方が原・明智・高天神・有海原-
も合わせて21日もいけると勘違いしたのかもしれん
0318人間七七四年
2007/09/22(土) 18:36:59ID:yBr3bWMh播磨や丹波にはまだ手を出していない。本願寺に対しては荒木細川筒井などを
畿内に残している。越前に関しては羽柴丹羽が長篠に派遣されて敦賀の武藤
しか残されていないが、この頃にはすでに一揆内部での内ゲバが激しく(74年7月
の時点で、すでに諸所の対立は流血をともなう武力闘争に発展している)、また
旧朝倉家臣に対する誘降の手も伸ばされ、とても外に打って出られる状況にはない。
ちなみに長島攻撃のときも羽柴丹羽の本来は越前押さえが任務の武将を連れて
行っているが、越前一揆は敦賀に攻撃もしてこなかった。
結果的に(運良く)なにもおこらなかったのではなく、なにも起こせないと見切った
信長の判断ですね。
0319人間七七四年
2007/09/22(土) 20:15:07ID:75/2Rs5Kだれが指揮をとるの?
いつ反対斜面から表に出てくるんです?
その時を狙って武田軍が攻撃開始すれば連合軍は総崩れになるんですけど。
0320人間七七四年
2007/09/22(土) 21:35:58ID:qB0dDCB8を終えていて前哨戦が始まっていたのだろうか
0321人間七七四年
2007/09/22(土) 21:57:26ID:+M6pROibそこまで楽観してないだろうよ。
時間さえあればこの時点で木曾をはじめ南信の諸豪族を寝返らせることも可能だっただろうに
武田主力を敗走させただけでとっとと引き上げたのがその証拠。
中央をガラ空きにするリスクはちゃんと意識していただろうよ。
0322人間七七四年
2007/09/22(土) 23:45:43ID:nJqvFEB4>細川も筒井も兵こそ出しているけど本人はこの時畿内にいる、
>だから信長は書状で戦場の様子を伝えている。
ありがとうございます。謎がひとつ解決しました。
>>321
とっとと引き上げたのは何よりも残しておいて徳川を押さえさせるためでは?
武田が潰れると徳川急成長の恐れがある。
逆に武田はかなり弱ってるので徳川が潰れることもない。
東国のパワーバランス考えて武田は今潰すべきではないとの判断もあったと思います。
0323人間七七四年
2007/09/22(土) 23:54:04ID:yBr3bWMh>時間さえあればこの時点で木曾をはじめ南信の諸豪族を寝返らせることも可能だっただろうに
それは無理だろ。岩村だってまだ奪回していないのに。
>中央をガラ空きにするリスク
だから、していないよ。摂津の荒木、山城西岡と丹波二郡の細川、南山城と大和の塙、南河内の
三好笑岩らはそのまま残されている。さらに75年3月の細川宛書状で「秋に本願寺攻撃を予定」とも
記されている。おそらく、秋の本願寺攻撃の前面にたつであろう畿内の軍を残してきたのでしょう。
本願寺の監視と、後の準備のために。
0324人間七七四年
2007/09/23(日) 00:03:41ID:XdOngQ3H一応通説じゃ
信長は21日までには弾上山に移動したみたいだが
信忠河尻、信雄稲葉、信康は反対斜面どころか更に後方にいたみたいだが?
あと長篠攻め3000あれば十分だと思うけど
この時点で既に兵糧つきて二の郭まで落とされていたんじゃないのか?
出典は忘れたが
0325人間七七四年
2007/09/23(日) 00:21:18ID:UOvCEaFO>この時点で既に兵糧つきて二の郭まで落とされていたんじゃないのか?
これが事実なら、武田はさっさと城落とせば目的完了なんだよね。
やむおえず決戦説には無理があるかと。
0326人間七七四年
2007/09/23(日) 00:24:52ID:XdOngQ3Hやむおえず決戦って言うのは鳶巣陥落の結果
総攻撃せざるを得ない状態のことを言っているのでは?
0327人間七七四年
2007/09/23(日) 01:05:21ID:t1Vje8TB>あと長篠攻め3000あれば十分だと思うけど
ならば元から全軍にて長篠城を落とし、武田が有利な場所で連合軍を迎え撃つ方がよいのでは?
実際すんなりと陥落すると思ってたのがいざ攻めてみればなかなか落ちず、このままだと挟撃される恐れがあったから武田が動いたと考えた方がいいのでは?
0328人間七七四年
2007/09/23(日) 02:24:11ID:XdOngQ3Hみたいだ二の丸は落ちていないみたい
>>327
長篠城落としたら
織田徳川がさっさと撤退しちゃうって言ってるんじゃないの?
まあ前年掛川を通過して見付辺りまで行った時も家康は決戦避けたし
>実際すんなりと陥落すると思ってたのがいざ攻めてみればなかなか落ちず、
>このままだと挟撃される恐れがあったから武田が動いたと考えた方がいいのでは?
長篠日記だと5月14日には落ちる寸前、兵糧はあと4日じゃ無かった
落とす時間はあったと思う
他に力攻めで被害が大きかったから兵糧攻めに変えたと言う可能性もあると思うけど
0329人間七七四年
2007/09/23(日) 03:02:49ID:ioXGlwE1http://video.google.com/videoplay?docid=3889996417451902162&hl=en
9.15 東京講演会 全編版
http://video.google.com/videoplay?docid=-3859363222910740882&hl=en
0330人間七七四年
2007/09/23(日) 17:57:27ID:t1Vje8TB長篠城が陥落しても、連合軍は撤退しないでしょ。
織田軍が帰りたがっても、家康が帰らせてくれないと思う。
0331人間七七四年
2007/09/23(日) 19:18:33ID:CqetuRrH普通に考えてわざわざ無理攻めはしない。
0332人間七七四年
2007/09/23(日) 20:39:10ID:uFASQ0Pg長篠が落ちたら帰るだろうと武田が考えても無理は無い
織田の方はこの一戦で武田を破ってやるぐらいの気構えで
鉄砲かき集めたり資材用意したりとしているから
帰る気無かった気もするけど
0334人間七七四年
2007/09/24(月) 22:22:23ID:y6A3x5yEようは計略にはめられたんだよ〜
明智を始めとする美濃諸城 高天神と織田は援軍だすのを渋ってる。
さすが大身の信長も、わかき勝頼公をふかみ、出かねられたるとハ、合戦過テ後五十日のうちにきこへたり
の記述通り、織田側が武田家との決戦に消極的というのが世間の見方だった。
実際長篠でも距離を置いて陣地に篭って鉄砲を放ってくるだけで、城を救援するとは程遠い状況。
焦る武田方は之を見て千載一遇の好機と決戦を決意。
滝沢川を渡った。ってことだと思う。
0335人間七七四年
2007/09/28(金) 21:48:51ID:fwAIGjPC0336人間七七四年
2007/09/28(金) 22:07:13ID:CEWrUi1iまあ、織田の圧勝だったのは間違いないのだし、
そう見えて当然かと。
0338人間七七四年
2007/09/29(土) 09:47:52ID:/WF52vqx鉄砲の威力は、武田方もわかっていたはず…
敗因は、ナンだったのですか?
0340人間七七四年
2007/09/29(土) 10:42:09ID:C2g4aPwc0341人間七七四年
2007/09/29(土) 12:40:29ID:jVyTpCAR圧勝まではいかないでしょ
織田徳川方もも相当な被害が出てる
0342人間七七四年
2007/09/29(土) 14:08:40ID:ZTPFlMqgその後の武田が攻めに転じられなくなったのも考慮すれば、圧勝だったと思う。
0343人間七七四年
2007/09/30(日) 19:07:47ID:UR3FK2i00344松平忠吉
2007/09/30(日) 22:59:19ID:uqPwD1pX0345人間七七四年
2007/09/30(日) 23:00:35ID:d+xEV2Vj0347人間七七四年
2007/10/06(土) 10:22:30ID:62rbssn00348人間七七四年
2007/10/15(月) 12:34:45ID:EVbn/Y4/0349人間七七四年
2007/10/21(日) 07:17:19ID:GPthcMLn武田が千で織田・徳川が六百。
あまり変わらないとは言えない。
ただし、武田方は勇将、豪傑が枕を並べて討ち死に。
残ったのは穴山梅雪、小山田信茂のようなのちに裏切る奴や
頼りにならない一門衆ばかり。
織田・徳川の損害など人口比から見て無視できる程。
しかも、名ある人物で死んだのは鳶の巣砦奇襲で
松平ナントカという武将が死んだ程度。
0350人間七七四年
2007/10/21(日) 07:18:52ID:GPthcMLn>>とっとと引き上げたのは何よりも残しておいて徳川を押さえさせるためでは?
>>武田が潰れると徳川急成長の恐れがある。
おいおい、それは考えすぎwww
0351人間七七四年
2007/10/21(日) 08:25:55ID:bihC7lpm大久保彦左衛門の『三河物語』によれば
姉川の合戦、長篠の戦いとも、あのまま攻めておれば、征服も可能だったような事を言ってる
が、信長は勝って緒を締めよというタイプなので、そこまでしかやらなかったらしい
0355人間七七四年
2007/10/24(水) 12:47:53ID:vwy2TxAmその通り。
この時点で武田の滅亡は明らかになった。
木曽、穴山、小山田が裏切ろうが裏切らなかろうが後々はなんにも変わらないと思う。
0356人間七七四年
2007/10/24(水) 21:57:14ID:dy2gvrCT1秒間に1人が通れるような道。
1分で60人
1時間で3600人
2時間で7200人が限界。
最初は、勝頼とその部隊が退却。次に一門集。
武田の重臣達は、逃げる順番がこないため、その場に残り戦死した。
そんな感じじゃないかな?
0357人間七七四年
2007/10/25(木) 01:37:09ID:sEt5ohrc0358人間七七四年
2007/10/27(土) 13:55:29ID:LEAEyZwG戦線の崩壊につながったという話も聞いたような。
0360人間七七四年
2007/11/13(火) 06:39:05ID:oiXHyXIZ姉川のときは小谷城が強固だから絶対に無理。(まだ後詰めされる
可能性もあるし)
でも武田に関しては困ってるのはむしろ徳川くらいで
織田に関しては(武田領土などに)まったく関心がなく、興味はむしろ西や
本願寺に向いていた。信長にとっての長篠は
世間に織田>>武田を示すためのモノで。
0361人間七七四年
2007/11/14(水) 10:32:19ID:rIeQ7v3L4万足らずで甲信を征服できるか?
出来たとしても後の統治は泥沼にはまりそう。
朝倉滅亡後の越前しかり、本能寺後の甲斐しかり。
0363人間七七四年
2007/12/11(火) 18:54:59ID:+GntF8L8勝頼に、兵力を過小に錯覚させる謀略でも用いたのかな?
0364人間七七四年
2007/12/18(火) 14:54:36ID:4lZtrdlL後から同じような話を創作したんでしょう
0365人間七七四年
2008/01/20(日) 07:31:02ID:21xCx7Zm正直、戦場の感想としては縦にせまく横に長く感じた。
あと今まで武田騎馬隊と鉄砲の三段打ちを定説として
信じてたので気にならなかったのだが。連吾川の存在だな。
屏風からわかるように織田の鉄砲隊のターゲットが
騎馬兵と鉄砲隊であるように
大半の武田軍は竹束を持ってゆっくり前進したと考えてみる
でも連吾川で(今とちがっては当時の形状は違うだろうが)
騎馬隊ならなんのためらいもなく突破できるだおろうけど
歩兵ならもたつくだろうな。(竹束を持ってるから)
で、あの距離なら弓もとんでくるだろうし
もうちょっと近づけば織田名物槍ぶすまも有効だろうし
0366人間七七四年
2008/01/20(日) 21:14:38ID:MloAFSh6やがて、戦が動いた。織田・徳川勢の動きに反応し
武田勢が突撃を開始したのである。一番に攻め寄せたのは
山県三郎兵衛昌景の率いる精兵だった。山県勢は押し太鼓を鳴らして
猛然と攻めかかってきたが、織田勢の鉄砲の前に散々に
打ち立てられて引き退いた。かわって武田逍遥軒信廉が
突撃してきたが、織田・徳川勢は敵がかかれば引き、
退けば食い下がって密着し、下知通りの鉄砲射撃によって
過半を討ち取った。三番手に寄せてきた西上野小幡党の赤武者も、
馬上巧者として名高い関東衆の名にかけて騎馬で突撃を
しかけてきたが、身隠しの胸壁の間から射撃を加える
織田・徳川勢の前に兵の大半を討たれて退いた。
四番手には黒一色の軍装に身を包んだ武田典厩信豊勢がつづいたが、
これも同様にして討ち果たされた。
このように武田勢が総軍入れ替わりで突入してきたのに対し、
織田・徳川勢は一将たりとも前に出さず鉄砲のみで応じた。
そして足軽であしらいつつ徐々に敵勢を追い崩し、
そのあとで人数を突入させていった。五番手には馬場美濃守信春勢が
押し太鼓の音とともに攻めかかってきたが、結果は上と同様であった。
5月21日日の出の刻から始まり、織田勢が東北東をさして戦った
この戦は未刻まで続いた。その間武田勢は諸卒を突入させたが、
そのたびに織田・徳川勢に討ち果たされて次第々々に無人となって
いった。それでも生き残った将兵は武田勝頼の旗の下に集まり、
敗戦を悟って鳳来寺の方角へ退却をはじめた。
信長公はそのときを逃さず、陣をくずして総軍を乱進させ、
これを追撃した。
これを読む限り武田軍は車掛りの陣を使った可能性も否定できないな。
(あくまで推測)この文章の前にも書いてあるのだが織田軍は軍勢を
山の裏側に何人か隠していて、陣容としては三方ヶ原に毛の生えたわ形
(前哨戦で勝ってる事から勝頼が錯覚しても仕方がない)
徳川軍+織田の援軍数千みたいな。事実、信長の陣ややや後方。
息子の信忠に関してはかなり後方。家康だけが前線の一番後方
(現中学校)にある。織田軍の全陣容をアレしたらかなり広大な絵となる。
(追撃の直前に信長らは前線に張り出してきて。武田軍が
次第に浮き足立った事が想像できる)
0367人間七七四年
2008/01/20(日) 21:23:39ID:MloAFSh6騎馬でなく徒歩で逃げた事を考えれば・・・。
以下信長公記の武田軍の掃討戦
この者達をはじめとして武田勢はこの一戦で数多の将兵を失い、
討死した者の数は一万にも達した。その中には山に逃げ入って
飢え死にした者や、橋から川へ落とされて水死した者も
多く含まれていた。
また近くの農村は三方ヶ原を含む信玄の西上作戦での
略奪・乱暴をされた事から、これみよがしに報復行動にでただろうし。
あんな山の中を脚で信濃・甲斐へ戻るなんて想像しただけで
大変な運動量が要求される。武田軍の死亡者が1万というのは
あながち嘘とも思えない数字に思える。また馬場信春の
墓のある場所が絵になるとこにあって。もしここで討ち取られたと
したならば、かなりドラマチックな場所といえるよ。
0368人間七七四年
2008/01/20(日) 22:15:02ID:n4XUab7g0369人間七七四年
2008/01/21(月) 04:38:51ID:3IvEuqvYいま気付いたんだけど、
>山県勢は押し太鼓を鳴らして
>馬場美濃守信春勢が押し太鼓の音とともに攻めかかってきたが
妙にこの「押し太鼓」ってのを特筆してるような気がするんだけどこれはなんでだろう。
当時は武田軍の押し太鼓ってのは有名だったのかな?
ひょっとすると、武田騎馬軍団最強というイメージが形勢された要因の一つにこの押し太鼓というのが
なんらかの形で絡んでるんじゃないかと思うんだがどうだろう。
0370人間七七四年
2008/01/24(木) 21:41:58ID:ApzFcdtzどこの家でも太鼓・鐘・銅鑼などで前進・後退の合図をする。
何にも特別ではないですね。
でも表現として、その方が勢い・強さが出せる。
で、それを倒した織田家スゲーという自慢。
>>307
>即時ニ乗懸逐一戦、宗者数多打捕、乗其利信長至陣前押寄候処、構陣城籠居候間、入人数之砌、當手之先衆聊失利候
『信長公記』には信長が21日に、「足軽を懸けられ」たところ、
「御敵“も”人数を出だし候」とあるわけで、信長から先に手を
出して、陣城まで追い込まれる形で、開戦してる。
18日に戦いがあったという解釈でなくても?
出てきた敵に一撃を加え、そのまま陣前に押し寄せたら逆襲を
受けたという戦の展開そのまんまの手紙かと。
ちなみに、今でこそ決戦の地は「設楽原」で、「有海原」は
信玄台地の東側という扱いだけど、設楽原という命名は
近代の話。かの場所は長篠であり、強いて言えば設楽郷だが、
現在の設楽原も含めて一帯を「有海原」と呼んだ。
明治時代に書かれた「大日本地名辞書」では「有海原の古戦場」
と紹介しています。
「ころみつ坂の上」の「有海原」の指す範囲は非常に広い。
「有海原」の指す範囲が広いので、最初にどこに布陣したかは
どうとでも取れるのです・・・
0371人間七七四年
2008/01/27(日) 11:21:36ID:ib10EwbV0372人間七七四年
2008/01/27(日) 15:56:56ID:+sF9K3EW屏風を詳しく見てみるとわかるのだが
山県隊をじっくりみると(山県の首が狩られて
家臣が奪われないように逃げるとこね)
騎馬兵の横に足軽隊がいてその横に太鼓を
背負ってる兵と叩いてる兵がいる。
信憑性はないかもしれないがその山県隊は甲陽軍監に
おいて織田の柵を3重まで突破したとある。
(おそらく死兵となって多く討死にした事が想像されるが)
この押し太鼓が特に山県隊には多かったとオモワレ。
0373人間七七四年
2008/02/08(金) 19:40:56ID:DM0Ix3as1473年 バシュケントの戦い 中近東
1525年 パヴィアの戦い 欧州
オスマン帝国は長篠の戦の100年前に、スペインは50年前にすでに火力で
騎兵を蹴散らしていた。極東の島国は遅れているよなぁ
0374人間七七四年
2008/02/08(金) 22:41:59ID:EJfwi7dc野戦工事だからドゥラキウムの戦いみたいなものじゃない?
倍以上の敵がこもる野戦工事に対して少数精鋭の兵で突撃して敗北したのも全く同じ。
0375人間七七四年
2008/02/09(土) 00:51:13ID:UiTgIbLf懐かしいわー^^
0376人間七七四年
2008/02/10(日) 17:50:07ID:Bw+LR3FIくらいなら面白かったのにな。
0377人間七七四年
2008/02/10(日) 21:11:03ID:VIBl+v4z北条も巻き込まれて損害拡大という間抜けな構図が目に浮かぶ。
0378人間七七四年
2008/02/10(日) 23:29:34ID:XDbv9Kl6武田軍の猛将達は次々と織田・徳川軍に襲い掛かるが
鉄砲でこれをうちはらった。続いて猛将のなにがしがつっこむが
これも鉄砲で打ち払い連吾川は血の海、死体の山で染まった。
勝頼のまわりに兵は次第に少なくなって撤退を開始。
そして織田・徳川軍は追撃を開始。武田軍への追撃は執拗を極め、
川に落ちて溺死するもの、山に篭って餓死するもの。(おそらく農民に撲殺される者も)
数日のうちに信長公は岐阜城へ凱旋した。
甲陽軍監
佐久間の調略や、織田軍内の内部分裂、武田軍の指揮の高まりから
連合軍との決戦を勝頼は決意。朝、織田軍と対峙、武田軍は
織田陣内へ切り込むと、織田軍は鉄砲で応戦。これに武田軍は
竹束で応戦。そんな中勇猛果敢な山県隊は、織田の柵を三重まで
突破。しかし、内応に応じたはずの佐久間が依然こちらに応じず。
それどころか穴山隊が戦線を離脱(鳶ヶ巣山を奪取されて退路を断たれた為)
そして前線で孤立した山県三郎兵衛討死し。穴山離脱により親類衆が
つぎつぎと戦場を離脱。勝頼自身も撤退を決意。撤退の途中
武田の有力武将が数多く討死した。
0379人間七七四年
2008/02/29(金) 00:09:04ID:8hbyHf790380人間七七四年
2008/02/29(金) 06:15:49ID:p0sfHYtN雨で鉄砲が使えなければ、ここまでの大勝にはならなかっただろうね。数を見てわかるように、織田、徳川は、決戦の心構え。用意周到に。あり地獄にはまった感じ。引くもできず、進むもできなかった。
0381人間七七四年
2008/03/04(火) 03:17:34ID:YUqonZYu酒井の別働隊が失敗する可能性も出てくるから武田の突撃そのものが無くなる可能性も出てくるけど
0382人間七七四年
2008/03/08(土) 23:42:27ID:Me1oMP+C0383人間七七四年
2008/03/10(月) 22:17:08ID:Omi28LZL写真見ると関ヶ原に比べて、演出がしょぼそうな気がするのだが・・
馬の柵とか本陣跡とかいろいろあるようだけど、観光客はそこそこいる?
俺は戦国オタで史跡とか旅行好きの女の子と初デートするのだが、行き場所に
長篠古戦場が案として出てるのだが・・大丈夫?
0384人間七七四年
2008/03/10(月) 23:29:46ID:ijTtWIpp真性の歴史オタは「その場」にいるだけでかなり盛り上がる。
近くには長篠で死んだ武将の塚や、資料館もあるはずだし
0386人間七七四年
2008/04/02(水) 00:45:38ID:m3g3IZCF0387人間七七四年
2008/04/07(月) 23:08:10ID:T2a05/BA0388人間七七四年
2008/04/29(火) 19:39:22ID:kWt2LXFLてんきゅうや穴山が討ちとられたほうがよほどお家てきにやばいんじゃないの?
先に離脱するには当然だよ
0389人間七七四年
2008/04/29(火) 20:30:00ID:8CbJMztQ武田をある程度消耗させることができれば、それで十分に価値がある。
一方の武田は、痛み分けすら許されず、最低でも勝つしかなかった。
信長の首を取るしか絶対的な勝利にならないくらい、追いつめられていた状態だ。
兵力の差よりも、求められる結果の差がシビアすぎる。
0390人間七七四年
2008/05/16(金) 00:20:35ID:mdmdrvQd信長直率軍にしては遅滞ともいえる行軍速度で進んだ結果、高天神城を見捨てた
形となり遠江国人衆は徳川頼りなしと離れはじめ、徳川は織田からお詫び金を
もらったものの織田頼りなしと家臣団の不満が高まる
長篠城も同様になっていれば遠江国人衆はほぼ完全に武田になびいただろうし
徳川そのものも浜松城からまた岡崎城に本拠を移さざるを得ない
0391人間七七四年
2008/05/16(金) 00:32:47ID:j8tyftpZ見捨てるのと、決戦の末で敗北じゃ、えらい違いだぞ。
長篠城は、元々が武田方に属してた城で、篭もるのも将兵であり、徳川としても被害甚大というわけでもない。
失ったところで大したダメージではないし、包囲を解いている以上、兵糧の補充が行われている可能性もある。
決戦を終え、勝ったとしても甚大な被害が出たあと、決戦前すらなかなか落とせなかった長篠城を落とせるかすら疑問。
完勝ははっきり言ってあり得ない状況だし、辛勝では撤退に至る可能性の方が高い。
0392人間七七四年
2008/05/16(金) 00:44:27ID:j8tyftpZ兵力の説はまちまちながら、2〜3倍の兵力差があり、武田側が持久戦にできないため、攻城戦に近い形で攻撃、
徳川の動員兵力はフル動員ではなく、信長や家康が討ち取られでもしないかぎり、少しの間で再決戦すら可能な状態。
この兵力差で殲滅なんて無理だし、勝てても速やかに撤退するしかなかったのでは。
決戦に勝っても撤退となれば、「織田に勝利した」と鼓舞もしがたいし、撤退戦での将兵の甚大な被害はなくなるにせよ、
決戦後に長篠城を落とす、さらにその後の確保は、かなり困難と思われ。
0393人間七七四年
2008/05/28(水) 14:14:41ID:ZrTq9OgF武田の最善の選択は撤退しかなかった。
0394人間七七四年
2008/05/28(水) 23:55:01ID:q5Ms8Rkx<<戦国時代>>板は6/4日出陣
http://2ch.gepper.net/tour/t2/a9.html
詳しくは選対スレへ
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211037643/
公式サイト
http://2ch.gepper.net/2ch.html
0395人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/01(日) 02:51:20ID:wuX9ZxSR>信長直率軍にしては遅滞ともいえる行軍速度で進んだ結果、高天神城を見捨てた
>形となり遠江国人衆は徳川頼りなしと離れはじめ
具体的には?
0396人間七七四年
2008/07/08(火) 16:02:13ID:sVJZZd8J元々は松平側だ。祖父の清康時代からの盟友だぞ。
信玄の攻勢の際、当時の宗家が降伏したから、已む無く武田に一時的に属しただけ。
長篠合戦に至る頃の長篠城主は、家康とは兵法の兄弟弟子で、親しい友人でもある。
武田勢から徳川勢に帰ったことで勝頼の怒りを買っていて、既に実弟は勝頼によって殺されている。
長篠城が陥落したら、現当主貞昌の命も無い。
家康にとって、見捨てる選択肢は有り得ない。
0397人間七七四年
2008/07/09(水) 12:50:30ID:3Auo3sF/何度も言われてることだけど
そこで撤退してその後勝ち目はあったのかい?
もうあの時点で戦力差はかなりあり
戦力差が高いだけに時間がたてばたつほど武田が不利になっていくわけで
0398人間七七四年
2008/07/10(木) 18:48:52ID:+xZfqN6m史実より悪くなることは無いだろ。
勝てない以上、撤退もベターな選択肢かと。
撤退を否定するなら、勝つ方法を提示すべきだ。
武田を粉砕したことによる名声と東の脅威の除去で信長がより優位になったのは事実だし。
0399人間七七四年
2008/07/11(金) 13:08:04ID:yTFHkDW2勝ち目が少しでもあるなら完全なミスとはいえないと思うけど
0400人間七七四年
2008/07/11(金) 13:48:16ID:YZ9lL+Oeなるんじゃね?
0401人間七七四年
2008/07/12(土) 21:08:51ID:m4S9D3uu兵力が半分以下という段階で、完全に勝ち目はないと言ってほぼ間違いないよ。
2倍以上の兵力差を覆すのは極めて難しい、少なくとも信玄以降の武田家にはそんな例は存在しないし。
特に、相手が攻め込んで来ている状況で、地の利を生かしたり相手の隙をついたりして、
劣勢を覆すという例はそれなりにあっても、劣勢な側が敵地に攻め込んで勝つというのはさらに稀。
長篠の戦の時の状況では、もしも退却が可能だったなら迷わず退却すべきだったと言える。
0402人間七七四年
2008/07/13(日) 04:00:27ID:IjNXd5X5事前に斥候出しても所詮目勘レベルの話。そもそも後年伝わってる数字だって怪しいもんだよ。
お互いの国力差だって現代ほど正確な認識なく出陣してんだから。
戦国時代の合戦はチンドンチンドンお祭り合戦。勢いで負けたほうは死にたくないからあっという間に離散する。じゃないと生産性が維持できませんって話だよ。
舐めてかかったら意外と数居たし、強かったってことでしょ。
0403人間七七四年
2008/07/13(日) 08:48:07ID:uX0TDWnS戦国大名をそこまでアホだと仮定しては、何の話も出来ないよ。
微妙な差ならともかく、2倍を越えるような戦力差が分からないなんてありえない。
そもそも>>397からして戦力差が高いという認識を前提にした話なのに、
今更認識していないなんてことにするなら、まるで話にならないでしょうが。
0404人間七七四年
2008/07/13(日) 23:56:56ID:IjNXd5X5だから二倍居たって誰か見たんかい?(笑)
確かに日本の史料は大陸ほど数字的誇張は少ないかも知らんけど、要するに国力差から見た推量が根拠になっとるわけでしょ。現代のそろばんで。
戦国時代の合戦でね。例えば三万とか五万とか軍勢が出陣したとするわな。そして敵勢の位置確認して接近。さぁさぁ大会戦の始まり始まり。ってなって、大将が点呼とりました。例えばね(笑)そん時に三万とか五万がそのまんま居るわけないのよ。残念ながら。
半分以上は中間さん。兵糧や武器弾薬、馬の餌やら、あと陣屋作るにも大量の資材が要る。それの兵站。運送屋っすよ。
消費材はほとんど引っ切り無しに補給しないとやばい。なにしろ雑兵一人にも日に四〜六合も支給してたんだからね。計算得意な人はしてみて下さい。ありえない物量だから(笑)
まぁ浜松からなら近いけど必然陣形は長ーくなるんですよ。浜松に集めるだけで人足要るし。
数なんか正確にわからんつったのは戦場に到着して間もない状態で戦闘に専念できる兵力がどんだけあるか?ってことなのよ。そういう意味では勝算がなくもない状況だったんちゃうん?て話。
俺が言いたいのは合戦はゲームとちゃうんよ。ってことだけだけどね。勝頼なんか擁護する義理ねぇし(笑)
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