長篠・設楽原合戦の真実
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0210人間七七四年
2007/09/10(月) 23:31:45ID:Z+kSDEKq>>208
あとひとつ。武田の諸将が果たしてどの局面で討ち取られたか、だが。
連子川の近くで死んだことがはっきりしているのは、山県昌景、土屋昌次。
後ははっきりしない。信長公記の記述では、多くの戦死者の列挙を、追撃戦の記述の後に書いている。
ただし、その中には山県、土屋の記述も出てくるので、後に書いてあるからと言って追撃戦の際に討ち取られたかどうかを断定できない。
ところで、信長公記で印象的な記述として「山へ逃げ上りて飢死」というのがある。
一日の戦闘で飢死というのは考えにくく、追撃戦が何日にも亘って執拗に行われたのか? とも思わせる。
しかし、信長の岐阜凱旋は長篠の戦いの4日後だから、帰途の日数を考えればこの部分は疑問。
全軍が帰還したとは限らないが、戦死者一万のくだりが書いてある箇所と同じところなので、太田牛一の誇張である可能性も高い。
一応、>>204は、信長公記がベースで、後は軍事作戦面から考えてみた次第だが、問題があれば遠慮なく指摘して欲しい。
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