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長篠・設楽原合戦の真実

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/17(月) 18:10:27ID:C+plg2A7
近年、多くの新説が提唱されている長篠合戦のスレッドです。
0161名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/10(水) 01:12:49ID:f7Ma/ged
だから同時進行だっつーの・・・
0162名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/10(水) 07:04:02ID:V6BDuIgT
一万五千の軍隊を、細い山道を安全に退却させるなんて不可能。
侵攻して来た別所街道(最狭地はたったの100m)は完全封鎖。
足助方面は徳川領で道は細い山道で峠も有る。
退路も補給路も無いのである。
単に背後を突かれただけとは違うのを理解しないといけない。
ただ退却させるだけでは大渋滞に激しい追撃を受け戦わずして消耗は必至。
実際に討ち死にしたのは大部分が退却を開始し追撃を受けた時のもの。
結局、消耗するのを覚悟の上で突っ込んで、相手も消耗させてから少人数で退くしかないのである。
0163名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/10(水) 12:59:53ID:b41B77y2
信長は追撃戦の鬼って感じだからな
桶狭間、刀禰崎、長篠・・・
0164名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/25(木) 21:04:49ID:7S+2Kt6e
>勝頼がこれ位、謙虚で身をわきまえていたらね・・
>実際、山梨県に行くと、勝頼公がもう少ししっかりしていれば・・、
>という声を聞けるよ。


こういうバカ論丸出しな事を
恥ずかしげも無く書き込める神経はスゲェなwww
0165名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/27(土) 03:31:43ID:bwYIUhFq
勝頼1人に罪を着せるのはかわいそうだね。
重臣の賛成が無ければ戦も起こせないのに。
0166名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/27(土) 21:16:30ID:4mSZBgh5
>>160
設楽原で戦闘が始まったのが日の出の頃、
そして鳶の巣砦が攻撃されたのは同じ日の午前8時頃。
>>161の言うとおり少なくとも同時進行くらいのタイミングであって、
鳶の巣砦周辺を取られたから、
退路を立たれてやむをえず突撃という展開ではなかった。
0167名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/28(日) 00:57:42ID:R/O0jWnp
勝頼が攻撃を決断したのは
敵が消極的だからでしょう?当時の書状にでてるよね?
0168名無し2007/02/06(火) 00:39:56ID:Jd+lrtMz
ここの敗北はなければ武田は本能寺の変まで持っただろうから
滅亡しなかったと考えられなくはない
ただ武田をつぶしていなかったら信長も本能寺に泊まるような
事はなかったろうからこれまたわからんが
0169人間七七四年2007/02/19(月) 19:24:00ID:mACJkTRD
昨日のマラソン見て3万という数字が実感できたよ。

織田方の陣地構築前に突撃というシナリオはなかったのでしょうか?
自分たちの墓穴が掘られるのを待ってそこに飛び込んでいったように見えます。
そこまで舐めてたんでしょうか?それとも気が変わって突撃?
0170人間七七四年2007/02/19(月) 20:15:53ID:xJzizg5X
設楽原に行くと分かるが、あんな狭い原っぱで約5万人が戦闘したとは疑問……
背後の山に兵力分散しても実際は相当な近接大混戦だっただろうに。


鳶が巣砦(実際は5個から成る砦群。)奇襲にしても、経路の乗本方面からの間道は限られてるわけで、4千もの軍勢が迫れば武田の哨戒網にあっさりかかりそうなものだが……
どうやって「奇襲」になったのか謎。

現地に行くと、不思議な事だらけだ。マイカー持ってる椰子は是非行ってみろし。
0171人間七七四年2007/02/20(火) 21:14:59ID:Sz+2Nhdz
>169
ログ読め
0172人間七七四年2007/02/22(木) 20:31:00ID:hF59YGSB
織田クソ漏らし連合軍による、「後手必勝作戦」が勝因らしいな。
先手必勝では無く後手ね、つまり馬防柵で強兵の武田軍をある程度
やり過ごしておいて、度重なる突撃で疲れてきた武田軍に対しここ
ぞと言わんばかりに反撃を繰り出すという戦い方。
0173人間七七四年2007/02/22(木) 20:47:42ID:hF59YGSB
http://www.sengokushi.com/gote/b00210.html
0174人間七七四年2007/02/22(木) 22:52:21ID:QLtM46mM
全然時代も場所も違うが
武田=諸葛亮 織田・徳川=司馬懿
って置き換えられない?
全体的な劣勢を挽回するために出兵した諸葛亮
元々の地力の差を活かすために防御を固めた司馬懿
そうなってしまえば端から諸葛亮側に勝ち目は無いんだよな。

で、諸葛亮は撤退戦で被害を出さなかった(司馬懿が追撃しなかった?)けど
武田は撤退時にかなりの被害を出してしまった。(宿将の不運な戦死とかもあるけど)
0175くるるん2007/02/23(金) 01:16:20ID:3wNh9fo6
然者長篠之地取詰候之所、信長・家康為後詰雖出張候、無指儀及對陣候、敵失行之術、一段逼迫之躰候之条、無二彼陣へ乗り懸

勝頼が決戦前日に長坂長閑に宛てた手紙。
それで

 三州長篠之地取詰候処、織田・徳川為後詰打出候条、累年之願望令満足候間、即時ニ乗懸逐一戦、宗者数多打捕、乗其利信長至陣前押寄候処、構陣城籠居候間、入人数之砌、當手之先衆聊失利候

これが戦後家臣の岡修理に送った書状。

それで

しやくの木三へまであれバ、城攻めのごとくして、大将どもことごとく、てつはうにあたり死ぬ。

これが甲陽軍鑑の記述。

結局、信長の計略にはまったんだよね。。。
0176人間七七四年2007/02/28(水) 17:51:17ID:58wo+rJa
武田軍って、野戦においても弱くね?
長篠での被害の多くは鉄砲ではなく、織田・徳川の追い討ちでやられてん
だろ?


0177人間七七四年2007/02/28(水) 18:42:52ID:9bOz8fAS
撤退戦と野戦は違うだろ、普通に考えて……
0178人間七七四年2007/02/28(水) 18:48:50ID:NI7/tvLp
追撃うけてる時点で負けだろ
0179人間七七四年2007/03/03(土) 21:16:02ID:tE5/7X+q
合戦では撤退が一番難しい。イレギュラーも起きやすいしな!
0180くるるん2007/03/04(日) 00:23:30ID:zltx8olT
>>176
野戦といっても実際は攻城戦みたいなもんだったっぽいし
なんともいえない。
0181人間七七四年2007/04/05(木) 00:31:14ID:uOxxbCj4
鳥居強右衛門ってかっこいいね
0182人間七七四年2007/05/06(日) 18:13:30ID:ASY6ZRTh
0183人間七七四年2007/05/26(土) 05:06:23ID:OeoSTuNR
新羅三郎義光以来、源氏の名門も武田勝頼の代で滅びたのも時代の趨勢というべきか。
同じ時代に織田信長がいたのが運の尽きか。いかに最強の騎馬軍団を擁していても、すでに
農兵分離の整備を整えていた織田軍とは戦術・戦略の観点から比較しても劣勢であると言わ
ざるを得ない。惜しむらくはあれだけの最強を誇った武田家が滅亡した事である。
0184人間七七四年2007/05/26(土) 12:56:58ID:0heCNm25
織田軍も兵農分離なんてしていないわけだが・・・・・
0185人間七七四年2007/05/26(土) 14:44:10ID:Iwuvny42
そんなことなんて本に書いてたの?
0186人間七七四年2007/05/26(土) 17:46:08ID:WFpccXGK
>>178
三増峠の戦いは撤退戦だろう。追いすがってきた北条を
撃破した武田の勝利。
0187人間七七四年2007/06/01(金) 21:27:37ID:5h0CixRF
織田だけが鉄砲隊を編成してたというのは誤りで、
武田家も数千丁の火縄銃を使い壮絶な銃撃戦が行われたそうだ
0188人間七七四年2007/06/01(金) 23:20:35ID:vOKyFh4k
>>172
つーか数が少ないクセに相手の半要塞化した陣地を
攻めたのが敗因
0189人間七七四年2007/06/04(月) 00:49:59ID:gMz2/mrp
別に甲斐武田が滅んでも、佐竹や南部が残ってるから、無問題じゃね?
0190人間七七四年2007/06/07(木) 04:13:34ID:hLb4OBlT
というか、30000人で1500丁は少ない説も出てるね。
装備率にしたら5%しかない。
家康の5000のうちどれくらいが鉄砲かによるが。250〜500丁といったところか。

織田の動員数が誇張で20000人しかいないとしても7.5%。それでも当時の大名の平均値程度だ。
これ以上兵力を減らすと武田との数の差はそんなになかったいうことになってしまう。
酒井忠次に500丁割いたんだから、設楽ヶ原に布陣する織田の鉄砲装備率はわずか3.3%・・・
織田家の鉄砲は武田の半分の装備率しかなかった、ということになる。

武田家の永禄五〜天正六年の軍役状の平均では、鉄砲装備率7.1%。
勝頼が長篠に15000を率いてきたとすれば、鉄砲は1000〜1100丁あったということになり、
下手すれば設楽ヶ原に投入された鉄砲は、武田のほうが多かったことになるんだがw

同じ1575年「天正三年上杉氏軍役帳」によると、
鑓が戦闘員の77%を占め、弓が0.1%しかない白兵志向の上杉でさえ5.7%が鉄砲。
氏康期の北条軍は11%となっている。
織田は5%wこれでは、龍造寺や島津、長曾我部にはるかに劣る数字といわざるを得ないんじゃ?

1581年の明智光秀軍団内の軍法では、装備率13.5%。
0191人間七七四年2007/06/07(木) 07:30:38ID:uEq9ds+M
>>190
そのパーセンテージには後方要員(小荷駄、中間・小者)が入っていないから単純な比較は危険だよ
0192人間七七四年2007/06/22(金) 23:30:47ID:cf1iO3Gw
武田軍は鉄砲どころか巡航ミサイルや爆撃機を使っていたよ
0193人間七七四年2007/06/28(木) 00:26:34ID:SGlKxviZ
 
0194人間七七四年2007/08/04(土) 22:50:26ID:AEfl+3nc
長篠の戦いに武田軍7000はあらへんやろー


あの陣容で(山県・馬場・内藤・真田が出陣しといて。
しかも高坂弾忠は参戦してないけど息子が出陣してるし)
少なくとも1万は越えるやろー
0195人間七七四年2007/08/23(木) 04:52:27ID:FclD2PQS
 
0196人間七七四年2007/09/08(土) 10:38:55ID:bb3eiyU3
>>190
細川や、筒井といったところは、出陣しなくて良い代わりに鉄砲や足軽の供出を命じられている。
信長が鉄砲の数だけは何とか確保しようとしたのは間違いないと思えるね。
0197人間七七四年2007/09/08(土) 13:22:19ID:c7AT335f
>>167
3万(この兵力が妥当かは置いといて)も兵を引き連れて、
消極的っていうのは、返って不気味に感じる。
よく解説にもあるけど、疑問に感じる部分なんだよな。
むしろ、隙をうかがう戦上手なんでは?
武田が戦を仕掛けたのは、他に原因があるように思うんだけど。
0198人間七七四年2007/09/08(土) 14:40:46ID:tslhV4O7
いつ読んでも某研のレスが好きになれない
むしろ読んでいて腹が立ってくるよ
0199人間七七四年2007/09/08(土) 18:06:33ID:x5KktNS4
長篠に両軍合わせて4万も5万も布陣できないという話じゃなかったっけ?
戦力比が1:3というのは合ってるらしいけど。
0200人間七七四年2007/09/09(日) 03:52:14ID:LqNM3Gfl
そういう話になっているし、
かといって具体的な数字もないので、()はつけておいた。

やっぱ、実際は半分くらいなのかな?
だとすると、三方ヶ原も怪しい?
0201人間七七四年2007/09/09(日) 07:05:36ID:otjagDHX
jjjj
0202人間七七四年2007/09/09(日) 23:41:12ID:fsog7u+V
>>197
戦を仕掛けた理由はわからないけど、
不利な側が状況を打開したくて、苦し紛れに仕掛けた例はある。
インパール作戦とか、沖縄戦での突撃とか。
むしろ硫黄島のような例は、まれ。
0203人間七七四年2007/09/10(月) 00:09:56ID:PrP3vnq9
織田徳川は防衛戦だったみたいだな
柵の付近に掘りがあり
城まではいかない砦程度のものが築かれてた
結局、武田は城攻めの形のなり
攻め疲れたところをやられたってとこだろ

あと・穴山信君、武田信廉と武田信豊が命令を聞かなかった
0204人間七七四年2007/09/10(月) 07:50:49ID:Z+kSDEKq
その通り。
鉄砲(単発の火縄銃)は、防備に適した兵器だ。
だから、城などには鉄砲狭間があったりする。
自分自身がやたら動けず、待ち受けの形にならざるを得ないからね。

長篠の戦いの戦争目的は、徳川方の長篠城救援作戦。
だから、出張ってきた方は4万前後の大兵力を天然の要害である弾正山と極楽寺山に配し、
敵の方角で、かつ開けている箇所に柵を構築した。
連子川が堀の役割を果たしており、また別途堀を掘ったような形跡もある。
信長・家康としてはこの本陣をベース・キャンプにして、逐次投入で長篠城救援部隊を出陣させ、
武田の反撃に遭ったら、本陣まで逃げてくる。これを長篠城解放まで繰り返す。
武田が本陣まで攻めてきたら、鉄砲で防衛する。これが作戦の基本だっただろう。

結果は、第一陣の酒井忠次隊4000の攻撃で鳶の巣山の武田方砦が陥落してしまい、長篠城の
解放に成功。あろうことか、長篠城包囲の武田方のほとんどが主君を置き去りにして鳳来寺
山方面に退却。武田勝頼の本陣が孤立してしまった。これは勝頼にも責任がある。
信長・家康本人が出張ってきたので、何としても決戦で討ち取ろうとしたのだろう。武田本陣が
長篠城包囲から離脱してしまっている。これで、武田本陣は、織田・徳川本陣と、鳶の巣山攻撃
部隊、長篠城兵に挟撃される形になってしまった。じっとしていては、背後から突かれる。それで
織田・徳川本陣への攻撃となった。

明け方から、武田の騎馬を主力とした織田・徳川本陣への攻撃が始まったが、鉄砲で撃退。
佐久間信盛や、大久保忠隣などの挑発行為もあって、武田はその攻撃を連発。それで攻撃する
度に鉄砲で被害を受け、兵力が漸減。先に撤退していた包囲軍と同じ鳳来寺方面へ退却の止むなきに。
それを織田・徳川の本陣と、酒井忠次および長篠城兵が追撃。武田の諸将はこの時多くが討たれ、
勝敗は決した。
0205人間七七四年2007/09/10(月) 08:33:03ID:9MNvz31s
武田から徳川・織田の連合軍に攻撃を仕掛けた理由ですが、
挟撃体制にされたこと、あるいは退路を断たれたことが理由というのがちょっとわかりません。
戦闘後も結局は同じ方向に退却するわけでしょ?
だったら、最初から退却した方がましな気がするんですが。
0206人間七七四年2007/09/10(月) 10:34:15ID:ciOXzrYA
追撃時に多くの損害を生んだっていうけど、武田側の重臣クラスは多くが
武田軍の攻勢時に戦死してるんじゃなかった?
0207くるるん2007/09/10(月) 11:59:29ID:81k/6lL7
おーまだあったんだこのスレ^^

>>204
鳶之巣攻撃と武田軍総攻撃は同日だよ^^
あと175でも書いたけど

然者長篠之地取詰候之所、信長・家康為後詰雖出張候、無指儀及對陣候、敵失行之術、一段逼迫之躰候之条、無二彼陣へ乗り懸

勝頼が決戦前日に長坂長閑に宛てた手紙。
それで

 三州長篠之地取詰候処、織田・徳川為後詰打出候条、累年之願望令満足候間、即時ニ乗懸逐一戦、宗者数多打捕、乗其利信長至陣前押寄候処、構陣城籠居候間、入人数之砌、當手之先衆聊失利候

これが戦後家臣の岡修理に送った書状。

それで

しやくの木三へまであれバ、城攻めのごとくして、大将どもことごとく、てつはうにあたり死ぬ。

これが甲陽軍鑑の記述。

んで今手元に甲陽軍鑑ないから原文は書けないけど

「信長が陣に篭ったまま動かなかったのは、若い勢いのある勝頼を恐れてのことだ、という噂が長篠の地に数十日間残った」ということから

勝頼は美濃諸城攻略戦からの信長の計略にはめられたんじゃないかい??
0208くるるん2007/09/10(月) 12:31:46ID:81k/6lL7
あと、

>>鉄砲(単発の火縄銃)は、防備に適した兵器だ。

というのがよく分からない^^;

鳶之巣攻略の酒井勢にも500丁もの鉄砲を持たしているし
長篠城も相当の銃弾が撃ち込まれて、防壁をズタズタにしてる。

防備にも適しているし、攻勢にも適している兵器だと思うよ^^

>>206
重臣達の殆どが連子川の周辺で戦死してるから、攻勢時に討ち死したんだね。
0209人間七七四年2007/09/10(月) 23:06:28ID:Z+kSDEKq
>>205
全くその通り。
もし織田信長が、この時の武田勝頼の立場だったら、ほぼ間違いなく挟撃されたところで鳳来寺方面へ退却している。
かつて、金ヶ崎で似たケースがあった。負けは負けだが、負けた中では最善の選択。
戦国時代の戦闘は、勝ち抜き戦ではない。何勝何敗で競うリーグ戦でもない。
また近代戦争のように宣戦布告している訳でもない。被害を最小限度にして退くのは、うまくすれば「何もなかった」ということにも出来る。
もちろん、当時の武家社会では、「武門の恥」とか沽券とか、それは卑怯だとする価値観があった。
それに拘っていては、結局は名誉ある死への道を進む事になる。

>>208
それは、幕末期の銃にさえ当初は言えるのだが、白兵戦では不利なんだ。
機動性に著しく欠けるから。
だから、例えば酒井忠次のような「奇襲」なら、有利とまではいえなくても、かなり欠点を補うことは出来るね。

銃は元込め式になり、連射が単独で可能になって、歩兵が突撃する際にも有効な武器に進化して行ったんだ。
必要は発明の母。やはり銃がそうした用途に使えればどんなに便利だろう、と考えた人は多かったに違いない。
それは、やはり初期の銃には、画期的な殺傷力を減殺してしまう欠点があったということだと思う。

でも、そうした欠点が目立たない局面では十分使える。だから、奇襲だったり、柵を作ったりという工夫の上で使用したんだろう。
0210人間七七四年2007/09/10(月) 23:31:45ID:Z+kSDEKq
>>206
>>208
あとひとつ。武田の諸将が果たしてどの局面で討ち取られたか、だが。
連子川の近くで死んだことがはっきりしているのは、山県昌景、土屋昌次。
後ははっきりしない。信長公記の記述では、多くの戦死者の列挙を、追撃戦の記述の後に書いている。
ただし、その中には山県、土屋の記述も出てくるので、後に書いてあるからと言って追撃戦の際に討ち取られたかどうかを断定できない。

ところで、信長公記で印象的な記述として「山へ逃げ上りて飢死」というのがある。
一日の戦闘で飢死というのは考えにくく、追撃戦が何日にも亘って執拗に行われたのか? とも思わせる。
しかし、信長の岐阜凱旋は長篠の戦いの4日後だから、帰途の日数を考えればこの部分は疑問。
全軍が帰還したとは限らないが、戦死者一万のくだりが書いてある箇所と同じところなので、太田牛一の誇張である可能性も高い。

一応、>>204は、信長公記がベースで、後は軍事作戦面から考えてみた次第だが、問題があれば遠慮なく指摘して欲しい。
0211人間七七四年2007/09/11(火) 00:44:21ID:G9Bk5pGC
>>210
「山へ逃げ上りて飢死」これの前後の文章があったら詳細希望。
追撃戦に関しては、徳川勢が主体だったのでそこまでおかしい表現でもないような気がする。
0212人間七七四年2007/09/11(火) 01:48:40ID:U8rqzU/f
>>211
ああ、そう。夜遅いけど、ちょっと手許の信長公記から引用ね。
一段落をまとめて出そう。

「中にも、馬場美濃守手前の働き、比類なし。此の外、宗徒の侍、雑兵一万
ばかり討死候。或ひは山へ逃げ上りて飢死、或ひは橋より落され、川へ入り、
水に溺れ、際限なく候。武田四郎秘蔵の馬、小口にて、乗り損じたる、一段
乗り心ち比類なき駿馬の由候て、信長御厩に立て置かれ、三州の儀、仰せ付
けられ、
 五月廿五日、濃州岐阜に御帰陣。」

以上。馬場美濃の件については、別途どこかで触れたいところ。
徳川については、特に記述は見当たらないようだが、どうでしょう?
0213人間七七四年2007/09/11(火) 01:51:37ID:U8rqzU/f
と、書いてからだが、「三州の儀、仰せ付けられ、」辺りかな。
0214くるるん2007/09/11(火) 02:55:21ID:eHNh4H6a
>>209 >>210
ごめん。。。ちょっと辛口になるけど
信長公記ベースだと
  長篠の上、鳶の巣山へ、五月廿一日、辰の刻、取り上り、旗首を推し立て、凱声を上げ云々。。。

  日の出より寅卯の方へ向けて未の刻まで、入れ替はり入れ替はり相戦ひ、諸卒をうたせ、次第次第に無人になりて云々。。。

時間的に挟撃を恐れての攻撃はオカシイよね^^;
んで同じく信長公記に

  長篠へは攻め衆七首差し向け、武田四郎滝沢川を越し来たり

と記述があって、この時点で勝頼は決戦を決意してるのよ^^
このことは、19日に信長が送った細川藤孝宛の手紙でも確認できる。

あと207にも書いてある通り
勝頼自身が書状で攻撃を仕掛けた理由を書いているんだって!!

>>だから、例えば酒井忠次のような「奇襲」なら、有利とまではいえなくても、かなり欠点を補うことは出来るね。

だから長篠城攻略で攻撃側の武田軍は鉄砲を効果的に使ってるんだって!
別に鉄砲が特別防御に有利ってわけじゃないよ^^;

>>あとひとつ。武田の諸将が果たしてどの局面で討ち取られたか、だが。
連子川の近くで死んだことがはっきりしているのは、山県昌景、土屋昌次。
後ははっきりしない。信長公記の記述では、多くの戦死者の列挙を、追撃戦の記述の後に書いている。

確かにハッキリしないんだったね。
ただ首塚を調査したところによると、相当な数が連吾川周辺にあるとの事で
攻勢時に討たれたと自分は思うよ^^
0215人間七七四年2007/09/11(火) 07:17:30ID:U8rqzU/f
>だから長篠城攻略で攻撃側の武田軍は鉄砲を効果的に使ってるんだって!
俺は、白兵戦に不利、と書いたと思うが。

それに「特別防御に有利ってわけじゃないよ」ってのは、過去の歴史とかを検証する以前に「自明」のこと。
防御とは、1.敵を近づけないことが最善。2.入れないことが次善。3.入れても倒すことがその次。
これは軍事の初歩の初歩。
鉄砲は、当時の他の兵器(刀、槍、弓矢など)に比べて、最も1.を達成するのに適した兵器なんだ。
これは軍事の素人でも分かるのではないだろうか?
実際、鉄砲を装備していない城を同じく鉄砲を装備していない寄せ手が攻める場合、城の3倍の兵力が必要というのが相場。
しかし鉄砲を装備している城を鉄砲を装備していない寄せ手が攻める場合、城の10倍の兵力が必要になる。
0216人間七七四年2007/09/11(火) 07:20:16ID:U8rqzU/f
それに「特別防御に有利ってわけじゃないよ」ってのは、過去の歴史とかを検証する以前に「自明」のこと。
ちょっと分かりにくいな。
それに「特別防御に有利ってわけじゃないよ」の是非は、過去の歴史とかを検証する以前に「自明」のこと。
に直しておくよ。
0217くるるん2007/09/11(火) 14:06:32ID:eHNh4H6a
そっか〜
鉄砲については、ちょっと解釈が難しいね〜^^;
多分 認識自体がお互い違うのかも。

取り敢えず、他の突っ込み所に対しては、どう思う??

自分的に突っ込み所あるけど

・挟撃を恐れての決戦は勝頼の書状+地勢+信長の書状から まず考えられない。
>>204にある武田の騎馬を主力とした突撃は 軍忠状又は当時の戦から考えられない。
>>210に軍事作戦面から考えてとあるけど、長篠城は美濃諸城、高天神、長篠城攻撃という一連の流れ
 この時の織田方の動きと

さすが大身の信長も、わかき勝頼公をふかみ、出かねられたるとハ、合戦過テ後五十日のうちにきこへたり。

という記述を見れば、勝頼がなぜ 合戦に踏み切ったか分かると思う。
0218くるるん2007/09/11(火) 14:09:10ID:eHNh4H6a
>>ところで、信長公記で印象的な記述として「山へ逃げ上りて飢死」というのがある。 。。

普通に考えて地侍や、農民の落ち武者狩りでしょ^^;
長篠の落ち武者狩りは、結構 話が残ってる。
0219人間七七四年2007/09/11(火) 22:07:44ID:U8rqzU/f
>>217-218
まあ、話の主旨は大体分かった。
正直、史料という点では、信長公記は手許にあるが、あとは正直、Webサイト
で掲載されているのをナナメ読みした事があるぐらいだ。
長篠日記とか。信長記か。
俺自身は、傭兵部隊の経験があって、ゴラン高原にいたこともある。
だから、実戦経験も多少だが、ある。
あとは、信長公記を基に、自分の軍事的な考えで、長篠・設楽が原の戦いを考えてみた。
傭兵以前は、防衛大学校にいたので、戦時シミュレーションで長篠城攻防戦は授業で聴講したな。
というわけで、歴史の専門家でないことは断っておく。

長篠城は、「城取り四郎」といわれた勝頼の城取りのひとつという考えと、
家康に対する挑発行為だったという説がある。

落ち武者狩りは、まあ敵国(三河の国長篠)だから十分に考えられる。

むしろ>>204は、鉄砲(当時の火縄銃)を防備に適したものであるというのに同意して書いて、
あとは、むしろ歴史に詳しい御仁に突っ込んで貰った方が良くて、いろいろ情報が得られたらと書いたもの。
あとは、信長公記のソースを希望した人が、どう考えてくれるかを読む事にしよう。
0220人間七七四年2007/09/11(火) 22:22:54ID:6WMWYhtl
>俺自身は、傭兵部隊の経験があって、ゴラン高原にいたこともある。

mjky
0221くるるん2007/09/11(火) 22:49:37ID:eHNh4H6a
>>219
自身が得た、貴重な経験を元に色々と推測するのは大事なことだよね〜^^
ただ長篠は過分に 色々な要素が組み合わさっておきた合戦だから、長篠の戦のみを見ると、謎が多い。
その前後の状況なんかを併せ見ると色々と見えてくるかも。

当時の人の書状なんかを見て「信長公記」や「甲陽軍鑑」の記述を併せ読むと、色々辻褄が合って楽しいよ^^
そんなわけで、「戦国遺文集」というのがおススメ。


あと自分も専門家じゃないよ。
0222人間七七四年2007/09/11(火) 23:10:01ID:AoGs+KGs
>俺自身は、傭兵部隊の経験があって、ゴラン高原にいたこともある。
どこかの板とかでその経験語ったりしてないですか?あったら教えてください
0223人間七七四年2007/09/11(火) 23:19:19ID:G9Bk5pGC
>防衛大学校にいたので、戦時シミュレーションで長篠城攻防戦は授業で聴講したな
へぇー、やっぱり今でも過去の戦史のシュミレートとかするんだね
基にするのはやっぱり「大日本戦史」なの?
0224人間七七四年2007/09/11(火) 23:25:36ID:U8rqzU/f
>>222
読んだようだな、内容的にマルチポストかも知れないが、ダブって読ませてしまったのなら、済まなかったな。
日本史板で書いた。だが、何か自演だどうだとか、また長篠以外の話題が割り込んできて展開が
つまらんから脱出した。
しばらくは、ここを最初からひたすら読ませて頂いていたな。
でもそこでは傭兵のことは書いていない。2ちゃんで書くのは最初かも知れんな。

また体験談で恐縮だが、戦闘時、最も怖いのは、やはり弾が出なくなったときだろう。
弾切れもだが、もっと怖いのは弾詰まりを起こした時。
銃を使うときは、そういう危険を常に伴っているので、自分の身を護る事を第一に
考えてから攻撃を行う。柵を作ったり、相手が警戒していない時を狙ったり、城壁を
挟んで撃ち合ったりという状況の、兵士たちの心境は、本当に良く分かるよ。
火縄銃は、放ってからの次弾の装填の際に、銃身内を清掃しなければならない。当時
はライフルは切られていないから、掃除は難しくないだろうが、手間と時間がかかる
から、よほど安心感を与える環境がないと、恐ろしくて作業など進まないと思う。

>>221
いろいろ紹介してくれて感謝する。今は日本で悠々自適の生活で、読書が楽しみだか
ら、手に入れて読ませて頂くよ。
0225人間七七四年2007/09/11(火) 23:34:50ID:U8rqzU/f
>>223
スレ違いになってきたから、最小限で書くが、「大日本戦史」は使った。
そして布陣図というものを過去の文献からよくあれだけまとめたと思う。
あれはプロシアから招聘されたヤコブ・メッケルが、山県有朋をはじめ、
日本の明治陸軍を教育する傍ら、指導して編纂させたものと聞いた。

ただ、防大の授業は、余り政治的な動機や目的に重きをおかず、専ら戦
術上の長所、短所について、仮定の場合も含めて話を進めていた。
本当は、将兵が政治目的も理解して動くのが理想だが、なかなかそうは
いかない。特に負けているときはね。
0226連投になったけど2007/09/11(火) 23:46:37ID:G9Bk5pGC
私もどっちかというと一戦国史ファンと言ったところです

信長公記のあのくだりは聞き書きならではの難解さがあると思う。
>中にも、馬場美濃守手前の働き、比類なし・・・1
>此の外、宗徒の侍、雑兵一万〜 水に溺れ、際限なく候・・・2
>武田四郎秘蔵の馬、小口にて、乗り損じたる〜五月廿五日、濃州岐阜に御帰陣・・・3

この3つの文章が時系列順に並んでないように自分には感じる。
時系列順でいくと 1->3->2 の順番だと思う。
そう考えれば追撃戦の長さの問題は解決される。
ちょっとうまく考えがまとまらずに書いてしまったけど
>>218
そうですね。主体的なのはむしろそっちだと思います
0227人間七七四年2007/09/11(火) 23:49:49ID:G9Bk5pGC
やべwあまり考えながら書きすぎて連投になってないしw
>>223=226です。書き込むの遅くてすいません。
0228人間七七四年2007/09/12(水) 00:24:23ID:a01N7Nu2
>>224
もしかして同じ話題のあのスレ?
だったら右に同じ。こっちを勧められてdできましたよ。

>よほど安心感を与える環境がないと
だからこその三人一組制であり、あの大軍勢だったんでしょうね
0229中山鹿之介 ◆.Ooo.qq.q. 2007/09/12(水) 08:15:58ID:VZ+ekdON
このスレにテレンス・リーさんが降臨したって本当ですか?w
0230人間七七四年2007/09/13(木) 07:44:58ID:wJZtr4bd
0231人間七七四年2007/09/15(土) 16:09:43ID:tldMgVfD
>>204
状況はとても良くわかった。
でも兵力の劣る分、攻撃の決定的な理由になってないような。
挟撃されて、負けるのは分っているから、一か八か突撃と言った所かな?
それなら、戦う前から勝負がついていた事になるし。
あるいは、逃げ出して、朝倉滅亡の二の舞になることを恐れたとか。
やはり、想像になってしまうんだけど。
0232人間七七四年2007/09/15(土) 18:09:08ID:eKy8OfoM
>>207
>>214
>>217
0233人間七七四年2007/09/15(土) 20:36:37ID:cjnbF5a7
いや、信長公記とかの文献は、それ自体に信憑性があるかの問題もあるから。
歴史研究家も言ってたけど、資料の価値がどれくらいかってこと。
書状は1級の歴史資料としての価値があるけど、
記述ものは後から書かれたものだから。
正確に近いけど、正確とも言い切れないよね。
筆者の独断が入り込む余地があって。
かといって、研究内容もなければ、それが史実となるのかもしれないけど、
現時点ではね。
0234人間七七四年2007/09/15(土) 20:43:29ID:cjnbF5a7
>>217
信長側から見ると、すごく納得がいく。
なるほど、と思う。
でも勝頼側から見ると、劣勢なわけだし、
武田側から攻撃する理由(しかも攻城に近い)がイマイチ、
ピンとこないんだよね。
0235人間七七四年2007/09/15(土) 21:04:22ID:cjnbF5a7
もし、鉄砲を配備してなければ、桶狭間のように、
少数精鋭の突撃で突破できるかもしれない。
それなら、魚燐とか突撃用の陣形をとるでしょ?
武田は実際は、鶴翼で突撃してるんだし。
包囲して殲滅する気だったんだろうか、3倍もの兵を。
それも不思議な点。
0236人間七七四年2007/09/15(土) 21:58:17ID:eKy8OfoM
>>233
書状と書物を併せて考えると結構納得がいくよ〜。

>>234
明智城、高天神でマゴマゴして援軍が間に合わず
18日、長篠救援に到着したものの、陣城を拵え引き篭もり鉄砲を放つだけの消極的な連合軍。

それを見て20日武田軍、滝沢川を越え陣を張る。
陣を張った武田軍は三方を川と山に囲まれ、前方には連合軍。
つまり兵法で云うところの「死地」に陣を張った。
この時点で退却は不可能になり、決戦を決意したように思われる。

甲陽軍鏡記述

 さすが大身の信長も、わかき勝頼公をふかみ、出かねられたるとハ、合戦過テ後五十日のうちにきこへたり。

決戦前夜、勝頼書状。戦の安否を心配する甲州の長坂光堅宛

 然者長篠之地取詰候之所、信長家康為後詰雖出張候、無指儀及對陣候、敵失行之術、一段逼迫之躰候之条、無二彼陣へ乗り懸、 云々

同日、信長書状、細川藤孝宛

 長篠との間三里余候、敵之備雖為節所、十八日押詰鉄砲放候、通路も不可合期候、却而擒候、此節根切眼前候

ようは、勝頼は信長がビビッて引き篭もってるから、ボコボコにするよ?って感じだったけど、実は計略でしたってことだと思うよ。
あとは、よくいわれる外線戦力の欠如、経済格差に焦りを感じて決戦をしたってのが、真相じゃない?







0237人間七七四年2007/09/15(土) 23:25:18ID:t6AGCJvh
>>235
武田の中には、まだ「三方ヶ原」の神話が生きていたのかもしれない。
家康だけではなく、信長の援兵(平手汎秀)もいたし、武田からすれば、やはり織田・徳川連合軍だっただろう。

信長って、最初から奇想天外なアイディアや、優れた軍略を考え出す訳ではなく、一旦酷い目に遭ってから、その対策を考えることで、いろいろな作戦を考えるみたいだね。
そして、それで最も大切なのは、最初に負ける際、最初から参加しないか、参加しても絶対自分は死なないで帰ってくること。
それがないと、その後の巻き返しが出来ない。

逆に明智光秀は、そういう信長のやり方が分かっているから、一発必中の千載一遇の好機を窺ったんだと思う。
0238人間七七四年2007/09/16(日) 00:01:56ID:6rSMWlwR
武田軍が馬防柵に突撃した。
馬鹿だろw
0239人間七七四年2007/09/16(日) 01:46:41ID:iIJy4nxH
その馬防柵にも色々と説があって牧野文斎氏が
ひ弱な馬防柵をワザト見せるようにし、武田軍を誘引したというユニークな説があるね〜^^
0240人間七七四年2007/09/16(日) 10:11:20ID:clJzfMmw
現地で再現していたものは、馬防柵だけじゃなく塹壕つきだ。
武田軍も近づいてみたら、小川はあるし、柵は意外と頑丈だし、
織田軍もなんか多いし、やばいなと気がついた時には、遅かっ
たというのが、真相じゃない。
0241人間七七四年2007/09/16(日) 12:08:49ID:w9LGlwGO
あの場所に三段の馬防柵を配置するスペースはないと思うんだが実際はどうなの?
0242人間七七四年2007/09/16(日) 13:02:56ID:5jrfyMGS
>>241
武田方が攻めで
織田徳川が防衛戦なわけね
妄想すると、あの場所に掘りを作り
天然要塞的な小規模城を築いていた可能性がある
武田方からすれば
本格的に居座られる前に早期に叩いてしまおう
ってのが作戦の本質でしょ
0243人間七七四年2007/09/16(日) 18:23:11ID:yQ+lEy1T
関ヶ原同様に守備側が周到な準備をしてたってことだな。
0244人間七七四年2007/09/16(日) 22:54:19ID:iIJy4nxH
古文書が出るとスルーされるスレだな。
0245人間七七四年2007/09/17(月) 10:19:36ID:i9tts5UK
>>242
それなら柵が出来る前に攻撃開始すればいいだけでは?
少し前まで雨も降ってたらしいし。
0246人間七七四年2007/09/17(月) 11:16:08ID:NdVEzn9Q
>>245

武田軍が設楽ケ原に着陣したときにはもうすでにあったんですが…
0247人間七七四年2007/09/17(月) 12:52:16ID:hi3+scd+
>>245
織田徳川が設楽が原に着いた頃は、雨。

13日に出陣して、翌日には岡崎に着陣しているのに、それからダラダラと兵を進め、設楽が原に着いたのは18日。
途中何度も宿営している。急いで来れば15日くらいには長篠城に至れるのにわざわざ状況を見ながら進軍している。
(15日は動かず、岡崎に逗留、16日は牛窪城宿泊、17日は野田原野営)
目的は武田勝頼に攻められている長篠城の救援のはず。家康などは一刻も早く長篠城に行きたいはず。

天候を見ていたのだろう。旧暦の天正3年5月中旬なら、梅雨に入った頃。
入梅以前なら天気が良く、鉄砲が使えるが、反面設楽が原のグラウンド・コンディションも良く、武田の騎馬は思い切り走れる。
知らせはとっくに来ているのに、13日に出陣なのは、入梅を待ったということ。
そして、おそらく次に考えたのは、「梅雨の中休み」。雨が降っていては、武田の騎馬は十分に走れないが、火縄銃も実戦では殆ど使えなくなる。
それが、途中のダラダラ行軍。一通り雨が降り、かつそれが止むのを計算しながら進んだのだろう。
18日到着も雨。それから20日まで雨が降ったらしい。止んだのは20日午後。
信長が酒井忠次に鳶の巣山砦を奇襲させたのは21日早朝。そして武田の突撃開始。

設楽が原は雨が降った後で、地面は泥濘。馬場コンディションは最悪。雨は止んでいて、鉄砲の使用に支障はなかった。
0248人間七七四年2007/09/17(月) 12:56:11ID:hi3+scd+
ちなみに、18日到着から20日までの雨の間に、馬防ぎの柵の構築を行っている。
緻密に計算した結果の勝利といえるだろう。
0249人間七七四年2007/09/17(月) 13:27:42ID:hi3+scd+
>>231
遅くなって申し訳なかったが、突撃の動機だが、いろいろな要素は考えられる。
しかし、何と言っても一番の要素は、

織田信長と徳川家康の両名が、揃ってそこにいる。

ということではなかったか。
こんな状況は、まず普通では考えられない。
三方ヶ原の戦いの時ですら、徳川家康に織田は援兵を送っているが、信長本人はそこにはいない。
戦国時代は、領地争奪戦だが、総大将である国主を討ち取れる機会なんて、普通は敵領国を殆ど制圧し、追い詰めない限り基本的には、ない。
敵の国主が、しかも2人も目の前に陣取っているんだ。
これでみすみす退却、とは、余程の自制心がない限り、極めて難しいと思われる。
逆に信長は、そういった戦国武将の心理を巧みに読んで、かつ利用できる稀有の武将だったのだろう。
0250人間七七四年2007/09/17(月) 17:11:23ID:pNL0yx+W
>>246
武田軍はずっと前から長篠にいたわけだが。
早めに転進すればいいだけでは。
決戦目的なら、敵が体勢整えるのを傍観するのはアホかと。
0251人間七七四年2007/09/17(月) 18:43:41ID:NdVEzn9Q
>>250

いやいや、態勢が整ってないのは武田軍も一緒だから。
織田、徳川連合軍が援軍に来たと知ったところで、直ぐには行動できんでしょ。長篠城はまだ陥落してないし、それなりの対応と、連合軍に対しての作戦も立てなければならないし。
事実、山県、内藤、馬場らは合戦には大反対だったし。そんなことしてりゃすぐに行動など出来るはずがない。
0252人間七七四年2007/09/17(月) 21:33:16ID:7wCvvjrN
>>山県、内藤、馬場らは合戦には大反対

えーーーー!?
0253人間七七四年2007/09/17(月) 22:04:01ID:NdVEzn9Q
合戦を進めるとも、必ず味方は敗北し、甲州へ逃げ帰ることになろう。されど我らは敵に総角をみせるほどなれば、多くは生きて本国には帰るまじ、はやく軍の手分けをせよ。
『武田三代軍記』より。
0254人間七七四年2007/09/17(月) 22:23:52ID:PCtIPOhz
武田側は長篠城を落とすまで織田&徳川の主力を抑えるために主力を向けた。
だから武田としては持久戦狙い。決戦する気は全くなし。
予想外の酒井隊の奇襲により後方を絶たれる。
武田の重臣達は退却を進言。
勝頼としては遠征の出費やらここで引いたら長篠城を再び補修されてしまし、
追撃による被害も大きいことから、勝算は少ないが敵主力との決戦に踏み切る事を決意。
てな感じに思ってたんだけど、これって間違ってますかね?

ところで、騎馬兵なんか戦国時代には存在しなかったとか聞くんですけど、本当なんでしょうか?
存在しないというか、当時日本に存在した馬は小さくて結局騎馬武者(武将とか部隊長だけらしい)でさえ、
戦闘時には馬を下りて戦ったとか。
これが本当だとすると、長篠の戦で用いられたのは馬防柵というより人防柵?
実際のところどうなのか非常に気になります。
0255人間七七四年2007/09/17(月) 22:53:53ID:TwqWoAi7
織田は敵に見えないように陣を敷いたというから
武田からは織田の援軍の兵数も
長篠に来るまでにかかった日数から士気も低いと考えて
三方が原のように勝てると勘違いしたんじゃ
0256人間七七四年2007/09/17(月) 22:54:13ID:NdVEzn9Q
なんどもすまんが、

酒井隊の鳶ノ巣などの奇襲は設楽原での合戦が始まった後だが。
各書籍によっては合戦前との記述もあるが、それらは江戸期に奇襲の重要性と効果の為に書かれた物らしい。
馬防柵だが、勿論馬だけでなく、人を防ぐ柵でもある。武田と聞くと騎馬隊が思い浮かぶと思うが、武田は長槍隊が実は有名だな。
騎馬隊で戦うのは中世。戦国時代はどこも足軽隊が主になる。
0257人間七七四年2007/09/17(月) 23:18:54ID:7wCvvjrN
>>253
武田の支配体制を考えるとそれは考えられないよ。
中央集権は晴信が信虎を追放した時点で不可能になった。
それに勝頼は正式な当主ではないし。

>>254
酒井隊の攻撃は時間的に決戦の動機にならない^^:
滝沢川を渡った時点で退却は不可能だから、それ以前に決戦を決意したんだよ。
決戦の理由自体は勝頼が手紙で書いてる^^

騎馬については

先刻申含候場所之事、様子被見積、柵等能々可被入念候事肝要候、馬一筋入可来候、恐々謹言
五月十九日家康
(花押)石川伯岐との、鳥居(居)彦右衛門との

ていう龍城神社文書というのがあって、これが騎馬隊の存在を肯定してる資料みたいになってるけど
文体に不自然な所が多くて偽造の疑いが強いと言われてるね^^;
また「甲陽軍鑑」巻六記述

いずれを馬をバ大将とやくしゃと一そなへの中に七、八人のり、残り人みな、馬あとにひかせ、おりたつて鑓をとつて、一そなへぎりにかかる。

とあり、また

馬入るとあるにかざりことばかと見え候。

ていう記述があるので微妙だよね〜^^;

んで、近藤好和氏は著書『騎兵と歩兵の中世史』のなかで、『今昔物語』、『平家物語』、『太平記』、『明徳記』に於ける合戦の描写を比較検証し日本の騎兵の変遷を考察しておられ、
それによると、前九年の役から、治承承平の乱では、馬上での騎射戦闘の記述が多く、『太平記』では馬上での打ち物また、下馬しての戦闘描写が多く、
室町時代の明徳の乱を記す『明徳記』では、下馬戦闘の記述が多くなっていると指摘。
これは平野での両軍対峙しての合戦から、城郭などの拠点戦闘に戦闘形態が推移し、それに伴う飛び道具の発展が下馬戦闘を盛んにさせたとしている。

だから騎馬突撃はなかったと思うけど、一部ではあったのかな〜??
でもフロイスも『日本史』の中で 日本人は馬から降りて戦う って書いてるし。。。やっぱりなかったんじゃないかな〜??
0258人間七七四年2007/09/17(月) 23:35:22ID:NdVEzn9Q
>>257

>>253は勝頼の言葉じゃなく、山県らの宿老が跡部など勝頼の側近に吐き捨てたセリフなんだけど…
0259人間七七四年2007/09/18(火) 00:07:52ID:GJE5i9ou
>>257
>だから騎馬突撃はなかったと思うけど、一部ではあったのかな〜??

敗走する敵を追う追撃戦だけかも。
0260人間七七四年2007/09/18(火) 00:22:02ID:5AJ1ISrk
信長公記の長篠の戦のところに、
武田軍の小幡隊が馬上巧者として名高い関東衆の名にかけて騎馬で突撃してきた、
との記述があるし、同じ小幡隊は甲陽軍鑑でも騎馬の扱いが上手いとされている。
よって少なくとも関東では、騎馬による突撃戦法も規模はともあれあったと見て間違いないかと。
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