長篠・設楽原合戦の真実
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:10:27ID:C+plg2A70002名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:17:24ID:XrDqkzEf武田軍の兵力が、三方ヶ原の時より減っているのは何故だろう。
勢力は信玄存命時より伸びているはずなのに。
0003名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:24:04ID:yCFjqnSyだから1千しか生還できなくてもすぐには滅ぼされなかった
0004名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:26:50ID:XrDqkzEf0005名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:49:37ID:+axJQ5jM状況が違ってくるだろうけど。
信越国境って冬は雪で封鎖される地域だっけ?
0006名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 04:36:03ID:zb2GuJkF0007某研究者
2006/07/18(火) 05:10:50ID:358Q52WJ>もともと数で劣る武田軍の犠牲者の多くは、鉄砲によって
>ではなく、敗走時に討ち取られたものである。竹束柵を防
>御に幾度となく突撃を繰り返していく内に疲労困ぱいし、
>指揮命令系統が崩壊、まさにこの時織田・徳川連合軍の反
>撃を受けて、たまらず敗走したと思われる。
雨が降った後の泥の上を移動して疲労したのが
軍が崩壊した最大の原因と言う
事だっただろうが
雨が降って居なかったら
勝敗はどう成って居ただろうか
無論雨が降らなければ
織田軍も勝算は無いと見て
戦わなかった可能性も
有るだろうが
何時迄も戦いを避ければ
領土が制圧される危険も
有る訳だろうか
0008名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 05:18:10ID:5pS1qhFq0009某研究者
2006/07/18(火) 05:21:29ID:358Q52WJとは言え
泥の中を無理に突入する必要は
有ったのかだろうし
泥等が無い状態で決戦を挑むと言う
方向も有ったのかも知れぬし
城は少数兵力で包囲して迂回すると言う
方向は無かったのかだが
0010某研究者
2006/07/18(火) 05:28:15ID:358Q52WJまあ泥の無い状態で信長と
直ぐに再戦出来る目処が
無かったと
考えたのかどうかだが
0011某研究者
2006/07/18(火) 05:31:16ID:358Q52WJ両翼は敵陣を迂回したから
疲労が増大して壊滅したと言う
可能性も有るのかも知れぬが
0012某研究者
2006/07/18(火) 05:39:18ID:358Q52WJ>この軍役率を参考にすると、長篠合戦に参戦した織田軍の兵力を通説に従い三万五千とすれば、鉄砲は約五千挺ほど用意出来た計算になる。
鉄砲は5000だったと言う
意見も有る様だが
此れだけの数の銃を用意出来たのか
どうかだが
0013某研究者
2006/07/18(火) 05:45:26ID:358Q52WJ土塁の上に槍兵が立って
敵兵の陣地内への進入を防ぎ
更に土塁内部の銃眼から射撃をしたと言う
可能性も有る訳だろうか
0014某研究者
2006/07/18(火) 05:49:38ID:358Q52WJ且つ敵が泥の中を行軍して来た割には
信長軍は可也やられている訳だろうし
泥が無ければ下手をすると
負けていた可能性は有る訳だろうか
(陣地も無ければ恐らく
完敗だろうか)
0015某研究者
2006/07/18(火) 05:55:59ID:358Q52WJ戦国時代の鉄砲の総数は15万丁と有るから
5000程度は十分用意出来た可能性は
有る訳だろうか
0016名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 06:09:25ID:FcgzsmUQ石高(太閤検地による算出)だけでも、織田家は約400万石、武田家は100万石弱、徳川家が55万石
織田・徳川と武田の比率は9:1(但し、織田家は武田との方面に投入できる戦力を考えると、兵力差は縮まりますが)
信玄上洛時とは違い、織田家が投入できる戦力は確実に上がっています。
>11
両翼部隊は中央部隊の早期退却による士気の壊滅から退却〜追撃による損害でしょう。
>13-14
倍以上の兵力がある場合でも、無理をせずに相手が攻め疲れるのを狙うために持久戦を選んだとも考えられます。
信長は慎重な性格と思いますので、あれほどの大戦力を持ってきたのは位攻めの効果を狙っていたかも?
防衛線を築かせたのは武田軍との決戦の為ではなく、武田軍が攻撃をしてくる可能性を考えていたの考えも面白いかもしれませんが。
極論を言えば、長篠城を守り切れば良いだけの話です。
0017某研究者
2006/07/18(火) 06:22:03ID:358Q52WJ信長がこれを狙って中央に銃や精鋭を集中配備していた可能性も
有るのかどうかだが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%AA
>16世紀後半には2:1(=槍:銃)となり、16世紀末には1.5:1(=槍:銃)、17世紀初頭には1:1(=槍:銃)となっていた。
同時期のテルシオの銃兵の比率の方が
信長軍より遥かに多い訳だろうが
マスケット銃は精度が低い訳だろうし
火縄銃と異なり至近距離からの銃撃しか
意味は無かった訳だろうか
マスケット銃で至近距離からの銃撃をやったのは
カール12世辺りだけだったかも知れぬが
オランダ式大隊や3兵戦術で使用された様な
大量の軽量砲での攻撃と言うのは
強力かも知れぬが
テルシオの様な密集隊形相手以外は
役に立たぬかも知れぬが
0018某研究者
2006/07/18(火) 06:27:15ID:358Q52WJ有るだろうが
日本の騎兵や
16世紀後半のピストル騎兵は歩兵に突撃は
しなかった訳だろうが
グスタフ・アドルフのサーベル騎兵は
突撃をした訳だろうか
0019某研究者
2006/07/18(火) 06:36:09ID:358Q52WJ>パイク兵(Pikeman) - パイク(長槍)を持ち、鎧は一部か、あるいはまったく装備しない槍兵。
>コルスレット(Corselet) - パイクを持ち、鎧兜で完全武装した槍兵。
>アルケブス銃兵(Arquebusier) - アルケブス(火縄銃)を持つ銃兵。
>マスケット銃兵(Musketeer) - マスケット銃を持つ銃兵。なお、この当時のマスケットは、アルケブスより大型の銃の呼称である。マスケットが縮小され、先込め銃全般を指す呼称になったのは17世紀のことである。
コルスレットと言うのは
火縄銃を完全に防御出来る鎧を
着て居る兵なのかだが
マスケット銃(重小銃)では
やられていた訳だろうか
>テルシオ1部隊は、A中隊10個、B中隊2個の12個中隊で構成された(兵300名の場合は、A中隊8個、B中隊2個の10個中隊)。総数は3,000名となり、その内訳は、士官と事務員132名、パイク兵1080名、コルスレット1110名、アルケブス銃兵448名、マスケット銃兵230名である。
>全体の指揮は大佐(コロネル)が司り、彼を補佐する将校団(テルシオ全体の本部要員)は30名前後だった。
鎧を着たパイク兵(コルスレット)も可也居るが
マスケット銃兵も可也居る訳だろうが
至近距離からの銃撃以外は
当たらなかったと言う事かも知れぬが
後で銃兵の比率が多く成ったと言う事は
鎧を着た兵も減ったと言う事かも知れぬし
至近距離しか当たらないマスケット銃は
脅威では無いなら
日本の軍と白兵戦をしたら
負けたと言う事は無いのかだろうし
白兵戦前にも火縄銃の精密射撃で
可也ダメージを受けた可能性は有る訳だろうし
騎兵はピストル騎兵なので歩兵に突撃は
しなかったと言う可能性も有るだろうが
オランダ式大隊の軽量砲も
散開隊形の日本と戦う場合は
余り役には立たなかったと言う
可能性も有るだろうし
逆に日本側の大量の火縄銃の精密狙撃で
可也の被害を出し
騎兵はピストル騎兵なので歩兵に突撃は
しなかったと言う事は無いのかだが
0020名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 06:37:32ID:FcgzsmUQある程度統制された射撃(with轟音)に及び柵外の妨害により安全圏から相手の戦力・士気を削る。
槍衾を形成できる密集隊形に対して、統制された射撃は効果があったでしょう。
若しくは矢合わせ・投石の遠距離の交戦の段階で中央部隊の士気が減っていた可能性もあります。
(何しろ、武田方は遮蔽物が皆無な状態に近いですし、野戦用とは言え完成された陣地を攻める方ですから)
それと、wikiに記載されている武田家の損害に対する疑問がある程度の真実かどうかが鍵でしょうね。
(当然、織田・徳川連合軍の損害も遥かに低下する訳ですから)
0021某研究者
2006/07/18(火) 06:38:29ID:358Q52WJ壊滅した可能性も高いのかも知れぬし
仏軍もサーベルチャージと言うのが
有っただろうか
0022某研究者
2006/07/18(火) 06:40:35ID:358Q52WJチェリニョーラのスペイン軍や
信長軍の様に障害物を
築けば
火縄銃の精密射撃で殲滅出来た可能性も
有るのかも知れぬが
陣地への重砲の攻撃でやられた可能性は
有るのかどうかだが
0023名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 06:41:06ID:uQoYMef+鳶ノ巣山を固められてたらどうにもならなかった、みたいなことを太田牛一も書き残している
そして徳川軍酒井勢と、織田軍馬廻選抜隊の奇襲によりこの鳶ノ巣山が落ちたことで武田軍は包囲される破目になった
0024某研究者
2006/07/18(火) 06:56:52ID:358Q52WJ>それとやはり武田軍は戦うべきではなかった。鳶ノ須山を攻略されて背後を取られたとしても、何とか撤退
>を試み、織田・徳川軍を山岳地帯へ引きずり込み、ゲリラ戦で殲滅することも不可能ではなかったと思う。
と有るが
此れは可能だったのかどうかだが
0025名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 07:13:04ID:FcgzsmUQ五月廿日戌の刻、のりもと川を打ち越し、南の深山を廻り、長篠の上、鳶の巣山へ、
五月廿一日、辰の刻、取り上り、旗首を推し立て、凱声を上げ、数百挺の鉄炮を僮と、はなち懸け、
責め衆を追ひ払ひ、長篠の城へ入り、城中の者と一手になり、敵陣の小屋々々を焼き上ぐ。
籠城の者、忽ち運を開き、七首の攻め衆、案の外の事にて候間、癈忘致し、鳳来寺さして敗北なり。
鷲の巣山へは20日22時移動開始、攻撃は21日8時。設楽が原の戦闘は21日朝
これを考えると、最初は小競り合いだったのが鷲の巣山へ別動隊が攻め入るのを見て、
ある程度手薄になったと勝頼が錯覚して本格的に戦闘を命じたのかも。
0026名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 07:17:50ID:FcgzsmUQ20日22時まで
鷲の巣山に移動・到着〜攻撃開始
21日朝
設楽が原で小競り合い
21日8時
鷲の巣山周辺の残敵壊滅・長篠城包囲網崩れる
本格的交戦の開始
>25に解釈の間違えがありましたことお詫びいたします。
0027某研究者
2006/07/18(火) 07:22:11ID:358Q52WJ信長軍が銃を中央に集中した為に
中央が早期に崩壊した事が
原因かも知れぬが
武田軍が早期に退却したと言うなら
信長軍の損害が妙に多いが
信長軍が無理な追撃をした所為と言う事は
無いのかどうかだが
0028某研究者
2006/07/18(火) 07:41:01ID:358Q52WJ失礼17世紀後半迄は
西欧でも火縄銃が主流と言う事だっただろうが
日本の様に狙撃はして居たのかだろうし
オランダ式大隊等を見ると一斉射撃をして居た様に見えるが
テルシオではどうだったのだろうか
0029某研究者
2006/07/18(火) 08:25:24ID:mXnYUZaD>ホイールロック銃を主力火器として採用したのは、グスタフアドルフのスエーデン軍が有名です。
>30年戦争で、グスタフアドルフ軍が活躍したのは、ホイールロック式銃のおかげとも言われています。
>ホイールロック式銃の欠点として、高価で故障が多かったため、採用しなかった国が多い事は事実ですが。
発射速度は火縄銃より早いのかも知れぬが
狙撃はして居なかったと言う
事だろうか
0030某研究者
2006/07/18(火) 08:34:58ID:mXnYUZaD陣地や城内からは一斉射撃では無く
一人毎狙撃していたかも知れぬし
此れを正面から攻略すれば
可也ダメージを受けたと言う可能性は
有る訳だろうか
0031某研究者
2006/07/18(火) 08:35:54ID:mXnYUZaDハンマーの反動と言うのは
有るのかだろうし
無いとすれば精度は
フリントロックよりは
良かった訳だろうか
0032某研究者
2006/07/18(火) 10:11:16ID:mXnYUZaD明らかかも知れぬし
制海権が無ければレパント後のトルコの様な状況に
陥る訳だろうか
0033名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 15:58:15ID:qbmmhAek「三段撃ち」の言葉は、この想定の一つとして使用されてきたと思われるが、二つの解釈がある。
・「三千挺の三列交代射撃」はありえない。
目の前に敵がいる、いないにかかわらず「千挺ずつ絶え間なしに発砲を続ける事になる。
・鉄砲を三段に分けて交互に撃つ形で、たとえば「三人一組で順次に撃てる体制をとることだ」
小瀬甫庵の『信長記』はこの「千挺ずつ」を下知として記すが、鉄砲使用場面とは区別している。
二つの解釈は実際の撃ち方では大きな隔たりがない。
ただ「鉄砲計を相加」がどんな撃ち方で有効なのかについては議論がかみ合ってない。
0034名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 15:59:16ID:qbmmhAek0035某研究者
2006/07/18(火) 16:20:30ID:mXnYUZaD前後に入れ替わって放ったと言うのが
妥当なのかも知れぬし
1000−5000もの銃眼が
土塁に有ったのかどうかだが
0036名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 19:06:44ID:eEoVUw2W長篠合戦 武田の敗因
ttp://makimo.to/2ch/hobby_warhis/1046/1046579990.html
長篠合戦 武田の敗因 U
ttp://makimo.to/2ch/hobby_warhis/1047/1047832129.html
「長篠・設楽ヶ原の戦い」ー武田軍の敗因は?その3
ttp://makimo.to/2ch/hobby_warhis/1070/1070044365.html
0037名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 19:07:16ID:eEoVUw2Whttp://yasai.2ch.net/test/read.cgi/army/1013088044/
0038名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 22:20:39ID:08lN5u2Y0039名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 22:32:35ID:BlNgUoa2弱体化していく武田を見るのは耐え難い辛さだったろうな
0040名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 23:51:33ID:jAK9Gs7R0041名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 10:34:34ID:QQtFGndq〜真説・長篠合戦〜
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~b_stone/nobunaga/rekishi/nagasino_1/nagashino1_1.htm
0042某研究者
2006/07/20(木) 15:14:02ID:vMkVs8lo中央を早期に崩壊させて
勝利したと言うなら
矢張り鉄砲の集中運用で
勝利したと言う
事かも知れぬが
アジャンクール同様に泥が無かったらどう成って
居ただろうか
0043某研究者
2006/07/21(金) 11:33:29ID:h2bDD/ps全軍を撃破と言うのは
良く有る事なのかだが
本隊は襲撃を受けぬ様な後方に置いて
外線作戦をやられれば
兵力が劣勢なら大概は負けると言う
事かも知れぬが
0044名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/21(金) 19:52:55ID:E9x6GI8Hずっと読みやすくなるし、文章の格も上がりまするよ。
0045名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/21(金) 20:23:26ID:+Up0F6nj「〜し」「だろうか」「だが」とかも、その後に続く言葉に繋がってなかったり、それで言い切りの形になってたり。
0046名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/21(金) 20:56:58ID:St/YxcuD0047名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/21(金) 21:00:40ID:NuJsHYTHそういう人ですから。
忠告するなんて無粋ですよ。
0048名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/21(金) 21:09:02ID:St/YxcuD無駄なのかもしれないのは
自分でも分かってるだろうか
しかし忠告したくなるのも
仕方ないのではなろうか
自分でも書いてて頭痛くなるのではないだろうか
0049某研究者
2006/07/21(金) 23:14:52ID:+Up0F6njそもそも歴史に深くない諸君らには
そんなことしか言う事はないのだろうか
私は私なりに調査したことを書いたまでだが
ともあれ長篠戦で長期戦になり不利になるのは
連合軍の方なわけであるし
合戦が武田軍占領地域の中で行われていることから
明らかであるが勝頼は本当に焦燥していたのだろうかだが
0050名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/22(土) 00:09:30ID:VG5ZfgSM連合軍は長篠城の包囲
0051名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/22(土) 00:16:22ID:VG5ZfgSM明らかに不利なのは武田側だと思いますが?
連合軍は長篠城の包囲を(設楽が原の合戦前日とは言え)解く事に成功しています。
補給に関しても、連合軍側は距離的に優位に立っていると思いますよ。
逆を言えば、鷲の巣の砦を落とした時点で連合軍側が武田軍を包囲下に置きつつあったとも言えます。
0052名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/22(土) 00:21:19ID:m7i2LcI1偽者さんIDがw
0053某研究者
2006/07/22(土) 00:50:35ID:scEkRxkLこういう戦いが出来れば
長篠の武田軍も勝てたかも知れぬが
織田軍は中央の追撃の為に陣地から出て来たのか
どうかだが
中央が後退しても此れは作戦であると思えば
両翼は崩壊しなかった可能性も
有る訳だろうか
0054公孫参
2006/07/25(火) 16:40:41ID:NZLyEYWC退却できない状況だったとか?
0055名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/25(火) 17:08:54ID:Iln7E32Q落とされてから戦ったわけじゃない。
0056名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/28(金) 17:58:51ID:XmsMv43/1つは建勲神社本、もう1つが池田家文庫本です。前者では問題の部分は「鉄砲千挺ばかり」とあるのに対し、後者では「千挺」の右上脇に小さい字で「三」が付け加えられているのです。このことから、次のようなことが推測できます。
つまり本来太田牛一は、千挺と記したのだが、後世、流布した説(三千挺説)をみた人物がこれに加筆したのではないか、と。上で見たように鉄砲は各地からの寄せ集めであり、その全てを牛一が把握していたとは到底考えられません。
ですからこの千という数字も概数であることは間違いなく、その証拠に「ばかり」と表現しているわけです。
0057名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/28(金) 18:25:13ID:gjLeS4RC0058名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/28(金) 19:25:12ID:t0gQziV00059名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/29(土) 05:13:01ID:+Il5Xqfbしかし、主力を犠牲にして圧倒的な敵主力を押さえて、敵の弱い所を穴山などの部隊が破って勝頼は逃げられたと考えられる。
山県などが、織田本隊に攻撃仕掛けて無ければ、勝頼も討ち取られていた可能性が高い。
武田からすれば、殲滅からの出来うる限りの見事な撤退だったと考えるよ、兵力差考えるとね。
0060名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/29(土) 05:43:27ID:MkdwNw/f0061名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/29(土) 07:07:36ID:kzdTMvJB撤退がまず親族衆主体で行われたから、前線部隊が見捨てられたと動揺して崩れたせいで追撃の被害がでかくなったともいえるな
0062あぼーん
NGNG0063名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/03(木) 09:14:03ID:oeapCDYE同様に太田牛一の信長公記が第一級史料とされている理由はなんなのでしょうか?
どなたか教えていただけないでしょうか?
0064名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/16(水) 22:32:38ID:7UrJLhGB0065名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/17(木) 01:46:16ID:ZWqnwBDzwikiですが、このページの一次史料・二次史料とその下のその他あたりをお読みください。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E6%96%99#.E4.B8.80.E6.AC.A1.E5.8F.B2.E6.96.99.E3.83.BB.E4.BA.8C.E6.AC.A1.E5.8F.B2.E6.96.99
0066名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 07:14:20ID:zzfIDiEr0067名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 11:44:33ID:GCpKo5RK戦闘の性質を[会戦](敵味方同等)から[攻城戦](味方優位で守りきったら勝ち)
に変えたことでしょうね。
武田方からみると、
・本隊の強固な防衛陣地
・長篠城
・鳶巣山砦(夜間強行軍5000で急襲)
によって盆地状のところに包囲されたことにより、
織田本隊を殲滅しなければならなくなった(支隊を攻撃しようと
すると本隊に後ろを見せることになる)。
0068名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 12:19:08ID:pfIZZgv7勢力拡大しないとジリ貧になる武田方の差でしょ?
戦闘の性質を変えたとまで言うからには長篠以外の例も挙げてくれw
0069名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 14:05:23ID:Kh5Ta3Z90070名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 14:43:45ID:FISpITGk1、長篠城を餌に誘き出す
織田・徳川軍布陣=作戦成功
2、後方に残した部隊で長篠城を落とす
目的1:前年の明智城攻略戦の時、城が落ちたら織田軍は早々に撤退したから、今回もそれを狙った。
目的2:撤退する織田・徳川を前面に押し出した主力部隊で追撃、撃破する。
しかし、織田軍の奇襲部隊により長篠包囲部隊が壊滅=作戦失敗
3、退路の確保
包囲部隊の壊滅により逆に包囲され、退路すら失ってしまった。
そのまま敗走すれば追撃を受ける。なので、無謀な突撃を敢行するしかなくなった。
武田勝頼退却=一応作戦成功
0071名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 18:52:57ID:PNHgr1Zaそんなに死んで残り7年ももった勝頼は無双の名将ですね。
0072名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 21:44:30ID:FISpITGk未だ戦力はあった
0073名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 21:45:05ID:FISpITGk0074名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 22:41:19ID:p8L1dwqQ信長公記でも甲陽軍鑑でも細川藤孝宛書状でも武田がわざわざ設楽が原に出て来たのが敗因と共通しているのがポイント。
戦後の信長の書状での喜び振りからして会心の勝利だったんだろうね。
0075名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 09:10:24ID:UXkhmvgH天正三年(1575) 長篠の戦い ダイジェスト
5月12日 甲斐の武田勝頼率いる武田軍が出撃し、すでに
武田軍先発隊が尾張熱田付近まで進撃したことを知る。
──『多聞院日記』
5月13日 織田信長・信忠、三河長篠城の後詰として出陣。
この日は尾張熱田に布陣し、熱田社荒廃に対して岡部又
右衛門に造営の件を命令。──『信長公記』
5月14日 織田信長・信忠、三河岡崎城に到着。徳川軍
と合流する。──『信長公記』
5月16日 織田信長・信忠、三河牛窪城に入り、城の警固
役として丸毛兵庫頭・福田三河守を配備。
──『信長公記』
0076名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 09:11:22ID:UXkhmvgH5月17日 織田信長・信忠、三河野田原に野陣を設営。
──『信長公記』
5月18日 織田軍「志多羅」郷極楽寺山に布陣し、武田
軍に姿が見えないように、各部隊を配備する。
──『信長公記』
5月18日 三河長篠より三里余りの地点に於いて織田軍と
武田軍とが遭遇。織田軍「鉄炮」で武田軍を撃退する。
──『細川家文書』
5月20日 信長、この日の戌刻に軍勢を「のりもと川」を
渡河し武田勝頼の布陣する鳶巣山へ向かわせる。
──『信長公記』
0077名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 09:13:29ID:UXkhmvgH5月21日 織田信長、高松山の徳川家康陣所を訪れ、
武田軍の動向を把握。1000挺ばかりの鉄炮部隊を
佐々成政・前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政
らに引率させ、武田軍への攻撃命令を下す。
──『信長公記』
5月21日 織田・徳川軍へ武田軍の山県昌景・武田信繁・
小幡一党・武田信豊・馬場信春ら武田の「赤武者」
「黒武者」が部隊毎に、攻撃を仕掛けるも、織田・徳川
軍の鉄炮部隊と足軽部隊によって武田軍、大損害を被る。
──『信長公記』
5月21日 武田勝頼ら武田軍は鳳来寺山へ向けて
全軍敗走。──『信長公記』
0078名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 09:17:47ID:UXkhmvgH5月24日 吉田兼見、近江坂本の明智光秀を訪問し、
三河長篠における織田軍の大勝利を祝す。光秀宛
の信長書状を吉田兼見へ披見。──『兼見卿記』
5月24日 多聞院英俊、去5月21日に三河国に於いて
「一戦」があり、武田の甲斐衆が悉く討ち果たされ
たことを知る。──『多聞院日記』
5月25日 織田信長・信忠、美濃国岐阜城に凱旋。
──『信長公記』
0079名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 09:35:34ID:HMVUTs8z>1、長篠城を餌に誘き出す
>織田・徳川軍布陣=作戦成功
それは2chしか聞いた事のない説。
0080名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 08:01:46ID:n0Y3UK/D自分は割と妥当だと思うが。武田軍首脳が正面から戦って勝てると考えていたよりは。
あとは信長が部隊を武田に見えないように配備したせいで
連合軍の兵力を見誤ったとか。
それに加え一部地域からは鉄砲衆だけ集めてるから火力も通常の軍より高いだろうし。
0081名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 13:44:40ID:RwbnmGNB織田勢が6000も死んでいるのは非常に問題がある。
0082名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 14:18:13ID:4WCPEHoo0083名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 21:54:18ID:Vxd2u/ibしかも名のある戦死者がいない
>>82
信長公記に記録がないからじゃ
0084名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 23:33:00ID:L15f1A31おいおい「戦死者六千」?
そんな史料はないなあ。
「死傷者六千」という史料ならあるけどね。
あと織田・徳川の損害が多いと記述されてるのは信用度が低い記述で
実際は戦死者で言うと
武田が二千程度、織田・徳川は軽微と考えられます。
0085名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 23:36:41ID:L15f1A31そんな事はありえないだろう。
「死傷者」と考えても一万二千はありえない。
妙法寺記では「二千討ち死に」と記述されてるので
実際は死者二千で負傷者三倍の法則から言ってその三倍くらいの負傷者いただろうけど、
それでも一万五千の軍の半分程度が死傷したことになり、ちとありえない。
0086名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 23:42:54ID:L15f1A310087名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 03:27:00ID:pdWyaLQ/ええっ
0088名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 15:05:43ID:m7QP+1Nt○山県昌景
○馬場信春
○土屋昌次
○高坂昌澄
○真田信綱
○小幡信貞
甘利藤蔵・根津甚平・名和無理介・横田備中・杉原日向
和気善兵衛・真田昌輝・高森恵光寺・川窪備後・下曽根源六
浪合胤成・油川宮内・仁科・岡辺・竹雲・奥津
長篠で討ち死にした武田家の重臣は相当大物ですよね。
それとも小物ですか。
0089名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 15:27:31ID:67uTS19G0090名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 19:15:03ID:ffQtKXXn0091名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 19:17:23ID:ffQtKXXn句読点を使って欲しいよな
0092名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 20:00:40ID:67uTS19G特に織田・徳川がそのような大損害を出した形跡が全くない。名のある人物はまるで死んでないしね。
武田の一万二千も多すぎでちょっとありえない。
一万五千の軍勢で一万二千も損害が出たら、
それは戦とすらいえない。単なる虐殺だろう。
たとえそれが死者ではなく死傷者だとしてもありえないだろう。
勝頼、信豊、信廉、穴山、小山田は生き残ってるしさ。
0093名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 20:05:32ID:visVk2Jr他に死んだ重臣といえば原昌胤がいる。
宿将だけではなく三枝、真田兄弟、土屋など若い将校も討ち死にしている。
目も当てられない惨敗で生き残った方から数えた方が早いぐらい。
0094名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 20:41:48ID:WQ2g+O1H0095名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 20:57:12ID:rlXg04Xf0096名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 14:17:22ID:Ce3YiprG『多聞院日記』は「甲斐国衆千人余討死」
身贔屓な『妙法寺記』よりは信用できそうな数
0097名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 02:06:43ID:pSc8dRzE・8割方の重臣が討ち死にした
・総大将の勝頼は生き残った
・本拠地の甲斐は無事である
以上の三点から、武田軍のおおよその死傷者数は推測可能である。
0098名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 03:01:46ID:DPFK8OWuこのサイト面白いな。
向こうの戦争って、勝因とか部隊の細かい動きを記した記録がきちんと残ってるのか。
それともあんまり鵜呑みにするべきじゃない?
0099名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 08:08:16ID://40uG+P真田兄弟は若くないが
0100名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 15:20:15ID:rs6ULOZ1当時の武田兵と戦った者で、傷口にウンコが染み込んだため壊疽を起こし、
手足を切断しなければならない者、高熱をだして悶え死にする者が後を絶たなかった。
現代で言えば、細菌兵器や劣化ウランと言ったところであろうか。
ある日、信長は宣教師らに「日本に来て一番印象に残った事は何か」と訊ねてみた。
「武田殿ノウンコ部隊デス、コノ事ヲ法王様ニ伝エヨウト思イマス」と、宣教師は答えた。
彼らの口から出た言葉に、信長は驚愕した。
このままでは日本が「ウンコ野郎の国」として、世界に広まってしまう。これは恥ずかしい。
それだけは阻止せねばなるまい。なんとしても。──信長は決意した。
そして信長は即座に、武田勝頼及び武田家臣団に、ウンコの使用をやめるよう勧告す。
しかし武田家は武田家で、伝統あるウンコ兵器を捨てるわけには行かない。
ついに決戦へ──、世に言う長篠・設楽原の戦いである。
0101名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 15:20:49ID:rs6ULOZ1後世の歴史家は、この長篠の戦いを、
「織田・徳川連合軍が、武田家を打ち破った戦い」と、記している。
しかし歴史家は、「人類の叡智が、山賊のウンコに、打ち勝った歴史的な戦い」
と、その認識を、おおきく改めるべきなのである。
ウンコの歴史がまた1ページ。
0102名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 07:06:06ID:45ofvjJe0103地形を見ると
2006/09/17(日) 14:27:04ID:C6W1BT49越えてもその先には鳶の巣5砦を陥した別働隊が。
退却戦で大被害は容易に想像はつく。
逆に考えれば勝頼は、この退却できない状況だったから、正面突破を仕掛けたかもしれん。
だが何故勝頼は、自ら逃げ道を塞ぐような行動をとったのか……
何かの理由で、おびき出されたか??
0104名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 14:39:43ID:WsCYE18Z0105名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 17:06:24ID:Dff0/5Geあとは三方ヶ原明智城で武田との激突を避けようとした事から
戦意は低いとか勘違いしたとか
0106名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 00:46:18ID:tPkb+RIZ織田軍は膨大な火薬を持っていたのは間違いないので、
武田軍は、織田の鉄砲隊目掛けて火矢による集中的な
火攻めを仕掛けていれば、もしかすると勝っていたかも…?
否、勝てないにしろ、少なくとも大敗はしなかったろう。
0107名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 01:06:15ID:37kEzKm0理由は普通に勝頼が匹夫の勇だったから。
部将時代は先頭に立って鑓を振るっていたらしいからなw
0108名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 03:19:54ID:R5j0UuaT勝頼というか、討ち死した老臣達の希望のように見える。
信玄が織田と戦うことを決意して以来、大規模な決戦を望みながらもそういった機会は巡ってこなかった。
彼らは戦えば必ず勝つという自信を持っていたが故に、織田勢の戦力を一気に減じる好機と捉えたように思う。
たとえ少々の無理をしても。
もちろんこれは甲陽軍艦の記述とは正反対ではあるが・・・・
さて、これだけでは彼らが慢心していた為という結論にしかならない。
彼我の戦力の差が年月を増すごとに開いていくという、危機感が作用した結果だろうか。
0109名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 04:57:50ID:pSVv12bi0110名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 07:44:00ID:e81OiRlyで、家康は信玄に敗れている。つまり、信玄時代の武田家は徳川より強いわけだ。
しかし、織田は勝頼に勝ち、徳川は信長の死後、甲斐を侵奪した。
そういう経緯で、勝頼は愚将のレッテルを貼らねばならなくなった。
高坂、山県が何を言ったか、そのものが怪しいのでは?
0111名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 07:52:17ID:e81OiRly徳川は、甲斐を取る名分として川尻の事も悪政として非難しているらしい。
勝頼が史実以上に貶められている可能性は十分にある。
長篠合戦の、重臣達の特攻はもしかしたら
大名家の権力を、諏訪勢から取り戻す為の一世一代の賭けだったのかもしれない。
0112名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 11:44:37ID:MnuTpLGY勝頼の再評価は長篠がある限り無理。
決戦の理由がどうであれ、あれだけの部将と将兵を失っておいて大将としての責任を免れられるわけがない。
長篠で主戦派だったのも、滅亡の際領民にも見限られていたのもすべて事実。
0113名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 12:21:32ID:Ft0045Ri全て、大将の責任、と言われてもな…。
そういうことなら、織田軍を全く崩せず、長篠で死んだ部将達も皆無能ということでFA?
>>長篠で主戦派だった
ごめん、ソースは?「甲陽軍艦」とかいう冗談はなしで。
>>滅亡の際領民にも見限られていた
所詮は、国人の連合体(とその象徴としての武田家、その当主)。
戦国時代は江戸期以降と違って現金な時代だから。
0114名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 12:29:55ID:pdoQ8WBa0115名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 13:27:27ID:FP2WVQ6X>全て、大将の責任、と言われてもな…。
そういうことなら、織田軍を全く崩せず、長篠で死んだ部将達も皆無能ということでFA?
馬場や内藤は敵方に賞賛されてるし、勝頼が無能だなんて一言も言っていない。
トップが一番批判され、責任を負わされるのは当たり前の話。
甲陽軍鑑を否定するのは勝手だが、史料を示さないで想像で再評価されても困る。
>ごめん、ソースは?「甲陽軍艦」とかいう冗談はなしで。
合戦直前の後方の家臣団に宛てた勝頼の書状。
いくら鼓舞するためとはいえ、「今度こそ信長・家康の首を獲る」なんて
具体的に書いているんだから主戦派だったのは間違いないだろ。
0116名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 13:38:42ID:pdoQ8WBa0117108
2006/09/18(月) 14:25:36ID:Rq1HUWxSコピペによる誤植の連鎖反応が起きてしまった。失礼。
で、長篠の敗戦の責任が勝頼に帰することには同意。
これは大将だから逃れられないもの。
だが、家臣・軍勢含めた「武田家のあり方」が織田家には敵わなかった結果と見ている。
信玄ならどうか?という想像をしてはいけないのだろうけど、
もし信玄だったらこういう無茶は回避し、局面で数的或いは地勢的に有利な状況に持ち込めるチャンスを待つだろう。
0118名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 15:14:36ID:cyJNacr0ならんだろうと思う。
0119名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 16:56:45ID:bbgSpZDl甲陽軍鑑の評価で妥当ってところ。
先頭立って槍振りまわすのが得意であって、当主には荷が重かったんだろ。
0120名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 17:05:39ID:pdoQ8WBa0121名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/22(金) 21:53:04ID:SLWD7KCD0122名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/22(金) 22:41:59ID:I5AjR+OMだからといって、有能な老臣たちの足をひっぱったんだ、とされると
それは、ひどいと思う。
結構、その家臣たちが無能だったと思ってる。
若い頃は有能だったかもしれないが。
0123名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/24(日) 03:35:36ID:fSgEdPJY0124名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 01:25:56ID:MZXl0u1b設楽原って結構狭いんですよね。
山筋が二つあって、南が織田徳川連合軍、北が武田軍。そして設楽原の北には未だ落ちない長篠城と長篠城を見下ろす武田の5砦。
武田勝頼は長篠城攻めに当たって、裏切った奥平の征伐が目的。
徳川も救援に来ないわけにはいけないから、徳川の援軍が来ても勝てる兵力(1万7千)で出兵した。
長篠城は、三輪川、寒狭川に囲まれた野牛郭は防護が硬いが大手門付近は平地で防御力がとても貧弱。
城兵は500、本気で攻めたらすぐ落城すると思うけど、目的は徳川を誘い出し再び完膚なきまでに叩きのめし遠江、三河を武田の勢力下に治めること。
家康が援軍に来なければ遠江や奥三河の豪族は家康を見限り武田になびくだろうし、徳川の勢力を大きく削ぐことができる。
家康が援軍に来たら来たで、三方ヶ原の再現で完膚なきまでに叩きのめし今度こそは家康の首を取る。
と思ってたら予想に反して何と信長自ら大軍引っさげて援軍にやってきた。
ちょっと計算違いだったけど、信長家康を討ち取るチャンスかもしてない。しかも、設楽原に陣取って動かないし、多分うちにビビッテる。
大軍でちょっと手前の設楽原で陣築いてたら、うちがビビッて兵を引くと思ってるな。よし、裏をかいてこっちも設楽原に兵を進めたる!(信長ビビるぞお!)
おいおい、援軍に来て何そんなに厳重に陣構築してるの?マジビビッてるw。
さあ、こっちもまったり陣築いて我慢比べだ。三方ヶ原の恐怖を思い起こさせてやる!
・・・翌早朝、突如背後の武田5砦に火の手が・・・!?!?!?。
敵は、軍を二手に分けて挟み撃つ気だな・・やべえな・・挟撃されたら兵力少ないうち壊滅じゃん。
・・ちょっと待てよ、敵が兵を分けたということは、正面の敵は少ないんじゃ?
このままじゃ、どの道挟撃喰らうし、自軍の兵力と正面の敵の兵力が互角くらいだろうから、突撃したら突き崩せるかも?
うまくいけば信長家康を討ち取れるチャンス到来!川中島の逆再現だ!
で、突撃開始!。
実際は砦攻撃に回ったのは、織田徳川連合軍3万8千のうちの4千で正面には武田軍の倍の3万4千が防護陣地の中で多数の鉄砲構えて待ち構えていた。
そして武田軍惨敗。
てなことを、武田勝頼の本陣跡に立って考えてたんですよ。
設楽原って狭いし殆ど水田だし、殆ど用水路とは言え連吾川もあるし、連合軍の馬防柵もあるし。
こんな状況で寡兵で突撃したら絶対勝てないと思ったんです。
でも、武田軍が突撃したということは、何らかの止むに止まれない理由があると思ったわけで、それで上記のような
妄想にひったったわけです。
長文ごめんなさい。
0125名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 09:23:04ID:2nCmKKNh設楽腹があまりに狭いので少兵説が存在する。
織田徳川連合軍が一万五千で武田は八千程度。
一応、長篠城を攻める目的なら一万五千よりは説得力がある兵力だし、
織田徳川が意外に少ないのは武田が逃げないようにという事。
ただ信長は兵数を少なくする代わりに鉄砲を近畿の武将から借用し装備率を高め、野戦築城をしたりした。
0126名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 09:46:08ID:qekw1gek鳶巣山砦の強襲も上手くいったからいいようなものだが、
長久手の池田軍や賤ヶ岳の佐久間隊並にリスクを伴う攻撃だと思うし。
0127名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 21:07:24ID:4Qdmyggf合戦前の書状読む限り、勝頼が決戦の決意をしたのは前日以前なのは間違いないよ。
ただし信長は包囲殲滅を狙っていたのは事実。
長篠城は本気で落とすつもりではなかったというのは同意。
勝頼には「雌雄を決するつもりである」や「信長・家康の首を獲る」と言い切る書状が頻繁に見られるから
いわゆる後詰めの常識は当時の武田には当てはまらない。
0128名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 20:19:45ID:U4+Umb3z確定した説ではないけど、決戦当日以前にも18,19日の間に長篠城方面に
進出した織田軍を武田軍が蹴散らしてるともいわれてるけどね
それが勝頼を決戦に踏み切らせたともいうし
0129名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/08(日) 00:45:55ID:Xaz8z0kD闇に葬られた初戦って奴だろ
0130名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/08(日) 18:57:20ID:zb0AwThr0131名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/21(土) 15:32:54ID:Vv+X+6Hz0132名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/26(木) 00:14:18ID:Mijt30YL0133騎馬隊
2006/10/26(木) 00:50:27ID:hxJPX+gt…詳し過ぎる
◆戦術や思惑、兵の数、武器等いろいろな要因がありますが、信玄公亡き後…勝頼が迎えた一番重要且つ勝たねばならない戦であったという事です。
勝頼はカリスマであった信玄に負けないような采配を振るいたかったのです!
自分の力量を家臣や天下にしらしめて信玄亡くとも武田家最強を全国に示したかった!
勝頼は自信と不安が交差する変な精神状態だったと思います。それでも、不思議と負ける気はしていなかった筈。
勝頼自身、武田騎馬隊は最強無敵を信じて疑わなかった一人…しかし…相手は連合隊で数も多い!
しかも…火縄銃を用意して騎馬戦を避けた!
信玄なら兵を一旦引いたと思います。
しかし…勝頼は勝ちたかった…何としてもこの戦は負けてはならぬと言う気持ちが強すぎた
大局が見えなくなっていた…
兵を引くどころか…強行突破を命じる始末…
家臣も箴言したが聞く耳を持たない!
誰の話も耳に入らなくなってしまっているのだ…
その為に連合隊が描いた図式にキレイにハマッテしまったと…歴史学者の大先生が言っておられました。
0134名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/26(木) 15:26:47ID:v/KSBux+蜀の北伐や第2次大戦の日本のように常に勝たなければならず、あせりがあったと思う。
家臣団にとって勝頼は信玄の正当なる後継者ではなく、信頼を得るためには敗る事は
できなかった。そのため無理な合戦でも戦わなければならなくなった。
一見戦術面では有利に戦っているように感じていたが、落城するたびに守備兵を
配置するために兵力が分散されて、各個撃破されてしまう。戦線が広がりすぎて
救援が間に合わない、そこで決戦を急ぐことになってしまった。
0135名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/26(木) 19:49:07ID:zxoaS729歴史学者というよりは講釈師みたいだな。
0136名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/26(木) 20:01:34ID:NB111ufmほら。聴衆のレベルに合わせてあえてわかり易く、聴衆が望むであろう話を喋る人っているからさ。
>>133
・・・・・つか大先生なら名前書けば?
0137名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 17:01:06ID:aaQjwWsh0138名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 17:07:46ID:ch28aZgZ長篠は鉄砲じゃなくて野戦築城だろ
0139名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 17:56:01ID:OqgiXvVTリスクはたいしてともなってないだろ。
鳶の巣砦は徳川領でかつて知ってる砦だし、
徳川の精兵と織田の援軍の五百の鉄砲隊があれば
かなり勝算はあったろう。
0140名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 18:01:26ID:OqgiXvVTいや、そうともいえない。
信長は長篠の前に近畿の家臣から鉄砲を借用してまわってる。
細川から百丁、筒井から五十丁って具合にね。
それで少々、鉄砲の数を増やして戦に望んでる。
野戦築城の場合は鉄砲や弓矢での抵抗がかなり有利。
当時の史書でも鉄砲の暴威は普通に伝えられてるし、
あながち鉄砲という部分は軽視できない。
野戦築城を生かし、鉄砲、弓、投石で抵抗したというが真相だろう。
あと織田の鉄砲の数が千丁というのは設楽原に投入した分だけで、
他に鳶の巣砦に派兵した五百丁の鉄砲隊の記述もあるし、
信長公記には記されてない徳川の鉄砲の分を含めれば二千丁はあった。
加えて少兵説に従えばなかなかの鉄砲装備率であったわけだ。
0141名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 18:11:36ID:OqgiXvVT>>269-292あたりの議論を読んでみよう。
http://curry.2ch.net/warhis/kako/1024/10249/1024935089.html
0142名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 20:21:01ID:YG4trBBX4年前のスレのくせに俺の知りたいことがだいたい書かれてらぁw
0143名無しさん
2006/11/19(日) 03:45:35ID:E6nsN5qKそれを決行したからやっぱり勝頼は無謀としか言いようがないね
0144名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/19(日) 11:22:04ID:FfQXNSEP無謀で片付けるには武田軍は歴戦の強者すぎないか?
考えなしに突撃するモヒカンどもとは違うんだぞ。
0145名無しさん
2006/11/19(日) 15:36:36ID:CHKK18v/でも強いといえど1万5千で3万4000に仕掛けるのは
そのモヒカンと変わらん行為だぞ
撤退ができないほど武田が追い込まれていたのなら仕方ないが
0146名無しさん
2006/11/19(日) 15:39:20ID:CHKK18v/害その身にいたるを地でやっているよな
0147名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/19(日) 16:13:25ID:5pV6fYiz0148名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/20(月) 06:57:44ID:AtRwbOur退いて退けないことはないだろう。
不利を恐れてジリ貧になっただけ。
0149名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/20(月) 23:11:21ID:YVln6Urkまず相手が自軍の倍以上あったかどうかを把握していたかどうかだな。
いくら織田を弱兵と侮っても倍以上となれば話が異なる。信長は兵力を
かなり少なく見せていたか、それとも誰かに寝返りを約束する手紙を書かせて
信用させたか。ちょうど厳島の毛利みたいな感じで。
0150名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/21(火) 18:59:27ID:8P264Jzu佐久間信盛が武田方に投降するって偽書状を送ったって話があるな
あれは何なんだろう?講談なのかな?
佐久間信盛が裏切るって報は武田方的には油断の要因としては十分だろうね
実際は織田方の激戦区の中心で押し返した厄介な相手になったけどね
0151名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/21(火) 20:56:10ID:iZH3Jy3fhttp://www.chunichi.co.jp/00/ach/20061121/lcl_____ach_____005.shtml
0152名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/22(水) 16:41:46ID:p+yHHls8偽書状が事実だったとしたら、押し返したのは
佐久間の武勇では無く、武田の油断だろう。
0153名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/06(土) 23:27:12ID:C4U0iiHd慶長の役の時に、黒田長政の配下の毛屋主水が偵察に出て大軍に囲まれたとき、
「このまま引いても全滅するから、一度強襲して退却しよう。
これは武田勝頼が長篠の敗戦後、攻勢に出て敵の追撃をゆるめた故知である」
…とか言った記録があるから、当時の勝頼の評価は低くはなかったのでは?
0154名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/08(月) 09:14:08ID:yewvc2Do10回とも勝ちとでなければ開戦しなかったけど、勝頼には敗戦経験
が無いからね。
しかも、若い頃に寡兵を陣頭指揮して敵の城をとったり、400の手勢で
数倍の謙信軍に立ち向かおうとしたり、猪突猛進型なのは否めない。
私は武田の滅亡を勝頼一人のせいにするのには反対で、言われてるほど勝頼
はだめぽではないエピソードはあるんだけど、長篠は弁解の余地がないほど
の大失策だよね。
高天神城を落としたのが、後々の不運への布石となってしまったな。
0155名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/08(月) 09:33:07ID:yewvc2Do「殿も嘘の一つも、おつきになったらいかがですか」
と言われ、秀忠が、
「親父の嘘なら買う奴がいるが、私の嘘では買い手がいない」
と答えたそうです。
この話で、私は秀忠が好きになった。。
勝頼がこれ位、謙虚で身をわきまえていたらね・・
実際、山梨県に行くと、勝頼公がもう少ししっかりしていれば・・、
という声を聞けるよ。
物語的に考えると、諏訪氏を滅ぼし、その姫を側室にした因果が
巡ってきたとよく言われるけど、そうとも思えるようになってきた。
家康は武田の滅亡を、信玄が父親を追放し、自分の息子を殺した因果だと
言ってたけどね。
0156名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/08(月) 09:41:47ID:nnyUdvmv佐久間が無能であったというのは俗説らしいよ。
それどころか当時は織田の有能な大将の一人と評されていた。
ただ、石山本願寺攻めに長年かかった点とか
三方ヶ原で一兵も損せず逃亡した件が評価を下げてるが、
逆に言えば負ける戦はしない将とも言える。
本願寺は誰がやっても同じだし、
三方ヶ原は平手のように戦って死ぬか逃げて生きるかだけの違いだし。
0157s
2007/01/08(月) 10:44:06ID:lyAmxqIE砦を奇襲され背後を断たれることを懸念した武田軍は
城砦を構える連合軍本体に破滅的な突撃を繰り返した
0158名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/08(月) 10:52:45ID:yewvc2Do人間は後ろが弱点。
うちの大学の先生が、軍隊と言うのは前方には強いが、背後に
廻られると弱い。
その例として長篠合戦を例に出して、背後を取られた勝頼が焦っ
て前方に突撃命令を出したと言う定石通りの話をしていた。
0159名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/09(火) 17:03:48ID:FwDNTp0H0160名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/09(火) 20:13:30ID:/eZ6+G5j鳶の巣砦周辺を取られた時点で、長篠城から2.6キロ先の別所街道の難所は完全に制圧されてる。
この難所周辺を500丁の鉄砲隊で押さえられたら、元来た道から撤退は無理だ。
1万5千の大軍が、別所街道を完全に押さえられて補給路も退路も断たれてるから、
徳川領の奥三河や、信濃の峠越えで相当な兵を失うのは目に見えてる。
退路と補給路を断たれて西に追い出された1.5万の軍勢が、
織田と徳川の追撃戦を覚悟して連吾川で対峙する。
0161名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/10(水) 01:12:49ID:f7Ma/ged0162名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/10(水) 07:04:02ID:V6BDuIgT侵攻して来た別所街道(最狭地はたったの100m)は完全封鎖。
足助方面は徳川領で道は細い山道で峠も有る。
退路も補給路も無いのである。
単に背後を突かれただけとは違うのを理解しないといけない。
ただ退却させるだけでは大渋滞に激しい追撃を受け戦わずして消耗は必至。
実際に討ち死にしたのは大部分が退却を開始し追撃を受けた時のもの。
結局、消耗するのを覚悟の上で突っ込んで、相手も消耗させてから少人数で退くしかないのである。
0163名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/10(水) 12:59:53ID:b41B77y2桶狭間、刀禰崎、長篠・・・
0164名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/25(木) 21:04:49ID:7S+2Kt6e>実際、山梨県に行くと、勝頼公がもう少ししっかりしていれば・・、
>という声を聞けるよ。
こういうバカ論丸出しな事を
恥ずかしげも無く書き込める神経はスゲェなwww
0165名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/27(土) 03:31:43ID:bwYIUhFq重臣の賛成が無ければ戦も起こせないのに。
0166名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/27(土) 21:16:30ID:4mSZBgh5設楽原で戦闘が始まったのが日の出の頃、
そして鳶の巣砦が攻撃されたのは同じ日の午前8時頃。
>>161の言うとおり少なくとも同時進行くらいのタイミングであって、
鳶の巣砦周辺を取られたから、
退路を立たれてやむをえず突撃という展開ではなかった。
0167名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/28(日) 00:57:42ID:R/O0jWnp敵が消極的だからでしょう?当時の書状にでてるよね?
0168名無し
2007/02/06(火) 00:39:56ID:Jd+lrtMz滅亡しなかったと考えられなくはない
ただ武田をつぶしていなかったら信長も本能寺に泊まるような
事はなかったろうからこれまたわからんが
0169人間七七四年
2007/02/19(月) 19:24:00ID:mACJkTRD織田方の陣地構築前に突撃というシナリオはなかったのでしょうか?
自分たちの墓穴が掘られるのを待ってそこに飛び込んでいったように見えます。
そこまで舐めてたんでしょうか?それとも気が変わって突撃?
0170人間七七四年
2007/02/19(月) 20:15:53ID:xJzizg5X背後の山に兵力分散しても実際は相当な近接大混戦だっただろうに。
鳶が巣砦(実際は5個から成る砦群。)奇襲にしても、経路の乗本方面からの間道は限られてるわけで、4千もの軍勢が迫れば武田の哨戒網にあっさりかかりそうなものだが……
どうやって「奇襲」になったのか謎。
現地に行くと、不思議な事だらけだ。マイカー持ってる椰子は是非行ってみろし。
0171人間七七四年
2007/02/20(火) 21:14:59ID:Sz+2Nhdzログ読め
0172人間七七四年
2007/02/22(木) 20:31:00ID:hF59YGSB先手必勝では無く後手ね、つまり馬防柵で強兵の武田軍をある程度
やり過ごしておいて、度重なる突撃で疲れてきた武田軍に対しここ
ぞと言わんばかりに反撃を繰り出すという戦い方。
0173人間七七四年
2007/02/22(木) 20:47:42ID:hF59YGSB0174人間七七四年
2007/02/22(木) 22:52:21ID:QLtM46mM武田=諸葛亮 織田・徳川=司馬懿
って置き換えられない?
全体的な劣勢を挽回するために出兵した諸葛亮
元々の地力の差を活かすために防御を固めた司馬懿
そうなってしまえば端から諸葛亮側に勝ち目は無いんだよな。
で、諸葛亮は撤退戦で被害を出さなかった(司馬懿が追撃しなかった?)けど
武田は撤退時にかなりの被害を出してしまった。(宿将の不運な戦死とかもあるけど)
0175くるるん
2007/02/23(金) 01:16:20ID:3wNh9fo6勝頼が決戦前日に長坂長閑に宛てた手紙。
それで
三州長篠之地取詰候処、織田・徳川為後詰打出候条、累年之願望令満足候間、即時ニ乗懸逐一戦、宗者数多打捕、乗其利信長至陣前押寄候処、構陣城籠居候間、入人数之砌、當手之先衆聊失利候
これが戦後家臣の岡修理に送った書状。
それで
しやくの木三へまであれバ、城攻めのごとくして、大将どもことごとく、てつはうにあたり死ぬ。
これが甲陽軍鑑の記述。
結局、信長の計略にはまったんだよね。。。
0176人間七七四年
2007/02/28(水) 17:51:17ID:58wo+rJa長篠での被害の多くは鉄砲ではなく、織田・徳川の追い討ちでやられてん
だろ?
0177人間七七四年
2007/02/28(水) 18:42:52ID:9bOz8fAS0178人間七七四年
2007/02/28(水) 18:48:50ID:NI7/tvLp0179人間七七四年
2007/03/03(土) 21:16:02ID:tE5/7X+q0181人間七七四年
2007/04/05(木) 00:31:14ID:uOxxbCj40182人間七七四年
2007/05/06(日) 18:13:30ID:ASY6ZRTh0183人間七七四年
2007/05/26(土) 05:06:23ID:OeoSTuNR同じ時代に織田信長がいたのが運の尽きか。いかに最強の騎馬軍団を擁していても、すでに
農兵分離の整備を整えていた織田軍とは戦術・戦略の観点から比較しても劣勢であると言わ
ざるを得ない。惜しむらくはあれだけの最強を誇った武田家が滅亡した事である。
0184人間七七四年
2007/05/26(土) 12:56:58ID:0heCNm250185人間七七四年
2007/05/26(土) 14:44:10ID:Iwuvny420187人間七七四年
2007/06/01(金) 21:27:37ID:5h0CixRF武田家も数千丁の火縄銃を使い壮絶な銃撃戦が行われたそうだ
0189人間七七四年
2007/06/04(月) 00:49:59ID:gMz2/mrp0190人間七七四年
2007/06/07(木) 04:13:34ID:hLb4OBlT装備率にしたら5%しかない。
家康の5000のうちどれくらいが鉄砲かによるが。250〜500丁といったところか。
織田の動員数が誇張で20000人しかいないとしても7.5%。それでも当時の大名の平均値程度だ。
これ以上兵力を減らすと武田との数の差はそんなになかったいうことになってしまう。
酒井忠次に500丁割いたんだから、設楽ヶ原に布陣する織田の鉄砲装備率はわずか3.3%・・・
織田家の鉄砲は武田の半分の装備率しかなかった、ということになる。
武田家の永禄五〜天正六年の軍役状の平均では、鉄砲装備率7.1%。
勝頼が長篠に15000を率いてきたとすれば、鉄砲は1000〜1100丁あったということになり、
下手すれば設楽ヶ原に投入された鉄砲は、武田のほうが多かったことになるんだがw
同じ1575年「天正三年上杉氏軍役帳」によると、
鑓が戦闘員の77%を占め、弓が0.1%しかない白兵志向の上杉でさえ5.7%が鉄砲。
氏康期の北条軍は11%となっている。
織田は5%wこれでは、龍造寺や島津、長曾我部にはるかに劣る数字といわざるを得ないんじゃ?
1581年の明智光秀軍団内の軍法では、装備率13.5%。
0192人間七七四年
2007/06/22(金) 23:30:47ID:cf1iO3Gw0193人間七七四年
2007/06/28(木) 00:26:34ID:SGlKxviZ0194人間七七四年
2007/08/04(土) 22:50:26ID:AEfl+3ncあの陣容で(山県・馬場・内藤・真田が出陣しといて。
しかも高坂弾忠は参戦してないけど息子が出陣してるし)
少なくとも1万は越えるやろー
0195人間七七四年
2007/08/23(木) 04:52:27ID:FclD2PQS0196人間七七四年
2007/09/08(土) 10:38:55ID:bb3eiyU3細川や、筒井といったところは、出陣しなくて良い代わりに鉄砲や足軽の供出を命じられている。
信長が鉄砲の数だけは何とか確保しようとしたのは間違いないと思えるね。
0197人間七七四年
2007/09/08(土) 13:22:19ID:c7AT335f3万(この兵力が妥当かは置いといて)も兵を引き連れて、
消極的っていうのは、返って不気味に感じる。
よく解説にもあるけど、疑問に感じる部分なんだよな。
むしろ、隙をうかがう戦上手なんでは?
武田が戦を仕掛けたのは、他に原因があるように思うんだけど。
0198人間七七四年
2007/09/08(土) 14:40:46ID:tslhV4O7むしろ読んでいて腹が立ってくるよ
0199人間七七四年
2007/09/08(土) 18:06:33ID:x5KktNS4戦力比が1:3というのは合ってるらしいけど。
0200人間七七四年
2007/09/09(日) 03:52:14ID:LqNM3Gflかといって具体的な数字もないので、()はつけておいた。
やっぱ、実際は半分くらいなのかな?
だとすると、三方ヶ原も怪しい?
0201人間七七四年
2007/09/09(日) 07:05:36ID:otjagDHX0202人間七七四年
2007/09/09(日) 23:41:12ID:fsog7u+V戦を仕掛けた理由はわからないけど、
不利な側が状況を打開したくて、苦し紛れに仕掛けた例はある。
インパール作戦とか、沖縄戦での突撃とか。
むしろ硫黄島のような例は、まれ。
0203人間七七四年
2007/09/10(月) 00:09:56ID:PrP3vnq9柵の付近に掘りがあり
城まではいかない砦程度のものが築かれてた
結局、武田は城攻めの形のなり
攻め疲れたところをやられたってとこだろ
あと・穴山信君、武田信廉と武田信豊が命令を聞かなかった
0204人間七七四年
2007/09/10(月) 07:50:49ID:Z+kSDEKq鉄砲(単発の火縄銃)は、防備に適した兵器だ。
だから、城などには鉄砲狭間があったりする。
自分自身がやたら動けず、待ち受けの形にならざるを得ないからね。
長篠の戦いの戦争目的は、徳川方の長篠城救援作戦。
だから、出張ってきた方は4万前後の大兵力を天然の要害である弾正山と極楽寺山に配し、
敵の方角で、かつ開けている箇所に柵を構築した。
連子川が堀の役割を果たしており、また別途堀を掘ったような形跡もある。
信長・家康としてはこの本陣をベース・キャンプにして、逐次投入で長篠城救援部隊を出陣させ、
武田の反撃に遭ったら、本陣まで逃げてくる。これを長篠城解放まで繰り返す。
武田が本陣まで攻めてきたら、鉄砲で防衛する。これが作戦の基本だっただろう。
結果は、第一陣の酒井忠次隊4000の攻撃で鳶の巣山の武田方砦が陥落してしまい、長篠城の
解放に成功。あろうことか、長篠城包囲の武田方のほとんどが主君を置き去りにして鳳来寺
山方面に退却。武田勝頼の本陣が孤立してしまった。これは勝頼にも責任がある。
信長・家康本人が出張ってきたので、何としても決戦で討ち取ろうとしたのだろう。武田本陣が
長篠城包囲から離脱してしまっている。これで、武田本陣は、織田・徳川本陣と、鳶の巣山攻撃
部隊、長篠城兵に挟撃される形になってしまった。じっとしていては、背後から突かれる。それで
織田・徳川本陣への攻撃となった。
明け方から、武田の騎馬を主力とした織田・徳川本陣への攻撃が始まったが、鉄砲で撃退。
佐久間信盛や、大久保忠隣などの挑発行為もあって、武田はその攻撃を連発。それで攻撃する
度に鉄砲で被害を受け、兵力が漸減。先に撤退していた包囲軍と同じ鳳来寺方面へ退却の止むなきに。
それを織田・徳川の本陣と、酒井忠次および長篠城兵が追撃。武田の諸将はこの時多くが討たれ、
勝敗は決した。
0205人間七七四年
2007/09/10(月) 08:33:03ID:9MNvz31s挟撃体制にされたこと、あるいは退路を断たれたことが理由というのがちょっとわかりません。
戦闘後も結局は同じ方向に退却するわけでしょ?
だったら、最初から退却した方がましな気がするんですが。
0206人間七七四年
2007/09/10(月) 10:34:15ID:ciOXzrYA武田軍の攻勢時に戦死してるんじゃなかった?
0207くるるん
2007/09/10(月) 11:59:29ID:81k/6lL7>>204
鳶之巣攻撃と武田軍総攻撃は同日だよ^^
あと175でも書いたけど
然者長篠之地取詰候之所、信長・家康為後詰雖出張候、無指儀及對陣候、敵失行之術、一段逼迫之躰候之条、無二彼陣へ乗り懸
勝頼が決戦前日に長坂長閑に宛てた手紙。
それで
三州長篠之地取詰候処、織田・徳川為後詰打出候条、累年之願望令満足候間、即時ニ乗懸逐一戦、宗者数多打捕、乗其利信長至陣前押寄候処、構陣城籠居候間、入人数之砌、當手之先衆聊失利候
これが戦後家臣の岡修理に送った書状。
それで
しやくの木三へまであれバ、城攻めのごとくして、大将どもことごとく、てつはうにあたり死ぬ。
これが甲陽軍鑑の記述。
んで今手元に甲陽軍鑑ないから原文は書けないけど
「信長が陣に篭ったまま動かなかったのは、若い勢いのある勝頼を恐れてのことだ、という噂が長篠の地に数十日間残った」ということから
勝頼は美濃諸城攻略戦からの信長の計略にはめられたんじゃないかい??
0208くるるん
2007/09/10(月) 12:31:46ID:81k/6lL7>>鉄砲(単発の火縄銃)は、防備に適した兵器だ。
というのがよく分からない^^;
鳶之巣攻略の酒井勢にも500丁もの鉄砲を持たしているし
長篠城も相当の銃弾が撃ち込まれて、防壁をズタズタにしてる。
防備にも適しているし、攻勢にも適している兵器だと思うよ^^
>>206
重臣達の殆どが連子川の周辺で戦死してるから、攻勢時に討ち死したんだね。
0209人間七七四年
2007/09/10(月) 23:06:28ID:Z+kSDEKq全くその通り。
もし織田信長が、この時の武田勝頼の立場だったら、ほぼ間違いなく挟撃されたところで鳳来寺方面へ退却している。
かつて、金ヶ崎で似たケースがあった。負けは負けだが、負けた中では最善の選択。
戦国時代の戦闘は、勝ち抜き戦ではない。何勝何敗で競うリーグ戦でもない。
また近代戦争のように宣戦布告している訳でもない。被害を最小限度にして退くのは、うまくすれば「何もなかった」ということにも出来る。
もちろん、当時の武家社会では、「武門の恥」とか沽券とか、それは卑怯だとする価値観があった。
それに拘っていては、結局は名誉ある死への道を進む事になる。
>>208
それは、幕末期の銃にさえ当初は言えるのだが、白兵戦では不利なんだ。
機動性に著しく欠けるから。
だから、例えば酒井忠次のような「奇襲」なら、有利とまではいえなくても、かなり欠点を補うことは出来るね。
銃は元込め式になり、連射が単独で可能になって、歩兵が突撃する際にも有効な武器に進化して行ったんだ。
必要は発明の母。やはり銃がそうした用途に使えればどんなに便利だろう、と考えた人は多かったに違いない。
それは、やはり初期の銃には、画期的な殺傷力を減殺してしまう欠点があったということだと思う。
でも、そうした欠点が目立たない局面では十分使える。だから、奇襲だったり、柵を作ったりという工夫の上で使用したんだろう。
0210人間七七四年
2007/09/10(月) 23:31:45ID:Z+kSDEKq>>208
あとひとつ。武田の諸将が果たしてどの局面で討ち取られたか、だが。
連子川の近くで死んだことがはっきりしているのは、山県昌景、土屋昌次。
後ははっきりしない。信長公記の記述では、多くの戦死者の列挙を、追撃戦の記述の後に書いている。
ただし、その中には山県、土屋の記述も出てくるので、後に書いてあるからと言って追撃戦の際に討ち取られたかどうかを断定できない。
ところで、信長公記で印象的な記述として「山へ逃げ上りて飢死」というのがある。
一日の戦闘で飢死というのは考えにくく、追撃戦が何日にも亘って執拗に行われたのか? とも思わせる。
しかし、信長の岐阜凱旋は長篠の戦いの4日後だから、帰途の日数を考えればこの部分は疑問。
全軍が帰還したとは限らないが、戦死者一万のくだりが書いてある箇所と同じところなので、太田牛一の誇張である可能性も高い。
一応、>>204は、信長公記がベースで、後は軍事作戦面から考えてみた次第だが、問題があれば遠慮なく指摘して欲しい。
0211人間七七四年
2007/09/11(火) 00:44:21ID:G9Bk5pGC「山へ逃げ上りて飢死」これの前後の文章があったら詳細希望。
追撃戦に関しては、徳川勢が主体だったのでそこまでおかしい表現でもないような気がする。
0212人間七七四年
2007/09/11(火) 01:48:40ID:U8rqzU/fああ、そう。夜遅いけど、ちょっと手許の信長公記から引用ね。
一段落をまとめて出そう。
「中にも、馬場美濃守手前の働き、比類なし。此の外、宗徒の侍、雑兵一万
ばかり討死候。或ひは山へ逃げ上りて飢死、或ひは橋より落され、川へ入り、
水に溺れ、際限なく候。武田四郎秘蔵の馬、小口にて、乗り損じたる、一段
乗り心ち比類なき駿馬の由候て、信長御厩に立て置かれ、三州の儀、仰せ付
けられ、
五月廿五日、濃州岐阜に御帰陣。」
以上。馬場美濃の件については、別途どこかで触れたいところ。
徳川については、特に記述は見当たらないようだが、どうでしょう?
0213人間七七四年
2007/09/11(火) 01:51:37ID:U8rqzU/f0214くるるん
2007/09/11(火) 02:55:21ID:eHNh4H6aごめん。。。ちょっと辛口になるけど
信長公記ベースだと
長篠の上、鳶の巣山へ、五月廿一日、辰の刻、取り上り、旗首を推し立て、凱声を上げ云々。。。
日の出より寅卯の方へ向けて未の刻まで、入れ替はり入れ替はり相戦ひ、諸卒をうたせ、次第次第に無人になりて云々。。。
時間的に挟撃を恐れての攻撃はオカシイよね^^;
んで同じく信長公記に
長篠へは攻め衆七首差し向け、武田四郎滝沢川を越し来たり
と記述があって、この時点で勝頼は決戦を決意してるのよ^^
このことは、19日に信長が送った細川藤孝宛の手紙でも確認できる。
あと207にも書いてある通り
勝頼自身が書状で攻撃を仕掛けた理由を書いているんだって!!
>>だから、例えば酒井忠次のような「奇襲」なら、有利とまではいえなくても、かなり欠点を補うことは出来るね。
だから長篠城攻略で攻撃側の武田軍は鉄砲を効果的に使ってるんだって!
別に鉄砲が特別防御に有利ってわけじゃないよ^^;
>>あとひとつ。武田の諸将が果たしてどの局面で討ち取られたか、だが。
連子川の近くで死んだことがはっきりしているのは、山県昌景、土屋昌次。
後ははっきりしない。信長公記の記述では、多くの戦死者の列挙を、追撃戦の記述の後に書いている。
確かにハッキリしないんだったね。
ただ首塚を調査したところによると、相当な数が連吾川周辺にあるとの事で
攻勢時に討たれたと自分は思うよ^^
0215人間七七四年
2007/09/11(火) 07:17:30ID:U8rqzU/f俺は、白兵戦に不利、と書いたと思うが。
それに「特別防御に有利ってわけじゃないよ」ってのは、過去の歴史とかを検証する以前に「自明」のこと。
防御とは、1.敵を近づけないことが最善。2.入れないことが次善。3.入れても倒すことがその次。
これは軍事の初歩の初歩。
鉄砲は、当時の他の兵器(刀、槍、弓矢など)に比べて、最も1.を達成するのに適した兵器なんだ。
これは軍事の素人でも分かるのではないだろうか?
実際、鉄砲を装備していない城を同じく鉄砲を装備していない寄せ手が攻める場合、城の3倍の兵力が必要というのが相場。
しかし鉄砲を装備している城を鉄砲を装備していない寄せ手が攻める場合、城の10倍の兵力が必要になる。
0216人間七七四年
2007/09/11(火) 07:20:16ID:U8rqzU/fちょっと分かりにくいな。
それに「特別防御に有利ってわけじゃないよ」の是非は、過去の歴史とかを検証する以前に「自明」のこと。
に直しておくよ。
0217くるるん
2007/09/11(火) 14:06:32ID:eHNh4H6a鉄砲については、ちょっと解釈が難しいね〜^^;
多分 認識自体がお互い違うのかも。
取り敢えず、他の突っ込み所に対しては、どう思う??
自分的に突っ込み所あるけど
・挟撃を恐れての決戦は勝頼の書状+地勢+信長の書状から まず考えられない。
・>>204にある武田の騎馬を主力とした突撃は 軍忠状又は当時の戦から考えられない。
・>>210に軍事作戦面から考えてとあるけど、長篠城は美濃諸城、高天神、長篠城攻撃という一連の流れ
この時の織田方の動きと
さすが大身の信長も、わかき勝頼公をふかみ、出かねられたるとハ、合戦過テ後五十日のうちにきこへたり。
という記述を見れば、勝頼がなぜ 合戦に踏み切ったか分かると思う。
0218くるるん
2007/09/11(火) 14:09:10ID:eHNh4H6a普通に考えて地侍や、農民の落ち武者狩りでしょ^^;
長篠の落ち武者狩りは、結構 話が残ってる。
0219人間七七四年
2007/09/11(火) 22:07:44ID:U8rqzU/fまあ、話の主旨は大体分かった。
正直、史料という点では、信長公記は手許にあるが、あとは正直、Webサイト
で掲載されているのをナナメ読みした事があるぐらいだ。
長篠日記とか。信長記か。
俺自身は、傭兵部隊の経験があって、ゴラン高原にいたこともある。
だから、実戦経験も多少だが、ある。
あとは、信長公記を基に、自分の軍事的な考えで、長篠・設楽が原の戦いを考えてみた。
傭兵以前は、防衛大学校にいたので、戦時シミュレーションで長篠城攻防戦は授業で聴講したな。
というわけで、歴史の専門家でないことは断っておく。
長篠城は、「城取り四郎」といわれた勝頼の城取りのひとつという考えと、
家康に対する挑発行為だったという説がある。
落ち武者狩りは、まあ敵国(三河の国長篠)だから十分に考えられる。
むしろ>>204は、鉄砲(当時の火縄銃)を防備に適したものであるというのに同意して書いて、
あとは、むしろ歴史に詳しい御仁に突っ込んで貰った方が良くて、いろいろ情報が得られたらと書いたもの。
あとは、信長公記のソースを希望した人が、どう考えてくれるかを読む事にしよう。
0220人間七七四年
2007/09/11(火) 22:22:54ID:6WMWYhtlmjky
0221くるるん
2007/09/11(火) 22:49:37ID:eHNh4H6a自身が得た、貴重な経験を元に色々と推測するのは大事なことだよね〜^^
ただ長篠は過分に 色々な要素が組み合わさっておきた合戦だから、長篠の戦のみを見ると、謎が多い。
その前後の状況なんかを併せ見ると色々と見えてくるかも。
当時の人の書状なんかを見て「信長公記」や「甲陽軍鑑」の記述を併せ読むと、色々辻褄が合って楽しいよ^^
そんなわけで、「戦国遺文集」というのがおススメ。
あと自分も専門家じゃないよ。
0222人間七七四年
2007/09/11(火) 23:10:01ID:AoGs+KGsどこかの板とかでその経験語ったりしてないですか?あったら教えてください
0223人間七七四年
2007/09/11(火) 23:19:19ID:G9Bk5pGCへぇー、やっぱり今でも過去の戦史のシュミレートとかするんだね
基にするのはやっぱり「大日本戦史」なの?
0224人間七七四年
2007/09/11(火) 23:25:36ID:U8rqzU/f読んだようだな、内容的にマルチポストかも知れないが、ダブって読ませてしまったのなら、済まなかったな。
日本史板で書いた。だが、何か自演だどうだとか、また長篠以外の話題が割り込んできて展開が
つまらんから脱出した。
しばらくは、ここを最初からひたすら読ませて頂いていたな。
でもそこでは傭兵のことは書いていない。2ちゃんで書くのは最初かも知れんな。
また体験談で恐縮だが、戦闘時、最も怖いのは、やはり弾が出なくなったときだろう。
弾切れもだが、もっと怖いのは弾詰まりを起こした時。
銃を使うときは、そういう危険を常に伴っているので、自分の身を護る事を第一に
考えてから攻撃を行う。柵を作ったり、相手が警戒していない時を狙ったり、城壁を
挟んで撃ち合ったりという状況の、兵士たちの心境は、本当に良く分かるよ。
火縄銃は、放ってからの次弾の装填の際に、銃身内を清掃しなければならない。当時
はライフルは切られていないから、掃除は難しくないだろうが、手間と時間がかかる
から、よほど安心感を与える環境がないと、恐ろしくて作業など進まないと思う。
>>221
いろいろ紹介してくれて感謝する。今は日本で悠々自適の生活で、読書が楽しみだか
ら、手に入れて読ませて頂くよ。
0225人間七七四年
2007/09/11(火) 23:34:50ID:U8rqzU/fスレ違いになってきたから、最小限で書くが、「大日本戦史」は使った。
そして布陣図というものを過去の文献からよくあれだけまとめたと思う。
あれはプロシアから招聘されたヤコブ・メッケルが、山県有朋をはじめ、
日本の明治陸軍を教育する傍ら、指導して編纂させたものと聞いた。
ただ、防大の授業は、余り政治的な動機や目的に重きをおかず、専ら戦
術上の長所、短所について、仮定の場合も含めて話を進めていた。
本当は、将兵が政治目的も理解して動くのが理想だが、なかなかそうは
いかない。特に負けているときはね。
0226連投になったけど
2007/09/11(火) 23:46:37ID:G9Bk5pGC信長公記のあのくだりは聞き書きならではの難解さがあると思う。
>中にも、馬場美濃守手前の働き、比類なし・・・1
>此の外、宗徒の侍、雑兵一万〜 水に溺れ、際限なく候・・・2
>武田四郎秘蔵の馬、小口にて、乗り損じたる〜五月廿五日、濃州岐阜に御帰陣・・・3
この3つの文章が時系列順に並んでないように自分には感じる。
時系列順でいくと 1->3->2 の順番だと思う。
そう考えれば追撃戦の長さの問題は解決される。
ちょっとうまく考えがまとまらずに書いてしまったけど
>>218
そうですね。主体的なのはむしろそっちだと思います
0228人間七七四年
2007/09/12(水) 00:24:23ID:a01N7Nu2もしかして同じ話題のあのスレ?
だったら右に同じ。こっちを勧められてdできましたよ。
>よほど安心感を与える環境がないと
だからこその三人一組制であり、あの大軍勢だったんでしょうね
0229中山鹿之介 ◆.Ooo.qq.q.
2007/09/12(水) 08:15:58ID:VZ+ekdON0230人間七七四年
2007/09/13(木) 07:44:58ID:wJZtr4bd0231人間七七四年
2007/09/15(土) 16:09:43ID:tldMgVfD状況はとても良くわかった。
でも兵力の劣る分、攻撃の決定的な理由になってないような。
挟撃されて、負けるのは分っているから、一か八か突撃と言った所かな?
それなら、戦う前から勝負がついていた事になるし。
あるいは、逃げ出して、朝倉滅亡の二の舞になることを恐れたとか。
やはり、想像になってしまうんだけど。
0233人間七七四年
2007/09/15(土) 20:36:37ID:cjnbF5a7歴史研究家も言ってたけど、資料の価値がどれくらいかってこと。
書状は1級の歴史資料としての価値があるけど、
記述ものは後から書かれたものだから。
正確に近いけど、正確とも言い切れないよね。
筆者の独断が入り込む余地があって。
かといって、研究内容もなければ、それが史実となるのかもしれないけど、
現時点ではね。
0234人間七七四年
2007/09/15(土) 20:43:29ID:cjnbF5a7信長側から見ると、すごく納得がいく。
なるほど、と思う。
でも勝頼側から見ると、劣勢なわけだし、
武田側から攻撃する理由(しかも攻城に近い)がイマイチ、
ピンとこないんだよね。
0235人間七七四年
2007/09/15(土) 21:04:22ID:cjnbF5a7少数精鋭の突撃で突破できるかもしれない。
それなら、魚燐とか突撃用の陣形をとるでしょ?
武田は実際は、鶴翼で突撃してるんだし。
包囲して殲滅する気だったんだろうか、3倍もの兵を。
それも不思議な点。
0236人間七七四年
2007/09/15(土) 21:58:17ID:eKy8OfoM書状と書物を併せて考えると結構納得がいくよ〜。
>>234
明智城、高天神でマゴマゴして援軍が間に合わず
18日、長篠救援に到着したものの、陣城を拵え引き篭もり鉄砲を放つだけの消極的な連合軍。
それを見て20日武田軍、滝沢川を越え陣を張る。
陣を張った武田軍は三方を川と山に囲まれ、前方には連合軍。
つまり兵法で云うところの「死地」に陣を張った。
この時点で退却は不可能になり、決戦を決意したように思われる。
甲陽軍鏡記述
さすが大身の信長も、わかき勝頼公をふかみ、出かねられたるとハ、合戦過テ後五十日のうちにきこへたり。
決戦前夜、勝頼書状。戦の安否を心配する甲州の長坂光堅宛
然者長篠之地取詰候之所、信長家康為後詰雖出張候、無指儀及對陣候、敵失行之術、一段逼迫之躰候之条、無二彼陣へ乗り懸、 云々
同日、信長書状、細川藤孝宛
長篠との間三里余候、敵之備雖為節所、十八日押詰鉄砲放候、通路も不可合期候、却而擒候、此節根切眼前候
ようは、勝頼は信長がビビッて引き篭もってるから、ボコボコにするよ?って感じだったけど、実は計略でしたってことだと思うよ。
あとは、よくいわれる外線戦力の欠如、経済格差に焦りを感じて決戦をしたってのが、真相じゃない?
0237人間七七四年
2007/09/15(土) 23:25:18ID:t6AGCJvh武田の中には、まだ「三方ヶ原」の神話が生きていたのかもしれない。
家康だけではなく、信長の援兵(平手汎秀)もいたし、武田からすれば、やはり織田・徳川連合軍だっただろう。
信長って、最初から奇想天外なアイディアや、優れた軍略を考え出す訳ではなく、一旦酷い目に遭ってから、その対策を考えることで、いろいろな作戦を考えるみたいだね。
そして、それで最も大切なのは、最初に負ける際、最初から参加しないか、参加しても絶対自分は死なないで帰ってくること。
それがないと、その後の巻き返しが出来ない。
逆に明智光秀は、そういう信長のやり方が分かっているから、一発必中の千載一遇の好機を窺ったんだと思う。
0238人間七七四年
2007/09/16(日) 00:01:56ID:6rSMWlwR馬鹿だろw
0239人間七七四年
2007/09/16(日) 01:46:41ID:iIJy4nxHひ弱な馬防柵をワザト見せるようにし、武田軍を誘引したというユニークな説があるね〜^^
0240人間七七四年
2007/09/16(日) 10:11:20ID:clJzfMmw武田軍も近づいてみたら、小川はあるし、柵は意外と頑丈だし、
織田軍もなんか多いし、やばいなと気がついた時には、遅かっ
たというのが、真相じゃない。
0241人間七七四年
2007/09/16(日) 12:08:49ID:w9LGlwGO0242人間七七四年
2007/09/16(日) 13:02:56ID:5jrfyMGS武田方が攻めで
織田徳川が防衛戦なわけね
妄想すると、あの場所に掘りを作り
天然要塞的な小規模城を築いていた可能性がある
武田方からすれば
本格的に居座られる前に早期に叩いてしまおう
ってのが作戦の本質でしょ
0243人間七七四年
2007/09/16(日) 18:23:11ID:yQ+lEy1T0244人間七七四年
2007/09/16(日) 22:54:19ID:iIJy4nxH0246人間七七四年
2007/09/17(月) 11:16:08ID:NdVEzn9Q武田軍が設楽ケ原に着陣したときにはもうすでにあったんですが…
0247人間七七四年
2007/09/17(月) 12:52:16ID:hi3+scd+織田徳川が設楽が原に着いた頃は、雨。
13日に出陣して、翌日には岡崎に着陣しているのに、それからダラダラと兵を進め、設楽が原に着いたのは18日。
途中何度も宿営している。急いで来れば15日くらいには長篠城に至れるのにわざわざ状況を見ながら進軍している。
(15日は動かず、岡崎に逗留、16日は牛窪城宿泊、17日は野田原野営)
目的は武田勝頼に攻められている長篠城の救援のはず。家康などは一刻も早く長篠城に行きたいはず。
天候を見ていたのだろう。旧暦の天正3年5月中旬なら、梅雨に入った頃。
入梅以前なら天気が良く、鉄砲が使えるが、反面設楽が原のグラウンド・コンディションも良く、武田の騎馬は思い切り走れる。
知らせはとっくに来ているのに、13日に出陣なのは、入梅を待ったということ。
そして、おそらく次に考えたのは、「梅雨の中休み」。雨が降っていては、武田の騎馬は十分に走れないが、火縄銃も実戦では殆ど使えなくなる。
それが、途中のダラダラ行軍。一通り雨が降り、かつそれが止むのを計算しながら進んだのだろう。
18日到着も雨。それから20日まで雨が降ったらしい。止んだのは20日午後。
信長が酒井忠次に鳶の巣山砦を奇襲させたのは21日早朝。そして武田の突撃開始。
設楽が原は雨が降った後で、地面は泥濘。馬場コンディションは最悪。雨は止んでいて、鉄砲の使用に支障はなかった。
0248人間七七四年
2007/09/17(月) 12:56:11ID:hi3+scd+緻密に計算した結果の勝利といえるだろう。
0249人間七七四年
2007/09/17(月) 13:27:42ID:hi3+scd+遅くなって申し訳なかったが、突撃の動機だが、いろいろな要素は考えられる。
しかし、何と言っても一番の要素は、
織田信長と徳川家康の両名が、揃ってそこにいる。
ということではなかったか。
こんな状況は、まず普通では考えられない。
三方ヶ原の戦いの時ですら、徳川家康に織田は援兵を送っているが、信長本人はそこにはいない。
戦国時代は、領地争奪戦だが、総大将である国主を討ち取れる機会なんて、普通は敵領国を殆ど制圧し、追い詰めない限り基本的には、ない。
敵の国主が、しかも2人も目の前に陣取っているんだ。
これでみすみす退却、とは、余程の自制心がない限り、極めて難しいと思われる。
逆に信長は、そういった戦国武将の心理を巧みに読んで、かつ利用できる稀有の武将だったのだろう。
0250人間七七四年
2007/09/17(月) 17:11:23ID:pNL0yx+W武田軍はずっと前から長篠にいたわけだが。
早めに転進すればいいだけでは。
決戦目的なら、敵が体勢整えるのを傍観するのはアホかと。
0251人間七七四年
2007/09/17(月) 18:43:41ID:NdVEzn9Qいやいや、態勢が整ってないのは武田軍も一緒だから。
織田、徳川連合軍が援軍に来たと知ったところで、直ぐには行動できんでしょ。長篠城はまだ陥落してないし、それなりの対応と、連合軍に対しての作戦も立てなければならないし。
事実、山県、内藤、馬場らは合戦には大反対だったし。そんなことしてりゃすぐに行動など出来るはずがない。
0252人間七七四年
2007/09/17(月) 21:33:16ID:7wCvvjrNえーーーー!?
0253人間七七四年
2007/09/17(月) 22:04:01ID:NdVEzn9Q『武田三代軍記』より。
0254人間七七四年
2007/09/17(月) 22:23:52ID:PCtIPOhzだから武田としては持久戦狙い。決戦する気は全くなし。
予想外の酒井隊の奇襲により後方を絶たれる。
武田の重臣達は退却を進言。
勝頼としては遠征の出費やらここで引いたら長篠城を再び補修されてしまし、
追撃による被害も大きいことから、勝算は少ないが敵主力との決戦に踏み切る事を決意。
てな感じに思ってたんだけど、これって間違ってますかね?
ところで、騎馬兵なんか戦国時代には存在しなかったとか聞くんですけど、本当なんでしょうか?
存在しないというか、当時日本に存在した馬は小さくて結局騎馬武者(武将とか部隊長だけらしい)でさえ、
戦闘時には馬を下りて戦ったとか。
これが本当だとすると、長篠の戦で用いられたのは馬防柵というより人防柵?
実際のところどうなのか非常に気になります。
0255人間七七四年
2007/09/17(月) 22:53:53ID:TwqWoAi7武田からは織田の援軍の兵数も
長篠に来るまでにかかった日数から士気も低いと考えて
三方が原のように勝てると勘違いしたんじゃ
0256人間七七四年
2007/09/17(月) 22:54:13ID:NdVEzn9Q酒井隊の鳶ノ巣などの奇襲は設楽原での合戦が始まった後だが。
各書籍によっては合戦前との記述もあるが、それらは江戸期に奇襲の重要性と効果の為に書かれた物らしい。
馬防柵だが、勿論馬だけでなく、人を防ぐ柵でもある。武田と聞くと騎馬隊が思い浮かぶと思うが、武田は長槍隊が実は有名だな。
騎馬隊で戦うのは中世。戦国時代はどこも足軽隊が主になる。
0257人間七七四年
2007/09/17(月) 23:18:54ID:7wCvvjrN武田の支配体制を考えるとそれは考えられないよ。
中央集権は晴信が信虎を追放した時点で不可能になった。
それに勝頼は正式な当主ではないし。
>>254
酒井隊の攻撃は時間的に決戦の動機にならない^^:
滝沢川を渡った時点で退却は不可能だから、それ以前に決戦を決意したんだよ。
決戦の理由自体は勝頼が手紙で書いてる^^
騎馬については
先刻申含候場所之事、様子被見積、柵等能々可被入念候事肝要候、馬一筋入可来候、恐々謹言
五月十九日家康
(花押)石川伯岐との、鳥居(居)彦右衛門との
ていう龍城神社文書というのがあって、これが騎馬隊の存在を肯定してる資料みたいになってるけど
文体に不自然な所が多くて偽造の疑いが強いと言われてるね^^;
また「甲陽軍鑑」巻六記述
いずれを馬をバ大将とやくしゃと一そなへの中に七、八人のり、残り人みな、馬あとにひかせ、おりたつて鑓をとつて、一そなへぎりにかかる。
とあり、また
馬入るとあるにかざりことばかと見え候。
ていう記述があるので微妙だよね〜^^;
んで、近藤好和氏は著書『騎兵と歩兵の中世史』のなかで、『今昔物語』、『平家物語』、『太平記』、『明徳記』に於ける合戦の描写を比較検証し日本の騎兵の変遷を考察しておられ、
それによると、前九年の役から、治承承平の乱では、馬上での騎射戦闘の記述が多く、『太平記』では馬上での打ち物また、下馬しての戦闘描写が多く、
室町時代の明徳の乱を記す『明徳記』では、下馬戦闘の記述が多くなっていると指摘。
これは平野での両軍対峙しての合戦から、城郭などの拠点戦闘に戦闘形態が推移し、それに伴う飛び道具の発展が下馬戦闘を盛んにさせたとしている。
だから騎馬突撃はなかったと思うけど、一部ではあったのかな〜??
でもフロイスも『日本史』の中で 日本人は馬から降りて戦う って書いてるし。。。やっぱりなかったんじゃないかな〜??
0259人間七七四年
2007/09/18(火) 00:07:52ID:GJE5i9ou>だから騎馬突撃はなかったと思うけど、一部ではあったのかな〜??
敗走する敵を追う追撃戦だけかも。
0260人間七七四年
2007/09/18(火) 00:22:02ID:5AJ1ISrk武田軍の小幡隊が馬上巧者として名高い関東衆の名にかけて騎馬で突撃してきた、
との記述があるし、同じ小幡隊は甲陽軍鑑でも騎馬の扱いが上手いとされている。
よって少なくとも関東では、騎馬による突撃戦法も規模はともあれあったと見て間違いないかと。
0261人間七七四年
2007/09/18(火) 01:04:08ID:sAy0it2v??
それは分かるけど??
武田家は国人連合の盟主的立場で代々、郡内、国中、河内と各々の国人達が内訌を繰り返してきた。
信虎はそれを無くす為に強引に中央集権化を図り、甲府に本拠地を置き、そこに国人領主を住まわせ、監視下においた。
それを嫌った重臣達が、晴信と共謀。クーデターを成功させる。
こうした背景から、以後、信玄の代になっても重臣達の発言力が強くなる。
これら信玄時代の宿老が開戦を否定したのであれば、
母親が諏訪氏の娘であり、武田家の通字である「信」の字すら許されていない、ただの後見役の勝頼が開戦を独断専行で行う事など不可能。
>>260
そうなんだよね〜^^;
『信長公記』の記述
馬入るべき行にて
が謎だよね〜^^;ただ『甲陽軍鑑』自体
馬入るとあるにかざりことばかと見え候
と上の文を否定してるからね〜^^;
0262254
2007/09/18(火) 04:33:21ID:WYTKK3j2平地や追撃戦などの条件が揃えば騎馬戦もありえなくもないかもですね。
少数なら騎馬隊自体の存在もありえそうですし。
>>257様
>酒井隊の攻撃は時間的に決戦の動機にならない^^:
>滝沢川を渡った時点で退却は不可能だから、それ以前に決戦を決意したんだよ。
>決戦の理由自体は勝頼が手紙で書いてる^^
川を渡った時点で退却不可能というのが理解できないのですが……
とりあえず小競り合いで様子見るとかそんな感じで対峙したって考えはおかしいですかね?
手紙の真偽については自分にはサッパリわからないので、訳も正確にできませんし、
それについてはすいませんわかりません。
信長公記はある程度読みましたが、長篠の戦い(設楽原の戦い)については
あんまり信用できるものではないと思ってます。あまり信憑性がない気が……
……で、>>26さんが
ここから想像できる時系列を纏めると、
20日22時まで
鷲の巣山に移動・到着〜攻撃開始
21日朝
設楽が原で小競り合い
21日8時
鷲の巣山周辺の残敵壊滅・長篠城包囲網崩れる
本格的交戦の開始
と仰られてます。他の方の書き込みからも時系列的にはこれで正しいんでしょう。
21日朝の小競り合いに過ぎず本格的な交戦に入るのはやはり酒井隊の奇襲により、
武田側が持久戦不可能になったから、博打的な攻撃(または被害覚悟の退却)に出るしかなかった、
で辻褄合うと思うんです。これも可能性の話に過ぎませんが。
最初から決戦する気だったとしたら仕掛けるのが遅すぎなのが気になるんですよね。
とは言いましたが、あんまり自信はないです。
唯一自分で所持している本に、仕方なく決戦に踏み切ったとあるのでその説を信じてるだけなんですが。
0263人間七七四年
2007/09/18(火) 06:09:23ID:sAy0it2v武田軍が滝沢川を渡って陣を構えた所は、山に囲まれ背後は川、前方には織田・徳川連合軍。
つまり背水の陣を敷いたんだよね。この時点で武田軍は戦うしかなくなった。
信長もこの時点で勝利を確信して
長篠との間三里余候、敵之備雖為節所、十八日押詰鉄砲放候、通路も不可合期候、却而擒候、此節根切眼前候
という、 敵は移動に不便な所に陣を敷いたから、勝頼を捕らえるか討ち取るかは目の前だよ〜って手紙を細川藤孝に送ってる。
んで、対する勝頼は同日に
然者長篠之地取詰候之所、信長家康為後詰雖出張候、無指儀及對陣候、敵失行之術、一段逼迫之躰候之条、無二彼陣へ乗り懸、 云々
敵はビビッて対抗の手段が思いつかず、陣に篭って逼迫した状態になってるから、攻撃かけちゃうよ〜って手紙を家臣の長坂光堅に送ってる。
だから鳶の巣攻略は長篠本戦の開戦には関係がないと思うよ^^
0264人間七七四年
2007/09/18(火) 07:42:16ID:5AJ1ISrk一般論と特別な事例の違いでしょう。
信長公記がわざわざ騎馬で乗り入れてきたと言及しているからには、
それは一般的なことではなく、珍しい例だったからだろうし、
甲陽軍鑑だって一般論を述べているに過ぎず、
騎馬での攻撃が全くなかったと言っているわけではない。
要するに一般的なことではなかっただろうが、
一部の例としては騎馬突撃もあったということでよいかと。
0265人間七七四年
2007/09/18(火) 16:46:20ID:sAy0it2vどう用いられたかが、微妙だよね。
全体の10%少しの騎馬武者を、どう集めてどのように使ったかっていうのが分からない。
ましてや子荷駄隊やらにも結構な数が振り割られてるだろうし。
戦場に立った騎乗の士はもっと減るわけでしょう?
ましてや、指揮官的立場にあった騎馬武者が集団で突撃の為に部隊から抜け出していいのかな??
0266人間七七四年
2007/09/18(火) 18:09:42ID:5AJ1ISrk騎馬の周りに徒歩の従卒が付き従って一緒に突撃したのではないかと思う。
そういう事例も既に一般的にはないようになっていたか、
或いはそういう攻撃の場合の騎馬の割合が特に関東では高かったので、
特筆して騎馬で乗り入れて来たというような表現になっているのではないだろうかと。
0267人間七七四年
2007/09/18(火) 18:40:50ID:sAy0it2v歩騎混同での突撃ね。
でも武田家は結構早くから鉄砲を取り入れてるよね。
その武田家が将校が狙撃される可能性の高い歩騎混同での攻撃を仕掛けるのかな。
いまいち納得がいかない^^;
やっぱり馬入れは飾り言葉な気がする。
0268人間七七四年
2007/09/18(火) 18:58:18ID:sAy0it2v結構脚色はあるけど信憑性は高いと思うよ。
上記の近藤氏もそれに着目されて、比較検証してるんだけど明徳の乱以降の戦闘形式を知る書物として「応仁記」がある。
ここでは、みんな下馬戦闘しているね。
鉄砲出現以前にも下馬戦闘が主流となっているのに
100年以上後の武田軍がそんな時代遅れな戦い方するかな??
0269人間七七四年
2007/09/18(火) 19:08:09ID:5AJ1ISrk飾り言葉といっても、わざわざ信長公記が、
武田軍の中の小幡隊のみを飾り付けてあげる必要もないのだし、
もとより武田のほとんどがそうだとか、
主力がそうだったとか言われているわけでもないのだから、
そんなに気にする必要もないと思うが。
そういうのもいたってだけでは?
0270人間七七四年
2007/09/18(火) 20:35:39ID:5rRHruNZと考えるべきかと
ついで
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99%E3%81%88
0271人間七七四年
2007/09/18(火) 21:06:43ID:sAy0it2vまぁ確かに。
ただ一部で騎馬突撃があったなら
なぜそんな戦い方をしたんだろう??
>>270
明徳記や応仁記などにも下馬戦闘ばかりの記述だよ?
戦国期は馬上突撃自体時代遅れの戦術になってるかと^^;
甲陽軍鑑自体の成立も最近は江戸以前だという説が有力だよね^^;
0272人間七七四年
2007/09/18(火) 21:13:50ID:5rRHruNZありゃ、西国だからと考えてます。馬の産地は東国ですから
その分、馬を大事にするレベルも異なるかと。
甲陽軍鑑は引用した記録は中世だろうけど、テキストとしては
近世成立と考えているので、その点はいじってると思います。
0273人間七七四年
2007/09/18(火) 21:30:28ID:sAy0it2v西国が100年前には下馬していたのに、東国がそんな事するかな。
あと大久保彦左衛門が『三河物語』で戦いの際は下馬して戦い、追撃の時のみ馬に乗るっていう記述があるしね。
0274254
2007/09/18(火) 21:38:31ID:nFuTukeD>武田軍が滝沢川を渡って陣を構えた所は、山に囲まれ背後は川、前方には織田・徳川連合軍。
>つまり背水の陣を敷いたんだよね。この時点で武田軍は戦うしかなくなった。
わかんないです、これ。
背水の陣がそこまで直結するはずないと思うんですが。
わざわざ背水の陣なんか敷いたら逆に罠っぽくないですか?
それ見越しての時間稼ぎブラフと読み取ってもおかしくないと思うんですが。
>敵は移動に不便な所に陣を敷いたから、勝頼を捕らえるか討ち取るかは目の前だよ〜って手紙を細川藤孝に送ってる。
これは単に細川藤孝をけしかけようとしてるだけじゃないでしょうか。
本当にそう思ってるのだったらさっさと総攻撃した方が道理にかなうように思えます。
これが信忠、光秀、秀吉とかの幹部クラスにあてた手紙なら真実味ありそうですけど……
>敵はビビッて対抗の手段が思いつかず、陣に篭って逼迫した状態になってるから、攻撃かけちゃうよ〜って手紙を家臣の長坂光堅に送ってる。
これも、家臣の動揺防ぐために大口叩いてるだけとも取れます。
なのでこの辺を理由として
> 鳶の巣攻略は長篠本戦の開戦には関係がない
ていうのは無理がありませんか?
可能性は十部なるけれど、決定打にはなりえないかと。
0275人間七七四年
2007/09/18(火) 21:45:36ID:5AJ1ISrkそりゃあ馬に乗った突撃の方が衝撃力がありますから。
だからこそ騎馬突撃は世界中で近代まで使われていたわけだが、
そのためにはそれなりの数の馬が必要。
東国にはまだそれなりの数を集めることが可能な場合もあったのでは?
0276人間七七四年
2007/09/18(火) 21:56:03ID:5rRHruNZ雑兵物語でも騎馬突撃の記事がある。但し、今(近世初期)となっては
珍しいと言う位置付け。東国は西国に比べ騎乗レベルが高いと言うのもあり
0277人間七七四年
2007/09/18(火) 22:18:00ID:sAy0it2v滝沢川は凄い渓谷だよ
三方が塞がれ、前方が敵。兵法で言うところの死地。
敵を前に退却しようとすれば、どうなるかわかるよね〜^^;
そんな状態で罠??
ちょっと考えられないと思います^^;
ましてや背水の陣は本体を囮にして陽動隊で敵拠点を落とす戦法でしょ??
>>これは単に細川藤孝をけしかけようとしてるだけじゃないでしょうか。。。
藤孝に何をけしかけるの??
因みに藤孝には鉄砲隊を借りてるから、戦況報告を送ってる。
それ以前の手紙は鉄砲到着を知らせたり、感謝状のみだったのに
武田軍が滝沢川を越えた途端、このような手紙をだした。
>>本当にそう思ってるのだったらさっさと総攻撃した方が道理にかなうように思えます。
先述したように長篠攻撃は美濃明智 高天神 長篠と一連の軍事行動です。
美濃、駿河にチョッカイを出し続けてきた、武田軍を殲滅する為に
信長が計略を張ったとは考えられないでしょうか??
信長が積極策をとれば、動員力の劣る勝頼方は決戦に慎重にならざる負えません。
その為にも明智、高天神に続いて長篠でも消極策をとったものと思われます。
あと、経済格差の為に織田方は無理して、ここで武田方を潰す必要がないというのも
あると思われますが^^;
>>これも、家臣の動揺防ぐために大口叩いてるだけとも取れます。
それは考えられますね^^長坂光堅が織田との決戦に甲斐国内で不安を感じているという手紙を送ってきたので
それに答えての事から、その可能性はあります。
ただ戦後の手紙には、織田・徳川為後詰打出候条、累年之願望令満足候間
と勝頼が決戦を望んでいたと本人が書いてます。
これは先述の経済格差からの焦りかと思われますが、そこを信長に上手く乗せられたのかと^^
あと鳶之巣自体は時事的に無理なんだって!
あなたが何故>>26を支持する理由を聞きたいです。
0278人間七七四年
2007/09/18(火) 22:25:52ID:sAy0it2v>>266であなた自身が歩騎混同の突撃であったと言ってるじゃないですか^^;
その編成で騎馬の衝撃力を期待するのは無理がありますよ。
あと当時の日本の武装を見ると欧州と違って長柄の比率がドンドン下がってますよね。
これこそ、騎馬突撃が無かったと言う証左では??
>>276
ごめんなさい、『雑兵物語』は読んだことが。。。
どのような記述ですか??
教えてください><
0279人間七七四年
2007/09/18(火) 22:37:26ID:5rRHruNZ大意
「最近は馬乗りを行わなくなったが、この前の合戦で二十騎か三十騎の武士がそれぞれ
弓や槍などを持って、敵陣の乗り入れて崩した」
こんな感じ、岩波は実家に置いてきいてるのですわ
因みに足軽隊と騎馬隊の任務区分と言うについては
wikiの
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99%E3%81%88
を参照してください
0280人間七七四年
2007/09/18(火) 22:50:40ID:5AJ1ISrkいや、普通に人間だけが走ってくるよりも、騎馬もいたほうが衝撃力があるでしょう。
そりゃあ騎馬隊とは比べ物にならないだろうが。
0281人間七七四年
2007/09/18(火) 23:13:36ID:sAy0it2vなるほど〜サンクスです^^
稀に行われてたんですね。
ウィキ記述については何ともいえないですね^^;
>>280
デメリットの方が多くないですか??
ただでさえ、雨でぬかるんでる場所で、小幡勢が何故そんな攻撃をしたか謎。
ちょっと納得きかねるんですよ^^;
0283人間七七四年
2007/09/18(火) 23:54:06ID:sAy0it2v0284254
2007/09/19(水) 01:12:04ID:50YBuFdj>滝沢川は凄い渓谷だよ
(中略)
>ましてや背水の陣は本体を囮にして陽動隊で敵拠点を落とす戦法でしょ??
兵法でいうところの死地に武田軍が布陣した。
ならば信長から見れば、何故そんな行動に武田軍が出たのか不気味に思うと思いませんか?
背水の陣というのはそれを行うこと自体が既に罠っぽいと思うんですけど。
>藤孝に何をけしかけるの??
藤孝「に」ではなく、藤孝「を」武田にけしかけるということです。
>あと鳶之巣自体は時事的に無理なんだって!
申し訳ありませんが、わたしには時事的に無理な理由がわかりません。
>あなたが何故>>26を支持する理由を聞きたいです。
他の方の意見も大体こんな感じではないでしょうか?
時事的に無理と言われるからには、そちらには違った見解があるのでしょうけれど、
だとしたら、その考えを伺いたいです。是非教えて下さい。
0285254
2007/09/19(水) 01:20:22ID:50YBuFdj>ましてや背水の陣は本体を囮にして陽動隊で敵拠点を落とす戦法でしょ??
それだけしか使い道がないわけではないでしょう?
例えば、三国志演義によると、策も何もなくただ背水の陣を敷いただけで、
相手が何か罠があるはずと思い、安全策を取って後退していたりします。
時間稼ぎのブラフって言ったのは、それと同じことを勝頼が狙ってた可能性も
ありえるんじゃないかということです。
藤孝を武田にけしかける〜〜のくだりはそういう理由で、探りを入れるためにやったんじゃないかと。
想像でしかありませんけど、十分それっぽい話ではあると思うのですが。
0286人間七七四年
2007/09/19(水) 02:25:01ID:wDT1DGI8信長自体は武田を警戒しながらも畿内の敵を優先して潰してました。
長篠救援にも渋っており、徳川の使者の熱意に渋々ながら出兵した形です。
信長としては、このまま畿内の外線戦力を潰していけば先に上げた経済格差により
時間が遅ければ遅いほど、織田と武田の戦力が開き武田とは組し易くなります。
反対に武田側は、早く織田と決戦をしなければ戦力の差が覆しようがない程開いてしまう為、決戦を焦っていました。
累年の願望云々。。。は勝頼が以前から織田との決戦を望んでいた事が分かりますね〜。
武田四郎滝沢川を越し来たり、あるみ原三十町ばかり踏み出だし、
前に谷を当て、甲斐、信濃、西上野の小幡、駿州衆、遠江衆、三州の内つくで、だみね、ぶせち衆を相ひ加へ、一万五千ばかり、
十三所に、西向きに打ち向き備へ、互ひに陣のあわひ廿町ばかりに取り合ひ候。
今度間近く寄り合わせ候事、天の与ふる所に候間、悉く討ち果たさるべきの旨、信長御案を廻らせられ
滝沢川を勝頼が渡り対峙した時点で
信長が武田軍が決戦を望んできたのを知り、喜んでる場面です。
>>藤孝「に」ではなく、藤孝「を」武田にけしかけるということです。
細川家はこのとき織田家に鉄砲隊を供出してます。
織田に協力している家を何故けしかける必要は無いと思う〜
>>他の方の意見も大体こんな感じではないでしょうか?
結構反対意見でてますよ。
他の人がこうだからっていうのはちょっと。。。。^^;
勝頼が退却不能の滝沢川を渡った時点で決戦の意を決意したと思っていますので
鳶の巣攻略が決戦の原因というのは無理だと思います。
あと
五月廿一日、辰の刻、取り上り、旗首を推し立て、凱声を上げ、数百挺の鉄炮を僮と、はなち懸け、責め衆を追ひ払ひ
五月廿一日、日の出より寅卯の方へ向けて未の刻まで、入れ替はり入れ替はり相戦ひ
二十一日午前八時頃 鳶之巣攻撃開始。
同日、日の出より午前五時に向けて午後二時まで入れ替わり立ち代り武田軍が攻撃をかけてきた。
0287人間七七四年
2007/09/19(水) 20:58:28ID:7URISIXb雑兵物語の想定時期は関ヶ原〜大坂〜島原の近世初期なので
それ以前は騎馬突撃はそれなりに行われてたと考えてます
0288人間七七四年
2007/09/19(水) 21:29:11ID:d0t5TiHk「突撃ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
「ズドドーーーーーン!パーーン、パパン!パンパパーン!」(鉄砲の音)
「ひひ〜〜〜〜〜〜〜〜ん」(馬が泣き叫ぶ)
「怯むなーーーーーー!突撃ーーーーーーー!」
「高坂隊壊滅でございます!高坂弾正討ち死にましてございます」(高坂隊兵卒)
「殿!ここは一旦、兵を引き大勢を立て直すが肝要かと!」(馬場)
つづく
「
0289人間七七四年
2007/09/19(水) 21:29:13ID:wDT1DGI8想定時期が関ヶ原〜大坂〜島原の近世初期だから
それ以前に騎馬突撃がそれなりにあったという理由は何ですか??
宜しければ教えてください。
私は前述の軍記物の記述による流れから近藤氏の説を支持します。
0290人間七七四年
2007/09/19(水) 21:50:23ID:wDT1DGI8又、前述の竜城神社文書も偽文書の疑いが強い為、信じることもできません。
0291人間七七四年
2007/09/19(水) 22:16:47ID:7URISIXb「ナニタリ事ニヤ、上方士ハ馬ヲ入ル事カナキ」
と言う具合に東国武士が騎馬突撃したことを伝えている
(この記述は「雑兵物語」と同一の内容を伝えている)
0292人間七七四年
2007/09/19(水) 23:25:10ID:zaPzn91Bこの板で論じるほどの知識のあるかたは、是非現地に行かれる事をお奨めしますよ。新しい疑問や発見があるかもしれません。
0293人間七七四年
2007/09/19(水) 23:52:05ID:YXu9oQUi以前、ここで書かせてもらった元傭兵のオッサンだが、「くるるん」なる御仁はもう来られないのか?
「戦国遺文集」というのを紹介してもらって、本当に読みたいのだが、見つからない。
もし入手方法を知っているお方がここにいたらご案内頂けたら有り難い。
何卒、宜しく頼む。
0294人間七七四年
2007/09/20(木) 01:22:56ID:3dluYl7xこの敗戦のあとの衰退著しい武田の中で、
名を貶めていった(後世の歴史観ではあるが)他の武田家臣を見るとね。
0295人間七七四年
2007/09/20(木) 01:35:34ID:5bKKwIfvどういう話かわからないけど、「戦国遺文集」は知らないが「戦国遺文」なら知ってる
それの間違いじゃないの?
ここは武田関連スレなんで、「戦国遺文 武田氏編」の事かと思う
図書館で取り寄せて貰うとかするしかないと思う
多分、館外への貸し出し禁止なんで、コピー取るしか(しかも半分まで)なさげだろうけど
一番いいのは購入する事だろうけど・・・高くて無理w
0296人間七七四年
2007/09/20(木) 01:35:59ID:DKb8Ail/「戦国遺文集」という本は存在しないが「戦国遺文」という本が
東京堂出版なる会社から出ていて、確認する限り15冊
その内武田氏編が6冊あるのでこれらを指して「戦国遺文集」
と言ったのではないかと思われる。値段高いけど比較的最近の出版物
だから図書館に行けば読めるのではないかな(地元の図書館で確認済み)
違ってたらすいません くるるんさん
0297人間七七四年
2007/09/20(木) 01:51:45ID:DKb8Ail/追加情報しとくと
値段は17850が5冊と15750円のが一冊
地元の図書館だとやっぱり館内利用のみ
長篠関連でいうと四巻(1575〜1578)もしくは三巻(1570〜1574)
あたりを読むのがいいのかなと思う
0298人間七七四年
2007/09/20(木) 22:51:36ID:W9w8FlbA>細川家はこのとき織田家に鉄砲隊を供出してます。
>織田に協力している家を何故けしかける必要は無いと思う〜
何故そういうことになるのか理解に苦しむのですが・・・
敵の出方見るのに秀吉などの幹部や忠誠心のある旧臣を使いたくなかった。
細川辺りが妥当だったと考えれば説明付くと思いますが。
>勝頼が退却不能の滝沢川を渡った時点で決戦の意を決意したと思っていますので
>鳶の巣攻略が決戦の原因というのは無理だと思います。
こんな言い方はなんですが、貴方がそう思ってるだけでは?
多数の支持を得てる意見ならばもうこれ以上突っ込みませんが、どうもそう思えませんので。
0299人間七七四年
2007/09/20(木) 23:39:08ID:mocrNIpJもしかして細川家の諸将が長篠に従軍してると思ってらっしゃるのでしょうか??
あと鳶之巣に関しては、286の最後の部分に書いてあります。時間的に無理です。
0300人間七七四年
2007/09/21(金) 00:53:36ID:aL4BL8Av私は別人ですが、賛同しています。少なくとも手紙や行動を見る限り、勝頼は
長篠当日以前から決戦を志向していたことが読めます。というか逆に、決戦を
考えていないのなら何故滝沢川を渡ったのかが理解不能になります。対峙して
長期戦を狙うのなら、むしろ川を挟んだほうがはるかに都合がいい。(退却を
考えたとき、川が敵の追撃を阻む壁となる)
そもそも何度も指摘が上がってますが、時間的に無理がある。
五月十八日 織田徳川軍、設楽郷極楽寺山に着陣。(長篠から西方約四km)
二十日 武田軍、長篠北医王寺から東へ移動。設楽原で両軍向かい合う。
午後八時、酒井別働隊出発。
二十一日 日の出とともに武田軍攻撃開始。合戦は午前六時から午後二時まで。
合戦途中で勝頼本陣に鳶巣山砦陥落が伝えられる。
0301人間七七四年
2007/09/21(金) 01:20:36ID:8cR/Q8O9ご案内、感謝する。水を差して悪かったな。
目下、毎日が日曜日だ。何ヶ月に一回くらい、体験談の小講演に引っ張り出されるくらい。
図書館に当たってみるよ。禁煙ってのが辛いがな。では。
0302人間七七四年
2007/09/21(金) 01:25:27ID:Lr8gN6Ob>>301
見落としてた^^;
名無しで潜伏してま〜す
所々書状やら何やらは自分のレスです^^;
自分は国会図書館で見てましたよ〜^^
『戦国遺文 武田氏篇』で6冊あります。
あと織田方としては
『織田信長文書の研究』があります^^
また小和田哲夫氏の
『徹底検証 長篠・設楽原の戦い』
は現地調査と、書状から当時の合戦を考察されており
すごいおススメです^^
0303人間七七四年
2007/09/21(金) 01:28:44ID:8cR/Q8O9時間はあるし、不精じゃないから巡ってみよう。
0304人間七七四年
2007/09/21(金) 15:21:17ID:qKJNXaDJ細川も筒井も兵こそ出しているけど本人はこの時畿内にいる、
だから信長は書状で戦場の様子を伝えている。
自分は鳶の巣攻略が決戦の原因にも、
長篠当日以前から決戦を志向していたことにも賛同している。
武田としてはこの機会に決定的な勝利を得ようと、一部を長篠包囲に残して
織田徳川の正面に進出、その上で
正面から挑む積りだったのか長篠が落ちてから戦う積りだったのか、
長篠が落ちて出兵目的が無くなった織田が撤退するところを攻撃する積りだったのか、
そこまでは分からないけど何らかの手段で戦う積りだった。
ところが鳶の巣攻略によって長篠が解囲され、包囲の危険が発生し
武田は今すぐ戦わなければならなくなった
そう言う意味では鳶の巣攻略が決戦の原因も正しいと思う。
こっからは個人的な感想だが武田側も陣城を構築していた跡があるので
武田は本来は長期戦の構えで、長篠を救援しようと進出してくる連合軍を
陣城で防いで、長篠が落ちた後、いずれは撤退する連合軍に攻撃する積りの
後の先を取る積りだったんじゃないかと。
史実じゃ正反対になってしまったが。
0305人間七七四年
2007/09/21(金) 21:48:07ID:aL4BL8Avだから、記録では鳶巣が攻略されたのは(少なくとも勝頼がその事実を知ったのは)決戦が始まってからですよ?
それとも、武田軍は当初は決戦のつもりはなく様子見で小当たりしていた程度だったが、鳶巣陥落を知って急遽
決戦に切り替えたと?
…自分で言っておいてなんですが、この可能性もたしかにありますな。
だとすれば、決戦に誘引した信長の手腕もたいしたものですが。酒井隊の派遣も、武田軍が川を渡ってから、
つまり鳶巣に緊急事態が発生しても援軍を出すのが困難な状況になってからですし。
0306人間七七四年
2007/09/22(土) 00:02:36ID:Zb/tGiK9上で言ってるように武田が最初に考えていた決戦と
鳶の巣攻略後の決戦は意味が異なるって言ってるのだが。
前者では上に挙げたような何らかの手段で戦う積りで
後者では包囲を防ぐためにも一刻も早く連合軍を蹴散らすかして
長篠から離脱するための戦いをする決意をしたということ。
>それとも、武田軍は当初は決戦のつもりはなく様子見で小当たりしていた程度だったが、鳶巣陥落を知って急遽
>決戦に切り替えたと?
決戦をする積りではあったがそれは武田に有利な状態での話しで
武田側は21日早朝の時点では正面からぶつかる積りは無く、鳶巣が攻略されて急遽
決戦に切り替えたというか戦わざるを得なくなった、と自分は考える。
話しは変わるが長篠は西から
連合軍の陣地、連吾川、武田陣地、五反田川、有海原、寒狭川、長篠
となっているわけだが
『信長公記』だと18日滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀が有海原に進出して寒狭川を
隔てて武田と対陣、で武田も有海原に進出、
その後20日夜となって連子川で対陣していることになっているが、
武田は滝川らを蹴散らしたのかどうか?
ただ20日付けの長坂や三浦への書状だと、連合軍を押し詰めて、
相手はどうすることも出来なくなっている
とかなっていて、織田の先手を打ち破ってこの調子で戦っていれば勝てると考えたのか?
でも織田側は牛一が寒狭川を渡らなきゃ良かったのにとか
20日付け細川宛書状でこの機会に殲滅するようなことを書いているから
上手く誘き出されたと見るべきか
0307人間七七四年
2007/09/22(土) 01:15:29ID:FNuHxcVP蹴散らしたと思うよ^^
何度も引用して申し訳ないけど
戦後の勝頼の書状に
三州長篠之地取詰候処、織田・徳川為後詰打出候条、累年之願望令満足候間、
即時ニ乗懸逐一戦、宗者数多打捕、乗其利信長至陣前押寄候処、構陣城籠居候間、入人数之砌、當手之先衆聊失利候
即時ニ乗懸逐一戦、宗者数多打捕、乗其利信長至陣前押寄候処
と緒戦で勝利を収めた事を書いている。
あと、>>304にある長期戦を挑むなら、滝沢川を渡る意味はないと思う。
0308人間七七四年
2007/09/22(土) 01:21:31ID:Zb/tGiK9長篠落城→織田徳川撤退→武田追撃
の流れを狙うとすれば織田徳川の近距離にいないと追撃で大きな被害を与えられない
ってことになるんじゃ
0309人間七七四年
2007/09/22(土) 03:44:55ID:tLEq1Dxh騎乗指揮官と別に、部隊として騎馬隊はあった。
鈴木の本は見てわかるように、荒唐無稽なこじつけだらけ。
騎馬突撃に関しては原則従卒は戦闘に参加しないようだが、
中世欧州の騎士のように従卒が突撃に後続したりしなかったんだろうか?
ここがくわしい
次々と通説を打ち砕く鈴木真哉・藤本正行について 2
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1169131109/l50
0310人間七七四年
2007/09/22(土) 08:04:56ID:75/2Rs5Kいくらなんでも長篠城陥落前から追撃戦の話になるのは無理があるだろ?
仮に長篠城の押さえとして残してきた3000人で長篠城落とせるとも?
あと連合軍にとっても長篠城が陥落したとしても、武田の倍以上の兵力があるのですぐに撤退の話にはならずありとあらゆる手をつかって武田軍を引きずり出して撃滅するだろ。信長にとってもこの機を逃すと苦境から脱出できない思いもあっただろうし。
0311人間七七四年
2007/09/22(土) 08:21:05ID:KrOhLt7Iのか?
戦術家としては1流の勝頼が2倍の敵との決戦を望んだのはなぜ、以前
はお互いが何度も回避しているのに
0312人間七七四年
2007/09/22(土) 12:08:54ID:GIMpAyjg勝ってた可能性ももあるし
被害減で撤退できたかも知れない
0313人間七七四年
2007/09/22(土) 13:19:13ID:+M6pROib遠目じゃ戦闘員と輜重員の識別も難しいし。
そもそもWW2のような現代戦でさえ当時報告された概算敵戦力と
実際の戦力が全然違うというのは良くある話。
制空権を完全に握って存分に航空偵察できた米軍でさえそんなレベル。
当時の武田方も敵が「大軍」であることは認識してただろうが自軍より圧倒的
優位とまで認識していたかどうかは疑わしい。
当時の長期行軍が将兵に強いる体力負荷が馬鹿にならないことを考えれば、
敵に体力を回復する間を与えないことで少々の戦力差なら充分カバーできると
判断しても常識的な戦理の範囲内だろう。
織田方が背後に別の戦線を抱えながら主力をほぼ振り向けてきたというのが
想定外だっただけで。
実際この時の織田方は戦略予備を使い切って西や北から大規模攻勢に出られたら
京を奪われかねない危険な状態だった。
結果的に何も起こらなかったからこの点は無視されてるが。
0314人間七七四年
2007/09/22(土) 14:28:04ID:FNuHxcVP長篠に付け城と僅かばかりの兵を残しているだけだから、明らかに長篠攻略を後回しにしている。
>>309
論破されてないよ^^;未だに議論してる^^;
鈴木さんのは結構、こじつけやら主観も入ってるけど
色々と調査はしてるから、参考にはなる。
>>311
正確には把握していなかったと思うけど
長坂光堅から甲斐国内では信長が出馬した事に対する不安を伝える書状が勝頼に届いてるから
大軍が来たのは分かっていたと思う。
ただ前年に長篠の一向一揆が鎮圧されて畿内の反信長勢力は石山本願寺のみ。
このまま決戦を先延ばしすれば、いずれ「武田征伐」を受ける事が分かってたから
決戦を決意したんじゃない??
>>313
確かに、あの当時は兵力の算出はテキトーだもんね^^
だから未だに、長篠の兵数展開でも議論が行われる^^;
反信長勢力については天正五年の時点で畿内の反信長勢力は殆ど潰されてる。
長篠合戦後、細川家への戦勝報告で、後は石山本願寺のみだからチョロイという手紙を送ってる。(ゴメン^^;原文をメモってたけど紛失^^;)
当時、石山本願寺を信長はかなり侮ってたからね〜^^;
まさか強敵だとは、認識してなかった模様。
0315人間七七四年
2007/09/22(土) 15:04:41ID:tLEq1Dxh議論というか、鈴木はアマチュア史家だから学会からは最初から黙殺されてるし
同じアマからも腫れ物扱いでは・・・
プロレタリアイデオロギーに無理やりこじつけたりするのは勘弁して欲しいよw
白兵主義うんぬんも旧日本軍を叩きたいだけなんじゃないかと。
あの人は、既存の説・〜史観をひっくり返しすような、人の目を引く本を出すのが目的になっちゃってるから。
0316人間七七四年
2007/09/22(土) 15:53:27ID:FNuHxcVP確かに法学部卒だしね〜
ましたや専門家でもない。
旧日本軍云々はよく分からないけど、人の目を引く本を出すのが目的っていうのは納得。
あと好き嫌いや主観が入りすぎてる。
ただ、軍忠状やら何やら、膨大な数の資料を調べて、死傷理由を探ったり
結構参考になることも多いのも事実だと思うよ。
0317人間七七四年
2007/09/22(土) 18:02:14ID:GnVqbiMA主力を反対斜面に隠蔽していれば
連子川を挟んで対陣した時、武田側はそれまでの経験-三方が原・明智・高天神・有海原-
も合わせて21日もいけると勘違いしたのかもしれん
0318人間七七四年
2007/09/22(土) 18:36:59ID:yBr3bWMh播磨や丹波にはまだ手を出していない。本願寺に対しては荒木細川筒井などを
畿内に残している。越前に関しては羽柴丹羽が長篠に派遣されて敦賀の武藤
しか残されていないが、この頃にはすでに一揆内部での内ゲバが激しく(74年7月
の時点で、すでに諸所の対立は流血をともなう武力闘争に発展している)、また
旧朝倉家臣に対する誘降の手も伸ばされ、とても外に打って出られる状況にはない。
ちなみに長島攻撃のときも羽柴丹羽の本来は越前押さえが任務の武将を連れて
行っているが、越前一揆は敦賀に攻撃もしてこなかった。
結果的に(運良く)なにもおこらなかったのではなく、なにも起こせないと見切った
信長の判断ですね。
0319人間七七四年
2007/09/22(土) 20:15:07ID:75/2Rs5Kだれが指揮をとるの?
いつ反対斜面から表に出てくるんです?
その時を狙って武田軍が攻撃開始すれば連合軍は総崩れになるんですけど。
0320人間七七四年
2007/09/22(土) 21:35:58ID:qB0dDCB8を終えていて前哨戦が始まっていたのだろうか
0321人間七七四年
2007/09/22(土) 21:57:26ID:+M6pROibそこまで楽観してないだろうよ。
時間さえあればこの時点で木曾をはじめ南信の諸豪族を寝返らせることも可能だっただろうに
武田主力を敗走させただけでとっとと引き上げたのがその証拠。
中央をガラ空きにするリスクはちゃんと意識していただろうよ。
0322人間七七四年
2007/09/22(土) 23:45:43ID:nJqvFEB4>細川も筒井も兵こそ出しているけど本人はこの時畿内にいる、
>だから信長は書状で戦場の様子を伝えている。
ありがとうございます。謎がひとつ解決しました。
>>321
とっとと引き上げたのは何よりも残しておいて徳川を押さえさせるためでは?
武田が潰れると徳川急成長の恐れがある。
逆に武田はかなり弱ってるので徳川が潰れることもない。
東国のパワーバランス考えて武田は今潰すべきではないとの判断もあったと思います。
0323人間七七四年
2007/09/22(土) 23:54:04ID:yBr3bWMh>時間さえあればこの時点で木曾をはじめ南信の諸豪族を寝返らせることも可能だっただろうに
それは無理だろ。岩村だってまだ奪回していないのに。
>中央をガラ空きにするリスク
だから、していないよ。摂津の荒木、山城西岡と丹波二郡の細川、南山城と大和の塙、南河内の
三好笑岩らはそのまま残されている。さらに75年3月の細川宛書状で「秋に本願寺攻撃を予定」とも
記されている。おそらく、秋の本願寺攻撃の前面にたつであろう畿内の軍を残してきたのでしょう。
本願寺の監視と、後の準備のために。
0324人間七七四年
2007/09/23(日) 00:03:41ID:XdOngQ3H一応通説じゃ
信長は21日までには弾上山に移動したみたいだが
信忠河尻、信雄稲葉、信康は反対斜面どころか更に後方にいたみたいだが?
あと長篠攻め3000あれば十分だと思うけど
この時点で既に兵糧つきて二の郭まで落とされていたんじゃないのか?
出典は忘れたが
0325人間七七四年
2007/09/23(日) 00:21:18ID:UOvCEaFO>この時点で既に兵糧つきて二の郭まで落とされていたんじゃないのか?
これが事実なら、武田はさっさと城落とせば目的完了なんだよね。
やむおえず決戦説には無理があるかと。
0326人間七七四年
2007/09/23(日) 00:24:52ID:XdOngQ3Hやむおえず決戦って言うのは鳶巣陥落の結果
総攻撃せざるを得ない状態のことを言っているのでは?
0327人間七七四年
2007/09/23(日) 01:05:21ID:t1Vje8TB>あと長篠攻め3000あれば十分だと思うけど
ならば元から全軍にて長篠城を落とし、武田が有利な場所で連合軍を迎え撃つ方がよいのでは?
実際すんなりと陥落すると思ってたのがいざ攻めてみればなかなか落ちず、このままだと挟撃される恐れがあったから武田が動いたと考えた方がいいのでは?
0328人間七七四年
2007/09/23(日) 02:24:11ID:XdOngQ3Hみたいだ二の丸は落ちていないみたい
>>327
長篠城落としたら
織田徳川がさっさと撤退しちゃうって言ってるんじゃないの?
まあ前年掛川を通過して見付辺りまで行った時も家康は決戦避けたし
>実際すんなりと陥落すると思ってたのがいざ攻めてみればなかなか落ちず、
>このままだと挟撃される恐れがあったから武田が動いたと考えた方がいいのでは?
長篠日記だと5月14日には落ちる寸前、兵糧はあと4日じゃ無かった
落とす時間はあったと思う
他に力攻めで被害が大きかったから兵糧攻めに変えたと言う可能性もあると思うけど
0329人間七七四年
2007/09/23(日) 03:02:49ID:ioXGlwE1http://video.google.com/videoplay?docid=3889996417451902162&hl=en
9.15 東京講演会 全編版
http://video.google.com/videoplay?docid=-3859363222910740882&hl=en
0330人間七七四年
2007/09/23(日) 17:57:27ID:t1Vje8TB長篠城が陥落しても、連合軍は撤退しないでしょ。
織田軍が帰りたがっても、家康が帰らせてくれないと思う。
0331人間七七四年
2007/09/23(日) 19:18:33ID:CqetuRrH普通に考えてわざわざ無理攻めはしない。
0332人間七七四年
2007/09/23(日) 20:39:10ID:uFASQ0Pg長篠が落ちたら帰るだろうと武田が考えても無理は無い
織田の方はこの一戦で武田を破ってやるぐらいの気構えで
鉄砲かき集めたり資材用意したりとしているから
帰る気無かった気もするけど
0334人間七七四年
2007/09/24(月) 22:22:23ID:y6A3x5yEようは計略にはめられたんだよ〜
明智を始めとする美濃諸城 高天神と織田は援軍だすのを渋ってる。
さすが大身の信長も、わかき勝頼公をふかみ、出かねられたるとハ、合戦過テ後五十日のうちにきこへたり
の記述通り、織田側が武田家との決戦に消極的というのが世間の見方だった。
実際長篠でも距離を置いて陣地に篭って鉄砲を放ってくるだけで、城を救援するとは程遠い状況。
焦る武田方は之を見て千載一遇の好機と決戦を決意。
滝沢川を渡った。ってことだと思う。
0335人間七七四年
2007/09/28(金) 21:48:51ID:fwAIGjPC0336人間七七四年
2007/09/28(金) 22:07:13ID:CEWrUi1iまあ、織田の圧勝だったのは間違いないのだし、
そう見えて当然かと。
0338人間七七四年
2007/09/29(土) 09:47:52ID:/WF52vqx鉄砲の威力は、武田方もわかっていたはず…
敗因は、ナンだったのですか?
0340人間七七四年
2007/09/29(土) 10:42:09ID:C2g4aPwc0341人間七七四年
2007/09/29(土) 12:40:29ID:jVyTpCAR圧勝まではいかないでしょ
織田徳川方もも相当な被害が出てる
0342人間七七四年
2007/09/29(土) 14:08:40ID:ZTPFlMqgその後の武田が攻めに転じられなくなったのも考慮すれば、圧勝だったと思う。
0343人間七七四年
2007/09/30(日) 19:07:47ID:UR3FK2i00344松平忠吉
2007/09/30(日) 22:59:19ID:uqPwD1pX0345人間七七四年
2007/09/30(日) 23:00:35ID:d+xEV2Vj0347人間七七四年
2007/10/06(土) 10:22:30ID:62rbssn00348人間七七四年
2007/10/15(月) 12:34:45ID:EVbn/Y4/0349人間七七四年
2007/10/21(日) 07:17:19ID:GPthcMLn武田が千で織田・徳川が六百。
あまり変わらないとは言えない。
ただし、武田方は勇将、豪傑が枕を並べて討ち死に。
残ったのは穴山梅雪、小山田信茂のようなのちに裏切る奴や
頼りにならない一門衆ばかり。
織田・徳川の損害など人口比から見て無視できる程。
しかも、名ある人物で死んだのは鳶の巣砦奇襲で
松平ナントカという武将が死んだ程度。
0350人間七七四年
2007/10/21(日) 07:18:52ID:GPthcMLn>>とっとと引き上げたのは何よりも残しておいて徳川を押さえさせるためでは?
>>武田が潰れると徳川急成長の恐れがある。
おいおい、それは考えすぎwww
0351人間七七四年
2007/10/21(日) 08:25:55ID:bihC7lpm大久保彦左衛門の『三河物語』によれば
姉川の合戦、長篠の戦いとも、あのまま攻めておれば、征服も可能だったような事を言ってる
が、信長は勝って緒を締めよというタイプなので、そこまでしかやらなかったらしい
0355人間七七四年
2007/10/24(水) 12:47:53ID:vwy2TxAmその通り。
この時点で武田の滅亡は明らかになった。
木曽、穴山、小山田が裏切ろうが裏切らなかろうが後々はなんにも変わらないと思う。
0356人間七七四年
2007/10/24(水) 21:57:14ID:dy2gvrCT1秒間に1人が通れるような道。
1分で60人
1時間で3600人
2時間で7200人が限界。
最初は、勝頼とその部隊が退却。次に一門集。
武田の重臣達は、逃げる順番がこないため、その場に残り戦死した。
そんな感じじゃないかな?
0357人間七七四年
2007/10/25(木) 01:37:09ID:sEt5ohrc0358人間七七四年
2007/10/27(土) 13:55:29ID:LEAEyZwG戦線の崩壊につながったという話も聞いたような。
0360人間七七四年
2007/11/13(火) 06:39:05ID:oiXHyXIZ姉川のときは小谷城が強固だから絶対に無理。(まだ後詰めされる
可能性もあるし)
でも武田に関しては困ってるのはむしろ徳川くらいで
織田に関しては(武田領土などに)まったく関心がなく、興味はむしろ西や
本願寺に向いていた。信長にとっての長篠は
世間に織田>>武田を示すためのモノで。
0361人間七七四年
2007/11/14(水) 10:32:19ID:rIeQ7v3L4万足らずで甲信を征服できるか?
出来たとしても後の統治は泥沼にはまりそう。
朝倉滅亡後の越前しかり、本能寺後の甲斐しかり。
0363人間七七四年
2007/12/11(火) 18:54:59ID:+GntF8L8勝頼に、兵力を過小に錯覚させる謀略でも用いたのかな?
0364人間七七四年
2007/12/18(火) 14:54:36ID:4lZtrdlL後から同じような話を創作したんでしょう
0365人間七七四年
2008/01/20(日) 07:31:02ID:21xCx7Zm正直、戦場の感想としては縦にせまく横に長く感じた。
あと今まで武田騎馬隊と鉄砲の三段打ちを定説として
信じてたので気にならなかったのだが。連吾川の存在だな。
屏風からわかるように織田の鉄砲隊のターゲットが
騎馬兵と鉄砲隊であるように
大半の武田軍は竹束を持ってゆっくり前進したと考えてみる
でも連吾川で(今とちがっては当時の形状は違うだろうが)
騎馬隊ならなんのためらいもなく突破できるだおろうけど
歩兵ならもたつくだろうな。(竹束を持ってるから)
で、あの距離なら弓もとんでくるだろうし
もうちょっと近づけば織田名物槍ぶすまも有効だろうし
0366人間七七四年
2008/01/20(日) 21:14:38ID:MloAFSh6やがて、戦が動いた。織田・徳川勢の動きに反応し
武田勢が突撃を開始したのである。一番に攻め寄せたのは
山県三郎兵衛昌景の率いる精兵だった。山県勢は押し太鼓を鳴らして
猛然と攻めかかってきたが、織田勢の鉄砲の前に散々に
打ち立てられて引き退いた。かわって武田逍遥軒信廉が
突撃してきたが、織田・徳川勢は敵がかかれば引き、
退けば食い下がって密着し、下知通りの鉄砲射撃によって
過半を討ち取った。三番手に寄せてきた西上野小幡党の赤武者も、
馬上巧者として名高い関東衆の名にかけて騎馬で突撃を
しかけてきたが、身隠しの胸壁の間から射撃を加える
織田・徳川勢の前に兵の大半を討たれて退いた。
四番手には黒一色の軍装に身を包んだ武田典厩信豊勢がつづいたが、
これも同様にして討ち果たされた。
このように武田勢が総軍入れ替わりで突入してきたのに対し、
織田・徳川勢は一将たりとも前に出さず鉄砲のみで応じた。
そして足軽であしらいつつ徐々に敵勢を追い崩し、
そのあとで人数を突入させていった。五番手には馬場美濃守信春勢が
押し太鼓の音とともに攻めかかってきたが、結果は上と同様であった。
5月21日日の出の刻から始まり、織田勢が東北東をさして戦った
この戦は未刻まで続いた。その間武田勢は諸卒を突入させたが、
そのたびに織田・徳川勢に討ち果たされて次第々々に無人となって
いった。それでも生き残った将兵は武田勝頼の旗の下に集まり、
敗戦を悟って鳳来寺の方角へ退却をはじめた。
信長公はそのときを逃さず、陣をくずして総軍を乱進させ、
これを追撃した。
これを読む限り武田軍は車掛りの陣を使った可能性も否定できないな。
(あくまで推測)この文章の前にも書いてあるのだが織田軍は軍勢を
山の裏側に何人か隠していて、陣容としては三方ヶ原に毛の生えたわ形
(前哨戦で勝ってる事から勝頼が錯覚しても仕方がない)
徳川軍+織田の援軍数千みたいな。事実、信長の陣ややや後方。
息子の信忠に関してはかなり後方。家康だけが前線の一番後方
(現中学校)にある。織田軍の全陣容をアレしたらかなり広大な絵となる。
(追撃の直前に信長らは前線に張り出してきて。武田軍が
次第に浮き足立った事が想像できる)
0367人間七七四年
2008/01/20(日) 21:23:39ID:MloAFSh6騎馬でなく徒歩で逃げた事を考えれば・・・。
以下信長公記の武田軍の掃討戦
この者達をはじめとして武田勢はこの一戦で数多の将兵を失い、
討死した者の数は一万にも達した。その中には山に逃げ入って
飢え死にした者や、橋から川へ落とされて水死した者も
多く含まれていた。
また近くの農村は三方ヶ原を含む信玄の西上作戦での
略奪・乱暴をされた事から、これみよがしに報復行動にでただろうし。
あんな山の中を脚で信濃・甲斐へ戻るなんて想像しただけで
大変な運動量が要求される。武田軍の死亡者が1万というのは
あながち嘘とも思えない数字に思える。また馬場信春の
墓のある場所が絵になるとこにあって。もしここで討ち取られたと
したならば、かなりドラマチックな場所といえるよ。
0368人間七七四年
2008/01/20(日) 22:15:02ID:n4XUab7g0369人間七七四年
2008/01/21(月) 04:38:51ID:3IvEuqvYいま気付いたんだけど、
>山県勢は押し太鼓を鳴らして
>馬場美濃守信春勢が押し太鼓の音とともに攻めかかってきたが
妙にこの「押し太鼓」ってのを特筆してるような気がするんだけどこれはなんでだろう。
当時は武田軍の押し太鼓ってのは有名だったのかな?
ひょっとすると、武田騎馬軍団最強というイメージが形勢された要因の一つにこの押し太鼓というのが
なんらかの形で絡んでるんじゃないかと思うんだがどうだろう。
0370人間七七四年
2008/01/24(木) 21:41:58ID:ApzFcdtzどこの家でも太鼓・鐘・銅鑼などで前進・後退の合図をする。
何にも特別ではないですね。
でも表現として、その方が勢い・強さが出せる。
で、それを倒した織田家スゲーという自慢。
>>307
>即時ニ乗懸逐一戦、宗者数多打捕、乗其利信長至陣前押寄候処、構陣城籠居候間、入人数之砌、當手之先衆聊失利候
『信長公記』には信長が21日に、「足軽を懸けられ」たところ、
「御敵“も”人数を出だし候」とあるわけで、信長から先に手を
出して、陣城まで追い込まれる形で、開戦してる。
18日に戦いがあったという解釈でなくても?
出てきた敵に一撃を加え、そのまま陣前に押し寄せたら逆襲を
受けたという戦の展開そのまんまの手紙かと。
ちなみに、今でこそ決戦の地は「設楽原」で、「有海原」は
信玄台地の東側という扱いだけど、設楽原という命名は
近代の話。かの場所は長篠であり、強いて言えば設楽郷だが、
現在の設楽原も含めて一帯を「有海原」と呼んだ。
明治時代に書かれた「大日本地名辞書」では「有海原の古戦場」
と紹介しています。
「ころみつ坂の上」の「有海原」の指す範囲は非常に広い。
「有海原」の指す範囲が広いので、最初にどこに布陣したかは
どうとでも取れるのです・・・
0371人間七七四年
2008/01/27(日) 11:21:36ID:ib10EwbV0372人間七七四年
2008/01/27(日) 15:56:56ID:+sF9K3EW屏風を詳しく見てみるとわかるのだが
山県隊をじっくりみると(山県の首が狩られて
家臣が奪われないように逃げるとこね)
騎馬兵の横に足軽隊がいてその横に太鼓を
背負ってる兵と叩いてる兵がいる。
信憑性はないかもしれないがその山県隊は甲陽軍監に
おいて織田の柵を3重まで突破したとある。
(おそらく死兵となって多く討死にした事が想像されるが)
この押し太鼓が特に山県隊には多かったとオモワレ。
0373人間七七四年
2008/02/08(金) 19:40:56ID:DM0Ix3as1473年 バシュケントの戦い 中近東
1525年 パヴィアの戦い 欧州
オスマン帝国は長篠の戦の100年前に、スペインは50年前にすでに火力で
騎兵を蹴散らしていた。極東の島国は遅れているよなぁ
0374人間七七四年
2008/02/08(金) 22:41:59ID:EJfwi7dc野戦工事だからドゥラキウムの戦いみたいなものじゃない?
倍以上の敵がこもる野戦工事に対して少数精鋭の兵で突撃して敗北したのも全く同じ。
0375人間七七四年
2008/02/09(土) 00:51:13ID:UiTgIbLf懐かしいわー^^
0376人間七七四年
2008/02/10(日) 17:50:07ID:Bw+LR3FIくらいなら面白かったのにな。
0377人間七七四年
2008/02/10(日) 21:11:03ID:VIBl+v4z北条も巻き込まれて損害拡大という間抜けな構図が目に浮かぶ。
0378人間七七四年
2008/02/10(日) 23:29:34ID:XDbv9Kl6武田軍の猛将達は次々と織田・徳川軍に襲い掛かるが
鉄砲でこれをうちはらった。続いて猛将のなにがしがつっこむが
これも鉄砲で打ち払い連吾川は血の海、死体の山で染まった。
勝頼のまわりに兵は次第に少なくなって撤退を開始。
そして織田・徳川軍は追撃を開始。武田軍への追撃は執拗を極め、
川に落ちて溺死するもの、山に篭って餓死するもの。(おそらく農民に撲殺される者も)
数日のうちに信長公は岐阜城へ凱旋した。
甲陽軍監
佐久間の調略や、織田軍内の内部分裂、武田軍の指揮の高まりから
連合軍との決戦を勝頼は決意。朝、織田軍と対峙、武田軍は
織田陣内へ切り込むと、織田軍は鉄砲で応戦。これに武田軍は
竹束で応戦。そんな中勇猛果敢な山県隊は、織田の柵を三重まで
突破。しかし、内応に応じたはずの佐久間が依然こちらに応じず。
それどころか穴山隊が戦線を離脱(鳶ヶ巣山を奪取されて退路を断たれた為)
そして前線で孤立した山県三郎兵衛討死し。穴山離脱により親類衆が
つぎつぎと戦場を離脱。勝頼自身も撤退を決意。撤退の途中
武田の有力武将が数多く討死した。
0379人間七七四年
2008/02/29(金) 00:09:04ID:8hbyHf790380人間七七四年
2008/02/29(金) 06:15:49ID:p0sfHYtN雨で鉄砲が使えなければ、ここまでの大勝にはならなかっただろうね。数を見てわかるように、織田、徳川は、決戦の心構え。用意周到に。あり地獄にはまった感じ。引くもできず、進むもできなかった。
0381人間七七四年
2008/03/04(火) 03:17:34ID:YUqonZYu酒井の別働隊が失敗する可能性も出てくるから武田の突撃そのものが無くなる可能性も出てくるけど
0382人間七七四年
2008/03/08(土) 23:42:27ID:Me1oMP+C0383人間七七四年
2008/03/10(月) 22:17:08ID:Omi28LZL写真見ると関ヶ原に比べて、演出がしょぼそうな気がするのだが・・
馬の柵とか本陣跡とかいろいろあるようだけど、観光客はそこそこいる?
俺は戦国オタで史跡とか旅行好きの女の子と初デートするのだが、行き場所に
長篠古戦場が案として出てるのだが・・大丈夫?
0384人間七七四年
2008/03/10(月) 23:29:46ID:ijTtWIpp真性の歴史オタは「その場」にいるだけでかなり盛り上がる。
近くには長篠で死んだ武将の塚や、資料館もあるはずだし
0386人間七七四年
2008/04/02(水) 00:45:38ID:m3g3IZCF0387人間七七四年
2008/04/07(月) 23:08:10ID:T2a05/BA0388人間七七四年
2008/04/29(火) 19:39:22ID:kWt2LXFLてんきゅうや穴山が討ちとられたほうがよほどお家てきにやばいんじゃないの?
先に離脱するには当然だよ
0389人間七七四年
2008/04/29(火) 20:30:00ID:8CbJMztQ武田をある程度消耗させることができれば、それで十分に価値がある。
一方の武田は、痛み分けすら許されず、最低でも勝つしかなかった。
信長の首を取るしか絶対的な勝利にならないくらい、追いつめられていた状態だ。
兵力の差よりも、求められる結果の差がシビアすぎる。
0390人間七七四年
2008/05/16(金) 00:20:35ID:mdmdrvQd信長直率軍にしては遅滞ともいえる行軍速度で進んだ結果、高天神城を見捨てた
形となり遠江国人衆は徳川頼りなしと離れはじめ、徳川は織田からお詫び金を
もらったものの織田頼りなしと家臣団の不満が高まる
長篠城も同様になっていれば遠江国人衆はほぼ完全に武田になびいただろうし
徳川そのものも浜松城からまた岡崎城に本拠を移さざるを得ない
0391人間七七四年
2008/05/16(金) 00:32:47ID:j8tyftpZ見捨てるのと、決戦の末で敗北じゃ、えらい違いだぞ。
長篠城は、元々が武田方に属してた城で、篭もるのも将兵であり、徳川としても被害甚大というわけでもない。
失ったところで大したダメージではないし、包囲を解いている以上、兵糧の補充が行われている可能性もある。
決戦を終え、勝ったとしても甚大な被害が出たあと、決戦前すらなかなか落とせなかった長篠城を落とせるかすら疑問。
完勝ははっきり言ってあり得ない状況だし、辛勝では撤退に至る可能性の方が高い。
0392人間七七四年
2008/05/16(金) 00:44:27ID:j8tyftpZ兵力の説はまちまちながら、2〜3倍の兵力差があり、武田側が持久戦にできないため、攻城戦に近い形で攻撃、
徳川の動員兵力はフル動員ではなく、信長や家康が討ち取られでもしないかぎり、少しの間で再決戦すら可能な状態。
この兵力差で殲滅なんて無理だし、勝てても速やかに撤退するしかなかったのでは。
決戦に勝っても撤退となれば、「織田に勝利した」と鼓舞もしがたいし、撤退戦での将兵の甚大な被害はなくなるにせよ、
決戦後に長篠城を落とす、さらにその後の確保は、かなり困難と思われ。
0393人間七七四年
2008/05/28(水) 14:14:41ID:ZrTq9OgF武田の最善の選択は撤退しかなかった。
0394人間七七四年
2008/05/28(水) 23:55:01ID:q5Ms8Rkx<<戦国時代>>板は6/4日出陣
http://2ch.gepper.net/tour/t2/a9.html
詳しくは選対スレへ
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211037643/
公式サイト
http://2ch.gepper.net/2ch.html
0395人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/01(日) 02:51:20ID:wuX9ZxSR>信長直率軍にしては遅滞ともいえる行軍速度で進んだ結果、高天神城を見捨てた
>形となり遠江国人衆は徳川頼りなしと離れはじめ
具体的には?
0396人間七七四年
2008/07/08(火) 16:02:13ID:sVJZZd8J元々は松平側だ。祖父の清康時代からの盟友だぞ。
信玄の攻勢の際、当時の宗家が降伏したから、已む無く武田に一時的に属しただけ。
長篠合戦に至る頃の長篠城主は、家康とは兵法の兄弟弟子で、親しい友人でもある。
武田勢から徳川勢に帰ったことで勝頼の怒りを買っていて、既に実弟は勝頼によって殺されている。
長篠城が陥落したら、現当主貞昌の命も無い。
家康にとって、見捨てる選択肢は有り得ない。
0397人間七七四年
2008/07/09(水) 12:50:30ID:3Auo3sF/何度も言われてることだけど
そこで撤退してその後勝ち目はあったのかい?
もうあの時点で戦力差はかなりあり
戦力差が高いだけに時間がたてばたつほど武田が不利になっていくわけで
0398人間七七四年
2008/07/10(木) 18:48:52ID:+xZfqN6m史実より悪くなることは無いだろ。
勝てない以上、撤退もベターな選択肢かと。
撤退を否定するなら、勝つ方法を提示すべきだ。
武田を粉砕したことによる名声と東の脅威の除去で信長がより優位になったのは事実だし。
0399人間七七四年
2008/07/11(金) 13:08:04ID:yTFHkDW2勝ち目が少しでもあるなら完全なミスとはいえないと思うけど
0400人間七七四年
2008/07/11(金) 13:48:16ID:YZ9lL+Oeなるんじゃね?
0401人間七七四年
2008/07/12(土) 21:08:51ID:m4S9D3uu兵力が半分以下という段階で、完全に勝ち目はないと言ってほぼ間違いないよ。
2倍以上の兵力差を覆すのは極めて難しい、少なくとも信玄以降の武田家にはそんな例は存在しないし。
特に、相手が攻め込んで来ている状況で、地の利を生かしたり相手の隙をついたりして、
劣勢を覆すという例はそれなりにあっても、劣勢な側が敵地に攻め込んで勝つというのはさらに稀。
長篠の戦の時の状況では、もしも退却が可能だったなら迷わず退却すべきだったと言える。
0402人間七七四年
2008/07/13(日) 04:00:27ID:IjNXd5X5事前に斥候出しても所詮目勘レベルの話。そもそも後年伝わってる数字だって怪しいもんだよ。
お互いの国力差だって現代ほど正確な認識なく出陣してんだから。
戦国時代の合戦はチンドンチンドンお祭り合戦。勢いで負けたほうは死にたくないからあっという間に離散する。じゃないと生産性が維持できませんって話だよ。
舐めてかかったら意外と数居たし、強かったってことでしょ。
0403人間七七四年
2008/07/13(日) 08:48:07ID:uX0TDWnS戦国大名をそこまでアホだと仮定しては、何の話も出来ないよ。
微妙な差ならともかく、2倍を越えるような戦力差が分からないなんてありえない。
そもそも>>397からして戦力差が高いという認識を前提にした話なのに、
今更認識していないなんてことにするなら、まるで話にならないでしょうが。
0404人間七七四年
2008/07/13(日) 23:56:56ID:IjNXd5X5だから二倍居たって誰か見たんかい?(笑)
確かに日本の史料は大陸ほど数字的誇張は少ないかも知らんけど、要するに国力差から見た推量が根拠になっとるわけでしょ。現代のそろばんで。
戦国時代の合戦でね。例えば三万とか五万とか軍勢が出陣したとするわな。そして敵勢の位置確認して接近。さぁさぁ大会戦の始まり始まり。ってなって、大将が点呼とりました。例えばね(笑)そん時に三万とか五万がそのまんま居るわけないのよ。残念ながら。
半分以上は中間さん。兵糧や武器弾薬、馬の餌やら、あと陣屋作るにも大量の資材が要る。それの兵站。運送屋っすよ。
消費材はほとんど引っ切り無しに補給しないとやばい。なにしろ雑兵一人にも日に四〜六合も支給してたんだからね。計算得意な人はしてみて下さい。ありえない物量だから(笑)
まぁ浜松からなら近いけど必然陣形は長ーくなるんですよ。浜松に集めるだけで人足要るし。
数なんか正確にわからんつったのは戦場に到着して間もない状態で戦闘に専念できる兵力がどんだけあるか?ってことなのよ。そういう意味では勝算がなくもない状況だったんちゃうん?て話。
俺が言いたいのは合戦はゲームとちゃうんよ。ってことだけだけどね。勝頼なんか擁護する義理ねぇし(笑)
0405人間七七四年
2008/07/14(月) 00:05:18ID:NKSGu0Ua完全に勝ち目がないというわりにはもっと寡兵での勝ち戦がいくつも日本史にはあると思うよ
確率が低いのは確かだが勝つ可能性が少しでもあったならいくのは明らかな間違いではないのでは?
まあ最善の手ではなかっただろうけどここで戦しないとそれこそ完全勝ち目がなくなるし
0406人間七七四年
2008/07/15(火) 18:44:30ID:8HjBYaBI寡兵で勝つ場合には、陣形や地形を利用するか奇襲するかだろ。
武田は正面攻撃したし、陣形(馬防柵)と地形(川と地面のぬかるみ)も織田優位。
さらに酒井が後方に奇襲かけている。
本来武田が勝つためにやるべきことを全部織田にやられてるうえに約3倍の兵力差。
兵数以外の条件が五分なら、甲州兵の強さ3倍理論wでここまでの惨敗は無かったろうが。
0407人間七七四年
2008/07/15(火) 21:19:52ID:PPX3cc+Pそれだけ確証のない仮定を積み重ねれば、勝算のない戦なんて世の中からなくなるわな。
まあ、事実0.000何%くらいの勝算ならいかなる戦にもあるだろうが、そんな事まで語っても意味ないでしょう。
ようはあの場面では、僅かな勝利の可能性に賭けるよりも、もし可能なら退却した方が良い手だったということ。
>>405
あなたが言うように劣勢な側が勝利した戦も存在する。
だからこそ、あの場で戦をしないとそれこそ勝ち目がなくなるなんて事にはならない。
劣勢な側が勝った戦は大体が相手の隙をついたり、地の利を生かしたりといった、何らかの工夫を凝らしている。
ところが、長篠の戦の時の武田軍は、武田側から敵地に攻め込んでいる上に、
城攻めの真っ最中で、そういう劣勢の側が勝つような工夫を凝らすことが極めて困難だった。
そして、実際に正面から戦って壊滅している。
確かにあの場面で退いたなら国力的な劣勢はさらに大きくなっただろうが、
劣勢な側でも戦術戦略を練れば、勝てる可能性もゼロではないのだから、
そういう戦術戦略を練れないようなあの場面では、あえて退却した方が良かったと言える。
もちろん、それが可能だったならの話だけど。
0408人間七七四年
2008/07/15(火) 23:24:20ID:5T01yr8v確証のない仮定って?(笑)俺何も仮定してないよ。長篠はどーでもいいって。
一日米5合×五万人で何トンある?トラックなんかない時代だよ。
俺もびっくりしたけど、そんくらい配らないといざ戦闘って時逃げちゃう(笑)数日は直属の上司である家臣たちが手弁当で面倒見るけど(よく戦時携帯食として言われる干し飯とかはこれなんだよね)それ以降は大規模な補給活動が必要になるわけ。大名の負担と指揮で。
そういう戦場のリアリティをまず前提に話をしようじゃないか(笑)
戦争っていうよりほとんど食うために運び続け、運びながらたまに戦う。運ぶものが無くなったら乱盗りで現地調達。戦国時代なんてそんなもん。
だから簡単に二倍居たとか言うなよって話。
0409人間七七四年
2008/07/16(水) 00:16:49ID:WJW37hATそういう条件はどっちも同じ、むしろ自国及び同盟国内を動く織田徳川の方がはるかに有利。
そして圧倒的な国力差。加えて文献等で述べられ、石高等から考えても妥当な兵力差。
それなのになぜ、その結論が武田軍に勝機があったかもしれないって事になるの?
確かに仮定という言い方は間違いだった、正直それは一方的過ぎて仮定にすらなっていない。
結局あくまで0でないという意味では勝機もあると言えるかもしれないが、敵軍圧倒的有利に違いはなく、
結論は可能ならば撤退すべきだったとしか言いようがない。
ちなみに戦はゲームではないからこそ、兵力国力といったものが、極めて重要になる。絶対ではないにしろね。
0410人間七七四年
2008/07/16(水) 00:31:54ID:WJW37hATまた同じ輸送でも、敵領内まで運ぶよりは自領内の方がまだしも簡単。
そして本拠地からの距離、行軍等の全体を見ても、甲斐信濃から山越えで来る武田より、
濃尾平野を主に動ける織田のほうが有利。
リアリティを考えれば考えるほど、武田の勝機は少なくなっていく。
まあ、国力のある方が必ず勝つとは言わないが、長篠の戦の状況ではまず無理。
0412人間七七四年
2008/08/05(火) 20:53:25ID:QvFaR0HR0413人間七七四年
2008/08/06(水) 16:29:44ID:llZseB/oどうでも良いことなんだが、人間一日に5合も米食うのか?
いや、無粋な揚げ足取りじゃなくて自分の食ってる量を考えると、3食食っても3合くらいなもんで・・
0414人間七七四年
2008/08/07(木) 01:37:55ID:ejuZWJbF5合だと2850kcal
現代の歩兵の1日の必要カロリー3000kcalよりちょっと少ないな。
俺kが聞いた話だと6合は喰らしい。
0415人間七七四年
2008/08/07(木) 02:08:01ID:xKMXcZXq国力がどうのこうのいってるが
長篠の戦って
通説は連合軍3万強vs武田1万5千だよな
織田軍の総兵は当時既に10万超えるはずだぜ
それがごたごたあって3万も来てない
でも信長は来てる
やるしかなくね?
0416人間七七四年
2008/08/07(木) 02:13:33ID:hWZmnnHaこれは織田徳川連合軍にしてもそうだが。
あの戦は、例えば桶狭間と同じく、「結果的に」武田に大損害を与えたに過ぎない。
無論その「結果的」を得るために織田徳川が全力を尽くしたのも確かだが、だからと言って
最初からそう言う戦果を想定なんてしていない。戦略目的としては、あくまで長篠城の救援が
第一だったはず。
0417人間七七四年
2008/08/07(木) 21:09:07ID:zW6sbkpD信長が迂回攻撃してるんだよね。桶狭間の迂回攻撃は否定されつつあるが、
意外なことに、長篠の戦いではやってたわけで。
武田軍による騎馬突撃はあったらしい。
一番、山県三郎兵衛、推太鼓を打つて懸り来り供鉄炮を以て散々に打立てられ引退。
二番に正用軒、入替、かゝればのき、退ば引付、御下知のごとく鉄炮にて過半人数
うたれては其時引入るなり。
三番に西上野小幡一党、赤武者にて入替り懸り来る。関東衆馬上の功者にて、
是又馬入るべき行にて、推太鼓を打つて懸り来る。
人数を備へ候 身がくしをして、鉄炮にて待請けうたせられ候へば、過半打倒され
無人になつて引退く。
四番に典厩一党黒武者にて懸り来り候。かくのごとく、御敵入替へ侯へども、
御人数一首も御出しなく、鉄炮ばかりを相加へ、足軽にて会釈、ねり倒され、
人数をうたせ引入るなり。
三番に「是又馬入るべき」とあって、是又(これまた)というのだから、
他の部隊も馬で突入をはかった、と見るべきだろうね。
ただ、馬だけの騎馬隊でなく、鉄砲や弓で援護射撃(これは竹柵で防護)の
中で、騎馬と徒歩の兵が一緒になって突撃、という戦法だったろう。
0418人間七七四年
2008/08/07(木) 21:39:43ID:xKMXcZXqttp://www2.ttcn.ne.jp/~history/collaborate/nagashino/07.htm
一番、山県三郎兵衛、推太鼓を打つて懸り来り供鉄炮を以て散々に打立てられ引退
二番に正用軒、入替、かゝればのき、退ば引付、御下知のごとく鉄炮にて過半人数うたれては其時引入るなり。
三番に西上野小幡一党、赤武者にて入替り懸り来る。
関東衆馬上の功者にて、是又馬入るべき行にて、推太鼓を打つて懸り来る。
人数を備へ候身がくしをして、鉄炮にて待請けうたせられ候へば、過半打倒され無人になつて引退く。
四番に典厩一党黒武者にて懸り来り候。
かくのごとく、御敵入替へ侯へども、御人数一首も御出しなく、鉄炮ばかりを相加へ、
足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ引入るなり。
五番に馬場美濃守、推太鼓推にてかゝり来り、人数を備へ、右同前に勢衆うたれ引退く。
220 :日本@名無史さん:2006/06/03(土) 22:36:28
>>219
太田牛一『信長公記』、長篠(設楽原)合戦部分。
騎馬武者の記述があるのは三番のみ。
一番と二番と四番と五番に騎馬は出てこない。
0419人間七七四年
2008/08/07(木) 21:53:37ID:zW6sbkpD少なくとも、一番と二番でも馬入るべき行、がなされたと解釈するべきじゃん。
0420人間七七四年
2008/08/08(金) 22:41:48ID:rL3cTuYl二番に正用軒、馬入るべき行にて、入替、かゝればのき、退ば引付、
三番に西上野小幡一党、赤武者にて入替り懸り来る。
関東衆馬上の功者にて、是又馬入るべき行にて、推太鼓を打つて懸り来る。
というのが、本来の意味か?
0421人間七七四年
2008/08/08(金) 23:54:20ID:WPcP9m8Cなぜ小幡のところで初めて馬に触れるんだって話
馬上の功者でまた山県、信廉と同様に・・・・
って意味での 是又馬入るべき行 ってとるのが妥当
0422人間七七四年
2008/08/09(土) 18:16:35ID:sHgdrO/Jちょっと文章がわかりづらいでな。
0423人間七七四年
2008/08/11(月) 05:00:17ID:0NarKvAm本陣近くに陣取ってる印象が強いんだけど
何でこの時は二番手で突っ込んできたの?
0424人間七七四年
2008/08/11(月) 17:33:57ID:iJqR500oによると、
「内藤修理は武田信廉等の中央隊約3千人の中に属し」
とのこと。
超・有名な長篠屏風図では、中央に鉄砲隊が並んで、
ぶったおれ続ける(叉は伏せている?)武田軍が描かれている。
その中に山県三郎兵衛の死体が描かれているとのことで、←よくわからん
その左下に、旗が赤白のものがある。これが内藤修理。重臣だが討ち死にしている。
二番に正用軒といっても、実際に最前線で攻めたのは内藤だったようだ。
0425人間七七四年
2008/08/11(月) 17:36:21ID:iJqR500o長篠合戦の屏風 その場面
ttp://image.blog.livedoor.jp/nobunaga_1534/imgs/9/5/95f902c5.jpg
もっと、アップの写真はないかな〜。
0426人間七七四年
2008/08/11(月) 21:39:16ID:8IfHSQzP米一合は約150グラム。
つまり六合支給だと一日900グラム(米だけで)栄養を摂取するには米から取るしかない。
これを三万人に支給すると一日の兵糧米は27トン(笑)トラックも舗装道路も無い時代の話。
つまりもう引っ切りなしに補給し続けるしかない。食うために運ぶのか?、運ぶために食うのか?、戦闘はいつなんだ?って話だよね(笑)
一日27トンの米を想像してみようよ。現代人がイメージしてる合戦ってのを変える必要があると思う。
0427人間七七四年
2008/08/11(月) 22:29:58ID:ewA72rmAあまり大きくはないが全体図
ttp://www13.plala.or.jp/naito/nagasinokassennbyoubu.jpeg
0428人間七七四年
2008/08/11(月) 22:47:10ID:bLc6eZQ4ありがと。
でも内藤って四天王だの信玄の副将だのいわれてるのに
地味な信廉の与力扱いで、やっぱり単独の将として名前がでてこないのかい。
ただそのサイトいまだに勝頼が重臣の意見を無視して無謀な突撃命令を出したとか書いてるのが・・・
0429人間七七四年
2008/08/12(火) 10:36:42ID:OfOtI8Cmわしもよくそういうこと考える。
兵糧はどうやって運んだのだろう、とか。
ま、前触れがいて、その街道で準備させたのだろうけどそれにしても
寝るところ、米たく鍋、そういうのも含めて大変だったろうな。
で、1日に六合支給って聞いたことあるけど、ちょっと多すぎる気がする。
ほんであまりたくさん配ると、酒にしてしまう、とかあってまとめては
配れなかったらしい。
これは秀吉の大返しあたりの史料だったかな。
0430人間七七四年
2008/08/12(火) 17:10:31ID:Bt9Mzm65うん。俺たちに刷り込まれてる戦国時代のイメージは映画やドラマ、漫画や小説、ゲームなんかがベースになってて、なかなかそこから抜け出せないところがあると思う。
もっとリアルにいろんな検証が必要だよね。
大量に用意出来て、尚且つ水を含まない状態なら質量が小さいという点でも、この時代には米以外に無かった。ほかにも最低限度の塩分が必要だから塩や味噌などの支給はあった。
現代人の感覚だと六合は多いけど、それ以外に無い時代だからね。
信長の兵農分離なんて言うけど、実際は戦闘を専門とする者の数が多少多かった程度の話。
その内実は他の大名と同じで農家の長男以下だとか流れ者、要するに食いつめ者の集まりですよ。米くらいたらふく配らないと実戦では逃げてしまう(笑)
それにしても三万で一日27トン。馬は高価で曳かせるにも限界があるよね。そうするとほとんど人力ですよ。大八車みたいなのを曳いても歩きでは一日に進める距離なんかたかが知れてるし。
対陣が何日も続けば野宿って訳にもいかない。雨風を防ぐ陣屋も作らないと。実際それ専門の大工も大量に参陣している。
そうすると、三万の兵が活動するには同じ数ぐらいの後方支援がないと無理だし、その三万の内訳も大半が物流を仕事とする「中間さん」じゃないと外征なんて成り立たない。
0431人間七七四年
2008/08/12(火) 18:31:00ID:/prcwaau日清戦争や日露戦争の輜重隊がどういったシステムで動いていたか、
という部分がヒントになると思う。
確かに興味のあることだから手を付けよう付けようと重いながら結局なにもしてない情けなさ。
ちなみに日清戦争では、輜重に朝鮮人を雇って逃げ出されたという記録があるw
0432人間七七四年
2008/08/12(火) 19:57:27ID:kKXnBpI5田んぼの中のコンバインから、袋に入れた30kgの籾を農道の軽トラックまで
運ぶだけでも、すんごい疲れる。
ちなみに、日清戦争や大平洋戦争などで歩兵がかついだ荷物は30kgくらい。
それ以上重いと、ぶっ倒れる兵士が多くなる。というか、人間の体重は60kgくらい
あるから、倒れた兵士は運ぶことができず、その場に放置みたいになってしまう。
(後で回復すれば、追い付くこともできるかもしれないが…)
さて、米俵は馬で運べば、馬の背に左右に一俵ずつ下げて、一度に二俵運ぶことができた。
その馬の図が何かに載ってた。背が折れんばかりにUの字になってたけどな。
馬一頭で、約100kg運ぶことができたと計算すると、10頭で1トン。
100頭で10トン。1000頭なら100トンで3日分くらいの兵糧が運べる。
街道に大量の馬が延々と進む様子は、「これが武田の騎馬隊」と印象付けるだろう。
馬以外では、米みたいな重いものは、舟で運ぶのが一般的だが、
武田の領土には海がなかったし。(あとで駿河を獲得したが)
甲斐や、諏訪から出発するとなると、馬で荷物運びがメインだったろう。
と、たぶん、武田の騎馬隊は実在して、たぶん兵糧運びがメインだったんじゃないかと
推測中。
0433人間七七四年
2008/08/12(火) 20:09:21ID:kKXnBpI5大八車みたいなのは、でてこない。少しはあったとは思うが、メインは
人力で運んでいる。
さすがに米俵は運んでいないが、木箱みたいなのに入れて運んでる。
佐川急便の会社マークみたいに、棒に箱をつけて背中で運んでたり、
長持(ながもち)といって、長い箱に長い棒が付いていて、前後の2人でかついでたり。
(これは駕篭に少し似てるが、荷物専用箱)
兜入れというランドセルみたいなのもあって、兜を入れるだけでなく、お土産とかも
入れたりしたそうだ(江戸時代の話)。
0434人間七七四年
2008/08/12(火) 20:14:51ID:Bt9Mzm65当時の馬はとても高価。侍格のみが乗馬して移動手段に使用したぐらいだから、兵站にそれだけ使えたかは微妙だよね。
どちらにしても馬の餌も必要になるから、27トン+α。
調達に関しては経済スレで前に話が出たが、現地商人から調達するケースも多かったようだ。当時の商人は想像以上に中立・独立性があった。
それにしても米価は鰻昇りだっただろう。もはや一大イベントだよな。
0435人間七七四年
2008/08/12(火) 20:49:42ID:MAB6wsLa従軍している侍たちは非常に困ったそうな。
良くあの戦を、秀吉の輸送力と物量の勝利などと言う事があるが、実態は秀吉軍ですら、兵糧も含めて
かなり苦しかったらしい。
0436人間七七四年
2008/08/12(火) 21:31:19ID:kKXnBpI5今でいえば、一千万円ぐらいもしたようだ。超高級外車なみ。
でも、駄馬とよばれる荷物運び用の馬は、そんなに高価ではない。
ふだんは農耕用の馬として使う。
大平洋戦争中でも、大量の農耕馬が、軍馬用として農家から徴兵(徴馬?)された。
このような馬は騎兵用には使っていないんじゃないかと思う。単なる物資輸送用。
0437人間七七四年
2008/08/14(木) 05:03:06ID:tEEj1QUtttp://www5.ocn.ne.jp/%7Ekurodaaf/sub3.htm
もっとも、戦国時代では、
農閑期で銀シャリ毎日支給&旅行のお祭り騒ぎの一大イベントで
出かけたのかもしれないが。
0438人間七七四年
2008/08/15(金) 20:54:45ID:cEyZeH9s呪術師らしい。
0439人間七七四年
2008/08/15(金) 21:43:53ID:RncaQwV5食い物はジャンジャン届くわ、大工がカンカン陣屋を組んでるわ、坊主や宣教師までうろうろしてるわでお祭り騒ぎだな。イメージとしては(笑)
0440人間七七四年
2008/08/17(日) 05:43:40ID:rDsbTN2Nhttp://www3.ocn.ne.jp/~zeon/sengoku/nagasino.htm
・信長は柵外へ一キロほど前進、「大筒」を撃たせて挑発
・馬場隊700は、佐久間隊6000に殺到し、叫び声をあげた
・佐久間は柵前まで戻る
・山県隊1500は徳川隊6000に攻勢、徳川隊は柵内へ(山県隊が一番乗り)
・山県は柵の迂回突破を図るが大久保忠世、忠佐兄弟に阻止され銃撃で戦死
・武田信廉は記載なし、地味に動いたらしい
・小幡隊は馬で柵前まで駆けつけて下馬し、柵の引き倒しを狙う。銃撃で失敗
・馬場隊700は2手に別れゆっくり前進、佐久間隊は柵内に逃げて射撃
・馬場隊の先陣死亡、真田兄弟が入れ替わりに攻めて柵を破るが討ち死に
・佐久間隊が劣勢と見た信長が、滝川隊と羽柴隊に横槍を命じ、武田軍崩れる
・ここまでで織田と徳川の連合も大きな損害
真偽はともかく細かくて面白い
0441人間七七四年
2008/08/17(日) 06:27:02ID:wb/jczIY昨今の史学の特徴として歴史の平坦化、
(大勝だった戦は僅勝に、凡将だった武将は並将に、意義のあった事業はそうでもなく)
のようなものが行われてる中で、長篠の合戦なんかも、
「3段撃ちはなかった」をはじめとして「接戦だった」だの色々な説が生まれてきて、
この文章もある意味でそれを目的としているんだけど、これを読む限り、
・合戦前に前線で細かく指示を飛ばす信長
・的確な判断で横槍を入れさせ敵を敗走させる信長
・過去の失敗や損害を新たに活かす信長
俺の中で逆に信長の評価が上がってしまったんだけどこれは筆者の意図することなんだろうか。
0442通説には疑問がある
2008/08/17(日) 14:06:06ID:xg7tBg5c織田徳川軍の来援に対して長篠城の攻囲から、主力を割いたのか。割いて対峙しながら、すぐさま攻撃をしかけなかったのか。
そのあげくに長篠城は酒井忠次の別働隊によって解放されてしまう。
又、鉄砲の効く梅雨明けまで決戦を待ったのか。陣地を作られるまえに夜襲をしかけなかったのか。
通説によると、織田来援に不利を悟った部将が撤退を求めたのに、武田勝頼が決戦を強いた結果、あの大敗を喫したと。
しかし、この通説には疑問がある。
信玄死後も武田軍の脅威は去っておらず、前年には直接織田領を侵犯され明智城を失っている。高天神城では織田が決戦を避けて手放した。
徳川に侘びを入れて金を送ったことからも織田が武田を避けていたことは証明される。
この段階で武田側に織田を恐れる理由はなかった。武田としては織田に戦う気があるか否かがむしろ問題だった。
織田がかけつけても、ただ陣を構えるだけで、陥落まで、見捨てるかもしれなかった。
武田としては両面構えで主力が対峙し決戦となれば望むところ。長篠城が落ちれば後詰が役に立たないことで、
三河、遠江の徳川支配が瓦解し、織田の威信も地に落ちる。それでも良かった。
0443通説には疑問がある
2008/08/17(日) 14:10:18ID:xg7tBg5c敵を隊列を崩し、その崩れたところを槍でけちらすといったあくまで補助兵器にすぎなかった。
信長公記には鉄砲千丁を選抜して備えたとある。織田徳川軍はおそらく二、三千丁の鉄砲があったと想定されるがそれを各部隊に漫然とおかず、
特別に千丁抜き出して武田軍の攻勢点に集中的に活用したと思われる。
武田側からみて予想に反して、一方では陣作りに励みながらも長篠城解放に織田徳川は動いた。
また、信長公記によると織田側から足軽が盛んに挑発をして戦いを求めた。
織田徳川の戦意ははっきりしており、それは武田には望むところだった。急ごしらえとは言え、陣地を突破するには手間がかかる。
しかし、両翼の陣地を崩してしまえば、織田徳川を包囲殲滅するまたとない機会が与えられた。
長篠城解放に兵を割いてくれたことは織田徳川側で兵を分散してくれたまたとない機会だった。
通説とは違い、長篠の合戦とは、織田徳川を撃破する為に武田が望んだ決戦である。その為には梅雨が明けることが必要だった。
又、それを打ち破る為に鉄砲を決戦兵器として集団的に集中使用する史上初の(決戦兵器という意味での)銃撃戦である。
0444人間七七四年
2008/08/18(月) 14:20:32ID:l1O5M577> 昨今の史学の特徴として歴史の平坦化、
> (大勝だった戦は僅勝に、凡将だった武将は並将に、意義のあった事業はそうでもなく)
それは手法や目的じゃなくて単なる結果だろ。
勝者敗者の区別無く公平に歴史を叙述することが目的で、その手段として科学的分析や詳細な資料批判が行われている。
そしてその結果として、今まで大げさになりがちだった歴史観が修正されているだけ。
0446人間七七四年
2008/08/19(火) 01:56:38ID:zqsrw3Fp戦前は秀吉の朝鮮行きが過剰に賛美されたのに戦後は過剰に貶されるみたいに。
そういう政治的な偏りを是正しようってのが今の流れだろ。
0447人間七七四年
2008/08/19(火) 11:54:19ID:OiOqgQ0eこれには、出るくいは打つ、という目的や、日本人の偉業や英雄は認めたくない、またはもっとすごくて
「個人の努力は認めたくない」つまり「法隆寺を作ったのは大工さん」的な「思想」を
ものすご〜く感じるぞ。
わしら爺はそのあたりの戦後60年の流れを感じるから、政治的な偏りに加えて
単に史学会のいやらしさをも感じる。
そういう中にいる人は絶対に認めないだろうけど、外にいるとよくわかることもある。
0448人間七七四年
2008/08/19(火) 13:48:38ID:zqsrw3Fp歴史と言うのは様々な事象が互いに影響しあって生まれるもの。
より詳細に資料を読み解いていけばその事象にかかわる人間の数が増えていき、
相対的に一人一人の比重が軽くなるってだけの話だろ。
いわば野球を監督だけで語るのが今までの歴史観で、
選手一人一人からフロントの動きまで網羅的に語るおかげで監督の役割が相対的に小さくなるのが今の歴史観だ。
0449人間七七四年
2008/08/19(火) 16:01:25ID:6r2jlXd9つまり、イチローがヒット打ったのは、裏方さん、トレーナー、広報、用具係
果てはバット、スパイク、そういうのものまで研究して、個人の能力、努力が
おざなりになっていくんだよね。
こういうのは、縦割り学会の弊害、細分化しすぎた研究の弊害、でいわば
「盲人象に触る」になっていく。
いくらフロントの動きをさぐっても、現実にその場でサイン出すのは監督だし
行動するのは選手。
あくまで、視点、の話であって、是非、善悪、じゃないから
そこはよろしくな。
いろんな裏方さんががんばってのはすごいと思うし、イチローだって
感謝してる。ただそれを、視点の中心にまで持ってきたり、裏方さんの力で
ヒット打てた、みたいな解釈すると全体の理解がいかしくなる、という話な。
0450人間七七四年
2008/08/19(火) 18:03:08ID:GoGiYtV0単純に”神格化”されていたものが、”人間”信長になってきただけで。それゆえ凄みもましてると思うよ。
戦術的(戦死者の数etc..)にどうであれ、戦略的に見たら、
武田軍の野戦軍を壊滅し、徳川領にかかってた軍事的圧力をなくして、
以後逆に徳川軍だけで侵攻できる状況にしたことこそが長篠合戦の最大の結果だと思う。
0451人間七七四年
2008/08/19(火) 18:37:02ID:6XW+0XXhもちろん公記なんかは徳川は助勢、みたいな感じなんだけどね。
再検証とまでは言わないけど、信長が戦の達人みたいな言い方にもちょっと
疑問があるので、徳川の言い分もよく理解できる気がする。
0452人間七七四年
2008/08/19(火) 21:35:52ID:IzxYphxU織田軍がすでに経験してるよ。
それは、大阪の石山本願寺への攻撃。
1万の軍勢と、「数千丁の鉄砲」で武装された本願寺に総攻撃をかけたのだが、
棒で柵を作っただけの防衛線が、どうしても突破できない。
突撃を繰り返し、馬防柵の前で死体の山を築く織田軍。
ついには攻めの総大将まで鉄砲に撃たれて死んでしまう。
0453人間七七四年
2008/08/19(火) 21:40:38ID:IzxYphxU大須賀記というのがあるよ。
藤本正行氏の文庫本に、その要点が載ってる。
長篠屏風の解説なども詳しく載っていて、内容的にも一級。
0454人間七七四年
2008/08/19(火) 21:57:28ID:zqsrw3Fp戦略的な行動で勝ちを得たってことだしな。
>>449
でもイチローがいくら打ってもマリナーズは勝てないし。
0455人間七七四年
2008/08/19(火) 22:00:11ID:VrReevNiさんきゅ。
藤本の文庫本ってなんだろ、さがしてみるね。
確か戦闘自体は織田徳川軍の勝ちだけど、勝頼の首は取れなかったのだよね。
このあたりも、徳川側は批評してなかったかな。
姉川もだけど、信長はどうもこういう勝ち方が甘いと言うか、言われてるほど
きっちり勝ちきってない戦いが多い感じもする。
スレチになっちゃうかな。
0456人間七七四年
2008/08/19(火) 22:12:06ID:IzxYphxU講談社学術文庫藤本正行(著者)文庫
定価 ¥1,050
>>440
そのサイト、読んでみたけど、長篠日記も含めて
かなり怪しげ。
0457人間七七四年
2008/08/19(火) 22:19:20ID:o3KKjd72何いっているんだ、十分大きな、きっちり勝ちきった戦いだよ。
あなたは敵の総大将(大名レベル)を討ち取らないと勝利と看做さないんですか?
そんな基準で言ったら戦国時代でも片手の指で数えるくらいしかなくなるし、
信長だけでなく信玄謙信含めてみんな「きっちり勝ちきってない、勝ち方が甘い」
となるよ。
0458人間七七四年
2008/08/19(火) 22:28:23ID:x33jcvmS大名自らが戦のさなかに討たれるなんてそうめったにあることじゃないからな。
今川義元や竜造寺隆信など、数えるほどしかないのに、でないと勝ちでないという定義は
無茶ですよね
0459人間七七四年
2008/08/19(火) 23:22:28ID:VrReevNiあ、新書と間違えてた。ありがと。
>>457
ちゅうか、どちらも追撃すれば敵将の首が取れるぐらいだったでしょう。
実際に家康は、追撃を主張、したのに、信長がもういい、みたいな感じじゃなかったかな。
戦国と言うぐらいで、大将の首逃したらそっから逆転されるかもしれない、家康なんかは
それを知ってたから豊家を完全に滅ぼした。
そういう意味からの、勝ち方が甘い、勝ちきってない、という表現であって
別に信長の評価を下げようとしてる意味合いはまったくない。
>>458
勝ちじゃない、とは言ってませんよ。
勝ちは勝ち、圧勝なんだけど、そこから敵を完全に滅ぼすまでに
さらに何年もかかってるでしょう。
「実質首取らなくても無力化してるからいい」という論もよくきくけど、
やっぱり先に言ったように、そういうところから何が起きるのかわからないのが
戦国時代。
信玄や謙信たちと違って、家康との連合軍で圧勝、なのに追撃を中途半端に
すませ敵将の首を取らなかった、こういうのを表現したわけね。
家康なんか関が原できっちり追撃して三成やエケイやらつかまえてるからね。
こういうとこも家康は、先人から学んでるな、と思うし。
繰り返すけど、信長の悪口とか評価を下げる、という意味ではないからね。
他の武将からみたら、はるかに強力な武将、なんだけど、秀吉、家康ほどの
エグさが薄いというかね。
ま、やる時は長島とか叡山攻撃とかやってるだけに余計に気になったりして。
0460人間七七四年
2008/08/19(火) 23:25:48ID:ynfdUvki義に厚く争いを憎む上杉謙信→戦いが大好きな欲深い男
計算済みだった桶狭間の戦い→偶然の産物
無能の北条氏政、武田勝頼→名将
確かにずいぶん変わってきたよな
0461人間七七四年
2008/08/19(火) 23:49:15ID:o3KKjd72長篠における武田側の使者は、ほとんどが追撃戦で討ち取られている。
信長は「これ以上の追撃は無用」と切り上げたのであって、実際勝頼は安全圏まで
逃げ切って、深追いした織田徳川の側では逆撃をくらった部隊もあった。
別に信長は追撃を控えたわけでも、勝頼を故意に逃がしたわけでもない。
この場合は追撃を振り切った勝頼と、抑えた武田の殿を褒めるべき。
0463人間七七四年
2008/08/19(火) 23:58:22ID:ynfdUvki関ヶ原のときは西軍以外に敵はいないが長篠の戦いは武田以外にも敵はいる
潰すときに一気に潰すのが信長のやりかただったじゃん
浅井朝倉も泳がしといて、時が来たら一気に壊滅させてる
壊滅のときは浅井朝倉も織田の調略でぼろぼろだったよね
晩年の武田もそうだったし、上杉も信長が生きてたら新発田らの働きで滅んでたろうし
0464人間七七四年
2008/08/20(水) 01:06:40ID:pJLMRYZs0465人間七七四年
2008/08/20(水) 08:41:03ID:ApmiKMho0466人間七七四年
2008/08/20(水) 10:24:44ID:j3VvnwfR無理がある。
家康が追撃を主張と言うのもこっちで、途中までは追撃したのだったかな。
0467人間七七四年
2008/08/20(水) 19:26:00ID:n8bCzDI2この峻険な山城を、追撃して落とせってか!?。
損害でるのは確実だから、だから包囲していったん終わり、じゃん。
力づくで攻め落とさなくても、同様に峻険な山城の横山城は、
降伏して開城しているし。
長篠の戦いでも、織田は大軍で追撃してるよ。そして、川岸で2000人ほど
討ち取っているが、武田のしんがり武将が名・采配をふるって勝頼を逃がしたので
その時点で長篠の1日は終わってしまった。
殿(しんがり)武将の名は、馬場民部。長篠の屏風図で、一番右上にいて、
ヤリで突き殺されている様子が書かれている。
0468人間七七四年
2008/08/20(水) 19:31:12ID:n8bCzDI20469人間七七四年
2008/08/21(木) 16:18:19ID:vazDu/l9今の定説なのか。ふーむ。
0470人間七七四年
2008/08/21(木) 18:30:42ID:y7Jo2K8T元は家臣に伝わっていた屏風図を、
それを江戸末期になってから徳川家が写したもの。
信長公記を元に書いたのかと思ったら、馬場民部の討ち死場所は信長公記に
載って無いのに、屏風には書かれている。←甲陽軍鑑を元にしたのかもしれないが。
家康の本陣は、小高い丘の上にあったが(図では背景の都合で丘の下に書いてある)
丘は、実際には古墳。他の独立丘の丸山?も描かれてたりで、
独自かつ正確な情報がかなり含まれているから、無視はできない。
ひと昔前は、馬防柵の前に徳川軍が出て撃っているから不自然、と指摘されていたが、
今では、徳川軍が柵の前に出たことは正確ダと言うことが判明している。(織田軍は出なかった)
0471人間七七四年
2008/08/21(木) 22:33:39ID:Z+XjAer6江戸期に書かれたのはやっぱり、徳川主戦、の立場で書かれてるから
そのあたりの事実関係を、屏風から判断する、のはどうなんだろう、と思って。
0472人間七七四年
2008/08/21(木) 22:44:05ID:MVglYZez> ・的確な判断で横槍を入れさせ敵を敗走させる信長
いや、戦争の数が多い分負け戦もそれなりにあるから一部で変なイメージあるけど、
信長は普通に戦つよいぞ。特に敵の隙を見つけた時に一気に勝負を決めるのが。
刀根坂辺りからの一連の朝倉壊滅戦なんてその代表的なものだろ。
気が短いイメージあるけど、鳴くまで待とうホトトギスは家康より信長の方がよっぽどあってると思う。
若い頃の家康の方がよっぽど短慮だし血の気が多い。
>>440
> ・武田信廉は記載なし、地味に動いたらしい
ワロタ。結局逍遙軒は空気ですか。
0474人間七七四年
2008/08/21(木) 22:50:00ID:/KtPKSoJ鳴かぬなら 気分で決める ホトトギス
0475人間七七四年
2008/08/21(木) 22:54:18ID:bOn7HFQT0477人間七七四年
2008/08/21(木) 23:03:17ID:leG80vg90478人間七七四年
2008/08/21(木) 23:08:10ID:bOn7HFQT武田側だけ侍大将級が死んで連合軍にはほとんどいないんじゃ
五分の戦いって言われてもどうもいまいちピンと来ない
0479人間七七四年
2008/08/21(木) 23:30:05ID:y7Jo2K8T0480人間七七四年
2008/08/21(木) 23:34:58ID:Z+XjAer6それを上司にすりかえたのがさすがのテクニックか。
信長で笑うのが、稲生の戦い。
なにせ「大音声」で勝ったって、これ、どうして研究家はつっこまないのかな。
勝った戦いをあとから見たら強くて当然。
長篠はどうしても、家康主戦、で判断したいところがある。
信長は姉川に続いて、ラッキ、だったような。
0481人間七七四年
2008/08/21(木) 23:37:26ID:M9fpViAU開戦前から士気も数も負けてて
(実際問題敗北したが)
そんなんでも総大将を戦線から離脱させた。
その結果多くの武田家家臣を失ってしまったが、それは当然のことであり
何の問題もない。
あのボロボロの敗走状態で総大将を離脱させたのだから、武田家家臣団が優秀なのはたしか。
0482人間七七四年
2008/08/21(木) 23:47:53ID:UK4XRMxgつっこむほどの明確な根拠もないからでしょ。
それに、大音声だけで勝った、敵が逃げ出したなんて書かれてもいないし。
0483人間七七四年
2008/08/22(金) 01:15:38ID:ty0WMJiJそだったっけ?
数で半数以下なのに、しかもヤバいとこで「大音声」したら、敵が迫力に
おののいて敗走、したんじゃなかったっけ。
ま、研究家がつっこまないのは、首巻自体が「ヤバい」ということであえて
スルーしてるんだろうが。
文献主義、というのは大変だな。
0484人間七七四年
2008/08/22(金) 01:50:14ID:Qmhrys27これと同じだね、主君は討てない
やる気満々だったのは林美作と信勝のみじゃね?
0485人間七七四年
2008/08/22(金) 06:41:47ID:qD1T7Gb3諸葛亮没後、魏延は諸葛亮の遺命に従わず楊儀らと対立するが、王平が魏延の軍勢を一喝すると魏延の軍勢は離散してしまった。
これと同じだろうね。
非は自分たちの大将にありという認識を兵卒が持っていた。ために戦意を喪失してしまった。
こんなところだろう。突っ込むようなところではないと思う。
0486人間七七四年
2008/08/22(金) 17:26:49ID:ty0WMJiJ信行が反抗した時点で家臣とかその下の一般兵も
家内での争いと言う認識は十分にある。
それと少なくとも700人ずつが戦っている最中に少々の大声出したって
末端まで聞こえるわけはない。信長は大声だったとは言うけど。
大体、そこでビビって逃げたって待ってるのは報復とか
何があるかわからない。
一般兵から見たら主君はあくまで信行だし、それを裏切って戦意喪失もなかろう。
つっこむ、というのは「大音声」自体であって、そんなのが勝因というのも
不思議とは思うけどね。
黄門様の印籠みたいなのは、平和な世だからありうるわけで、戦の最中に
「非は信行にあり」と大音声したって「はぁ?」というのが普通だろうけど。
ましてや不利なほうがね。
ま、スレチだから、細かい話はやめておこうか。
0487人間七七四年
2008/08/22(金) 18:46:41ID:fihMCOyT味方の士気を一気に鼓舞して上げたくらいの効果はあったってことでいいんじゃないの?
少数の兵士同士が戦ってたらどうしても気合の入ってる方が勝つだろうし。
(でも確か信勝勢が兵数的には圧倒的に有利だったはず)。
あと一般兵は後継者争いだからこそまだ織田信勝が主君という実感はないかもよ。
一応林家とか柴田家の家人だから流されてたら
いつの間にか信長と敵対しちゃってるよオイオイ、これでいいのかよ、って感じで戦ったたかも。
本題に戻って、
名のある大将が一人も死んでない時点で、織田軍の被害が数千てのはあやしいよなぁ、さすがに。
0488人間七七四年
2008/08/22(金) 19:29:21ID:ty0WMJiJ受験用の歴史勉強だと、そういう数字とかにこだわるのはわかるんだが
なんか、歴史が暗記科目になってしまってるようで、ちょっと残念ではある。
0489人間七七四年
2008/08/22(金) 19:36:37ID:Ttg9AFiXすべて「推定」の世界。
0490人間七七四年
2008/08/22(金) 20:01:20ID:AFLWwaQP鳶ノ巣山砦が健在かってだけしょw
武田が戦闘を起こしたのも織田徳川を攻撃して
後を慕わせないようにするためだけの行動
鳶ノ巣山砦が無事だったら、戦闘もしないで撤退できた。
結局、武田は戦闘する気は全くなく顔見せ程度の威嚇のつもりが
退路を断たれて、仕方なく突撃したってとこでしょw
まー勝頼の凡ミスだわなw
0491人間七七四年
2008/08/22(金) 20:02:16ID:ty0WMJiJどのくらいだったと思う?
2万人もいなかったんじゃないかと思うんだが。
0492人間七七四年
2008/08/22(金) 22:51:02ID:011dBCGc桶狭間の合戦の真実について その2
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1207682585/l50
0493人間七七四年
2008/08/22(金) 23:13:53ID:ty0WMJiJ0494人間七七四年
2008/08/26(火) 22:55:20ID:yHwl+O7j0495人間七七四年
2008/08/27(水) 07:25:11ID:XI13VxQX高天神城が武田軍にとられたときの描写では、信長の軍勢が来ないからといって、
徳川の使者は、織田の城内!で「武田軍側に寝返ってもいいのですな?」という
意味のセリフを連呼してるし。
陣幕の武田菱は、花菱でなく、どでかい四角の菱だし。
0496人間七七四年
2008/08/27(水) 16:10:44ID:WxjRIwdj0497人間七七四年
2008/08/27(水) 17:55:30ID:XI13VxQX長篠の屏風はひとまず置いといて、
小牧長久手の屏風図では、騎馬武者がたーくさん描かれている。
騎乗したまま、戦いまくっている。
0498人間七七四年
2008/08/27(水) 18:11:45ID:VvhdqxeB0499人間七七四年
2008/08/27(水) 19:14:04ID:wAjgNOe4ドラマほど占める率は大きくないだけで
0500人間七七四年
2008/08/27(水) 19:48:50ID:gc83/njG長やり隊
騎馬は荷物運び用
0501人間七七四年
2008/08/27(水) 20:01:58ID:XI13VxQX実戦の経験というのは効果大。
まあ、消防団の訓練で例えるというのもナンだが、実際の火災出動などで
10数年も本番の出動をやっていると、やり方がわかってくる。
入って1、2年の隊員は人数として揃っていても、実際の現場では何も
わからんわな。
0502人間七七四年
2008/08/27(水) 20:10:49ID:IL3/i7Zz長篠の織田・徳川軍 対 三方ケ原の武田軍(信玄が居る)が戦ったら勝敗が想像つかんな。
これじゃあ、なんかどっちも仕掛けなそうだけどな。
0503人間七七四年
2008/08/27(水) 20:36:33ID:XI13VxQXこれなら、武田軍は勝てる。(戦術も大事だが。)
同じ例として、秀吉の北条攻めを挙げてみる。
このときの北条氏は、なんと240万石もある大大名だった。
1万石あたり300人の兵の割り当てとすると、北条氏の動員は7万人くらい
あったことになる。
これを撃ち破るとなると、3倍の人数があれば大丈夫のようだが、
となると、秀吉は、20万人もの軍勢を集めざるを得なかった。
0504人間七七四年
2008/08/27(水) 21:18:46ID:rmC25BHZ信玄なら雨が降るまで我慢するか長篠合戦のような状況にしないと思う
0506人間七七四年
2008/08/27(水) 22:04:02ID:IL3/i7Zzやっぱそうだよな。
0507人間七七四年
2008/08/27(水) 22:06:18ID:IL3/i7Zzまあ、あんな状況にはならないだろうね。
0508人間七七四年
2008/08/27(水) 22:43:15ID:gc83/njG鳶ノ巣山砦が健在かってだけしょw
武田が戦闘を起こしたのも織田徳川を攻撃して
後を慕わせないようにするためだけの行動
鳶ノ巣山砦が無事だったら、戦闘もしないで撤退できた。
結局、武田は戦闘する気は全くなく顔見せ程度の威嚇のつもりが
退路を断たれて、仕方なく突撃したってとこでしょw
まー勝頼の凡ミスだわなw
0509人間七七四年
2008/08/27(水) 22:45:02ID:qnO6SRGGと言ってるくらいだしな。
0511人間七七四年
2008/08/27(水) 23:40:55ID:XI13VxQX長篠戦のときは、鳳来寺あたりに兵糧を集積したのだろうか。
0512人間七七四年
2008/08/28(木) 00:12:08ID:zvFFuXnp武田の騎馬隊は存在したのはした
実際、騎馬隊の使い道は
戦況が決した時に
宣伝で赤備え隊などの騎馬隊が戦場を
駆け回り敗残兵に恐怖を与えた宣伝活動w
武田が実際強かったのが
長槍部隊で
騎馬が有名になったのは
武田領内は荷駄などの通路を整備していて
馬などを利用した兵の移動が素早かった
武田の真の強さは
相手より先に戦場に到着して出鼻を撃つ
スピードにあったわけ
0513人間七七四年
2008/08/28(木) 00:16:54ID:1ohVG6su0515人間七七四年
2008/08/28(木) 06:06:05ID:Z8mEnaw60516人間七七四年
2008/08/28(木) 21:27:27ID:uNE73QvB勝頼=のび太
信長=ジャイアン
家康=スネ夫
信玄=ドラえもん
謙信=出来杉
0518人間七七四年
2008/08/29(金) 14:47:04ID:LZQYPXp20519人間七七四年
2008/08/29(金) 18:57:55ID:Ch1B1tQc0520人間七七四年
2008/08/29(金) 19:26:24ID:NyKvyZ/Dどっかに詳しいのがあったような気がするんだが。
0521人間七七四年
2008/09/01(月) 19:34:20ID:ieytH+bIおもしろすぎるよ。
キャンペーンの三方ヶ原から後半を猿のようにやりまくる。
http://www.4gamer.net/games/001/G000112/
0522人間七七四年
2008/09/02(火) 20:13:02ID:99erH2PXじゃあなんで武田は滅んだんでちゅか?
0524人間七七四年
2008/09/02(火) 20:33:15ID:0HeIGcsH武田武将の死地は敗走時に追撃された場と考えられるし
徳川方の記録は勝者の言い分と考えられるし
手取り川の正否には突っ込んでないし
まぁ…バラエティだわな
0525人間七七四年
2008/09/02(火) 20:47:28ID:fk3HB0Ij何を今更…
この戦国板じゃとっくの昔に説破された通説じゃん
0526人間七七四年
2008/09/02(火) 20:50:09ID:BncCW7GV0527人間七七四年
2008/09/02(火) 20:51:55ID:Tb5QYDpQ0528人間七七四年
2008/09/02(火) 20:57:01ID:fk3HB0Ijただの無知な“アンチ武田”
0529人間七七四年
2008/09/02(火) 21:00:35ID:dYJZ3ePk武田軍は小規模な戦に主だった武将をたくさん連れてきて
ことごとく討ち取られたようですねwwwww
0530人間七七四年
2008/09/02(火) 21:04:37ID:Ch+KJT3/日本では馬の去勢という技術がなかったため非常に獰猛で、諸外国の騎馬隊のように編成できなかった。後に大陸に進出した旧日本軍の騎兵隊の馬を見たヨーロッパの兵士は、「日本人は馬の姿をした猛獣に乗っている」と言って驚いたそうな。
0531人間七七四年
2008/09/02(火) 21:07:50ID:fk3HB0Ijよし、ソースをくれ
0532人間七七四年
2008/09/02(火) 21:07:59ID:dYJZ3ePk0534人間七七四年
2008/09/02(火) 21:20:21ID:fk3HB0Ij今仕事が終わって電車のなかだ、TV見られなかった。
0535人間七七四年
2008/09/02(火) 21:24:09ID:gYxMzwUCモンゴルの馬は、足の運びが側対歩だったか、上下運動が
少ないので乗りやすいらしい。
0537人間七七四年
2008/09/02(火) 21:30:19ID:dYJZ3ePk適当にまとめると、
戦場跡に鉄砲の弾がほとんど落ちてないから鉄砲隊ない
馬が小型で遅いから騎馬隊なかった
武将の碑はたくさんあるけど馬防柵から離れていた
総死者数は1000程度
…こんな感じだったかな
0538人間七七四年
2008/09/02(火) 21:30:52ID:Ch+KJT3/0539人間七七四年
2008/09/02(火) 21:30:56ID:3Nd+Yy+55〜7万人で篭城されたら、力攻めで落とすのは無理だろ?
損害が大きすぎて、兵がビビッてしまう。
0540人間七七四年
2008/09/02(火) 21:36:43ID:Ch+KJT3/武田の被害は追撃戦によるものが殆どっていうのが定説だから柵から離れてていいと思うんだけど…
まあ、誤った定説だと鉄砲で撃たれてるのにひたすら柵に向かって突撃して全滅したみたいな話になってるから、それを基に考えたら無かったといえなくもなくない。
0542人間七七四年
2008/09/03(水) 00:11:27ID:4RODxGjJ0543人間七七四年
2008/09/03(水) 00:20:52ID:4RODxGjJただ人間よりは速い
0544人間七七四年
2008/09/03(水) 00:29:36ID:UvbZ8Gkx0545人間七七四年
2008/09/03(水) 02:51:57ID:2YaS6ttQ0546人間七七四年
2008/09/03(水) 02:53:25ID:ih8VIv8T0547人間七七四年
2008/09/03(水) 03:35:45ID:mydHe51k何かの本で読んだが、信長は、佐久間信盛に勝頼あての内応の手紙を書かせている。
勝頼は、手紙の中に信長の陣がどこにあるか書いていた為、佐久間が信長陣をつけば勝てると思った。
ただ信長の謀略だった訳だが、親族衆が戦線を離脱せず攻めまくっていれば勝てたはず
0548人間七七四年
2008/09/03(水) 08:01:20ID:EYCsXTkdまず馬防柵って名前が後世の創作だし。それに柵がピックアップされるけど、実際は土塁とセットで陣地としていたわけで、隊騎馬隊目的ってわけではない。
あと日本人は西洋の騎兵隊のように戦場では馬に乗らなかったってのはルイス・フロイスも書き残してる。
0549人間七七四年
2008/09/03(水) 08:18:22ID:qiVz7eOa“売国人”が多いなwww
0550人間七七四年
2008/09/03(水) 08:29:51ID:PLjT7mHv0551人間七七四年
2008/09/03(水) 09:11:24ID:NbMVFSrW行ったことがある人間なら分かると思うけど、
あの辺は、見晴らしの良い野戦が出来る場所ではない。
川や渓や谷や森がくねくねと入り込んでいて、
要所要所に砦や陣地を作ってゲリラ戦をやるのが打って付けの場所だ。
その事実を大前提に考えた場合、長篠の戦いは、全く別の側面が見えてくる。
0553人間七七四年
2008/09/03(水) 11:52:10ID:PLjT7mHvそんな馬鹿な(笑)
0554人間七七四年
2008/09/03(水) 12:07:32ID:ih8VIv8Tあのさあ、それに加えてフロイスはほとんど限定された戦場しか見てないし、それに言っておくが
日本人は馬上戦闘は、源平の時代からやっている。
もうちょっと歴史勉強しろよ。
0555人間七七四年
2008/09/03(水) 12:42:33ID:PLjT7mHv馬上戦と騎馬隊は違うがな。
そもそも源平の頃なんて指揮官である武士階級しか馬に乗ってないんだから、そいつらが集まって部隊になって最前線に突っ込むわけないじゃん。だれが自軍の足軽を指揮するんだよ。
カッコいい騎馬隊なきゃ嫌だーっていう歴史漫画好きや歴史ゲームマニアに勉強しろとか言われるとか(笑)
0556人間七七四年
2008/09/03(水) 12:45:00ID:ih8VIv8T> そもそも源平の頃なんて指揮官である武士階級しか馬に乗ってないんだから、
あほか。「指揮官である武士階級」ってどんな存在だよ?
武士は基本的に戦闘員だ。
0557人間七七四年
2008/09/03(水) 12:57:25ID:PLjT7mHv0559人間七七四年
2008/09/03(水) 13:10:45ID:u0WAgajV勝者は田中
0560人間七七四年
2008/09/03(水) 13:18:57ID:nxRZD6LV0561人間七七四年
2008/09/03(水) 19:55:54ID:2YaS6ttQ0562☆中山鹿之助☆ ◆.Ooo.qq.q.
2008/09/03(水) 23:00:38ID:8hP1YL52なんとかミステリーに釣られるのも良いのですがぁ〜・・・
そろそろ本題に戻しませんかぁ〜wwwwwwwwww
0563人間七七四年
2008/09/03(水) 23:00:56ID:PLKSILcQ0564人間七七四年
2008/09/03(水) 23:02:13ID:PLKSILcQ0565人間七七四年
2008/09/04(木) 02:44:02ID:Fzs/ng3xで、織田徳川が対戦車砲、地雷、ライフルをそれぞれ用意して迎え撃つ。
敵を甘く見た武田戦車部隊が織田徳川の塹壕に突撃。
しかし、対戦車装備を揃えた敵に惨敗。多くの優秀な士官や戦車兵を失った
というのが近代版長篠の戦い。
0566人間七七四年
2008/09/04(木) 14:32:42ID:/iwON+Nqもっと慌てふためくかと思った
0567通説には疑問があるでござる
2008/09/04(木) 21:34:14ID:8w9YdAf6通説には間違いが多いでござる。
勝頼が重臣の反対を押し切って決戦し、多くの重臣が絶望して突進し討ち死にしたとか。
酒井忠次が鳶の巣砦を落として退路を断って決戦を強いたことが勝因とか。
梅雨が明けて、鉄砲をフルに使いこなさせた武田の失敗とか信長の強運とか。
長篠城を落とすことは重要ではなく、織田との決戦を武田が求めていたことは、
行動から明らかで、ただ城を落としたいなら、地形の有利な鳶の巣砦でこもっていれば、
織田側には手を出せなかった。兵糧では敵地の武田よりも織田が有利にしても、
あの周囲に敵を抱えていた時代、織田側の方に異変の起こる可能性も高かった。
設楽原に来たということは武田が決戦する気満々でいたということ。
鳶の巣砦陥落は、主力が決戦で負ければ何の意味もない局地戦にすぎず、勝敗とは関係ない。
決戦なのだから、機動のできる梅雨明けを待って動いたのは当然。
本当のこの戦の本質は別のところにあるでござる。
武田がハンニバルのカンナエの戦いを狙ったのに対して、織田側はユリウスカエサルの
ファルサルスの戦いを再現したのでござる。
カンナエの戦いは、兵数が少ないカルタゴ軍がその代わりに両翼に騎兵を配置し、ローマ軍に中央は押し捲らせたものです。
ウィキより「ローマ軍の中央戦列は、ほとんどカルタゴ軍中央を突破しかけていたが、戦列両翼はカルタゴ歩兵が優勢であり、
その方面のローマ軍は前進することができなかった。この時点で、ローマ軍中央はV字になりつつあった。そこへ両翼のローマ
軍騎兵を壊走させたカルタゴ軍騎兵が後方を攻撃した。後方を付かれたローマ軍はパニック状態に陥って密集したために、
中央の兵は押しつぶされて圧死した。(中略)完全に包囲されたローマ軍は、逃げることができずに殲滅されることとなった
(中略)この戦から、特に包囲戦の有効性が強調されるが、ローマの敗因は、包囲されたことによりパニック状態になり、
組織的で有効な対応ができなかったことにある。もし、ローマ歩兵が包囲側の攻撃に耐え、そのまま前進し包囲網を突破し
左右に展開出来たならば、逆に寡少なカルタゴ軍を包囲できたことになり、全く違った結果となっていたと考えられる。」
これをやった名将がいたのでござる。ローマの天下統一を目指したカエサルのファルサルスにござる。
0568通説には疑問があるでござる
2008/09/04(木) 21:38:24ID:8w9YdAf6「元老院派軍左翼のラビエヌスは騎兵を率いて突撃し、カエサル軍の騎兵を撃退して第4戦列とぶつかった。
このときカエサルは自軍の投槍兵に、騎兵に対してはピルム(槍)を投げるのではなく直接突き刺すように命じていた。
この攻撃によって元老院派軍の騎兵は押し戻された。第4戦列はそのまま前進して元老院派軍に側面攻撃をかけ、
さらにカエサルは予備の第3戦列を前線に投入した。2方向からの攻撃を受けて、ポンペイウスは敗北」した。
「勝因は歩兵の効果的運用により騎兵の動きを封じ込め、その長所である機動性と運動性を封殺したカエサルの作戦に求めることが出来る。」
武田側は長槍や多種混合ではあるが、両翼に精鋭を送り込み突破を狙うのは必定。
カエサルの槍衾での騎兵封じ込めに対して、我が方は何が代わりになるか。
鉄砲多段撃ちと馬防柵と火線の集中による敵将の射殺にござる。
鉄砲は如何に強力といえど、玉込めに時間がかかるので、それ単独では決戦兵器
とはなりませんが、簡単な柵でも手間取っているところで、ひきつけて打てば効果が大きい。
いくら武田が戦上手とはいえ、本願寺戦でただの柵と鉄砲に苦しんだわれらに一日の長があります。
集中的に火力を使用して敵指揮官を殺してしまえば封建時代の戦いは勝負が付きます。
指揮を執る目立つ武将を血祭りにあげる。戦は次のステージに進みました。
それ以外にあれほど多くの武将の死を説明できません。
通説の過ちのひとつに親類衆に裏切りがあった、勝頼が家中を掌握しておらず、戦線離脱された
というのがありますが、これも天目山の裏切りなどを前に持ってきた過ちで中央部が苦戦することは武田の計算の内で、
誤算があったのは本願寺との戦いから鉄砲の効果的使用を学んだ織田軍の両翼を抜けなかったことにあります。
鉄砲による集団的な銃撃戦・殲滅戦に対応できなかったのです。
カエサルの戦いを再現するためには、両翼の秀吉殿とわれら明智の働き次第です。
カエサルは後一歩のところで天下統一前に死にましたが、信長殿は大丈夫でしょう。
私がついておりますから。
って私は長篠にはいっておらず、島津を接待していて、だから日向守という名になっているので
ござるが。それは愛嬌にござる。
0569人間七七四年
2008/09/04(木) 22:59:14ID:bKMlY1rUところで、日本の戦国史の通説が覆されまくっている昨今、
ハンニバルだのカエサルだのの通説って信用していいものなの?
0571人間七七四年
2008/09/04(木) 23:30:20ID:3ZnXfiI5古代ローマ時代の有名な戦いは、むちゃくちゃ「軍事関係者」が研究してるから、ちょっと日本のとは話が違うかも。
例えばカサエルのガリア戦記はナポレオンも研究論文出してるし、
カンナエなんて第一次世界大戦前から士官学校で最初に習うくらい。
0572人間七七四年
2008/09/04(木) 23:35:03ID:0uavHQTo日本の戦国史もそうだが、古代ローマの出来事も、昨今の考古学研究の進歩で、だいぶ様相が変わっているよ。
0573人間七七四年
2008/09/05(金) 01:30:56ID:WrqY6Nvw0575人間七七四年
2008/09/05(金) 19:58:15ID:6ABbnWtx俺は考古学ほど信用できないものはないと思ってるんだがな
あんなの科学ですらないだろ
科学が進歩する度に犯罪も進歩するみたいに
考古学も犯罪と似たようなもんじゃね?
これからどんどん旧説がぬりかえられつづけていく希ガスよ
0577人間七七四年
2008/09/05(金) 20:34:30ID:IOf/Yd29軍事関係者って歴史は素人だから、研究の前提は通説によるわけなんだがw
0578人間七七四年
2008/09/06(土) 00:39:44ID:cQRSlW7tカエサル軍とガリア解放軍の決戦であるアレシア攻防戦の通説である
カエサル軍6、7万対ガリア軍34万というのを
地形や戦況の推移から見てありえない、と分析し
カエサル軍とガリア軍のアレシア城兵+救援軍をほぼ等しい、と結論してるな。
軍事の天才といわれた男だけになかなかシビアな分析だ。
0580人間七七四年
2008/09/06(土) 01:53:08ID:lOed7RdL甲斐信濃みたいな山谷多い土地では戦車は使いにくくないか?
かといって低湿地帯や川の多い日本の平野部でも運用は困難
とマジレスしてみる
0581人間七七四年
2008/09/06(土) 02:01:21ID:v1XjulGx苦労したらしいからな。
0582人間七七四年
2008/09/06(土) 02:18:44ID:y6tdixCV0583人間七七四年
2008/09/07(日) 03:12:54ID:hSnZ3xLz霜が解けただけで20pも泥に埋まる土は日本にはない。
真冬になると燃料や油も全部凍るので不凍液がないと
戦車どころか銃一発も撃てない。
だから歩兵はつねに銃を懐で暖めながら行軍した。
それでも凍ったらスコップで殴りあって戦ったとある。
0584人間七七四年
2008/09/07(日) 09:00:38ID:wintIGnD三方ヶ原の武田ってことは単純に考えて、長篠の勝頼にプラスして、
信玄が総大将、勝頼時代よりまとまった家臣団、兵力一万強多い。
確かに見ものだけど、信玄、信長の両者ともに回避して決戦には至らなそうだな。
>>516
のび太は義昭公の方がしっくりこんか?
0586人間七七四年
2008/09/09(火) 15:11:41ID:oIgI/cTc実際に滅亡の引き金になったのは高天神城の落城だよなあ。
長篠の戦を過大視するのは、徳川史観ならぬ、織田史観のような気がする。
0587人間七七四年
2008/09/09(火) 15:27:46ID:7WXC6l7/0588人間七七四年
2008/09/09(火) 15:27:52ID:8Tdn44Hu”味方を取り込まれる”時点で武田勢力が見限られてた、と見る方がいいんじゃない?
少なくとも”豪族の取り込み”が徳川優勢になったのは長篠以降の話だから、
なんらかのturning pointではあったと思うよ。
まぁ長篠以降、遠江に興味を持っていたのが徳川だけで、織田も武田も無関心だっただけかもしれないけど…
0589人間七七四年
2008/09/10(水) 07:21:33ID:oycDrvRz周囲は徳川が包囲しており、年貢がとれる領地を支配したわけではない。
この高天神の城には、武田軍の全領地から歴々の士が大勢入っていたが、
兵糧攻めで苦しんだあげく(周囲から米がとれないことに関係あり)、
勝頼の後詰めがなく(兵糧の補給もない)、
結局、ほぼ全員殺害されてしまい、勝頼は「面目」を失った、とある。
0590人間七七四年
2008/09/10(水) 21:17:31ID:rwAKpgZ7信長の鉄砲隊なんかなかった
長篠の戦いなんか無かった
せいぜい小競り合いの武田の犠牲1.000人程度
だってお、確かに歴史を繋げればそう判断せざるえないわな。
0591人間七七四年
2008/09/10(水) 21:27:46ID:PG0awQ1y騎馬隊なんて戦場ではハンデにこそなれ得する事はひとつもない。
0592人間七七四年
2008/09/10(水) 21:29:11ID:PubdSl+u>せいぜい小競り合いの武田の犠牲1.000人程度
だったら武田の名だたる武将の多くが戦死せんわな。
対して織田徳川連合軍の重臣での戦死者はゼロ。
結果が全てを物語っとるがな。
0593人間七七四年
2008/09/10(水) 21:46:45ID:xXBBWG1aその後は高天神まで見殺しにするほど
威勢も衰えていたわけだしな。
0594人間七七四年
2008/09/10(水) 22:05:50ID:oycDrvRzでも、例外が3人だけいて、指揮するために許可されていたためだが、
他が乗馬を禁止されていたために、この三人はとてもよく目立った、と
信長公記にある。
この場合の馬は、指揮台代わりだな。
0595人間七七四年
2008/09/11(木) 00:55:15ID:skoiz/AM0596人間七七四年
2008/09/11(木) 00:56:28ID:qwcl/Om80597人間七七四年
2008/09/11(木) 00:58:10ID:qwcl/Om8日本人は日本馬に乗って、平将門の時代から騎馬戦している。
戦国時代に限ってそれがなかった、などと考えるほうがおかしい。
0598人間七七四年
2008/09/11(木) 02:46:17ID:mPCBcdEU長篠合戦屏風図が江戸時代に描かれたものだから、鉄砲隊も騎馬武者も
全部ウソだと決め付けるのはおかしい。
江戸時代と戦国時代の馬体に大差が無かったはずで、
戦国時代に騎馬武者が存在しないのなら、屏風が描かれた江戸時代の人々が
必ず騎馬武者はウソだと指摘するはず。
ただし騎馬武者のみで編制された騎馬突撃隊の存在は疑問
織田鉄砲隊の3000挺は信長公記の記述に改ざんのあとがあるというが、
改ざんか訂正かは印刷機の無い時代で判断できないと思う。
また織田方が徳川方に500挺を貸した記述があり
仮に織田方の鉄砲が千挺程度だった場合、半分の兵器を貸すとは
到底思えず やはり2000挺以上の鉄砲が織田方にあったと思う。
3段撃ちは疑問が多いが 装填された銃を取り替えながら発射した記述は
信長公記の今川との合戦の中にある。
発見された銃弾の数がごく少ないことも、合戦後回収されたり年月が経過し
土砂に埋もれたり、流されたりと説明はつく。
まとめれば 武田方の死者数が異常に多いこと、騎馬突撃隊
鉄砲3段撃ちなど疑問は多いが
長篠の戦いで鉄砲が大量に使われたこと
騎馬武者が存在したことは事実でしょう。
0600人間七七四年
2008/09/11(木) 13:55:39ID:1S7l8Vk/等など色々あるけど、やっぱ倍くらいの兵力差じゃないの?
本とかによっては、あたかも3000人の銃士が15000人の騎馬武者(全軍が騎馬武者)に勝ったような言い方をしてる酷いのもあるんだよな。
0601人間七七四年
2008/09/11(木) 17:38:04ID:pDzrhcic長篠の戦いは谷間で行われたのだから、稲刈り後にワラを燃やすがごとく霞んで
その中で、「いくさ場をとったりとられたりした」という一進一退の戦いが
行われたみたいだよ。
武田の本陣から見れば、前方にモウモウと煙りがたって、その中でバンバンと
猛烈な銃声があって、柵の前で押し合いへしあいの戦いが行われているらしいことが
見えたわけだから、そんな状況とあらば、
我も突っ込めと、次から次へと突撃したと思われる。
0602人間七七四年
2008/09/11(木) 21:10:56ID:Jv8kTHer大笑いですね
0603人間七七四年
2008/09/11(木) 22:15:59ID:UvuMDrBZそんな史料あんのか?
0604人間七七四年
2008/09/11(木) 22:48:49ID:0MeBvjFG0605人間七七四年
2008/09/11(木) 23:26:54ID:bguQEv450606人間七七四年
2008/09/12(金) 09:08:42ID:YiB+CfCo0607人間七七四年
2008/09/12(金) 12:10:39ID:669LI7Swあいつ、どうやら自分の言ってる事が騎馬武者の否定になるって程度も理解出来てなかったフシがある。
てか、伝令とかも全部人足?w
0608人間七七四年
2008/09/12(金) 20:30:37ID:cP7WRVqLしかしそれだけで「戦闘に耐える騎兵なんて無理w」なんて即断することこそ無理。
鎧武者乗せて疾走も出来ないようでは、四つ足として失格ですって…
獣の体力を馬鹿にしてるんじゃないでしょうか。
ソ連軍騎兵の大挙突撃シーンがNHK『映像の世紀』にあるんだけど、それこそポニーみたいな
馬にすがりつくように乗っている。でもちゃんと突撃できている。
0609人間七七四年
2008/09/12(金) 23:20:16ID:xhbwZeIMこの前の番組は酷すぎ
そこの所を全く触れてないのだからな
0610人間七七四年
2008/09/13(土) 06:03:27ID:usPbjatr0611人間七七四年
2008/09/13(土) 12:23:54ID:kTYnol1X騎馬武者のみで編制された騎兵隊は?
騎兵隊を裏付ける史料が無い。
当時から騎兵隊は常識であり、一々記録に残す必要が無かった?
滅亡した武田家独自のものであり、武田家滅亡と共に史料も消えた?
史料に無いのだから騎兵隊は無かった?
0612人間七七四年
2008/09/13(土) 12:42:41ID:pf+yVAnA戦いでは降りて戦っていたはず
考えてみると3段の鉄砲で撃たれているのに何回も突っ込んで
騎馬隊壊滅なんてありえんだろ?どんなけ無能なんだ。
しかもめちゃ遅い木曽馬(ポニー)。
0614人間七七四年
2008/09/13(土) 13:22:29ID:c5wSNBSMだから土木工事を施して、安全な所から鉄砲という飛び道具で戦さするしかない
武田は織田軍が厭戦気味で弱腰だという情報操作に踊らされ、突撃を繰り返したんだろう
でなければ、主だった重臣がことごとく戦死しちまう惨敗なんて喫せん
佐久間信盛が寝返るとの偽情報を流したってのも効いたか
0615人間七七四年
2008/09/13(土) 13:32:45ID:8RZIX7vP馬も小さく鉄砲で狙ってもなかなか当たらなかった。
鉄砲だけで勝つのは無理だろう。
0616人間七七四年
2008/09/13(土) 13:36:29ID:I+wMAFL60617人間七七四年
2008/09/13(土) 13:41:35ID:c5wSNBSM大量の鉄砲隊を動員し、間断なく射撃すれば勝てる
信長は初めから武田とガチンコの白兵戦をする気など全く無い
0618人間七七四年
2008/09/13(土) 17:40:06ID:8RZIX7vP身長180センチの人間の的となる面積を1とすると、身長170センチで0.91、身長160で0.75。
身長120センチでは0.17と格段に命中精度が落ちる。
馬に乗り伏した体勢になると0.04と的の面積がさらに狭くなり、しかも的は動く。
五輪金メダル級の腕をもってしても、もはや命中は不可能といえる。
近代射撃理論からは織田軍が鉄砲だけで圧倒的優位に立ったという説は到底受け入れられない。
0620人間七七四年
2008/09/13(土) 18:50:34ID:9/ll7Na4信長公記見る限り鉄砲だけじゃなくて足軽とかも出して戻してを繰り返して
打撃を与えてたみたいだが。
>>617
>>615は戦国時代の平均身長が120とかいってるからさすがに釣りだと思うぞ。
それから鉄砲も間断なく打ってたわけじゃない。
言ってみれば兵力の多い側(織田徳川。武田の2倍)が要塞にこもって兵力の少ない側(武田)が
突撃するという変則的な状況になって、兵力の少ない武田が順当に大敗した感じだな。
それでも5〜6時間くらい戦ってるのはさすがに武田というべきなのか。
0621人間七七四年
2008/09/15(月) 00:05:29ID:s7WflugK拠点攻める兵力が拠点守る兵力より少ないってどうなのよw
少数だから正面突破に固執したってことにもなりえる?
0622人間七七四年
2008/09/15(月) 21:28:38ID:d3vv9gXG武田軍に見えないように隠していて、柵の前で武田軍と戦ったのは
主に鉄砲隊。
後方に待機させてた大軍が出動したのは、武田軍が崩れて敗走するときに
なってから。
0623人間七七四年
2008/09/15(月) 21:42:04ID:QkziKtrRそしてなによりも勝敗の決定的差は、武田軍の組織的行動力の無さ+命令系統の弱さ。
0624人間七七四年
2008/09/15(月) 23:42:34ID:AuW65H/4今でも火縄銃の会みたいなのがあるが、煙なんてのはすぐに上に抜けてくからあんまりたいした
ことないと思うよ。少なくとも、視界をさえぎる、なんてほどではないはず。
0626人間七七四年
2008/09/16(火) 00:24:24ID:RTAwI9gt焚き火みたいに持続して上がるわけじゃないし、煙で戦況がわからなくなる、なんてことはありえないと思うんだ。
ましてや、鉄砲なんて接近戦になる前に撃つものだし、次のを撃つ前に前の煙は吹き飛んでる。
最近良く、煙の影響、みたいな説明を聞くから気になってるんだ。
0627人間七七四年
2008/09/16(火) 00:39:03ID:j8tJ8pXb何百丁何千丁が、一斉に、しかも間断なく撃ち続けるんだよ?
タバコの煙ですら、屋外でも数十人が一斉に吸えば、もうもうとした状況になる。
火縄銃の煙もよほど強風でない限りは、相当の煙が充満するでしょ。
0628人間七七四年
2008/09/16(火) 00:44:21ID:wX0FWhW00629人間七七四年
2008/09/16(火) 00:56:34ID:RTAwI9gt何百丁が撃つときはそれなりの広域になるでしょう。
1〜2m間隔で並んで撃つとして、やっぱりそんなタバコの煙的な凝縮した範囲のような
モウモウにはならないと思うよ。
それに間断なく、っても実際は1分に1発ぐらいのものでしょう、やっぱり煙は上にぬけていく。
ちなみに、地元の火縄銃は毎年のように見てるけど、煙なんて一瞬なんだよね、やっぱり。
さらに言うと、鉄砲と言うのは開戦の初期、接近戦の前に相手を崩すために撃つものだから、
戦いの間中撃つ続けるものではない。
接近戦になったら使えないのは弓同様で、そういうマニュアルは源平あたりからものすごく
優秀で洗練されてる。
少なくとも、間断なく、と、充満、というところに違和感を感じる。
悪いけどね。
0630人間七七四年
2008/09/16(火) 01:20:59ID:mtJlwJVe”発射の煙にまぎれて切り込み”は、細川家の軍法書にも書かれてるくらい当時では一般的な鉄砲への対処方法なのよ。
つかマスケット銃を使う距離はものすごく近いので有効だったんじゃないかな。
その射撃距離は10-15mくらい。
例えば、関ヶ原の島津の話(関ヶ原御合戦進退秘訣)では、
直政の軍との距離が4、5歩の距離で、久保七兵衛の名乗りを合図に鉄砲発射→切り込み、としたとあるよ。
イギリス赤服隊でも「白目が見える距離で撃て」というのがモットーだったくらいで、
これは、マスケット銃の戦術としては共通だったと思う。
0631人間七七四年
2008/09/16(火) 01:49:01ID:2MkKihf10632人間七七四年
2008/09/16(火) 10:59:11ID:RTAwI9gtたぶん知らないとは思うけど、火縄銃の研究はすごいし、戦国当時とほぼ変わらない状況を
作り出してますよ。
そこまで近づければいいけど、実際はそうではなかったのではないか。
射程も3〜50mはある。
これは正確性よりも相手の出足をとめるため、隊を崩すため、なので十分に効果がある。
どうあれ、鉄砲の煙が出ても一時的なもので決して後方の丘から見て「戦況が把握できない」
というほど持続的かつ充満状態にはならないだろう、というのが主張なんだけどね。
それと、「4,5歩の距離」というのは本当かな。
たぶん、布陣とか根本的に違う種類の戦闘で用いられる戦術じゃないのかな。
0633人間七七四年
2008/09/16(火) 12:34:18ID:2MkKihf1ド素人が
0634人間七七四年
2008/09/16(火) 13:23:47ID:mtJlwJVe>実際はそうではなかったのではないか。
…その新説は良いけど、そういうやり方だった、っていう根拠を示さないと”妄想”としか……
あなたの新説のような当時の戦闘でおこなった記録を見つけてくるのが早道かと。
ぜひ、それをここに報告してくださいね。
>「4,5歩の距離」
一次資料は明記してるので自分でご確認くださいな。
0635人間七七四年
2008/09/16(火) 14:28:25ID:wX0FWhW0重いし連射利かないし
面白い奴いるね
0636人間七七四年
2008/09/16(火) 16:05:15ID:DqwdWUZO鉄砲と柵だけで勝てるほど甘くないっしょ。
やはり織田軍団そのものの頑張りが大きかったというほかない。
0638人間七七四年
2008/09/16(火) 16:27:37ID:md1G/t18周囲が同じような奇襲を進言しても「絶対」に聞き入れなかったんだとさ。
桶狭間はもう本当にどうしようもなく、他にこれしか策が無いからこそ
断行した作戦であって、信長は戦後「あんな危険な戦法は二度と取るべきじゃない」と
言ったらしいじゃないか。
だからそれ以降の信長は敵と戦う時は必ずといっていいほど、敵より大兵でもって
つまり兵数で上回るまで準備をして、戦いに挑んだらしいからな。
0640人間七七四年
2008/09/16(火) 16:34:20ID:md1G/t18スマソ・・・・
釣って来る・・・・。
0641人間七七四年
2008/09/16(火) 16:39:01ID:RTAwI9gtいや、新説もなにも島津の記録では「4〜5歩」となってるだけで、その他全ての戦国の戦闘が
「4〜5歩に近づいてから発射した」わけではないでしょう。
鉄砲にさきがける弓矢の戦術でも、越矢横矢指矢その他いろいろ目的別の狙撃、威嚇の手段があって
任意の戦いの史料に「これこれこういう戦術を使いました」と明記されてなくても、当然鉄砲もそういう12世紀
ぐらいから伝わる様々な戦術を応用したことは事実だろう。
史料中心主義の方は、はっきり史料に明記してないと「認めない」というのだろうけど、戦国期の合戦の
鉄砲の使用法をすべて島津の史料で解釈するのはどうかと思う。
もちろん、その史料が間違ってるとか、そういう戦い方がなかった、というのではなくて、あくまで
戦いの開戦の初期、の話ですよ。
「まず4−5歩の距離まで近づいてから発射した、これはそういう一次資料にもある、まちがいない」
というのは、そういう戦闘もあった、戦術もあった、というだけで、ある程度大規模な戦闘、
このスレの長篠みたいな合戦においてはそういう使用法はまずされなかったろう、ということね。
ましてや、間断なく、充満、戦況がわからない、という部分的戦闘状況にもなかったろう、という。
史料を出せ、と言われてもね、まぁ、妄想でかまわないんだが。
とりあえず、持ったりしたことはあるし、兜甲冑とかも着用したことはあるぞ。
素人呼ばわりされたので、一応、現時点で普通に可能なぐらいの実地体験はした。ぞい。
0642人間七七四年
2008/09/16(火) 17:32:58ID:UEamyYjG火縄銃などで使われていた黒色火薬は、煙がすごかった。
大型の戦艦は、発射薬が黒色火薬なので、まっくろな煙がでた。
ttp://blog-imgs-11.fc2.com/h/d/p/hdphoto/20071112103645.jpg
武田軍もいきなり突撃ではなく、弓や銃の援護射撃のもとに、
一点に集中攻撃をして前線突破をはかったようで、
(長篠では、柵の南端あたりで、徳川軍がいる辺)
まず、銃撃、つづいて弓部隊とともに前進(火縄銃は歩きながらの装填が
とてもしずらい)、有効射程の100m付近まで詰めてから、
騎馬武者や従う足軽とともに一気に全力で走って敵陣へ突撃して、前線突破をはかる。
この間は援護射撃のもとで行われたはずだから、集中攻撃の際は煙りがかなり
じゃまになったと思われる。
夏の家庭用花火も、けっこう煙がでて、夜だから煙は見えづらいが、
風がなければ、白煙がもうもうと立ち、相当けむいよ。
0643人間七七四年
2008/09/16(火) 19:00:47ID:mtJlwJVe「その資料に書かれているのは、そのときだけの話だろ。他の戦いでは別」
…って言い出すされると、もう…… 否定する当時の資料も無いなら”仮想戦記”の世界ですな。
つか細川家の軍法書にも、銃は引きつけて撃て、と記述されています。
少なくとも、関ヶ原の時代には、野戦での鉄砲の使い方は”引きつけて撃つ”軍法が主流だったかと。
(コレを否定する資料根拠があるなら、ぜひお教えください)
あと現在のガンパウダー(黒色火薬)は工業的に精製した材料で作られたもので不純物はほとんどありませんが、
当時の火薬は自家製で、しかもその素材自体に多くの不純物が含まれていました。
それら不純物は煙の原因となりますので、そこらも加味した方がよいと思われます。
0644人間七七四年
2008/09/16(火) 20:33:02ID:UEamyYjG現代でも同じ。鉄にべったりとススもついて、これがつくとすごくサビやすい。
だから、黒色火薬に不純物を混ぜないように十分に精製した材料を使うという方法じゃなくて、
組成自体から違う火薬(ニトログリセリン系)に切り替わっているわけ。
不純物のあるなしにこだわるあたりは、まさに泡沫だな。
0645人間七七四年
2008/09/18(木) 08:29:13ID:IUE82Ti6お互いへしあいして、相互の軍勢が4、5mの至近距離で銃をぶっぱなしまくった、
という光景を想像しているがな。(これは他人の説でもある)
超・至近距離で撃ったかどうかは、弾丸の凹みぐあいや、骨の砕け具合から判断する。
当時の塚を掘り返して、たぶん、弾丸は体の中に埋まったまま死亡しただろうから
骨と弾丸の損傷具合から、50〜100mだったのか、5mぐらいだったのか
判断すればいい。
もっとも、当時の雑兵の生活レベルからいえば、弾丸ひとつでも高価だったろうから
死体を切りきざんで、弾丸を取って売り捌いたかもしれないな。
そのときは、骨に残った傷から推測するのがやっとか。
0646人間七七四年
2008/09/18(木) 08:33:25ID:IUE82Ti6当時の合戦では、死んだ武者の装備品はすぐにはぎとられてしまうそうなので、
合戦場からは、刀などの武具はほとんど出土しないんだそうな。
0647人間七七四年
2008/09/18(木) 08:43:29ID:BQwuqcBDわかります
0648人間七七四年
2008/09/20(土) 17:14:13ID:iBCd76aJ0649人間七七四年
2008/09/20(土) 17:25:13ID:cCfUfvmk0650人間七七四年
2008/09/23(火) 01:00:57ID:LwwS99Ii先日も本で見たのと同じ「弾は?」という一番単純な謎が分からない
このスレではこの部分の解釈はどのレス?
0652人間七七四年
2008/09/23(火) 09:52:06ID:TzKH+94i39
>合戦後回収されたり年月が経過し土砂に埋もれたり、流されたり
>弾丸を取って売り捌いたかもしれない
この辺はこの辺でまだ検証の余地はあるね
金属だからこんな短期間で溶けて無くなるのはありえないから
真剣にやっても無駄は無いと思う
幸い長篠古戦場は土地開発されてないからやりやすいんでは
ついでに他の戦場についても同様だなあ
0653人間七七四年
2008/09/23(火) 17:05:19ID:6J49MyK6吉村教授のエジプト発掘でいうと、象牙を彫って作った人形が見つかったとき、
頭部が欠けていた。
で、周囲の土を片っ端からフルイにかけて、根気強く探すことを繰り返した末に、
直径1センチぐらいの頭部を発見し、見事にそれはクフ王の像であることが判明した。
という具合に、長篠の土を片っ端からフルイにかける必要があるかもな。
だが、超重労働なので、トラクター装着型のジャガイモ掘り器やサトイモ掘り器の
網目を細かく改造して、石取りを根気強くやれば見つかるかもしれない。
またはせっかく水田なのだから、泥水にして吸い込んで、網目を通して
よりわけるか。
0654人間七七四年
2008/09/23(火) 17:14:00ID:6J49MyK6ttp://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/1,6627,118,664,html
0655人間七七四年
2008/09/25(木) 08:14:54ID:nak651rE若分五層、毎層二銃。若不分層、十銃一列。(戚継光「紀效新書」)
ちなみに、下の記述を見る限り、「早合」っぽいものは無い。
銃歌
一洗銃、二下薬、三送薬実、四下鉛子、五送鉛子、六下紙、七送紙、八開火門、九下線薬、十吸仍閉火門、安火縄、十一聴令開火門、照准賊人挙発。(同上)
0656人間七七四年
2008/09/26(金) 00:52:57ID:WhcJIHCBなんか旧陸軍の攻撃みたいだな、武田。
0657人間七七四年
2008/09/27(土) 06:18:49ID:pccsxxiu>信長は少人数突撃はしょっちゅうやってる
桶狭間以降では、天正四年の対本願寺戦で孤立した光秀らの救援に出向いた時ぐらい
釣りか・・・
0658人間七七四年
2008/09/27(土) 16:03:32ID:L9bTb+zE原田がドジった時も半数くらいで戦ってるけどね
0659人間七七四年
2008/09/27(土) 21:19:30ID:eq2RQcgk0660人間七七四年
2008/09/28(日) 02:43:30ID:uVVQxpXY実践していたが、局地、局面において何度も単騎駆け的行動をとっていた。
例えれば 敵方の動員力五千にたいして一万の兵力で進攻したが
織田方の一部隊に敵が攻撃を集中してきた時、信長は少数で真っ先に
救援に向かった。・・・こんな感じ?
0661人間七七四年
2008/09/28(日) 04:02:47ID:3CWDC8Tjこの人も軍の集結を黙って待つよりは、少数でもいいから素早く動く、というやり方をよくやった人だった。
0662人間七七四年
2008/09/28(日) 11:53:09ID:MkljSfdL率先垂範を身をもって示したって事だ。しかも後から味方の大軍が追いつくという前提の上での行動。
己の命第一の信長は無謀な賭けはしない。
朝倉義景のように、重大な戦さでも自分は何もせず部下を派遣する愚図とは違う。
0663人間七七四年
2008/09/28(日) 18:57:47ID:xPK7fVAG身分制の社会とはいえ下克上の世の中じゃ、そういうのもあったかも知れん。
江戸時代みたいに上下変動があまり無いと別かも知れないが。
0664人間七七四年
2008/09/29(月) 01:41:21ID:PJpZcXvt朝倉家の体制として、当主が戦争に出陣しないので、これをもって義景が無能
とする根拠としては弱いと思う。姉川で朝倉景健が大将だったのも、別段変な
ことではなく、朝倉家の軍制当然。といってよい。
逆に、利根坂合戦の段階では軍役を拒否するような連中も出始めており、
義景が出なきゃならん状態というのは結構やばかったのではないかと思う。
0665人間七七四年
2008/09/29(月) 07:35:28ID:Zp/Mek4h0666人間七七四年
2008/09/29(月) 09:54:30ID:ab/xe7Ck0667人間七七四年
2008/09/29(月) 18:16:10ID:vcSzKd6D実際に研究されている 歴史、文化、文学の内容とは異なることをお断りしておきます。」
じゃないの?w
0668人間七七四年
2008/09/30(火) 14:04:10ID:N/Tk6Aql当主でいながら間抜けな体制に拘泥されてるんだから十分に無能だろw
朝倉でも宗滴みたいな人は、家格にとらわれずその個人の能力で用いるべきだ、みたいな事言ってる
あれだけの家を受け継ぎながら自分の頭で何も考えられないで時代の移り変わりに対応できず滅んだ義景は明らかに無能だよ。
0669人間七七四年
2008/09/30(火) 23:47:32ID:z68FcYmeスレタイをね
0670人間七七四年
2008/10/01(水) 03:29:18ID:N5xJCJCQ0671人間七七四年
2008/10/01(水) 16:17:15ID:uISoFjgF鉄砲三段撃ちって本当に無かったのかね。
俺も「1000人の銃手が交代で一斉射撃」ってのはどうかと思うけど。
存在が証明されてないけど 無かったことも証明されてないんじゃないかな。
姉川の前哨戦で鉄砲足軽500というのが信長公記に出てくるけど
これを組織立った鉄砲隊と考えるか 単に部隊の中に鉄砲が500挺あって
足軽に撃たせたってことなのか
これは鉄砲隊と考えるのが普通じゃないか
それとも鉄砲隊を知っている現代人だから
そう思い込んでしまうのかな。
0673人間七七四年
2008/10/01(水) 16:26:27ID:J4XV2/oGこれは小瀬甫庵が大田牛一の『信長公記』を読んで
もっと面白い物語にしようと考えて
桶狭間の奇襲とか鉄砲の三段撃ちとか墨俣の一夜城などを創作しただけ
0674人間七七四年
2008/10/01(水) 16:27:43ID:MA/q4NGd弾込めの間石を投げて時間稼ぎした話まであるので統率された射撃をしていたと想像します
0675人間七七四年
2008/10/01(水) 16:32:18ID:3Kqw5GDY0676人間七七四年
2008/10/01(水) 16:47:57ID:4ytC+atz大量の鉄砲足軽の機能的運用が為されたことは間違いない。
それが巷で言う三段撃ちかどうかは知らんが、あの信長が事前準備もせずに、
ぶっつけ本番で戦さに臨むはずがないからな
0677人間七七四年
2008/10/01(水) 16:55:03ID:3Kqw5GDYつーか、集中運用の効果は、本願寺との戦いで、本願寺の連中の鉄砲の集中運用に織田軍自身が
メタメタにやられたから実証済み。
それこそ織田軍自身が長篠の武田軍よろしく、馬防柵に向かって騎馬突撃して、全滅、見たいな戦やってるw
0678人間七七四年
2008/10/01(水) 16:58:27ID:cQaA1uGM各自バラバラに準備でき次第発射、というわけでなく、
鉄砲を揃えて、よーい、ドン!と撃ったのだろうか。
絵師が、弾込めの場面を省略した可能性もあるが。
0679人間七七四年
2008/10/01(水) 17:04:42ID:4ytC+atz本願寺攻めは攻囲戦が基本戦略なんだがな
抗戦したのは一揆勢が攻めかかって来たからに過ぎない
0681人間七七四年
2008/10/01(水) 17:14:22ID:4ytC+atzよかったね、一つ知識増えてw
0682人間七七四年
2008/10/01(水) 17:15:52ID:3Kqw5GDY…なんかきみ、本願寺との戦争に変な固定観念持ってないか?
あの戦争で織田軍の人間がどれだけ戦死しったか知ってる?
0683人間七七四年
2008/10/01(水) 17:22:40ID:8ojCTC+w知識云々以前に性根の腐ったもの言いは関心しないな
0684人間七七四年
2008/10/01(水) 17:27:18ID:uISoFjgFあと長篠って 鉄砲の数が問題に上がるよね
通説の3千は捏造で実際はもっと少なかったとか
姉川で500あれば 長篠で3000でもいいと思うけど。
0685人間七七四年
2008/10/01(水) 17:27:40ID:4ytC+atz良かったね、勘違いを正してもらってw
0686人間七七四年
2008/10/01(水) 17:31:08ID:3Kqw5GDY徳川のほうが鉄砲の数は多かったって説もあるね。
>>685
自分の言ってる内容を途中から微調整して間違って無かったかのように装うのは恥ずかしい事だよ?
0687人間七七四年
2008/10/01(水) 17:31:35ID:4ytC+atzそう思えるのは、君の性根が腐っているからさw 間違いを正してあげたんだから、謙虚に受け入れるのが大人の礼節ってもんだよ。
0688人間七七四年
2008/10/01(水) 17:33:20ID:cQaA1uGM鉄砲に撃たれて戦死しているくらいだからな。
総大将が鉄砲に撃たれて死ぬくらいだから、
足軽レベルがどれだけ大勢死んだか想像がつくだろうに。
本願寺の防御陣地は、柵ぐらいの簡単なものだったらしいが、
鉄砲数千挺だったそうだな。
0689人間七七四年
2008/10/01(水) 17:34:20ID:4ytC+atzないよ、どこにも。君の頭の中以外にはねw
>言ってる内容を途中から微調整
どこをどう微調整したのか説明してもらおうか。できればの話だがw
0690人間七七四年
2008/10/01(水) 17:45:22ID:goulzAc5>総大将が鉄砲に撃たれて死ぬくらいだから、
>足軽レベルがどれだけ大勢死んだか想像がつくだろうに。
鉄砲での総大将の戦死が兵卒の大量戦死につながるという想像は間違い。
せいぜい総崩れで敵前逃亡がいいところだよ。
0691人間七七四年
2008/10/01(水) 17:46:02ID:q7hdaykx相当数埋まってると思われるが
0692人間七七四年
2008/10/01(水) 17:47:41ID:RUTvO3VH0693人間七七四年
2008/10/01(水) 17:52:22ID:4ytC+atz戦さで先に戦死するのは一軍の将ではなく、一兵卒から。将が一兵卒のような振る舞いをすれば、無能の謗りを受けるだけ。そもそも将が討たれれば総崩れになるのは当たり前すぎる常識。桶狭間の今川軍の事例を省みれば小学生でも分かる話だw
0694人間七七四年
2008/10/01(水) 17:55:03ID:3Kqw5GDY話が噛み合ってない。
大将が鉄砲でやられるほどの戦場では、当然その大将に運用されている軍勢にも、同じく鉄砲で
大きな被害があったと考えるのが当然。
0695人間七七四年
2008/10/01(水) 17:57:11ID:3Kqw5GDYキミは信長公記の鉄砲1000丁って著述と、酒井忠次の別働隊が鉄砲500丁を持っていた、ってのを
どう解釈してるの?
0698人間七七四年
2008/10/01(水) 18:14:37ID:4ytC+atz0700人間七七四年
2008/10/01(水) 18:16:08ID:Hpa+maAP(明の火縄銃テクは降倭から得たもの。)
「長篠の戦で三段撃ち」があったかどうかは知らんけど。
0701人間七七四年
2008/10/01(水) 18:20:27ID:ezp3ONpaそれもあるか
0702人間七七四年
2008/10/01(水) 18:20:28ID:4ytC+atz織田軍の総大将が先に「誰を」壊滅したって?退却に成功した「他」って誰よ?まったく意味不明。文章構築能力に難ある君は、本当にこの板早いと思うよw
0703人間七七四年
2008/10/01(水) 18:26:47ID:4ytC+atz君は信長公記の実物を読んで解読した研究者か?そうではあるまい。単なる一読者にすぎない。だったら一端の専門家面はやめてもらいたいな。信長公記を読んだ専門家の著作を読んでいれば充分だよw
意味の無い問いかけをするセンスは笑止。
0704人間七七四年
2008/10/01(水) 18:39:47ID:rkEdXKhhここでの罵倒合戦の方がずっと面白いね(笑)
0705人間七七四年
2008/10/01(水) 18:40:02ID:goulzAc5>織田軍の総大将が先に「誰を」壊滅したって?
織田軍の総大将の原田(塙)が真っ先に壊滅したから誰も壊滅できませんよ。
>まったく意味不明。文章構築能力に難ある
こんなこと書いている暇があるなら読解力を身につけろよ。
>退却に成功した「他」って誰よ?
有名なのは三好康長です。知っている?
0706人間七七四年
2008/10/01(水) 18:46:25ID:vIzr10LN0707人間七七四年
2008/10/01(水) 18:47:29ID:4ytC+atz君にマトモな論戦は無理だw 糸の切れた凧みたいなもんだからな、君はw
0708人間七七四年
2008/10/01(水) 18:55:36ID:goulzAc5レスの流れを見たら君[ID:4ytC+atz]は内容の無いレスしかできない変な人だったんだね。
ごめんごめん、君をかまうことは止めにするよ。
0709人間七七四年
2008/10/01(水) 19:07:54ID:4ytC+atz八方塞がりになると知的障害を起こして煙に巻くのがお上手ですな〜w、大先生。
いやぁ感服つかまつりました。
刃物を振り回して暴れまわるような狂人には誰も敵いません。問答無用で強制退去していただくしかないでしょうなw
0710人間七七四年
2008/10/01(水) 22:16:42ID:ZG9GXCc9戦国版の過疎を解消するための釣りか?
0711人間七七四年
2008/10/01(水) 22:36:40ID:TSTYquRU0712人間七七四年
2008/10/01(水) 22:42:23ID:q9Yd4p9Q原田の死亡に関してはたまたま前に出ているときに流れ弾であっけなくいった可能性はないのか
もしくは陣頭指揮好きだった可能性はないのか
0714人間七七四年
2008/10/01(水) 23:27:04ID:hX+dw49T0715人間七七四年
2008/10/01(水) 23:34:14ID:ZG9GXCc9鎧武者を倒すのは無理。
総大将原田のそんな近くまで敵の狙撃手が来てたのなら
それこそ負け戦。普通は総大将の周囲数十メートルには味方がいる。
0716人間七七四年
2008/10/01(水) 23:37:09ID:1Nr9mGrF最上が狙撃されたのも負けてるときじゃなかったと思うがちょっと忘れた。
0717人間七七四年
2008/10/01(水) 23:39:21ID:1Nr9mGrF0718人間七七四年
2008/10/01(水) 23:43:21ID:hX+dw49T0720人間七七四年
2008/10/02(木) 01:42:41ID:veHF/PkJ0721人間七七四年
2008/10/02(木) 03:08:46ID:6+CartsJまぁおもしろいかも、と思ったけど、後が悪かったよなぁ……
0722人間七七四年
2008/10/02(木) 03:32:20ID:/AWMGwV40723人間七七四年
2008/10/02(木) 09:00:21ID:wV4dsjNc0724人間七七四年
2008/10/02(木) 10:13:04ID:DjoRosWZ0725人間七七四年
2008/10/02(木) 10:20:18ID:qNfGFwcP0726人間七七四年
2008/10/02(木) 23:54:10ID:q3UvS78B実際はもっとぐちゃぐちゃした闘いで数の上でも圧倒的有利な織田徳川軍が最終的に勝った
というのが妥当だろう。もちろん鉄砲を多く所有していたのが有利に働いたのは間違いない
だろうが。
0727人間七七四年
2008/10/03(金) 00:19:15ID:pFcz+0GQ変な解釈になるんだよな。
0728人間七七四年
2008/10/03(金) 00:25:06ID:o6PIVuey徳川軍なんて武田滅亡後に武田の軍制に改編してるしw
0729人間七七四年
2008/10/03(金) 00:25:50ID:qD8JZBNx0730人間七七四年
2008/10/03(金) 00:29:58ID:pFcz+0GQいやあ、長篠で、武田の軍制が時代遅れだと証明されていたとすれば、
織田と一緒に戦ってた徳川が武田軍制を採用するわけないでしょ?
0731人間七七四年
2008/10/03(金) 01:02:28ID:QnEVw2c20732人間七七四年
2008/10/03(金) 01:29:16ID:xT2DZ629ドラマや漫画なんかももう少しリアリティを追求してもらいたいものだ
あと、無知で傍若無人で威勢だけはいい武田勝頼像もなんとかしてもらいたい
0733人間七七四年
2008/10/03(金) 01:43:44ID:oAu8s5no0734人間七七四年
2008/10/03(金) 01:48:01ID:MmmQgDdP0736人間七七四年
2008/10/03(金) 01:58:36ID:pFcz+0GQ勿論、自軍をそう言う状況にいたらしめた戦略眼への批判はあってしかるべきだけど、戦術のレベルでは
充分優秀だったといって良いと思う。
0737人間七七四年
2008/10/03(金) 02:01:46ID:QnEVw2c2信長の野望でも結構強いしw
0739人間七七四年
2008/10/04(土) 00:47:52ID:eSMEcOJdその理由がいかにもこじつけ臭くてなるほどと思えなかった。
0740人間七七四年
2008/10/04(土) 00:50:55ID:KMMByJPC家康はどうも、勝頼個人の能力より、武田軍の組織的な強さのほうを評価していたようだ。
0741人間七七四年
2008/10/04(土) 21:17:49ID:sv3x3Pci俺は似た上司複数に仕えたので良くわかった(結構いると思う、本人からすれば強いリーダー演じてんだろうけど)
星野仙一タイプだったのかね、勝頼は
0742人間七七四年
2008/10/04(土) 22:33:43ID:GOoGUBlh肥大する信長に対抗しなくてはならないこと。もともと四男ということで、家臣になめられてたの
ではないだろうか、勝頼が残した文章が妙に強気なのも勝頼中心に家臣がまとまってない証拠
だと思う。その状況を覆すには戦に勝つことが一番で長篠までのこのこ信長がやってきたことは
勝頼にとって千載一遇のチャンスだったと思う。
長篠でもし勝頼が勝てたなら…信長勢力は後退し家臣団も勝頼中心にまとまり、歴史は変わってたの
かな、と
勝頼が背水の陣で決戦を挑んだのも解らないでもないのだ…
0743人間七七四年
2008/10/05(日) 06:01:21ID:73E+CH3z明智城合戦や高天神城合戦では武田軍が勝利を収めているが。
伊勢長島一向一揆が壊滅したのは痛いけど。
0744人間七七四年
2008/10/05(日) 09:04:08ID:aRi+1Luj0745人間七七四年
2008/10/05(日) 09:35:13ID:G9lT1SAO0746人間七七四年
2008/10/05(日) 12:17:24ID:SBpW96vj0747人間七七四年
2008/10/05(日) 12:55:37ID:K3ZYuSmO当時の弾は現在の⊃型と違って不完全な○型で空気抵抗が大きく照準も合わない。
また、当時の火縄銃の分析でもバレル内に螺旋が刻まれてなく、弾に回転が加わらないので
弾の安定性、直進性もかなり低かったことが証明されている。
これらから推定される流体物理学上の有効射程距離は13m。
毎秒5mの速さで進軍されたとすると三段撃ちでも次弾発射まで7.8秒しか猶予時間がない。
敵がボルト並の速さだと猶予時間は4.1秒。柵だけじゃどうにもならんね。
やはり火縄銃以外のプラスアルファ部分が勝利に大きく貢献したと考えられる。
0748人間七七四年
2008/10/05(日) 12:59:44ID:vdhvkYCB0749人間七七四年
2008/10/05(日) 13:07:52ID:K3ZYuSmO当たったとしても「うぐっ!弾当たったじゃねえか!痛えーな、この野郎!」となる可能性が高い。
0750人間七七四年
2008/10/05(日) 13:51:29ID:73E+CH3z0752人間七七四年
2008/10/05(日) 18:31:09ID:OCtGdIDqされ戦術も機動性に特化されるようになった、中世の銃でも厚さ2〜3ミリの鉄板は貫通
するパワーがあり重く動きにくい甲冑は防御の役にたたなくなったためだ、当時の銃の
命中精度の低さも軍隊の機動性重視に一役買った。
0753人間七七四年
2008/10/05(日) 19:17:10ID:AgitqBGoその話がどこまで信用できるかわからん。つーか有効射程なんてどうやって算出するんだ?、
現代の火縄銃だと30メートルで止まった野球のボールに当てる程度の事はできる。
現代の火縄銃は江戸時代製だけどべつに構造に大差はない。
>>749
さすがに20メートルで当たれば鎧貫く。
50メートルでお貸し具足を軽く貫通する程度の威力がある。
ちなみに実験した人は50メートル先の具足に当てられる程度の腕があったわけだが。
0754人間七七四年
2008/10/05(日) 21:11:23ID:+GaLf3dz全力でも軽く20秒くらいかかるんちやうんいかいな。
つーか同時の戦場の地形てのは・・・。
ワーテルローやクルスクみたいな麦畑じゃないだろ。
泥田がせいぜいだと思うけど。
0755人間七七四年
2008/10/05(日) 23:56:19ID:gyow1aC5そうなんだよ。教科書や大河ドラマなど、大勢の人が知る「長篠の戦い」ってそんなもんなんだよな。
教科書なんかでは、兵数の差については何も書いてないし、大河ドラマとかでは、
武田方がただ馬で突っ込んできて、鉄砲で馬鹿みたいに撃たれてるだけなんだよな。
でも、これらなんかは永久に変更されなそうだよな。
酷いのになると、長篠の戦いを信長対信玄なんて間違えてる本やテレビもあるんだよな。
>>526
しかも設楽ケ原は凸凹で、騎馬には不向きな場所って事もあるかな。
もちろん武田も全軍騎馬隊じゃないだろうがね。
0756人間七七四年
2008/10/06(月) 03:31:16ID:0E4ZZEJMおいら 13mって距離はけっこう真実味あるかも、と思うよ。
当時の一丁あたりの携行弾薬数ってそう多くないと思うのよ。
もっと銃が主役だった朝鮮の役の金海城に用意された弾は銃一丁あたり23発なので、
二昔前の当時もそれ以上は持って行かなかったかと。まぁ硝石は輸入品だし高いものだしねぇ。
で、こういう前提条件では、種子島の有効射程云々よりも、
”鉄砲撃ちの勲功がわかる”距離で使われたと見る方が実情にあってるのじゃないかな。
この戦いじゃないけど、鉄砲の狙撃で武将を倒した功名の記録はあるしね。
となると、兜首を狙える状況ってのは、相手が突撃してきたとき、が一番だよね。
で、有効射程50mも先からバンザイ突撃する軍法は、銃装備もしていた武田軍では考えにくいんじゃないかな。
となると必然匍匐?前進で近寄ってから20m以内からの突撃、だったんじゃないかなぁ。
(これは旧陸軍のバンザイ突撃の距離だけど…)
となると、銃が使える距離もそれくらいに限定されてしまうと思う。
なので当時の銃術の本も至近距離での話しか書かれてないんだと思うよ。
0757人間七七四年
2008/10/06(月) 05:21:22ID:UoCZ5aZk俺も携帯弾薬数ってのは精々30かと思う。
武田や北条の軍制では結構な弾薬数が義務づけられてるけど、それはそれなりの地位の武士に対してだ。
部下もいない鉄砲足軽がそれほどの数を持ち歩けはしないと思う。
ただ、20メートル以下だと一発しか放てない。
雑兵物語を読んでると単発なイメージはわかないなぁ。
鉄砲よりも劣る矢戦だってもっと遠くから行われる。
矢の携帯数だってそんなに多いものじゃないのに。矢もそれなりに高価だ。
それに銃の発展で兜首の死傷率が上がったってのは聞かないのが難点か。
匍匐前進っぽいのもあんまり聞かない。ぶっちゃけ、とんでもなく重い(20kg以上はあるはず)三間の槍をもって匍匐前進は辛い。
この辺事実ならもっと資料が残っててしかるべきだろうにね。
0758人間七七四年
2008/10/06(月) 05:41:13ID:KH8owlA6短絡的なのは君のオツムだw
満足に論旨さえ纏められない落ちこぼれ君だから致し方無いといえばそれまでだが。
そんな論旨不明瞭な稚拙な文章、社会では即却下。
ま、毎日暇を持て余している君なら当然といえば当然だかなw
0759人間七七四年
2008/10/06(月) 09:05:38ID:IVM3/dhy弾が球形のため、銃身が曲がっていたり弾が歪んでいたりすると、
弾道が「変化球」になり、右や左への弓なり弾道となってしまう。
こうなると、遠方の時点でまだまだ弾玉の速度があって殺傷能力があっても、
有効射程は、手前の時点の弓なり弾道になる以前の直進弾道の時だけとなり、
狙って当たる有効射程は50mくらいか。
撃って飛んでいく弾が、射手から見えることがあるが(見えないことが多い)、
変化球となって弾道が曲がりだすと、50mで的に10センチ以内で収まっても、
100m先では100センチぐらいは散らばってしまう。
そもそも、目で狙うだけでも、10m先の直径1センチの黒点に
ずっと狙い続けるなんて、なかなかできることじゃないぞ。
しかも立ったままで、5キロぐらいある重たい銃をかまえて狙うとなるとな。
0760人間七七四年
2008/10/06(月) 09:35:19ID:IVM3/dhy50m先で直径5センチ、
100m先で直径10センチ、になりますです。
100m先で人間の上半身タテヨコ50センチを狙うとなると、
銃の性能の都合もあって、当たるか当たらないか半信半疑の気分で撃つだろうな。
0761人間七七四年
2008/10/06(月) 12:11:23ID:t0OTtd2R0762人間七七四年
2008/10/06(月) 13:13:28ID:7x9W24i9なるほど、野球のフォークボールと同じ原理ですね。
回転がないと空気抵抗の影響である地点を境に速度が極端に落ち弾も落ちる、と。
現在の素材と違って砲身内に撃つ度にわずかなひずみが生じるからカーブやシュートする軌道もありえますね。
弾も現在のように完全に規格化されてないから一発一発微妙に大きさや形が違うだろうし、
撃つ度に少しズレが出るのが当然だと思います。
0763人間七七四年
2008/10/06(月) 13:39:15ID:qbFElcfi最低でも10人単位くらいがまとまって上級指揮者の示す方向におよそで筒先を合わせる
で、撃つ
狙って撃つわけじゃないので照準合わせもない
これなら実質的な有効射程距離は伸びる
たまたまその方向にいた撃たれる側にしてみれば被弾しようがしまいが轟音ともに弾が
殺到してくるイメージになる
0764人間七七四年
2008/10/06(月) 14:46:11ID:IVM3/dhy各自がバラバラに発射でき次第うつよりも、
一斉に同時に撃った方が命中させやすくなる。
なぜなのか説明するのはやや難しいな。
こう言い出すと、3段うち説が虚構に思えなくなってくるので困る。
0765人間七七四年
2008/10/06(月) 18:54:21ID:YNxqUHCg0766人間七七四年
2008/10/06(月) 19:40:55ID:PvN8JYKeそりゃ、銃身もゆがんでるさ。その歪みも何度か練習するうちにうちにつかめてくるものだよ。
でも100mはさすがに確信をもって撃てる人はいないだろうなぁ。
鎧を貫く意味からいっても50mが有効射程だとは思う。
殺傷能力自体はあるだろうけどね。
ttp://www.日本の武器兵器.jp/hinawajyu/iryoku/index.htm
>>763
西洋の使い方はそれで正解なんだが、日本にはその記録がない。
記録にあるのは個々人の狙撃だね。
雑兵物語の弓足軽の話なんだが、「鉄砲と同時ではなく鉄砲が弾薬を込めている合間に放ちなさい」
という記述があるから、間断なく放たれているのが当時の人の理想的な状況だったのかね?
0767人間七七四年
2008/10/06(月) 19:44:51ID:nO+MGHGo接近してから打ってたぞ
柵につっこんできても柵が二重で突破できないと
馬場が嘆いていた
0768人間七七四年
2008/10/06(月) 19:57:27ID:nO+MGHGo理由はカツヨリ曰く武田騎馬軍団は最強じゃ!逃げたら名折れじゃ!だから。
馬場や他は逃げようって進言したけど聞かなかったカツヨリ。
で、結局馬場もやけっぱちで信玄さんのためにどうのこうのいって突撃してしんじゃった。
見るまではどうして突撃したのか、バカなやつだなーと思ってたけど
当時の武士の心理を考えればそうなるのもやむなしと思う。
哀れというかむなしさの残る話だった
0769人間七七四年
2008/10/06(月) 20:20:37ID:IVM3/dhyオイラのPCではうまくアクセスできなかったので、ぐぐってみたら下記URL
ttp://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/hinawajyu/iryoku/
0770人間七七四年
2008/10/06(月) 20:45:25ID:IVM3/dhy初めて撃つ銃の話じゃないよ。
銃身が曲がっていて弾道が一定の方向に曲がるというなら、まだわかりやすい。
エアガンでは機関銃のように連射できるものがあって、銃を三脚に固定して撃っても、
弾幕がまさに「ラッパ状」に末広がりで弾道が散らばるものがある。
銃身内部がまっすぐでも、球形の弾丸にヘンな回転がかかっているため、
変化球になっている証拠であり、弾と銃身のすき間がきついとなりやすい。
(ふつうの銃は、ライフリングのため弾と銃身のすき間はきつい)
ゆるいと、銃口からコロコロと弾丸が転がってしまうけどな。
エアーソフトガンメーカーの一例
ttp://www.tokyo-marui.co.jp/products/
0771人間七七四年
2008/10/08(水) 19:57:54ID:WxqACmyq大砲による大口径化でなく、銃でいえば、
弾を球形でなく、いわゆる砲弾型にして、銃身にライフリングをきざんで
強制的に回転運動させなければならない。
(てるてる坊主型の弾という案もあるが、さほど命中率がよくない。)
当時の日本の工作技術では難問。なにしろネジ1本でさえも、大まかに
形をととのえた後、ネジの回転溝はヤスリでいちいち仕上げたそうだから。
0772人間七七四年
2008/10/08(水) 20:37:34ID:SY3Gov73まあ、狙って当たる射程50mってのは同意だからいいんだ。
でも、遠くからも撃ってるのは撃ってるようだ。威嚇程度だろうが。
13mってのがどうだろう?って話なだけ。
間近くおつつめたらば、左右へ分て、鑓の勝負を始むべしとあるから、
あんまり近くで撃つと槍を取る暇がないっていう事情もある。
0773人間七七四年
2008/10/08(水) 20:53:46ID:lualHdoh0775人間七七四年
2008/10/08(水) 21:34:55ID:WxqACmyq東大寺の金剛力士像に、火縄銃の弾が当たっていたことが、
分解修理のときに判明して、数年前、新聞記事になったことがある。
本体の木への鉛玉の突き刺さり具合と、穴の角度では、ななめ上方から当たっていることから、
数百メートル先から撃たれたと判明。
金剛力士像は大型とはいえ、威嚇用として寺院内に撃ち込んだのだろう。
13mってのは、何かの誤りだろう。近すぎるな。
0777人間七七四年
2008/10/08(水) 21:59:12ID:XQ3UKTGB最低30メートル射撃でも充分に効果があると思います。
0778人間七七四年
2008/10/10(金) 21:06:20ID:KH4KTkRx近的場
射位(射手)から的までの距離が28m、通常は直径が一尺二寸(36cm)の的を
置く。的場には矢が痛まないよう土が斜めに盛ってあり、これを安土(あづち)
という。中学校〜大学、公設道場から私設道場まで殆どの弓道場がこれで、
通常の稽古は近的道場で行う。
弓の「近的場」でさえ28mなのだから、鉄砲はそれよりも有効射程が長いだろうから、
30メートルということはないだろう。動く対象なら、30メートルでも当たらないかもしれないが。
0779人間七七四年
2008/10/10(金) 23:10:20ID:50368HPFいちお13m以内(4、5歩)くらいで射撃→切り込みは、関ヶ原の島津軍がやってる(>>630)
数十年後のことだけど、”敵の突撃の勢いを銃撃で止めて切り込む”戦況だから、
武田軍が守備体制の織田徳川軍に突撃した長篠と状況は似てるんじゃないかと。
ただ、兜首は武田軍突撃時よりも、その後の追撃戦(銃が使われにくい)であげられてるから、
有効射程(50m程度)の銃撃で突撃を撃ち挫だいた可能性も大きいとは思う。
ただこれは、武田軍の突撃がどうだか、で決まると思うし、そういうのは軍法の問題だと思うけど、
それを引き継いだはずの徳川軍には敵の柵から100m以上もの離れたところからバンザイ突撃した例がないので…
おいら的には、他の戦のようにススキや小山に隠れて柵に接近して、30mくらいから歓声を上げて突撃したんじゃないかなぁ、と勝手に思ってる。
これなら↑の、13mくらいで指揮官狙撃→傷ついた指揮官を担いで退却で、
守備側は一回くらいしか射撃の機会はないけど、一日に20発も使わずに種子島の威力は十分発揮されたと思う。
あと近代でいう”弱装弾”の問題もあって、種子島の威力が今の均一に生産されたガンパウダーほどなかったと思う。
ナポレオン戦争の時代でも、英仏両方で配給される火薬の質は一定でなかったし、
米墨戦争ではメキシコ側の火薬の質が悪くて射程がのびなかったし、
昔の黒色火薬の質はあまり当てにならないのよ。
当時の日本では補給品に硝石硫黄などがあるので、現地調合だとしたら質はもっとひどかったと思うな。
大阪の役では、小田切所左衛門の額に弾が当たったけど、すぐ取り出し、
「この鎧は信玄公のお手にあったもの」といった(常山紀談)なんて普通の鎧兜で銃弾防げた話もあるから、
実際にはかなり威力が低い射撃も多かった、と思えるし。
0780人間七七四年
2008/10/10(金) 23:22:02ID:KH4KTkRx姉川の戦い直前で、浅井軍の追撃を、秀吉は鉄砲隊を順繰りに退却させて
殿をつとめている。
(一隊が射撃したら味方を追いこして退却し弾ごめして待ち、
前線の隊が帰ってきたら、また味方を追いこして、かわりばんこに繰り返す)
でも、こんな走りながらの退却戦は、へとへとに疲れそうだ。
長篠の千挺ずつ入れ代わりながらの3段撃ちは、
実際にやると疲れてしまって実現できないという説(実験結果?)があるそうだが、
退却戦で射撃しているのだから、実際にはできるんじゃねえの?
0781人間七七四年
2008/10/11(土) 00:04:18ID:4V5Rfh5pとにかく間断なく撃っていたというのが真相だと思う。
ガダルカナルの一木支隊みたいに、想像を絶する連続攻撃で武田が兵力を
すり減らし、弱体化したところを柵からでて追撃したのではないか。
0782人間七七四年
2008/10/11(土) 02:44:46ID:1dKBKvirそういや最上義光の兜は銃撃うけてベコってなってたな。当然戦死しなかったし。
鎧はともかく兜はなかなか貫けるもんじゃない。
ただ、実際狙って兜にあてるより体に当てるほうがたやすいから
ケースとしては鎧の方が多いだろうね。
別に100メートル先からバンザイ突撃をしてたと主張するつもりはないさ。
ただ100メートル先から敵に狙われずに身を隠して行軍することができるのか?と思っただけだ。
鉄砲側も100メートル先の敵が近づいてくるのに指をくわえてみているのはありえない。
威力で言えば100メートル程度でも装甲が薄いところや生身なら十分殺傷能力を持つ。
一人の人間相手ならなかなか当たらないだろうが一応敵は大勢だ。命中率は多少ましになる。
(とは言っても低いだろうが)効果はあると思う。
あの重い鎧を着て重い槍をもつ。前に言ってた匍匐前進は無理だ。重すぎてまともに動けない。
今度は行軍が遅くなりすぎて何発も弾を撃たれる。控えめに言っても50メートルでも止まっている的の場合は
それなりの命中率を持つ。何発も撃たれれば当たる者も多いだろう。少し身をかがめるのが精々か。
遮蔽物があればそれを利用するのは当たり前かと思う。武田も利用できたのなら30メートルと言わず、
柵のすぐそこまで利用したかっただろう。だが、戦場の地形がそんなに身を隠すのに適していたのだろうか。
寡聞にしてきかない。陣地も小高い見晴らしのいいところに作るものだし。
竹束を盾にするとかならありかな。
0785人間七七四年
2008/10/11(土) 19:33:17ID:CDEM4BE80786人間七七四年
2008/10/13(月) 01:32:34ID:3J01dwtq結局、信玄が生きてないと無理ってことでしょ
勝頼は家の問題で自滅したと捉えるべき
信玄存命なら家の問題もなく
その力を存分に発揮して上洛を果たしたってことw
長篠も翼包囲の布陣で戦ったのに
中央の穴山武田信廉が敵前逃亡で総崩れ
信玄がいたならこんな醜態は起きないw
っていうか
退路の拠点、鳶ノ巣山砦が織田方に落とされてて
武田が戦闘を起こしたのも織田徳川を攻撃して
後を慕わせないようにするためだけの行動
鳶ノ巣山砦が無事だったら、速やかに撤退できた。
退路を断たれて、仕方なく突撃したって見方もある
まー勝頼の凡ミスw
信玄ならこんな醜態は晒さないw
0787人間七七四年
2008/10/13(月) 01:34:52ID:O6CGKa4f0788人間七七四年
2008/10/14(火) 19:19:53ID:DyNRf4Yr自信を持って、勝てる、と「重臣一同」が一致したうえで、
攻撃したのだ。
勝頼一人だけが独断で決めたことではない。
0789人間七七四年
2008/10/14(火) 21:29:11ID:F/SnSVXh健康が悪かったら無理しない。
やっぱり鉄砲に撃たれて死んだんだと推測する。
病死にすれば家臣も安心(↓に比べればの話ね)
鉄砲で死んだとなるとみんな落ち込むだろう。
たぶん本陣にいたところを忍者によって殺された
特殊部隊はつかまって口封じされた。
3年は黙っていようというのは信玄の遺言ではなく重臣の会合での話し
これで筋がとおる。
そして勝つよりは
わしは鉄砲などでは倒れはせんと
意地になったのではないか。
みんなは(鉄砲の恐ろしさを知ってて)撤退したかったけど
勝つよりは聞かなかった。
0790人間七七四年
2008/10/14(火) 21:48:31ID:h8k/ZRpKが・・鉄砲などでは倒れはせんと いうのは違うかな
0791人間七七四年
2008/10/14(火) 23:11:59ID:n9jx+adz>そして勝つよりは
わしは鉄砲などでは倒れはせんと
意地になったのではないか。
みんなは(鉄砲の恐ろしさを知ってて)撤退したかったけど
勝つよりは聞かなかった。
長篠の時には、重臣の意見を退けて
勝頼の意見が通るほどの権力が
勝頼には無かった。
ただし勝頼が後方の長坂にあてた手紙に
「今回の戦いを危ぶむ者も居るが」
とあるので、全員賛成では無かったのは事実だろう。
そしてそれが馬防柵が完成してから突撃という
自体になったのだと、当方は推定している。
0792人間七七四年
2008/10/14(火) 23:41:17ID:Eoj5ZPh4実際設楽原で対峙する両軍の主力は織田徳川2万余で武田1万余だから、
わざと鷲ノ巣砦を織田徳川別動隊に占拠させてその間本隊に突撃するという戦法なら
第4次川中島を経験した馬場などの重臣がとりそうな戦術
結果は一門衆の敵前逃亡で敗退したけど、もし中央支え切れたら成功の可能性は高かったと思う
あと、当時鉄砲の威力はそれほど高くなく、別動隊への割り振りもあるから両軍の鉄砲の数は2.5〜
3対1程度
設楽原の地形と当時の天候を考えれば鉄砲が勝敗を決するような要素ではなかったと思う
0793人間七七四年
2008/10/15(水) 01:09:11ID:ALYtiIBN自分も織田徳川3万8000と武田勝頼軍1万5000
というのはどうも解せない
貴方が言うように例えば織田徳川2万3000で武田1万3000で
別働隊5000が鷲ノ巣砦から武田軍の後方に回ろうとしていたなら
織田徳川1万8000対武田1万3000
このくらいの兵力差なら例え織田徳川軍が陣城を築こうが勝機を見いだせたかもしれない。
勝算有りと判断し合戦に突入→一門衆等が命令を聞かず形勢不利に→一門衆が勝手に退却→大被害
こういう流れだと思うんだけど
倍以上の兵相手にどうやって勝算有りと判断するんだと
兵力に関する確かな資料はないし
実際はこんなもんじゃなかったのかな
0794人間七七四年
2008/10/15(水) 04:03:23ID:XKsq/MwG実際、長期戦だったんでしょ
織田の兵はいったん国に帰ったりもしてたみたい
結局、武田の退却戦で
攻めてる状態ならさすがに一門衆も敵前逃亡みたいなことはしないでしょ
中央部隊が崩れたから
左右の馬場真田内藤山県隊は取り残されて敗退した感じ
なにげに織田の損害もデカイわけだが
長期に渡り小競り合いをしてた感はあるな
あとからの増援で3万の大軍になったかもね
0795人間七七四年
2008/10/15(水) 19:30:52ID:19FVs4pPそして、長篠城攻めでは大量の鉄砲が使われた痕跡があった。
〜〜ここまで事実〜〜
〜〜以下妄想〜〜
しかし、織田と武田では得られる火薬の量が違いすぎる。
設楽が原では、既に武田の火薬は尽きていて
鉄砲にたいして鉄砲で当たることができず、長距離戦ができなかった。
とか考えてみた。
0796人間七七四年
2008/10/15(水) 19:36:30ID:SN2/BJQ+武田軍は擬似要塞戦を行ったわけで、その場合当時の要塞戦の基本である
「優勢な火力の援護による攻撃」を行うことが出来なかった、ってことでしょ。
0798人間七七四年
2008/10/15(水) 20:30:22ID:nZrgZb9z命中精度の低い火縄の有効射程が13mというのもそう不思議ではない
0799人間七七四年
2008/10/15(水) 20:57:38ID:vY6bKSqQ0800人間七七四年
2008/10/15(水) 21:23:38ID:aiHY28mz島津なんとかって記述ですべてを語ってたみたいだけど実際は3〜50m
ってそこらの火縄のHPとかには載ってるからおかしいとは思ったんだ。
もちろん用法にもよるけど威嚇とか足止めだったら結構離れたところからでも
有効だったんだろな。
いくらなんでも火縄構えてるとこにつっこむ兵隊さんもいないだろうし。
この前初めて実弾撃ったんだが片手でも結構当たったから不思議だった。
もちろん両手でガチガチになって20発ぐらい撃ってからだったけどね。
暴発しちゃった、ではすまんもんね、やっぱり。
0801人間七七四年
2008/10/15(水) 21:29:47ID:SN2/BJQ+0802人間七七四年
2008/10/15(水) 22:02:13ID:QsjQPPCZ>しかし、織田と武田では得られる火薬の量が違いすぎる。
設楽が原では、既に武田の火薬は尽きていて
鉄砲にたいして鉄砲で当たることができず、長距離戦ができなかった。
これは同意だね。
火薬の原料は硝石。その硝石は輸入に頼っていたから
堺を押さえていた信長と、山国の武田では火薬量が
全然違ったと思う。
0803人間七七四年
2008/10/15(水) 22:13:09ID:vY6bKSqQ外国の観光地で撃ったなら火薬半分の弱装弾だから扱いやすいよ
一般愛好家相手や軍管理のとこだったら基本通常弾
拳銃でも弓でも動いてる的に一撃必中目指すなら12m弱とはよく耳にするから
そういう記述を勘違いしたんじゃないかな
有効射程がそんなに短ければ松本城の城壁の銃眼とか飾りにもならん
0804人間七七四年
2008/10/15(水) 22:13:57ID:iaCbZZkR敵国にも売りますよ。
堺〜駿河は、そこそこ舟の往来はあったので(江戸以北はなし)、
駿河をおさえていた武田は、輸入可能。
0805人間七七四年
2008/10/15(水) 22:15:54ID:SN2/BJQ+0806人間七七四年
2008/10/15(水) 22:47:10ID:QsjQPPCZそれはすなわち信長の税収が上がる事を意味する。
勝頼が硝石を買えば買うほど信長が肥える仕組み。
0807人間七七四年
2008/10/15(水) 22:54:01ID:Y1t+MnoW小勢で防御体制に入っている大軍に攻撃を仕掛ける行為がいかに危険か。
お互い攻勢に出てれば勝頼にも勝機はあるかもね
0809人間七七四年
2008/10/15(水) 23:18:48ID:aiHY28mzへ〜、1発7ドル、なんてのにもチャレンジしたが、名前忘れた、あれも火薬
抜いてあるのかな。結構両手でズドンときたわ。
火薬量とか硝煙の話は詳しい輸入ルートとか解明されてるみたいよ。
単純に山国だから量が少ない、というものではなかったろうね。
火縄購入した時点で弾だってちゃんと買ったろうし。
0810人間七七四年
2008/10/16(木) 00:57:11ID:wmeNIXby確かに12mでも狙って当てるには結構距離あるからなー
>>809
軍板いけばその辺は結構詳しい
素人が撃つと肩が外れる拳銃とかあるらしいし
0811人間七七四年
2008/10/16(木) 03:18:25ID:LGcYoEb1「12m」というのは”当時の戦術上使用された距離”の話じゃないかね?
>>808
江戸時代の鉄砲書でも、種子島は弓の代わりに使われただけ、のようだけど、
どこがどう変わったのか、kwsk
>>809
織田方が、多量に弾薬を消費した、って記録はないのよね。
鉄砲部隊も現地編成で、合戦前からそのために弾薬を用意した記録はない。
で、戦闘時間考えると「矢継ぎ早に撃つ」ほどの弾薬量を持ってたようには見えないのよねぇ…
つか、”遠隔兵器で敵を混乱→突撃”という攻撃の仕方だったなら種子島の出番は少なかったはず。
だから攻撃をかけた武田側に鉄砲の活躍がないのは当たり前、な気はするけど…
0812人間七七四年
2008/10/16(木) 18:43:29ID:NrQbvpCtそりゃ火縄でも甲冑着ている相手を致死できる距離なら50mは当然あってしかるべきだが
最大限効果を発揮できる距離は12mほどということ
0813人間七七四年
2008/10/16(木) 19:34:51ID:Gd/J0sNy槍が届かないギリギリの距離でしょ。
弓のがましだな。二回は射れる。
0814人間七七四年
2008/10/16(木) 19:36:02ID:Gd/J0sNy0815人間七七四年
2008/10/16(木) 19:44:08ID:dLDagyRr0817人間七七四年
2008/10/16(木) 22:49:04ID:rdDMY5wc0818人間七七四年
2008/10/16(木) 23:11:35ID:vpBZVlng0819人間七七四年
2008/10/16(木) 23:23:50ID:RIh2zeMA必殺の武器にはならなくても戦闘不能、負傷による戦意喪失効果が上がれば十分。
0820人間七七四年
2008/10/16(木) 23:25:09ID:eLp9kSOi無音の時代にあれだけの音がすれば馬も暴れて実際
制御は難しかったろうな。
0821人間七七四年
2008/10/16(木) 23:31:01ID:rdDMY5wc当時の人も馬鹿じゃ無いんだから。
0824人間七七四年
2008/10/17(金) 00:10:20ID:ZLmxs6dY0825人間七七四年
2008/10/17(金) 00:12:03ID:nTNjyVAR輸入硝石に頼らざるを得ない。
0826人間七七四年
2008/10/17(金) 04:37:27ID:qC197AVh当時の”戦”は首とってなんぼ、の世界だったので、撃退するだけの個人の勲功にならない戦はどーなんだろ?
>>823
硝石の国内生産技術確立は江戸に入ってからだと思ったけど??
>>825
大量消費、つっても、後の欧州のような一斉発射での制圧、って使われ方はしてないから、そう多くはないかと。
0827人間七七四年
2008/10/17(金) 19:50:12ID:tMu7KA1Xこんな隙だらけの武器が展開が絶えず変わる野戦で使い物になるわけがない
結局、対攻城戦、籠城戦で使うのが主流だな
0828人間七七四年
2008/10/17(金) 19:52:30ID:nTNjyVAR0829人間七七四年
2008/10/17(金) 22:10:56ID:4+36FdE7日本の鉄砲に、朝鮮軍が手も足も出ない。
朝鮮側の鉄砲は届かない当たらないと大変だったみたい。
野戦でも鉄砲は有効活用されてるよ。
五箇山に関しては戦国期から生産されてた説があるけど
言われてるやり方だと、時間がかかりすぎる上に少量しかできないので
効率が悪いとか。
0832人間七七四年
2008/10/18(土) 08:52:42ID:LcuY1Oa7話は変わるけど、朝鮮の役といえば初期に日本の鉄砲が大活躍したが、
明の正規軍が到着すると中国のフランキを始め中国の大口径火器に苦戦したそうだ
その経験から朝鮮から帰った大名がこぞって大口径火器を買い漁ってた
0834人間七七四年
2008/10/18(土) 10:20:41ID:fgpTngI3本多忠勝も砲兵隊長みたいなことしていた記録もある。
家康の江戸城には、秀吉の大阪城と違って、すでに大砲対策が施されていそうな。
0835人間七七四年
2008/10/19(日) 18:36:16ID:qy2so+4J城にたてこもっている敵(朝鮮の場合は日本軍)に対しては、
大砲を打ち込めば断然有利。
明軍の大火器に苦戦したのは聞くね。
でもそこらへんは調べてないから詳しくわからないー
0837人間七七四年
2008/10/19(日) 19:57:09ID:qy2so+4J官軍が港から大砲を打ち込んだ。
ろう城している幕府軍は、城内で右往左往。何日か後には降伏。
0838人間七七四年
2008/10/20(月) 11:00:48ID:cGFY7LWK逆に明では城に篭りながら大砲を用いて後金の軍勢を散々に打ちのめした
地上戦であれほど強かったヌルハチも大砲の傷で死んだから
大砲ありとなしでは勝負にならん
同時期の欧州でも大砲の数の性能が勝負を決することになったし
0839人間七七四年
2008/10/20(月) 11:09:49ID:atgcrood0841人間七七四年
2008/10/20(月) 12:18:25ID:atgcrood要塞戦の場合、銃や大砲への対策をなされた、日本で言えば関ヶ原後に建築された名古屋城や熊本城など、
ヨーロッパで言えばイタリア式要塞などでは、それが技術的に克服されるまでは、その限りではない。
要塞と火力はいたちごっこだね。
0842人間七七四年
2008/10/20(月) 13:00:55ID:rAiY9eUcまあ、たしかに要塞戦あるいは攻城戦と限定されれば、攻め手より貧弱な火力でも勝てることはあるわなあ。
しかし、野戦ではそうはいかんのじゃね?
0843人間七七四年
2008/10/20(月) 13:08:29ID:u5h8gvzF日露でも奉天のときの火力はあっちのほうが上じゃなかったっけ
0844人間七七四年
2008/10/20(月) 13:10:53ID:atgcrood野戦でも長大な塹壕を作ることで陣地を擬似要塞化して火力を克服する方法があるね。
戦車や航空機による突破が可能になるまで、これは有効だった。
小牧長久手なんて、あの当時の代表的な塹壕戦といっていいんじゃないかな?
0846人間七七四年
2008/10/20(月) 13:16:33ID:u5h8gvzF0847人間七七四年
2008/10/20(月) 13:22:10ID:ayVQonBJ野戦において機動力で大軍が寡兵に翻弄されるというのは、
戦略的な意味で火力を集中させることはできたが、戦術的な意味では出来なかった、ってとこでいいんでね?
0848人間七七四年
2008/10/20(月) 13:22:54ID:atgcrood確かアメリカ独立戦争でも、銃隊への騎兵突撃があったような。
0849人間七七四年
2008/10/20(月) 15:26:26ID:3aLMVbi4そして当時”銃火力”が戦術上重要な意味を持ったかは、とてもとても疑問だと思う。
つか、野戦で”銃火力の集中”が問題になったのは、銃兵が攻撃をも担う、歩兵が全員銃兵になってからでは?
長篠の時代は、銃兵と槍兵が混在してるし、その後の朝鮮の役でも”銃撃→突撃”が一般的だったけど、
これは、武田軍の”遠距離武器で敵を混乱→突撃”を世襲してるだけだと思うけど。
つまり弓石つぶて投げ槍の代わりに銃が使われてるだけにしか見えないような。
ちなみに朝鮮の役では「銃がすっごく便利だよ、もっと送れ!」なんて手紙が残ってるよ。
ということは長篠以降十数年たっても、”銃の良さ”を使った戦術が日本各地に広まってなかったことになる。
このような状況で、野戦での銃火力がどうのこうの、火力集中がナニだ、とかいう議論は時代に合ってないと思うな。
戦力を”兵数X火力”と規定したのはシュリーフェンだったかと思うけど、
マスケット兵が主力になった30年戦争より昔に銃火力の話は、ちょっと違和感あるな。
あと、歩兵で敵軍正面を拘束し騎兵を迂回して包囲する、てのはカンナエ以来の古典的戦術だし、
もちろんソレは”銃”の存在無くても成立してるよ。
0850人間七七四年
2008/10/20(月) 15:47:29ID:atgcrood攻める時も守る時も、火砲によって敵を牽制する事こそが基本。
家康が長篠城に、城兵500に対し鉄砲200丁という、驚異的な装備率で篭城させたのも
この火力の牽制力を念頭に置いたため。設楽が原の前に、長篠城の攻防においても武田軍は、
火力の前に屈したと言っていい。
0851人間七七四年
2008/10/20(月) 15:59:26ID:ayVQonBJ特に信長は役立てただけじゃなく、本願寺攻めなんかでは自分がその被害を受ける側に回っているし。
信長に格別の先見性を仮定しなくとも、他の武将に先駆けてそういう考えに至ったことはそうおかしくないと思う。
0852人間七七四年
2008/10/20(月) 17:07:35ID:q58QSPjr単に織田軍呼び寄せるためにわざと落とさなかったってだけだろ。
本気で落とす気なら、あそこまで行ってればあれだけの時間あったんだし落ちてるよ。
織田軍来るのなんか分かってるんだから、腹背に敵受ければ不利なのは常識中の常識だし、
城を落とす気で落とせてないなら、落ちるかどうかはともかくもっと必死な攻撃を仕掛けてる。
懐手で時間潰すような態度はありえないな。
前回高天神城の時は、さっさと落としちゃったもんだから、戦い避けてモタモタ進軍してた織田軍が
これ幸いと途中から帰っちゃったからな。
1回会戦して、敵に痛撃与えたり天下に武田の武勇示して戦略的に有利な流れ作ろうとするのは
至極当然。
あのまま合戦しないでいたら織田はますます膨張するだけだし。
0853人間七七四年
2008/10/20(月) 17:36:11ID:FxBWFkPA調略ができず、戦いが長引いてしまった。
二の丸まで攻めており、また、川の合流点V字状の先端にある城だったから、
城主は和ぼくも逃亡もできない状態になっており、
死に物狂いの抵抗となった模様。
0854人間七七四年
2008/10/20(月) 17:52:11ID:atgcrood外堀、中堀、内堀の三重の堀をそなえ、開けている側も、内堀から主郭まで95メートルほど間を空けた、
なだらかなスロープになっており、侵入者を容易に発見、狙撃できる構造だった。
これは優勢な敵の進入速度を低下させ、要害の側に火力の援護がある限り、容易に
攻略を許さない築城となっている。
少なくとも、「いつでも落とせた」なんて城ではないことは確かだ。
0855人間七七四年
2008/10/20(月) 20:00:35ID:yqTbgFCZ織田・徳川連合軍が設楽原合に付いたときは、
長篠城は本丸のみが残る状態で食料庫も落とされていた。
あと一息で、落とせる状態だった。
0857人間七七四年
2008/10/20(月) 20:11:09ID:3aLMVbi4”野戦”と”攻城戦”を混同してるよ、それ。
当時の銃射撃は移動を伴わなかったことはもちろん、銃兵自体単一で偏されてない上に攻撃兵種じゃなかったのに、
野戦で”火力集中”を重要視するのは無意味じゃ?
0858人間七七四年
2008/10/20(月) 20:41:54ID:FxBWFkPA雨避けのため、わざわざ細長い小屋を作ってもらって、その中で鉄砲構えて
迎撃態勢をとっているくらいだからな。小屋があれば雨天でも撃てるわけだ。
この場合は、火力集中ともいえる。
馬と鉄砲、管理職は小屋をあてがわれ、その他大勢は野良で寝起き。
包囲の軍は、ただ野営していたのではなく、小屋を作って包囲しているわけで、
信長公記に、銃や弓に優れたいる者を集めた迂回別働隊が、
長篠城を救援したときに「武田の小屋々、焼き上げ…」とあるので、。
包囲は長期を予定した本腰のもの。
0860人間七七四年
2008/10/20(月) 20:48:26ID:Ha9rb78t>単に織田軍呼び寄せるためにわざと落とさなかったってだけだろ。
それじゃ降服勧告をはねつけて殺された鳥居は?
そもそも織田の主力をおびき寄せて決戦するのに準備が足りなさすぎる
前の年の高天神攻めでは二万以上の軍を投入したのに
長篠に半分強の一万余しか動員しなかった
長篠を餌に織田本隊をおびき寄せて決戦のつもりなら二万はあってもおかしくない
0861人間七七四年
2008/10/21(火) 01:35:26ID:G52eTRQ7初めて織田軍が岡崎まできていることを知ったりと、対応がおかしい。
0862人間七七四年
2008/10/21(火) 04:21:47ID:XVR8Sqyc0863人間七七四年
2008/10/21(火) 06:11:59ID:sdgu+jXn実際、長篠で負けてからも、大して間をおかずに上野やらに出兵してるしな。
8000程度だったっていう説が事実だと思う。
当然、織田との決戦を狙っていたなんてこたぁないと思われ。
0864人間七七四年
2008/10/22(水) 00:24:22ID:0ulbs/gV徳川が来たら叩くか、戦を避けられたなら長篠城を落として
どっちにしろ徳川の武名を貶めて、遠江や三河攻略を
やりやすくする目的だったのに、予想外の織田本隊まで
来てしまって慌てたとか?
0865人間七七四年
2008/10/22(水) 00:26:33ID:2+5A9/D8後世の視点で当時を見すぎだな。
単純にあのあたりは徳川と武田で取ったり取られたりだったんだから、
その一環以外の何者でもない。
0867人間七七四年
2008/10/22(水) 00:36:13ID:vWZvL7R80868人間七七四年
2008/10/22(水) 00:38:23ID:2+5A9/D80869人間七七四年
2008/10/22(水) 00:51:51ID:Sc5479pAただ勝頼は長篠以前の1574年9月には
家康の居城浜松周辺で放火、略奪をし
久野、掛川といった徳川の主要地の城を押し詰めるなど
徳川軍主力を誘い出す、もしくはその威信を貶めようとする行動はしている。
このことを北条に説明した書状があるが、この中で勝頼は
「こちらが出馬した所、徳川は浜松に立てこもったので、
その周辺の屋敷はひとつも残らず焼き打ちにし、稲も悉く刈り取ってやった。
久野や掛川などの敵城も押し詰め、佐夜群築地に普請を行い、人数も入れて帰陣した。」
と得意げに書いている。これらの戦果は大きな宣伝材料になるという事だ。
実際家康は城を出なかったが威信を傷つけられた事、援軍にこない織田への不信などがあったらしく
長篠では家康や徳川家臣団は「今度助けてもらえなかったら武田に寝返ろう。」と言うくらい追い詰められてる。
勝頼も可能ならば家康を引っ張り出して叩き潰すか、もしだめでもその威信を貶めて
領土拡大につなげようとするプランがあったのは否定できない。
織田が出てきたらどうする気だったのかは知らんが。
0870人間七七四年
2008/10/22(水) 00:52:00ID:0nxEmKcE亀レスだが、長篠城の攻防と高天神城の攻防について調べた方がいいよ
武田が長篠を包囲したのは5月8日、13日信長が岐阜から出発して18日設楽原に着陣
高天神の方は5月13日包囲されて、落城したのは6月17日
高天神がさっさと落とされたじゃなく二万の大軍に対して1か月も粘った上の落城
その経験からか、長篠攻め時も織田本隊は来ないだろうと思ったら
たった10日で信長が来ちゃった(知ったのは5月16日)
それでも決戦に臨んだのだからよほど自信があったんだろうな
0872人間七七四年
2008/10/22(水) 01:45:14ID:Sc5479pA堅城といわれた高天神城が1574年6月に攻略され、
9月には>>869の憂き目にあった。
信玄以来徳川は領土を蹂躙され続け、家康主力が敗走や敵前逃亡する事も数回、
堅城と言われた高天神城は攻略され、ついに主城浜松周辺が蹂躙された。
しかもこの間信長自身、もしくは大軍での織田の援軍は一度も来ておらず
徳川単独では城が攻められても後詰もできない状態。
「今度だめだったら武田に寝返ろう」という発言からも
徳川の威信と忍耐は限界に来ていたのではないだろうか。
0873人間七七四年
2008/10/22(水) 21:05:15ID:WZfnL+NFしかし、チンタラ移動したので、移動している間に高天神城は落城してしまった。
落城してしまったので、引き返していったが、この帰った織田軍は
長島に向かい、大虐殺のうえで長島を全面占領している。
0874人間七七四年
2008/10/22(水) 23:52:45ID:+AIG1Zqe0876人間七七四年
2008/10/22(水) 23:58:13ID:+AIG1Zqe基本的なところっていうと??
駿河・遠江の分割を穏便にやって、その後の武田の進撃は木曽路から美濃に、徳川は後方の憂いなく尾張にって、
絶望的に無理な理由って、何かあったかな。
0877人間七七四年
2008/10/23(木) 00:04:27ID:evLeLL7M0878人間七七四年
2008/10/23(木) 10:36:49ID:lQdvfI/2第二次世界大戦時ポーランドに侵攻したナチスドイツの機械化師団にたいして
ポーランド軍は騎馬隊を主力に挑んだが一蹴された。
独ソ戦開始直後までソ連軍にはかなりの数の騎馬隊がいたと言われている。
第一次世界大戦の主戦場だった西ヨーロッパに比べ第一次世界大戦の洗礼を
あまり受けていない東ヨーロッパはかなり後まで騎馬隊が主力だったみたい。
0879人間七七四年
2008/10/23(木) 11:43:36ID:DlAti9pgポーランドとソ連は1920年代の戦争経験で騎兵隊を増強したんだろう
第二次大戦の開戦当時では戦車を機動兵力として考えてるのはドイツだけだったから
別におかしくない
イギリスもフランスも日本も戦車は歩兵を補助するための移動要塞として考えてたし
0880人間七七四年
2008/10/23(木) 18:30:08ID:HvzxRhYw横に細長い陣地を構築して、銃を持った歩兵が立て籠るようになると、
馬や敵兵による陣地突破は「不可能」になってしまう。
攻めは最大の防御、とかの言葉はつい30年くらい前までよく言われていたが
実態はそんなことはなく、守る側が絶対有利、となってしまう。
湾岸戦争のころから、ようやく、攻める側は守る側の3倍の兵力が必要、と言われだした。
0881人間七七四年
2008/10/23(木) 18:33:09ID:vJwwlfMI0883人間七七四年
2008/10/23(木) 19:03:19ID:HvzxRhYw平壌から出撃した騎馬の蒙古兵は、数時間で全員殺害された。
日清戦争時にはすでに騎馬突撃は全くの無力。
0884人間七七四年
2008/10/23(木) 19:13:23ID:FSeXdtg4守る方は何時何処を攻撃されるか分らない状態で備えなければならない
こーゆー事、現在の軍隊でも基本的な考え方です
0885人間七七四年
2008/10/23(木) 19:48:44ID:DlAti9pg正しくは歩兵の援護なしの騎馬突撃は無力
こんなの日清戦争まで待たなくても、ナポレオン戦争以前から知られてる
第一次世界大戦の西部戦線で塹壕戦が泥沼化した理由は野戦工事ではなく、
鉄道によって大量輸送
鉄道インフラが発達してなかった東部戦線では泥沼な塹壕戦がなく、
騎兵部隊の機動力も発揮できた
攻撃こそ最大の防御についても同じだけど、もう少し詳しく調べたらわかることを
かじりかけて知ったかぶりするからボロが出る
0887人間七七四年
2008/10/23(木) 20:45:36ID:vJwwlfMI0888人間七七四年
2008/10/23(木) 21:49:55ID:tIxk5uJY陣地の側方に置くんだぜ?
・・・・・・・・・・
↑
こう撃つよりも
・・・・・・・・・・ ←
こう撃つ方が効果アンベ。
0890人間七七四年
2008/10/24(金) 10:41:43ID:Lk2RKcAjそして最後の成功例でもある。と聞いたことがある
0891人間七七四年
2008/10/24(金) 11:04:47ID:h6k95Dc30892人間七七四年
2008/10/24(金) 12:11:20ID:8e3HMouI単に移動の乗り物として便利。
0893人間七七四年
2008/10/24(金) 12:16:26ID:uK0CzgWo0894駿河朝比奈氏
2008/10/24(金) 12:49:26ID:dv+CPBC/0895駿河朝比奈氏
2008/10/24(金) 12:50:33ID:dv+CPBC/0896人間七七四年
2008/10/24(金) 17:30:33ID:h6k95Dc3足軽の歩兵突撃をやったとしか読めないな。
0897人間七七四年
2008/10/24(金) 18:20:08ID:z5I6INbs陣城と柵、兵力差の前に、武田軍が長篠城の囲みを解いて撤退して
くれれば・・・と思っていたら主力決戦になっちゃった。
結果論で言えば・・・
火力による漸減作戦で兵力差をさらに広げ、続いて歩兵による白兵戦で
けっこうな損害を出しながらも何とか武田軍を三河から追い払ったと。
そんな戦いですよね。
0898人間七七四年
2008/10/24(金) 20:58:48ID:qW9XCl0Xたんなる僻地の移動手段か儀仗兵でしょ。
軍隊じゃないけどアメリカじゃ騎馬警察が普通に取り締まりやってるけど。
0899人間七七四年
2008/10/24(金) 21:06:19ID:3qx2TUKm兵力差が持久戦によって効果的になったのが一番の決め手。
兵力数は説がいろいろあるけど、共通してるのが
織田徳川連合軍が武田の2から2、5倍。
武田兵は戦国最強との説もあるけど、織田も兵農分離で
強力になってきていたから数の差が勝敗の分かれ目。
合戦当日朝は霧で織田の実数が把握できず、攻めたとの説も。
0900人間七七四年
2008/10/24(金) 21:51:59ID:1qAAvz2l0901人間七七四年
2008/10/24(金) 22:34:45ID:VRXUErylというか、無いと考える方が無理
0902人間七七四年
2008/10/25(土) 22:42:25ID:eu2y//0+これじゃ誰が采配とっても織田方が勝つ。
0903人間七七四年
2008/10/25(土) 22:51:57ID:FRg7Wfm70904人間七七四年
2008/10/26(日) 01:19:34ID:btz18kHOそりゃ、こんだけ少数だと、背後の砦落とされたら、そうそう逃げられないが……
そういう意味では、勝頼は生きて逃れただけで、ラッキーだったな。
0905人間七七四年
2008/10/26(日) 01:55:33ID:U2TrgXD/3000しかいないのに20000の織田軍に会戦を挑む大将もいなければ、それに諫言しない家臣もいねーよw
0906人間七七四年
2008/10/26(日) 01:57:40ID:qswYHBAqぶっちゃけ織田徳川軍の全体を把握できなかっただけだろ。>武田
ただでさえ見通しが悪い場所なんだから。設楽が原は。
0907人間七七四年
2008/10/26(日) 06:01:39ID:seRYqA+Mあんな所で何万もの軍隊が合戦するとか無理だろ
本当はたぶん数百人で殴り合いとかだったと思うよ
0908人間七七四年
2008/10/26(日) 11:27:09ID:ahefraww0909人間七七四年
2008/10/26(日) 11:30:51ID:ahefrawwさすがに自軍が3千しかいなかったら、二万近い敵軍の数をどんなに誤認しても
自分たちより多数である事には気づくだろw
0910人間七七四年
2008/10/26(日) 12:03:42ID:qswYHBAq自分達より多数と把握しても、その差が突破できないほどではない、って認識の間違いを犯すことは
充分考えられるでしょ。
0911人間七七四年
2008/10/26(日) 12:06:38ID:ahefrawwいや、柵とか堀とか土塁とか用意して守り固めてる自分たちより多数の敵が
突破できないほどでない、っていうのはなあ。
0912人間七七四年
2008/10/26(日) 12:07:09ID:Kqy6fXBZ0913人間七七四年
2008/10/26(日) 12:21:30ID:0tzAxyG90914人間七七四年
2008/10/26(日) 12:33:53ID:btz18kHO最低でも5000、おそらく8000程度はいたんじゃないかねぇ。
3000じゃ、織田が来なくても、徳川が援軍に来るだけでやばい。
兵力にるいては
合戦直前に長坂光堅が、信長が出てきたけど大丈夫??
という内容の手紙を勝頼に送ってる。
長島一向一揆の鎮圧など外線戦力が、次々と撃破されてる状態で
近畿一帯を収めた信長の動員兵力位は、簡単に推測できたと思う。
牧野文斎氏が柵を作り、兵を伏せて寡兵に見せたという説を
言っているけど、さすがに無理があるような気がする。
0916人間七七四年
2008/10/26(日) 13:44:45ID:WnNbfjym武田が一番気にしていた援軍の織田がどのくらいの規模で来るのかは
はるかに前の段階で尾張からの街道で当然偵察をしているはずなのでおおよそ判っていたと思う
0917人間七七四年
2008/10/26(日) 15:12:24ID:seRYqA+M着陣するまで関東から尾張に行軍してきた事すら分からなかったのが現実。
資金人材の規模等それらと比較にもならない武田がなんで兵数まで把握出来たなんて思えるのか不思議だ。
0918人間七七四年
2008/10/26(日) 15:18:16ID:tkeIaB3O0919人間七七四年
2008/10/26(日) 16:57:57ID:seRYqA+M0920人間七七四年
2008/10/26(日) 17:46:32ID:DJ1zVD4C0921人間七七四年
2008/10/26(日) 19:35:06ID:DHhOHKcw問題は長篠城包囲した武田軍15000のなかから設楽原にどれだけさいたかだろう。
どうして決戦におよんだのかは、武田軍の指揮系統に大きな欠陥があって決戦回避を選択
できなかったと言うのが事の真相では。
もともと信玄の時代から家臣団の中に幾つか派閥ありそのほかにも旧諏訪派や旧今川派=義信派
信濃派など野合集団だったのを信玄のカリスマ一つでコントロールしていたものが、信玄が死に
制御不能に近い状態に陥っていたため敵との兵力差を冷静に判断できなくなっていたのでは。
0923人間七七四年
2008/10/26(日) 21:12:07ID:ehPlmQsR織田徳川の数多すぎw
当時の織田は大阪の本願寺を包囲中だし、一向一揆にとられた越前にも
備えなければいけないから兵力の半分は動かせない
さらに武田の兵力は徳川からの情報でわかってるはずだから
信濃に余力を残してることを知ってて美濃に兵を残しておかないと
武田に美濃攻められて退路断たれる可能性すらある
あれこれ差し引くと信長が長篠に連れて行ったのはせいぜい2万強で
徳川と合わせて3万弱程度で鷲ノ巣砦への別動隊を割いたら2万5千前後
1万5千の武田にとって主導権さえ握ればどうにかなるとみてもおかしくない
0924人間七七四年
2008/10/26(日) 22:06:52ID:Y4ZHCGNq空荷回送中の小荷駄の補給部隊とか長篠城包囲とか鳶の巣あたりの配置兵力引いたら
多くて8000位じゃまいか・・。
0925人間七七四年
2008/10/26(日) 22:09:03ID:yGKfVUBv0926人間七七四年
2008/10/26(日) 22:26:16ID:Kqy6fXBZどうも勝頼は、織田、徳川が戦意がないように見て滝沢河を渡ったっぽいよ。
前に書いた奴で悪いが
甲陽軍鏡記述
さすが大身の信長も、わかき勝頼公をふかみ、出かねられたるとハ、合戦過テ後五十日のうちにきこへたり。
決戦前夜、勝頼書状。戦の安否を心配する甲州の長坂光堅宛
然者長篠之地取詰候之所、信長家康為後詰雖出張候、無指儀及對陣候、敵失行之術、一段逼迫之躰候之条、無二彼陣へ乗り懸、 云々
同日、信長書状、細川藤孝宛
長篠との間三里余候、敵之備雖為節所、十八日押詰鉄砲放候、通路も不可合期候、却而擒候、此節根切眼前候
信長と勝頼の世間の評判と、合戦時の心情がよく分かる。
0929人間七七四年
2008/10/26(日) 22:51:23ID:Kqy6fXBZ0930人間七七四年
2008/10/26(日) 22:58:11ID:yGKfVUBv18日信長本陣は最初は長篠から三里と12キロ離れた地点に布陣
その際、窪地や設楽原の後方の山々に信長信忠信雄らの本隊は武田側から見えないようにして陣を張って
そして同じく18日、羽柴滝川丹羽ら(+家康?)が川や丘を越えて有海原(長篠から2〜3キロ)まで進出
そこに布陣して馬防柵を築く
それに対し勝頼は長篠から離れ川を渡って有海原へ進出
その後信長公記ではいきなり20日になっていて、しかも勝頼は有海原を越えて設楽原まで進出
ということは武田は少なくとも織田の羽柴滝川丹羽らが有海原に築いた馬防柵を破ったかして、
設楽原まで進出したと、
織田軍が撤退したのか武田に破られたのかは判らないが。
織田は主兵力を隠蔽
馬防柵の陣形といっても有海原のはたいしたことなかった
このことも織田の戦闘力を軽視して勝つ可能性があると勘違いした一因ではないかと思う。
0931人間七七四年
2008/10/26(日) 23:02:36ID:Kqy6fXBZ更に鳶ガスに回り込まれたのか。
0932人間七七四年
2008/10/26(日) 23:07:54ID:yGKfVUBv細川や筒井らの鉄砲足軽の存在も関係しそう。
後年だが、光秀の軍規によるなら兵力の内訳は、旗1/3槍1/3鉄砲1/6騎馬1/6
兵力の1/3が旗持ちという実戦力としてはどうなのか?で占められている
それを火力の要である、鉄砲足軽だけ抽出してきたのなら、
例えば見た目が15〜6名の部隊でそれだと鉄砲は数名だと判断して突撃したりしたら、
実際には100名の部隊並の火力持っているということになる。
0933人間七七四年
2008/10/26(日) 23:16:42ID:yGKfVUBvまあ単純に秀吉ら織田の先手勢が柵築いた上で単純に負けたという可能性もあるけど、
織田に好意的に見るなら、織田がわざと兵力分散させて、一部の兵力を本隊から8キロぐらい
離れた地点武田の陣前まで進出、
滝川はともかく、羽柴丹羽は若狭北近江で一応越前一揆への抑えの兵力残している可能性もある、
この3将の兵力と織田本隊との距離、長篠からの距離では、
武田から見れば手を出したくなる相手だったと思う。
で武田は織田の先手勢を追っていったら、何時の間にか長篠から10キロも離れ、
織田本隊が目の前にと、織田によって上手く釣り出されたって見方も出来そう。
0934人間七七四年
2008/10/26(日) 23:18:16ID:qswYHBAqんでまた昔書いた奴で悪いけど。
三州長篠之地取詰候処、織田・徳川為後詰打出候条、累年之願望令満足候間、即時ニ乗懸逐一戦、宗者数多打捕、乗其利信長至陣前押寄候処、構陣城籠居候間、入人数之砌、當手之先衆聊失利候
これが戦後家臣の岡修理に送った書状。
勝頼自身が決戦を望んでいた事と、緒戦の勝利を手紙を書いてる。
0936人間七七四年
2008/10/27(月) 04:48:53ID:SYjaafB3しきれるだろうか。深追いにもほどがあるw
まさに猪武者の大軍なわけで、そういう意味では象徴的には
合ってるね。馬柵に突撃して銃撃されて負けたって説も。
0937人間七七四年
2008/10/27(月) 08:07:33ID:OA/lhLNX確かに斥候を出して無いとは考え難いよね。
特に武田は孫子の兵法を用いていたんだから、敵勢に対して偵察を試みるのは当然。
かなり織田徳川を見くびっていたのかな
敵失行之術、一段逼迫之躰候之条、無二彼陣へ乗り懸
0939人間七七四年
2008/10/27(月) 14:02:30ID:7Fmoa1ehこれに尽きる。
0940人間七七四年
2008/10/27(月) 14:03:25ID:cvKcfSlh行った感想は、狭い。。。
0942人間七七四年
2008/10/27(月) 15:22:42ID:6mJkEM6t0943人間七七四年
2008/10/27(月) 16:45:56ID:Lr4m0e7t0944人間七七四年
2008/10/27(月) 18:31:04ID:iNxztSWd長篠狭いだろ?
あんな所で何万も戦うの無理。
物理的に不可能だろ、人間が折り重ならないとそんな人数にならん。
だからあれじゃねえの、本当は騎馬隊じゃなくて騎馬戦。
乗其利信長至陣前押寄候処、構陣城籠居候間、入人数之砌、當手之先衆聊失利候
個人的には、陣城攻めしてる時に前線指揮官が狙撃されたのが敗因かと思う。
0946人間七七四年
2008/10/27(月) 18:54:35ID:wm9Xwmmwと思いたくなるほどの将の戦死者数だしなw
0948人間七七四年
2008/10/27(月) 20:06:48ID:Lr4m0e7t規模でかなりの損害が武田軍に有たのは間違いないと思うんだが。
どうしても木曾義昌の裏切りイッパツで400年続いた武田家がアボ〜ンしたとは思えない。
0949人間七七四年
2008/10/27(月) 20:59:38ID:ugSDJSgu畿内をほぼ制圧したこの時点で武田につくメリットはあまり無い
武田についたら武田より強大な織田相手に攻められるだけ
また家康だってそれぐらいは分かっているはず
交渉材料として武田への寝返りを示唆するには織田との力関係は大きく
戦後落ち着いてからその発言を問題とされて所領を削られかねない程度に徳川は大きい
徳川家中はともかく家康や重臣はそれぐらいの判断はつくはず
よって史実ではないと思う
0951人間七七四年
2008/10/27(月) 22:12:02ID:Vuf8W2Y/穴山の内通
戦う前から勝負はついていた
0953人間七七四年
2008/10/27(月) 23:40:44ID:E6D6k5xt0954人間七七四年
2008/10/28(火) 00:20:23ID:0n0C8hm6織田武田も実際はもっと少なかったはず。織田3000 VS 武田1000が妥当だろう。
0956人間七七四年
2008/10/28(火) 01:21:41ID:/82jUaW8別に一箇所に軍団が殺到するわけない。
サッカーで全員がボールに対して向かい合うのが2〜3人だから、サッカーは数人でするスポーツです、って言っているようなもんだ。
・・・あれ?俺釣られた?
0958人間七七四年
2008/10/28(火) 05:43:17ID:VUXuySHR改正でない方でさえ信憑性は低いというのに・・・
0959人間七七四年
2008/10/28(火) 06:01:12ID:JRkdsPeG武田につけば確実に織田を倒せる自信があるならともかく
その時点で武田についてもよくて五分だし、武田には一度裏切られてるから手を組むことはまずない
0960人間七七四年
2008/10/28(火) 07:04:15ID:i2PGvH6Xといっても織田の大軍の来援がその当時まで一度もないからな。
領土も奪われ続け、主城浜松も蹂躙されたばっかでだいぶ威信も忍耐もやばいはず。
0961人間七七四年
2008/10/28(火) 10:27:41ID:t2MmW7zs高天神救えず東遠江は明確に武田領化、主城である浜松城下でも示威行動とられ、
奥三河で徳川→武田→徳川と帰り新参の奥平一族が包囲されてる
これで長篠城を救えないとなれば直参はともかくとして、三河遠江各支城を支える
地侍レベルから「もはや徳川殿は頼みにならず」と崩壊していきそう
0962人間七七四年
2008/10/28(火) 11:32:37ID:kMWjqy7B全部正しいのかよ?
畠山指差して
武田信玄言ってるソース厨
まことに乙wwwwww
0964人間七七四年
2008/10/28(火) 11:52:23ID:42JjBRuG( ・ω・) バカは無理に書きこまなくていいよ…
○={=}〇,
|:::::::::\, ', ´
.wwwし w`(.@)wwwwww
0966人間七七四年
2008/10/28(火) 17:25:19ID:L0ihAkzV織田が背後にいるからこそ徳川の家臣なんとか踏みとどまっているし
武田もやたら警戒して時系列で見るなら織田が畿内やその他に出陣中のみ徳川に攻勢をかけると
ただそれも長篠前には限界にきていたのか大賀の内通が起きたり、
武田の警戒心が薄れたのか長篠の戦いが起きたり
0967人間七七四年
2008/10/28(火) 18:38:01ID:6xha7IzO木曾の内通は新府城の普請などをやらされたりして病むに病まれぬ部分もあるが
穴山梅雪の裏切りはかなり性質が悪い。
元を正せば 長篠・設楽原の戦の大敗も穴山らが勝手に戦線を離脱したのが原因の一つなのに。
もしかして穴山は長篠のころには信長に通じていたのではと勘繰てしまう。
0968人間七七四年
2008/10/28(火) 18:46:48ID:n4w8DghT織田徳川の隣接地である木曾はもちろん、
伊那(諏訪湖以南)、駿河は、
すでに内応の約束済みだった。
だから急進撃が可能だった。
武田滅亡後でも、領地がそのまま維持できた武田家臣がいて、
木曾(木曽谷方面)、穴山(駿河)、小笠原(伊那方面)の3人。
0969968
2008/10/28(火) 18:49:21ID:n4w8DghT甲斐領内の土地だったかもしれない。(?)
0970人間七七四年
2008/10/28(火) 19:35:43ID:4Fap6ZrLクズだなこいつ
0972人間七七四年
2008/10/28(火) 20:27:33ID:Wn0dKBqP0973人間七七四年
2008/10/28(火) 21:03:30ID:aLgE+BbW0974人間七七四年
2008/10/28(火) 21:05:28ID:j+Fdfr9Lつーか、寝返る方より、寝返られた方が悪い、ってのがこの時代だよな。
そして武田崩れでは、徹底抗戦した一門衆
一条大夫をわすれないでー
0976人間七七四年
2008/10/28(火) 23:00:06ID:4Fap6ZrLなんで突然珍しいか珍しくないかなんて間抜けたこと言い出してるの?
わが身の保身のために親族売り渡すのをクズと感じないのはあんたの問題だよ
現代に人殺しなんて珍しくないから悪くは無いってか?(笑)
0977人間七七四年
2008/10/28(火) 23:05:27ID:j+Fdfr9L君は何か勘違いをしている。
穴山も領主として家臣団と領地領民があり、それへの責任がある。
「犬畜生と言われても」勝たなきゃならない。勝てないのなら勝つ方につく。それが武士だ。
0978人間七七四年
2008/10/29(水) 00:30:04ID:yZceESOW0979人間七七四年
2008/10/29(水) 00:32:30ID:H31Aixsz松平氏も親族と言う意味ではある程度固まっていたかな?
0980人間七七四年
2008/10/29(水) 00:37:36ID:aofFnVma0981人間七七四年
2008/10/29(水) 00:41:11ID:pUsONTYj0983人間七七四年
2008/10/30(木) 00:16:54ID:8rNE0Pg0相手が諏訪の人間だしで含むところありすぎだろう
0984人間七七四年
2008/10/30(木) 00:26:37ID:D4S9Pu76父信友にかなり気を使わざるを得なかったようだしね。
勝頼が後継者としてのポジションに明確につくのも元亀元年ころ
だったはずなので、そこらへんにも勝頼の基盤の脆弱さがあるので、
かなり統制には苦労させられるだろう。
0985人間七七四年
2008/10/30(木) 08:40:15ID:WAcVQLOz信玄の駿河侵攻に反対した義信のようにな。
0986人間七七四年
2008/10/30(木) 17:09:16ID:UwzBGMqB0987人間七七四年
2008/10/30(木) 18:52:14ID:YTqNUrX00988人間七七四年
2008/10/30(木) 19:50:00ID:lMlUTzJp当時の人にしたら
穴山の行動を見てクズだと思う人は誰もいなかったのでは?
むしろ抵抗をして滅んだほうがクズと言えるかもしれん
0989人間七七四年
2008/10/30(木) 20:43:03ID:WAcVQLOz中山道を押さえる要所なんだよな。(主=東海道 副=中山道)
現に前田慶次は、京都から米沢行く時に、最短距離である中山道を通っており、
道中の日記を残している。(京都から江戸に行く時は、東海道の方が近い)
木曽川で、材木の流通もあったろうから、
木曽氏は軍事情勢などの情報に機敏だったのかもしれない。
0990人間七七四年
2008/10/30(木) 21:24:37ID:KTXRsBVR0991人間七七四年
2008/10/30(木) 21:56:32ID:RHV1LnJ40992人間七七四年
2008/10/30(木) 21:59:21ID:SDTfufpq木曽は山奥。
0993人間七七四年
2008/10/30(木) 22:04:02ID:91RvCOW5近代の戦争で言えば鉄鉱石の鉱脈を押さえるようなものだ。
0994人間七七四年
2008/10/30(木) 22:07:47ID:KTXRsBVR0995人間七七四年
2008/10/30(木) 22:45:28ID:ZN5/MWKI地酒はうまいらしいが。
0996人間七七四年
2008/10/30(木) 22:48:30ID:Uq+TX3P1勝頼は二人を殺すことができなかったらしい。
0997人間七七四年
2008/10/30(木) 23:36:40ID:A0k3Xs/g0998焼肉+ ◆JUU/.JUU/.
2008/10/30(木) 23:53:02ID:OlSAl3+H0999人間七七四年
2008/10/31(金) 00:15:00ID:jXFk4lek1000人間七七四年
2008/10/31(金) 00:16:29ID:WPmT0LQL10011001
Over 1000Threadー┬――─‐ァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄,l,
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/ 秀家 ゙ヽ:::::::::', ごくろう。このスレはみごと統一された。
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
. |エi> ,' イiエ> レ'゙,r .,l }
i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
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