【肥前】龍造寺氏を語るスレ【佐賀】
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 12:00:13ID:MCwH6NwX0837人間七七四年
2010/02/20(土) 19:35:09ID:M/j1LCRC0838人間七七四年
2010/02/20(土) 20:10:07ID:diBG9UYQたまには佐賀へ帰ってきなよ。
とりあえず今日のところは「佐賀のがばいばあちゃん」でも見て佐賀を思い出しなさいよ。
0839人間七七四年
2010/02/22(月) 00:56:55ID:PP2fp0ct武雄藩のことを地元出てからもっと知りたくなったから、これはある意味チャンスだよなあ
ちょいと休みもらって帰るのもありかも知れん
0840人間七七四年
2010/02/22(月) 22:21:19ID:7dSzGL8o後藤貴明惟明の親子喧嘩あたりは面白いね
それが原因かどうかわからんけど、隆信が三男の鶴仁王(家信)を養子として送り込んだ
0841人間七七四年
2010/03/05(金) 20:30:45ID:K1pFtZNm立花親子の肖像や後藤貴明の木像、鍋島直茂のド派手な肖像、
蔚山籠城戦の屏風、国崩しのレプリカなどが印象的でした。
奥ではビデオを上映されていました。
後藤家信が蔚山救援を主張して、以後清正と親交を深めた
とは知りませんでした。
しかし誤算だったのは展示物が前期後期で入れ替えられていたこと。
そのせいで観れなかったものがありました……。
0842人間七七四年
2010/03/06(土) 22:10:28ID:5YXWSdHT戦国武将の書状なんか面白いだろね。
0843人間七七四年
2010/03/07(日) 13:30:25ID:R4s82w5wよ
あとテレビでお馴染みの島津義弘の肖像とか
名護屋城跡から出土した瓦とか
陶磁器とかがあった
0844人間七七四年
2010/03/07(日) 21:55:03ID:L+YKxjO/0845人間七七四年
2010/03/07(日) 22:45:50ID:R4s82w5w0846人間七七四年
2010/03/08(月) 22:20:31ID:ioz2opHm興味深いので分かったら教えてほしい
0847人間七七四年
2010/03/10(水) 03:48:16ID:ozQyaRlShttp://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1574214.article.html
どう云う流れになるのは記事にないけど
0848人間七七四年
2010/03/10(水) 21:20:34ID:7GFjLOki0851人間七七四年
2010/03/20(土) 00:53:48ID:x17qcc0Z0852人間七七四年
2010/03/26(金) 13:06:33ID:GpWGXiyJ沖田畷で隆信が薩摩の川上左京に見つかり、討たれた訳だが
なぜ川上左京は隆信の居場所がわかり、さらに隆信本人だとわかったのか?
821 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/31(日) 07:30:08 ID:O8CjD3ZA [1/2]
鍋島が内通してたから
0853水色桔梗
2010/03/28(日) 22:02:40ID:78UKED7K島津も当時はやばかったらしい。肥後へ北進出来なかったのは南関に龍造寺
家晴が居たし、有馬が泣きついてきたからね
・・・歴史の表舞台にはあまり出てこないけど、直茂と
家晴の確執は凄いよね。家晴はもっと評価されても良い人物なのに・・・
最近は旧勢力第一人者で出てくるようになったけど・・・
隆信は、油断したのね・・・もう九州制覇も夢では無くなってきてたから・・・
0854人間七七四年
2010/03/29(月) 00:30:07ID:PGLebZ670855人間七七四年
2010/03/29(月) 09:29:21ID:SJo+ZaAxそれ今川義元だって同じじゃん。
総大将だもの、雑魚兵とは違う格好してるだろうし
よく時代劇とかでもあるみたいに、観念した隆信が
「この首を末代までの武功とするがよいわ」とか名乗ったんじゃ?
相手に誰だかわからないまま討たれたら、それこそ悲惨じゃん。雑魚兵の1人として殺されるわけで
0856人間七七四年
2010/03/29(月) 09:48:45ID:yuXLs0d70857人間七七四年
2010/03/29(月) 18:52:49ID:zX5FjViR0858人間七七四年
2010/03/30(火) 11:11:30ID:4WHQnJ1c家康(徳川)は秀頼(豊臣)が成人のち政権を返すとの約定を反故にしている。
万が一、伯庵の言い分を認めたら幕府の根幹に関わってくるし、
どんなに正論を述べても結論ありきで却下だろ
まー、一番迷惑だったのは幕府だろね。
しかし鍋島も寝耳に水で驚いただろな。
0859高伝
2010/04/03(土) 00:17:30ID:dbk9+EKP0860高伝
2010/04/03(土) 01:12:55ID:dbk9+EKP0861高伝
2010/04/03(土) 10:10:48ID:dbk9+EKP0862人間七七四年
2010/04/03(土) 11:27:10ID:tFWCyWxv実態は禅譲なんて仰々しいものじゃなくて
委員長を押し付けられた優等生みたいなもんだったんだろう
0863人間七七四年
2010/04/05(月) 23:20:45ID:++16zVT9803さんは私の親戚になるのでしょうか?
私の祖父は国太郎の孫です。
0864高伝
2010/04/05(月) 23:54:53ID:e88HfmPh墓を見たら大切に奉って頂いて来たんだと私は感じましたよ。
0865人間七七四年
2010/04/06(火) 00:03:37ID:BcEav8HT観光案内所では沖田畷とか原城はまったくアピールせず
島原城と火災関係のところばかりすすめられた
貴重な観光資源があるのにわかってないよな
0866人間七七四年
2010/04/06(火) 00:17:56ID:nHLqyGpUさっそくにありがとうございます。
父方の親戚付き合いは全くなかったのですが、自分のルーツに興味が
ありました。
機会がありましたら高伝寺、訪れてみたいと思います。
0867高伝
2010/04/07(水) 23:46:30ID:YvJP5zo6たぶん、家のような、龍造寺の端くれの末裔の様に分からなくなっているところはまだまだあるでしょう。以前、大隈記念館を訪れた時に観光客の人も佐賀はまだまだ解明されてないとおっしゃってましたし。
0868人間七七四年
2010/04/09(金) 00:02:00ID:plM5cvNY龍造寺の墓はそれまでどこにあったんだろかね
隆信の場合は泰龍寺→宗龍寺→高伝寺となってるけど
家兼とか政家などはそれまでどこのお寺に墓があったんだろか
0869人間七七四年
2010/04/09(金) 00:50:38ID:uWo31RHq0870人間七七四年
2010/04/09(金) 15:51:49ID:pJiERaSR龍造寺一門が本家を見放して鍋島直茂を担いだというのが真相だよ。
佐賀藩では藩主の力が弱く、龍造寺一門四家が藩の実権を握っていた。
もっとも、龍造寺四家には鍋島から養子が入ったりするけど。
0871人間七七四年
2010/04/09(金) 22:06:30ID:qE4MvI7D> 龍造寺一門が本家を見放して鍋島直茂を担いだ
幕府の圧力もかなりあったのではないか?
0872ryu
2010/04/09(金) 22:42:59ID:urCf8gR2国太郎からどう来る方でしょう。俊彦さん?
0873人間七七四年
2010/04/10(土) 00:03:18ID:ccLM3DyW0874人間七七四年
2010/04/10(土) 00:11:39ID:ccLM3DyW0875人間七七四年
2010/04/10(土) 00:24:56ID:h8F3TRHs0876人間七七四年
2010/04/10(土) 00:31:12ID:ccLM3DyW0877人間七七四年
2010/04/10(土) 00:39:50ID:ccLM3DyW0878人間七七四年
2010/04/10(土) 00:43:08ID:h8F3TRHsそのほか
胤家系−藤井、村上、三上、小山、北村
家和系−平尾、藤井
家種系−勝山
政家系−朝山
などが存在したらしいが殆ど自然消滅かな
0879人間七七四年
2010/04/10(土) 00:59:36ID:h8F3TRHs頼純系−松井もいた
0880人間七七四年
2010/04/10(土) 01:01:17ID:ccLM3DyW0881人間七七四年
2010/04/10(土) 01:10:37ID:ccLM3DyW0882人間七七四年
2010/04/10(土) 11:54:12ID:ccLM3DyW0883人間七七四年
2010/04/10(土) 12:52:49ID:iDOHC/bn龍造寺の家督で紛争が起きた際に幕府からの呼び出しで、鍋島の支配を是認してるよねこの人。
柳川城籠城なんかは家晴の能力とは関係ないのかね?
九州一難攻不落とも言われる水濠の柳川城って関ヶ原後に押し寄せた鍋島相手に宗茂も籠城してるよね。
当時の柳川城を評価するべきなのか
指揮した鍋島や家晴や宗茂らを評価すべきなのか…
0884人間七七四年
2010/04/10(土) 12:53:07ID:Xn07TPqJ> 龍造寺一門が本家を見放して鍋島直茂を担いだ
理由は?
0885人間七七四年
2010/04/10(土) 12:54:52ID:Xn07TPqJ> 当時の柳川城を評価するべきなのか
> 指揮した鍋島や家晴や宗茂らを評価すべきなのか…
どちらも評価すべき。
いくら宗茂が名将でもショボイ城では防戦は不可能。
0886人間七七四年
2010/04/10(土) 13:06:03ID:iDOHC/bnそこそこ守れる城かも知れんだろうが。
だから晴家の指揮能力の評価を聞きたいんだよ。
0887人間七七四年
2010/04/10(土) 13:08:52ID:iDOHC/bn蒲池氏が作ってから、田中の大改造までは柳川城ってそれほど変化ないのかね?
柳川城を参考に、有事には水没する仕様と言われるように佐賀城も大改造されたんかな。
0888人間七七四年
2010/04/10(土) 13:18:30ID:Xn07TPqJ> いや誰が籠もっても
> そこそこ守れる城かも知れんだろうが。
凡将では守れないが、それなりのレベルの将なら守れるという感じ。
0889人間七七四年
2010/04/10(土) 13:19:52ID:Xn07TPqJ0890人間七七四年
2010/04/10(土) 14:43:19ID:h8F3TRHs内田は家晴が南関にいる時は大野を守備してるし、伊佐早の西郷氏を攻めた時は
援軍の大将として行ってるよね
0891人間七七四年
2010/04/10(土) 16:26:54ID:iDOHC/bnいやだから、家晴の指揮能力について聞いているんだが…
0892人間七七四年
2010/04/10(土) 18:19:18ID:0Ea4ZdHO家晴は有能でしょ。
柳川城に籠城して攻撃側を撃退したのは家晴だけだし、
道雪・高橋紹運を破ったのも大きい。
野戦では立花勢に連戦連敗だがうまく立ち回って
持久戦に持ち込んでいる。
>>871
幕府の圧力はなかったと思うよ。
政家は非常にアレな人物だった様だし。
直茂が執政になったのも龍造寺一門の意向だからね。
0893水色桔梗
2010/04/10(土) 18:49:27ID:6x3W5TAW直茂是認したのは、あくまでも西肥前や佐賀の領民を守るためであり、
当時、やろうと思えば直茂排斥は簡単に出来た状況です。
でもそれをやると幕府はすぐにでも、ここぞとばかりに佐賀藩取り潰しにかかります。
それを熟知していた家晴は敢えて龍造寺一門の代表格として排斥を訴える者を説得した経緯があるとのことです。
無能(?)な政家に変わり、国政を任せられるのは直茂の他に家晴の名前も挙がっていたことは事実ですが京畿の情報に長けた直茂が選ばれたのです。直茂も家晴の尽力にはかなりの感謝感激状態だったそうですが・・・
やがて二人には大きな確執が生まれるのは歴史の知るところです。
0894人間七七四年
2010/04/10(土) 19:30:49ID:iDOHC/bn撤退するまで要害を頼りに耐えたと言うべきだろ。
蒲池氏の時代から柳川城は要害と言われていたし、柳川城の蒲池攻めに失敗した隆信が騙し討ちして手に入れたわけだし。
家晴は野戦指揮能力は疑問符がつくし、鍋島に屈して、龍造寺宗家を売っただけじゃね?
家晴はヘタレなようにしか思えないんだが。
0895sage
2010/04/10(土) 19:54:55ID:kb48Rb3V863です。
特定されてしまうかもしれませんが、俊彦の流れです。
俊彦が私の父の祖父になります。
0896水色桔梗
2010/04/10(土) 20:20:49ID:UfOGpWHD確かに要害を頼りに耐えたのは間違いないと思います
鬼立花もダメダコリャと早々に引き上げ、運悪く高良山で病死した
こともある意味ラッキーだったのかもしれません
家晴は指揮能力では、朝鮮の役での戦いが高く評価されてますね
すでに戦国時代末期の日本では活躍の場が無かったのも事実のようです
また秀吉や当初の幕府は、お家騒動に因縁を付け、御家取り潰しで直轄領を
増やしていたため、それだけは避けたい佐賀の実情もあったようです
土地が欲しい秀吉が無能なマチャに官位授けたのもそれが狙いだったと言えます
0897人間七七四年
2010/04/10(土) 20:25:37ID:p6uBsoqS> 無能(?)な政家に変わり、国政を任せられるのは直茂の他に
家晴の名前も挙がっていたことは事実ですが京畿の情報に長けた直茂が選ばれたのです。
京畿の情報に長けたというより、徳川との関係が良かったということではないだろうか?
0898人間七七四年
2010/04/10(土) 20:27:10ID:p6uBsoqS野戦が苦手だったのではないか?
(家康の逆パターン)
0899水色桔梗
2010/04/10(土) 21:24:47ID:UfOGpWHD隆信にも京の秀吉との交流を勧めたのですが
隆信は軽く受け流した感じです
仕方なく直茂は独自で龍家のためにと秀吉との交流を
続けたのです その結果、秀吉の受けが良くなったのです
徳川も実際のところ九州の田舎大名の諸事情には疎く、秀吉路線で
出来上がった直茂国主論に傾いた感じですね
史実では家晴は突出した戦術家ではなく、バランスの取れた感じですね
野戦では、朝鮮にて明軍に囲まれた加藤清正を先陣切って助け出しています
また人の意見を聞かない暴れん坊清正に一度だけですが戦術を教授して
受け入れられ成功しています
加藤清正曰く「この俺様に戦振りを教授するなどお主が最初で最後であろうぞ」
と言わしめています まぁ創作の域もあるでしょうけど(笑)
0900人間七七四年
2010/04/10(土) 22:47:30ID:iEFkAxeZ> 隆信にも京の秀吉との交流を勧めたのですが
> 隆信は軽く受け流した感じです
仮に隆信が生きていたにしても
結局は小田原の北条氏みたいに
中央政権に滅ぼされた可能性もありそうですね。
0901水色桔梗
2010/04/10(土) 22:58:32ID:ZlZ8M9cpやはり中央には敵いません
直茂でも秀吉、家康にはビクビクして日常を過ごしていたそうですから・・・
やはり名跡の出ではないという現実と主家を乗っ取った自責の念はあったようです
まぁ乗っ取ったというより周りから時代の風に乗らされてしまった
という解釈が正しいようですが・・・でも鍋島藩が明治まで続くのは
凄いことですね
隆信・直茂・家晴などが中央にいたら面白かったでしょうね
ある意味、隆信は九州の信長のような勢いでしたから
0902人間七七四年
2010/04/11(日) 01:05:25ID:B0QmCXGx0903人間七七四年
2010/04/11(日) 14:32:30ID:Ekhzox1X立花勢は柳川城を落とせなかったばかりか
高良山に逃げ込んでる訳で。
柳川城の近所の城に引き上げて布陣したのとは異なる。
>>896
道雪は高良山で死んでない。
あなたが>>893で言っている
龍造寺家晴と鍋島直茂の確執って何?
0904人間七七四年
2010/04/11(日) 14:47:59ID:xK1OXkHD0905人間七七四年
2010/04/11(日) 15:48:53ID:JulLuz+U> 立花勢は柳川城を落とせなかったばかりか
203高地みたいに甚大な被害を出す覚悟があれば落とせたと思う。
0906人間七七四年
2010/04/11(日) 17:16:35ID:aGL4d1L0高良山に「逃げ」こんだ…えっ?
攻められ、なんら策無く撤退をひたすら待っておきながら、
なぜかそんなに龍造寺側が優勢なら
なんで家晴は高良山を襲撃して道雪を討ちとらなかったんだよw
0907人間七七四年
2010/04/11(日) 18:58:51ID:q1jCaPJ6> なんで家晴は高良山を襲撃して道雪を討ちとらなかったんだよw
それは誘いのスキであって、要害を攻めるよりは
野戦に持ち込んだほうが勝てるだろうという考えではないか?
0908人間七七四年
2010/04/12(月) 01:42:16ID:fSQ1zGpg松浦郡も本領として安堵されたんじゃなかろうか
0909人間七七四年
2010/04/12(月) 09:49:32ID:ZgBj7Trvなぜか島津・大友の対決ばかりが目立つ
その間なにしてたの?
0910人間七七四年
2010/04/12(月) 11:25:36ID:3kQrNTUS0911水色桔梗
2010/04/12(月) 11:25:52ID:LjzuSWI8道雪は高良山下の北野陣中で病没したとされる文献もあったものですから
それで高橋も戦意を失い筑後から去ってしまったと・・・
間違ってたら、申し訳ありません
本当のところはどうなんでしょう???
0912水色桔梗
2010/04/12(月) 11:40:44ID:LjzuSWI8時代はすでに秀吉太閤の時代になっていたわけで
九州内でゴタゴタしてるご時世ではなかったのです
大友は秀吉を九州に呼び寄せ、協力して島津を打つ手立てを進行中なわけで
龍造寺としても島津寄りの中立を守りながら、これからは太閤の時代と認識
しており、大友に負けじと連絡を密にしていたようです
結局、中小企業になった龍造寺としては、領地拡大より御家存続が大切な
わけで大友と島津の間で揺れに揺れてた感じですね
そのうち直茂と家晴は、新興勢力と旧勢力の代表みたいな感じに担ぎ上げられ
んでしょう・・・
もうちょっと隆信の弟、長信・信周がしっかりしてれば・・・
家信(隆信三男)が家督相続してれば状況は変わっていたかも???
って話、聞いたことあります
0913人間七七四年
2010/04/12(月) 11:58:31ID:bZK+TmjE島原方面での龍造寺の大敗を見た肥後の国人は龍造寺の支援を得られないので島津に寝返る
そもそも以前に相良氏の援軍要請すら蹴って、島津と肥後で和睦して相良を見捨てた経歴も持ってるから、島津が相良を先鋒に甲斐&阿蘇まで潰しにかかったから肥後での龍造寺勢力は崩壊。
筑後では蒲池滅亡の件もあり龍造寺から離反が酷くなる一方だし秋月や筑紫はもともと毛利や龍造寺や島津を利用して勢力拡大しようとしてるに過ぎないから、彼らの意向でオセロのように簡単に勢力圏はひっくり返る。
肥前もヤバくなってきたから鍋島らは島津に土下座和睦。
0914水色桔梗
2010/04/12(月) 12:15:18ID:G1LdBWur特に筑後は、あちこちから攻められる位置にあり、肥後も目立った領主も
いない小豪族の集まりの地域でしたから、筑後や肥後の武将に忠誠心とか道義は
希薄だったようです でも、それが御家や領民、一族を守るための手段で
あるならそれは非難することは出来ませんよね 戦国大名の位置的拠点は大事だと
思います
0915人間七七四年
2010/04/12(月) 13:00:37ID:ZgBj7Trv大友も火事場泥棒してきたのかあ
0916人間七七四年
2010/04/12(月) 13:52:50ID:up/EMApQ途中から完全に発狂して支離滅裂になってるw
今までよく「先に同盟破ったのは岩村を取った信長の方!」とわめいてたもんなあ。
0917人間七七四年
2010/04/12(月) 13:53:49ID:up/EMApQ0918人間七七四年
2010/04/12(月) 14:36:11ID:bZK+TmjE火事場泥棒に成功しちゃったから調子に乗って有馬いじめやっちゃったからキリシタンからの援助や相良、赤星、島津らの援軍にやられちゃった。
0919人間七七四年
2010/04/12(月) 15:27:01ID:ZgBj7Trv0920人間七七四年
2010/04/12(月) 15:46:31ID:bZK+TmjE相良から島津が奪った天草の南方の島々の主導権を揺らぐから
島津としても黙ってられないからね。
島津も有馬領に野心あったけど龍造寺が有馬いじめやってくれると正義の味方みたいなフリをする大義名分を得られるわけだし。
しかも有馬と肉親の大村は龍造寺に屈した裏で有馬に内通して人質出してるし。
0921人間七七四年
2010/04/12(月) 15:53:57ID:ZgBj7Trv0922人間七七四年
2010/04/12(月) 17:23:41ID:d6SmEFi+> 肥前もヤバくなってきたから鍋島らは島津に土下座和睦。
鍋島はメンツを捨てて実をとったわけで
これはこれで正しい。
玉砕はアフォらしいということなんだろう。
0923人間七七四年
2010/04/12(月) 17:32:06ID:bZK+TmjE島津に抵抗して秀吉の来援まで粘ってたら肥前以外も安堵されただろうに。
特に道雪も攻略を諦めた筑後最大の要害柳川城は立花城で籠城して粘った宗茂にあてがわれたもんな。
0924人間七七四年
2010/04/12(月) 17:37:11ID:d6SmEFi+> 島津に抵抗して秀吉の来援まで粘ってたら
それだと壊滅するリスクがある。
鍋島は「損切り」をやったのだろう。
0925人間七七四年
2010/04/12(月) 18:13:51ID:bZK+TmjEつうか島津だって各国の領主層を心から心服させてるわけじゃないどころかやむを得ず従ってるに過ぎず内心には恨みを抱かれてるわけだし。
特に肥後の国人層は相良や甲斐を筆頭に島津を恨みながらも御家存続のために先鋒を勤めてる。
0926人間七七四年
2010/04/12(月) 19:16:48ID:d6SmEFi+しかし島津兵の強さにはみなびびる。
0927人間七七四年
2010/04/12(月) 19:41:54ID:fSQ1zGpg今の地勢と単純比較は出来ないけど、九州の人口密集地域を抑えている龍造寺と大友が
共同で徹底抗戦となるなら、地力で劣る島津が肥後日向以北を抜くのは難しいだろうな。
九州征伐で島津の戦線があっと言う間に崩壊したのも
玉虫色の態度だった北部九州勢力(特に龍造寺)が一斉に島津へ反旗を翻したってのも大きいだろうし。
でも、こうなると史実通りの規模で九州征伐が行われない可能性があったり、
もしかしたら三家仲良く征伐の対象にされちゃいそうな感じもする。
そういうのも無視してどう安堵されたかってのを妄想すると、
鍋島に神埼・柳川安堵
龍造寺に神埼・高来・彼杵以外の肥前安堵
と完全に家中を分断されそう気がするんだよな。難癖つけられてどっちも潰され
るよ、多分。
まあ、自分の結論としてはやっぱり隆信敗死後の龍造寺の徹底的なリスクヘッジ策は最善じゃないけど、なかなかの次善策だったと思う。
0928人間七七四年
2010/04/12(月) 19:45:25ID:d6SmEFi+鍋島は政界遊泳がうまいから潰されないと思う。
中央政権にしても、
やりすぎると九州が不安定になると思うだろうし。
0929人間七七四年
2010/04/12(月) 21:16:54ID:jkUkF8bq0930人間七七四年
2010/04/12(月) 21:25:03ID:fSQ1zGpg鉢植え大名化して余所に飛ばされる、って可能性があると思うのよ。
それで島津の抑えとしての地生え外様大名に、
大友の方が選ばれちゃったりしちゃうと(頭だけは立花当たりにすげ替えもあるかも)
龍造寺の存在理由の希薄化と佐賀の位置的な便利性から、龍造寺の方はかなりの確率で取り潰しを食らうんじゃないかなと。
史実として、龍造寺・鍋島は地生えの強力な外様大名ら(伊達・上杉・毛利・島津等)と比肩する勢力を江戸時代に残せているし
本拠地が移動していない故の家中統制の強固さは日本でも屈指の物があるかと。
潰されちゃった大友等には悪いけど、冷静に日和続けた龍造寺及び鍋島は本当に賢かったよ、クレバーだよ。うん。
0931人間七七四年
2010/04/12(月) 21:51:45ID:QyltAtwOhttp://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
藤原長家流→武藤氏→少弐氏→龍造寺氏
0932人間七七四年
2010/04/12(月) 22:07:28ID:glyg4zHWなんだったんだろ?
0933水色桔梗
2010/04/12(月) 22:07:51ID:SVhitNl0取り潰しを画策していた節はあります
それを逆手に取って、仲良しだよ〜〜〜んと擬似の結束力を保ったことは、大したものだと
思います 思っている以上にあちこち取り潰しにあってますから・・・
でも直茂には信用できる譜代の部下がいなかったため、失脚する可能性が十分にもあった
にもかかわらず、微妙なバランスで直茂執政を支えた龍造寺一門も、そして当の直茂もきつかったろうな
あくまでも直茂隠居後は高房が実権を握る口約束!だけはしていたのですから・・・
0934人間七七四年
2010/04/12(月) 22:13:24ID:jkUkF8bq0935人間七七四年
2010/04/12(月) 22:21:23ID:glyg4zHW> でも直茂には信用できる譜代の部下がいなかったため、失脚する可能性が十分にもあった
そこはどうだろう。
中央政権とケンカしてまで失脚させようと考えるだけの度胸がある者は少なかったのではないか。
0936人間七七四年
2010/04/12(月) 23:15:18ID:a7yBY3PGレス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。